「機関室要員は機関の現状維持を! ……右舷空挺ポッドの現在の乗組員収容数は?」
「現在10人まで収容。残りは8名です」
「左舷空挺ポッドの射出完了! なお、地上までの推定針路上には降魔が5、6匹ほどいますが、何とか着体できそうです」
「後部砲塔要員、すべて右舷空挺ポッドに収容しました。残りは機関要員のみです」
報告が飛び交いせわしなく乗員が行き来する。どの乗員も、必死の形相であり、恐怖に彩られた表情のまま、自らの仕事をこなすことで不安からのがれようとしていた。
「空挺ポッドに亀裂があります!右上部外壁、破片が刺さっています!先の爆発で損傷したかと思われます」
「外壁の状況は?そのままで出られる?」
「亀裂は3カ所。外殻のみで、内部隔壁には達していませんので、応急修理で足りるかと」
「至急修理を。2分以内で済ませなさい。もう時間がないわ」
「了解!」
きゅ、と、椿は自分の体を抱きしめた。心の奥底から、押さえても押さえ切れない恐怖が湧き上がる。唇をかみ、目を閉じていないと、悲鳴をあげてパニックに陥りそうだった。がくがくと震える体を何とか抑え、ちらり、と隣を見た。
「ポッドの射出準備完了!」
「よし。機関要員のうち、第一班をのぞいて全員搭乗。第一班は、すべての機関の出力を最大に固定。のち、コントロールをブリッジ、艦長席へ!!」
てきぱきと指示を与えているのは、榊原由里である。明朗快活を絵に描いたような娘であり、モデル顔負けの容姿であるが、戦闘服に身を固めた現在は、超弩級空中戦艦“ミカサ”の航法士兼総合管制官として、ミカサの全要員を束ねる立場にある。数分後には行動不能に陥ると思われるこの状況下でもなおその瞳には不安や恐れといったものはなく、困難を正面から見すえて立ち向かう者の断固たる決意のみがあった。よく通る声が、次々と指示を伝え、救命ポッドとなった艦載用の空挺ポッドへの乗員の割り当てと射出作業、および機関の活動維持作業を、見事な手際でさばく。その手腕は、歴戦の指揮官と言っても十分通じるほどであり、作業にあたる乗組員たちの不安を和らげ、希望を見いだすのに効果を上げていた。
「――怖い、椿ちゃん?」
自分を仰ぎ見ている少女の視線に気づいたのか、由里はニコッと微笑んで、年下の少女に顔を向けた。
「はい……」小さく、椿はうなづいた。「由里さん――よく、平気ですね。尊敬しちゃいます」
「平気、てわけでもないけどね」
肩をすくめ、ちら、と艦内を見回して、指示漏れがないかをチェックしながら、由里は答えた。
「ここでパニクってても何にもならないもの。今自分がやれることをやってれば、何とかなるわ、て、思ってるだけよ」
「――由里は単なる楽観主義なだけでしょ?」
物静かな、落ち着いた声が割って入る。非常事態に騒然としている中、場違いなほどにゆっくりとしたペースで歩いてくる人物を見て、椿は、ほっ、と安心した声をかけた。
「かすみさん――大丈夫でした?」
「大丈夫よ、椿」優しい微笑を浮かべ、ミカサの操舵士兼機関士である藤井かすみは頷いた。そして由里へと向き直り、手短に状況を報告する。
「全針路は米田長官の言うとおり、聖魔城に向けて固定したわ。それと、艦内にはもう誰も残っていないわ――長官を除いて、ね」
「そう……」
うつむいて、しばし由里は沈黙した。美しい貌に苦悩の色が浮かんだ。
この空中戦艦ミカサは、現在、魔物の群れに囲まれたまま、聖魔城と呼ばれる敵の本拠地へと突進している。そして、この艦の艦長であり、帝国華撃團の総司令官である米田一基中将は、現在ブリッジでただひとり、全補助機関と全砲塔をコントロールして、ミカサの乗組員の脱出の時間を稼いでいる。そして――長官はそのままこのミカサを――聖魔城へと突入させるつもりなのだった。
聖魔城。
葵叉丹――いや、今では悪魔王サタンと呼ぶべきだろう。徳川幕府の復活を夢見た天海をそそのかして六破星降魔陣を完成させ、自らの眷属である降魔を召喚し、帝都はおろか全世界の破滅をもくろんだ、まさに魔王である彼が太古より復活させた、魔宮殿。それが、聖魔城であった。
現在、その聖魔城では、帝國華撃團花組が、死闘を繰り広げている。微笑って戦いに赴いていった彼女たちの幾人に、また会えるだろうか――そう思わせるほどの、文字通り決死の戦いが、おそらくあの中で繰り広げられているのだ。その援護のため、米田はこの超弩級空中戦艦ミカサを発進させ、降魔部隊のほとんどをここにひきつけている。しかし、それもあと少ししかできない。聖魔城の霊子砲――生きとし生けるもの全ての生命力を奪い取り、大いなる破滅をもたらす魔兵器が、その不吉な姿を現したのである。霊力と呼ばれる、人間をはじめとする全ての生命体の根底にあるエネルギーを集め、開放すれば――おそらく帝都のほとんどは滅び去ることになる。それを阻止せんと、米田は最後の決断を下したのだった。
すなわち――ミカサを霊子砲にぶつけ、破壊することを。
それに先立ち、米田は、ミカサの全乗組員の脱出を指示した。自分以外の全ての乗組員をミカサから脱出させ、自らはミカサとともに霊子砲を破壊する。その決断をもちろん全員がやめさせようとした。だが、長官の決意は固く、かすみたちは泣く泣く、長官の指示通り、全員の脱出の指揮を取っているのだった。
「――外壁の応急修理、完了しました!また、機関要員を含む全ての乗組員全員、ポッドに搭乗完了しました」
報告が、三人の娘たちの沈思を妨げた。くい、とあごをあげ、それまでの苦悩をかき消して、由里はかすみと椿にうなずいてみせた。
「わかったわ。――さあ、あたしたちも行きましょう!」
「ええ」
「はいっ」
あわただしく頷いて、三人はポッドへと乗り込んだ。すぐにハッチが閉じ、射出のための操作が行われる。その間に三人はポッドの座席にハーネスで体を固定した。
「準備完了!」
「了解!」
短く会話が交わされたとたんに、がくんという衝撃が、ポッドを揺り動かした。爆発ボルトが作動し、ポッドが射出されたのである。一瞬床が消失したかのような浮遊感を感じ、椿はぎゅっとベルトにしがみついた。だがそれもすぐに消え、ポッドは落下を始める。
「――何とか無事に脱出できたようね」
軽く息をついて、由里がつぶやいた。だが、その表情には暗いかげりがある。ただひとりミカサに残してきた米田が気になるのだろう。それは椿も同じ気持ちだった。思わず、細くくりぬかれたポッドの窓から、外を見る。
「――由里さん、かすみさん!!」
悲鳴が椿の口から漏れた。
「霊子砲が――!」
わずかに見える地平に横たわった不気味な城の上部に、不吉な青白い巨大な光が収束し始めていた。生命力を糧とした魔の砲が、ゆっくりとそのあぎとを開いてゆく。そしてそのあぎとめがけて突進していく、巨大な鉄の塊――
「ミ――ミカサが!」
かすみの悲鳴が椿の耳朶を打った。全身に蝿のように魔物をまといつかせ、あちらこちらから黒ぐろとした煙とオレンジ色の炎を吹き上げながら、ミカサが霊子砲へと向かっていく。青白い燐光をまといつかせた魔砲が、その不吉な輝きをどんどん増し、そして――爆発するかのように、その力を解放する!
「長官!!」
霊子砲から放たれた一撃は、ミカサを真正面からとらえていた。まばゆく光に一瞬、ミカサの巨体が包まれる。だが、すぐにミカサは光をはじき飛ばすようにして現れた。
「――霊子核機関のエネルギーを解放したんだわ」
呆然とした様子で、由里がつぶやいた。霊子砲と同じく、生命体の霊力を吸い取り、駆動する霊子核機関を、ミカサも搭載している。その機関に蓄えられたエネルギーを解放することによって、霊子砲のエネルギーをはじいたのである。だが――エネルギーの絶対量は、違い過ぎていた。はじき飛ばした霊力の光が、曲線を描いて、ミカサの体に突き刺さる。炎が吹き出し、黒煙が舞う。遠目からでもわかるくらいに、ミカサを構成するものの一部が崩れ落ちていく。
だが、それでもなおミカサは突撃をやめようとはしなかった。霊子砲の砲門へと、その巨体はそれ自体を武器として突撃していく。そして――
思わず椿は両手で顔を覆った。低く鈍い爆発音が耳に届き、同時にポッドが揺れ動いた。目が熱くなり、体の奥から何かがこみあげてくる。今まで感じたことがないような喪失感が襲いかかってくる。がくがくと振動が伝わってきたが、それが自分自身の体の震えだと気づく余裕は、椿にはなかった。
「長官……」
嗚咽混じりのつぶやきが聞こえる。ポッド内に満ちた沈黙は、闇よりもなお暗く悲しみに満ちたものだった。だが、彼らに悲しみにくれる時間を、状況はほんの僅かしか与えてはくれなかった。
いきなり、強烈な衝撃が右側から襲いかかってきた。ハーネスベルトが細い体に食い込み、思わず椿は小さな悲鳴を上げた。つづいて下から、突き上げるような衝撃が来る。必死になって座席の横にあるひじかけにしがみついた。
「――どうしたの!?」
普段からは考えられないような厳しい声で、かすみが訊ねる。
「り、霊子砲からの光が、いくつかこのポッドに――!」
「何ですって!?」
慌てて窓から外を見たかすみが、小さくうめいた。沈黙した霊子砲から放たれていた霊力の光が、制御を失ったかのように、空中を乱舞しているのだ。その光は味方であるはずの降魔にまで襲いかかり、消滅させている。慌てふためいて逃げ惑う降魔たちは、かつて自分たちが恐怖し嫌悪していた邪悪な存在ではなく、死を恐怖し災厄から逃れようとしている一つの生命体にすぎなかった。
「主力機関の出力が低下!補助機関を起動します!」
「右上部の翼のフラップをやられました。旋回性能が60%ダウンしています」
「あとどれくらい飛べるの?」
「揚力は確保しています。全機関が停止しても、何とか地上には降りられるかと」
そう操縦士が答えた瞬間だった。叩き付けるような衝撃が、ポッドに襲いかかった。同時に内部に猛烈な風がうねる。空中に強引に引っ張り上げられるような感覚が椿を襲った。耳がキンとつっぱり、頭の奥が痛み出す。呼吸をしようと口を開こうとしたが、うねり狂う突風に、ほとんど開くことができなかった。ポッドの上部装甲がはがれ、ポッド内の空気が外へと吹き出していく。損傷していた右上部外壁の亀裂が、先刻の霊力の襲撃によって大きくなり、ついにはがれ落ちたのである。
だが、災厄はそれだけでは終わらなかった。外壁に走った亀裂越しに椿が見たものは、自分たちめがけて襲いかかってくる霊力の塊であった。
「きゃああああああっ!!」
椿は思い切り悲鳴を上げた。つもりだった。だが、ポッド内を荒れ狂う空気の塊は、ほとんど瞬時に椿の悲鳴をかき消してしまった。固く目を閉じ突風に耐えているかすみや由里の耳にも、すぐ隣にいる椿の悲鳴は届きはしなかった。
(助けて、かすみさん!由里さん!長官!!)
必死になって椿は助けを求めた。その間にも霊力の光は、どんどん大きくなってくる。不吉な燐光が、その中心にちらついた。まるで悪魔が嘲笑うかのように、椿には思えた。
(誰か――助けて、誰か!――大神さん!さくらさん!花組の皆さん!)
ぎゅ、と、椿は目をつむった。その脳裏に、暖かく優しい微笑を浮かべた女性の姿が、突如、浮かび上がった。柔らかなまなざし、常に微笑をたたえていたくちびる。しとやかに、あでやかに、慈母のごとく皆を見守っていた、女神のような女性――
(――助けて、あやめさん!!)
心の中で思い切り叫んだとき――
ふと、椿は、何か奇妙な感じを覚えた。暖かい何かが自分を包み込み、そして、自分の裡へと染み込んでいくような、不思議な感じ――そう、まるで、ずっと前に忘れていたもの、知らず知らずのうちに手放してしまった大事なものが、ようやく自分の中にまた戻ってきたかのような、何ともいえないくらいに安心できる何かが自分に宿るのを、椿は感じた。
(――あたし、死んじゃったのかな?)
奇妙に安らいだ気持ちになって、椿はぼうっと考えていた。まるで嘘のように恐怖がなくなり、ただ、満ち足りた安心感が彼女を包み込んでいた。そして自分の中に宿ったその中に、椿は、誰かがいるのを感じた。よく知っている誰か――
(――だれ?――あなたは、だれ?)
その存在が微笑んだように椿には思われた。そして、とても大切そうに、何か光るものを、その存在は椿に向かって差し出してきた。まばゆく光のような美しい金色の装飾によって縁どられた、丸いもの。きらきらと光を散らせるその奥には何かとてつもない力が渦巻いているのが、椿には感じられた。
(――鏡?)
差し出されたそれを、思わず受け取って、椿はようやくそれが鏡であることに気づいた。金色の鳳凰の翼を模した装飾に大切にはめ込まれた青銅色の鏡。その鏡面に椿自信の顔が映る。そばかすが散る、まだ幼い顔だちの少女の顔。黒目がちの大きな瞳が、まっすぐに自分を見つめ返してくる。あどけない顔に戸惑ったような表情が浮かんでいる。その表情のまま、椿は、鏡を差し出してきた存在に問いかけようと、視線を戻した。だが、いつの間にか、椿の前にはだれも――いや、何も存在していなかった。はるかな彼方まで広がっているかのような、薄暗い空間のただ中で、椿は呆然として鏡を抱きしめていた。そして、ふいに、意識が遠のいていった。
「――き、――ばき――つばきっ!」
体を揺すられて、椿は目を開けた。ぼんやりとかすむ視界の中に、赤い帽子をかぶった誰かが浮かんだ。小さくうめいて、ぎゅっと目をつぶる。再び目を開けたとき、椿は、目を赤く腫らした由里がのぞき込んでいることに気づいた。
「――あ――由里、さん?」
「よかった、椿ちゃん。気がついたのね?」やや泣き笑いの表情で、由里は椿の背に腕を回した。「大丈夫?立てる?」
「――あ、はい」
椿は頷いた。由里に手伝ってもらって、上体を起こす。体を座席に縛りつけられていたはずのベルトは、何かに引き裂かれたような断面を見せて力なくたれ下がっていた。そのため椿は、座席の足元、ポッドに入り込んだ海水にちょうど下半身を浸す形で倒れていたのである。上体を起こして改めて周囲を見回す。
おだやかな日差しが、淡く室内を照らしていた。ちゃぷちゃぷと愛らしい音を立てて、海水が通路にさざ波を立てている。くるぶしまで水は来ていたが、それ以上は室内には流れ込まなかったようだった。散乱した資材が波に揺られて浮いている。上部に開いた亀裂から差し込む光が海面に反射して、幻想的な光の芸術を描き出していた。
「――みんなは?かすみさんは?」
「大丈夫。皆無事だったわ」
不安そうな椿の問いかけに、由里は笑顔で答えた。
「今、かすみさんたちは、外で救命ボートの用意をしているの。何人かけがをしたけど、たいしたことはないみたい。ほんと、奇跡よ」
「よかった――!」
ほっと安堵の吐息をつく椿だったが、ふと、胸にしっかりと何かを抱きしめていることに気づいた。ゆっくりと腕をほどき、のぞきこむ。そこには、小さな鏡が、まるで以前からそこにあったかのように、椿の腕の中で太陽の光を反射して輝いていた。金色の鳳凰の装飾。鈍く光る青銅色の鏡面――それはまさしく、意識を失う寸前に椿が見た、あの鏡であった。脈動するように、その鏡の中に、何かが息づいているのを椿は感じた。
「――なに、その鏡?」不思議そうな表情で、由里が椿にたずねた。「そんなの、椿ちゃん、持ってたっけ?」
「え――い、いいえ」
かぶりを振って、椿は小首をかしげた。確かに、ミカサから脱出する際には、こんなものは椿は持っていなかった。ミカサに搭乗する時にも、私物などを持ち込んだ覚えはない。由里やかすみ、ほかのミカサ搭乗員にしても、このようなものを持ち込むような者はいないはずだった。
だとしたら――やはりこれは、あの時、不思議な存在から手渡された鏡なのか――それ以外には、椿には考えつかなかった。
「由里さん。私、これ――」
椿が言いかけた時、ふいに、歓声が聞こえた。ぱちくり、と椿が目を見開く間に、あざやかな身のこなしで由里が亀裂の向こうに身を乗り出した。
「なに?どうしたの?」
「花組が――大神さんたちが、サタンを倒したのよ。勝ったのよ、私たち!」
駆け込むようにして、大きく開いた亀裂の向こうから、かすみが顔を見せて叫んだ。おだやかな貌が、喜びにほころんでいる。息を弾ませ、かすみはさらに驚くべきことをつけた。
「さっき連絡が届いたの。みなさん――みなさん、ご無事ですって。大神さんも、さくらさんも、それに――米田長官も!」
「ほんと!?」
由里と椿は顔を見合わせた。二人とも、いや、かすみでさえも、米田の生還は信じられないことであった。だが、とにかく連絡では、全員が無事であったらしい。喜びに顔を輝かせ、由里も椿も慌てて亀裂からポッドの外へと飛び出した。連絡用の無線通信機のそばにはすでにミカサの乗組員が人だかりになっている。そこへ、三人の娘も駆け寄っていった。椿と由里の脳裏には、すでに、いつの間にか出現した鏡のことなど残っていなかった。そして、いつの間にか鏡が、椿の腕の中からどこかへ消え失せていたことも――
太正十三年、四月。
のちにサクラ大戦と呼ばれることになる、サタンとの戦いは、霊子砲の破壊とサタン自身の消滅によって幕を閉じた。サタンと魔物たちによって蹂躙され破壊された帝都も、じきに復興するだろう。
日差しは暖かく、花が咲きほころぶ季節は、ようやく人々のもとへと訪れたのだった。