「マリア……」
そっと、ルーネはつぶやいた。朝の光を受けてさらに輝く黄金の髪を揺らして、ルーネは、白色に染まった帝都を見つめていた。
その蒼い瞳が、切ないほどの思いを込めて細められた。誰にきかれることもない言葉が、赤い唇からつむぎ出された。
「マリア――私の、最愛の娘……」
ボォーーー、と、汽笛が長く響く。朝またぎの空の下、命を吹き込まれた蒸気機関が、盛大な水蒸気を吐き出す。
もうじき、船は出港する。極東の島国を離れ、また、はるか遠い海の向こうへと旅に出るのだ。
ゆっくりと、ルーネはバルト海色の瞳を閉じた。心を揺さぶる思いが、彼女の脳裏に、遠い荒涼とした極寒の地の出来事を描き出していた。
十年以上の昔。かつての彼女にとっては瞬く間。今の彼女にとってははるかな昔。
雪と氷に閉ざされたロシアの大地で、彼女は、最愛の親友を失ったのだ。
彼女と同じ力を持ちつつも、彼女と全く異なる血を持った親友を……
彼女の笑顔は、冷たく凍える冬の早朝に射した、太陽の光のようだった。
明るく、鮮烈で、瞳を射抜くような眩しい笑顔。
どこまでも透明で、まぶしく、優しい、しかし暖かみを伴わない、笑顔。
「……私は、罪びとですから」
明るく笑う彼女の笑顔から視線をはずし、ルーネは周囲を見渡した。
すべてが白一色に染め上げられた、凍えた大地。雪と氷に閉ざされた凍土。けして溶けることのない雪と氷が支配する、静謐と悲哀に満ちた、極寒の世界。
その、あらゆるものすべてが雪と氷に閉ざされた中に。
奇妙にねじまがった六個の氷柱が、屹立していた。
「……私は、罪を償わなければならないのです」
柔らかな声。透明感のある、やさしい、けれどどこか冷たくさえも聞こえる声。
その声とともに、朝の太陽の光が、氷柱を照らし出した。純粋な水晶のように、美しい虹色の光が、氷柱を彩る。
きらめく光の中に浮かぶのは、魂を抜かれたように、どこか夢うつつな表情をした、六人の男たち。いずれも、豪奢な毛皮のコートの下にきらびやかな衣装をまとった、ひとめで貴族とわかる男たち。
ほんのつい先ほどまで、欲望と快楽に顔をゆがませ、逃げ惑う母娘を追い詰めていたものたち。
ルーネが現れたとき、すでに事は起こってしまっていた。
つまづき転んだ少女に、男たちが踊りかかる。母親が振り返ったとき、その漆黒の瞳に映ったのは、年端もいかない彼女の大切な娘が、白い肌をさらして泣き叫ぶ姿だった。
恐怖と絶望に彩られた娘の翡翠色の瞳を見たとき、母親は自らに施した封印を解き放っていた。
いかなるものをも死滅させる、雪と氷の息吹が、男たちを包み、彼女の大切な娘から引き剥がす。どさり、と、少女の小さな身体が大地に倒れ伏した。
二、三歩たたらを踏んだ男たちの足元が、瞬時に大地と接合された。そのまま、彼らの身体を氷が包み込んでいく。
動かぬ自分たちの身体にとまどう男たちが、ふと視線を向けた先には、栗色の髪をなびかせた母親の姿があった。
雪よりもなお白い、きめの細かい肌。優美な曲線を描く、卵形の顔立ち。その中に妖しく光るのは、吸い込まれそうなほどに澄んだ漆黒の瞳。
赤く紅をひいたような、小さな唇。そして、しっとりとたたずむ艶めいた肢体を覆うのは、白い雪と青みがかった氷の粒子。
ひとめ見たものを魅了せずにはおかない、妖艶で、しかしどこか清らかさをも備えた、類まれな美女。
まるで、天上の神々か、魅惑の妖魔かとも思うほどに美しく、妖しく、心を奪われる美女。
男たちの心に澱んでいた欲望、憎しみ、ねたみ、そねみといったものが、瞬く間に浄化される。うっとり、と、男たちは、そこにたたずむ美女を見つめた。
その唇が、ひとつの言葉をはからずもつむぎだしていた。
「СНЕГУ・РОЧКА(スネグー・ラチカ)……」
その言葉が、彼らの最後の言葉となった。大地に六つの氷柱が屹立したとき、ルーネはようやく彼女のもとへとたどりついたのだった。
氷付けにされた男たちを見つめながら、ルーネは、確認するように彼女に訊ねた。
「……人を殺めることが罪、というわけなの?」
「はい。私にとっては」
「たとえ彼らが、あなたの大切なものを奪ったのだとしても?」
「……ええ」
「大切な親友とも呼んでいたあなたの夫を陥れ、この北寒の地へと追い落としただけでなく――その命を奪ったのだとしても?」
「……」
「何の罪もない友を殺しただけでなく、その妻を――あなたを追いまわし、辱め、弄んだだけでなく……あなたの娘をも狙ったのだとしても?」
「……」
「あなたの娘を連れ去ろうと目論み――娘を逃がそうとしたあなたの目の前で、捕らえた娘を辱めようとしたのだとしても?」
「……」
「それでもあなたは、罪だ、というの? あなたの大切な娘を守った行為を。愚か者どもに、その愚かさにふさわしくない、至上の死を与えた行為を」
「……罪は罪、です」
彼女は笑顔のままで、首を振った。旭日の光が、彼女の栗色の髪をまばゆい黄金色に染め上げた。
「たとえ相手がどれほど罪深くとも、それを殺めた私は、やはり罪を背負わなければなりません」
「……」
ルーネの蒼い瞳が、そっと閉ざされた。白い貌にかすかに苦悩をにじませ、ルーネは吐息をついた。
そしてゆっくりとした動作でかがみこんだ。
その足元に横たわる少女のもとに。
「この娘はどうするの? この、金色の娘――マリアは?」
「……」
微笑を浮かべながら、彼女はルーネの傍らに腰を下ろした。その白く細い指先が、愛しげに、横たわる少女の金色の髪を撫でた。ふりそそぐ旭日の光を集めたかのように輝く、金色の髪を。
「……この子は夢を見るでしょう。長い長い、夢を」
「夢?」
「ええ、夢を」
柔らかな声だった。やさしさと愛おしさをこめた、柔らかな声が、ルーネの耳朶をふるわせた。
「哀しい夢。さびしい夢を。一年の間、ずっと。」
「……」
愛しそうに瞳を細め、彼女は娘の髪を撫で続けた。
「……この子の父親は、今日、肺炎により、命を失いました。流刑地での度重なる疲労が、彼の命を奪ったのです」
「……」
「そして、これから一年の間、この子は母親と過ごします。冷たい大地で。すべてが凍りつく世界で」
「……」
「けれど、一年後。彼女は母親も失うことになります。父親と同じ肺炎で。誰にも看取られることなくひっそりと母親は死に、彼女は、すべてを失います」
「……」
「彼女は一人になるでしょう。私たち両親を失い、悲しみに暮れるかもしれません。孤独を背負い、絶望を友として生きていくかもしれません」
「……」
「私は、ほんとうに罪びとですね」
顔をあげたルーネの瞳に、再び冬の太陽の笑顔が映った。
「愛しい我が子に、一年の夢を与えるのが、精一杯。その夢さえも、つらく悲しい、不幸な夢しか、与えられない」
「……」
「そして、我が子が悪夢から覚めても……そのあとに待ち受ける絶望から、彼女を守ることができない。
どれほど悲しんでも、どれほど苦しんでも、手をさしのべることはできない」
「……」
「ルーネ」
そっと、彼女はルーネの名を呼んだ。栗色の髪。その奥に瞬く、漆黒の瞳が、ルーネの蒼氷の瞳に向けられた。
長く濃いまつげに覆われた、神秘の瞳。吸い込まれそうなほど透明感のある、黒水晶のような瞳。
魅入られたように、ルーネは彼女の瞳を見つめた。
「私の力は、この娘に受け継がれるでしょう。私のこの、氷雪の力。人にあるまじき力は」
「……」
「でも、私の宿命までを、受け継がせるわけにはいきません。この娘は――マリアは、人間なのだから」
「……」
「だから……これが、最後の罪です」
そっとつぶやくように言った彼女の漆黒の瞳が、いきなり大きく広がった。氷の彫像のように表情を無くした彼女の顔が、その赤い唇が、自分ののど下へと伸びてくるのを、ルーネは黙って見つめていた。
凍土を吹き抜ける冬将軍かと思われるほど冷たい風が、彼女の唇からほとばしり、自分自身をからめとろうと吹き荒れるのを、じっとルーネは待ち受けた。
ルーネは知っていた。彼女が何を行おうとしているのかを。
そして、ルーネ自身がなすべきことを。
氷の息吹がルーネを結晶化しようとする、その一瞬。
銀色の閃光が、斜めにひらめいた。白一色の大地に、赤い飛沫が舞い散った。
長い栗色の髪が、旭日の光のように輝き、雪のように白い肢体が、力なく横たわった。丸くなって眠る、彼女の最愛の娘のかたわらに。
どくり、どくり、と、彼女の身体から赤黒い血が流れる。だがその血は、彼女の娘の白くなまめかしい肌に触れるや、まるで吸い込まれるように消えていった。
「……これで、いいの?」
確認するようにつぶやくルーネに、彼女は微笑を返すことで答えた。
弱々しく、彼女の左腕が、ルーネの右腕に伸びる。彼女の血に染め上げられた、銀色の宝剣に。
「……ごめんなさい」
かすれた声が、かすかにルーネに届いた。きゅ、と、ルーネは唇を引き結んだ。
「あなたの剣を――天使の剣を、魔物の血で穢してしまった……」
「……」
「……でもこれで、私の血は……天使の剣で浄化された……そして、浄化された私の血を吸った娘の血も――マリアの血も、浄化される。……」
「……」
「ルーネ……私のおともだち。魔物の私を愛してくれた、最後のともだち」
「魔物だなんて言わないで、スマ!!」
はじけるように、ルーネは彼女――須磨を抱きしめた。身に付けた水晶の甲冑が、涼やかな音を立てた。
黄金の髪をふり乱し、ルーネは狂おしく須磨の額に口付けした。
「あなたも、私たちと同じ――氷雪の世界に生き、勇敢な若者を導くもの! 私たちと同じ聖霊!」
「でも……あの国での私たちは、魔物……旅人をとらえ、その生気をいただく、化け物」
「あなたは違うでしょう!」
蒼氷色の瞳が揺れ動く。小さな氷の欠片が、白い滑らかな頬を伝って落ちた。
「行き倒れていた人々を救い、迷い人を里に返してあげた!
豪雪となるのを防ぎ、雪崩を弱め、いくつもの村を救った!」
「……」
「生まれ故郷を捨て、神を敬い、人を愛した!」
「……それは違う」
かすかに、須磨は首を振った。
「私が神にすがったのは、試したかっただけです。
人間が信じている神とは、ほんとうに、どんなものでも受け入れるというのか。魔物といえども受け入れるのか」
「……」
「答えはすぐに出ました。人は、自分が信じたいものを信じるだけなんだってこと。 神に自分を投影し、自分に不都合なものは神にとっても不都合なのだと信じ、たとえ同じ人間でも、同じ国の、同じ血のものでも、神の名のもとに排除することを」
「……」
「人も魔物も、あまり変わらない。それがよくわかりました」
「……それでも、あなたは人を愛したわ。人を愛し、その笑顔を愛し、その心を愛した。それはなぜ?」
「……それは」
須磨は微笑んだ。
明るく、鮮烈で、瞳を射抜くような眩しい笑顔で。
どこまでも透明で、まぶしく、優しい、しかし暖かみを伴わない、笑顔で。
「それは、人だから」
――それが、彼女が発した、最後の言葉となった。
「スマ――あなたの願いをかなえてあげよう」
銀色の剣が、旭日の下に輝く。水晶を振るわせるような涼やかな声が、深い悲しみをともなって、永久凍土の上を流れていく。
ルーネは、そっと、亡き友の身体を横たえた。彼女が愛した、娘の傍らに。
丸くなって横たわる、あどけない金色の髪の少女。雪のように白い肌と、光の精霊のような金色の髪を持つ、わずか6つの少女。両親を失ったことも知らず、ただ眠りつづける少女。
「マリア――私の愛しい娘。私が愛した、たったひとりの親友の、大切な娘」
赤く彩られた唇がわななくように震えた。
「私の剣は穢れを払う力を血に与える――」蒼い瞳が、苦しそうに細められた。「けれど、スマの血では……スマの血だけでは、マリアの血を浄化するには、足りないのよ……」
その脳裏に、眩しいような微笑を浮かべた須磨の姿が浮かぶ。ほんの一刻前まで、すぐそばで微笑んでいた彼女の姿が浮かびあがる。彼女の言葉が浮かびあがる。
『マリアは――人間だから……』
「スマ……あなたの願いを、かなえてあげる」
そっと、彼女は、水晶の甲冑に包まれた腕を伸ばして、大事そうに少女を抱き上げた。その唇が、愛しそうに少女の首筋に触れた。
「愛しい娘よ……神と聖霊と、人の血を継ぐものとなれ……」
ゆっくりと、ルーネはつぶやき、そして、銀色の光がきらめいた。
宝剣は、神の力を宿す死天使と、魔の力を宿す聖霊とをつないだ。その腕の中で眠る、あどけない人間の少女とともに。
ふたつの血が、混ざり合う。旧き神々の血と、昏き聖霊の血。
人にあらざる血は、互いの力を相乗し、相殺する。互いの毒を相乗し、相殺する。
そして――
ヒトの娘(こ)は、一(ひと)となる……
「……それからの一年――空白の年月を、あなたは覚えていないのでしょうね、マリア」
美しい貌に寂寥の影をにじませて、ルーネは小さく呟いた。極寒の流刑地で、マリアのもとで過ごした一年が、脳裏によぎる。
神と魔の力を受け継いだ少女とともに過ごした一年。夢と現を行き来するマリアの傍らで――彼女の母の幻影となって、ともに過ごした一年。
真実を知ることなく、つらく、哀しい夢を見つづける、幼い少女の傍らで過ごした一年。
一刻ごとに身を切り刻まれるような、つらい、けれどどこか、うずくような甘く切ない、愛しいとさえ感じた一年。
「あなたにとっては、哀しい日々だったでしょう……つらい日々だったでしょう。
極寒の流刑地での、つらく苦しい日々。日々の糧もろくに与えられず、ただただ無意味な労働のみを強いられる日々。
父親を亡くし、母親さえも、日をおうごとに弱っていく――それをただ、見守ることしかできない、日々。
それまでの、まだ父親も母親も健在だったころの流刑の日々を、ただ繰り返すだけの、悪夢の日々。
――けれど、私には、幸せな日々だった。私の血を受け継いだあなたが、苦しく悲しい思いをしているのを見守るのは、とてもつらかったけれど……
それでも、私は、幸せだった。あなたという娘を得られたことが。再び人間を愛することができたことが……」
美しく澄んだバルト海色の瞳が、遠く明け染める帝都へと向けられる。その白い頬を、透明なしずくが伝い落ちた。
「マリア、私の愛しい娘よ。……どうか、生きて。そして証明して見せて。
私たちが、人を愛しているということを。まだ、人を愛することができる、ということを――」
旭日が、ルーネの背後から光を投げかける。遠く長く伸びる影の先、はるかに、朝またぎの蒸気にかすむ帝都がぼんやりと見て取れた。
その帝都のどこかに、マリアがいる。彼女の血と、彼女の思いを受け継いだ、愛しい娘が。
「――ルーネ」
涼やかな声に、はっ、と、ルーネは我に返った。彼女の傍らには、いつのまにか、リンデが立っていた。
硬質の美貌をくるむように、潮風が黄金の髪を舞い散らせる。朝の光をまとって、リンデは無表情にルーネを見つめていた。バルト海色の瞳の奥に、冷ややかな光をちらつかせて。
「リンデ姉さま……」
かすかに顔を強張らせる妹を、リンデはじっと見つめた。妹とよく似た美貌がしかめられ、ふっと視線がそれた。
そっけなく、リンデは呟くように告げた。
「まだ、時期ではなかったわ」
「……」
明らかにほっとした風情で緊張を緩める妹の様子を、ほっそりとした眉をしかめ、リンデは横目で見た。
だが、彼女は何も言葉に出さず、黙ってすぐにそっぽを向いた。
朝日は次第に昇り、いまや完全に海原の上にその姿を現していた。白く細い雲がかすかに日差しをさえぎったが、それもすぐに消え、輝ける光の祝福が、世界を照らし出した。
「――いかに夜が長くとも、いずれは朝日が輝こう。いかに闇が深くとも、いずれは光が包みたもう」
静かな声が、リンデの耳に届く。だが、リンデは何も答えず、あらぬかたを見続けた。
精緻な細工を施した、きらびやかな銀色の甲冑が、きらきらと輝く。朝日を受けて屹立する、姉の優美な肢体を、ルーネはそっと見つめた。
「……私は信じています、リンデ姉さま」
「……」
妹の言葉に、リンデは答えない。まったく反応も示さない。かたく唇を引き結び、まるで彫像のように、じっとしている。
「大丈夫、リンデ姉さま」
ルーネは、かすかにその麗貌に微笑を広げた。柔らかく暖かな微笑。冬の晴れた日の光のようなきらめく微笑。
「私は信じています。私の力――いえ、私たちの力は、勇者に死をいざなうものではないことを。勇者とともに歩み、勇者とともに悪へと挑み、そして勇者に栄光を与えるものであると」
「……」
「かつて、私たちの妹であったヒルデのように――勇者を導くための力として、私たちの力は存在するのだ、ということを。決して、死をいざなうだけが、私たちの力ではないのだ、ということを」
「……」
「人間を愛するがゆえ、どこまでも人を愛するがゆえに……その勇気を称え、その思い、その願いを守り――導くのだと。
生きたる勇者に死を与え導くのではなく、死したる勇者に愛を与え導くために、私たちは在るのだと」
「……」
「だから、リンデ姉さま………」
そっと、ルーネは白い腕を伸ばした。そのほっそりとしたしなやかな指先が、リンデの頬にそっと触れた。慈しむような美しい瞳で、ルーネはそっと微笑んだ。
「だから、姉さま。苦しまないで………悲しまないで。
きっと、あの娘は証明してくれるわ。私たちの力を。私たちの存在意義を。
そして………私たちの、未来を」
「………ルーネ」
リンデの頬を、かすかな雫が伝った。ルーネの指先がそっとそれを拭う。かすかに苦笑を浮かべて、リンデは瞳を閉じた。 おだやかな、どこか恥ずかしそうな微笑が小さな口元にほころみ、リンデは頷いた。強い意志の籠った視線が、穏やかな光を浮かべるルーネへと向けられた。
「わかったわ、ルーネ。私も、信じよう。あの娘を。
私たちの―――希望(マリア)、を」
「ええ………」
二人の娘の視線が絡み合う。そしてそれは、そっと、一つの方向へと同時に向けられた。
遠くなり行く、横濱港。薄く水蒸気に包まれて霞む、建物群。
「マリア………」
ルーネの口元が、かすかに悲しげに震える。だが、それでもルーネはひとつ首を振り、しっかりとした口調で、呟いた。
「生きて、マリア………そして、戦って。あなたの勇者のために。
あなたには力強い翼があるのだから。天空を翔け、勇者を導く、力強い翼があるのだから」
ボォーーーーっと、汽笛が鳴り響く。水平線上に横たわる東洋の島国へと別れを告げる、汽笛。
潮風に乱れる黄金の髪を押さえ、ルーネはじっとかすみゆく島国を見つめ続けた。愛しい娘の住まう、愛しい娘が選んだ国の大地を。
遠くなりゆく島国。その地にはばたく、麗鳥。
美しくも、力強い翼をそなえた、マリアという名の鳥が飛び立つ。その翡翠色の瞳をまっすぐ天空に向けて。
もう彼女は迷わない。彼女は苦しまない。自分に与えられた力は、死を運ぶだけではないことを知ったから。彼女の勇者がいる限り、彼女の翼は力強くはばたくことが出来ると、気づいたから。
再度、汽笛が鳴る。
ルーネの思いをあらわすかのような、強く、優しく、そしてどこか寂しそうな汽笛が、冬の太平洋の海原を渡って、どこまでもどこまでも鳴り響いていった。
「……く、くそうっ、帝國華撃団めっ!!」
朝の光もまだ届かない、とある建物の影。
よろよろと、魔風はおぼつかない足取りで進んでいた。
穢れた身体を覆うマントはぼろぼろにちぎれ、たれさがって、魔風の足元にまといつく。
苛々とした様子でそれを払いのけつつ、魔風は、いずこか知れぬ場所へと向かって歩いていく。
「くっ……これほどダメージを受けては、四葉から力をもらうこともできんではないか!
――憎いっ、憎いぞっ、帝國華撃団めっ!!
よくも、よくも俺をこれほどまで傷つけてくれたなっ!!
この恨み、この痛み、百倍、いや千倍にして返してくれるっ!!」
ありあまるほどの憎悪と怨嗟をこめて、魔風は吼えた。黒い眼窩が、ぎょろり、と蠢く。
穢れをはらんだ口元がゆがみ、したたるような憎悪の声が漏れる。
「くそぅ……力だ。力を得なければ!
だが、妖力、魔力ではだめだ。これほどのダメージでは、俺の体が持たん。力を得る前に滅びてしまう。
ええい、何か、何か力はないか――俺の体にダメージを与えることなく、力を得る方法が……!!」
ぐらり、と体がかしいだ。道にあやうく倒れかけ、よろめきながら、崩壊した壁にもたれかかる。
魔風ははげしくあえいだ。呼吸するだけでも、受けた傷が広がり、体が崩壊するような不安が去来した。
「体……ダメージ……そ、そうだっ!!」
ふいに、何かに思い当たったように、魔風は顔を上げた。その黒い眼窩が、自身の体へと向けられた。
「この体がいけないのだ。もう、数百年もたったからな……そろそろ、新しい体に代えたほうがよい。
そう、そうだ……!!」
ククク、と、不吉な、狂ったような笑声を魔風はあげた。その首がぐるり、とまわり、とある方向へと向けられた。
「あそこがあるではないか……極上の獲物が群れ集う、あの場所が。
あそこならよりどりみどり――美味い柔肉と新鮮な血、芳醇な霊気を存分に味わえるというものだ。
それに……俺を孕むには、ちょうどよい巫女がいるようだしな」
ばさ、と、ぼろぼろになったマントが翻った。黒い影が長く伸び、穢れた風が渦を巻いた。
「さあ、待っているがいい、風の姫巫女。われの次なる伴侶、われの身となり実となりし、風の姫巫女よ……わが、新しい血肉よ」
魔風の体が浮いた。不浄な風が黒い体を覆う。
そして、魔風は飛び去った。
その方向には、朝日を受けて頭頂部を輝かせる、巨大な山がそびえていた。