(8)

大神は夜中に目を覚ました。
夕陽に染まるロビーでいつの間にか寝入ってしまった。
だれかが部屋まで運んでくれたらしい。
『カンナ、かな?‥‥いや‥‥兄さん、だな‥‥』
竹林での鍛練は、結局無意味だったのだろうか‥‥
身体を痛めつけて、怒りを煽って‥‥
あの黒い鬼神に少しでも近づけるように‥‥
近づいては離れていく。
近づいたと思っても‥‥その人は遥か彼方に立っていた。

大神は横になったまま窓の外に視線を向けた。
夜の闇。暗闇の中で星明かりがちらちらと輝いている。
起き上がって窓を開けた。建物の影になって見えないが、そこには月があるはず。
路面に月の光が生み出した影が延びていた。
闇に生まれた闇。悲しいほどに暗い闇だ。
耳をすませる。すると‥‥ドアの方から微かに音が聞こえてくる。
鉄を鍛えるような音。
『‥‥あの音が‥‥俺を夢に誘ったのか‥‥』
大神の見た夢は優しいものだった。
優しい夕陽に包まれて眠り、優しい音に抱かれて夢を見る。
優しい夢‥‥という表現しか出来なかった。
目が覚めると忘れてしまう夢。
目覚めは心地よいものだった。
だから‥‥見た夢も、きっと優しかったんだ‥‥大神はそう思った。

大神は部屋を出た。
そのまま厨房に行く。
お湯を沸かし、紅茶の缶を手に取った。今月の買い出し当番はマリアだ。
大神が忘れたのを受け継いですぐに補充された‥‥珈琲もある。
あの時とは違う豆だろうな‥‥大神はなんとなくそう思った。
あの珈琲は特別だったからだ。
湯が沸くと、大神は紅茶を煎れた。
地下を守る二人の青年のために‥‥

「ふわ‥‥ん〜んっ‥‥あれ?‥‥大神さん‥‥」
「ん?‥‥なんだよ、こんな時間に‥‥」
「‥‥目が覚めてしまって‥‥よかったら一服してください」
「あ、紅茶ですか‥‥ありがとうございますっ、いただきますっ」
「‥‥そうだな‥‥どれ、休憩しよう」

おさげ髪の守護天使は今はいない。
代わって地下格納庫を守るのは、帝撃司令と夢組隊長だった。
大神はお茶を飲む二人の青年をちらっと横目で見て‥‥
その二人によって新たに命を吹き込まれようとしている鋼鉄の鎧をじっと見つめた。
真紅、群青、山吹、そして純白の機体。
完成間近のものから骨しかないもの。
だがいずれの鎧からも命の鼓動が聞こえてくるようだった。

「‥‥どうした?」
「え‥‥」
「何を考えてる?」
お茶を飲む仕草は大神とは違う、その青年。
大神と同じ横顔のその青年‥‥
横顔を向けたまま大神に問う。
「‥‥いえ‥‥人間って、我侭な生き物なのかもしれませんね」
「ん‥‥?」
「早く時が経てばいいと思うこともあれば‥‥時を止めてくれと願うこともある。
 時間を戻してくれと‥‥もう一度やり直させてくれと‥‥」 
「‥‥‥‥‥」 
「俺はこの命が尽きれば、それで歴史は終わると思ってました。所詮自分にとって
 意味のある歴史とは、この命がある短い間だけでしょう‥‥?」 
「‥‥‥‥」
「だから人は‥‥辛いことがあれば、時の流れを戻したいと願う‥‥うれしいことが
 あれば時を止めたいと‥‥待ち侘びるものがあれば、早く時が過ぎることを願う」
「‥‥‥‥」
「‥‥でも‥‥もしかしたら、そうじゃないかもしれない‥‥」
「‥‥‥‥」

並んで腰を下ろす三人。 
大神はゆっくりと立ち上がって、自分の愛機となる純白の機体の傍に歩み寄った。
フレームしかない、鋼鉄の鎧。
自分を護り、仲間を護ってきた鋼鉄の守護神。

「これは試練なのかな、って‥‥試されているのかな、って‥‥この短い人生で
 お前は何を成したんだ、って‥‥」 
「‥‥だれに試されるんだ?」
「‥‥‥‥‥」
「神に、か?‥‥お前を創った神に与えられた試練とでも言いたいのか?」
「‥‥わかりません‥‥そうかもしれないし‥‥いや、神などでは‥‥」
「神なぞいやしない‥‥あやめくんもそうだった。彼女は神に限りなく近づいた。
 だが神ではない。よく覚えておけよ、大神‥‥」

その青年も立ち上がって白い機体のすぐ傍まで歩み寄った。
そして振り向く。光のあたらない場所に。光を吸収してしまう、その影に。
紅い瞳が閃く、その‥‥鎧に。

「神はいない。人は神にはなれない。人は試されてはいない。試してもいけない。
 その時代に何を成したか‥‥それは結果だ。一生に出来る結果など些細なもの。
 それを評価して何の意味がある?‥‥それで自分が裁かれるのか?‥‥誰に?
 裁かれるとしたら、それは外道を成した者だけだ‥‥俺のようにな」
「‥‥‥‥‥」
「お前たちは違う。生きる喜びを日常の中に見出している。理由を追い求める必要
 なんてない。その日常を護るために‥‥戦っている‥‥‥それが生きてる意味だ。
 戦う意味さ」
「‥‥ええ」「‥‥はい」
その青年は再び元の場所に戻ってカップを手にした。
もうすっかり冷めてしまった紅茶。それを水を飲むように飲み干す。
「やり直しの出来る人生なんて意味がない‥‥人は後悔するから、同じ過ちはしない
 と誓う」
もう一人の青年もゆっくりと立ち上がる。そして鋼鉄の鎧に再び命を吹き込む‥‥
それが日常とでも言うかのように。それが生きている証だとでも言うように。
入れ違うように大神は二人の座っていた場所に戻り、カップを下げた。

地下格納庫を出る頃には再び鉄を打つ音が聞こえ始めた。
優しい音‥‥鋼鉄の歌。
声が聞こえた‥‥ような気がした。
『俺の言ったことを間違って解釈するなよ‥‥‥‥死んだらなんにもならない‥‥
 それも事実なんだ‥‥‥もう、お前たちの命はお前たちだけのものではない‥‥
 お前たちの歴史はお前たちだけのものではない‥‥お前たちを必要としている
 人たちがいるからだ‥‥そしてお前たち自身も必要としている人たちがいる‥‥
 それが日常なんだ‥‥それが生きている喜びなんだよ‥‥』


ベッドに腰を下ろす。
月明かりが滲む窓辺‥‥建物に隠れていた月がゆっくりと顔を出したようだ。
机に柔らかい光がかかる。
そのままベッドに横になると、すぐに睡魔が襲ってきた。

目を閉じる瞬間‥‥
陽炎が見えた。
月明かりに滲んで‥‥夢のような人影だった。

‥‥わたしは‥‥いつでもあなたの傍にいる‥‥

その人は白い翼を広げて大神の瞼の裏側に焼き付いた。
夢の中へ導くかのように。





(9)

チュン‥‥チュン、チュン‥‥
すずめの声。
朝‥‥か‥‥
ああ‥‥眠い‥‥
早く起きてモギらないと‥‥
ん?‥‥モギ、る‥‥?
なんだ、モギるって‥‥何かチギるのかな‥‥

‥‥眠い。
夢でも‥‥見てたんだろうな‥‥
会社‥‥休みたいな‥‥
あ、そうか‥‥休みとってたんだ。
今日はゆっくり出来るな‥‥
茉莉子は学校があるから‥‥帰ってきたらすぐに出かけられるように準備しないと。
鎌倉が待ってる。

窓を開ける。
横浜の海が見えるマンション‥‥建てられてまだ間も無い。
赤茶けた塗装が外壁を覆う。赤くしなければ錆が目立つからな。
海沿いの建物は潮風に煽られてすぐにさび付いてしまう。

窓の外‥‥海沿いに散歩道がある。
休日には俺もよく使う。そのまま海岸に出て、海を見て時間を潰す。
海はいい。なんだか‥‥懐かしい気がする。
子供を育む母体‥‥羊水は海の組成と殆ど同じだという。
そのせいかもしれない。海に帰る、ということなのだろうか‥‥
それだけではない気もする。
昔‥‥思い出せないほど、遠い昔に‥‥俺は海に出たことがあったのかもしれない。
勿論、俺は漁師でもないし、海沿いの街で生まれた訳でもない。
海に関係したことなど‥‥ここに引っ越してきて初めてのはずだ。
でも‥‥

散歩道を歩く人々。
この時間に出勤するのは横浜近郊に勤める人たちだな。
初めて見た。
結構いるんだな‥‥

俺は窓を開けたまま着替えた。
柔らかい風が入り込む。
潮の香り。
東京とは違う。あそこの潮の匂いは殆ど腐臭だからな。

ボー‥‥
船が出るようだ。
再び窓に向かう。
横浜港から出る貿易船か。何処にいくんだろ‥‥
南のほうにも船が小さく見える。あれは本牧から出たんだな‥‥
そして空を見る。
やはり‥‥月が見えた。
「おはようございますっ」 
「‥‥え?」
「今日はお休みですか?、大神さん」
横から声が聞こえた。
バルコニーの仕切り壁から顔を覗かせて挨拶をする女性。
「おはようございます‥‥そっか、高村さんって在宅勤務でしたよね」
「ええ‥‥あ、高村じゃなくて、椿って呼んでくれるとうれしいなぁ」
「あ、あははは‥‥じゃ、じゃあ、椿さん、また‥‥」
「はい‥‥たまには遊びにきてくださいよ」
隣人は高村椿さんと言う女流作家だ。
ちょっと前までは食堂のウエイトレスをやってたらしい‥‥似合うかもしれないな。
確か‥‥22、23歳だったと思うな。年齢的には俺と近い。
そばかすがよく似合う。おかっぱぎみのショートカット。
ちょっと子供っぽいところはあるが‥‥外見はれっきとした大人の女性だ。
茉莉子はよく遊びにいくようだ。気が合うらしいな。


今日は休みだ。
いつもより1時間ほど遅れて起床した俺、ダイニングに行くと茉莉子は既に朝食を
済ませた後だった。
麗子は‥‥まだ寝ているらしい。
夏服の上にエプロンの茉莉子。
自分の食器はもう洗っている‥‥こういうところはほんとにソツが無い。
暫しボケっとしている俺を尻目に、すぐさま朝食の準備をしてくれる。
そしてエプロンを脱いで学校に行く。いつもは俺を見送ってくれる茉莉子だが、
今日は逆だ。

「ご、ごはん食べたら、食器は台所に置いといてね‥‥」
「あ、ああ」
「じゃ、じゃあね、行ってくるね、お兄ちゃん‥‥」
妙にどもる茉莉子。
俺の朝飯を準備している間中、顔を真っ赤にしてた。
激しい運動をしたからではない。茉莉子は朝、走る習慣などないからな。
理由は‥‥たぶん‥‥俺、だ。
俺‥‥俺、茉莉子に‥‥
「あ‥‥あ、あのな、茉莉」
「な、なに‥‥?」
「‥‥今日早く帰ってこれるか?」
「う、うん‥‥」
「明日‥‥予定はないか?」
「な、ないよ‥‥どうしたの?」
「鎌倉行かないか?、一泊二日で‥‥近いから泊まる必要はないかもしれんが‥‥」
「え‥‥えっ!?‥‥旅行に行くのっ!?」
「ああ‥‥久しぶりに単車を動かさないとな。他に行きたいとこでもあれば‥‥」
「か、鎌倉行きたいっ!‥‥ほ、ほんとに連れてってくれるのっ!?」
「ああ。美術館とか、湘南の海とか‥‥あの辺り、一通りな」
「す、すぐに帰ってくるから‥‥約束だからねっ、お兄ちゃんっ!」
「ああ‥‥ほら、早く行けよ、遅刻するぞ」
「うんっ」

家を飛び出していく茉莉子。
ひらひらのスカートがひらひら舞って‥‥
そんなに走ると‥‥見えるぞ。

茉莉子の女子高は自転車で通える距離だ。
自由な校風は俺も気に入ってる。茉莉子にはぴったりだ。
友達も可愛い娘が多い。一度遊びに連れて来いと茉莉子には言ってあるんだが、
あいつときたら一度も連れてこない。
恥ずかしいからって‥‥‥俺はそんなに恥ずかしい男かっ!?
俺がそれほど茉莉子の学校に詳しいのは、一度面談で行ったことがあるからだ。
‥‥おおいっ、茉莉っ、職員室って何処だ?
‥‥お、お兄ちゃんっ!?、な、何故ここに‥‥
‥‥先生に呼ばれて来たんだ‥‥面談だよ。
校舎の窓辺で級友と喋っている茉莉子を発見した俺は声をかけた。
すかさず反応するのは、やはり女子高たる所以か。
‥‥何、何、何っ、あれが茉莉ちゃんのお兄ちゃんなのっ?
‥‥茉莉のお兄さんですって?‥‥‥い、いいわ‥‥すごく、いいわあ‥‥
‥‥はああ‥‥ま、茉莉子、わたしのこと、お義姉さんって呼んで‥‥
‥‥うぐ‥‥そこ入ってすぐ右よっ、お兄ちゃんっ!
保護者としては当然、茉莉子の学校生活を把握しておく必要がある。
女子高だから、おかしな野郎はいないだろうが‥‥
いや、先公も最近はあてには出来んからな。
事実、担任には驚かされた。勿論、違う意味で、だが。
えらいキレたお姉様だったな。
‥‥あたいが茉莉子の担任だ。桐島っつうんだ、よろしく頼むぜ。
‥‥は、はい‥‥よ、よろしくお願いします‥‥
‥‥なんだ、なんだ‥‥しっかりしろいっ、おめえ、保護者だろうが?
‥‥は、はあ‥‥
‥‥茉莉子に聞いたんだが、兄貴の趣味は空手だってな?
‥‥いや、テコンドーですよ、韓国の‥‥でも、趣味って訳では‥‥
‥‥ほう‥‥それと、兄貴は手合わせで負けたことがない、とも聞いたな‥‥
‥‥あ、あいつ‥‥余計なことを‥‥ 
‥‥やるじゃねえか‥‥‥体育館の裏がいいかな‥‥ちょっと付き合えよ‥‥
‥‥そ、それよりもっ、進路について話をしませんかっ!? 
茉莉子のヤツ、遅刻しなきゃいいが‥‥ 
琉球空手の使い手とか言ってたしな。 
学生の頃に那覇手の達人とやりあったことがあったが、足技がかなり強力だ。
まさかとは思うが、遅刻したら踵落としとか食らうんぢゃないだろうな‥‥

ソファに座って珈琲を飲みボケっとテレビを見る。ああ‥‥極楽だな。
昨日茉莉子との話に出た、あのお天気お姉さんが画面に再登場だ。
おや?‥‥お台場だ。
そうか‥‥中継するって言ってたな‥‥
昨日だったらよかったのにな。
実物も拝めるのに‥‥

『今日はお台場に来ています‥‥ここ展示会場では‥‥わあっ!?』
ん?‥‥なんだ? 
あれ‥‥氷室じゃないか? 
ま、真っ黒になって‥‥
元々地黒だが、あれは炭で真っ黒になってる感じだな。
カメラに向かってポーズとってやがる‥‥ば、バカか、あいつは。

プルルルル‥‥プルルルル‥‥
電話が鳴る。
受話器を取ると‥‥
『大神はんっ!』 
「び、びっくりした‥‥香蘭かい?」
『何を呑気な‥‥昨日渡した“脳天気的蜘蛛真赤出欠”やっ!』
「の、能天気にくも膜下出血ぅっ!?‥‥な、なんだよ、それ」
『頭につけい言うたやろ、あれやっ!‥‥大神はん、試験せんかったやろ』
「頭につけて‥‥あ、ああ、あれか‥‥それがどうかしたのか?」 
『代わりに氷室はんが被験者になったんや。もともと大神はんの脳波に合わせて
 あったから氷室はんには合わんかったんや。おかげで‥‥』
「‥‥おかげで?」
『バクハツしてもうたんや〜』
「‥‥‥‥‥」
嫌な予感はしたが‥‥的中したか。
氷室のヤツも災難だったな‥‥南無阿弥陀仏‥‥
『ブースの一角はメチャクチャ、かえではんの機転で締め出されずには済んだんや
 けど‥‥報道も来るゆうし、もう、うち、クビになるかもしれへん。どないしょ、
 大神はん‥‥』 
「‥‥なるようになるしかない」
『‥‥冷たいお人やなっ』
「そうじゃなくて、その実験を中止すべきかどうかの是非が下る、ってことだよ。
 時間は戻せないからな‥‥まだ予備はあるんだろ?」
『‥‥うん』
「月曜に実験室で続きをやろう。俺に合わせてあるんだろ?、俺が被験者になるよ」
『‥‥ほんま?』
「ああ。すぐには中止命令は来ないと思うから‥‥反論材料を得ないとな」
『‥‥大神はん、他に予定あるんやないの?』
「早いほうがいいな。それよっか、現地に行ったほうがいいんじゃないか?‥‥
 かえでさんも大変だろ?」
『うん。わかった‥‥大神はん‥‥』
「ん?」
『月曜‥‥よろしゅう、お願いします‥‥ほ、ほな‥‥ガチャ‥‥ツー、ツー‥‥』
受話器を置いて暫し考え込む。
氷室も怪我はなさそうだ‥‥テレビを見た限りでは。
でも‥‥かえでさんと香蘭‥‥大丈夫かな。
ちょっと‥‥顔出してみようかな‥‥
いや‥‥止めといたほうがいいか。
逆に怒られるな。
あの二人の性格からして‥‥特にかえでさんだ。
個人的にフォローしたほうが無難かもしれない。
俺はテレビを見ながら、結局待機することにした。
締め出されなかった、ということは、かえでさんが上手く処理してくれたはずだ。
氷室も元気そうだったし‥‥

「‥‥なんか、あったんですの?」
「‥‥あ?‥‥ああ、おはよう、麗‥‥げっ!?」
「おはようございます‥‥大神さん‥‥ん‥‥どうしましたの?」
「お前‥‥すごい‥‥格好‥‥してるな‥‥」
「え‥‥きゃっ、す、すぐに、着替えて‥‥」
俺の声で麗子が目を覚ました。寝起きそのままの格好でリビングに姿を現すヤツ。
麗子は茉莉子から借りた古着のシャツ一枚というナリで眠っていたらしい。
それも寝乱れてボタンは殆どはずれてるし‥‥
俺の位置からは逆光でシャツも透けて見えてしまう。
麗子は普段和服着てる‥‥それが‥‥意外に、なかなか、ふむふむ‥‥
暫くすると、今度こそ和服を着用して麗子が姿を見せた。
とは言っても、相変わらず合わせ目はいい加減だ。
どっちにしろ、見てくれ、と言わんばかりのナリだ。
 
「お、お騒がせしまして‥‥おほほほ‥‥」
「茉莉子が朝飯作ってる。味噌汁は温めなおしたほうがいい」
「み、味噌汁、ですの‥‥?」
「ああ‥‥?」
「ど、どうしたらいいんですの?」
「え‥‥?」
「温めるって‥‥」
「お、お前‥‥炊事も出来なくなっちまったんか?」
「‥‥すいません‥‥わたくし‥‥」
「あ‥‥ま、まあ、しょうがないよな‥‥」
珈琲を飲み干すと、俺はソファから立ち上がって台所に向かった。
麗子は手持ちぶさた、という体裁だ。
ほんとに何も出来なくなったようだ‥‥それもしょうがない話だ。
麗子は帝王学を叩き込まれた。淑女としてのマナーも‥‥それ意外は無用だ。
特に普通の女性が必要とされる技術は彼女にとっては全く必要のないものだ。
朝飯の準備‥‥準備と言っても、茉莉子の作ったおかずを用意するだけだが、
俺が動いてる間、麗子は何も出来ずに、下を向いてもじもじしてるだけだった。
「‥‥気にすんな。お前には必要のないことだからな、これは‥‥」
「で、でも‥‥でも‥‥」
「‥‥慣れの問題さ、麗子‥‥子供の頃は俺のために飯作ってくれたろ?」
俺は麗子の手をとった。
白い腕の右手首。よく見ないとわからないほどの小さな火傷の跡。
「この手の火傷は‥‥その時に出来たんだもんな」
「あ‥‥」
「‥‥卵焼きだったな、今でもあの味は覚えてる」
「一郎ちゃん‥‥」
「‥‥大神さんと呼べ」
「‥‥一郎ちゃん」
「うむむ‥‥さあっ、はやく飯を食えっ」
俺は再び珈琲を煎れた。
二人分。
俺も茉莉子も朝飯を食うのは早い。テレビを見ながら、5分もかからない。
麗子は‥‥信じられないほどに遅かった。
俺が湯を沸かし豆を挽いて、それから珈琲を煎れた後‥‥まだ1/3も食が進んで
いない。お淑やかに、も、ここまで行くと‥‥
「‥‥いつからそんな飯食うの遅くなったんだ?」
「え‥‥わ、わたくしは小食ですから‥‥」
「顔色も‥‥白いと言うより、青白いな‥‥‥もっとちゃんと食べなきゃだめだぞ、
 麗子。お前だっていつかは母親になるんだ、お前がしっかりしなきゃ‥‥子供に
 だってよくないんだからな」
「は、はい‥‥これからは‥‥そうします‥‥一郎、さん‥‥」
「‥‥大神さんと呼べっ!」
「‥‥一郎さん」
「うぬぬぬ‥‥ほれ、珈琲だっ」
「わ、わたくしはお紅茶のほうが‥‥」
そんな食事は初めてだったのだろうか。
俺がまじまじと見つめていると、麗子は尚のこと食が遅くなっていった。
箸を口に運んでは、暫くそのままでうじうじしている。
顔色は‥‥少しは赤みを取り戻したようだったが‥‥
食いにくそうだったから、俺はソファに移動した。

テレビを見る。
まだあの娘が映っていた。先程とは別番組のようだ。
お台場からの中継も本格的になったらしい。
「‥‥今日はお休みですの?」
「ん‥‥ここんとこ、茉莉子の相手してなかったし‥‥たまには、ね」
「‥‥優しいんですのね」
「お前だって‥‥兄貴に対してはそうしてるだろ?」
「お、お兄様は‥‥か、関係ありませんわ‥‥」
「確か‥‥中国行ってるって‥‥明日帰ってくるんだろ?」
「‥‥‥‥」
「お前と同じ‥‥いや、お前はもっと優しいよ、麗子‥‥」
「‥‥‥‥」
「朝飯食ったら送るよ‥‥今日も忙しいんだろ?」
「‥‥‥‥」
「たまには息抜きしろよ‥‥お前自身のためにな」
「‥‥‥‥」

食事も済んだようだ。
麗子は何も言わずに食器を台所に下げた。
そして‥‥あろうことか、着物に襷をかけて、食器を洗い出していた。
「お、おい、そんな‥‥俺が後でやるよ」
「‥‥‥‥」
「麗子‥‥」
「わたくしは役立たずにはなりたくありません。特に‥‥あなたには‥‥」
「だから、そんなこと思ってないって‥‥」
「わたくしは普通の女にだって‥‥なれるんですっ」
「れ、麗子‥‥」
涙目になって麗子はひたすら食器を洗った。
不器用な手並みで‥‥それでも一生懸命に。
茉莉子のそれを目にしている俺にとっては‥‥見ているのも何だか辛かった。
それほど、麗子はがむしゃらに食器を洗っていたんだ。
俺はただ、何も出来ず、何も言えずに、その後ろ姿を見つめるしかなかった。
和服の後ろ姿‥‥
髪は結って‥‥ないな。
そうだ、麗子の髪は肩にかかる程度の長さだし‥‥
髪を延ばしたら‥‥きっと似合うかもしれないな。それを結って‥‥
お、俺、何考えてんだ‥‥
今度は俺が手持ちぶさたになってしまった。
電話をかけ、タクシーを調達する。
麗子の実家は同じ横浜だが、歩いて行ける距離ではない。
横浜とは言っても、葉山寄りだ。電車もない。
電車が通っていても、麗子は乗らんだろうし‥‥
受話器を置くと麗子は襷を解いたところだった。
台所は完全に初期化されていた。俺が食った後の食器まで奇麗に‥‥
「あ、ありがと、麗子‥‥助かったよ」 
「‥‥‥‥」
まだ涙目で俺を見る。
なんだ‥‥? 

‥‥わたくしを見て‥‥
な、なんだよ‥‥
‥‥お願い‥‥

なんでそんな目で‥‥俺を見るんだ‥‥
ど、どうしちまったんだ、俺‥‥
「タ、タクシー呼んだから‥‥途中まで一緒に‥‥」
「‥‥‥‥」
「な、なあ‥‥」
「‥‥時間を‥‥ください」
「‥‥え?」
「‥‥あと一年‥‥あと一年待ってください」
「な、なんのことだよ‥‥」
「昨晩のこと、今朝のこと‥‥ありがとうございました、一郎さん」
「な、なんだよ、急に‥‥」
なんだってんだ、いったい‥‥
麗子はすぐに振り向いて玄関に向かった。
見送りはいらない。そう言って麗子は家を出て行った。
後を追う間も無く‥‥





(10)

昼過ぎ、俺は単車の整備をすることにした。
午前中はお台場からの連絡待ちで部屋に待機していたんだが、結局電話はなかった。
かえでさんが俺を招集するとは考えられんが‥‥ま、何にしてもよかった。
単車は中古で買った“ホッグ”‥‥つまりハーレーだ。
中古とは言え、流石にハーレーの上物で100万以下は見つからない。
俺は貯金の殆どを投入してこいつを手にいれた。それも‥‥大学を卒業する直前に。
ハーレーでメジャーなのはチョッパーとツアラーだが、俺のは違う。
ドラッガーだ。
ハンドルもセパレートでタイヤも前後17インチ‥‥やや前傾気味で乗るスタイル。
フレームも補強してある。これは購入した時からだ。
前オーナーはかなり思い入れがあったらしい。
エンジン自体は二気筒ノーマルOHVだが、購入してすぐフルオーバーホールした。
ついでに吸気系をチューニングしている。
それで‥‥就職する時は貯金ゼロになっちまった。
100km/hまでだったら、どんな国産よりも早いぞ。
ただそれ以上となると‥‥辛い。そりゃハーレーだからな。
だいぶ前だが第三京浜でブチ抜かれた‥‥わかっちゃいても、結構悔しい。
ボーナスも入ったことだし‥‥スーパーチャージャーでもつけようかな。
ボルトオンで繋ぎ込みが出来そうなの、こないだ見つけたしな。
空冷だからオイルクーラーもつけないと‥‥う〜ん、また金欠だ。
茉莉子は絶対反対するな。家計は全て茉莉子に一任してるし‥‥
俺の安月給でこんな生活出来るのも茉莉子のおかげだ。
やっぱ贅沢はやめよ‥‥
そう言えば香蘭も単車乗ってるって言ってたな。
なんつうったっけ‥‥名前‥‥紅い単車で‥‥ベムでもないし、ドカでもない‥‥
う〜ん‥‥だめだ、思い出せない。
暫く乗ってなかったために、始動もかなりグズってたが‥‥なんとか大丈夫そうだ。
セルなんてない。ひたすらキック、キック、だ。

ドッ、ドッ、ドッ‥‥
大排気量Vツイン独特のエンジン音。
国産の音は好かん‥‥と言えば聞こえはいいが、実はラッキーストライクのCM見て
欲しくなっただけなんだよな‥‥ええ加減なヤツだな、俺って‥‥
あ、ちなみに俺は煙草は‥‥止めた。
大学ん時は吸ってたが、就職して‥‥茉莉子に止めさせられた。
煙草吸う人は嫌いっ‥‥って別にお前に好かれようなんて‥‥とか言い出したら、
茉莉子のやつ、いきなり泣き出しちまったからなあ‥‥
『おのれ、死に至るざんす』
‥‥くわばらくわばら。

タッタッタッタッ‥‥
ん‥‥これは足音だな。だれだろ‥‥
振り向くと‥‥
「大神さんっ、どっか出かけるんですかっ?」
「あ‥‥椿さん‥‥‥出るのは3時過ぎです。その前に調子を見ておこうと‥‥」
「ね、ね‥‥お願いがあるんですけど‥‥」
「?」
「川崎に行かなくちゃいけないんですよ‥‥乗せてってもらえませんか?」
「‥‥電車で行ったほうが早いと思いますよ」
「駅から結構歩くんですよ〜‥‥だから、ね、お願い」
何やらデカイ封筒を持ってる。
原稿だろうな。そうか、締め切りギリギリって訳か‥‥
「高速は使えないから遅れるかもしれませんよ?、それでもいいなら‥‥」
「やったあっ、じゃヘルメット持ってきますね」
「え‥‥」
「わたしもいつかバイクに乗ろうと思って‥‥ヘルメットだけは買ってたんです。
 待ってて下さいね」
タッタッタ‥‥
椿さんはすぐに戻ってきた。
最初から俺をあてにしてたらしいな。
「第一京浜を使います‥‥川崎に入ったら、指示のほう、宜しくお願いしますよ」
「はいっ‥‥へへ、大神さんとドライブだ‥‥へへへ‥‥」
「え?‥‥それじゃ、しっかり掴まっててくださいっ」
ドッ、ドッ、ドドドド‥‥
横浜の北に位置する俺の家から川崎までなら、第一京浜を使うのが一番早い。


陸橋が見えた。 
乗客を満載して東京に向かう電車。昼過ぎだってのに‥‥信じられんな。
「やっぱり満員ですね‥‥わたし電車苦手なんですよ〜」
「ははは‥‥とりあえず乗せた甲斐はあったんですね」
「勿論ですよっ、もう感謝感激ですっ」
そう耳元で言って椿さんは殊更に俺にしがみついてきた。
背中が‥‥うれしいぞ。

すぐに下り電車も見えた。
俺が乗ってる単車が走る方向とは正反対だ。

その時だった。
俺はその客車にしかるべき人を発見した。

一瞬。
そう、相対で100Km以上の速度であるにも関らず‥‥
俺ははっきりと見た。
その人を。
その‥‥桜色の少女を。
その少女も俺を見ていた。
間違いない。
思い違いじゃない。
一瞬。
その一瞬だけ、時間が止まったように思えた。

「大神さんっ!」
「‥‥!」
やばかった。
対向車線にはみ出しかかってた。
「だ、大丈夫ですかっ!?」
「は、はい‥‥」
「す、すいませんでした‥‥」
「あ‥‥あの交差点を左折してください」
「わかりました」

結構早く着きそうだ。確かに電車乗るよりも早かったな。
意外に道も空いてたし‥‥単車の調子を見るには好都合の短距離ドライブだ。
しかし‥‥
あの娘‥‥
横浜で乗り換えるんだろうな。
あの電車は鎌倉方面には行かないし‥‥そうだ、やっぱり鎌倉なんだ。


川崎駅からは歩けば30分以上かかりそうな場所に、その出版社はあった。
これでは確かに‥‥
「助かりましたぁ‥‥何とか間に合いそうです」
「ふふ‥‥なんのこれしき」
「なんか、風になったような気分‥‥やっぱりバイクっていいですよね‥‥」
「‥‥待ってますから、帰りも送りますよ」
「え‥‥ほんとですかっ!?‥‥す、すぐに済ませてきますから‥‥」
椿さんはすぐに建物に中に消えていった。 
うむ、子供っぽいのは中身だけだな。
背中の感触は‥‥うむむむ‥‥あなどれないぞ。
茉莉子やかすみくんにも負けてない。かえでさんに匹敵するかも‥‥


帰りは来る時よりも楽だった。
道もガラガラ。
マンションには3時前に戻れた。
まだ茉莉子も帰ってないだろう。
椿さんは、お礼がしたい、と申し出てくれたんだが‥‥何しろ先約がある。
しょんぼりする椿さん。
ちょっとグラっときたんだが‥‥来週一緒にご飯でも、ということで一段落した。


部屋に戻ると留守電のランプがついていた。
七件。

『麗子です‥‥連絡ください‥‥待ってます‥‥カチャ‥‥ツー、ツー‥‥』 

『かえでです。連絡したいことがあるから電話ください。月曜日の午後の打合わせ
 の件です。よろしくね‥‥カチャ‥‥ツー、ツー‥‥』 

『かすみです‥‥今日は休んだんですね、ずるいなぁ‥‥来週の約束、忘れないで
 くださいよ。それじゃ‥‥カチャ‥‥ツー、ツー‥‥』 

『あ、あの、あの‥‥きょ、杏華ですぅ‥‥あ、あの‥‥また、連絡しますぅ‥‥
 カチャ‥‥ツー、ツー‥‥』 

『氷室だっ、テレビ見たかっ!?‥‥てめえ、とんでもねえの残してくれたな‥‥
 月曜日、覚悟しとけよっ、じゃあなっ、ガチャッ‥‥ツー、ツー‥‥』 

『あれ?‥‥茉莉子ですっ、お兄ちゃん、どこ行ってるの?‥‥約束を反故にする
 つもりじゃないでしょうねっ!?‥‥わたし、三時には帰るからねっ、ちゃんと
 家にいなさいよっ、じゃあねっ、ガチャッ‥‥ツー、ツー‥‥』

『あ、お母さんよ‥‥一郎ちゃん、元気?、ちゃんとご飯食べてる?、茉莉ちゃんは
 どう?‥‥全然電話してくれないから、お母さん、さみしい‥‥でもね、お母さんね、
 全然平気っ、お母さん、泣いたりしないからねっ、ぐひっ‥‥お父さんと変わるね、
 ぐひっ‥‥‥‥一郎っ、貴様、母さんを泣かすとは何事だっ、この親不孝者め‥‥
 勝負するかっ!?‥‥それと、茉莉子の面倒はちゃんと見てるんだろうなっ!‥‥
 まさか、お前、茉莉子によからぬ遊びを吹き込んだりしてないだろうなっ!?‥‥
 くっ、鬼畜めが‥‥許さん‥‥許さんぞっ!、一度帰ってこいっ、勝負だっ!‥‥
 そして、そしてえええっ、二度と家の敷居は跨がせんぞっ!、もう親でもなければ
 息子でもないわっ、とにかく勝負だっ!‥‥はやく帰ってこいっ、わかったなっ!
 ガチャッ‥‥ツー、ツー‥‥』

は‥‥部屋を出た途端、立て続けにかかってきたらしい。 
とりあえず‥‥連絡しなくちゃいけない人にはしないと、な‥‥ 

留守電の対応をひとしきり終えて‥‥俺はぐったりとした。
麗子にだけは連絡がつかなかった。仕事かな?
ほんと、俺みたいに休めばいいのに‥‥
最後のおふくろには参った。
一郎ちゃん、一郎ちゃん、って‥‥いい加減、子離れしてくれんと困る。
それに親父‥‥自分で何言ってるか、まるでわかってねえな‥‥
そこまで言うんなら‥‥望み通り、勝負してやるぜ。
お彼岸を楽しみに待ってろよ‥‥てめえを彼岸に送ってやるからなっ!
くそっ、休みとったからよかったものの‥‥この留守電は茉莉子には聞かせられん。

そうこうしているうちに茉莉子が帰ってきた。 
走って帰ってきたらしいな。
息を荒げて‥‥な、なんか、艶めかしいな‥‥
い、いかんっ、妄想はいかんぞ、おいっ。

茉莉子が旅行の準備をしている間、俺は再び単車を道路に出した。
ふいに見上げる‥‥マンションの一角。
俺の家。茉莉子の家。
その横は‥‥椿さんの部屋だ。
椿さんが俺を見ていた。
なんだか‥‥悲しそうに‥‥
どうしたんだ? 
俺がじっと見つめていると、椿さんは居心地悪そうに部屋に引っ込んでしまった。
お礼を断ったの、気にしてるのかな‥‥


いよいよ出陣だ。
ホッグに跨がる俺。その後ろには茉莉子。
久しぶりの旅行だ‥‥茉莉子は喜びを露にしている。
俺も楽しみだ‥‥二重の楽しみだな。
もしかしたら、あの娘とも会えるかもしれない。
今日も見かけた。
もしかしたら‥‥本当に会えるかもしれない。
ドッ、ドッ、ドッ‥‥
「じゃあ‥‥行くぞ、茉莉」
「うんっ」





(11) 

俺と茉莉子は稲村ケ崎に宿をとった。
湘南の海が見える宿。横浜の海とは勿論全然違う。
右手には江ノ島が見える。少し手前に烏帽子岩も。
はっきり言って、そんなにきれいな海ではない。
しかも湘南海岸は観光客が多すぎる。夏はとみに酷い。
ただ、夕暮れになると‥‥海はどこでも美しく染め上がるようだ。
紅い夕陽に染まって‥‥すみれ色の波が優しく寄せる。
ビロードのような海面。その向こうは夜の世界だ。

俺は茉莉子を宿に残して海岸に出ていた。
茉莉子も結構疲れていたからな。
鎌倉について美術館と天満宮に行って‥‥すぐに時間は経っていく。
茉莉子は古伊万里の皿を吟味していた。
俺はと言うと‥‥何故かバンダナを買った。真紅のバンダナだ。
ハーレーに乗るヤツはバンダナをしててもおかしくはない。
尤も紅いバンダナなど‥‥ちょっと恥ずかしいけど。
空が紅くなった頃に慌てて鎌倉を後にした。
夕陽を鎌倉で見たって楽しくはない。
海だ。湘南の海に行かなきゃ意味がない。
宿を何処にするか悩んだ揚げ句、以前泊まったことがある古い下宿屋に決めた。
そこの女将さんが作る手料理が印象的だったせいもある。
‥‥結局、鎌倉であの娘に会うことは出来なかった。
当然か‥‥こんな短い時間に、なんの伝手もないんだから‥‥
この砂浜でダイアモンドを見つけろ、って言われるようなもんだな。

ザ‥‥
波が寄せる。そしてまた引いていく。
ザザ‥‥
小さな波、そして時折大きめの波。
何故、波の大きさって同じではないのかな‥‥
波の相互作用に地形も絡んでいるのかもしれない。
波の縦モードが潮の満ち引きを示すなら、横モードが波の高さに対応するからな‥‥
確かに相関はあるはずだ‥‥
‥‥馬鹿なことを考えてしまった。
でも、俺はいつも波を見ると、そんなことを思ってしまう。

紅い海、か‥‥
柔らかい潮風。横浜の風とは違った。

ザ‥‥
サ‥‥サ‥‥
「‥‥ん?」
音がした。
その音は波の音ではなかった。
微かに聞こえた‥‥砂の音。
波に混じって聞こえた、砂の上を歩く足音だった。
「‥‥あっ!?」
‥‥いた。
あの‥‥娘、だ‥‥
こんなところに‥‥
桜色の着物が夕陽に染まって‥‥萌えていた。
その娘は俺の座っていた場所からは、かなり遠い位置を歩いていた。
そして道路に向かって‥‥その先には、あの若草色の女性が待っていた。
俺に気付いたようだ。
俺をじっと見つめて‥‥桜色の少女も振り向いて俺を見つめた。

暫し時間が停滞したようだった。
そして二人は歩き去ってしまった。
高台になって見えない道路の向こう側‥‥二人の姿はすぐに消えてしまった。
「ま、待って‥‥」
立ち上がって追いかけようとしたが‥‥止めた。
呼び止めてどうする?
ここで会えた。
会えるとは思ってなかった‥‥それが会えたんだ。
焦ることはない。
縁があるからまた会えたんだ。だから‥‥きっと明日も会える。
俺は確信していた。

もう一度海を見る。
夕陽は山に隠れてしまった。
暗くなった海‥‥
まるであの娘がいなくなってしまったから‥‥海も眠りについたのかもしれない。

俺は砂浜を後にした。
なぜ、俺はここに来たのだろうか‥‥
いや、それはどうでもいいんだ‥‥
目的なんてどうでもいいんだ‥‥


宿に戻ると茉莉子がムスッとした顔で俺を待っていた。
実は茉莉子には何も言わないで海岸に出ていた。
「‥‥なんでわたしを誘ってくれなかったの?」
「わ、わりい‥‥疲れてると思って‥‥」
「湘南の夕陽、わたしだって見たかったんだからっ、お兄ちゃんと‥‥一緒に‥‥」
「そ、そっか‥‥」
「‥‥ばか」
ムっとした表情も、最後には悲しいそれになっていた。
茉莉子のこういうところ、俺、結構‥‥好きなんだよな。

広い風呂に入って、女将さんの手料理食って‥‥俺も茉莉子も上機嫌になった。
来てよかった‥‥
湘南の海は朝日が見える。
明日は茉莉子と一緒に日の出を見るとするか‥‥

スス‥‥
襖が開く音。
女将が入ってきた。布団を敷いてくれるようだ。
「‥‥ご一緒でよろしいですか?」
「‥‥はい?」
「お布団ですよ。それとも‥‥別々にしますか?」
女将が言う。
「別々で‥‥」
俺は慌てて後者を選ぼうとするが‥‥
「い、一緒で‥‥いい、です‥‥」
茉莉子がそれを遮った。
「はい‥‥では、ごゆっくり‥‥」
女将が布団を敷いて引き返して行った。
デッカイ布団だな‥‥
ダブルベッドは見たことあるが、布団のダブルサイズは初めて見た。
茉莉子もそう思ったらしい。
「一緒に‥‥寝ても‥‥いいでしょ‥‥?」
「た、たまには‥‥いいかも、な‥‥‥‥そうだよな、別に問題ないよな」
俺は‥‥何を‥‥考えてんだ? 
何も考えてないっ!
茉莉子は‥‥?
茉莉子は‥‥何を思ってるんだ‥‥?
茉莉子は、じっと下を向いて、敷いたばかりの布団の上に座り込んでるだけだった。

夜の帳。
湘南の海は横浜とは違う。
海に明かりは見えない。
江ノ島と葉山にうっすらと光が見える程度。
暗い海。だから余計、星明かりが眩いほどに煌めいて見える。
俺は部屋の窓を開けて空を見上げた。茉莉子もすぐ横に来て俺に習う。
「きれい‥‥」
「そうだな‥‥」
「うちから近いはずなのに‥‥こんなに違うものなの?」
「‥‥今日は特別かもしれないな」
「‥‥特別な日‥‥そっか‥‥そうだね」

照明が消えた宿。
明かりはない。星明かりだけ‥‥月明かりだけ。
満月の明るい光がうっすらと布団を照らす‥‥茉莉子の横顔を照らす。
夢のような美しさだった。
茉莉子がすぐ横にいる。手を延ばせば届くところにいる。
‥‥眠れない。
当然か‥‥
当然‥‥?
何故?
茉莉子も眠ってはいなかった。気配でわかる。
「なんか‥‥眠れない‥‥」
「‥‥‥‥」
「お兄ちゃん‥‥」
「‥‥ん?」
「‥‥お兄ちゃん」
「どうした?」
「‥‥もうちょっと‥‥近くに行っていい?」
「ああ」
「‥‥手を握ってくれる?」
「‥‥こうか?」
布団の中で握る茉莉子の手。 
変わらない柔らかい手‥‥
それもすぐに離れた。茉莉子から‥‥
「‥‥腕枕してくれる?」
「ああ」
不思議だ‥‥
さっきまで眠れなかったのに‥‥
茉莉子の肩を抱いたとたん、猛烈な眠気が襲ってきた。

花の香りがする。
意識が遠ざかる。
眠い‥‥
頬に感じる‥‥柔らかい風。
甘い香りがする微風だった。まるで‥‥吐息のような。

波の音が聞こえる。
横浜では聞こえない‥‥波の音だ‥‥
砂浜に‥‥寄せる‥‥小さい波‥‥大きい波‥‥
暗い海‥‥
暗い‥‥

俺は眠っていた。
深い眠りへ‥‥
深く‥‥とても深く。
覚めることのない夢に中に落ちていく。
取り戻すことの出来ない時間の中へ‥‥戻って行くのか‥‥




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