(4) 「‥‥ちゃん‥‥お兄ちゃんっ」 「う〜ん‥‥」 「お兄ちゃんってばっ、遅刻しちゃうよっ、早く起きてっ!」 「‥‥あ?‥‥あ‥‥マリ‥‥ア‥‥」 「はあ?‥‥何、寝ぼけてんの‥‥早く起きて、ご飯食べないと‥‥」 「あ‥‥ああ‥‥」 朝6時30分。 茉莉子に起こされた俺は寝ぼけ眼で身支度を整えた。 ああ‥‥眠い‥‥ 今日も接客か‥‥ 窓の外。ボケっと眺める‥‥横浜の海。 俺は海が好きだ。引っ越す時は必ず海沿いにしようと思ってた。 給料の半分持っていかれる家賃は辛いが‥‥それでも海が見えれば満足だ。 茉莉子も気に入ってくれたし。 窓の外から見える海‥‥朝も昼も夜も、一日中眺めていても厭きない。 あ‥‥また‥‥月が‥‥ 朝の月。 何か‥‥意味ありげだな‥‥ 「お兄ちゃんっ!、早くご飯食べてっ!」 「あ‥‥ああ、今行くよ‥‥」 やばい。 確かに時間がない。 茉莉子がいなかったら、俺、絶対会社クビになってるな。 普段はネクタイなんて絞めないからな、苦しくて叶わんが‥‥今日我慢すれば‥‥ 俺は取りあえず社会人らしいナリになったのを確認して部屋を出た。 それにしても‥‥ なんで茉莉子のこと、マリア、だなんて言ったんだろ‥‥ ‥‥違和感がない。 “茉莉子”よりも“マリア”のほうがいいかもしれないな‥‥ う〜ん‥‥何考えてんだ、俺‥‥ テーブルの上には既に朝餉が用意されていた。 白いご飯、味噌汁、漬物‥‥茉莉子の手作りだ。 そして納豆とメザシ。 ‥‥うち、納豆苦手ですねん‥‥ そう言えば、アルバイトの娘、宴会でそんなこと言ってたな‥‥ こんな美味いもん、何故嫌うんだ? 俺にとっては朝飯には絶対に不可欠だ。 「はやく食べて、さっさと出ないと‥‥“藤枝”さんに怒られちゃうよ?」 「う‥‥い、いただきます‥‥」 ずず‥‥ ああ、美味い‥‥ やっぱり茉莉子のつくる味噌汁が一番だな。 ‥‥本日の降水確率は0%‥‥最高気温は25度になる見込みです‥‥ テレビに映る日常の風景。 今日も快晴だ。 「‥‥このお天気お姉さん、わたし結構好きなんだ」 「ん?‥‥‥へえ、美人だな‥‥」 改めてテレビに視線を送る。 すると‥‥まるでそれに応えるかのように、その女性は微笑み返した。 勿論気のせいだろう。 「榊原‥‥由里さん、か‥‥あ、れ?‥‥どこかで聞いたような‥‥」 「そりゃテレビに出てんだもん。お兄ちゃんが出てる展示会にも行くらしいよ」 「え?‥‥なんで?‥‥この人、テレビ局の人だろ?」 「中継でもやるんじゃない?‥‥ねえ、会ったらサイン貰ってよ」 「今日なのか?」 「‥‥ええっと‥‥あ、明日だって」 「じゃあ、無理だな」 「え‥‥」 「俺、明日休みとることにしたから」 「えっ!‥‥どうして‥‥」 「今日は‥‥ゆっくりしたいしな」 「お、お兄、ちゃん‥‥」 朝7時。 腹いっぱい飯食って、お茶飲んで‥‥暫しボケっとする。 そしておもむろに立ち上がる。 気合いの蓄積は十分だ。通勤は戦争だからな。 俺は靴を履いて、玄関を飛び出そうとした。 「ちょっと待ってっ」 「‥‥え?」 「ネクタイ、曲がってる‥‥じっとしてて」 「あ、ああ‥‥」 俺のネクタイを直す茉莉子。 薄手のブラウスにひらひらのスカート。冬はその上にブレザー、という制服だ。 今はブラウスの上にエプロンがかかっている。 きっと‥‥いい奥さんになるな、茉莉子は‥‥ 背丈は俺と殆ど変わらない。目の前に茉莉子の顔が見える。 栗色の髪、青い瞳、白い肌‥‥‥唇は‥‥薄紅色に濡れている。 マリ‥‥ア‥‥か‥‥‥何故かその名前が脳裏にこびりついて離れない。 ん?‥‥なんだろ‥‥ 花の香りがする‥‥ 香水、かな? 茉莉子のやつ、いつから香水つけるようになったんだ? 「‥‥いい匂いがする」 「お、にい、ちゃん‥‥」 知らぬ間に茉莉子の首筋に顔を近づけていた。 茉莉子は俺のネクタイを握り締めたまま‥‥じっとしているだけ。 「あ‥‥さ、サンキュ、な‥‥」 「う、うん‥‥き、気をつけてね、い、行ってらっしゃい」 「い、行ってきます‥‥」 なんなんだ、いったい‥‥ これじゃ‥‥まるで‥‥ 「は、早く帰ってきてね、お兄ちゃん‥‥」 「‥‥ああ」 声が続く。 いかん、いかんぞ。 そうだ、俺は早く彼女を作るべきなんだ。 そして茉莉子も‥‥ 茉莉子にも‥‥ 茉莉子に彼氏が出来たら‥‥俺、いったい、どうなるのかな‥‥ もう、朝飯も作ってもらえないのかな‥‥ 俺のことなんて‥‥どうでもよくなっちまうのかな‥‥ 俺のことなんか‥‥忘れてしまうんだろうな‥‥ 一緒には‥‥いられなくなって‥‥しまうんだろうな‥‥ なんか‥‥ なんか‥‥うれしくないな‥‥ うれしくない‥‥ 『‥‥どうも昨日から妄想の気が抜けんぞ。気合いを入れないと‥‥』 横浜駅の朝は相変わらずだ。 どこからこれだけ人が湧いて出てくるのか‥‥ 改札を抜ける。 ‥‥間も無く三番線に電車が参ります。白線の内側まで下がってお待ち下さい‥‥ 階段を駆け登る。 何とか間に合った。 『ふう‥‥ん?』 ‥‥電車が来まあすっ、危ないですから下がってっ、下がってくださあいっ‥‥ 向かい側のホーム。 人が並んでいる。当たり前だ。 ただ‥‥ 俺の目は釘付けになった‥‥そこに立っていた幼い少女に。 妙な感覚が再び俺を襲う。 既視感‥‥ 何だ? どこで‥‥見たんだ? 何故‥‥あんな‥‥幼い‥‥少女に‥‥? まだ、10歳ぐらいか? 線路で隔てた向かい側のプラットホーム。 何処にでもいる‥‥いや、違う。 何処にでもいる訳じゃない。 それは朝の人波に咲いた一輪の華。 桜の華だった。 桜色の着物‥‥桜の柄の振袖‥‥紅い袴‥‥ おかっぱの髪‥‥ その娘も俺を見ていた。俺を‥‥じっと‥‥ 『‥‥卒業式シーズンじゃないよな‥‥でも‥‥可愛いな‥‥』 ‥‥下がってくださあいっ! 『あ‥‥』 電車が遮る。 登りの電車、そして下りの電車。 ぞろぞろと‥‥人が降りる。 だだだ‥‥と人が乗り込む。 『な、なんとか、窓際へ‥‥』 「ちょ、ちょっとおっ」 「す、すみません」 「きゃ‥‥」 「す、すいません」 窓際をゲットだ。 あ、あの娘は‥‥ ‥‥いない。 『あれ?‥‥電車に乗ってるはずだよな‥‥』 下りの電車は意外に空いていた。勿論座れる席はないが‥‥絶対わかる、はず。 その桜の華は‥‥ ガタン‥‥ 下りの電車が動く。続いて俺が乗り込んだ東京行きの電車。 すれ違い。 下りの電車が去った後のホーム。 『‥‥あ』 その少女は電車には乗っていなかった。 ホームに立って、じっと上りの電車を目で追っていた‥‥俺を追うかのように。 その横には母親らしい女性が立っていた。 さっきは気付かなかったが‥‥若草色の着物を着て、髪を結っていた。 やはり‥‥こちらを見ている‥‥ような気がした。 俺は窓にへばりついて、桜色と若草色の華を見つめた。 そして‥‥すぐに見えなくなった。 『‥‥さくら‥‥さくら、色‥‥』 あの電車に乗らなかった、ということは‥‥小田原方面じゃないのか? ‥‥鎌倉、か? そうだ‥‥鎌倉かもしれん。 ガタン、ゴトン‥‥ガタン、ゴトン‥‥ 汽車は好きだ。特に古い蒸気機関車。子供の頃、一度だけ乗ったあの機関車‥‥ 満員の通勤電車は嫌いだ。人をまるで荷物のように運ぶ。 そんな満員電車の中で俺は物思いに耽った。 『‥‥北海道は次の機会にしよう』 そう、俺はもう鎌倉に行く決心をしていた。 何故‥‥ 理由なんて知らない。 会えるとも思えない。 もし会えるとして、どうする?‥‥何を言うと‥‥? 川崎について通勤客は更に倍増だ。 物思いは中断した。 東京駅につくまでは、無の境地に至らなければ‥‥ (5) 「‥‥おはよう」 「お、おはよう、ございます‥‥」 「‥‥随分‥‥ゆっくりしてたわね?」 「す、すいません、でした」 東京駅には間に合った。 だが、その後、俺は途中でばったり知り合いに会ってしまっていたのだ。 大学時代の‥‥彼女。 彼女も随分驚いていた。 喫茶店に寄って話をする。勿論、あの時の誤解はすっかり溶けた。 ‥‥ま、また、会えますよね‥‥大神さん‥‥ ‥‥うん‥‥そ、そうだ、来週の金曜日なんて、どうかな? ‥‥う、うれしいよう‥‥約束ですよっ‥‥ 何となく俺はほんわかして会社に向かった。 それもすぐに思い直す。二人の女性の歯ぎしりが聞こえてくるようだった。 人で埋め尽くされた東京。それも悪くないな。 人は多いほど‥‥出会いも多くなるし。 「‥‥まあいいわ。もう時間ないから‥‥それ持ってきて」 「は、はいい‥‥」 会社に着いて早々、また電車に乗る。 今日も展示会場だ。 3日間の開催期間中、俺の担当は最初の二日。 最終日の金曜日は同僚が代わってくれた。俺は休みを申請していたからだ。 今日は茉莉子の誕生日だし‥‥ゆっくりしたいからな。 最終日は混雑が予想される。三人体制で臨むはずだったのだが‥‥ 代わり、というのは俺の同期入社で‥‥ 「よっ、大神っ‥‥出口まで手伝ってやるよ」 「悪いな、氷室」 「ふ‥‥今日は茉莉ちゃんの誕生日だろ?、礼なら俺を招待して‥‥」 「持たんでいいっ!」 「‥‥大神ぃ〜」 「ふふ‥‥」 オフィスから出る藤枝主任と俺‥‥氷室が後に続く。 居室の向かい側は研究室が並んでいる。 「大神はんっ」 その研究室群の一角を通り過ぎた後、後ろから声をかけられた。 アルバイトの娘。まだ大学生のようだ。学生なのに研究室でバイトだ。 相当優秀らしい。部長が引き抜いた、という専らの噂だが‥‥ 名前は、李香蘭、と言った。 李香蘭‥‥それは実在した同姓同名の香港の歌姫。 母親がファンだったらしく、同じ名を三人姉妹の末っ子である自分につけた、 とは本人の弁。 そしてその名は母親の祖母の名と同じ読みでもあったらしい。 それ以上に驚いたのは‥‥国籍が違うのに俺と血縁関係がある、ということだ。 それを聞いた時は耳を疑った。 香蘭が俺に見せた一枚の写真。それは‥‥ ‥‥まあ、いいか。それはどうでもいいことだ。 おさげ髪。そばかす。眼鏡。 意外によく似合ってる。妙な関西弁も落ち着く。 ことあるごとに俺にまとわりついてくる。 そんなに悪い気はしないけど‥‥かわいいし。 「これ、持って行きなはれ」 それは八本のマニピュレータから成る脳波検知器。氷室が教えてくれた。 まるで蜘蛛のようだ。 勿論仕様や目的など判るはずもない。 「‥‥なんだ、これ‥‥?」 「ふっふっふ‥‥秘密や」 「はあ?‥‥秘密もなにも‥‥わかんなきゃ持ってく意味ないだろ?」 「ふ‥‥今回展示してる波長分散測定機・乙の前で、頭につけたらええ」 「え?」 「ぬふふふ‥‥ええな?、大神はん‥‥自分の頭につけるんやで?」 「‥‥不安だ」 ゴトン‥‥ゴトン‥‥ お台場へ向かう“ゆりかもめ”から見えるもの。 痩せた土、錆びた鉄。赤茶けた土台。 遠くに見える海は青い。近くまで寄る。すると‥‥海はねずみ色になる。 潮の香りはしない。 そして赤茶けた地は海と同じねずみ色になる。 コンクリートの世界。人工の街。命の息吹が聞こえない街‥‥ 緩やかなカーブを描いてゆりかもめは走る。 高いレールの上を弧を描いて走る様はかもめのようにも思えるが、そのトロさと 言ったら、とてもかもめと称することは出来ない。 あ、だから“ゆりかもめ”なのかもしれないな。 かもめの足は鉄ではなくタイヤ。乗り心地は普通の電車とは違う。バスとも違う。 乗客は多い。 外は臨海副都心‥‥道路はガラガラだ。 行き交う人も少ない‥‥車使ったほうがよかったかもしれないな。 荷物を持った状態でゆりかもめに乗るのは結構辛いもんな‥‥ グラ‥‥ 停車駅手前で少し揺れた。 俺は手すりを握ってて平気だったが、かえでさんは踏ん張りが効かなかったらしい。 俺に寄り掛かる格好になった。 「ご、ごめんなさい‥‥」 「い、いえ‥‥大丈夫ですか?」 「‥‥掴まってていい?」 「は、はい‥‥」 そうだ‥‥混んでるせいだ。 混んでるから‥‥かえでさんは俺に‥‥凭掛ってきたんだ。 すごく‥‥柔らかい‥‥ 信じられない‥‥こんなに‥‥まるで骨なんてないみたいだ‥‥ それに、思ったよりも華奢なんだな‥‥かえでさん‥‥ ‥‥抱いて、大神くん‥‥ 『‥‥え?』 「‥‥‥‥」 「かえで‥‥さん‥‥?」 ‥‥もっときつく‥‥わたしを抱きしめて‥‥ 『え‥‥えっ!?』 「‥‥‥‥」 「かえでさん‥‥?」 ‥‥お願い、大神くん‥‥わたしを離さないで‥‥逃がさないで‥‥ な、なんだ、いったい‥‥俺の耳、おかしくなったのか? でも‥‥確かに聞こえた。 俯いたままで、かえでさんの表情はよくわからない。 ふいに振り仰ぐ。 その目‥‥ 何を言いたかったんですか‥‥? 俺に何を言おうとしたんですか‥‥あの時‥‥ ‥‥わたしが‥‥わたしでなくなる‥‥その前に‥‥その前に‥‥ 俺に‥‥止めて欲しかったんですか? ‥‥あの時? あの時って‥‥なんだよ‥‥? 止めるって‥‥何を? 俺は‥‥ 俺はいったい‥‥どうしちまったんだ? 俺はかえでさんの背中に腕をまわした。ごく自然に。 揺れるから‥‥混んでるから‥‥ 別に‥‥深い理由なんてない。 ない、さ‥‥ ‥‥いい香りがする‥‥ 甘い香り‥‥花の香り、かな? 茉莉子と似てる気がする。 ‥‥違うな。 茉莉子のつけている香水と、似てるんだ‥‥ きっと‥‥そうだ‥‥ それだけさ‥‥ 同じ香水を使ってるんだ‥‥ きっと、そうさ‥‥ でも‥‥ いい匂いだ‥‥ いい香りだ‥‥ 「大神、くん‥‥」 「は、はい」 「‥‥‥‥‥」 「?‥‥かえでさん?」 「‥‥なんでもない」 俺は相当マヌケだったようだ。 「は、はい?」 「‥‥なんでもないってば」 「で、でも‥‥」 「‥‥返事なんか‥‥しないでよ‥‥」 「‥‥‥‥」 「言葉なんか‥‥返さないでよ‥‥」 そう言って、かえでさんは俺の胸に頬を寄せた。 柔らかい髪が、その香りが、俺の鼻孔をくすぐる。 ゆりかもめの中で揺れながら‥‥ (6) 展示会場に到着すると、ゲートの前は既に客で溢れかえっていた。 開場30分前。みな興味津々という顔つきだ。 今回の展示会は各社新製品目白押しだからな、無理もない。 俺自身、昨日は休憩時間を割いて他のブースを見物に行ったからな。 人混みを抜け、スタッフ専用ゲートを潜る。 キャンペーンガールのお姉様たちも気合いが入っている。 ‥‥カメラ持ってくればよかった。 かえでさんはセッティングを俺に任せ、スタッフとの打ち合わせに向かった。 ブースの作業はすぐに終わったため、俺は開場まで待ち惚けを食らうことになった。 「大神さん、暇そうですね」 「‥‥え?」 「今日はわたしもお手伝いしますから‥‥時間が空いたら、ですけどね」 「‥‥‥‥」 展示ブースの前に立っていたら、すんごい格好の女性に声をかけられた。 信じられない‥‥水着ぢゃないか。 真っ白のセパレート‥‥ビキニほど激しくはないが、いかんせん、場所が場所だ。 ここは海ではない。海へ行くには建物を出ないといけない。 どうしても視線があるべき方向に向かってしまう。 ほんとにスゴイ。はみ出さんばかりだ‥‥すごい。 『ご、ごくん‥‥』 「もうっ、どこ見てるんですかっ!?」 『む、胸の谷間が‥‥あああ‥‥堕ちていくぅ〜‥‥』 「ちょっとっ!」 「はっ‥‥す、すいません、です‥‥と、ところで‥‥どちら様でしたっけ?」 「む‥‥受付の藤井ですよっ」 「‥‥えっ!?‥‥か、かすみくんかっ!?」 そう、俺の会社で受付嬢をやってる女の子。 名前は藤井かすみさん。俺より二つ年下の21歳。 長い栗色の髪を肩越しに束ねる、独特の髪形。 目鼻立ちはすっきりしていて‥‥いかにも涼しげだ。 かえでさんと双璧と言われる、社内でも指折りの美女だ。来客にも受けがいい。 受付に来る連中の殆どもこの娘目当てだ。 しかし、そこはやはりかえでさんと同じく、ガードは堅い。 人はそれを、帝劇防御壁、と呼んでいる。 なぜ、帝劇か、と言うと、休みになれば必ず帝国劇場の芝居を見に行くからだ。 かえでさんもそうらしい。二人で劇場に入るのも目撃されている。 デートするよりも芝居のほうが好きらしいな。 だから余計に彼女のこのような姿は衝撃的でもある。 「なんですか、その意外そうな顔は‥‥?」 「い、いや、意外だなと‥‥げ、やぶへびか‥‥」 「ほ〜‥‥」 そんな彼女も、どういう訳か、俺に対しては逆に誘ってくれたりする。 誘う、と言っても、おめでたい要素はどこにもない。 稽古に付き合ってくれ、という話だけだ。 稽古とは‥‥組み手、だ‥‥悲しいことに。 暇さえあれば俺を誘って、屋上とか公園とかで組み手をする。 何を隠そう、俺は高校ん時からテコンドーを習っている。 自分で言うのもなんだが、相当強いぞ。本場の連中にも負けたことがないからな。 親父は自分の剣の技を教えたいようだったが‥‥この時代に剣など無用の長物だ。 そもそも得物を使うのは性に合わん。拳で語り合うのが一番だ‥‥脚か、俺は。 かすみくんは‥‥中国拳法、のようだ。 どこかで見たことがあるんだが、太極拳とよく似ている。 滑らかな動きが特徴だが、そんな外見とは裏腹に破壊力は凄まじい。 俺とかすみくんの出会いは会社の中ではない。 会社の帰りに氷室と飲みに行き‥‥そして路地裏で見かけたナンパ野郎たち。 女の子は嫌がっているようだ。そうなるとがぜん燃えるのが氷室だ。 あいつ、少林寺拳法の道場師範をやってるからな‥‥会社には内緒だ。 しかし、おせっかいをする前にケリはついてしまった。 その女の子は一瞬で連中を悶絶させてしまったのさ。 そん時は俺も氷室もいい加減な格好してたから‥‥仲間だと思われたようだ。 手加減したにしろ、俺と五分に渡り合える人間など、親父と氷室ぐらいだった。 それが‥‥女の子に‥‥ 俺は大ショックだった。 彼女も対等に渡り合える男など初めてだったらしく、改めて俺を見つめて‥‥ そしてようやく同じ会社の人間だと気付いたようだった。 それ以来、俺とかすみくんは‥‥組み手の仲になったと言う訳だ。 そうさ、ロマンなんてないのさ。 ロマンよりも組み手だ‥‥ちきしょ〜‥‥ でも、会社の中では氷室と並んで気の合う友人だ。 彼女にしてもそうだろうな。 何故だろ‥‥ 名前も気に入ってるし‥‥お互いに。 ‥‥不思議だ。 生まれ変わり、輪廻転生、ってのがほんとにあるなら‥‥ 前世では、彼女とは親友だったかもしれないな。そして氷室も。 魂の系譜‥‥それも信じられる気がする。 ん‥‥ そういう意味では‥‥かえでさんも‥‥ あ‥‥何考えてんだ、俺。 ば、馬鹿馬鹿しい‥‥ 「き、着痩せしてたんだね、そんなにご立派とは‥‥」 「ふ〜ん‥‥」 「あ、い、いや‥‥て、手伝ってくれるのは助かるよっ、熱烈歓迎だよっ」 「‥‥見返りは?」 「‥‥来週一週間‥‥昼休み、という線で‥‥如何でしょうか‥‥」 「承知っ!」 正拳突きの構えから一閃、水着姿で鉄拳をかます、かすみくん。 それを受ける俺。 まわりは、ポカ〜ン、という間抜けな表情で俺たちを見ている。 にこにこしながら担当部署に引き揚げる、かすみくん。 「‥‥う、腕をあげたな」 そして俺は受けた腕をさすりながら、じっと後ろ姿を見つめていた。 特に腰のあたりを。 まだ開場には時間があった。 にも関らず、突然人集りが出来る。入口‥‥招待客専用の入口からだな。 招待客対応は昨日だったはずだが‥‥いや、招待講演があるな。 確かにその人集りは別フロアに移動しようとしていた。 「‥‥大物が来たようね」 「え‥‥」 かえでさんが戻ってきた。 打ち合わせ、とはこのことも含んでいたらしい。 「‥‥だれです?」 「神崎重工のお嬢様らしいわよ」 「‥‥えっ!?」 「知ってるの?‥‥まあ、有名だけど、ね」 「た、確か、二人いましたよね‥‥」 「ええ。今日来たのは‥‥お姉さんのほうらしいわ」 「‥‥‥‥‥」 「このブースには関係ないから‥‥自分の仕事をするだけよ、大神くん」 「は、はい‥‥」 関係ない‥‥ いや、おおありなんですよ、かえでさん‥‥ こちらには来ないことを祈りつつ、ブースの展示機器を再度チェックする俺。 とにかく、今日終われば、明日から休みだ。 今日は早く帰って‥‥ そうそう、ちゃんと花も買って‥‥プレゼントも買って。 プレゼント‥‥何がいいかな? 宝石もいいかな。 そういう年頃だし‥‥そういう装いをさせても似合うだろう‥‥今の茉莉子なら。 あ、あんまり高いのは‥‥無理だけど‥‥ そうだな‥‥ネックレス、なんてどうだ? 茉莉子なら似合いそうだ。髪に合わせて金のネックレスがいいだろうな‥‥ うむ、これはいいぞ。 ボーナスも出たことだし、うん。 金のネックレス‥‥決まりだ。 よし、忘れないように‥‥メモメモ、と。 「なになに、金のネックレス‥‥?」 「うわっ!?」 「ほほほ‥‥わたくしにプレゼント、ですの?」 「な、なして‥‥い、いつの間に‥‥?」 「全然会いに来てはくださらないから‥‥わたくしのほうから参りましたのよ、 大神さん」 「な、なんで‥‥」 俺とかえでさんの目の前に忽然と現れた少女。 その名も神崎麗子。 今やマルチメディア・エンタープライズと化した神崎重工。 “重工業”という名こそ昔ながらに残してはいるが、実態は超優良情報産業だ。 その長女。 英国で英才教育を受け、20歳で大学を卒業、神崎重工の社長補佐に就任している。 「大神くん、知り合いだったの?」 「え、ええ‥‥まあ」 かえでさんが驚いたように、神崎重工の長女は俺の知り合いだった。 ただの知り合いではない。 ‥‥従兄妹、だったりするのよ、これが。 経緯はよくわからんが、親父の爺さんの代‥‥大正時代から神崎家とは縁があった ようだ。祖父と祖母‥‥その二人も実は従兄妹同士だった、というのは後で聞いて わかった話だ。それだけじゃないな‥‥親父とおふくろも‥‥そうだよ。 麗子が従兄妹同士にこだわらない理由も、そこに起因するらしい。 そして、後継ぎが不在となった神崎家に親父の妹は戻って行った、ということだ。 麗子には兄貴がいるが、これが‥‥俺とそっくりなんだよな。 これも従兄弟という血が成せる業なんだろうか。 麗子の4つ上だから‥‥丁度俺の1歳年上ということになる。 性格は俺よりも柔らかい。頼りがいのある兄貴、といった感じだ。 ただ、彼は神崎重工を継承するつもりは全くないらしい。 あれだけ能力がありながら‥‥ 確か今は中国に行ってるって聞いたな。留学かな? 神崎重工は最近中国に目を付けてるって噂だし。 なんだかんだ言って、両親のことを気にかけてるのかな‥‥ 武道の心得もあるようだ。神崎風塵流ではないらしい。それは麗子に継承された。 麗子に聞いた限りじゃ、俺の親父とかなりよく似た技を使うようだ‥‥ 彼とは子供の頃に素手で手合わせした記憶しかないからな‥‥ 俺とそっくりなのに、茉莉子は彼が苦手のようだ。 なんでだろ‥‥たまに会っても一言も口きかないし‥‥いや、もしかしたら‥‥ 照れてるのかな‥‥ 茉莉子のやつ、もしかして‥‥‥‥止めよ。 横目で麗子を見る。 しかし、まあ‥‥よくぞここまで成長したもんだ‥‥何もかも。 美人だ。はっきり言って相当美人だ。 どうも神崎家の女性はすべからず美しく生まれる運命にあるらしいな。 おふくろさんもそうだ。 子供の頃の麗子はそうでもなかった。 美しくない、のではなく、可愛かったんだ。ほんとに可愛らしかった。 一郎ちゃん、一郎ちゃん、っていつも俺の後を着いてきて‥‥ でも茉莉子とはよく喧嘩してたな。 3歳離れてるのに‥‥7歳の麗子と4歳の茉莉子。 茉莉子は早熟だったんだな。逆に麗子はガキだった。 それで釣り合いが取れてた、という話もあるな。 ‥‥死にちゃいなら、前に出なちゃい‥‥ ‥‥うにゅ、ちょこじゃいな‥‥ ‥‥痛っ‥‥わたちなんか‥‥ ‥‥ぷぷ‥‥華麗に‥‥優雅に‥‥大胆に‥‥完璧でちゅわ‥‥ ‥‥おにょれ‥‥しょれまでよ‥‥ ‥‥きゃっ‥‥痛いでちゅわ‥‥ 『はあ‥‥あの頃はよかったなあ』 かなり腑抜けた顔で俺は天井を見上げた。 天井はそんなに高くない。幕張に比べると面積はあるかもしれんが‥‥ 幕張が広く感じるのは天井のせいもあるかもしれないな。 「当然‥‥エスコートしてもらえますわよね?」 「‥‥すまん、都合が悪い」 「そ、そんなにアッサリと‥‥わたくしがわざわざ‥‥」 「呼んでない」 「で、では、今夜のパーティにご一緒に‥‥」 「予定が入ってる」 「ど、どうして?‥‥どうして、わたくしをそれほど‥‥」 「だ・か・らっ、先約があるんだってっ。今日は茉莉の誕生‥‥はっ!?」 「茉莉子さん?‥‥今、茉莉子さんの誕生日、と言いましたわよね‥‥?」 『し、しまった‥‥』 「わたくしのお誕生日には‥‥ほったらかしで‥‥茉莉子さんには‥‥」 「わ、わりい、そう言えば俺、荷物の搬送がまだだった。じゃあなっ!」 面倒なのはごめんだ。 俺は控室方面に向かって駆け出した。事実、足りない機材もあったし‥‥ そうそう、香蘭の、あの妙な機械もそうだ。控室に置いてきてしまった。 戻ると、もう麗子の姿はなかった。コンファレンスにでも行ったのだろう。 俺に会いに来た、建前の理由を励行しなければ親父さんに言訳もたたんだろう。 麗子の親父さんは俺とは妙に気が合った。 あの親父さんなら別に言訳をしなくてもよさそうなモンだが‥‥ ま、麗子の性格からして、それはありえないだろうな。 「‥‥ほんと、知り合いなら言ってくれればよかったのに‥‥」 「聞かれなかったから、です」 「‥‥まあいいわ。でも‥‥」 かえでさんがじっと俺を見つめる。 俺はその目に弱いんだ‥‥身体が動かなくなる。 「わたしの誕生日、一応教えておこうかな‥‥?」 「それは‥‥」 「だれも誘ってくれないしなあ‥‥さみしいなあ‥‥」 「‥‥も、もしよろしかったら‥‥わたくしでよければ‥‥」 「何?‥‥なに、なに?」 「そ、その‥‥組み手など‥‥」 「‥‥ばかっ!」 「じょ、冗談ですってば」 ぷんぷんしながら、かえでさんは残る機材のセッティングを始めた。 あ〜あ‥‥あんな申し出なんて、もうないぞ、きっと‥‥ 俺は大馬鹿者だ。電車の中でもいい雰囲気だったのに‥‥ (7) 「ただいま‥‥」 パタ、パタ、パタ‥‥ いつものスリッパの音。 「おかえりなさいっ。約束、守ってくれたんだね、お兄ちゃん」 「あ、ああ‥‥」 「?‥‥どうしたの?」 「じ、実は‥‥」 「おーほっほっほっほ‥‥お久しぶりですわね、茉莉子さん」 「れ、麗子‥‥さん‥‥」 「光栄に思いなさい、この、わたくしがっ、祝ってさしあげるのよ」 確かに仕事は早くケリをつけることが出来た。 かすみくんも手伝ってくれたし‥‥ 二人には後でお礼をしなくちゃ、な。 ‥‥もう上がっていいわよ、大神くん。 ‥‥ですが‥‥ ‥‥いいから。茉莉子さんのお誕生日なんでしょう?ちゃんとフォローしないと。 ‥‥すいません。このお詫びは必ず‥‥ ‥‥ふふ‥‥期待してるわよ。 かえでさんには申し訳ないことをした。 あの後、結構大変だったろうに‥‥ だが、駅に向かう俺を待ち受ける者がいた。 まわりに黒服を従えて、俺の行く手を遮る者たち‥‥ふっ、臨むところだっ! だが、そいつらは俺を拘束するやいなや、車に押し込みやがった。 ‥‥おほほほ‥‥お待ちしておりましたわよ、大神さん。 ‥‥な、何をしやがるっ!?‥‥俺は急いでんだぞっ! ‥‥送ってさしあげてよ‥‥わたくしも祝ってさしあげたいですしね‥‥ ‥‥お、俺は他に寄る所もあるんだよ。 ‥‥おほほ‥‥プレゼントですわね?‥‥わたくしが最高のお店を紹介しますわ。 ‥‥い、いらんわっ! ‥‥ふっふっふ‥‥このままわたくしの屋敷まで連れていくのも‥‥ ‥‥は、離せ〜‥‥ プレゼントは買うことが出来た。 だが、余計なお荷物がついてきやがった。 屋敷に連れ込まれずには済んだものの、そのまま俺は自宅まで連行される羽目に なった訳だ。 「‥‥どういうこと?」 「おほほほ‥‥愛に理由などなくてよ、茉莉子さん‥‥」 「あんたにゃ聞いてないっ!‥‥これはどういうことなのっ、お兄ちゃんっ!」 「す、すまん‥‥逃げられなかったんだ‥‥許してくれ」 「さあっ、宴会ですわっ、遠慮なく入ってくださいませ」 「ここは俺たちの家だっ」「ここはわたしたちの家よっ」 茉莉子の料理はいつもよりも豪華だった。 腕によりをかけて作ったご馳走が食卓を飾る。 ほんとに楽しみにしてたんだな‥‥ 「‥‥誕生日おめでとう、茉莉子」 「あ、ありがとう‥‥お兄ちゃん‥‥」 「むむ‥‥なんですの‥‥このラブラブチックな雰囲気は‥‥」 「これ、プレゼント‥‥気に入ってくれればいいけど‥‥」 「え‥‥わたし、に‥‥?」 「ああ。開けてごらん」 「う、うん‥‥」 「わ、わたくしを無視しないで〜」 乾杯の音頭の後、俺は茉莉子にプレゼントを渡した。 子供っぽい包装だったけど、茉莉子は喜んでくれた。よかった‥‥ 今日は特別な日だ。少しぐらい酒を飲ませてもいいだろうな‥‥ 俺は茉莉子にワインを注いだ。麗子はだめだ。こいつは酒乱だからな。 「こ、これは‥‥」 「麗子に紹介してもらった店で買ったんだ。結構迷ったんだけど」 「金の‥‥ロケット‥‥」 「中に写真を入れることも出来る。普通のネックレスにしようとも思ったんだけど、 麗子のお薦めでね」 「え‥‥」 「花は麗子のプレゼントだ。あやめの花、橘、菫、かすみ草‥‥いい色合いだろ?」 「‥‥ありがとう、お兄ちゃん‥‥麗子さんも‥‥」 「お、おほほ‥‥れ、礼には及ばなくてよ‥‥大神さん、わたくしにもお酒を‥‥」 「‥‥お前はだめだっつうのっ!」 茉莉子はほんとにうれしそうにしてた。 ほんとに‥‥よかった。 やっぱ、俺の選択に間違いはなかった。よかった‥‥ 「ありがとう‥‥ありがとう、お兄ちゃん‥‥一生の宝物にする‥‥」 「そ、そんな大げさな‥‥ま、まあ、今日は楽しくやろうぜっ、な、麗子」 「しょうでしゅわよ‥‥おひょひょひょ‥‥」 「こ、こいつ‥‥勝手にボトルを‥‥」 月が見えた。 横浜の海にぽっかりと浮かぶ白い満月。 バルコニーに立ち、潮の香りの中で魅入る。月見酒だ。 麗子はすっかり酔いつぶれてしまった。 思えば麗子のヤツも不憫だな。 いつも畏まってばかりいないといかんし‥‥今日はほんとに楽しそうだった。 連れてきて‥‥よかったかもしれない。 茉莉子が自分のベッドに寝かせたようだな。 「白い月‥‥」 「‥‥‥」 俺の横に茉莉子が立つ。 「今日のこと、一生の思い出になったよ‥‥ありがとう、お兄ちゃん」 「おおげさだよ、茉莉子」 「もし‥‥わたしがお嫁さんに行っても‥‥絶対に忘れない」 「‥‥‥‥」 「たとえ‥‥離れ離れになっても‥‥今日のことは、絶対に‥‥」 「‥‥茉莉子の花嫁衣装、か‥‥あの月のように‥‥真っ白な‥‥」 「‥‥‥‥」 「きっと‥‥奇麗なんだろうな‥‥」 俺は何となく白いドレスに身を包んだ茉莉子の姿を想像した。 想像‥‥したくないな。隣の男は‥‥だれなんだ? ちきしょ、なんか気分が悪いぞ‥‥ ま、茉莉子が欲しかったら‥‥お、俺と勝負しろっ! 「‥‥どうしたの、お兄ちゃん?」 「あ‥‥あ、いや‥‥」 「‥‥でも‥‥お兄ちゃんのほうが先だよね」 「‥‥ん?」 「お兄ちゃんのほうが‥‥先に‥‥結婚しちゃうよね‥‥」 「相手がいればな」 「‥‥嘘ばっかり」 「‥‥なんだよ」 「麗子さんもそう‥‥お兄ちゃんの周りには奇麗な人がいっぱいいる」 「‥‥‥‥」 「‥‥‥‥」 「‥‥茉莉‥‥?」 「お兄ちゃんは‥‥結婚したら、わたしのことなんか‥‥忘れちゃう」 「‥‥!」 ‥‥俺のことなんか忘れてしまうんだろうな‥‥ 俺と同じことを‥‥ 茉莉、子‥‥ 「わたしなんか‥‥」 「‥‥‥‥」 「いつか‥‥そんな日がきちゃうのかな‥‥やだな‥‥」 「‥‥‥‥」 「やだな‥‥」 「茉莉‥‥」 「いや‥‥お兄ちゃんと離れ離れになるなんて‥‥いや‥‥」 「だ、大丈夫だって、お前を一人ぼっちになんか‥‥」 「いやっ!」 白い満月。 俺の胸の中で咲いた‥‥一輪の橘。 茉莉子は麗子の買った花束から橘の花弁を選んだ。そしてそれを胸に挿していた。 「離れて暮らすなんて‥‥‥お兄ちゃんと一緒にいられないなんて‥‥」 「‥‥‥‥」 「やだ、よ‥‥やだよ‥‥」 茉莉子は少し酔っていた。 そうさ‥‥酒が茉莉子を惑わせたんだ。 月の雫が茉莉子の目を滲ませたんだ。 「どこにも行かないでっ、わたしの傍にいてっ、わたしを一人ぼっちにしないでっ」 「ま、茉莉、落ち着けよ」 「やだ、やだ、やだ、やだ‥‥」 「茉莉子っ」 「やだ、やだ、やだ‥‥」 「‥‥‥‥」 「やだ‥‥‥!」 茉莉子の唇は花の香りがした。 茉莉子の唇は‥‥花のような柔らかさだった。 そうするしかなった‥‥いや、そうしたかったんだ。 だれも俺を責めたりはしないだろう‥‥いや、詰られたって‥‥構わないさ。 俺はだれよりも‥‥茉莉子を‥‥愛してるんだから。 そうさ‥‥大切な妹だからな‥‥ 妹だからな‥‥ 白い満月。 月影の下で咲いた白い橘。 夢の中で咲いた、一輪の橘。 俺は眠りについた後も、同じ花の香りの中にいた。 そうだ‥‥大切な、その人と一緒に‥‥
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