(12) 

大神はふいに目を覚ました。
暗い部屋。
潮の香り。
風が運んできたらしい‥‥カーテンが緩やかに揺れている。
はっきりしない意識の中でぼんやりと天井を見つめる。
見たことがない。
帝国劇場のそれとも違う。
それもそうだ‥‥劇場には潮の香りはない。

夢を見ていた。
長い夢。
知っている人。知らない人。
知ってる世界。知らない世界。
知らない人であるにも関らず、何故かどこかで会ったような人たち。
知らない世界に住んでいるのに、何故か違和感がない。

『ここは‥‥どこだ‥‥?』
起き上がろうと意識を向けるが、身体が言うことを聞かなかった。
金縛りにあっているかのように。
『俺は‥‥あの時に‥‥倒れて‥‥』

ふいに気配を感じた。
自分が寝ているベッド、そのすぐ横に一人の女性がうずくまっていた。
ベッドに顔をうずめるように‥‥
赤いランプが照らす、そのチャイナドレスには見覚えがあった。
いつもは後ろで束ねている髪も、この時は紐が解かれていた。
長い黒髪が頬に流れる。まるで横顔を隠すかのように。
涙で濡れた、その横顔を‥‥

『‥‥暁蓮、さん‥‥ここ、は‥‥暁蓮さんの‥‥家、なのか、な‥‥』
手を動かそうとするが、やはりぴくりとも動かなかった。
その女性を見る自分の目も、視界の端に捉えているに過ぎない。
目すら動かせない。
瞼が開いているだけ?‥‥いや、ほんとは目は閉じたままなのかもしれない。
気配がまるで目で見ているかのようにわかる。
手で触るかのように。

呼吸を整える。
大地から得る。大気から集める。
自然に、地球に、意識を同化させる‥‥そのようなイメージだ。
大神は意識の触手を延ばした‥‥風になるイメージ。
部屋の外。別の部屋。建物の至るところへ。
‥‥だれかいる。
青い男性だった。
屈強な男‥‥
見覚えがある‥‥いや、気配の記憶、と言ったほうがいいのか‥‥

大神は屋敷の外にまで意識を広げた。
夕陽を感じた。
紅い景色。そしてすみれ色のビロードが広がる。
『海が見える‥‥ここは‥‥そうか‥‥横浜か‥‥』
夕陽が照らす横浜の海。
荒れ果てた横浜の海岸‥‥帝都に視線を向けると港が見える。
横浜港には外来の船が停泊していた。
潮の香りに乗って異国の気配までも流れてくる。

「‥‥う‥‥‥ん‥‥‥」
『‥‥暁蓮さん‥‥‥‥あ‥‥泣いてたの、か‥‥?』
群青のチャイナドレスが震えた。
頬を隠していた黒髪が流れて、その涙の跡を露にする。
見ている訳ではない。だがそうだと大神にはわかった。
涙の跡が脳裏に焼き付く。
「う‥‥ん?‥‥あ‥‥寝てしまったのね‥‥‥」
『暁蓮さん‥‥』
「‥‥大神、くん‥‥大神くん‥‥」
『‥‥俺は‥‥くっ、身体が動かない‥‥どうしたんだ‥‥?』
「熱は下がったみたい‥‥よかった‥‥」
大神の額に手を寄せるチャイナドレスの女性‥‥名は暁蓮と言った。
安らかな寝息をたてる大神。熱も下がっている。
唇を寄せる度に苦痛の表情を示す大神だったが、それもだいぶ緩和されたようだ。
暁蓮は思いきって、もう一度‥‥大神の顔に近寄った。
「う‥‥」
「‥‥ぐすっ‥‥やっぱり‥‥わたしじゃ‥‥だめなの‥‥?」
『か、身体が‥‥‥‥違うんです、暁蓮さん‥‥暁蓮さん‥‥』
「ぐすっ‥‥ぐすっ‥‥どうしたら‥‥わたし、どうしたらいいの‥‥?」
『泣かないで‥‥泣かないでください‥‥』
「大神くん‥‥大神くううん‥‥」
暁蓮は大神の胸にすがりついて、また泣いた。
大神の胸にすがりついて泣いて眠る。
目を覚ましては大神を見て、大神に想いを馳せて‥‥また泣く。その繰り返し。
目を閉じたままの大神、眠ったままの大神‥‥そう、肉体は眠っている。
だが、目を閉じてはいても、身体は眠っていても、大神は目覚めていた。
暁蓮の涙をぬぐうこともできない。
言葉をかけることもできない。

暁蓮は再び眠った。
大神も眠っている。
首もとにかかる暁蓮の吐息。悲しいほどにか弱く、か細い風だった。
暁蓮の体温を感じる‥‥冷たい。
それほど肌寒い訳でもないのに、暁蓮の身体はひどく冷たかった。
それも大神にすがりついているうちに、ゆっくりと温められていったようだ。
暁蓮の頬に赤みがさす。
涙で濡れた悲しい表情もいつしか優しい寝顔に変わっていった。
夢の中では望みを叶えられたのだろうか‥‥?
暁蓮の心臓の音。それも儚げに大神に伝わってくる。
大神の半分しかなさそうな心拍。それもいつしか大神の心拍に同期していた。

「大神、く、ん‥‥‥おお、が、み‥‥く‥‥ん‥‥」
寝言に悲しい色合いはなかった。
体温も心拍も呼吸も、暁蓮のそれはいつしか大神と同一になっていた。
まるで質量を持った風に抱かれているようだった。
いや、大地かもしれない。
不思議な感覚‥‥苦痛はない。
失神する直前まで大神を拘束した痛みは嘘のように消えていた。
代わって大神を支配したのは‥‥地に抱かれているような感覚だった。
土に還る‥‥?
肉体が滅んだ時‥‥死ぬ時の感覚とは、このようなものなのかもしれない。
土に還る、生命の源に還る、地球に還る。
勿論、死の恐怖など微塵も感じられない。死ぬ訳ではないのだから。
死を司る者‥‥それが暁蓮なのだろうか‥‥闇を司る自分の兄と同じように‥‥
大神は一瞬思って、すぐに否定した。
再び睡魔が大神を襲った。
肉体は眠っている。そう、心が肉体と同じように眠りを欲したようだ。
意識が遠ざかる。
それが途切れる瞬間、大神は何か懐かしい気配を感じた。
だれかが‥‥近づいている‥‥だれだろう‥‥
懐かしい闇‥‥優しい‥‥闇、だ‥‥

大神は再び眠りに落ちた。
暁蓮を抱いたまま‥‥地に抱かれたまま‥‥


‥‥‥‥


暗い部屋。
光が殆ど入り込まない部屋は人が住むために作られたものではなかったらしい。
時折金属の軋む音と共に部屋がゆっくりと揺籠のように揺れる。
そこは船の貨物倉庫だった。
正式な手続きを踏まずに海外から運ばれてくる品々‥‥つまり密輸品。
密閉された木箱の一部大きめの穴が開いていて、中身が確認出来るものもあった。
虎の剥製だ。
植物もある‥‥大麻らしい。
そして‥‥人間もいた。
数名。
荷物に紛れ込ませて来日した密航者たち。
荷物同様に扱われて‥‥故郷を後にした人々。
故郷を捨てる‥‥あるいは追い出されたのか‥‥
荷物に隠れるように船室倉庫に蟠る人々の表情は、部屋以上に暗かった。
暗い部屋に暗い表情の人々。服もかなり汚れている。

「‥‥くすん」
「‥‥着いたら君を帝都に連れていくから」
「くすん‥‥‥帝都?‥‥東京のこと?」
「ああ‥‥ただ‥‥君の想い人は日本にはいないらしい‥‥すまない」
「‥‥くすん‥‥‥くすん‥‥」

その少女のチャイナドレスは灰色だった。
元は白かったかもしれない。
だが、もう白い部分などなかった。
チャイナドレスから覗く肌も‥‥本当は白いのかもしれない。
部屋の暗さではそれも伺い知ることはできない。
あるいは服同様、油と埃にまみれて白い面影など残っていないのかもしれない。

「泣かないで、暁蓮‥‥君の‥‥妹さんが帝都にいることがわかったんだ」
「くすん‥‥えっ!?‥‥ほ、ほんとっ!?」
「今まで黙ってて悪かった‥‥日本に戻れる自信がなかった。だから言わなかった。
 妹さんは俺の知り合いが一緒にいる。それに‥‥驚くなよ、もう一人見つかった」
「え‥‥ええっ!?」
「もう、泣かなくていいんだよ、暁蓮‥‥明日になれば、きっと‥‥」
「‥‥わたし、幸せになれるんだよねっ!?」
「勿論さ。君が想い人に会えるまで‥‥君たち三人は俺が護るから‥‥」

護るから‥‥


‥‥‥‥


『‥‥なぜ‥‥泣いてるんだ‥‥』
眠りが浅くなると共に人は夢を見る。
大神は夢と現実の狭間にいた。
眠りから覚めても身体は動かない。もう夢と現実の区別すらつかない状態だった。
群青のチャイナドレスが見える‥‥そう、少なくとも今は現実のはずだ。
さっき見た‥‥夢か?‥‥あの少女は‥‥
今自分の胸で眠っている群青のチャイナドレスの女性とは違うように思えた。
いや、同じ少女に決まってる。なのに‥‥どこか‥‥違う。
誰かに似てる‥‥だれに?

なぜ、あんな夢を見たのだろうか‥‥
暁蓮が触れているから?
暁蓮が見せた夢なのだろうか‥‥
あれは本当に夢なのか‥‥?
これは本当に現実なのか?

『‥‥そうだ‥‥あの時から‥‥何かが変わった‥‥何かが始まったんだ‥‥』
初めて出会った帝国劇場のロビー。
ぴったりと寄り添って‥‥触れ合って‥‥
そして‥‥紅蘭は行ってしまった。
初めて出会った‥‥あのロビーで。
『‥‥いや‥‥待て‥‥違う‥‥もっと前に‥‥会ったことが‥‥』
奇妙な既視感に捕らわれる大神。
そして眠りに誘う眠り姫。

風が入り込んできた。
カーテンが揺れる‥‥赤いランプが照らす暗い部屋。
その部屋に差し込む月明かりも赤かった。赤い満月。

大神はまたもや意識が遠ざかっていった。
思い出さなければいけないはずの記憶‥‥その記憶を取り戻すための過去へ。
夢がきっとそこへ連れて行ってくれる。

大神の想いとは裏腹に、見る夢は過去への回帰ではなかった。
未来へ繋ぐ掛け橋‥‥それは夢を与える者の使命なのか。
大神がその夢を見たとき、暁蓮はもう大神の傍から離れていた。
想い人に会うために‥‥?
代わって大神に触れていたのは金髪の巫女だった。

赤い月が大神を闇の世界へ導く。
綻びの接吻が大神を別世界へと誘う。
そして、夢を与える者が為した“治療”は、大神を再び“そこ”へ導いたのだった。





(13)

チュン‥‥チュン、チュン‥‥
「う〜ん‥‥‥‥朝、か‥‥‥はっ、いかん、遅刻かっ!?」
窓から差し込む朝日がやけに眩しい‥‥これではもう7時を廻っている。
俺は時計を探した。枕元に目覚まし時計が置いてあるはずだ。
何故鳴らなかったんだ?
いつもは6時にセットしてるのに‥‥
だが、俺は枕元に視線を送る前に、真横を見て完全に凍りついた。
「ま、ま、茉莉‥‥子‥‥?」
「‥‥すう‥‥‥‥むにゃ‥‥‥‥すう‥‥‥」
「な、何故‥‥あ‥‥そっか‥‥ここは‥‥そっか、湘南に来てたんだ」
納得した。ほっとした。会社は休みだったんだ。
安心した‥‥んだろうか?
茉莉子が横でぐっすりと眠っていた。
腕が痺れる。
茉莉子は俺にしがみつくように眠っていた。
まるで子供だな‥‥寝顔だけ見てると。
「‥‥たい、ちょう‥‥‥‥たい‥‥ちょう‥‥」
「?‥‥体調?‥‥??‥‥隊長、かな‥‥?」
「い、いけません‥‥わ、わたしなんかのために‥‥‥むにゃ‥‥」
「‥‥こいつ‥‥‥テレビの見過ぎじゃないか?」
「‥‥や、だ‥‥‥レイ‥‥チ‥‥いや、だよ‥‥行かないで‥‥」
「?‥‥??」
なんとなく子供っぽい寝言を聞いて、ほんの少し安心した俺。
でも‥‥気になることは気になるな。
レイチ、って何だ?‥‥名前、だろうか‥‥ライチじゃないよな‥‥
茉莉のやつ、ライチが好きなんだろうか‥‥最近、料理に凝ってるしな‥‥
材料に逃げられた夢でも見てるんだろうか‥‥
う〜む‥‥さっぱりわからん。
意味不明の寝言というのは‥‥どういう心理の裏返しなんだろうか。

俺は茉莉子を起こさないよう、静かに布団を抜け出した。
腕が痺れる‥‥感覚がないな。
夢、か‥‥
いや、俺も茉莉子のことはどうこう言えないな。
よく思い出せないけど‥‥
麗子に似てたな、夢に出てきた娘‥‥
‥‥わたくしを見て‥‥
麗子に似てた‥‥
‥‥抱いて‥‥ください‥‥
麗子、じゃないよな‥‥
「まさか‥‥俺、ほんとは麗子のことが‥‥‥はっ‥‥ば、ばかばかしい」
洗面所に行って頭から水をかぶる。
ほんと、頭を冷やさないと‥‥

「おはようございます。随分お早いですね」
「ははは‥‥なんか、目が覚めてしまって‥‥」
「朝ご飯までは、まだ時間がありますから‥‥お散歩でも如何ですか?」
ぼけっと洗面所の鏡を見ていたら、後ろを女将さんが通った。
和服に割烹着、髪を結って‥‥まだ30代前半と思われる顔立ち。
はあ‥‥いいなあ‥‥‥うちのおふくろもこうだったらなあ‥‥
なにしろ、俺の母親ときたら‥‥
‥‥一郎ちゃん、一郎ちゃんっ、この服、お母さんに似合う?、ねえ、似合う?
‥‥な、なんだよ、そのフリルは‥‥あ、あなたはフランス人形ですかあ?
‥‥明日は茉莉ちゃんの授業参観日だもん、オシャレしなくちゃ‥‥
‥‥な、なんですとっ!?、茉莉子の学校に‥‥よもや、そのナリで?
‥‥素晴らしいよ、ハニー‥‥一郎っ、貴様も賞賛せんかっ!
親父も親父だよ、全く。
‥‥ちょっと照れるな‥‥いひっ‥‥
‥‥わ、わたしはですね、和服がいいと思いますよ、お母さん‥‥
‥‥一郎、貴様‥‥その口八丁手八丁でか弱き乙女たちを‥‥くっ、外道が‥‥
‥‥はあ?
‥‥男子たるもの常に硬派であるべしっ、その腐った根性、叩き直してくれるぞっ!
親父とおふくろ、実はお見合い結婚だったりする。
‥‥う〜ん‥‥和服かあ‥‥結構いいかも‥‥
‥‥そ、そうしましょうねっ、出来れば俺の卒業式ん時も‥‥
‥‥お母さんのこと、そんなに‥‥一郎ちゃんっ、だ〜い好きっ!
‥‥一郎、貴様‥‥こともあろうに母さんまでも‥‥許さんっ、絶対に許さんっ!
‥‥はあ?
‥‥かかってこいっ、勝負だっ!、母さんは、母さんは渡さんぞおおおっ!
‥‥お母さんが見てるからねっ!、お父さん、一郎ちゃん、ファイトォッ!
いかん。バカ親父との決闘シーンまで思い出してしまった。
おふくろに繊細さを期待すること自体、無謀だよな。

「あ、あの‥‥この辺りで珍しいものって‥‥なんかありませんか?」
「?‥‥お土産、ですか?」
「ええ、まあ‥‥」
「そうですね‥‥江ノ島に行くという手もありますけど‥‥」
「江ノ島、か‥‥」
「あとは‥‥ここの近く‥‥七里ヶ浜の方向ですけど、アンティークを扱ってる
 お店がありますね。わたしもちょくちょく行きますよ」
「へえ‥‥じゃあ、散歩がてら、探してみますよ」
「ふふふ‥‥恋人さんに、ですか?」
「ま、まさか‥‥」
「ふふふ‥‥妹さん、やきもち妬いちゃったりして」
「い、行ってきます‥‥」

参った。
あの女将さん、なまじ美人だから‥‥ああいうツッコミされると焦っちゃうよな。
俺は一度部屋に戻って着替えて、そっと宿を抜け出した。
茉莉子はまだ熟睡していた。
茉莉子が目覚める頃には戻れるだろう。
朝焼けの湘南海岸を茉莉子と見るのは‥‥もう遅すぎるしな。


カン、カン、カン、カン‥‥
踏切が閉まってる。
通り過ぎる江ノ電を横目に、俺は海岸と平行して南西の方向へ歩いた。
満員の江ノ電なんて‥‥見たくもないな。
首都圏の電車で唯一好きな路線なんだが‥‥休日に乗るべきではない。
踏切を渡って少し海寄りに歩く。
「‥‥おはようございますっ」
「え‥‥あ、お、おはようございます‥‥」
元気な女子高生が自転車に乗って挨拶してきた。
見ず知らずの俺に‥‥ちょっとうれしい。
おさげ髪が風に揺れて‥‥
そばかすがあったみたいだな、眼鏡もよく似合って可愛らしい。
でも香蘭には似てないな‥‥むしろ‥‥椿さんに似てるかも‥‥
新しい発見だ。よかった、散歩して。
掃除をするおばあちゃん。
新聞を取りに来るおじいちゃん。
お店の開店準備をするお父さん。魚屋さんだ。
子供を見送るお母さん。幼稚園に行くんだろうな‥‥心配なんだろうな。
結構いい風景だな‥‥

風が出てきた。
柔らかい初夏の風だ‥‥潮の香りを運んでくる、優しい風。
湘南は岩場が殆どないから、あまり潮の香りは強くない。

風が吹く方向に進む。流れに従って。風の速さと同じくらいに。
風が導いてくれたようだった。
その店にはすぐに着いた。ここに間違いない。
看板が立っている訳ではないが‥‥ここだと何故かわかった。
意外なことに、こんな朝早くから店を開いている。
近くで掃除をするおばさんを捕まえて聞いてみる。
「ああ、若菜ちゃんのお店だね‥‥」
「‥‥若菜、ちゃん?」
「ああ、とっても奇麗な未亡人さね‥‥土曜日と日曜日は朝の今頃から午前中だけ。
 平日はお昼から五時まで‥‥その時間だけ開いてるのさ」
「へえ‥‥」
「‥‥お前さん、買い物かい?」
「え‥‥ええ、まあ‥‥」
「若菜ちゃんのお目に叶えば買えるけど‥‥」
「‥‥人を見るんですか?」
「見物だけでも価値はあるよ‥‥おっと、爺様の飯を作らにゃ‥‥そいじゃね」
「あ、あの‥‥」

店の扉を見る。
古ぼけた樫の木で作られているようだ。かなり大きい。観音開きだ。
開け放たれてはいるものの、店の中は暗くてよく見えない。
俺は思いきって入ってみた。

「こ、こんにちは〜‥‥」
無音。
食事でもしてるのかな?
少し肌寒い空気。
冷房を効かせているふうでもないが‥‥この季節にこの涼しさは珍しい。
店自体が気温を一定に保つ能力でもあるようだ。
アンティークは敏感なんだろうな、などと納得してしまった俺。
慣れてしまえば、心地よい雰囲気の店だった。
妙に懐かしい気もする‥‥何故だろう‥‥
‥‥誰も出てこないな。
待ってても仕方ない。俺は暫く店の中の品々を見物することにした。

“御霊写手鏡‥‥年代:清朝‥‥価格:応談”
“犬神之勾玉‥‥年代:弥生‥‥価格:応談”
“御不動破魔矢‥‥年代:江戸‥‥価格:応談”
「‥‥高そうだな」
他にも値段が付いてない品々が置いてある。
中には何に使うのかさっぱりわからない物まである。
俺は取りあえず首飾りとか食器とか‥‥使えそうなものを探した。
「う‥‥た、高い‥‥」
とても俺の給料で買えるものではなかった。やはり年代物なんだろうか‥‥
有名な陶磁器にドイツのマイセンがある。
剣を十字に交差したトレードマークが底に描き込まれ、華やかな絵柄が食器を飾る。
西欧では最も古いブランド。
日本の柿右衛門の“赤”に影響を受けたことでも知られている。
メチャクチャ高い。
ここにある陶磁器で値札が付いているのは、そのマイセンを凌ぐものだった。
これでは‥‥無理だな。
麗子にプレゼントしようかなとも思ったんだが‥‥
ちょっとがっかりして他の棚も見てみる。

古いショーケース。
横長の棚に一差しの刀が置いてあった。
鞘はかなり古い。元は紅かったんだろうが‥‥もうあちこち塗りも剥がれている。
柄の網もほつれて‥‥これは結構使い込まれたものなのかもしれない。
鍔は‥‥なんだろ‥‥鷹、かな?‥‥鳥の翼を象っている気もする。
刀‥‥
何ていう名前なんだろ。
妙な‥‥気配を感じる。
妙な‥‥いや、決して不快ではない‥‥
以前、戦国時代の刀を見たことがあるんだが、その時は物凄い嫌な気配を感じた。
人を斬った、からだろうか‥‥人の怨念が染みついているような気がした。
この刀は違う。
‥‥惹きつけられる。
まるで‥‥抜いてくれと‥‥言ってるみたいだ‥‥
なんだ‥‥いったい‥‥


「‥‥それは荒鷹といいます」
「‥‥え」
「霊剣荒鷹‥‥目に見えないものを斬る‥‥闇を斬り裂く光の剣‥‥」
「‥‥‥‥」
俺は目を瞠った。
そうだ‥‥この女性は‥‥
あの‥‥あの娘と一緒にいた‥‥あの若草色の‥‥

「‥‥真宮寺若菜と申します。この店の主をしております」
「‥‥‥‥」
「何かお探し物でも‥‥?」
「あ‥‥わ、わたしは‥‥大神‥‥大神、一郎と申します‥‥です‥‥」
「大神、さん‥‥」
「あ、あの、あの‥‥その‥‥」
「‥‥何度かお目にかかってますわね‥‥」
「え‥‥や、やっぱり、覚えて‥‥いて‥‥」
「ええ‥‥あなたの目は‥‥一度見たら忘れられませんわ‥‥」
そう言って、若菜と名乗るその女性は俺の横に歩み寄ってきた。
若草の香り‥‥果実の香りかもしれない。
不思議な香りがした。

「‥‥声が聞こえましたか?」
「‥‥この刀から、ですか?」
「‥‥‥‥‥」
「な、なんとなく雰囲気が‥‥」
「‥‥抜いてくれ、と‥‥?」
「な、何故‥‥」
つぶらな瞳で俺を見る。
あのおばさんは未亡人って言ってたよな‥‥ほんとか?
信じられない‥‥どう見たって‥‥かえでさんと変わらないぞ。
奇麗だ‥‥吸い込まれそうだ‥‥

「‥‥剣を使ったことはありますか?」
「い、いえ‥‥親父は結構やるんですが‥‥俺はさっぱりで‥‥」
「そうですか‥‥手に持ってみませんか?」
「‥‥え‥‥いいんですか?」
「ええ。どうぞ‥‥」

若菜さんは暫く俺の目を見つめて、そしてショーケースを開けた。
目の前に翳す‥‥霊剣荒鷹という名の日本刀。
俺は鞘を左手に、柄を右手に持った。

キン‥‥
な、なんだ‥‥?
キン‥‥
あ、頭が‥‥痛い‥‥
「‥‥桜‥‥桜の華が‥‥散って‥‥う‥‥」
「‥‥‥‥‥」
「‥‥お、俺には‥‥向いてないようですね‥‥お返しします」
「‥‥‥‥‥」
若菜さんはただじっと俺を見つめているだけだった。
そしてふいに背中を見せて‥‥奥の座敷へ姿を消した。
俺はただ、荒鷹を持って、じっと見送るだけ‥‥
「あ、あの‥‥」
「‥‥すぐに戻ります‥‥」
「で、でも‥‥」

頭痛は間も無く消えた。
若菜さんもいない。
俺は‥‥なんとなく荒鷹を抜いてみた。

キン‥‥
光は音を発したような気がした。
すごい‥‥剣気だ‥‥
親父が見たら‥‥さぞかし驚くだろうな。
俺には刀を見る目はないが‥‥それでもすごいってはっきりわかる。
闇を斬り裂く、か‥‥確かにそうかもしれない。
忌まわしきものを斬る‥‥目に見えないものを斬る‥‥
俺も‥‥剣、習ってたら‥‥よかったかもしれないな‥‥

暫くすると若菜さんが戻ってきた。
手に何か‥‥風呂敷のようなものを持っている。
「これはお持ちください」
「‥‥えっ!?」
「この剣は‥‥あなたを主と認めた。だから荒鷹はあなたのものです、大神さん」
「で、でも、それは‥‥」
「柄の部分と鞘‥‥それはお父上に直して頂けばよろしいかと‥‥」
「し、しかし‥‥」
「この荒鷹はわたくしどもが持つ剣ではありません‥‥他にありますから」
「え‥‥」

人の気配がした。
あの‥‥娘、だ‥‥
桜色の着物を着て‥‥紅い袴を履いた‥‥おかっぱの少女。
「娘のさくらです」
「‥‥‥‥」
「さくら、こちらは大神さんとおっしゃるそうよ」
「‥‥真宮寺さくら、と言います‥‥はじめまして‥‥おおがみ、さん‥‥」
「‥‥‥‥」
「あなたを見つけたの、実はさくらなんです。あの人は必ずここに来るって‥‥」
「お、俺は、大神一郎というんだ‥‥よ、よろしくね、さ、さくら、ちゃん‥‥」
「は、はあい‥‥」

にっこりと微笑むその桜色の少女‥‥
その名の通り、さくらちゃんと言った。
さくら‥‥さくら‥‥
何か‥‥大事なことを‥‥忘れているような‥‥
大事な約束を‥‥
「さくらとお母様は平気。雷様と風の神様がくれた刀‥‥雷神と風神があるから」
「‥‥雷神と‥‥風神‥‥」
「ええ。ですから‥‥荒鷹はあなたがお持ちください、大神さん」
「あ、あの、お代は‥‥」
「結構ですわ‥‥大神一郎さん」
「し、しかしですね‥‥」
「あなたが、またここに来てくださると‥‥約束してくださるのなら‥‥」
「勿論ですっ、絶対に来ますっ‥‥だって俺もあなたがたを探して‥‥あ‥‥」
「ふふ‥‥よかったわね、さくら‥‥」
「うんっ‥‥約束だよ、大神さん」
「う、うん‥‥約束するよ‥‥さくらちゃん」
「‥‥さくらちゃん、ぢゃなくて‥‥さくらくん、って呼んで」
「え‥‥あ、ああ‥‥さくら、くん‥‥」
「あは‥‥うんっ」
ど、ど、どうしたんだ、俺‥‥
ど、どう見たって‥‥この娘、10歳ぐらいだぞっ!?
な、なんでドキドキするんだ‥‥いかん、いかんぞっ、大神一郎っ!

「そ、そうだ、お礼と言っては何ですが‥‥こ、これを‥‥」
俺は鎌倉で買ったバンダナを渡した。
ポケットに入れたままにしておいて‥‥よかった。
自分が使うには少し派手すぎる。
紅く染めたバンダナ‥‥茉莉子やかえでさんには似合いそうもない。
いや、麗子にも、かすみくんにも、香蘭にも、椿さんにも‥‥
にも関らず買ってしまった。
そうなんだ‥‥俺はきっと‥‥この娘に‥‥さくら、くんに‥‥手渡そうと‥‥
紅い袴と同じ色。
黒髪を飾る、紅いバンダナ‥‥リボンのようにひらひらと舞う。
「わあ‥‥奇麗‥‥ありがとうございます、大神さん‥‥大切にしますっ」
「ふふ‥‥よかったわね、さくら」
「き、気に入ってくれてよかった‥‥じゃ、じゃあ、俺はこれで‥‥」
「約束、忘れないでねっ」
「う、うん‥‥必ず‥‥必ずまた逢いにくるから‥‥」

また逢える‥‥
不思議だ‥‥横浜駅で初めて見かけた時も、初めて逢った気がしなかった。
そして今日。
言葉を交わす、その一言一言‥‥ほんとに今日初めて出会ったのだろうか‥‥
まるで‥‥再会を約束していたかのように。
「絶対だよ‥‥絶対、また来てねっ、さくら、いつまでも待ってるからっ」
そして‥‥再会を約束して別れた。
俺は後ろ髪引かれる想いでその店を後にした。
霊剣荒鷹を手に。
あの母娘の想いが詰まっているような気がした。
鞘から滲み出る霊光。
まるで出会いを祝福するように、朝日に負けないほどに輝いていた。


「‥‥どこ行ってたの‥‥?」
「う‥‥ちょ、ちょっと散歩を‥‥」
「どーして、わたしを置いてきぼりにするのっ!?、すっごい心配したんだからっ!
 昨日だって、久しぶりに一緒に寝られて、うれしかったのに‥‥‥わたしだって、
 たまにはお兄ちゃんと一緒に‥‥散歩したいよ‥‥」
「あ、うん‥‥す、すまん、起こすの悪いな〜って思って‥‥」

案の定、茉莉子はぷんぷんしていた。
俺が宿に戻ったのは8時頃。朝餉の支度も整っているようだ。
「‥‥ぷんっ‥‥あれ?‥‥何、それ‥‥刀?」
「あ、ああ‥‥」
「‥‥‥‥‥」
「?‥‥どうしたんだ、茉莉‥‥?」
「え‥‥あ、ううん‥‥」
「?」
「お兄ちゃん、どこぞで借金までして買い込んできたんぢゃないでしょうね‥‥」
「ち、違うって。ここらへんに知り合いのお店があって‥‥今日取りに行く約束を
 してたんだっ、もらい物だよっ」
「ほ〜‥‥」
「ほ、ほんとだってば」
「まあ、いいわ‥‥はやくご飯食べよ。女将さん、さっきから待ってるんだから」
「う、うん‥‥」

女将さんの作る朝ご飯は、驚くほど茉莉子のそれに似ていた。
つまり、俺の舌に合っていた、ということだ。
白い新米に、豆腐と葱の味噌汁、沢庵に納豆、そしてめざしと生卵。
朝の定番だな。味噌汁も沢庵もほどよい薄味。
美味い。本当に美味いんだ、これが。
「おいしいなあ‥‥わたしももっと研究しなくちゃ」
「ふふふ‥‥ありがとう、茉莉子さん」
「確かに‥‥茉莉子を凌ぐな‥‥美味い‥‥美味過ぎる」
「む‥‥もう作ってやらないから」
「そ、それは、困るよ‥‥ま、茉莉もきっと、もっと上手くなるさ、な」
「‥‥調子いいんだから」
「ふふふ‥‥」

朝飯をたらふく食って、俺と茉莉子は帰宅の準備をした。
また来よう。
茉莉子もそう感じていたようだ。
俺は‥‥そうだ‥‥必ず来なくてはいけない‥‥
約束だから‥‥

ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ‥‥
ホッグに火が入る。
雲行きがおかしいな‥‥雨でも降りそうな雰囲気だ。
女将さんの見送りに、手を振って俺と茉莉子は応え、宿を後にした。
脳裏に浮かぶ桜色の少女‥‥若草色の女性。
さくらと若菜‥‥
‥‥約束だよ‥‥
必ず戻ってくるから‥‥
必ず‥‥





(15)

「‥‥お兄ちゃん」
「ん‥‥?」
「葉山へ行こうよ」
「‥‥何処だって?」
「は・や・まっ‥‥麗子さんちも近いでしょ、ちょっと寄って行こうよ」
「ま、マジかっ!?‥‥お前、どうした心境の変化だよ」
「いいじゃない‥‥なんか‥‥行かなきゃいけないって‥‥そう感じるのよ」
「‥‥‥‥‥」

茉莉子の様子が変だ。どうしたんだ‥‥
茉莉子は子供の頃から、人一倍感が鋭かった。
例えば‥‥茉莉子と二人で買い物をした帰り道。
見通しの悪い交差点で、俺が自転車に乗ってそのまま突っ切ろうとした時、いきなり
前に出てブレーキをかけた。そうしたら‥‥その交差点から大型ダンプが飛び出して
きやがった。
まだある。
親父と最初に大喧嘩した時‥‥
俺は完全に理性を失ってたらしい‥‥親父の木刀を擦り抜けて、そのままネリチョギ
を手加減なしでブッ放した。当然親父も受けようとする‥‥
が、俺の蹴りは木刀で防げるほど甘いモンじゃない。羆も瞬殺出来るほどの力がある
からな。
物理的な力だけではない。俺も薄々は気付いていたが、持って生まれた霊的な力だ。
茉莉子は俺が蹴りを放った瞬間、何が起こるか予感していたようだ‥‥
親父と俺の間に手近の木刀を放った。一本の矢は折れるが三本の矢は折れない‥‥
親父はすぐに茉莉子の意図を理解したらしい。
針の穴に糸を通すが如く、茉莉子の放った木刀は親父の手にすっぽり納まった。
そして二本の木刀で‥‥茉莉子の不可思議な力も加わった、俺と全く同じ“力”で、
俺のネリチョギは防がれてしまった‥‥という訳だ。
勿論その後は親父にボコボコにされてしまったが‥‥
あれが決まっていたら、親父は‥‥
いずれも俺が大学に入った頃の‥‥茉莉子が中学に入った頃の話だ。
その茉莉子が、また同じように様子がおかしくなった。
神崎邸に行くなんて、普段の茉莉子なら絶対に言わない。

俺はそれ以上何も聞かずに単車の進路を葉山に向けた。
神崎邸は葉山から横浜寄り‥‥山手にある。
めったに人の出入りのない場所。人を寄せ付けないような雰囲気がある場所だ。
雲が厚くなってきたな‥‥
嫌な天気だ‥‥


巨大な壁が周囲を覆う。
神崎邸の正門には20分ほどで到着した。意外に道が混んでいたせいもある。
閑静な住宅街から、更に離れた場所にその入り口はあった。
「‥‥やけに静かだな」
「‥‥‥‥‥」
「茉莉‥‥」
「‥‥人の気配が感じられない」
「少なくとも麗子はいるはずだぞ‥‥あいつは週末は家から出ないからな」
「うん‥‥でも、この気配は‥‥いったい‥‥」
確かに俺も妙な気配を感じる。
手に持った‥‥あの剣が、なんだか悲鳴を上げているような気がした。
とにかく、入ってみなければなんとも言えない。

ピンポーン‥‥ピンポーン‥‥
応答がない。
普段だったら執事が対応するはずだが‥‥
これは確かに変だ。
「‥‥裏にまわろう」
「うん‥‥大丈夫かな、麗子さん‥‥」
「‥‥行ってみればわかる」
裏口などない。普通の人間には見えない。
だが、俺は子供の頃、ここで随分と“遊ばせて”もらった。
裏に回り込めば表よりは楽に入り込める。
表の門‥‥あれは最近合金化されてしまったからな、流石の俺も破壊は出来ない。

裏に回って、俺と茉莉子は近場の巨木から壁を乗り越えた。
当然神崎邸の警備システムが作動する‥‥が、これも沈黙していた。
屋敷の中にはドーベルマンまで放たれている。これも反応なし。
「‥‥茉莉子」
「え‥‥」
「これを持ってろ」
「‥‥おにい、ちゃん」
俺は風呂敷に包まれた、あの剣を茉莉子に手渡した。
茉莉子は俺と違って剣の腕がある。
親父ほどではないが、それでも刀を持った茉莉子を相手にするのは楽な仕事ではない。

確か、麗子の兄貴、今日帰国するはずだったよな‥‥中国から‥‥
何かトラブルでもあったんだろうか。
屋敷への道はうっそうとした林になっている。
川まで流れているとは‥‥流石に神崎財閥だ。
おっと‥‥そんなことを考えてる場合じゃないな。

屋敷が見えた。
裏口から入って裏玄関に回り込む。
鍵は‥‥かかっていない。
‥‥妙だな。この勝手口はいつも施錠しているはずだが‥‥

俺はノブに手をかけて‥‥止めた。
「‥‥どうしたの?」
「茉莉子‥‥お前、横浜へ戻れ」
「じょ、冗談でしょ、ここまで来て‥‥」
「親父に連絡しろ」
「‥‥え?」
「親父に連絡して‥‥応援をよこしてもらえ」
「お、応援って‥‥」
「‥‥四季龍だよ」
「!!!」
「‥‥時間がない。はやく行け」
「わ、わかったよ‥‥お兄ちゃん、無理しちゃだめだよっ、いいよねっ!?」
「心配すんなって‥‥それと、その刀、絶対になくすなよ」
「‥‥うん」

茉莉子は林の中に消えて行った。
応援を呼べと言ったが‥‥そんな暇はないだろう‥‥
それほど、俺はこの屋敷の中から異様な気配を感じていた。
いずれにしても、茉莉子を危険な目に合わせる訳にもいかない。
茉莉子だけはこの場所から遠ざけろと‥‥俺の内にあるだれかが叫んでいた。

麗子‥‥
‥‥忘れないで‥‥大神さん‥‥
くそっ、いやな予感がするぜ‥‥

俺は勝手口から20メートルほど横に移動した場所、厨房の窓を割って中に入った。
いつもは必ず使用人が常駐する厨房周辺。だれもいない。
俺は忍びの如く屋敷を移動した。勿論足音など立てるはずもない。
人の気配がしない。
屋敷の中に入ってもそうだった。
二階へ行く。
麗子の部屋は‥‥確か、一番北側だったはずだ‥‥
俺はジャケットを脱いだ。
そして‥‥先程までしていた単車用のグローブをもう一度付け直した。


麗子の部屋の前‥‥
『‥‥だれかいるな‥‥麗子、か‥‥それと、もう一人‥‥』
「いやあああっ!」
「!‥‥麗子っ!?」

バンッ‥‥
俺は飛び込んだ。躊躇などしていられない‥‥麗子の悲鳴が俺をそうさせた。
広い部屋。麗子の部屋は20畳以上はある。
その部屋の一角にベッドが置かれている。麗子はそこでただ震えているだけだった。
白い裸身で‥‥
「い、一郎さんっ!」
そして、その前に立つのは‥‥

「れ、麗一、兄さん‥‥」
「久しぶりだな‥‥一郎‥‥」
「い、いったい、これは‥‥これはどういうことですかっ!?」
「見ればわかるだろ‥‥‥麗子は‥‥俺のモノになるんだ‥‥俺の妹だからな‥‥
 だれにも渡しはしない‥‥」
「‥‥‥‥」
俺は口を開いたまま‥‥二の句が告げなかった。
目の前に立つ青年‥‥
神崎麗一。
麗子の実兄。
俺の従兄。
一歳年上の‥‥俺と全く同じ顔を持つ‥‥兄貴のように慕っていた人。
身体を丸めてシーツに包まる麗子‥‥
白いシーツの上からでもはっきりとわかる、美しい身体‥‥小刻みに震えていた。
「麗子‥‥‥よく見ておけよ‥‥お前の望みなど‥‥何の意味もないことをな‥‥」
「‥‥に、逃げて、一郎さんっ、早くっ」
「‥‥ふ‥‥可愛いやつだ‥‥」
「なんと、いう、ことを‥‥自分で、何をしようとしてるのか、わかってるのか?」
「茉莉子は元気か?‥‥茉莉子は俺を拒絶した‥‥お前が恋しいと言ってな‥‥」
「‥‥‥‥‥」
「俺は茉莉子をも手に入れる‥‥ここで‥‥お前を殺してなっ!」
人の気配が消えていたのは‥‥
まさか‥‥自分の身内を手にかけたのかっ!?
「お、親父さんはどうした‥‥おふくろさんはっ!?」
「俺を抑えようとした‥‥神崎風塵流などカス同然だ。俺に向かってくるなど‥‥
 自殺願望でもあったようだな。従って連中には消えてもらった」
「‥‥狂ってやがる」

俺はもう戦う体勢をとっていた。
相手が誰であろうと‥‥たとえ自分の分身のような‥‥その人であっても。
神崎麗一‥‥俺が一度だけ戦ったことのある相手。それも子供の頃の話だ。
どこまで成長しているのか、見当がつかない。力量を把握することも出来ない。
普段の俺なら、どんな相手でも絶対に怖じ気づくことはないが‥‥相手が相手だ。
こいつはもう以前の神崎麗一ではない。
目が違う。目の色が‥‥なんだ?‥‥金色になったり赤くなったり‥‥

「俺が怖いか‥‥?」
「‥‥‥‥‥」
「ふふ‥‥お前は強いよ、一郎‥‥恐らく大神家でも歴代に名を連ねるほどな‥‥」
「中国で何があったか知らんが‥‥もう兄貴でもなんでもない‥‥ブッ殺すっ!」
「ふ‥‥ふははははははははははは、俺は神崎の名は捨てるぞっ、一郎っ!」

舞い上がる怪鳥。
そう、まさに‥‥吸血鬼を思わせた。
「くっ」
ズズーン‥‥
俺の立っていた位置に穴が空いた。一階部分まで貫通する。
床に空いた穴。その先に一瞬だが、人影が見えた。
彼らは横たわっていた‥‥赤い海の中で‥‥
「おばさん‥‥」
「シャッ!」
「‥‥くっ」
反撃が‥‥出来ない‥‥
ば、化け物か‥‥
人間の反応速度じゃない‥‥
「どうした?‥‥遠慮するなよ‥‥反撃していいんだぞ?」
「うぬぬ‥‥」
鉄の棒をブン回されているような強烈な回し蹴り。しかも動きに些かの淀みがない。
こんな技は神崎風塵流にはない。下手に受けたら致命傷だ。
「ちっ‥‥」
「くっくっく‥‥麗子はいい女になった‥‥お前の名を呼んで抵抗したが‥‥ふ‥‥
 お前の死体を拝めばあいつも諦めるだろうさ‥‥そして俺と一つになるんだ‥‥」
「うぬぬぬぬ‥‥麗子は‥‥麗子はお前を信じてたんだぞっ!?」
「ふふん‥‥何故今までそうしなかったのか‥‥俺としたことが‥‥‥‥そうさ、
 だからお前を始末して‥‥もう一人‥‥茉莉子も俺のものにするのさ‥‥」
「き、貴様‥‥」

凶器のような手と脚を擦り抜けて、俺は相手の懐に潜り込んだ。
一瞬相手の動きが止まる‥‥一瞬だけ。
好機ッ!
俺は両手の掌を兄貴と呼んでいた男の腹部に充てた。
「ふんっ!!!」
ズズン‥‥
俺が使えるのはテコンドーだけではない。
それが大神家の狼虎滅却抜刀術の継承者たる所以だ。
正統伝承者が剣を使わない意志を示した場合、伝承は一子相伝から分派する。
つまり剣は茉莉子へ、格闘術は俺に。
俺の発勁は八極拳が基本にある。岩をも砕く‥‥手加減抜きの一撃だ。
麗一は壁際まで吹っ飛ばされていた。
それでも立っていられるのは‥‥流石と言っておこう。

「もう戦えんだろう‥‥償いはしてもらうぞ‥‥麗一っ!」
「‥‥くっくっく‥‥ふははははははははっ!」
「!?」
バカ、な‥‥
“双龍”を喰らって‥‥平気でいられるとは‥‥
バケモンか、こいつ‥‥
「いいぞ‥‥本当に強くなったな、一郎‥‥殺し甲斐があるというものだ‥‥」
「‥‥‥‥‥」

まるで何事もなかったかのように再び対峙する‥‥吸血鬼。
そうだ‥‥こいつは‥‥人間じゃない。
さっき触れた時にはっきりわかった。
忌まわしい波動。人間の波動じゃない。
「それと‥‥神崎の名は捨てると言ったろう?」
「‥‥魔王にでもなったつもりか?」
「違うな‥‥‥龍だよ‥‥」
「‥‥‥‥」
「我は暗黒の龍‥‥無の世界へ導く者なり‥‥」
「‥‥てめえが逝きやがれっ!」

溜めまくった気合いと‥‥そして霊力を両脚に伝搬させる。
「狼虎滅却‥‥」
「ふふふ‥‥」
俺は神速の踏み込みでヤツの足下に滑り込んだ。
「天地一矢ッ!」
必殺のネリチョギ四段。刀で放つ技を俺がテコンドーで完成させた大技だ。
大気が裂ける‥‥青白い霊光を伴った俺の脚によって。
昇龍の如き上段蹴りがそのまま回し蹴りへ、そしてすぐさま軸足の上段蹴りが襲う。
更にその脚まで踵落しに進化する。今まで誰にも躱されたことがない。
必殺中の必殺技だ。
もう手加減などない。ぶっ殺されて‥‥当然だっ!
「!?」
か、躱され、た‥‥?
「ふっ‥‥見え見えだよ、一郎‥‥」
ズンッ
「がはっ!?」
しまった‥‥
腹にもろに‥‥喰らっちまった‥‥
「ふ‥‥では死ぬがよい‥‥」
まずい‥‥
くそっ‥‥
俺は窓ガラスを割って外に飛び出した。
ここは二階だ‥‥ダメージを喰らって、着地もまともに出来なかった。
ザン‥‥

「く‥‥」
「‥‥逃げられると思ってるのか‥‥?」
「‥‥だれが‥‥逃げるか‥‥」
「外に出たのは褒めてやる‥‥麗子の部屋では俺の技も今イチ調子が出ないからな」
必殺の狼虎滅却奥義が躱された‥‥
技が通じない‥‥どうする‥‥
落ち着け、落ち着くんだ‥‥キレていたままでは勝てない‥‥
中国に行って‥‥何を得てきたんだ‥‥こいつは‥‥
くそっ、このままでは‥‥
「焦ってるな‥‥だが、そろそろ厭きてきた‥‥麗子を待たせる訳にもいかん‥‥」
「‥‥‥‥」
「麗子も、茉莉子も、すぐに気付く‥‥お前と何も変わらんのだからな、俺は‥‥」
「うぎぎぎ‥‥」
「俺と交われば、な‥‥お前に愛されていると思えばな‥‥」
「‥‥んんぬぬぬおおおあああああああっ!」

だめだ‥‥
完全にキレちまった。
「くっくっく‥‥‥‥我が奥義によって‥‥全てを無に帰してやる‥‥」
もう俺には意識がなかった。ヤツの言葉も聞こえない。
自分で何をしたかも覚えてはいない‥‥

「狼虎、滅却‥‥」「破邪、剣征‥‥」

風景が歪む‥‥
俺が放つ俺の‥‥白色の霊力によって。
そしてヤツの‥‥桜色の霊力‥‥桜色、だと‥‥?

「無双天威ッ!!」「桜華天舞ッ!!」

ズズ‥‥ン‥‥


ヒュー‥‥

風が吹いた‥‥

ピーポー‥‥ピーポー‥‥
救急車の‥‥サイレンの音、だな‥‥

「‥‥大神さんっ、大神さんっ」
だれだろ‥‥俺を‥‥呼んでる‥‥

「しっかりして、大神さんっ‥‥一郎さんっ」
麗子、か‥‥
泣くなよ‥‥

俺は再び眠りに落ちた。
いや‥‥失神したんだ。
屈辱的な‥‥敗北によって‥‥





( ending )

寒いな‥‥
ここは‥‥どこだ‥‥?
「‥‥さん‥‥大神さん‥‥」
「お兄ちゃんっ、お兄ちゃんっ!」
「あ‥‥う‥‥あ‥‥ま、茉莉、子‥‥麗子、も‥‥」
「よかった‥‥よかった‥‥」「お兄ちゃあん‥‥ぐすっ」

俺は‥‥
俺は‥‥生きてる‥‥のか‥‥
ヤツは‥‥ヤツはどうしたんだ‥‥
「ここは‥‥」
「家よ、お兄ちゃん‥‥麗子さんが運んできてくれたの‥‥ぐすっ」
「そうか‥‥すまない‥‥麗子‥‥」
「‥‥わたくしこそ‥‥なんとお詫びしていいのか‥‥」
「‥‥麗子、お前‥‥」
「大丈夫ですわ‥‥あの破壊音で‥‥警察が来ましたから‥‥」
「‥‥そうか」
俺は心底ほっとした。
「お兄様が‥‥あのようになるなんて‥‥わたくし‥‥わた、くし、は‥‥」
「麗子、お前‥‥ここにいろ」
「‥‥え?」
「神崎邸には戻るな‥‥ここにいたほうがいい。茉莉子もいる‥‥俺もいる」
「わたくし、が‥‥?‥‥ここにいても‥‥いいのですか‥‥?」
「当たり前だろ‥‥」「そうしようよ、麗子さん‥‥」

俺はゆっくりと起き上がった。
身体が軋む‥‥くそっ、運動不足だったんだ‥‥ちきしょ‥‥
「お、起きてはいけませんわ、一郎さん‥‥」
「寝てられるか‥‥あの野郎、おばさんたちを殺したんだぞ‥‥自分の両親を‥‥
 妹を、お前を手に入れるために‥‥‥‥あの野郎は、絶対に、絶対に許さんっ!」

ニュースの時間になった。
テレビに映るニュースキャスターは、あのお天気お姉さんではない。
彼女は朝専門のようだ。
‥‥神崎邸の話題が出てる。
庭が破壊されて‥‥‥ロビーから遺体が発見された、か‥‥
神崎重工社長とその妻が含まれている‥‥テロリストの犯行か‥‥
『‥‥警察では所在不明となっている二人のご子息、神崎麗一さんと神崎麗子さんの
 行方を全力を上げて捜査しています‥‥』

俺は立ち上がった。
身体のあちこちから悲鳴があがる。
シッ‥‥
俺は唇を噛んで笛を吹いた。人間の耳には聞こえないはずの高周波の音色。
そしてバルコニーに浮かび上がる人影‥‥四人。
「‥‥半径100m以内を警戒しろ」
『‥‥対象は?』
「俺だ。俺と同じ姿をしている。発見したらすぐに連絡しろ。手出しはするなよ」
『‥‥御意』
そして影は消えた。
「な、なんですの‥‥今の方々は‥‥」
「‥‥四季龍よ。大神家の影に付き添う‥‥守護の戦士たち」
「茉莉子」
「‥‥うん?」
「‥‥親父を呼んでくれ」

人手が必要だ。親父に頼るのは‥‥心苦しいが、選択の余地はない。
しかしあれほど力の差があったとは‥‥俺は自惚れていた。
今のままでは‥‥正直言って勝ち目は殆どない。差し違えても勝てるかどうか‥‥

「それと、その刀‥‥使えるようにしておいてくれ。柄がもろくなってるからな。
 万が一網を潜ってきたら‥‥」
「‥‥麗一、兄さんを‥‥斬れって、言うの‥‥?」
「ヤツはもう‥‥麗一じゃない」
「で、でも‥‥」
「ヤツの目的はお前たちだ。お前と麗子‥‥二人を手に入れようとしてるんだよ」
「ど、どうして‥‥」
「知らんよ‥‥何をたくらんでるのか‥‥神になるつもりかもな、あの調子じゃ‥‥
 だが、俺が頭にきてるのはそんなことじゃない‥‥俺の大事なものが‥‥大切な人
 が奪われようとしていることだ‥‥俺の期待を裏切ったということだっ!」
「お兄ちゃん‥‥」「一郎、さん‥‥」
「大神に二度の敗北はない‥‥次は差し違えてでも‥‥生かしてはおかん」

休みは明日まで。
明日までが勝負だ。
それから延びるようだったら‥‥俺は辞表を出さなきゃならん。
残念だが‥‥麗子と茉莉子、二人を連れて田舎に戻るしかない。
俺の周りに被害が及んだら‥‥
そこまで考えて俺は冷や汗を流した。
かえでさん、かすみくん、香蘭、椿さん、そして‥‥杏華‥‥
すまない、杏華‥‥再会の約束は‥‥果たせないかもしれん。
かえでさんだけには事情を話して‥‥いや、だめだ‥‥絶対にだめだ。
氷室に助っ人を‥‥だめだ。ヤツに尋常な手段は通じない‥‥
くそ‥‥
今の状態では‥‥圧倒的に不利だ。
あの野郎は手段を選びそうにないからな‥‥それに仲間がいないとも限らん。
神崎財閥の力を利用して、戦力をかき集めているかもしれん‥‥
麗子と茉莉子‥‥二人を自分のものにして‥‥いったい何があるって言うんだ?
わからん‥‥そのために、身内まで‥‥自分の両親まで殺害するとは‥‥

くそっ、なんでこんなことになっちまったんだ‥‥
平凡な生活だったけど‥‥俺は幸せだった。茉莉子も‥‥麗子も‥‥
中国で何を見てきたんだ‥‥
麗一‥‥兄さん‥‥優しかった‥‥あの面影は何処にもなかった。
龍‥‥そうだ、龍がどうとか言ってたな‥‥

何かがおかしい。
何か‥‥狂ってきてる‥‥
どこでねじ曲がったんだ‥‥

風が吹いた。
横浜の風‥‥昨日と今朝、湘南で感じたそれとは違う。
ここが俺の家だ‥‥
その風がカーテンを揺らす。

月が見えた。
赤い‥‥月‥‥
赤い満月だった。

バシッ‥‥
‥‥焦ったらあかん‥‥
な、なんだ?‥‥香蘭、か?

バシッ‥‥
‥‥わたしは‥‥いつでもあなたの傍にいる‥‥
かえでさん?‥‥かえでさんなのか?

「‥‥お兄ちゃん?‥‥どうしたの?」
「え‥‥あ、いや‥‥」

バシッ‥‥
‥‥忘れないで‥‥わたしのこと‥‥わたしの名は‥‥
だれ、だ?‥‥青い‥‥群青の‥‥チャイナドレス‥‥
‥‥大神さん‥‥大神さああん‥‥
杏華?‥‥銀色のチャイナドレス‥‥どうしてそんな‥‥

「‥‥‥‥‥」
「‥‥大神さんっ‥‥一郎さんっ」
「あ‥‥これはいったい‥‥」
頭にフラッシュを焚かれたような感じだ。
その度に‥‥

「う‥‥」
「!‥‥お兄ちゃんっ!?‥‥お兄ちゃんっ」
「一郎さんっ!?」
あ‥‥身体が‥‥
浮いていく‥‥
待て‥‥
今、眠る訳には‥‥

‥‥忘れないで‥‥わたくしの‥‥愛しい、人‥‥
俺を呼んでる‥‥

ブオオオオン‥‥
単車‥‥ハーレーじゃ、ない‥‥

『‥‥ちゃん‥‥お兄ちゃん‥‥』
あ‥‥茉莉子の声が‥‥遠くに聞こえる‥‥

待て‥‥まだだ‥‥
まだ俺を引き戻すな‥‥
いや‥‥
早く‥‥目覚めるんだ‥‥

‥‥約束だよ‥‥
さくら‥‥さくら、くん‥‥

バシッ‥‥
‥‥大神さあああああんっ!
麗子っ!?
違う‥‥
‥‥すみ、れ‥‥?

目覚めろ‥‥目を覚ませ‥‥
早く‥‥


月が見える‥‥白い月‥‥


俺は目覚めた。

疾駆する鋼鉄の馬の上で。
実の兄の背中で。

白い月‥‥帝都東京の夜空の下で。





( epilogue ) 

狼が走る。虎が奔る。
白い稲妻を率いて疾駆する。狼にして虎。
黒い影。立ちふさがる黒い物の怪たち。

「邪魔をするぬああああああっ!!!」
実体を持たない霞のような黒い影どもを、いとも簡単に引き裂いていく。
劇場は近い。
黒い霞が密度を増してくる。劇場への道を塞ぐように。

「破ッ!」‥‥爪を以て荒野を翔ける‥‥それは猛虎。 
「砕ッ!」‥‥牙を以て悪しきを裂く‥‥それは剣狼。
ギュワッ‥‥ 
ギャッ‥‥

地を鎮める四匹の神獣。荒ぶる神をも鎮める聖なる獣。
白虎は未だ眠っていた。
四本の鎖で繋がれた四肢、その一本が解放され‥‥爪が閃く。
爪は狼に変貌した。
狼は走る。鎖を解いた、その人の元へ。
物の怪ごときが、その疾走を止めることなど出来はしない。

腕が銀色に輝く。
天地を貫く一本の矢の如く‥‥猛虎の爪の如く、剣狼の牙の如く。
劇場が見えたっ!
‥‥忘れないで‥‥‥‥わたくしの‥‥愛しい、人‥‥

「狼‥‥虎‥‥滅‥‥却‥‥」

俺より先に‥‥逝くんじゃないっ!
俺の声を聞けっ!、俺の声に応えろっ!

「ぉぉおおおおおおおおおおおおっ!」
月に吠える。
それ応えるように、白い満月は白狼に翼を与えた。

「天‥‥」爪が物の怪の群れを一閃する。 
「狼‥‥」牙が不浄の闇を切り裂く。 
「転化ッ!!!」

大神の想いを乗せて白狼は空を翔ける。
狼虎滅却・天狼転化‥‥それは時を超え、次元を超え、亜空間をも切り裂いた。
時の狭間に出会った人々が見せた‥‥涙と笑顔、そして‥‥
‥‥お兄ちゃん‥‥
‥‥大神さん‥‥
‥‥大神くん‥‥
‥‥約束だよ‥‥
さよならは言わない‥‥そう、またいつか‥‥きっと会えるから‥‥
過去と未来が出逢う刻。
狼の姿を成す光、白虎にして天狼。

ガガーンッ‥‥ 
有り余る霊力を与えられた大神の分身は劇場の扉をも破壊した。 
不浄の物の怪ともども‥‥天狼の牙の前に立ちふさがるもの、全てを。 

紅い影。 
破壊された扉の向こう。紅い影‥‥月から舞い降りた堕ちた天使。 
血の海が見えた。 
紅い夕陽に染まった海ではない。 
紅い夕陽を齎したその人の‥‥その人の血。
赤く染まった血の海に咲いた‥‥すみれ色の華。
それは鳳凰蓮華‥‥

狼は消えた。 
光が舞う。 
塵に反射して輝く眩い霊光。
闇を切り裂く凄絶な光の雷刃‥‥光が人を創った。
白い月が祝福した。今を生きろ、と。

「‥‥戻って来られたのですか」 
「‥‥我を目覚めし者‥‥汝に与えしは‥‥狼虎滅却なり」



< 暗夜航路前夜・月光忌憚 終劇 >


Uploaded 1998.10.25



ふみちゃんさんの花組野外公演・外伝、「暗夜航路前夜・月光忌憚」です。 その題名のとおり、「花組野外公演」の第七章、八章の外伝、という位置づけです。 現在と過去、二つの時代を駆け巡る大神の意識。 懐かしい人、暖かい人、優しい人、そして・・・・愛しい人。 それぞれの人々が、それぞれの思いで大神を見つめ、支え、そして共に生きていく。 そんな、不思議な情景のなかに、突如訪れる崩壊の足音。 まさに、暗夜航路。その一寸先に待ち受けるものが見えない、だが進み続けねばならない、路。 過去と未来の出逢う時、時を超えた力が、月光に照らされた劇場に人の形を創り出す。 目覚めた大神の力は、いかに? ・・・それにしても、もう片方の現在の物語も、続きが気になりますよね。 というわけで、おいしいところで区切ってくれたふみちゃんさんへ、 皆様、是非、感想メールを出しましょう!!


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(注:スパム対策のため、メールアドレスの@を▲にしています)

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