「……しょ、少尉! 少尉!!」
「おい、嘘だろ、隊長! なにふざけてるんだよっ!」
「お……大神、は、ん……」
「おにい……ちゃ……ん……お兄ちゃん!!」
周囲の少女たちの、悲鳴。わななくような、魂が切り裂かれるような、声。
だが、それすらも今のマリアには、風の囁きほどにしか聞こえなかった。
うつろな眼差しが、抱きしめた大切な人へと向けられ、かすかに白い息を立ち上らせる唇が、ただ一つの言葉だけを繰り返し紡ぐ。
「隊長……………………隊長…………………………隊長……………………」
硬質の唇が、まるで機械仕掛けのように単調に開閉し、かすれた声がかすかに空気を震わせる。
まるで感情のこもらない声。まるで、死人のつむぐ繰り言のような、うつろで生気のない、声。
「………………隊長…………………隊長………………………隊長………………………隊長……………………………」
「―――そう、それが貴女の見つけた、勇者なのね?」
ふいに。
硝子を触れ合わせたような涼やかな声が、マリアの耳朶へと届いた。びくり、と身体を震わせて、マリアは、翡翠色の瞳をその声の主へと向けた。
ほんの、わずかな距離。一歩を踏み出せば、手の届くほど近くに、彼女は立っていた。
黄金の光を放つ、豊かな髪が、あでやかなまでに微風に揺れる。雪のように白い肌。神の手によって造られたような完璧な美貌。
スッと通った鼻梁の下に、感情さえもうかがわせない微笑をたたえた紅色の唇。刷毛で描いたような金色の柳眉。冬の海のように透き通った青い瞳。
銀色の古風な甲冑に身を包み、精緻な細工を施した宝剣を帯びた女戦士―――いや、死天使。
「――リンデッ!!」
悲鳴のような声が、マリアの唇から迸った。恐怖と絶望が、その美しい瞳に宿った。
「マリア」リンデの美しい唇が、冷ややかなまでの口調で、告げた。それは、どこか、優しげでさえあった。青い瞳が、微量の何かをきらめかせた。だが、冷厳としてリンデは言葉を続けた。 「だから言ったでしょう? 貴女は、勇者に死をもたらす天使。貴女の愛した人、愛した勇者の魂を奪い導くもの」
「………」
「貴女の見つけた勇者の魂は、じきにその身体を離れる。そして私は、天上の宮へとその魂を導くわ。熱く、優しい、真の勇者の魂を」
「い……や……」
ぶるり、と身を震わせ、マリアはかぶりを振った。そして、まるで幼子が大切なものを親にとりあげさせまいとするかのように、愛する人の身体を固く抱きしめて、リンデに背を向けた。
「いや! 私は……私はこの人を、失いたくないっ!!」
「――でも、もう遅いのよ」
答えるリンデの声。鋭く冷ややかな、全てを否定するかのような厳しい声。音楽的ではあったが、感情の一片さえも感じさせない、声。
「だめ……させないっ! この人をあなたに渡しはしないわっ!!」
マリアの翡翠色の瞳が、狂おしいまでの怒りに染まった。激しく吹き荒れる心のままに、マリアは銃口をリンデへと向けた。ほっそりした指が銃爪を引き絞る。
ダァァァァン、という音が、銃弾を伴ってリンデの眉間へと吸い込まれていった。全くよけようともせずに、リンデはその銃弾を受けた。
だが、まるで幻影を撃ったかのように、銃弾はリンデを通り抜けていった。その美しいばかりの秀でた額はわずかさえも変わった様子は見せはしなかった。
「無駄よ、マリア。私は死天使。この世の武器など、私には通用しないわ。例え貴女が、私たちと同じであっても」
「くっ……!」
悔しさにマリアの眉が顰められる。硬質の唇が哀しみと苦しみと絶望にゆがむ。白い麗貌がそむけられ、その肩が震えた。
そんな彼女をじっと見下ろし、リンデのバルト海の色の瞳が、わずかにほそまった。
「苦しいの、マリア?」静かな声。感情が込められない声が、その麗しい唇からこぼれた。 「哀しいの、マリア? ―――もし貴女が望むならば、あなた自身がその魂を導いてあげてもいいのよ? そう、私たち、死の天使のように、ね」
「………」
「人間であり過ぎるのが、あなたの可哀相なところ。人間でなければ、そんなに苦しまなくてもすむのに」
冷笑がリンデの口元を飾った。そんな表情さえも、彼女を美しく輝かせるには十分だった。死天使の声に、かすかに感情が宿った。
片膝をつき、リンデはマリアの耳元へとその唇を寄せた。いたわるように、そっと、優しげな声がマリアにかけられた。
「――私と、来ない、マリア? 私たちのもとへ。貴女のあるべき世界へ」
「………」
「とてもいいところよ」かすかな微笑を含んだ、声。甘い、囁き声。「私も、ルーネも、貴女を歓迎するわ。私たちの新しい妹。新しい娘。誇り高き戦士の魂の導き手――」
優雅なまでのしぐさで、リンデの腕が伸ばされた。しとやかな指先が、愛しそうにマリアの整った頬を撫で、そのおとがいにかけられた。 つと、上を向かせる。冬の海の色の瞳が、翡翠色の潤んだ瞳をじっと見すえた。
「美しい娘――ほんとうに、美しい娘だわ、マリア、貴女は。………やはり、貴女の裡に宿るルーネの力が、貴女を輝かせるのかしら?
貴女の中に流れる血。神の力を宿した、その血が、あなたをこんなにも輝かせている。
――人として生まれながら、神に等しい力を持った娘。私たちと同じ、死の天使でありながら、人の世界にとどまったあの子。
あなたを見ていると、あの子を思い出させる………」
ふうっ、と、リンデは軽い吐息をついた。完璧なまでの美貌にかすかに宿った想いが、たちまちのうちに散らされる。 そして元のように冷笑をたたえ、リンデはマリアを見つめた。
「あなたの苦しむ姿は、私にとってもあまり好ましいものではないわ。だから、マリア。私たちと一緒に来なさい。 そうすれば――そうね、その男、その誇り高き勇者の魂を、あなたにあげるわ。あなた自身がその魂を天上の宮へと導けば………その魂は、あなたのものとなるでしょうから」
「………!!」
ぎくり、と、マリアは身を震わせた。その翡翠色の瞳が驚愕に見開かれた。
リンデの唇が、かすかな微笑を浮かべた。優しく、リンデの繊手がマリアの麗貌にからんだ。涼やかな声が、甘い言葉を注ぎ込んだ。
「貴女が私たちの元へ来るならば………その魂は、永遠に貴女のもの。貴女ひとりの、貴女だけの、ものになるのよ」
「………」
「貴女のそばで、貴女を見つめて、貴女の腕に抱かれて、貴女だけを愛してくれる、貴女だけの魂。……その魂は、永遠に貴女のものとなれる」
「そ……それ……は……」
マリアの胸が疼いた。必死になって圧し止めていた想いが、波打った。吹き荒れる嵐のように、感情がマリアの心を席巻した。
(隊長の……大神さんの魂が、私の、ものになる……?)
(この人の……この人の魂と、一緒にいられる………?)
(マリア――俺の、マリア――)
ごうごうと高鳴る感情の嵐。その中に響く、優しい声。暖かな、声。そして――どこまでも愛しい、声―――
(俺のマリア――俺の、俺だけの、マリア―――)
(……ああっ、隊長………たい、ちょう……)
(マリア――マリア―――――――優しいマリア――美しいマリア――そして、俺の愛する、たった一人の、マ――リ――ア―――…………)
(隊長!………いえ、大神さん! 一郎さんっ!!)
(ああっ………愛してます。愛して……ます……。一郎、さん………)
もはや、圧し止めることはできなかった。荒れ狂う感情は、豊かなまでの高鳴りをみせて、マリアの心の言葉を駆けのぼらせた。
小さな唇がわなないた。翡翠色の瞳が狂おしい光に満ちた。かすかに赤らんだ顔をマリアはあげ、そして、じっと見守るリンデへと、言葉を返そうとした。
「リンデ………私は、貴女と………」
「――だめっ、マリアさん!!」
「マリアさん、お願い! 大神さんを連れていかないで!!」
びくり、と、マリアは身体を震わせた。荒れ狂い暴れ回っていた感情が、一瞬のうちに霧散した。呆然とした顔で、マリアは周囲を見回した。
「――さ、さくらっ! 椿っ!!」
降り注ぐ雪の夜空。病院の非常灯から漏れるうすぼんやりとした光の中、柔らかな光に包まれて立つ椿とさくらの姿が、マリアの視界に映った。
雪のような白い肌を青ざめさせて、マリアは二人の少女を見やった。
ほんのかすかな光を翼のようにまとった椿と、左手に霊剣をたずさえたさくら。
茶色の瞳とハシバミ色の瞳が、じっと自分の背後に向けられているのを感じて、マリアは振り返った。
「……」
優美な金色の眉をしかめ、不快げな表情をしたリンデが、二人の少女の視線を受け止めていた。その豪奢な金色の髪をかきあげ、冷笑をたたえてリンデは少女たちに声をかけた。
「――あなたたち、私の姿が見えるの?」
「はい。見えます」
固い顔つきで、椿が答えた。さくらのほうは右手を霊剣に添えて、いつでも抜けるような体勢のままじっとリンデを見つめていた。
かすかに苦笑めいたものがリンデの唇に宿った。バルト海色の瞳が冷厳とした光をたたえて少女たちに向けられた。
「………なるほど。熾の娘と、破邪の娘―――私の姿を見る力を持つ娘たち。
―――でも、邪魔はしないでほしいわ。この勇者の魂は、私が先に見つけたのだから。――それに、私たちの大切な娘、マリアも、ね」
「大切な娘?」
さくらがかすかに首をかしげる。だが、椿のほうはそんなことには構わなかった。幼い顔に決意の表情を浮かべて、椿はリンデへと声をかけた。
「その人は、私たちにとって、とても大切な人です。あなたに渡すわけにはいきません!」
「………」リンデの眉がぴくり、とはねた。険しい眼差しを椿に向け、リンデはそれでも美しい音楽的な声で問いかけた。 「私が何者か、あなたに分かっているの? これは私の使命。勇者の魂を天上の世界へと導くことは、大切な使命。その使命をたかが人間ふぜいに邪魔されたくないものだわ!!」
「………」
「私は死の天使」傲然ともいえる態度で、誇らしげに、歌うようにリンデは告げた。「熱き戦士の魂を、その高潔な魂を導くもの。神々より与えられた、大切な使命」
「死の、天使………」
さくらの顔が、青ざめた、がくがく、と、震えが走る。ハシバミ色の瞳が、マリアの胸に抱かれた大切な人へと向けられた。
「お、大神、さん………」
「もうじき、その戦士の魂は、私の元へとやってくる」冷たい瞳を同様に大神へと向けて、リンデは告げた。「あなたたち人間の力では、何もできはしないわ」
「できないかどうかは、分かりませんっ!!」
強い口調で、椿は答えた。その明るい瞳が、険しい光を伴ってリンデへと向けられた。だが、美貌の天使は憐憫さえもうかがわせる視線で、意気込む椿を見すえた。
「何もわかっていないのね、あなたは。………私たち死天使が舞い降りた、という意味を。私たちが降りたということは、神の意志が下された、ということ。この勇者に栄光の死が与えられた、ということを」
「………そんなっ!!」
さくらの顔がゆがんだ。見るものの心に痛みを覚えさせるような絶望が、彼女の顔に浮かぶ。マリアのそばへと駆け寄り、さくらは大神へと絶叫に近い声をかけた。
「大神さんっ! 大神さんっ!!」
「………」
じっと、マリアはそんなさくらの姿を見ていた。端麗な顔が、苦痛にゆがんだ。
小柄な少女が、のども裂けよとばかりに声を上げる。美しい黒髪を乱し、綺麗な瞳からとめどなく涙を流し、全霊をかけて呼び続ける。
いや、彼女だけではない。すみれも、カンナも、アイリスも、紅蘭も………マリアの周囲に詰めた少女たち全てが、大神を想い、大神を慕い、大神を取り戻そうと呼び続ける。
そんな彼女たちの姿が、ふいに、かつての自分へと重なった。ドキン、と、マリアの胸が疼いた。
「あ………」
吹きすさぶブリザードの中。ごうごうと耳を聾するような音の中。白い、どこまでも白く続く凍土の中で、大切な隊長の身体を抱きしめ、絶叫し続けていた自分。 かつてない絶望に身をぼろぼろにしながらも、必死で呼び続け、その瞳が開き、その唇が開き、そしてその身体がぬくもりを取り戻してくれることを祈って、叫び続けていた少女の自分。
(――私は、あのときのリンデのように、彼女たちから大神さんを奪おうとしている………)
(この娘たちには、大神さんが必要なのに……大神さんが、一郎さんが必要なのに………)
(私ひとりではない……大神さんを必要としているのは、私だけではない………)
(………大神さん………あなたは、これほどまでに愛されているのです………必要とされているんです………)
(………だから………)
(だから私は………あなたを………)
(あなたを好きになったのかもしれない………愛するようになったのかもしれない………)
ふと、マリアは瞳を閉じた。だが、すぐに彼女は瞳を開いた。翡翠色の瞳が、静かにリンデへと向けられた。硬質の唇が決意の籠った声を紡いだ。
「リンデ。私は貴女と共に行くことはできない。私には、大切な人々がいる。そして、彼女たち全てにとって、この人は、大切な人だから。だから私は―――この人を、取り戻すっ!!」
「………どのようにして?」
静かに問いかけられる、言葉。しかしマリアは、全く迷いも見せなかった。大神を揺さぶるさくらの手の中、霊剣荒鷹を半ば抜き放ち、その冴々とした刃で、自らの右腕を切り裂いたのである。
「……ま、マリアさんっ!!」
「何すんねんっ!!」
「マリアっ!!」
驚愕の声が、周囲の少女たちから上がる。リンデの姿を見ることも、彼女との会話を聞くこともできない彼女たちには、いきなりマリアがさくらの剣で自分を傷つけたようにしか見えなかったのである。 涙を流しながら大神を見つめていた少女たちが、慌てて手を伸ばしてくるのを、マリアは冷静な声で止めた。
「待って! 黙ってみていてっ!!」
びくり、と身を震わせて硬直した彼女たちに構わず、マリアは大神の左腕に巻かれた包帯を取り除いた。まだ塞がりきれていないその傷あとへ、自らの右腕を押しつける。 美しい鮮紅色の液体が、大神の傷あとへと注がれる。
「――私も、お手伝いしますっ!」
とっさに、椿も、大神に押しつけられたマリアの腕に、手を添えた。茶色の瞳を閉じ、一心不乱に念じる。
(お願い、私の力!。―――マリアさんの力を、大神さんに与えてっ!!)
椿とて、マリアがいったい何をしようとしているのか、いや、それよりも、マリアが何か力を持っているのかさえも、分かっていたわけではなかった。 だが、マリアの瞳に宿る何かの決意に、本能的に椿は従っていた。
(大神さん! 大神さん!!)
魔風との戦いの後。
ようやく敵を退けた、と思った瞬間、椿は半ば意識を失いながら、翔鯨丸の床へと座り込んでしまったのだった。
慌ててかすみと由里が駆け寄り、その小さな体を支えてくれたが、それもよく覚えていない。全身を取りまく鬱とした気怠さ、まるで体全体が鉛の塊になったかのような疲労が椿に襲いかかり、視界を霞ませた。
うつらうつら、と、その疲労の波に翻弄されながら、瞳を閉じる。
(よかった―――私、お役に立てたんだ………)
初めて得られた達成感、満足感が、心地よく椿の意識をくるみ、呑み込もうとしていた、そのとき。
(―――!?)
ざわり、という、奇怪な感触が、椿の半ば失いかけていた意識の一角に触れたのだった。
はっ、と身を固くした椿のその超常的な感覚に、幾百幾千もの病魔の群れが大神へと襲いかかり、魔物のつけた傷あとから体内へと吸い込まれるように消えていくのが感じられた。
慌てて椿は、その力を大神へと向けて放とうとした。大切な人、大好きな人を守るため、その体内に巣くい始めた病魔を消滅させるために、力をふるおうとした。
だが―――
いくら集中しても、椿の中から、力は放出されなかった。椿の体内に残された力は、そのとき、大神へと放出できるほど多くは残されていなかったのである。
(あ………あああ………!)
大神の中へと病魔がなだれ込んでいく。内部から大神の体を侵食し、その高潔な魂さえも冒そうとしていく。
それが見えるだけに、椿は焦った。必死になって、力を振り絞った。大好きな人を助けるために、その魂を救うために、必死になって力を振り絞ろうとした。
だが、駄目だった。わずかに力は放出できそうだったが、とてもではないが大神へと届かせるに十分ではなく、そして大神を救うために十分ではなかった。
(こんなときに―――こんなときに!)
焦燥感が椿の体内を駆け巡る。唇を噛み締め、さらに必死になって力を振り絞ろうと試みる。
(今、今だけでいいのっ! 今だけで、構わない! 私がどうなっても構わないっ!!)
(だから―――だから、お願い! 力を―――力を、使わせて!)
(あの人を助けたいの! あの人を、助けなくちゃいけないのっ!!)
(お願い、私の力………お願いっ!!)
だが、駄目だった。いくら念じようとも、椿の体に残った力は、大神へと届かせることさえもできなかったのだ。
そして、椿の感覚の中で、大神は大地へと倒れ伏した。その体全体を病魔に冒され、命の炎がかげろいつつ消えていくのが、はっきりと椿には感じられた。
(………そんな………そんな………そんなっっっ!!)
(嘘でしょう、大神さんっ! 嘘でしょうっ!?)
絶望感が、椿の心を暗黒に染め上げていく。全身の血が抜き取られ、魂が凍りついたかのように、全身が固まり凍えていく。虚無的な絶望が広がっていく。
(いや! いや! いやあぁぁっっっ!!)
魂の底から沸き上がる恐怖に、椿は絶叫しかけた。そのときだった。
(………まだ、大丈夫です)
ほんのかすかな声が、絶望の檻に閉じ込められた椿の心に届いた。
柔らかく、暖かな、そしてどこまでも優しい声。ふわり、と包み込むような優しさと、神々しいまでの輝きを秘めた声が、椿の心を癒していく。
(まだ、間に合います―――大神くんを、信じて。彼の強さを、信じてあげなさい)
(………あ)
ぼう、と、椿の体の中に、何かが灯る。黄金色に輝く何かが、椿の体の中で、優しく瞬く。
(………鏡?)
きらり、とその表面が光をきらめかせたのを感じて、椿は呟いた。そっと、手を胸の前にかざすと、応えるかのようにそれはゆっくりと瞬いた。
(まだ、大丈夫。大神くんは、まだ、戦っています。まだ、彼の魂は地上にとどまっている)
(間に合います………まだ、大丈夫)
(私の力を―――その鏡を通して、伝えます)
(ですから、早く、大神くんのもとへ行きなさい。彼の元へ………)
不思議な声が伝える言葉に、椿はすがりつく思いで頷いた。なんとなく、その声の主が椿には分かったのだ。
帝撃を支えてくれた、大切な女性。優しく、強く、少女達を導いてくれた、心の支えとなってくれた、女性。
時に厳しく叱りつけられ、ときに優しく微笑まれ、いつもそばでそっと見守ってくれていた、かけがえのない、女性。
母とも姉とも慕われた、帝撃の守護天使。
(あやめさん………)
(さあ、早く行きなさい、椿)
優しい声は、微笑を含ませて椿に伝わる。椿は頷いた。
(はいっ!)
そして、椿は、霊剣を通じて何かを感じ取った様子のさくらとともに、翔鯨丸を着陸させて大神達の元へと駆けつけたのだった。
(あやめさんが、守ってくれる)
(私に力を与えてくれる)
(―――だから、大神さんは、死なせない!!)
決意の表情とともに、椿はかざした手の裡に、力を集中させた。体内の鏡が、わずかにきらめいたように感じた。
ぼうっと椿の手が光を放ち始めた。凝縮された力が、マリアの血を純化させ、そこに秘められていた力へと働きかける。
椿の、暖かくも力強い力、純然たる思い、願いの結晶である力が、血の中に眠る何かを揺り動かしていることを、マリアは意外なほど冷静に受け止めていた。
あたかも、それが当然であるかのように。
(私は………いったい………)
かすかに疑問が湧き出る。だが、そのような疑問よりも大切な使命が、マリアの心を占めていた。
(隊長を……助ける!)
どくり、どくり、と心拍にしたがって、自ら傷つけた場所から、赤い血が流れ伝う。緋色の、冴々とした結晶を思わせるような美しい色合いの、血。 それが、病魔に冒され爛れた大神の傷あとへと、染み込んでいく。
(――貴女の中に流れる血。神の力を宿した、その血が、あなたをこんなにも輝かせている………)
リンデの語った言葉が、マリアの脳裏によぎる。
(私の血に、神の力がある―――そう、リンデは言っていた………)
(神の力――ほんとうにそんなものが、あるとは思えないけれど………)
翡翠色の瞳を静かに大神へと向け、絞り出すように左手で傷つけた右腕を握りしめ、マリアは祈り始めた。
(それでも、もしもそんな力が、私にあるならば―――)
(聖霊(スヴャトォーィ・ドゥーク)よ―――)
(お願い―――私の力で、隊長を………)
鋭い痛みが絶え間なく襲いかかってくるのをこらえ、ただただ愛する人の命を呼び覚まそうと、祈り続ける。
(精霊よ――わが愛しき雪娘たちよ………)
(私の血を受けし、氷の精霊たちよ………)
ふいに、マリアの周囲を包み込む風が凪いだ。ふわっとマリアの鼻先を、きらりと光るなにかがかすめた。戯れるように青と白の光が舞い踊る。
クスクスクス………
氷の結晶が触れ合うような、かすかなざわめき。蛍火のような淡い光をはなって、雪の精霊がまといつく。
(私の可愛い、精霊たちよ)
(私に、力を。――この人の身体にある毒を清め、魂を呼び戻せ!)
その時。ふいに、一陣の風が、マリアたちのもとへと吹き寄せた。清浄なまでに純化された、かすかに香り高い香気の宿る、神風。 優しく、強く、そして爽やかな風が、マリアの手元へと舞い降りる。そしてその、合わさった傷あとへと、吸い込まれるかのように消えていった。
「………これは!?」
リンデの金色の眉が、はねた。驚愕と同時に訝しげな表情が宿り、リンデはその美しい顔をめぐらせた。
美しくも冷たい視線が、冬の使者に閉ざされた病院の敷地の一角へと向けられる。不快げにその美麗な口元が引き結ばれた。
だが、言葉に出しては何も言わず、リンデは再び、マリアと大神を見下ろした。
クスクスクス………
精霊たちが舞い躍る。優しく軽やかに、ときに戯れるように、笑いさざめきながら、精霊たちが大神とマリアの傷へと小さく口づけをしていく。 そしてそのたびに、かすかに、爽やかな香気が放たれる。不浄のものを取り込み、消化し、純化させていく。
クスクスクス………
小さな、手のひらほどの大きさの、精霊。氷の結晶のような透明感のある、美しい女性のまろやかな肢体を模した、精霊の姿。
そして、柔らかな白色の、雪のように美しく輝く、白い精霊の姿。
氷の精霊と、雪の精霊が、マリアの周囲を舞い踊る。氷の結晶が触れ合うような澄んだ笑声が、かすかに響く。
だが、そんな精霊たちの中に、もう一種類、別の精霊が混ざっているのに、ようやくマリアは気づいた。
柔らかくたなびく、透明な髪をなびかせる、精霊。蜻蛉のような薄い膜の羽根をもつ、美しさの中にどこか颯爽とした感のある、精霊。
まるで風に舞う花びらのように、ふうわりと軽やかに、戯れるように踊る、精霊。
(………風の精霊?)
思わず呟いたマリアの目前に、ふい、と、その精霊が近づく。 そして、戯れるように軽く、その小さな唇をマリアの硬質の唇に触れさせ、おかしそうに笑声を上げて再び舞い始める。
(いったい………なに……が………)
首をひねり、考えようとしたマリアだったが、そこで初めて、自分自身がひどく朦朧としていることに彼女は気づいた。 思考に靄のようなものがかかり、意識がゆっくりと、白濁していく。視界が霞み、どこかひどく遠くの出来事であるかのように、五感から感覚が失われていく。
(そん……な……!)
必死で、意識を取り戻そうと、マリアは頭を振った。視界を下へと向ける。まだ、大神の顔に血の気は戻ってきていない。 相変わらず、黄金の死天使が、そのすぐそばで手ぐすねを引いて勇者の魂が力尽きるのを待っていることを感じ取る。その誇り高い魂を導くために立っているのを感じる。
(まだ………だめ、よ、まだ。………隊長は、まだ………!)
(リンデ………あなたには、渡さない。………だって、まだ、隊長は、私に必要なのだから)
(いえ………私たちに、必要なのだから!)
周囲の少女たちの必死の呼びかけが、かすかに届く。朦朧とした意識の中に、彼女たちの思いが、届く。
(少尉さん! 何を黙ってるんですの、少尉さんっ! 何とか言ってくださいましっ!)
普段のしとやかさを投げ捨ててすがりつく、紫色の戦闘服の少女。切れ長の瞳がうつろい、その繊細な美貌が、まるで壊れた美術品のように、血の気を失っている。
(隊長ぉ! 目を開けてくれよっ!! 頼むからよっ!!)
陽気な紫水晶色の瞳が、耐えようのないほどの悲しみに曇る。見捨てられた子供のように、必死になって大神を揺さぶる、明るい赤橙色の戦闘服の少女。
(大神はん………目ぇ、開けてぇな………いつものように、笑うてぇな………な?)
眼鏡の奥の瞳、薄墨色の透明なまでに美しい瞳が、揺らぐ。そばかすの散る顔をくしゃくしゃにして、かすれた声で繰り返す。
(お兄ちゃん―――アイリスを見てよっ! アイリスの頭を撫でてよっ! アイリスに笑いかけてよっ!!)
ふわりとした金色の髪が揺れる。しゃくりあげ、その青い瞳から流れ落ちる涙をそのままに、大神の胸にむしゃぶりつく、小さな天使。
(大神さん………あたしが、守りますから! 絶対に、死なせませんからっ!!)
毅然とした表情で、霊剣の柄に手を添え、死の天使を睨みつける、桜色の戦闘服の少女。 だが、その明るい美貌は不安げに曇り、そして、ほんのちょっとしたはずみでさえも泣き崩れそうになるほどに、綺麗なハシバミ色の瞳が潤む。
そして―――
(大丈夫です………マリアさん………私、信じてます、マリアさんの力)
朦朧とした意識のままに向けられた翡翠色の瞳を見つめ返して、血の気を失った表情ながらもかすかに微笑を浮かべて、ともに力を注ぎこんでいる少女。
茶色の瞳が、まるでマリアを支えるかのようにしっかりとした視線で、向けられてくる。
(椿―――いえ………これは………)
奇妙な感慨が、マリアの胸中に渦巻いた。
椿の視線。その、何もかもを暖かく、優しく見つめる視線。全てのものを見つめ、そして支えようとする、揺るぎない視線。
毅然とした意志の籠った、力強く、そして、何物にも耐えられるほどの勇気を伝えてくれる、力の籠った、視線。
そんな視線に、見覚えがあった。そんな視線をもっているものを、そんな力強さと優しさを持った女性を、かつて、マリアは知っていた。
殺伐としたニューヨークのダウンタウンで。荒れ果てた荒野のただ中で。銃火の響きがとりまいた、死線の中で。
そして、東京へと向かう、船の中で。
マリアは、その女性と幾度も視線を交わし、言葉を交わし、そして、心を交わしてきたのだ。
7歳の時に母を亡くして以来、ずっと、その心の裡に秘めていた感情を呼び起こしてくれた存在。
だれかを慕う、ということを、慕うことができる、ということを、思い出させてくれた存在。感じさせてくれた、大切な存在。
(あやめ、さん………)
薄らぐ意識の中―――
マリアは、確かにその女性の微笑を見た気がした。暖かく、強く、神々しいまでに美しい、全てを受け入れ、純化し、そして再び生きる力、人を支えようとする力、愛を甦らせてくれる、微笑。
(ああ………)
うっとり、とした微笑を広げ、マリアは瞳を閉じた。麗貌にわずかに朱を散らせ、だが、どこまでも満足げに、マリアは微笑を浮かべた。
ゆっくり、と、マリアの腕が落ちる。すらりとした長身が、ゆっくりと倒れていく。淡い金色の髪がなびき、かすかに精霊たちが笑い飛びすさる。
「マリアさんっ!!」
誰かの声が届くのを、人ごとのようにマリアは感じていた。そして、もう一つ、マリアが心の底から願っていた言葉が聞こえるのも、マリアはどこかうつらうつらとした意識の中に感じ取った。
「しょ………少尉の体が!」「お兄ちゃんが、動いたっ!」
わあ、という歓声が、遠くに聞こえる。はしゃいだ声が、頭上を飛び交う。
マリアの微笑が、深まる。心が暖かくなるような、誰もが見とれてしまうような、そんな微笑が、マリアの美貌を彩る。
かすかに、精霊が、その旭日の金色の髪の一筋を掬い上げ、散らせる。氷の小さな手が、その白い頬を撫でる。純白の花びらが、そっとその長い睫毛にふりかかる。
(………ありがとう、マリア………)
懐かしい声が、マリアの脳裏に響いた。それを感じ取った次の瞬間、ついに、マリアの意識は白濁し、そして優しい闇が氷の天使に訪れた。
小さな白い冬の使者は、間断なく、大地へと降り注ぐ。穢れたものたちを浄化させ、その白いかいなに抱き、溶けこませる。
魔物たちの死体は、そのほとんどが天へと還され、後にはわずかに腐臭を漂わせるものが残るばかりであった。
そしてそれも、それほど時間をおくことなく、ぽろぽろと崩れ落ち、さらさらとした結晶に純化され、天へと還っていく。
そんな戦場のただ中に、彼は立っていた。
すらりとした長身。彫りの深い、西洋人的な容貌。赤金色の髪をかすかに雪に湿らせ、その碧色の瞳は、何か、どこか遠くへと向けられて揺るがない。
たくましい左腕には、七色の宝玉を埋め込んだ長剣の柄が握られている。その長剣に宿るのは、光の刃。純然とした、どこまでも澄んだ光を集めた刃。
ふと、その左腕が、何の気なしにふるわれる。ザシュ、という、肉を斬る鈍い音にまじり、耳を聾するような甲高い悲鳴が轟き、そしてどさり、と、奇怪な姿の魔物が倒れ伏す。
見る間にそれは、ぼう、とした粒子に包まれ、天へと還っていく。
それを見つめる男の唇が、笑いの形にかすかに広がった。柔らかな、だが、感情の見えない声が、かすかに漏れた。
「………ちいとばかり、やりすぎたようだな、魔風」
ほとんど感情の見えない、冷たい微笑が、男の唇に宿る。碧色の瞳が、かすかに金色の光を帯びる。左腕の聖剣の光の刃が長くなり、まるで青竜刀のごとく幅と厚みを加える。
「神に刃を向けるものは、神の力にて滅ぼされる。………神の寵者もしかり」
「―――なるほど。私の使命を邪魔したのは、そういうわけなのね?」
冷ややかな―――北の凍土に吹きすさぶブリザードのような冷厳とした声が、男―――神代の耳に届いた。かすかに眉をしかめ、神代は首を巡らせた。左手の光の剣が、長剣の長さと幅に戻る。
光をはじくような豪奢な金色の髪をなびかせ、死天使は立っていた。銀色の精緻な彫刻を施された甲冑が、その伸びやかな、だが女性らしい悩ましい曲線を描く肢体を包み込んでいる。
雪よりも白く滑らかな肌。スッと通った鼻梁の下にほころぶ紅色の唇。完璧なまでの曲線を描く、ほっそりとした首筋。
その、バルト海の色の瞳が、何か複雑なものを秘めて、神代へと向けられる。氷で出来た鎗のような、鋭く冷ややかな眼差しを浴びて、神代はかすかに苦笑をにじませた。
その視線を受け止め、揺るぎない視線を返す。南海の暖かな光を宿す碧色の瞳が、黄金の死の天使を迎え入れる。
「リンデ、とか言ったな。手出しは無用だぜ?」
不敵な眼差しが宿るその神代の顔を、リンデは黙って見つめ返した。硬質の唇が、わずかに開いた。音楽的な、だが、魂までも冷たく凍えるような声が、美しい唇から放たれる。
「神の寵愛を受けるものとて、人である以上、死からは逃れられない。そして私の使命は、真の勇者たるものを導くこと。―――ならば、死を迎えた勇者を神の力で甦らせるのは、神の摂理に反することと見受けるが?」
「神とて万能にあらず。そして、人の思いの力は、時として神の意志をも越える。………まして、勇者の魂を天上へと導いた後に起こりうる、大地の鳴動を知らば」
「大地の………鳴動?」
かすかに金色の眉をひそませて、リンデは呟いた。その麗貌に、陰りが落ちる。紅色の唇が、わずかに開き、だが、結局閉ざされた。
くるり、と踵を返し、リンデは黄金の髪をなびかせ、歩き出した。舞い落ちる雪の中に、その美しい肢体を進ませる。冷ややかな声が、わずかに神代の耳にとどいた。
「私の使命は、勇者を天上へと導くこと。そしてそれは、マリアもしかり。………マリアの中に眠る、わが一族の血の宿命<さだめ>」
「………」
「勇者を天上へと導くことこそ、私たちの使命―――マリアもまた、勇者を導くわ………真の勇者の魂を」
「………」
神代は、黙ったまま、リンデの去っていく後ろ姿を見送った。その神々しいまでの美しい肢体が完全に夜の闇の中に消え、そしてその天使の気配が完全に消えるのを確かめてから、神代はかすかに苦笑した。 その碧色の瞳をリンデの去っていったほうに向けながら、ひそかに神代は呟いた。
「勇者を導く。………リンデちゃん。あんた、なかなか分かってるじゃないか」
狂笑が、その小さな麗しい唇から流れ出ていた。苦悶の表情を浮かべた、美しい少女の顔。かすかにひそめられた眉。流れ落ちる黒絹のようなつややかな髪の合間に、清浄なまでに美しい光を宿す薄茶色の瞳がかげろう。
その、小さな白い顔に浮かぶ表情とは裏腹に、その珊瑚色の唇からは、どこかはずれたような哄笑がほとばしっていた。
『見つけた………見つけましたよ、ついに! ―――やはり、やつが………やつが、やつが、やつがっ!!』
「………そうかい、そうかい」
僅かに苦笑を浮かべて、邪介は隣に立つ少女を見つめていた。浅黒い顔が、何ともしがたい、と言いたげな表情を浮かべる。 黒曜石の瞳が微苦笑をたたえて、楽しそうに、苦悶の表情で笑う少女を観察していた。
「そいつあ、よかった。陸太郎。これで心置きなく、復讐ができる、ということだね?」
『手出しはしないで下さいよ、邪介』口調だけは娯しげに、少女は呟いた。『あの者は―――魔風は、私が滅ぼします』
「わかってるよ、もちろん。手出しはしないさ。俺には別に、魔風をどうこうするほどの理由はないからね」
『私にはあります』
きっぱり、とした声。ひどく響きの良い、男の声。類い希な美少女の容姿であるだけに、その違和感は、強烈なほどに印象的だった。 そして、その語る内容も、その、可憐なまでの美しい少女には、全く似つかわしいものではなかった。
『私の白百合を、穢した存在。私の大切な絆を、断ち切ってくれた、存在。その存在に全く相応しくない力を得た、許されざるもの。
―――魔風。
あの存在は、私が消滅させます。その魂さえも、未来永劫、冒した罪にふさわしい地獄の、さらに深く深く、光さえも届かない真の闇の中に、葬り去ってあげます!』