「………し、死ぬかと思った………」
神威の降り立ったすぐそば。ほとんどその足元に近いあたりで、どどっと滝のように冷や汗をたらしながら、神代は神威を見上げた。 翔鯨丸の蒸気カタパルトは正確無比に、それこそ文字通り神代のすぐそばに神威を送り込んできたのである。 あと数歩右にいたならば、確実に神代は押しつぶされていただろう。 いや、反射的に上体をかがめていなかったら、神威の左腕が脳天を直撃していたかもしれない。
「………か、かなり、きわどかったぜ、今の……」
ばくばくと激しく高鳴る胸を押さえて、神代はひきつりながら呟いた。だが、ひとつ首を振って、気持ちを落ち着ける。 開かれたハッチへと、まるで重力を感じないかのような軽やかさで飛び乗って、神代は通信機に呼びかけた。
「――大神。こちらに今、神威が届いた。今から本格的に進攻を開始するが、そっちの戦況はどうだ?」
『――神代、か?』すぐさま、大神の落ち着いた声が届いた。『すまない。こっちの状況は悪くなっている。作戦変更を要請する』
「変更?」神代の眉がはねあがった。碧色の瞳がほそまり、神代は鋭く問いかけた。「一体何が起こった?」
『さくらくんの神武がやられた。また、アイリスが現在、戦力にならなくなっている』 落ち着いた口調とは裏腹に、大神の語る内容は楽観の対極に位置していた。 『さらに言えば、今、俺たちは病院の屋上に運ばれている。地上へ降りることができなくなっているんだ』
「………そいつはやっかいだな」
神代の瞳がますます細まった。険しい表情で、神代は、病院のある方向を睨み付けた。
「わかった、大神。俺たちは地上を掃討する。アイリスちゃんが落ち着き次第、地上に転移してくれ」
『すまない、神代』大神の声が、かすかに翳った。 『そうしてくれると助かる。―――それと、もう一つ。病院内にまだ生存者がいる模様だ。俺とマリアで内部に潜入する。 お前にはその間、すみれくん、アイリスの指揮も任せたいんだが』
「わかった」
神代はすぐさま答えた。そして、素早く神威の操縦席へと潜り込み、ハッチを閉じた。軽く瞳をつぶり、改めて通信機に声をかける。
「カンナちゃん、紅蘭ちゃん、作戦変更だ!! 俺たちは半包囲陣のまま前進する。ただし、会敵した場合、すみやかにこれを排除。一切の容赦は無用だ。一匹たりと逃すな!」
『オーケイ!』『……了解や』
おそらく今までの大神との会話を聞いていたのだろう。一切問い返すこともなく、カンナと紅蘭が答えてきた。
ゆっくりと神代は息を吸った。そして、ふっと不敵なまでの微笑をたたえ、神代は気合の籠った声で命じた。
「よしっ! いくぞ!!」
「……というわけだ、すみれくん」
神代との通信を終え、大神は切れ長の瞳をすみれへと向けた。神武の中、大切そうに金色の天使を抱きしめたまま、繊細な美貌の少女は、固い顔つきのままで頷いた。
「わかりましたわ。わたくしは、アイリスを守ります。―――どうか、ご無事で!」
「すみれくんたちも、気をつけてくれ。まだ、魔物は残っている可能性が高いんだからな」
「ええ………」
こくり、と頷くすみれの胸の中、震えながら金色の髪の少女が、蒼いきれいな瞳に涙を浮かべて大神を見返してきた。
「ご……ごめんなさい、お兄ちゃん……アイリス、役に立てなくて……」
「いや、アイリスは十分にやってくれたよ」大神の端正な顔に、優しく豊かな微笑が浮かび上がった。 「少なくとも、生存者がいることを知ることができたのは、アイリスのおかげなんだからね?」
「で……でも……もしかしたら……」
「アイリス」震える声で続けようとした気丈な少女の言葉を、大神は優しく制した。 「万に一つでも可能性があるなら、やってみる価値はあるんだ。最初からあきらめていては、何もできないさ」
「………」
「大丈夫。俺は簡単には怪我しないから!」
爽やかな笑顔で、大神は、そっと、愛しそうにアイリスの髪を撫でた。切れ長の瞳をそのつぶらな蒼い瞳と合わせ、優しい口調で大神は言った。
「だからアイリス。俺たちが戻ってくるまで、ここを頼むよ?」
「……うん」
まだ青ざめてはいたが、決意の表情を浮かべて、アイリスは頷いた。大好きなお兄ちゃんの大切な言葉が、アイリスの怯えをわずかながらかき消してくれた。 絶大な信頼をこめた眼差しで、アイリスは大神を見つめた。
「アイリス、待ってる! だから絶対、無事に帰ってきてねっ! 約束、だからねっ!!」
「もちろんさ」
優しい微笑を大神はたたえた。そして、傍らに立ったマリアへと視線を向けた。
「それじゃあ、いこう、マリア」
「はい」
頷くマリアを伴って、大神はアイリスが破壊した扉から病院内へと入っていった。
気味の悪い死人を浄化させた後。大神は、怯えるアイリスから、生存者らしいものの声を聞いたことを告げられたのである。
死人たちが現れた一階の奥の部屋、そこに確かに人の気配をアイリスは感じ取ったのだった。
だが、それが本当に生存者かどうかはわからない。最悪、アイリスに襲いかかってきた死人と同類かもしれない。
それでも、生存者らしいものがいることが分かった以上、大神たちは彼らを救出する行動を取る必要があった。
しかし。さすがにまたアイリスを向かわせることはできなかった。がたがたと小さな体を震わせている彼女を、再び病院内へと送り込めるほど、大神は非情ではなかった。
そしてまた、軍人としても、今のアイリスの状態では任務遂行が困難であり、他のものを向かわせるほうが得策だと判断したのである。
病院内に向かうメンバーの選定は容易だった。ぶるぶると震えるアイリスがすみれから離れようとしなかったため、大神とマリアの二人で向かうことになったのである。
すみれはやや不満そうな顔をしていたが、それでも自分を頼ってくる金色の少女を手放すことはしなかった。
優しく抱きしめて少女の不安をできるだけ取り除いてやろうとしながら、すみれは、気がかりそうに大神たちの消えていった扉を見つめた。
「ほんとうに………ご無事でいてくださいな、大神さん、マリアさん!」
「……ここか」
慎重に、注意深く病院内を進んでいった大神とマリアは、ほどもなく、一階の奥へとたどりついていた。
最初、アイリスを連れていかないと迷うか、と案じていたのだが、それは杞憂に終わった。
階段の手すり、廊下、壁、扉。いたるところに、鼻を突くような腐臭を漂わせるものが、べたり、べたりとついていたのである。
死人たちの群れがその体を引きずり、寄りかかり、つかんだときについた、腐りただれた肉のかけら。
それが、アイリスが飛び出してきた屋上の扉から、ずうっと、まるで大神たちを導くかのように続いていたのである。
気色の悪いものではあったが、その確かな道標をたどり、大神たちは途中妨害に会うことも魔物、死人にも会うことなく、奥の部屋へとたどりついた。
アイリスの話に出てきた、死人たちが襲いかかってきた部屋の残骸を迂回し、部屋の扉のすぐ横に立つ。
「……確かに、何か声が聞こえますね」
静かに壁に耳をあてていたマリアが、ほとんど聞き取れないくらいに小さな声で告げた。
「人間かどうかはわかりませんが……二、三人の気配があります」
「俺が扉を開ける。マリア、援護を頼むぞ」
「はいっ!」
ノブへと手をかけ、慎重に大神は扉を小さく開けた。緊張しつつマリアが素早く銃口を部屋の中へと向ける。同時に、大神は部屋の内部へと身を躍らせた。
その瞳が中にいた人影を見とめるや、反射的に大神は床へと転がった。
ひゅん、と、空気を切り裂く音と共に、何かが大神の傍らを通り過ぎていった。わずか数センチの差だった。跳びはねるように大神は体をひねり、左右に不規則に転がった。
それを追いかけるように、何かが連続して大神に襲いかかる。
「隊長!!」
マリアの鋭い声と共に、鈍い銃撃音が立て続けに響く。何か肉のようなものが弾ける音、そして、思わず耳を塞ぎたくような悲鳴が迸った。
「ぎゃああああああっっっ!!」
「………!!」
マリアの翡翠色の瞳が見開かれた。細面の幽玄な美貌が強ばった。マリアほどのものが、思わず銃口を降ろした。
「危ない、マリア!!」
「え!?」
大神がかぶさるようにマリアの左から彼女を押し倒した。同時に、シュパッというかすかな音がして、赤いものが飛び散った。
「……た、隊長っ!!」
「かすり傷だ。大丈夫」
抱きしめあうような形でごろごろと床を転がりながら、大神はマリアの心配そうな顔に向かってかすかに微笑した。その切れ長の瞳が鋭く細まった。 そのまま、開け放った扉の向こう、廊下へと逃げる。素早く立ち上がり、大神は扉を閉めた。間一髪、ドゴッという音ともに、何かが扉にあたる音がした。
「隊長………すみません」
「たいしたことはないさ。マリア。だから心配するな」
顔をうつむかせるマリアに、大神は明るい声をかけた。そして改めて、自分の傷を見る。
まるで、かみそりのような鋭いもので切り裂かれたように見えた。大神の左の二の腕からひじにかけて、十センチほどの切り傷が走っていた。
マリアが戦闘服のポケットから応急処置用の薬と包帯を取り出し、手当てをし始めるを見ながら、大神は呟くように言った。
「それにしても、結局、彼らも助けることはできなかったか……」
「そうですね……」
翡翠色の瞳がかき曇る。あのときマリアが見たのは、アイリスに襲いかかってきた死人以上に惨たらしいものだった。
ぬめり、とした紫色の肢体。青黒く生臭い牙と、長い爪。コウモリに似た骨ばった翼とトカゲのようなしっぽ。
そのシルエットだけを見れば、異形の魔物としか思えなかった。だが―――
その、異形の魔物の中央部。ちょうど頭部から胸部、腹部あたりにあったのは―――人間の上半身だった。それも、ただ単に上半身を植え付けた、といった形ではない。
まるで、獄門にさらされた者であるかのように、頭を下に、腰を上にした状態―――逆さに張り付けられたような状態で、人間が埋め込まれていたのである。
しかも、さらにおぞましいことには、その肩からのびる両腕は、ぶらん、と力なくそのまま垂れ下がり、ゆらゆらと揺れていたのである。
青紫色の魔物の体に埋め込まれた、逆さの人間。その顔には凄じいばかりの苦悶と恐怖と絶望が浮かび上がり、その瞳からはとめどなく血の色の涙が流れ落ち、その開いた口がかすれた声を漏らす。
そして、その魔物へと弾を撃ち込んだマリアは、その白い体にぼつっ、ぼつっと開いた銃痕からどす黒い血が流れるのを見たのであった。そのかすれた声が絶叫に変わるのを聞いたのだった。
生身の人間。身を守るすべを持たない人間。無抵抗の人間を撃ってしまったという想いが、マリアの体を震わせる。
かつてロシアの凍土で銃を持ったとき、その銃で初めて人を殺したとき。その時に味わったのと同じ想いが、再びマリアに訪れていた。
すでに忘れていたはず、その手を血に染め、幾多の戦場を駆け巡り、いつしか馴れてしまったはずの感触が、なぜかマリアの手に残る。
(……馴れたはず……人間を殺すことに、私は馴れているはず……)
(人の命を奪うこと……人の、その全ての人生を、手にした銃で奪うことに、馴れたはずなのに……
……私は、弱くなってしまったのかしら……?)
「――いや、そうではないと思うよ」
「え?」
はっとマリアは顔を上げた。いつの間にか、心の中の言葉が声に出ていたらしい。大神の優しい視線が自分に注がれているのを感じて、マリアは顔を赤らめた。
「あ、その……私……」
どぎまぎとして口ごもるマリアを見ながら、大神は静かな微笑をたたえて言った。
「人の命を奪うことに馴れることは、強くなることとは違うと思う。それはただの傲慢、命というものを粗末にする行為だと俺は思う。
それまでその命を育み大切にしてきた人たちの想いを踏みにじる、許し難い行為だと思う。
命、その大切なものの価値を噛み締め、それを奪うことに罪の意識を持ち、それでも自分が生き抜くために戦うことができる。
それが本当に強いことだと、俺は思うんだ。
だから―――人の命を奪うことに馴れない、ということは、むしろ歓迎すべきことだと思うよ」
「歓迎すべき――こと?」
「そう」しっかりとした視線を向けて、大神は頷いた。「自分が奪った命のことを、とても大事にしていることだから。自分が何によって生きているかを、判っている証だから」
「………」ゆっくりと、マリアは頷いた。その翡翠色の瞳が、美しい光を伴って大神に注がれた。硬質の唇がほころんだ。 「………ありがとうございます、隊長。何だか、迷いが消えた感じがします」
「それはよかった」
明るい笑顔で大神は頷いた。そして、真剣な表情になって、マリアを促した。
「よし。マリア。再突入する。彼らの苦しみを、早く終わらせてあげよう」
「はいっ!」
美しい貌が緊張に引き締まる。翡翠色の瞳が鋭くなり、その麗しい手に握られたエンフィールド・改が鈍く輝いた。
「いくぞっ!!」
気合の籠った声と共に、大神は扉を開け放ち、突入した。その背後から、マリアの援護射撃が加わる。扉のすぐそばにいた魔物の体を六発の銃弾が醜い穴を穿った。
同時に大神もまた銃を抜き放ち、その魔物の頭部へと撃ち込む。人間の悲鳴が、その腹部に逆さに張りつけられた人の口から迸った。
だが、大神は全くためらうことはなかった。銃を戻し、両手に愛刀を握る。青白い美しい光が、その身体に宿った。
「狼虎滅却・癒穢浄魂!」
再びふるわれる、浄化の必殺技。紫色の魔物の体が瞬時に蒸発する。 そしてその腹部に捕らえられていた人間が、奇妙な歓喜の声と共に、光へと変化した。砂のように輪郭が崩れ、美しい光と共に天へと昇っていく。
「マリアっ!」
「はいっ!」
スッと、マリアは銃を構えた。もう一匹残っていた魔物へと冷静に銃口を向ける。そのとき、奇妙な感覚がマリアのもとに訪れた。 全身を、心地良い涼風が駆け巡る。ちら、ちら、と雪のかけらのようなものが彼女をとりまき始めた。
(これは―――?)
ふと、心に浮かぶ情景。幼いころ、かつてこのような現象に遭った気がする。冷たい吹雪が叩き付けてくる大地、細々と暮らしていた貧しい村、流刑地の一角。 そこで、確かに同じようなことがあった。記憶の奥底、まるで封じられていたものがほんのかすかなほころびから漏れいでてきたかのように、淡く儚い夢のような場面。
クスクスクス………
ささやかな、氷の結晶が触れ合うかのようなかすかな声が、ふいにマリアの耳元に聞こえた。透き通った、美しい小さなものが、ふい、とマリアの鼻先をかすめた。
(……ДУХ(ドゥーク)……精霊?)
「――マリアっ!!」
大神の鋭い声が、マリアを我に返らせた。はっとなって、マリアは再度銃口を魔物へと向けた。ほんのすぐそばまで魔物は近づいていたが、それでもマリアは冷静にその頭部へと狙点を定めた。
「ЛЁД ЦВЕТЫ!!
(リョドゥ・ツヴェトゥィ)」
裂帛の気合を込めて、マリアは銃爪を連続して引いた。数発の銃声が一つに聞こえるほどの連射は、魔物の頭部を確実に捕らえていた。ただ一点に集中して弾丸が突き刺さる。
そしてその瞬間、信じられないものが魔物の頭部にそそりたった。
どこまでも澄んだ、美しい氷晶の柱―――いや、それはむしろ、蕾、と言ってもよかったかもしれない。
なぜならばそれは、まるで大輪の華を咲かせるかのように、まばゆい輝きと共に砕け散り、その内部に秘められた凍えるほど清澄な霊気をたちのぼらせたのだから。
峻烈な、清浄な香気が散らばる。輝ける凍土をめぐる、全てを凍らせつつも、全てを美しく輝き渡らせる、極寒の風と空気。それが、マリアの銃弾から発せられたのだった。
醜怪な魔物の体に咲いた、輝けるほど美しい氷の華。きらきらときらめくその華は、瞬く間に魔物の体を覆いつくすほどに咲き乱れ、そして、澄みわたるような美しい音をたてて、砕け散った。
その後には、まるで氷の花びらのような美しい光だけが残り―――それもまた、すぐに、いずこへかと消えうせていった。
「………」
声もなく、その切れ長の瞳を丸くして、大神はそれを見ていた。だが、大神以上に驚いた顔をしていたのは、他ならぬマリア自身だった。 翡翠色の瞳が見開かれ、自らが一体何をしたのか、全く判らない、といったように呆然としていたのである。
「マリア………」かすれた声を大神はかけた。「今のは君の……新しい技、なのかい?」
「……わ、私にも……よく……わからないのですが……そのよう、ですね……」
呆然としたまま銃口を降ろし、マリアは大神へと視線を向けた。
「……まだ、私自身実感できないのですが……もしかして、これも……?」
「……椿くんの力、なのかな?」マリアの言葉を受けて、大神は呟いた。「だが、いくらなんでも、翔鯨丸の中からこの病院内を見ることはできないだろうし……」
「確かに……」
「……まあ、あとで椿くんに聞いてみればいい」
ひとつ首を振って、大神は考えるのをやめた。暖かな微笑をマリアへと向ける。
「それにしても、マリア。今の技、とても凄かったよ。そしてとても――綺麗だった」
「た、隊長……」
白い頬が朱に染まるのを、マリアはとめることができなかった。かぁっとなって、思わず下を向く。 恥じらってうつむくマリアをかすかに苦笑しながら大神は見ていたが、ふいに聞こえてきた声に、さっとその整った面を引き締めた。
『――やるではないか、帝国華撃團!』
「お前は――!!」
鋭い声を発した大神の耳に、あざけりをあらわにした声は、いんいんと響き渡った。
『先ほどは名乗りもしなかったな。――俺は、魔風。この地上の全ての大気と、そしてそこに巣くうものたちのあるじ。風に乗る全てのものを支配するものだ』
「魔風――風に乗るもの全てを支配するものだと!?」
『そのとおり』魔風の声は、嘲笑を含み、さらにおぞましい口調で言った。『俺の力は、大気をあやつるもの。すなわち、お前たちの息さえも、こうして止めることができるのだ!』
「なん――!」
叫ぼうとした大神の顔が、瞬時に強ばった。秀麗な顔が苦しみにゆがんだ。のどをおさえ、身をかがめる。ぱくぱくと口を開閉し、酸素を求めてあえぐかのように、ギョロリ、と目をむいた。
「隊長!!」
急いでマリアは大神に駆け寄った。大神の顔がどんどん青くなっていく。
『その者の呼吸を奪ったのさ』娯しそうな声が、マリアの疑問に答えた。『人間の呼吸とて、風の支配を受ける。俺の力があれば、お前たちを窒息させることなど造作もないことだ』
「!!」
マリアの瞳に殺意が浮かぶ。周囲を見回したマリアに、魔風の声はあざけりの声を浴びせかけた。
『無駄だ。俺の居場所など、判るわけがないさ!』
「それはどうかしら?」
冷ややかな声でマリアは答えた。その瞳が手近の机の上に重ねられた本や書類にとまった。 優雅にも思えるしぐさで、マリアは、周囲の床へとそれらを叩きつけ始めた。
『なにをやっているんだ? そんなところに俺はいないぞ?』
あざけり声を無視して、マリアは中を睨んだ。叩きつけた本や書類が舞い上がらせた埃が漂う室内を慎重に見回す。 その翡翠色の瞳が、輝きを増した。いつの間にかその手に、銃が握られていた。
「そこっ!!」
ほとんど一瞬のことだった。マリアの銃が昂然とした音を轟かせた。同時に、何もなさそうな空間に、赤黒いものが現れた。
「ぐわっ!!」
うめきをもらして、魔風は床へと転がった。その手が胸に当てられ、そこからどす黒いほどに醜怪な赤いものが流れた。 同時に、大神にかけられていた魔風の技が解き放たれた。両手をつき、大神はぜいぜいと空気をむさぼった。
「隊長、大丈夫ですか!?」
「……あ、ああ………な、なんとか……」
「……な、なぜ、俺の居場所を!?」
黒い眼窩を向ける魔風に、マリアは冷ややかな声で答えた。
「この病院内は、閉じられた場所。いくら大気をあやつれるとはいっても、動かせる風はたかがしれているわ。そして、何よりお前のいた場所には、ありえない風が吹いていた。 このような閉じられた場所ではありえない、空気の流れ。舞い上がる埃が、お前の居場所を教えてくれたわ」
「埃、だと?」
慌てて魔風は周囲を見回した。マリアがばらまいた本や書類によって、あたりはかすかに埃が舞い上がっていた。その舞い上がった埃は、魔風の周囲で極端に乱れる。 その身を取りまく風の防壁が、魔風の居場所を教えてしまったのである。
「く、くそっ!!」
身を翻して、魔風はそれこそ風のように病室を出ていった。
「隊長っ!」
「……もう大丈夫だ、マリア。魔風を追うぞっ!!」
振り返ったマリアに、ようやく呼吸を整えた大神が答えた。びっしょりと額に汗をかいているが、元気そうである。ほっと安堵したマリアを促して、大神は病室を出ていった。
「いくぞ、マリア!」
「はい、隊長!!」
「すげえ……なんて奴だ……」
カメラから送られてくる映像を見て、カンナは思わず呟いた。紫水晶色の瞳が、驚嘆に見張られ、釘付けになっていた。
小雪のちらつく病院の敷地。群がり来る数十の魔物たち。
そのただ中に、さんぜんと輝くように、その菖蒲色の機体はあった。俊敏な動きで集団の中に突入するや、目をみはるほどに美しい光の刃が、流星のように輝く。瞬時に数体の魔物が光へと還元される。
その輝きが消えうせる前に、すでに菖蒲色の機体は別の集団へと向かっている。
優美なまでの曲線で構成された機体が、洗練された剣舞を舞い踊る。光の刃が美しくそれに彩りを与え、周囲の魔物に光の華を咲き乱れさせる。
それは、息をのむほどに華麗なものだった。
「……これが、あの神代の、力なのか……」
ごくり、と唾を呑み込んで、カンナは感嘆のうめきをあげた。
「強え………隊長とも互角だったって噂も、嘘じゃねえな、ありゃあ……」
今度、一度手合わせしてもらおう、と、カンナは密かに決心した。あれだけの動きをするからには、武道のほうもかなりできるはずだ。 どれだけ相手にできるか、是非とも一度手合わせしてみたい! わくわくした気持ちが、カンナの胸中に湧き起こる。
『カンナはん! そっちに一匹いきましたで!!』
「オッケイ! 任せとけ!」
通信機から紅蘭の声が届く。わくわくする気持ちのまま、カンナは獲物に襲いかかる猛禽のごとき速さで、紅蘭に追い立てられてきた魔物に拳を奮った。 グギャアアッと断末魔の声をあげて、魔物が消滅していく。
(最初はちゃらちゃらした奴だと思ってたけど……)
ちらり、と菖蒲色の神威の活躍に目を向けつつ、カンナは心の中で呟いた。
(腕は隊長並みだし、戦闘の指揮ぶりもたいしたもんだ)
くすくす、とおかしそうにカンナは笑った。その瞳が、大神が今いるであろう病院の建物へと向けられる。
(………へっ、大神隊長、うかうかしてるとあたいたちの信頼、神代にとられちまうぜ?)
(そいつは困ったな……)
真面目な顔で答える大神の顔が浮かんでくるようで、カンナはひとりにやりと笑った。
『――カンナちゃん、聞こえるか?』
ふと、通信機から神代の声が飛び込んできて、カンナは陽気に答えた。
「どうしたい、神代! あたいの助けが必要かい?」
『ずいぶんご機嫌みたいだなあ』かすかに笑みを含んだ声が、通信機から漏れた。 『ま、いいや。カンナちゃん。すみれちゃんとアイリスちゃんがちょっと大変みたいだから、紅蘭ちゃんとそっちに向かってくれないか? こっちは俺だけでなんとかできそうだからよ』
「あたいと紅蘭? ちょっと手を裂き過ぎじゃあねえのか?」
カンナの眉がひそめられた。いくら神代とはいえ、まだまだ魔物はたくさんいる。取り囲まれて集中的に攻撃されたら、危ないのではないか? 思わずでかかったカンナの言葉をさえぎるように、神代の陽気な声が届いた。
『心配ねえよ。あとたったの二十五体。それも、すみれちゃんたちのほうにいる五体を残せば、範囲内だから』
「範囲内?」
何の? と言いかけたカンナは、次の瞬間、思わず目を見張った。
「我竜猛哮・疾風迅雷!」
気合ののった叫びと共に、菖蒲色の機体が、高々と光の剣を掲げた。強烈な光が剣に集まる。そして、大気を奮わせるほどの轟音が轟いた。
凄じいばかりの勢いで、神威の正面に直線上に並ぶ魔物が数体、弾け飛び、瞬時に光へと変わった。
さくらの必殺技に似ているが、有効射程は彼女よりも小さい。だが、それはまるで大神の必殺技かと見まごうほどの、強烈なものだった。
さらに驚くべきことに、菖蒲色の機体は、そのまま数十メートルを移動し、次の獲物へと襲いかかっていたのである。
つまり、進路上にいる魔物を、神威ははじき飛ばし光へと変えながら進んでいたのである。
強烈な破壊力と同時に、驚異的な速度で移動できる必殺技。まさに疾風迅雷のごとき技だった。
「すげえ……」
思わず呟いたカンナの耳に、神代の声が届いた。
『さあ、カンナちゃん、すみれちゃんたちのほうに行ってくれ!』
「あ、ああ、分かった!」
慌ててカンナは、神武をすみれたちのいるほうへと向かって突進させた。
大神を見送った後、すみれは、アイリスの力を借りて、大神たちの神武ごと病院の前に瞬間移動した。
そして、アイリスの黄色の神武を回収し、病院前の空間を確保したのである。ちなみにさくらはこの間に翔鯨丸へ回収されている。
さくら自身は椿の力によって守られたのだが、神武の損傷は決して軽微なものではなく、戦闘続行は不可能だった。
そしてアイリスは、落ち着いたとはいえかなり気力を消耗している。神武を四体、瞬間移動したためと、あの死人の群れに襲われたショックが尾をひいているためである。
すなわち。
現在すみれただ一人が、実質上戦闘可能な唯一の隊員であったのだ。
「………雑魚とはいえ、こうも数が多いと、わたくしも飽き飽きしてしまいますわ」
疲れのにじんだ声で、すみれは呟いた。神武の右手に持った長刀をしごく。同時に正面の数体へと前進し、気合を込めて長刀をふるう。 ダメージはかなり与えているのだが、疲労がたまっているせいか、刀の動きが鈍い。それでも体にむち打って、すみれは神武を回転させた。 気合と共に優雅な舞いがふるわれ、ようやく二匹の魔物が光へと変わった。
「はあ、はあ、はあ………」
肩を上下させて、すみれはあえいだ。繊細な美貌が、苦しみにゆがむ。だが、持ち前のプライドが、すみれの顎を昂然と上げさせた。
『……すみれ、回復させるよっ!!』
アイリスの声が届く。だが、彼女の回復の力も、目に見えて減衰していた。金色のさざ波がすみれの体から疲労を消していくが、それでも蓄積されたものはなかなか減少しない。 くっと唇をかみしめ、だが、柔らかな声ですみれはアイリスに声をかけた。
「ありがとう、アイリス。とっても楽になりましたわ」
『すみれ……ごめんね……』
悲しそうな声が届く。だが、すみれは微笑みさえも浮かべて、高らかに言い放った。
「何がごめんなさい、ですの、アイリス? あなたのおかげで、わたくし、まだまだ戦えましてよ?」
だが、その声に答えたのは、幼い少女の疲れた声ではなかった。
『……その割りには、疲れた声じゃねえか、すみれ?』
溌剌とした、陽気な声。聞いているだけで元気が出そうな、生命力に溢れる声。
「カ……カンナ、さんっ!?」
驚きに声をあげるすみれの目の前で、魔物が瞬時に光と化した。その向こうに映るのは、赤褐色の神武。
『カンナぁ!!』
アイリスの嬉しそうな声が、通信機から聞こえる。思わず満面に笑みをたたえた少女の顔が浮かび上がって、すみれはくすっと笑った。
「カンナさん、ずいぶん遅かったのですわね。亀のほうがよっぽどましですわよ?」
『るせえ、すみれ。てめえがおたおたしてるから、仕方なく助けに来てやったんだ。ありがたく思えよな』
「んまあ。言っておきますけど、このぐらいの雑魚、わたくしには片手で十分片づけられましてよ? あなたの助けなど、必要ありませんわ!」
『それにしちゃあ、苦戦していたようだけど?』
笑い声が届く。すみれの柳眉がはねあがった。険しい声ですみれは答えた。
「誤解なさらないで下さいなっ! 苦戦などしてませんわよ! ただ………その、ただ、少々、雑魚を相手にするのに飽きてしまったからですわ!」
『ったく、素直じゃねえんだからよ、てめえはっ!!』
「なんですって!!」
カンナのため息混じりの声に再度声を荒げかけたすみれだったが、あきれたような声が聞こえて、思わず口ごもった。
『……いい加減にしないか、すみれくん、カンナ!』
「しょ、少尉!」
『よう、隊長! よかった、無事だったみてえだなっ!!』
「ああ、俺もマリアも無事だよ」
純白の神武に乗り込みつつ、大神は通信機に声をかけた。目の前、数体の魔物を相手に奮戦している赤褐色の神武と菫色の神武を見比べる。
「それよりも、注意してくれ。敵の指揮官が出てくるはずだ」
その、大神の声に答えたのか。魔風の姿が、突如大神たちの頭上に現れた。
「帝国華撃團っ! 貴様らの命、まとめて始末してくれる!」
憎々しげに言い放つと、魔風はいきなり腕を振るった。ごう、という音と共に、強烈な風が渦巻いた。
「魔風・穢風蝕魂(ぎふうしょっこん)!」
強烈な風が、大神たちの神武を空中へと巻き上げる。そして、大地に叩きつける代わりに、その四肢をからめとった。 そのとたん、大神たちの全身に、例えようもないほどの苦痛が襲いかかった。 全身の皮膚がただれ落ち、その内側へと何かが侵入してくるような、震え上がるほどに生々しい、鳥肌が立つような感覚。 そして、まるで命そのものを蝕むかのような、本能的な恐怖を呼び起こす、苦痛。
「きゃあああっ!!」
襲いかかってきた強烈な感覚に少女たちが悲鳴を上げたとき、再び椿の声が飛んだ。
『霊的祓清!』
とたんに、大神たちの体が光に包まれた。あれほどに本能的な恐怖を伴っていた痛みと感覚が、まるで嘘のように消えうせるのを、大神たちは感じ取った。 呆然としたように目を丸くする少女たちと、大神の耳に、再度椿の声が飛び込んできた。
『光翼付与!―――霊力扶助!!』
「うおおおおおぉぉぉぉぉぉっっっっっ!!」
神武の体勢が瞬時に整い、同時に全身に気力が満ちあふれる。そのとたん、大神はなすべきことを瞬時に悟った。全ての気合を込めて、空中から魔風めがけて両刀を振りおろした。
「狼虎滅却・無双天威!!」
「そんなまともな攻撃が、俺に当たるかっ!!」
あざけりつつ、魔風は大神の攻撃をかわそうとした。大気を操るすべを持ち、しかも先ほどのように油断しているわけではない。 落下しながらの相手の攻撃をかわすことは、容易なことのはずだった。
だが――
一瞬、魔風は体が硬直したような感覚を受けた。自分の体内に宿った力が、自分の意志に反して、彼の体を拘束したかのような、奇妙な感じだった。 だが、すぐにそれは消えうせた。不可解な出来事に思わず魔風が顔をしかめたとき――
大神の攻撃が、魔風の右腕を斬り飛ばした。
「ぐわぁぁぁぁぁぁっっっ!!」
襲いかかってきた強烈な痛みに、思わず魔風は絶叫を上げた。肉体が崩壊し始める。全身の気力を振り絞り、魔風はおのれの右腕に全ての妖力、魔力を注ぎ込んだ。
ぼろぼろのマントがひるがえり、斬り飛ばされた右腕の代わりに右半身を覆った。
その時。
わずかにめくれ上がったマントのすそから、魔風の背中がちらり、と見えた。
そこには―――奇妙なものがあった。
美しい曲線を描く、白い百合の花。可憐なまでにほっそりとした茎と、大きく広がった葉をもつ、優美な白百合の花。
魔風という存在に、これほどまで似つかわしくないものはない、と思われるほど、美しく端麗な、白百合の入れ墨。
だが、それも一瞬のことだった。ぼろぼろのマントはすぐに魔風の背中を再び覆い、可憐な入れ墨があったことなど夢か幻だったかのようにかき消した。
「……く、くそっ! おのれっ帝国華撃團! 一度ならず二度までも、この俺に傷を負わせるとはっ!!」
たけり狂う嵐のような風をまとい、魔風は、のども裂けよとばかりの大声をあげた。
「わが眷属、わが魔の風を運びしものよ、われの力を今こそ解き放て!!
われの病魔で、きゃつを滅ぼすがいいっ!!
うわっはははははははははっっっ!!!」
狂ったような哄笑とともに、魔風の体は暴風の中へと消えうせた。とたん、周囲の風がぴたりとやみ、かわってちらほら、と、静かに小雪が降り注ぎ始めた。
「………逃がしてしまいましたね、敵の指揮官を」
ようやく神武の体勢を立て直し、光の翼とともに大地へと降り立って、マリアは大神へと声をかけた。 敵の指揮官を逃してしまったことは、再び同じような襲撃があることを意味している。 今後のためにも、なにより帝都市民のためにも、親玉は必ず斃しておきたかったのだが……
「――まあ、今日の所は、陸軍を守れたし、周囲の人々に被害を及ぼさなかったから、よしとしよう」
大神の声が聞こえる。確かに、周囲に魔物を散らせるようなことはしなかったし、陸軍の犠牲も最小限で食い止めた。
病院のほうは……結局生存者はいなさそうだが、それでも、華撃團の失態というわけではない。
作戦内容、作戦行動は、考えられる限り最良のものであったのだから。
それに何より、大切な人を――大神を守れたのだから。
ひとつ首を振って、マリアは気持ちを切り替えた。神武のハッチを開けて飛び降りる。
同様に神武から降り立った大神の元へとかけつけ、微笑をたたえて言った。
「――それでは、いつものやつをやりましょうか、隊長?」
「ああ、そうだな。……あ、いや、ちょっと待って」頷きつつ、大神はふと周囲を見回し、苦笑した。 「さくらくんと神代がいない。それに、今回の最大の功労者は椿くんだ。いつものやつは、帝劇でやるか?」
「……あ、そうですね」
マリアも苦笑して頷いた。だが、その時だった。
グラリ、と、目の前に立った青年のからだが揺らいだ。均整の取れた体が、まるで全ての力を失ったかのように、だらり、と傾いだ。
そして、ゆっくりと、青年は大地へと倒れていった。
「……隊長?」マリアの口から、不思議そうな声が漏れた。「どう……したん、です?………隊長?」
「………」
答える声はない。ただ、大神の端正な顔が、何か得体のしれないどす黒いものに覆われ、みるみるうちに土気色に変わっていく。
ガタガタ、と、大地が揺れた。いや、それはマリア自身の体が揺れているのだ。がくがくと震える体を抑えて、マリアは再度大神に声をかけた。
「隊長……返事、してください、隊長………」
「………」
「い、いやですよ、隊長………冗談、でしょう?……人が、悪過ぎますよ、隊長………」
「………」
マリアの翡翠色の瞳が、大きく見開かれた。がくり、と膝をつき、大神の体へと震える手を伸ばす。
そっと、その体を抱え上げる。驚くほど簡単に、大神の体はマリアの手にゆだねられた。
端正な顔には、何の表情もない。その暖かな光を帯びていた黒い瞳は閉ざされ、男らしく引き結ばれた唇が気味の悪い色に染まっている。
そして、そのたくましい体から、体温がどんどんなくなっていくのを、マリアは感じ取った。
その麗しい唇から、絶叫が響き渡った。
「大神隊長ォォォッッッッ!!」