「………それにしても、むしろ神威に乗らなくてよかったな」
軽く苦笑を浮かべて、神代は右手に握った聖剣をふるった。路地裏に逃げ込んだ魔物は、避けることもできずにその一撃を受ける。 断末魔の咆哮をあげて倒れ伏す魔物の最後の一撃を難なく避けて、神代は残りの一匹に対した。
「こういう狭い路地じゃあ、神武も神威も、身動きが取れねえ。もっと小さい魔物が出たとき、必ず問題がでてくるだろうな」
『――そやなあ。ちいとウチも、対策を考えといたほうがええな』
背中にかついだ、携帯用―――とはいっても、かなり大きなものだったが―――の通信機から、紅蘭の言葉が聞こえてくる。のんびりとした口調で神代はそれに答えた。
「まあ、いまのところは、やつらも身動きが取れないことを嫌っているからな。………で、そっちはどうだい、紅蘭ちゃん?」
話しかける口調は普段通りである。だが、神代の剣はその間に、向かってきた造魔を一撃のもとに屠っていた。
『なんとか、いけてますわ』紅蘭の声が、造魔の断末魔の声にかぶさるように聞こえてきた。『いまんとこ、五匹程度を大神はんのほうに向かわせました―――あ、ち、ちょいと待ちいっ!! ………あかん、一匹そっち行ってもうた。お願いしますわ』
「わかった。取り逃がしは全部俺に任せてくれ。位置は?」
慌てた様子の紅蘭の声に、神代は不敵な微笑をたたえて聞き返した。紅蘭の指示によって路地を駆け、丁度角からぬっと顔を出した造魔の首を叩き切る。
神代の作戦は、こうであった。
後方から紅蘭が全体の動きをつかみ、それによってカンナと神代が魔物を倒す。カンナは病院側、神代は狭い路地の入り組む平河町近辺から、魔物を半包囲する形で追い立てる。
霊子甲冑をまとわず、聖剣一本で戦うことができる神代がいたおかげで、大神の立てた包囲作戦は、かなり理想的な展開で遂行されていた。
『ようし、一丁上がり! ………へへへ、神代。作戦、うまく行きそうだな?』
陽気な声が通信機から流れてくる。十分に腕を振るえて、カンナはかなりご機嫌らしい。神代は軽く苦笑を漏らすと、通信機のチャンネルを切り替えた。上空で待機する翔鯨丸に呼びかける。
「こちら神代。どうだ、神威の用意はできたかい?」
『………あと数分で完成予定です、神代さん』
「お、その声は椿ちゃんか!」神代の唇ににやり、とした笑いが浮かんだ。「どう? 明日空いてる? 日比谷にいい店ができたからさ、俺と一緒に………」
『―――申し訳ありませんが、私的な通信はやめてください、神代さん』
穏やかな声が、通信に割り込んできた。神代の顔がわずかにひきつった。慌てふためいた様子で、神代は手のひらを返すようなことを言った。
「あ、そ、そういえば、俺、明日もちょっと引っ越しの準備があったんだっけ………ざ、残念だなあ、あはははは」
『―――そうですか。それは大変ですね』椿のくすくす笑う声に重なるように、かすみの声が言葉をつないだ。 『今夜中に事務仕事をしていただかないと、明日のお引っ越しの準備、できなくなりますものね?』
「………」
『あっははははっ! 神代、災難だなあ?』『ご愁傷様やで、神代はん』
カンナの笑い声、紅蘭の笑いを含んだ声が次々と通信機に飛び込んでる。どうやら会話を聞いていたらしい。冷や汗を垂らしつつ、神代は思わず呟いた。
「………魔物と戦っているほうがましな気がするぜ………」
第一部隊のほうでのんきな会話が交わされているとき、第二部隊の大神たちもまた、やや優勢に戦闘を進めていた。
基本的に、造魔の群れは、統率がとれていない。そこかしこを徘徊し、欲望のままに陸軍の兵士たちへと襲いかかろうとしている。
装備の貧弱な陸軍の部隊を守るように神武を配置した大神は、彼らの撤退を支援する方向で、戦いを進めた。
兵士たちを退却させた後、改めて陣形を受動的な布陣から、能動的な布陣へと変更する。
横一列の横形陣の両端に位置するさくらと大神自身をやや前面に出し、中央部を守るすみれとマリアに援護されつつ、病院玄関へと神武を進ませる。
そして、十分な距離まで近づいたとき、黄色の神武がキラリ、と輝きを残して消えうせた。
『行ってくるね、お兄ちゃん!』
「気をつけるんだ、アイリス」
通信機に向かって呼びかけながら、大神は周囲へと視線を巡らせた。病院の正門からここまで、敵の組織的な攻撃はない。
拍子抜けするぐらい簡単に、大神たちは病院玄関までたどりついていた。そしてそれが、大神の何かにひどく訴えかける。
切れ長の瞳を巡らし、周囲を確認するが、これといって異常はない。だが、警鐘がいんいんと頭の中に響く。
なにものをも見逃すまいと、瞳を凝らし、息さえもひそめて、大神は異常なほど周囲を警戒し続けていた。
『――どうしたんです、大神さん?』
大神の異常に気づいたのか、さくらが通信機から呼びかけてくる。それに、普段の戦闘時以上に強ばった声で、大神は答えた。
「どうも様子がおかしい。さくらくん、それにみんなも。周囲の警戒を怠るな!」
『――はい』『わかってますわ』
戦闘経験が豊富なマリア、霊力探知に関してはアイリスに次ぐものをもつすみれ。
ともに大神の警戒ぶりを裏づける何かを感じていたのかもしれない。緊張と警戒の声を返してきた。
しかし、さくらは、仲間たちの警戒ぶりに漠然とした不安を感じただけであった。「わかりました」と答えたはいいが、何となく不審そうに周囲を見回す。
警戒していないわけではなかったのだが、それでも大神たちと比べれば、それは徹底さに欠いていた。そしてそれが、敵の奇襲を受ける原因となった。
「きゃあああああっっっっ!!」
ふいに、さくらの乗る神武が、何かに引っ張られるように前方へと飛ばされた。思わず悲鳴がさくらの唇から放たれた。
「さくらくんっ!」
大神は思わず目を疑った。乾燥重量2520キログラムにもなる神武が、まるで落ち葉のような軽さであるかのように、空中を舞い始めた。 上下左右に振り回され、頭と足が逆転する。ほとんどなすすべもなく、桜色の神武は、強烈な風に翻弄され、体の自由を奪われた。 そして、高々と空中に放り投げられた神武は、何か巨大な手で叩かれたかのように、凄じい速度で大地へと叩き付けられた。 ドゴォォォン、という、爆裂音にも似た凄じい音が、轟きわたる。
「さくらくんっっ!!!」
大神の顔が蒼白になった。叩き付けられた速度は、尋常なものではなかった。
神武の構造自体がひしゃげてもおかしくはない、いや、圧壊していたとしても不思議ではないほどのものだった。
そして、おそらく乗っているものは―――どれほど運がよくても、重傷は免れないだろう。下手をすれば………人の形すらとれていないかもしれない。
目の前が真っ暗になる気が、大神はした。何か、とても大切なものが、それによって粉みじんに砕け散ったかのように、うつろなまでの穴が、大神の心にあいた。
だが、それでも大神は、確かめなければならなかった。震える手で神武を駆り、大量の土砂が舞うその場所へと駆けつけた。
舞い上がる土砂に視界を閉ざされ、そこになにがあるのかすら判別できないその場所を、見つめる。
『さくらっ!!』『さくらさんっっ!!』
マリアとすみれの、悲鳴じみた声が通信機から放たれてくる。その声に、ふと我に返り、大神も慌てて、通信機越しにさくらへと呼びかけた。
「さくらくんっ! さくらくんっっ!!」
『………大丈夫です、大神さん』
だが―――
大神の声に答えたのは、さくらではなかった。どこか疲れたような、けれど明るい声。
「え………椿、くん?」
『はい』通信機から流れてくる声は、確かに椿の声だった。元気はそれほどないが、それでも明るい声で、椿は答えた。 『なんとか、地面に衝突する前に、さくらさんを守れました。………私、力を出せることができたみたいです』
「ほ、本当かい!?」
にわかには信じられない気持ちで、大神は呆然とした声で、呟いた。ようやく落ち着き始めた視界ごしに、叩きつけられた神武の姿を探す。 そこへ、椿の言葉を裏づける声が聞こえてきた。
『――お、大神、さん……』
「さくらくんっ!」驚愕に、そして嬉しさに、大神の声が震えた。「だ……大丈夫、なのかい?」
『は、はい………』答えるさくらの声は、どこか呆然としていた。『あの………いったい、何が起こったんですか?』
「それが………俺にも、よくわからないんだ………」大神の口調も、呆然としたものだった。 「けれど………どうやら、椿くんが助けてくれたらしい………」
その、数分前のことだった。
戦場の上空、翔鯨丸の中で、椿は戦場を見つめていた。通信機ごしに、神代たちの陽気な会話が聞こえる。
そしてもう一方、大神のほうでも、神代たちほどにのんきではないが、緊張に満ちてはいたが明るい会話が聞こえていた。
(機会があったら、この戦闘中に試してみてくれ―――)
耳の奥に甦る、大切な人、大好きな人の言葉。
魅力的な、切れ長の瞳が向けられ、その唇から語られた、言葉。
(君の力があるとないとじゃあ、全く違う。君が自由に力を使えれば、有利になれる―――)
(力の出しかた、制御のしかたを、是非とも覚えてほしい、試してほしいんだ!)
そして、椿が聞きたかった、言葉。椿という一人の少女を認めてくれた、言葉。大切な人の、大切な思いが込められた、言葉。
(頼む、椿くん!!)
その言葉が、椿の心を揺り動かす。椿の心の奥底から、力が満ちてくる。暖かな疼き、満ち溢れる想い。 それが椿の心を、暖め、そして豊かに広がらせていた。
(あの人が、私を信頼してくれる)
(私を、頼りにしてくれる!)
(答えたい、あの人の言葉に。そして、私の大切な、この人たちを守りたい!!)
そっと、小さな指を絡ませて、椿は祈りを捧げるように瞳を閉じた。それまでとは異なった、とても静かで、とても暖かい、とても豊かな力が満ちてくる。 穏やかな、柔らかな、暖かな力が、静かに波打ち、椿の体を包み込む。
(守ってあげたい、あの人たちを。私、あの人たちを守りたい)
そのとき。何か、得体のしれないものが、椿の何かに触れた。はっとして、椿は瞳を開き、戦場を見つめた。漂う、何やら不吉な風。奇妙に癇にさわる、穢らわしい、厭わしい風。 椿のあどけない顔が、不快そうにしかめられた。眉を寄せ、彼女はその存在を探して視線を巡らせた。
「………どうしたの、椿?」
彼女の様子に気づいたのか。翔鯨丸の操船を担当していたかすみが、不審そうな声をかけてきた。
「何だか、嫌な予感がするんです」短く椿は答えた。その間も、視線は戦場からはずそうとしない。食い入るように眼下を見つめながら、椿は言葉を続けた。 「とっても嫌な、気配。ものすごく、嫌な………不吉な、風………」
「風――?」
かすみが優雅に小首を傾げた、そのときだった。ふいに椿の様子が一変した。
「危ないっ!!」
鋭い声が、椿の小さな唇から漏れた。同時に、その小柄な体から、何か奇妙なものが放たれた。穏やかな、柔らかな光。とても純粋な、美しい光。
まるで包み込むように椿を覆ったその光は、まるでかき消すように次の瞬間、いずこへかと消えうせた。
そして、その直後だった。ドゴォォォン、という凄じい音ともに、さくらの神武が大地に叩きつけられたのは。
「なに、今のは!?」
強烈な音に、霞も慌てて視線をめぐらせた。病院の広大な敷地の一角、丁度玄関口あたりにたちこめる、不吉な爆煙。
『さくらくんっっ!!』
大神の悲鳴が通信機から響く。ぎくり、と、かすみが身を震わせた。さあっと美しい顔を青ざめさせて、かすみは思わず椿に振り向いた。 だが、かすみの瞳に映ったのは、へたへた、と床に座り込んだ椿の姿だった。幼い顔に、大量の汗がにじみ出している。 まるで全力疾走した後であるかのように激しく肩を上下させ、荒く息をついでいるが、どこかその顔は誇らしげであった。
「どうしたの、椿!?」
素早く自動操縦に切り替えて、かすみは椿へと駆け寄った。だが、椿は微笑みを浮かべて、かすみへと顔を向けた。 私は平気です、というかのように、一つ頷くと、椿は通信機に明るい声をかけた。
「………大丈夫です、大神さん」
奇妙なくらいにはっきりと、椿は言った。
「なんとか、地面に衝突する前に、さくらさんを守れました。………私、力を出せることができたみたいです」
あのとき。さくらの神武が大地へと叩きつけられる瞬間。
椿は、自分の体に満ちた力を、思わず放っていた。そして、彼女の視線が捕らえたもの、彼女がいままさに助けたいと願った神武へと、その光は優雅な曲線を描いて疾り―――優しく包み込むように、その中へと消えていったのである。
そして同時に、椿の脳裏に、思わずぎゅっと瞳をつぶり体を固くしているさくらの姿が浮かび上がり、その小さな体を、美しく澄みわたる清浄な光の翼が包み込むのが見えたのだった。
(―――!!)
椿の心に、驚きと、そして嬉しさがこみあげた。彼女は初めて、自分の力が顕現するのを見ることができたのだ。
そしてその力は、彼女自身の意志、彼女が守りたいと願い、使いたいと思って使ったものだったのだ。
そう。ようやく彼女は、自分自身の力を自分自身の意志で使うことができたのだった。
(できた――!)
(ようやく、できた!!)
(私、ようやく、できたんだっ!!!)
(ようやく力を、私の意志で、使うことができたんだっ!!!)
心の奥底から、止めようのないほどの歓喜がこみあげてくる。とても幸せそうな、嬉しそうな微笑が椿の顔を染め上げる。 瞳が熱くなり、椿は目をこすった。全身を倦怠感が包み込むが、とても満ち足りた表情で、椿は通信機に語りかけていた。
「私、力を出せたんです、大神さんっ!!」
「………何だ、いまの力は?」
病院の屋上。わだかまる闇にまぎれて佇み、さくらの神武をその力で弄んだ魔風は、神武に向かって放たれた光に思わず腕をかざして顔を背けた。 轟音と共に叩きつけた神武、確実に仕留めたはずの神武から立ち上る、清浄なまでの光輝。そしてそれに守られるようにして感じられる、人間の生気。
「ばかな………なぜ、生きている?」
思わず呆然とした声が漏れる。生きているものであるなら、まず間違いなく、あの攻撃に耐えられるものはいない。
少なくとも、人間には、あれほどの衝撃を受けて命を落とさないものは、いないはずなのだ。
不愉快そうに、魔風はうめいた。だが、気を取り直し、魔風は腕を振り上げた。穢らわしい風が、耳障りな音を立ててひからびた腕にまといつく。
「………では、これはどうかな、帝國華撃團よ?」
再び、魔風はその力を放った。ごうっ、という唸り音とともに、暴力的な風が、心配そうに桜色の神武をのぞき込んでいる大神たちの神武に襲いかかった。 再び軽やかに、神武が巻き上げられる。風に翻弄され、木の葉のようにめまぐるしく舞い上がる。
だが―――
『光翼付与!』
天使のように澄んだ声が、戦場に玲瓏と響き渡った。
「な、なんだとっ!?」
魔風の口から、まぎれもない驚愕の叫びがほとばしった。瞳にはめ込まれた勾玉が、黒ぐろとした光を放った。
それまで翻弄されるがままに空中を舞っていた神武が、まるで羽根が生えたかのように、風に乗り始めた。姿勢を立て直し、剣を、長刀を、機銃を構える。
武骨な赤いレンズが、ぴたり、と魔風を捕らえた。殺気が、まるで矢のように魔風へと突き刺さった。
『貴様かっ!!?』
強烈な殺気を込めた声。純白の神武が、鷹のようにまっしぐらに魔風へと襲いかかってくる。清浄なまでに青い霊気が立ち上る。二振りの剣が、まばゆい光に包まれた。
『狼虎滅却・無双天威!!』
きらめく光の軌跡。襲いかかる、天の光。浄化の光。
「うおっ!!」
あやうく魔風は、身を躱した。常に彼の身を取りまいていた風が、間一髪で消滅から彼を救った。持てる力の全てを使って、魔風はその場から数十メートル飛び離れた。
屋上から病院の建物と建物の間へと移動する。
だが、それでも躱しきることはできなかった。ぼろぼろのマントの一部が、悲鳴と共に消滅した。さらにかすめただけの光は、魔風の右腕を半分ほど溶かした。
強烈な痛みが全身を駆け巡り、悲鳴が口をついてもれる。苦痛と驚愕と憎悪の余り歯ぎしりしながら、魔風は屋上に降り立った三機の神武を見上げた。
「おのれ、帝國華撃團っ! 許さんぞっ!!」
強烈な殺気、憎悪と怨嗟の籠った声で、吼えるように魔風は叫んだ。だが、怒りの余りに我を忘れることはなかった。魔風はさっとぼろぼろのマントを翻し、身を風の中へとまぎれこませた。
生身のまま、正面から神武と戦うなどという愚挙を侵すほど、魔風は愚かではなかったのである。
そして、まだ戦いは始まったばかり。直接刃を交える段階ではなかったのだ。嘲るように魔風は笑声を発した。
「ゆけい、愚鈍の死人よ! 病魔の群れよ!! 俺を傷つけた報いを、そやつらの屍で贖わせるのだっ!!」
魔風の姿が消えうせる。それと同時に、ひどく怯えた悲鳴が大神たちの耳に届いた。
『キャーッ! いやーっ! お兄ちゃーんっ!!』
「アイリスッ!?」
―――病院内、待合室へと瞬間移動したアイリスは、そこで困惑した顔で周囲を眺めていた。軽く、身じろぎする。
とたんに、ピシッピシッと音を立てて天井にヒビが走り、ぱらぱらとかけらがこぼれ落ちていく。
「………こわしちゃ、だめだよね、やっぱり」
神武の背丈は、アイリス機でさえも三メートル以上ある。瞬間移動したと同時に頭がつっかえて、アイリスは身動きが取れなくなってしまっていた。 カメラを回して周囲を確認しても、視界に映るものは無人の待合室。患者はおろか、医師や看護婦の姿もない。 彼らが今どこで何をしているのか、無事なのかどうか。それを確かめるためには、アイリスは神武を降りるしかなかった。
「―――なんだか、イヤな空気………」
不安そうにアイリスは呟いたが、それでも、彼女は勇気を振り絞って神武から降り立った。大好きなお兄ちゃんの言葉通り、医師や看護婦、患者たちを見つけ出し、助け出さなければならない。 それができるのは、瞬間移動ができ、なおかつ霊力が他よりも抜きんでており、生存者の居場所が分かる彼女しかいなかった。
「こっち、かな………」
円らな瞳を閉じ、かすかに漂う生気を頼りに、アイリスは病院内を歩き出した。窓から差し込む外の光でかろうじてぼんやりと浮かび上がる通路をとことこと進む。 闇と静寂に満ちた病院内は、不吉なほどに気味が悪く、黒ぐろと凝った闇からいつ何が襲いかかってくるのか、判然としない。 不安と恐怖が、幼いアイリスの顔に落ちかかる。だが、ぎゅっと小さな唇を噛み締めて、アイリスは蒼い瞳を周囲に向けながら、進んでいった。
「んーと、こっちに二人。こっちに………五人、かな?」
曲がり角で、ようやく生者のものらしい気配を感じ取ったアイリスは、ほっとした表情で呟いた。奥の部屋に、人間のうめき声らしきものが聞こえる。そして、左側の治療室らしき場所には、何かが動く気配。 どちらに先に行こうかしばし迷って、アイリスは愛らしげに首をかしげた。
「………やっぱり、大勢いるほうが、いいかなあ?」
左側の部屋へと向き直る。小さな手を、殺風景なドアのノブにかける。そのときだった。
「ウォォォォッッ!!」
なにかひどく穢らわしく禍々しい咆哮が、ドア越しにアイリスの耳に届いた。思わず飛びのいたアイリスの目の前で、ドアが弾け飛んだ。 ガッ、と、何か棒のようなものが、暗闇から突き出される。ひどくただれた腐臭がアイリスの鼻孔をついた。
「………!!」
声もなく、アイリスの顔が蒼白になった。悲鳴さえ出すことができなかった。蒼い瞳が、恐怖の余り開き切った。
棒切れのように、ただれた腕。まるで風化した木乃伊のような、かさかさの肌と、浮き出た血管。そしてその肌を食い破って蠢く、無数の蛆。
包帯のようなものが、垂れ下がる。その根元にある、人の形をしたもの。醜い肉を半分以上露にした、人間の姿。崩れた肉の間から白い骨さえ見てとれる。
落ちくぼんだ眼窩から目玉がこぼれ、ゆらり、ゆらりと左右に揺れる。
それは、悪夢そのもののような、光景だった。けして幼い少女が見てよいものではなかった。
のろのろ、とした動きで、そのうちの一体が、アイリスに向かってその棒切れのような腕を伸ばした。垂れ下がった目玉がアイリスのすぐそばで回転し、ぴたり、と静止した。その瞳孔が、まるで彼女を見つめるかのようにアイリスに向けられた。
「――イヤあああああぁぁぁぁぁっっっっ!!!」
悲鳴がアイリスの小さな唇から迸りでた。無我夢中で、少女は駆け出した。もはやなにも彼女の視界には映らなかった。いや、彼女自身がそれを拒否していた。周囲を見ることを、拒否していた。 ぎゅっと固く瞳をつぶり、アイリスは必死になって廊下を走った。無意識のうちに小さな体から霊力がほとばしる。空気が電化し、火花が散る。 のろのろと動き出した死人たちが、その空気に触れる。感電したかのようにぶるり、と身を震わせたものの、かつて人間だったものたちは、動きをとめることなく、アイリスを追って廊下を歩き出した。
「いや、いや、イヤあああぁぁぁぁっっ!!」
恐怖の余りアイリスはパニックに陥っていた。神武のある待合室に向かっていたのかもしれなかったが、なぜか彼女は階段を駆けのぼり、いつの間にか屋上に続く廊下に出ていた。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん………!!」
無意識のうちに守護を求めて、アイリスはその名前を繰り返していた。もしかしたら本能的に、彼女の守護神がその場所にいることを感じ取ったのかもしれなかった。 とにかくアイリスは、正確に大神たちが降り立った屋上を目指して駆け出していた。
「いや、いや、いやいやいやっ!! お兄ちゃん、お兄ちゃん………お兄ちゃーんっっっ!!」
『アイリスッ!?』
その声は、彼女の求めていた声だった。アイリスの蒼い瞳が、狂おしいほどの希望を求めて開いた。涙でぐしょぐしょになりながら、アイリスは、屋上のドアを電撃で壊した。 そして視界に映った純白の守護神へと、一目散に駆け寄った。
「お兄ちゃぁぁぁんっっっっ!!」
「アイリスッッ!」
神武のハッチを開け、大神は地面へと飛び降りた。駆け寄ってくるアイリスが異常なまでに怯えているのを見てとったのである。 彼女を落ち着かせるためには、神武ごしではなく、大神自身が彼女を受け止めてやる必要があった。それを本能的に大神は悟っていたのである。
「うわぁぁぁぁっっんっっっ!!」
絶叫に近い泣き声をあげて、アイリスは文字通り大神の胸の中に飛び込んできた。ガタガタ、と小さな体が震えている。 どこにそんな力があったのか、と思うほどに、必死になって大神に抱きつく。小さな顔がぐしゃぐしゃにひきゆがむ。
「お兄ちゃん、お兄ちゃーんっ!!」
『―――いったいどうしたんですの、アイリス!?』
むっとした声が、菫色の神武から聞こえてくる。だが、油断なく構えていたマリアが、アイリスに代わって答えた。
『あれを見なさい、すみれ』
『え―――?』
ぎゅいん、とカメラを回し、その視界に対象物を映らせた菫色の神武が、瞬間、硬直したように動かなくなった。
壊れたドアの向こうに蠢く数体の人間。その姿を確認するまでもなく、生きている人間ではないことが、瞬時にすみれにもわかった。美貌をひきつらせて、すみれは思わず神武を後ずらせた。
「あ、あれは………」
『………どうやら、この病院にいた人のようね』
冷静な声がすみれの声に答える。だが、その声の主とて平静でいたわけではなかった。油断なく神武を構えさせつつ、マリアも顔を強ばらせていた。 だが、アイリスやすみれのように恐怖に怖じ気つくことはない。むしろ怒りがふつふつと湧いてくる。
「――許せないな。あれは」
マリアの気持ちを代弁するかのように、大神が呟いた。切れ長の瞳が鋭い殺気を込めて、ゆらゆらと屋上に出てこようとしている死人たちを睨みつけた。 そっと、泣きじゃくる幼い少女を、後ろに下がらせる。
「すみれくん。アイリスを頼む」
『――わかりましたわ』
神武のハッチが、かすかに開く。中にいたすみれが、アイリスに優しく微笑みかけた。
「アイリス、こちらへ。お兄ちゃんの邪魔になってしまいますわよ?」
「ヒック、ヒック………ん………」
しゃくりあげながら、アイリスはこくん、と頷いた。ふらふら、と、力なくすみれのもとへと歩み寄る。優しくすみれはアイリスの小さな体を抱き上げた。 母親のように、愛しそうにその金色のふわふわした髪を撫でる。
「もう、大丈夫ですわ。安心して、アイリス」
「ふ……わぁぁぁ………すみれぇぇ!!」
大声をあげて、アイリスはすみれにかじりつくように抱きついた。小さな背中をさすってあげながら、すみれは大神へと視線を向けた。
「少尉。アイリスはわたくしに任せてくださいませ。それよりも、あの方々を、早く楽にさせてあげてくださいな」
「わかっている、すみれくん」力強く、大神は頷いた。そして、神武の中から二振りの愛刀を取り出した。切れ長の瞳が真正面から、ようやく屋上に出てきた数体の死人たちを捕らえた。 「すぐに楽にしてやる。そして――君たちの無念は、必ず俺たちが、晴らしてみせる!!」
「フォォォォ!!」
まるで、大神に答えるかのように、その大きく開いた口から咆哮をほとばしらせ、死人たちはゆらゆらと大神たちへと近づいてきた。 それをひた、と見すえた大神の全身が、青白い輝きに満ちる。その端正な口元が、裂帛の気合を迸らせた。
「狼虎滅却・癒穢浄魂(ゆぎじょうこん)!!」
かつて、屍炎の魔晶甲冑を斃した、そしてその甲冑に呑み込まれていた無数の死者の怨念を浄化させた、技。椿の力によって目覚めた、哀れな死者を葬送する、救済の技。
二振りの剣が、優雅に舞い踊る。美しい曲線を描いて、刃が死者の体を無尽に切り裂く。そして同時に放たれる清浄な霊力が、その意志に反して地上へと縛りつけられた魂を浄化させる。
「オオオオォォォォォ!!」
遠ぼえのような声が、死人の口から流れ出た。その声は、まるで歓びの声にも聞こえた。きらびやかな美しい光が、死人の体を包み込んだ。そして瞬時にその穢れた体が浄化された。
さらさら、と、砂のようにその体が崩れ、そして、キラキラ、と金粉のような美しい光を放って、いずこへかと消えうせていく。
その光が失せた後、以前から何も存在していなかったかのように、そこには何の痕跡も残されてはいなかった。ただ、清浄な風が一陣、戯れるように吹き過ぎ、大神の髪を揺らした。
「――隊長、今のは……」
「なんて――神々しいのでしょう……」
思わずため息をついて、マリアとすみれが声をかける。二人の神武を振り返り、大神はかすかに笑みを浮かべた。
「椿くんの力だよ、おそらくは」当然のことのように、大神は驕ることなく答えた。「さきほどの敵を斬ったときも、椿くんの力を感じた。今も、おそらくは椿くんの力が関与しているのだろう………」
「信じられませんわ……」
呆然と呟き、すみれは上空にいるであろう翔鯨丸を探して上を見上げた。だが、夜闇にまぎれてその巨大な姿はすみれの瞳には映らない。 大神も同様に見上げながら、呟くように言った。
「椿くんの力――もしかしたら、あれこそ、神の力そのものなのかもしれないな………」
「はあ、はあ、はあ………」
肩を上下させて、激しく椿は息継ぎをしていた。その顔色は、やや青ざめている。だが、同時に、何とも言えないほど誇らしげな微笑が彼女の顔に広がっていた。
「大丈夫なの、椿?」
心配そうにかすみは椿の様子を見ていた。そっと手巾を取り出して、その顔に吹き出ている汗をぬぐってやる。 その穏やかな顔を見つめ返して、椿はにっこりと微笑んだ。首を振って、元気良さそうに答える。
「だ、大丈夫、です、かすみさん」
息継ぎが荒いため、言葉が切れ切れになる。だが、その顔は眩しいほどの輝きに満ちあふれていた。嬉しそうな笑顔で椿は言葉を続けた。
「それに、私、力が出せるんです。みなさんの力に、なれるんですから! こんなことでへこたれちゃいられませんよっ!」
「でも、少し休みなさい、椿。それ以上は、あなたの体を悪くしてしまうかもしれないわ」
「でも………!」
反論しかけた椿の声を、明るく朗らかな声がさえぎった。
「だめよ、椿ちゃん。かすみさんの言う通り、少し、休まなくっちゃ!」
「由里さん………」
茶色の瞳が、栗色の髪の女性を認める。小作りの顔に明るい笑顔を浮かべて、ブリッジに入ってきた由里は言葉を続けた。
「いい、椿ちゃん。まだ戦闘は始まったばかりなのよ? ここで疲れてちゃ、いざというときにどうするの? 出し惜しみしろ、とは言わないけど、少し休んで危急時に備えなくちゃ、ね?」
「……でも……」
「それに、神威の調整も完了したわ。じきに神代さんたちも大神さんのところに駆けつけてくれるから!」
「完了したの、由里?」
問いかけるかすみに、由里はかすかに複雑そうな微笑で頷いた。
翔鯨丸に運びこまれた神威は、風杜の手によって整備、改造が引き続き行われていた。
そして、風組の中でも優秀な整備士でもある由里は、花組の各神武を地上へと降ろした後、不服そうな様子ではあったが、風杜を手伝ってその作業を早めていたのである。
「最終調整は完了。もうすぐカタパルト設置も完了するわ」整った美貌に真剣な表情を浮かべて、由里は航法席へと歩み寄った。 「すぐに神代さんたちの所に向かいましょう、かすみさん」
「わかったわ」かすみも頷いて、操船席へと戻る。「由里、ナビゲートよろしく」
「オーケイ」
てきぱき、とした様子で、由里がモニターを見ながら指示を出す。巧みなナビにより翔鯨丸はその巨体を神代たちのいる場所のすぐ真上に寄せた。
「椿ちゃん、援護の砲撃。俯角75度、旋回左舷10時20分」
「了解」
席にもたれていた椿は、その声に身を起こして、砲撃用のサイトを起こした。指示された角度に砲塔をめぐらせる。
「砲撃!」
ドォン、という音ともに爆煙が上がる。周囲の魔物たちが吹き飛んだすぐその後に、由里の指示が飛んだ。
「かすみさん、取り舵7度。左舷第五カタパルト、開放」
「取り舵7度、了解」
「着弾座標固定。カタパルト誤差修正。神威射出!!」
「射出します!」
翔鯨丸後方、斜めに配置された霊子甲冑射出器が、盛大な蒸気煙とともに神威を打ち出す。ドォンという音ともに菖蒲色の神威が大地へと降り立った。
「よろしくお願いします、神代さん」祈るように椿は手を組んだ。「私も、できるだけ力を貸しますから!」
あわただしく兵士が行き交う、陸軍省。中央部に立つ本省の屋上、大日本帝国の国旗と陸軍の軍旗がひるがえるそこに、少年と少女は立っていた。
不遜なまでの笑みを浮かべる、浅黒い肌の少年。ぼさぼさの髪を揺らし、楽しそうにその黒曜石のような瞳を隣地の病院へと向けている。
そしてその隣に立ったのは、黒い天鵞絨のような布を一枚身に巻きつけた、美少女。さやさやと風になびく美しい黒髪の合間に浮かぶ、雪のような白い肌、澄み渡るほどに清浄な輝きを灯す薄茶色の瞳が、痛ましそうに、つらそうに戦場を見つめる。
そう、それは、邪介と四葉だった。
敵である陸軍のお膝元どころか、それこそ文字通り頭の上に、彼らは傲岸不遜にも、降り立っていたのだった。
「………さて、どうみる、陸太郎?」
少年の唇が開く。問いかける声は、隣に立つ美少女に向けられたものではなかった。だが、それに答える声は、確かにその美しい薔薇色の唇から流れ出た。
『――どうやら、魔風以上の力を持つものが、いるようですね』
麗しいほどの美声。耳に心地よい響きをもつそれは、少女のものではなかった。美しくはあったが、それは男の声――陸太郎の声だった。
『神の力に等しいもの――驚きましたね。神の力を顕現させるほどの巫女が、敵にはいるらしい』
「あるいは神そのもの、かもしれないよ?」
『御冗談を』かすかに笑いを含んだ声。だが、少女の顔は強ばったまま、微動だにしない。ただその唇だけが、言葉を紡ぐ。 『まあ、私たちのようなものもいますから、断言はできませんが――』
「確かにね」楽しそうに、邪介は笑った。そして、悪戯そうに隣の美少女を見る。 「それにしても、君がここまで協力してくれるとは思わなかったよ、四葉。まさか、陸太郎の依代(よりしろ)になってくれるなんて、ね」
「――私は、ただ、罪滅ぼしがしたいだけです」
震えるようなかすかな声が、可憐な唇から漏れ出た。それは陸太郎のものとは異なる、美しくも悲しげな少女の声だった。薄茶色の瞳が、邪介に向けられた。
「私が………お方様の意志に抵抗できるほどに、強ければ………あなたがたのような高位の存在を縛りつけることなど、させはしなかったのですが」
「君には無理だよ」
残酷なまでに明快に、邪介は否定して見せた。少女の顔が強ばるのを楽しそうに見つめる。
「だって、俺たちでさえも、彼女には勝てなかったのだから。彼女の怨念、執念には、ね」
「………」
「でも、まあいいさ。近いうちに必ず、俺と陸太郎は、本来の名と存在を取り戻して見せる。君が気に病むことはないさ」
「………」
「それよりも、陸太郎」口調を変えて、邪介は少女――いや、少女の中に同居している友人へと語りかけた。 「魔風は、君の求めるものだという確証は、やっぱりまだできないかい?」
『申し訳ありませんが、まだです』わずかに口惜しそうな声が、少女の唇から発せられた。再び陸太郎が四葉の唇を借りたのである。 『あの、マント。病魔を巣くわせているあのマントを剥がしさえすれば―――はっきりとわかるのですが』
「それは難しい注文だね」
腕を組み、考え深そうに眉を顰めて邪介は首をひねった。
「下手に手を出すと、魔風自体が、彼ら帝國華撃團の手にかかって消滅してしまう。………何としても君は、自分で始末をつけたいんだろう?」
『もし、魔風が私の求めるものならば』
きっぱりとしたいらえ。それは、何か非常に思い詰めたような、自分の存在価値を、ただそのことだけに求めているかのような声だった。
かすかに苦笑して、邪介は再度戦場へと視線を向けた。
「まあ、あせることはないさ。今度を逃しても、魔風が生きていれば、また機会があるし。―――それにね」ふと、悪戯そうな微笑が邪介の顔に浮かんだ。 「機会がなければ、作ればいいのさ。そのために四葉、君に協力を求めたのだから」
「………」
少女の白い顔は固いままだった。美しい光を宿すその薄茶色の瞳を、少女は戦場へと向けただけだった。