<その5> 雨は霧雨となり、そして止んだ。 未だ厚い雲が覆う帝都東京。 まだ眠りにつく時間ではないが、今日の帝都はいつにない静けさを醸し出していた。 往来する車も少ない。路を歩く人に至っては数えるほどしかいない。 今日に限って誰もがみな家路に急いだらしい。 繁華街は閑古鳥が泣いていた。 銀座も例外ではない。いや、銀座は寧ろ帝都の中で最も人気がなかったかもしれない。 それも一時間ほど前までは。 少しずつ‥‥銀座に灯が灯り始めた。 まばらだった歩行者も少しずつ増えていった。どこから集まってくるのか‥‥ いつもの銀座の風景が甦りつつあった。 それは時を同じくして銀座の一角が明るく灯り始めた頃。 銀座帝国劇場。 行き交う人々が必ず振り向く、その建物と共に‥‥ ザワザワ‥‥ その帝国劇場はと言うと‥‥ この時間では稀と言えるほど、食堂は混雑していた。 今日は夜の公演はない。と言うよりも、公演は中止のはずだった。 人気はないはずだった。 にも関らず、そこには20人近くの人間が集まっていた。 勿論広さは問題ないのだが、混雑していた、というのは、その一つの円卓だけに人が集 中してしまったためだった。 ザワザワ‥‥ザワザワ‥‥ 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 「うわ〜、ほんとそっくりだわ〜‥‥ちょっと失礼」 「いででで‥‥」「‥‥‥‥」 「ほほぅ‥‥こちらが司令だな。ではでは‥‥」 「‥‥‥‥」「ふがふが‥‥」 「成程‥‥こちらが大神さんですね‥‥」 「ふ〜む‥‥痛みを共有しないとなると‥‥ふむ、双子ではないと‥‥」 「‥‥っつうか、こころの繋がりがないんだよな、きっと」 「実は仲がよろしくないと?‥‥ふ〜む、大神殿の家庭の事情とは、これ如何に‥‥」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 その円卓に座っていたのは、勿論神凪と大神。 並んで座ると、いきなりドドドドッと人の山が形成された。 識別するために、いきなり神凪の頬を捻じり上げたのは玲子。 で、確認のために氷室が大神の鼻に指を突っ込む。 納得したのは弥生と無明妃。 「ちょ、ちょっと〜、十六夜の席、取らないでよっ」 「そうよっ、そこにはアイリスも座るんだからっ」 そして群衆を押しのけるように、十六夜とアイリスが同じ円卓に陣取る。 「久しぶりだね、龍一兄ちゃん♪‥‥また会えて、十六夜、と〜ってもうれしいよ〜」 「あ‥‥ああ‥‥」 「十六夜‥‥変わったでしょ‥‥?」 「あ‥‥ああ‥‥大人になったね」 「ほんと?‥‥やっぱりわかるんだぁ‥‥へへ‥‥十六夜、もう11になったんだよ」 「そ、そっか‥‥」「‥‥‥‥」 「むむ‥‥お兄ちゃんっ!」 「‥‥え?」 「アイリスッ、変わったでしょっ!?」 「は?」 「変わったでしょっ!?」 「あ‥‥ああ‥‥お、大人になったね‥‥」 「当たり前でしょっ!、もうすぐ12になるんだからっ!、他にはっ!?」 「き、奇麗になったね」 「もっと気の利いた台詞はないのっ!?」 「う‥‥す、数時間見ないうちに‥‥みょ、妙にイロっぽくなったね」 「ああ‥‥やっぱりわかるんだ‥‥お兄ちゃん‥‥」 「ま、まあね、は、ははは‥‥」「‥‥おいおい」 「お兄ちゃん、これね、アイリスが作ったんだよっ、食べて、食べて」 「あーっ、十六夜も手伝ったんだからねっ、特に、その、ピ、ピラニア、じゃなくて、 風呂敷じゃなくて‥‥えと、えと‥‥あ、ピロシキッ」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 「はい、お兄ちゃん、あ〜んして」 「はい、龍一兄ちゃんも、あ〜んして」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 大神と神凪は顔を見合わせて、そして同時に顔を突き出した。 「どう?」「どう?」 「‥‥うまい」「‥‥うまい」 「ああ‥‥アイリス、うれしい‥‥」「ああ‥‥十六夜、うれしい‥‥」 「‥‥シュールだぜ」 遅れて食堂入りしたカンナと夜叉姫。 呆然とその円卓の光景を見つめる。 「‥‥あれ?‥‥冬湖ちゃんは?」 アイリスが思いだしたように周りを見渡す。 攣られて十六夜も。冬湖の姿は何処にも見えなかった。 「‥‥‥‥」 言葉にならない神凪。 代って答えたのは大神だった。 「‥‥用事があるって言ってたよ。たぶん今日は‥‥帰ってこないと思う」 「えっ?‥‥そんなあ‥‥」 「大丈夫だよ、アイリス‥‥彼女は‥‥司令の代りに‥‥やらなちゃいけない仕事 があるんだよ‥‥」 嘘。 哀しい嘘だった。 「‥‥そっか‥‥そうなんだ‥‥そしてら冬湖ちゃんが帰ってきたら、もう一度ご 馳走作るよ」 「‥‥‥‥」 「びぃえええええええええええええええええええええええええええええええっ」 「げっ!?」「んぐっ!?」 いきなり神凪と大神の間に出現する白拍子。その名は舞姫。 神凪と大神の襟元をしっかりと握り締めて、わんわん泣きわめく。 落ち込む暇を与えないお姫様に、大神と神凪の心情をなんとなく察したアイリスも つい微笑んでしまった。 「うふふ‥‥泣き虫巫女がいたんだったね、そう言えば」 「びぃえええぇぇっんっ、びぃえええぇぇっんっ、びぃえええぇぇっんっ!!」 「うぐぐぐぐ‥‥」「く、く、くるひい‥‥」 「し、しまった‥‥ちょっと目を離した隙に‥‥」 そして舞姫を回収する玲子。 「びぇえええええぇぇぇぇぇぇ‥‥‥‥」 舞姫の泣き声がフェードアウトしていくとともに、ようやく正常な配置に戻った。 神凪、大神、アイリス、十六夜の席は変わらず。 その横の円卓にはマリア、当然の如く氷室、そして玲子と朧。 一列ずれて‥‥ 斯波、カンナ、夜叉姫、そして無明妃。 その横の円卓には銀弓、舞姫、弥生、そして村雨。 七特の面々は作戦終了後も青山に残った。米田をサポートするということらしいが‥‥ 神楽の姿はなかった。冬湖は‥‥ 「‥‥兄さん」 「神凪と呼べ。何度言えばわかる?」 「‥‥失礼しました、司令」 「ここは帝劇食堂だ。ここでは支配人と呼べ‥‥おんなじことだろうが」 「‥‥そうですね‥‥その‥‥お身体の具合は、大丈夫ですか?」 「‥‥‥‥」 「あ、その‥‥し、失礼しました」 「‥‥そうだ、お前‥‥神楽を見なかったか?」 「地下治療室に入るところを見かけましたけど‥‥なんか様子が変だったような‥‥」 「‥‥そうか‥‥ならいい」 「‥‥‥‥」 「お疲れ様でした、皆さん。アイリスと十六夜が皆さんのために食事を用意してくれま した。この瞬間は全て皆さんのお力によって導かれたもの。皆さんのお陰で明日から また‥‥」 「何をおっしゃる、副司令‥‥あなたのためならこの氷室、たとえ火の中水の中‥‥」 マリアが労いの言葉をかける中、すかさず氷室も立ち上がってフォローする。 既に酔っぱらっているらしい。マリアの手を取ってじっと見つめる。 すっと音もなく立ち上がる大神、神凪、玲子。 「ひ、氷室さん、あ、あの‥‥」 「さあっ、わたしと一緒に行こうっ、ク、クレ、クレモ、モンティ‥‥うげっ!?」 ドカッ、ドカッ、ドカッ‥‥ きっちりヤキ入れ完了を確認した後、大神、神凪、玲子の三人は席に戻った。 「続けてくれ、マリア」 そして再び黙々と喰らい続ける神凪と大神。 「は、はい‥‥えーと‥‥汗っ‥‥あ、あの‥‥お疲れ様でしたっ、召し上がれっ」 「いただきま〜すっ」 円卓1。 「‥‥おい」 「‥‥ん?」 「大神、お前‥‥今、俺の皿から取ったろ?」 「はて‥‥何のことです?」 「貴様、この俺のピロシキを‥‥礼儀も知らんようになったか‥‥やはり再教育が必要 のようだな‥‥」 「ほぅ‥‥礼儀知らずとは、これ如何に?‥‥では俺のハンバーグは何処に行ったんで しょうなっ!?」 「‥‥論点をすり替えたな?‥‥今最も重要な問題はなっ、解決すべき議題の中心はだ なっ、俺のピロシキだっ、俺のピロシキの行方だっ!、貴様の皿ではないっ!」 「ふぅ‥‥これだから田舎育ちは‥‥紳士は如何なる状況下に於ても決して‥‥」 「ああっ!?、お、俺が、田舎モンだってえのかっ!?、お、お前、オフクロを侮辱す るのかっ!?、栃木県民を敵にまわすつもりなのかっ!?、そんなことで隊長が勤ま ると思ってるのかっ!?‥‥俺は今、非常に機嫌が悪い‥‥覚悟はいいな?」 「寝ぼけたことを‥‥俺がいつ、おふくろを貶した?、親不孝者はどっちだ?、栃木を 十年も留守にして、どーこー言える立場かっ!?、それで司令が勤まると思ってんの か?‥‥都合のいい時だけ兄貴面しおって‥‥こっちもムカついてんだよっ!」 「こ、こんの野郎‥‥上司に対してなんたる口のききかた‥‥許さんっ!」 「どこからでもかかってきなさい‥‥お客様第一、上司は二の次」 「もうっ、喧嘩しちゃだめだよ、お兄ちゃんのお兄ちゃん‥‥アイリスのあげるから」 「え‥‥」 「そうだよ‥‥一郎兄ちゃんも‥‥十六夜の食べていいから‥‥ね」 「あ‥‥」 「いつまで経っても子供なんだから‥‥いい加減乳離れしてくれないと困るわ」 「ほんと、ママ〜、ママ〜って‥‥これじゃ結婚なんて、まだまだ出来ないわ‥‥」 「うう‥‥」「‥‥しゅ〜ん」 「でもさ‥‥ゆくゆくはアイリスと十六夜ちゃん、義理の姉妹ってことに‥‥」 「確かにそうだね。じゃあ、やっぱり、料理も勉強しなくちゃいけないんだ‥‥」 「そうそう‥‥あ、でもなあ、アイリス和食苦手だからなぁ‥‥どうしよ‥‥」 「それなら十六夜が特訓してアイリスちゃんに教えてあげるよ」 「ほんと?、楽しみだなぁ‥‥このテーブルが、そのまま家族の団欒になるんだね」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 「うんうん。あ‥‥と、なると‥‥おうち、どうしよ‥‥」 「そうなのよ。劇場にこのままずーっと住む訳にもいかないし‥‥」 「花やしきもだめだなぁ‥‥プライベートを侵害されるのは、ちょっとなぁ‥‥」 「そうなのよ。気にはなってたんだよねぇ、先のこと考えたら‥‥」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 「一緒に住むんだったらさ、出来ればおうちは大きいほうがいいよね?」 「四人で住むとなると‥‥う〜ん‥‥お兄ちゃんの給料ってイマイチだしなぁ‥‥帝都 じゃ無理だろうし‥‥」 「え‥‥どうして?」 「十六夜ちゃん、知らないの?‥‥帝都の土地って、今すごい値上がりしてるのよ」 「えっ!?‥‥銀座に家を建てて、そいで、花やしきに別荘をと思ってたのに‥‥それ って結構無謀だったりするの?」 「‥‥何言ってるの?‥‥そんなこと出来るくらいだったら、アイリスなんてフランス とドイツとイタリアと‥‥あと、栃木と沖縄と北海道に別荘建てるよ」 「が〜ん‥‥じゃあ、庭付き一戸建てなんて‥‥もしかして、夢のまた夢?」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 「しょうがないよ。その代りね、アパートメント、っていうのが造られてるから」 「‥‥十六夜、知らなかった‥‥月組なのに‥‥ショック‥‥」 「でもね、結構高いらしいんだ、家賃‥‥そろそろ真面目に貯蓄も考えないと‥‥」 「そっか‥‥そうなると、やっぱり共働きという線が濃厚になるね‥‥溜息‥‥」 「専業主婦なんて夢よ‥‥アイリスもまだまだ引退できないわ‥‥」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 「でもさ、やっぱり住む場所は重要だよ。だって赤ちゃんだって‥‥」 「そうだよね‥‥そうだっ、どうしよっ、育児と舞台の両立なんて‥‥自信ないよ」 「それは男女折半、当然育児にも貢献してもらうわ。龍一兄ちゃんも司令になってヒマ だろうし‥‥」 「あ、そっか、なるほど‥‥お兄ちゃんなんてモギリだもんね、おんぶしてモギっても 問題ないよね‥‥そうだっ、支配人室を育児室兼用にすればいいんだっ!」 『汗、汗‥‥』『汗‥‥汗汗‥‥』 「子供は二人ぐらいとして‥‥アイリスちゃんも予定的にはそのぐらいだよね?」 「一人っ子は避けたいけど‥‥う〜ん‥‥お兄ちゃんたち次第だね」 「そっか‥‥やっぱ問題は男の人か‥‥まずいよ、成人まで待ってらんないかも‥‥」 「そうだよね、お兄ちゃんのお兄ちゃんなんて、あと三年も経ったら三十代だし‥‥」 『汗、汗、汗‥‥』『汗‥‥汗汗‥‥汗汗汗‥‥』 「ううん、そんなことないっ!、龍一兄ちゃんはまだまだがんばってくれるもんっ! きっと寝不足が続くかもしれない‥‥うん、十六夜もごはんいっぱい食べて、体力つ けなきゃ‥‥」 『汗、汗、汗、汗‥‥』「じと〜‥‥」 「ふ〜む‥‥やっぱり三年が限界だろうなぁ、お兄ちゃんの覗きの頻度を考えると‥‥ お風呂に入ってても、壁越しになぁ〜んか妙に熱い視線を感じるし‥‥いつ襲われる か、わかったもんぢゃ‥‥」 「ほー‥‥」『‥‥汗、汗、汗、汗っ』 「それだけならまだしも‥‥も、もしかして、い、一郎兄ちゃん、龍一兄ちゃんの目を 盗んで夜這いを‥‥ああ、十六夜、どうしたら‥‥いけないわっ、一郎兄ちゃん、十 六夜を、そんな‥‥ああぁぁ‥‥」 「そ、そうよ‥‥お兄ちゃんのお兄ちゃん、アイリスのことも‥‥だ、だめだよ、お兄 ちゃんのお兄ちゃん、アイリスは、アイリスはぁぁ‥‥ああ‥‥なんてこと‥‥これ ぢゃ、アイリス、天国にいけないわ‥‥助けて、あやめ、お姉ちゃぁぁん‥‥」 『汗汗汗汗汗汗汗汗汗汗‥‥』『汗汗汗汗汗汗汗汗汗汗‥‥』←前科者二名 円卓2。 「ま、ま‥‥副司令‥‥ご一献‥‥」 「あ、その‥‥わたしはお酒は‥‥」 「きゃはははは‥‥ぬぅあ〜に言ってんだかぁ‥‥イケイケのクセしてぇ」 「な、なんですとっ!?、いけませんぞ、副司令、オババの戯言に耳を傾けてはっ!」 「‥‥あんだって?」「ち、違いますっ!、もう玲子ってば‥‥」 「そ、そうなんですか?‥‥奥ゆかしい方だと思ってたのに‥‥」 「きゃははは、朧くんっ、あんたは女性に対してあまりに理想を追い求め過ぎる!、そ んなことでは一生彼女なんて出来ないわよ?‥‥クソッタレ柿の種野郎みたいにね」 「こ、このアマ‥‥副司令の前で‥‥」「‥‥柿の種って?」 「ありゃ?‥‥マリアは知らなかったっけ?、この暑苦しい赤道直下型西郷隆盛の下の 名前」 「お、お、おんのれぇ‥‥ふ、副司令の前だと思って図に乗りやがって‥‥」 「氷室さんの名前って‥‥」 「柿右衛門でごわす、ってかあ‥‥あーっはっはっはっは」 「もう勘弁ならん‥‥決闘だ、八景島玲子っ、決戦は八景島だっ、行くぞっ、八景島! 鞘を捨てたな?‥‥八景島破れたりぃ‥‥フナムシのエサにしてくれるわっ!」 「‥‥四回呼んだな?‥‥名字で‥‥しかも、フナムシが大っっ嫌いなのを知った上で、 この熱帯魚のような美女を‥‥覚悟は出来てんだろうねっ!?、ああんっ!?」 「‥‥カキエモン?‥‥あの陶磁器の柿右衛門?」 「その通りです。流石は副司令ですね、カキエモンなんて普通わかりませんよね!、ご 指摘の通り、氷室主任の正式名称は氷室カキエモンです。カキエモンの綴りはですね、 柿の衣紋‥‥違うな‥‥柿に餌悶‥‥違うな‥‥あれ?‥‥ド忘れ‥‥ごぼっ!?」 「そうかっ、飲み足りないかっ、朧っ、もっと飲めっ、ほれ、ガンガン行けっ!、思い 出すまで飲み続けろっ!、そしてタチバナ副司令の盾となれっ!!」 「‥‥素敵な名前‥‥わたし、柿右衛門のお皿、大好きなのよ」 「うそ‥‥」 「!‥‥い、いやぁ、それほどでも‥‥よ、よろしければ、その、名前で呼んで‥‥」 「柿右衛門さん?」 「ふ‥‥ふっふっふ、わーっはっはっはっ、いやあ、劇場はいいなあっ、帝撃はいいな あっ!、親父っ、ありがとうっ!、朧っ、飲んでるかっ!?、玲子も飲めっ、わっは ははは、今後は柿右衛門様と呼んで一向に構わんっ、わーっはっはっはっは‥‥」 「うっぷ‥‥あやめしゃああん‥‥」「素敵?‥‥柿が?‥‥何故?‥‥どこが?」 円卓3。 「ようやくメシにありつけるってか‥‥」 「‥‥これ、なんだ?」 「ん?‥‥おお、これはだな‥‥」 「ピロシキだよ」 「お?‥‥なんだよ、斯波先生は知ってるのかい?、ロシア料理」 「‥‥本来は油で揚げるものだ。これをオーブンで焼くと中まで火が通らないことがあ る。それに皮の部分も‥‥しかし‥‥これはなかなかよく出来ている。具の味付けも 絶妙だ」 「‥‥はあ‥‥」「‥‥そう、です、かい‥‥」 「斯波殿は‥‥殆どご自身で料理をされているようですからね」 「なにっ!?」「マ、マジかっ!?」 「‥‥‥‥」 「昨年、わたくしが作ったお節料理‥‥全然お口にしてはいただけませんでした‥‥」 「それは‥‥その‥‥」 「味醂と日本酒を間違えるとは‥‥わたくしとしたことが‥‥くっ、不覚‥‥」 「いや、それはまあ些細なことで‥‥俺が口にしなかったのは、寧ろ微妙な火加減の調 整に問題があったのではと‥‥あ‥‥いや‥‥」 「‥‥そこまではっきり言わなくても‥‥いいと思いますけど‥‥‥ぐすっ‥‥」 「あ、あの、その‥‥」 「お、おめえ‥‥まさか、料理人とか、やってんじゃねえだろうな」 「野郎の分際で無明妃よりも料理がうめえってのか‥‥」 「出撃がなけりゃ、みんな暇を持て余すんだ。俺だって普通の仕事を持ってるさ」 「‥‥どこの店だよ」 「言えるか」 「ぐすっ‥‥深川の、料亭の‥‥ぐすっ‥‥○○○○○ですよ‥‥」 「む、無明妃さんっ」 「ほう‥‥あそこは‥‥確か、あやめさんのご用達の店だったような‥‥ほう‥‥」 「よーし、それじゃ暇な時にでも押しかけるか‥‥あたいらの給料じゃ料亭なんかとて も行けそうになかったんだが‥‥いや、いいこと聞いたな、なあ、夜叉姫」 「いや〜、一度行ってみたいと思ってたんだよ‥‥ふっふっふ、一日で全メニューを制 覇してやるぜ‥‥よし、そこで勝負の続きだ、カンナ、あたしの胃袋に底はねえぜ」 「ほう‥‥タダ飯があたいに与える力を知らねえな?‥‥この桐島カンナ様の実力、と くと思い知らせてやるぜっ!‥‥唸れっ、あたいの腹よっ!」 『‥‥こ、こいつら‥‥ほ、本気で俺の店へ‥‥』 「あの店‥‥くっ、雪組の隊長ともあろうお人が、黄泉の人に現をぬかすなど‥‥これ はわたくしも赴かねばなるまい‥‥」 「ちょ、ちょっと〜‥‥」 「おや?‥‥無明妃‥‥おめえ、もしかして‥‥山崎隊長と二股かけるつもりか?」 「!‥‥な、なんてことを‥‥わ、わたくしは、なにも、そ、そこまで‥‥汗っ‥‥」 『す、素直に喜べんのは何故‥‥?』 「隅に置けねえな、雪組隊長は‥‥そこの十六夜とも昵懇の間柄になって、まだ‥‥」 「いやいや、実はもっとすげえ裏の話もあるらしいぜ?‥‥一説によると、相手をする 時はな、着せ替るんだとよ‥‥お薦めは純白の婚礼衣装だそうだぜ」 「な、なにっ!?、それは初耳だぞ!?」「おいっ!」 「その白無垢の花嫁をだな、帯を引っ張って‥‥あれぇ〜‥‥と言わせるシナリオだ」 「な、なにっ!?、そ、それは初耳だぞっ!」「お、おいっ!!」 「ぬう‥‥冷静なフリを装ってまだ年端もいかぬ乙女を誑かすとは‥‥外道なり‥‥」 「違いますってば、もう‥‥」 「“あっ、源氏様っ、何をなさるのっ?、そんな、帯が、帯がああ”」by カンナ。 「“逃げられはしないぞ、紫‥‥一枚、二枚、三枚‥‥ご開帳〜”」by 夜叉姫。 「うぬぬぬ‥‥‥ひとおおおっつ、人の世、生き血を啜り‥‥」by 無明妃。 「ちょ、ちょっと待って‥‥」 「あれえええ‥‥源氏様、おやめになってっ、源氏様、源氏様、源氏様‥‥」 「うへへへ、ええぞね、ええぞね、紫や〜、ほれ、紫や〜」 「ふたあああああっつっっ!、ふ、不埒な悪行三昧‥‥」 『ど、どうして‥‥』 「ああ‥‥お兄ちゃんって、す・て・き‥‥うふっ‥‥‥くくっ‥‥」 「ふぅ‥‥よかったよ、十六夜‥‥ぷ‥‥君の瞳に乾杯‥‥‥ぷぷ‥‥」 「み、み、みいいいっつ、み、み、醜い鬼どもを‥‥‥退治しれくれるぞよ、このエセ 桃太郎共々なっ、天に代ってこの無明妃がなああっ!、そこを動くでないぞっ!!」 「わ、わーーっ!?」 「わーっはっはっはっはっ」「かーっかっかっかっかっ」 円卓4。 「びえええええええええええええええええええええええええええええ‥‥」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 「ぐしゅっ、ぐしゅっ‥‥」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 「びえええええええええええええええええええええええええええええ‥‥」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 「ぐしゅっ、ぐしゅっ‥‥」 「ええっと、そ、そろそろ食べませんか?、ね、ねえ、村雨さん」 「は‥‥う‥‥」 「ね、ねえ、隊長?」 「お、おお‥‥」 「びえええええええええええええええええええええええええええええ‥‥」 「ど、どうか、御鎮まりくだされ、舞姫様‥‥」 「びえええええええええええええええええええええええええええええっ、うぎゃあああ ああああああああああああんっ、びええええええええええええええええええええええ えええええええええんっ、おぎゃ、おぎゃっ、びええええええええええええ‥‥」 「く、くぅ‥‥はっ!?‥‥そうだっ“舞姫連舞”があるぢゃないのっ、それで‥‥」 「ををっ、流石は隊長ですねっ、確かにそれで‥‥」「ん‥‥」 「ぐしゅっ‥‥わらわに‥‥ぐしゅっ‥‥舞を‥‥?」 「そうですともっ!、花やしきで見そこねた舞姫様の舞を、是非とも、この銀弓の目に 焼き付けてくだされっ!」 「ぐしゅ‥‥」 「‥‥‥‥」「‥‥どうだろ‥‥?」 「‥‥びえええええええええええええええええええええええええええっ!」 「だ、だめか‥‥」 「うむむ‥‥!‥‥そうだっ、それに“舞姫哀歌”もつけりゃ、もうバッチリッ」 「びえええ‥‥え‥‥?」 「心の奥底に眠る優しい想いを導いてくれる、哀しくも優しく、儚くも暖かい、あの詠 ‥‥今一度、この銀弓の耳に刻み付けてくだされっ!」 「‥‥‥‥」 「どうだろ‥‥?」「ん‥‥?」 「‥‥ふ‥‥ふっふっふ‥‥おーーっほっほっほっほっほっほっほっほっほっほ‥‥」 「き、来た来たぁ〜」「よっしゃあっ」「‥‥ふ」 「そこまで請われては黙ってはおられぬぞえ‥‥‥そうぢゃ、そもそも銀座に参上した 折りには、一発かまして進ぜようと思っておったのぢゃ‥‥花組の姫君などに遅れを 取るものではござらぬっ!、わらわの舞は世界レベルぢゃっ!」 「そ、そうですとも、そうですとも」 「あ、あはは‥‥」 「‥‥ぷぷ」 「お館様がおられぬのが心残りぢゃが‥‥いや、そんなことをしたら感動の余り、わら わを押し倒して‥‥何しろ秘伝中の秘伝ぢゃからのう、おほほ‥‥‥あ、いけませぬ、 お館様、皆が見ておりまする‥‥いいぢゃないか、舞姫、減るもんじゃないだろう? いやっ、そんな‥‥‥俺はもう我慢できない、舞姫っ、舞姫ぇ‥‥‥おやめになって たもれっ、乱暴しないでたもれっ、わらわはそんなおなごではありませぬぞえっ‥‥ え‥‥そんな、大神殿まで参加するのかえ?‥‥た、大佐までっ!?‥‥あああ‥‥ そんな大勢で、よって集ってわらわを‥‥うう、酷すぎる‥‥わらわが無口だと思っ て‥‥わらわが泣き寝入りすると思って‥‥よよよ‥‥うっ、いきなり悪阻が‥‥」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 「じ、陣痛が、陣痛がああ‥‥あ‥‥そうぢゃっ、いいこと考えたっ!‥‥ぬふ♪」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 「ぬふふ‥‥クレオパトラも楊貴妃も、わらわの前では反物質‥‥この宇宙はわらわを 中心に回っておるっ!‥‥皆の者、聞けいっ!、これよりわらわが編み出したる究極 にして超絶の秘奥義を披露奉る故、有り難くご覧めされよっ!‥‥銀河系に君臨する 全能天女、この舞姫のぉっ、超必殺演舞うぅっ‥‥“シリウスしるす・それを知りう る散る散る満ちる・煎る蟹乗って超満ちる”でおますぅっ!、おーーっほっほっほっ ほっほっ‥‥ん〜、舞が〜る♪‥‥クエッ、クエッ‥‥」 「あ、唖然‥‥」 「せ、世界レベル、ぢゃないの‥‥?」 「‥‥ふぅ」 「そうぢゃ、特に花組の方々っ、標的は汝らぢゃっ!、お館様のお心を乱せし貴女らに、 わらわの必殺が如何なるものか、その目と耳にキッチリ焼き付けてくれる故、覚悟め されいっ!‥‥天を見よっ、死を司る星が見えようっ!、そうぢゃ、汝らはわらわと 戦う運命にあったのぢゃっ!‥‥塵となれっ、原子となれっ!、素粒子となれっ!、 そして白色彗星となりて我が舞の伝説を宇宙の隅々まで拡散波動せしめいっ!、うぉ おおおおっふぉっふぉっふぉっ、我が生涯に一片の悔いなあしっ!、エネルギー充填 120%ぢゃっ!」 「ぼ、呆然‥‥」 「う、宇宙レベル、なの‥‥?」 「‥‥はぁ」 「ま、ま、舞が〜る、舞が〜る、ぎゃ、ぎゃらくしぃ、えくすぷっぷぷぷれすぅ〜‥‥ しんでれ〜ら、え、え、えくすぷれすぅ♪‥‥あひゃ、あひゃっ‥‥いっつ、ごうら いごう‥‥ご、ごう、ごうらいごごごうう‥‥ぎゅぱ、ぎゅぱっ‥‥ぷ、ぷれっしゃ あっ、ぷれっしゃあ〜♪‥‥グエッ、グエッ‥‥んは、んは‥‥ん〜‥‥はっ」 「‥‥ど、ど、何処の、国の、音楽、ですか?」 「俺の記憶では‥‥南米か‥‥いや、違うな‥‥う〜む‥‥」 舞姫の意味不明にして妖しすぎる歌声に流石の大神も面食らう。 まるで熱帯雨林の中でドラムを叩いているかのようだ。 神凪が必死に記憶の糸を縒り戻すが、やはり思い出せない。 「ぎゅぱ、ぎゅぱ、ずし、ずしっ‥‥‥ん?‥‥暗いぞえ‥‥照明はどうしたのぢゃっ、 もーっと光ををっ、スポーットライトは何処ぢゃあっ!?、灯を持ていっ、足りぬっ、 足りぬぞおおっ、ぎぶみー・ムーンライト&サンライトッ!‥‥‥ぐ〜‥‥あ、おな かのややこが‥‥そうかえ、そうかえ、おなかがすいたのかえ?‥‥育ち盛りぢゃか らのう、たんと召しゃれや‥‥華月殿っ、春(はる)髷(まげ)丼(どん)、ぷりーずっ!」 「‥‥‥‥‥‥はっ!?‥‥ははぁっ」 それまで騒めいていた食堂が一気に静まり返った。 口をあんぐりと開けて舞姫に見入る帝国華撃団の面々。 一方、黙って舞姫の前に所望の品(丼にピロシキとハンバーグをつっこみ、そこにポト フをぶっかけたモノ)を献上する銀弓だが‥‥何故か手が震えてしまう。 「のほほ、苦しゅうない、みなも食されよ。腹がへってはわらわの舞に耐えられるはず もない故のう」 餓鬼の如くガツガツとピロシキを喰らい、魔女の如くゴクゴクとポトフを流し込む。 いつもは食の遅い舞姫も、この日は違ったらしい。 静まり返った食堂に咀嚼音が響き渡る。 「げーっぷっ‥‥ふぅ‥‥余は満足ぢゃ」 喰い終わるやいなや、まるで女帝の如く、庶民を見下すかの如く、周囲を旋回する舞姫 の視線。みな目があわないように下を向く。 その場所で止まる。 「‥‥にやり」 目があってしまった。 「大神殿‥‥」 「お、俺‥‥?」 「ふっふっふ‥‥あひゃ、あひゃ‥‥ぎゅぱ、ぎゅぱ‥‥」 「ご、ごくん‥‥」 「‥‥来れ‥‥来れ‥‥ふはは‥‥歯歯歯歯‥‥覇覇覇覇覇覇覇‥‥クエッ」←舞姫。 「お、おお、俺、俺の、に、肉は、ス、スジが多いからっ、ひ、氷室のほうが‥‥」 「な、何故、俺に振るっ!?、し、司令がいいぞ、熟成されてるし‥‥」 「お、俺を人柱にしようと言うのかっ!?‥‥はっ!‥‥そうだ、米田のクソジジイに しようっ、噛めば噛むほどいい味がでるぞっ‥‥はっ?、い、いない‥‥あ、司令は 俺か‥‥い、いかん、こ、このままでは‥‥」 「‥‥だれが大神殿を喰らうと言うたっ!?」 「は、はいい‥‥」「う‥‥」「‥‥冗談には聞こえんかった」 「お・お・が・み・殿っ♪、わらわと舞いませう♪」 「あああ‥‥生きたまま喰われるなんて‥‥」「ふぅ‥‥」「ほ‥‥」 「‥‥わらわと舞いませう♪」 「俺はまだ‥‥やりたいことが‥‥」「さ、副司令、ご一献‥‥」「‥‥腹へったな」 「‥‥‥‥わ・ら・わ・と・舞・い・ま・せ・う♪」 「さくらくん‥‥アイリス‥‥すみれくん‥‥マリア‥‥カンナ‥‥紅蘭‥‥」 「うぬぬぬ‥‥わ・ら・わっ、と舞ってくだされってばっ!!!」 「りょ、了解っ!」 ザワ‥‥ 食堂が再び一斉に騒めいた。 花組に見せつける、という意味では、これ以上のパートナーはいなかった。 勿論、舞姫が思っていたことは、そんな小さなことではない。 山崎の片腕‥‥そう、彼女こそが“夢の扉を開く者”だったから。 舞姫の宣言を実施すべく、中央のテーブルを端に寄せる男性陣。 暗い雰囲気を払拭するほどに、食堂は見せかけではない明るさを取り戻した。 帝国華撃団の存在価値、そのものを見せつけるようだった。 「これが帝撃なんだな‥‥」 「‥‥五師団は無意味に創られた訳ではない」 「ええ‥‥」 大神と神凪の表情にも本来の柔らかさが現れる。 「舞姫も絶好調のようだし‥‥よかった、よかった」 「え、ええ‥‥汗‥‥」 「‥‥ところで、お前‥‥踊れんのか?」 「あ、あんまり自信が‥‥すみれくんと踊った時も足踏んで‥‥」 「ほう‥‥お前も、か‥‥」 「え‥‥?」 「‥‥あれは‥‥シャトーブリアン家に出向いた折りの舞踏会だったか‥‥」 何故か遠い目で過去を懐かしむ神凪。 「夫人と踊ってな‥‥いや、あれはよかった、うん、うん‥‥」 「な、なんと‥‥あの、アイリスのお母さんと‥‥う、うらやましい‥‥」 「俺はまたてっきりワルツかと思ったんだが‥‥マルグリットさん、ラテンを‥‥しか もチャチャを所望してな‥‥いやあ、あれはよかった‥‥お前、チャチャ、知ってる か?、いや、知らんでもいいぞ‥‥ふっふっふ‥‥ズンチャチャ、ズンチャッ‥‥」 「うぬぬぬ‥‥このスチャラカ司令が‥‥」 「だが、喜びも束の間、うっかり裾を‥‥足どころか腰まで踏んじまってな‥‥」 「‥‥そうでしょう、そうでしょう‥‥えっ!?‥‥こ、腰をっ!?」 「ア、アイリスには黙ってろよ」 「なんということを‥‥あのような美しい女性を踏みつけるとは‥‥外道だなっ!」 「うう‥‥そんなに俺を責めるなよ‥‥あれさえなけりゃ、俺だって‥‥」 「何っ?、何の話っ!?」 テーブルを持つ大神と神凪の間に、いきなり出現するのは、やはり金髪の美少女。 いつの間にか、テーブルの上にしっかりと正座している。 「おわっ!?」「おおっ!?」 「何?、何、何?、教えて、教えてっ」 「な、なんでもないよ、アイリス、さあ‥‥重いから、降りてちょうだいねっ」 「あ、あぶないから、さ、む、向こうに行っててくれるかなっ」 「‥‥ま〜た、アイリスを子供扱いして〜‥‥家族設計の相談に来たのに〜」 「家族‥‥」「‥‥設計?」 「そうだよっ!、特に子供にはきちんとした教育方針を示さないとねっ!‥‥‥問題は 学校。東京師範(現筑波大学)もいいけど、女子高等師範(現お茶の水女子大学)も 捨て難いしなあ‥‥お兄ちゃん、どう思う?‥‥留学という手もあるけど、ちょっと 心配だし‥‥」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 「お兄ちゃんのお兄ちゃんが一緒に外国行ってくれるならいいけど、やっぱり家族一緒 がいいよね?‥‥う〜ん、贅沢なんて出来ないな、教育費用は幾らあっても足りない し‥‥それに、みんなの子供だって‥‥さくらの子供は東北帝大かな?、すみれなん かは絶対東京帝大を奨めるだろうなあ‥‥‥くっ、みんなには負けられないっ、十六 夜ちゃ〜ん‥‥」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 暫しアイリスの後ろ姿を目で追う大神と神凪。 「‥‥そう言えば俺、今度の冬で二十二だ‥‥そろそろ貯金しよ」 「‥‥俺なんて二十七だよ‥‥どうすんだよ‥‥田舎帰ろっかな‥‥」 少しだけ人生の縮図を垣間見る二人だった。 「は‥‥はは‥‥」「は、はは‥‥は‥‥」 ふいに目線が会い、寒い笑いを醸し出しつつ、我を取り戻す。 食堂の遥か彼方までアイリスが遠ざかったのを確認して、再び神凪に問い糾す大神。 「ち、ちなみに、その後‥‥“踏み付けた”後は?」 「往復ビンタ十連発‥‥“あなたのような人にアイリスは預けられませんっ”とな」 「げ‥‥ほ、ほんと?」 「近々来日するって話だぞ?‥‥ここだけの話、旦那と喧嘩したらしくてな‥‥アイリ スに会いに来るついでに、実は帝劇に居座るつもりだ、という噂もあるんだよ」 「えっ!?‥‥ど、どうしよう‥‥俺、ダンスなんて全然練習してない‥‥」 「お前は何も心配する必要はないぞ、大神。シャトーブリアン夫人は俺に任せろ。これ は支配人の仕事だ。お前にはその間アイリスをきっちり監視してもらうからな」 「そーゆー問題ぢゃ‥‥」 「さて‥‥劇場には空部屋がないし‥‥どれ、近場に借りるか。丁度俺も部屋が欲しい と思っていたところだ‥‥ふっふっふ‥‥ん?‥‥なんでもないぞ‥‥やはりダブル ベッドが必要だろうな‥‥ん?‥‥別に疚しいことを考えてる訳ぢゃないぞ。夫人に 狭いベッドを与えるなど言語道断、一刀両断だからな‥‥ふっふっふ‥‥」 「だ・か・ら‥‥」 「幼な顔とは対照的に豊満な‥‥あ、空耳だからな、気にするな‥‥ふっふっふ‥‥ラ テンは腰が命だからな‥‥腰をこう、ぐいっと‥‥よ〜し、この天才、神凪龍一の真 の力を今度こそ見せつけてくれるわ‥‥夢の世界で癒してあげるぅ、ってなああっ、 けーーっけっけっけっ‥‥」 「‥‥‥‥」 「マルグリット、グリグリっと、フラフララ〜‥‥十八金(禁)炸裂っ、マルグリット・ エクスプローゼ〜ッ♪‥‥ズンッチャッチャ、ズンチャッチャ‥‥」 「‥‥やっぱ、貯金しよ」 蟻とキリギリスの話を思い出した大神だった。 花組にとっては初めて見る舞姫の舞だ。 大神が相手だけに、さくらやすみれがこの場に居たら大騒ぎは必死だったはずだが。 カンナとアイリスにしてみれば、寧ろ好奇心のほうが心を占めた。 オンドレとして舞台に立った大神、その演技力は素人とはとても呼べなかった。 踊りはどうだ? いや、戦闘時の大神は、時折舞を舞っているようにも見える。 怒れる狼、その時は勿論‥‥獣の如く。鬼の如く。 踊りも期待大、だ。 だが当の舞姫は‥‥いつの間にか姿を消していた。 「‥‥あれ?‥‥舞姫、様は‥‥?」 鬼のいぬ間に馬車馬の如くメシをかっ喰らっていた銀弓が、いち早く気づいた。 「副司令が連れていきました」 「‥‥‥‥」 「着物が雨でずぶ濡れでしたからね‥‥副司令が代替品を用意してくださると‥‥」 無明妃がフォローする。 暫し考え込む銀弓。 「‥‥銀弓殿」 「‥‥ん?」 「副司令のこと‥‥些か誤解なさっているのでは?」 「‥‥‥‥」 「責任感の強いお人ですよ、あの方は‥‥繰り返さないためにも、ね」 「繰り返さない‥‥か」 「ええ‥‥尤も、わたくしどもの身内にもおりますがね」 「‥‥俺は気にしてないっすよ、無明妃さん。俺は当事者ではないからね‥‥それに山 崎もいる。心配することなんてないさ‥‥」 「ふ‥‥」 一方落ち着かない様子を見せるのは村雨。 こちらもいつもは鉄面皮なのだが‥‥この劇場に到着してから妙に視線が安定しない。 「どうしたんですか?、村雨さん」 「‥‥‥‥」 「‥‥もしや‥‥二階が気になる、とか?」 「!‥‥」 弥生のツッコミに必死になって首を振る。 「‥‥ふ〜ん‥‥そっか‥‥やっぱりそうなんだ‥‥」 「!‥‥▲×○‥‥○○△‥‥!!」 「ま、いいですよ‥‥眠ってるって聞きました。起こすのはよくないですよ」 「×××‥‥○○△△‥‥はっ、はっ、はっ‥‥」 「む、むらしゃめしゃ〜ん‥‥」 「!?」 「もっと飲みまひょっ‥‥暗いっ!、ほれ、こっちにきなしゃいっ!」 「○○○ッ!‥‥はっ、はっ‥‥」 「おおっ、村雨っ、いや〜、劇場はいいなあっ、わっはははははは‥‥」 氷室・朧組に拉致される村雨。 そしてターゲットは神凪に戻る。 「あ‥‥そう言や‥‥支配人」 「‥‥ん?」 カンナの声に耳だけそばだてる神凪。 中央テーブルを片づけたと同時に再度“捕食”に専念していた。 右手の箸と左手にもったポトフカップの動きは止めない。 「ちょ〜っとばかり確認したいことがあるんだが‥‥」 「なんだ‥‥?」 「そこにいる‥‥十六夜から聞いたんだがなっ」 「ん?」 「‥‥風呂に一緒に入ったというのは事実か?」 「ぶっ!」 「なにいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!?」 そこにいた全員が神凪を睨む。 「や、やだ‥‥公衆の面前で‥‥十六夜、お嫁に行けないわ‥‥責任とってね」 真っ赤になる十六夜と、真っ青になる神凪。 青くなっているのは物理的な要因もあったらしい。 必死になって咽につまったピロシキを押し込む。 マリアが席を外したのは不幸中の幸いだった。 「な、なんという、うらやましいことを‥‥俺なんか覗き止まりなのに‥‥あ‥‥」 「うぬぬ‥‥やはりそうか‥‥やはり、副司令の傍にこのような外道どもを放置してお く訳にはいかんっ!、この鬼畜どもを一刻も早く劇場から遠ざけるべきだっ!」 「よーしっ、大神一族はミカサ公園へ島流しよっ!」 「うぐぐぐ‥‥うがっ、うがっ」「な、なんで俺まで‥‥俺は覗きだけ‥‥あ‥‥」 「ぬう‥‥外道っ!、鬼畜っ、下衆っ、カスッ、ゴミッ‥‥」 「うがっ、うがっ‥‥」「ひ、ひどい‥‥」 「ふ‥‥大神家の血統だな‥‥だが、このままでは十六夜ちゃんにも悪影響が‥‥」 「やはり、そうなのですね‥‥斯波殿は十六夜殿を‥‥そういうことですのね?」 「え‥‥あ、いや、一般論としてですね‥‥」 「ぴくぴく‥‥貴殿の背後には‥‥ぴくぴく‥‥水子が憑いておる‥‥うむ‥‥やはり 祓って進ぜよう‥‥ぴくぴく‥‥」 「‥‥汗」 神凪の隣で黙々と夕飯を喰らう銀弓。 適当にフォローするが‥‥ 「みんな気にしすぎだぜ?‥‥覗きや混浴なんて軽い軽い‥‥朝飯前、夕食後のデザー トだぜ。君たちは戦士だろう!?、男子たるもの轟雷号のように‥‥ごふっ!?」 玲子の鉄拳と弥生の扇子であっさりと沈黙する。 「狐は黙ってな!‥‥帝撃司令ともあろう者が部下に手を出すとは‥‥しかも幼児相手 に‥‥そもそも20歳以上を蔑ろにした時点で人権侵害だわっ!‥‥わたしが入浴し てる時なんてさ、みんな絶対どっか出張してさ‥‥くすん‥‥覗かれたことなんてな い‥‥くすん‥‥」 「むっ?、“子供”ならまだしも“幼児”ですってぇっ!?、十六夜、怒ったよっ!」 「うがっ、うがっ、うがっ‥‥」「お、俺は違うよ、俺は大神一郎ですよ〜‥‥」 「汚らわしい‥‥見損ないましたよっ、神凪隊長っ!」 と、つい昔の呼称で吼えてしまう弥生。 「わたしのこと、可愛がってくれたのに‥‥今度は十六夜?‥‥ひどい人っ!」 「なんだってぇ‥‥弥生ちゃんまで‥‥おんのれぇ‥‥やはり20歳未満かいっ!?、 こ、この、こんの〜‥‥司令失格っ、人間失格よっ!」 「い、十六夜だけじゃなかったのっ!?、弥生ちゃんと二股かけてたのっ!?」 「お兄ちゃんのお兄ちゃん、やっぱり‥‥アイリスのことも、いずれは自分のものにし ようと‥‥いやっ、やめてっ、アイリスはっ、アイリスはあああ‥‥」 「ち、ちが、ちがう‥‥」「お、俺は違うよっ、お、俺は貯金しようと‥‥」 「乳が違うだあっ!?、そんなの当たり前だろうがっ!‥‥おのれ、最後によく見ろっ、 あたいの本当の力をっ!」 「俺の話を‥‥んがっ!?‥‥聞いて‥‥ぐわっ!?」 「お、俺‥‥げふっ!‥‥俺は、大神‥‥んごっ!?」 「さわがしいのぅ‥‥」 舞姫の声が聞こえた。 ゆっくりと声のする方向を振り向く。 「!!!」 大神、カンナ、アイリス‥‥この場にいる花組の面々、そして神凪は声を失った。 マリアが代替として舞姫に着せたもの。それは‥‥ 「す‥‥すみれ‥‥くん‥‥?」 そうだった。 すみれの紫色の着物。 胸元を大きく開ける様、濡れた髪を丁寧にとかし、カチューシャで押さえる。 いつもは腰から下を切断した十二単を着ているために寧ろ気づかないのか‥‥その美し い脚線をかろうじて隠すように、これもすみれのように無造作に着流す。 それまで額につけていた夢組の鉢巻きを、これもリボンのように首元に結ぶ。 切れ長の目、すっきりした鼻梁、少し薄めの唇。 違いは、左の目尻にあるべきほくろがないこと、髪の長さ、髪の色ぐらいだった。 それほど、今の舞姫はすみれに生き写しだった。 「‥‥な、なんで‥‥こんな‥‥」 カンナもようやく声を絞り出す。 同じ夢組の夜叉姫、無明妃は声がでない。 白と赤、その夢組のトレードマークから離脱した舞姫の姿。 それが舞姫本来の美しさなのだろうか‥‥ 「‥‥すみれが以前わたしに言ったのよ。“マリアさんもたまには和服などを着用して みては?”ってね。借りる許可はだいぶ前にもらってるわ」 「で、でも‥‥」 「舞姫に似合うと思ってね‥‥どうです、司令?」 「‥‥あ‥‥ああ‥‥よく、似合う‥‥山崎にも見せてやりたいよ‥‥」 「ほほほ、ちょ〜っとセンスがよろしくない服でおじゃりますが‥‥まあ、わらわの服 の代用品としては、まあまあと言ったところぞえ‥‥さあ‥‥大神殿?」 「あ‥‥うん‥‥」 大神の手をとる舞姫。二人は両手を繋いで完全に密着する。 ‥‥赤熱鳳仙花? そこにいた花組の面々は、そう勘違いした。 舞姫はすみれだった。 少なくとも花組の少女たちには、そう見えていた。 違いなど見出せなかった。 髪の長さも色も、単なる飾りの違いにしか‥‥ 結んだ舞姫の左手が、ゆっくりと大神の肩に移動する。 大神の右手は舞姫の腰に。 「あ、足踏むかもしれないけど‥‥よろしく、すみれくん」 「え?」 「あ‥‥ご、ごめん、ま、まい、舞、姫、さん‥‥」 「‥‥‥‥」 「山崎ほど上手くいかないだろうけど‥‥よ、よろしくお願いします」 「‥‥‥‥」 「舞‥‥さん?」 先程の勢いは何処に行ったのか、舞姫の表情は少し哀しみに彩られていた。 大神にはそう見えた。 すみれの象徴とも言える着流しの紫仙燕子花。 そのすみれの想いと重なって見えたのは、決して気のせいではなかった。 「‥‥お願いがあるのぢゃ‥‥大神殿‥‥」 「‥‥‥‥」 「お館様を‥‥」 「‥‥山崎、を‥‥?」 「お館様を‥‥奪わないで」 「‥‥!」 「お館様を‥‥わらわのもとへ返して欲しい‥‥」 「‥‥‥‥」 白拍子が奏でる詠は、戦いに傷ついた者たちに送る癒しの音色。 去った者たちへの鎮魂歌。 舞姫はマリアの導きを受け、白を脱いだ。 そう、今必要なのは白拍子の舞ではなかった。 大神の心に突き刺さる。 この舞を舞うことの意味と役目、それを享受しつつも心の底で願うことを、遂に 我慢しきれずに言葉にしてしまった舞姫の想いが。 俯く舞姫。 唇を噛む大神。 ‥‥アノヒトヲカエシテ‥‥ウバワナイデ‥‥コロサナイデ‥‥ 舞姫の瞳が、心が、叫んでいた。 後悔するから同じ過ちはしない。 大切だから二度と壊したくはない‥‥失いたくはない。 失った後の虚無。破壊の不毛。孤独の恐怖。業の輪廻。 光と影が破綻する時。ガラスのような脆い均衡の上に成り立つ平穏‥‥その終焉。 とても弱く脆い人たちだったから、自分が護らなければいけない。 支えられることに甘えていた自分への怒り。護れなかった自分への怒り。 ‥‥繰り返し。 犯してはいけない罪を再び導いてしまった自分に憤る大神。 避けられたはずの罪を再び起してしまった自分に憤る花組隊長。 そう‥‥ 山崎真也。彼は花組の隊員である前に夢組隊長だったのだと。 待つ者がいるのだと。 今更そのことを思い出した自分に遣瀬無い怒りをぶつける。 ただ深い眠りの中にあった暗夜航路の果てに。 演舞が始まった。 静かに、儚げに。 音はない。 無音。 騒めきが途絶えた帝国劇場。 舞姫が舞う。 雨音が消えた銀座の中央、夜の帝国劇場で‥‥ 波のように閃く紫色の振り袖、それに呼応するように紫光の数珠が閃いた。 舞姫の髪が舞う。 雨の名残?‥‥まるで雫のように光が散った。もう渇いたはずの髪なのに。 舞が少しずつ、少しずつ、激しさを増していった。 真紅の霊気が立ち上がる。 まるで復活を導く鳳凰のように。鳳凰の昇華した光が劇場全てに展開する。 劇場全てに‥‥ 目に見えない淡い光を放つ帝国劇場。 眠りにつこうとする夜の銀座。 家路につく人々は、再び振り向いた。 夜の帝国劇場を。 『お館様を、奪わないで、か‥‥気づかなかったなんて‥‥言い訳だよな‥‥』 ‥‥あなたは何をしていたの‥‥ それは一昨日の夜のこと。 すみれと結ばれる前夜のこと。 『君の言うとおりだな、すみれくん‥‥俺は、何もしちゃいない‥‥何も‥‥出来な かった‥‥』 「‥‥わらわを見てはおられぬようぢゃな」 「え‥‥」 「あの姫君かえ?‥‥お館様の隣で眠る‥‥あの美しい姫君を見ておるのかえ?」 「‥‥‥‥」 「優しいのう、大神殿は‥‥」 「そんなことは‥‥」 「お館様は変わりました‥‥あのお方は‥‥とても優しくなりました‥‥」 「‥‥‥‥」 「その訳が今はっきりとわかりもうした。お礼申し上げる、大神殿」 「‥‥俺は何もしてないよ‥‥俺は、何も‥‥」 「わらわにはわかる。こうして手を触れているだけで‥‥」 「‥‥‥‥」 「‥‥やっぱり‥‥お館様は花組がいいのぢゃろか?‥‥ここから連れては行けない、 のぢゃろか‥‥わらわの傍で眠らせたい‥‥それは叶わぬことなのぢゃろか?」 「‥‥‥‥」 「お館様は‥‥ここで眠りたいのぢゃろか‥‥」 羽根のように舞う舞姫。 だが、表情は哀しみに彩られていた。 人の世の限りない哀しみと喜びを謳う舞姫の詠。 人の世の限りない切なさと希望を示す舞姫の舞。 そんな舞姫の哀愁が、大神の何かを少しだけ揺り動かした。 舞姫の詠が、舞姫の舞が‥‥大神の中に息づく何かを。 「‥‥信じろ」 「え‥‥?」 「信じて待つんだ‥‥君の想い人は必ず還ってくる」 「大神、殿‥‥」 「山崎を信じろ‥‥自分を信じろ。自分を疑ってはいけない‥‥自分の歩いてきた路を 悔やんではいけない。希望を与えろ‥‥夢を齎せ。君の舞はそのためにある」 「大、神‥‥殿‥‥?」 自分に言い聞かせるように、舞姫を諭す。 大神の瞳が柔らかな光を帯びた。 虹色に回折する不思議な色だった。 「‥‥花咲く乙女よ‥‥夢紡ぎし巫女よ、彼と共に行け」 「‥‥‥‥」 「闇をも癒す光を与えよ‥‥明日へ導く夢を与えよ」 「‥‥だれぢゃ?」 舞姫はすかさず目を閉じた。そして開く。そこに見えたのは美しい瞳ではなかった。 『‥‥だれぞ大神殿を依り代にしておる‥‥我が主の恩人に寄生するなど不届き千万、 叩き出してくれるわ‥‥』 舞姫の魔眼。 三界に生きとし生ける者全てを然るべき世界に誘う小宇宙。 魔者は魔界へ、天使は天界へ。 そして人間であれば何も起こらない‥‥普通の人間であれば。 舞姫の瞳がいよいよ金色に輝く。 目の前の青年の内側にある者が何者であろうとも容赦はしない。 たとえ‥‥それが天の使いであっても。 いつも塞ぎ込みがちだった山崎を、あのように明るく変えた花組。 その花組を導く大神一郎という青年‥‥ そして帝撃全てを導くであろう、間違いなく次の世代の指導者。 内側で大神を変えようとしている‥‥認めることは出来ない。 大神は大神でなければいけない。 神凪が想ったこと、そしてアイリスが願ったことは、舞姫も同じだった。 人の路は人が示さなければならない。人を助けるのは人でなければならない。 大神は天に代る者であってはならない。 だが‥‥ 何も起こらなかった。 目の前で舞う青年は明らかに普通の人間ではない。 舞姫はそう認識していた。 それが‥‥ 『‥‥わらわの瞳が‥‥効かない、のかえ‥‥?』 舞姫の魔眼、その破魔の力をも無効化する大神の目。 大神の裡なる者の目。 鳳凰は白狼のもとから離陸した。 風が舞姫の鼻孔をくすぐる。大神の匂いを引き連れて。 花の香り‥‥? 舞姫は錯覚した。実際に花の香りがした訳ではない。 だが大神の吐息には、何故か花の香りが混じり込んでいるような気がした。 ‥‥蓮華の香り。 暁に咲く蓮華の香り。 ‥‥この方に似合う花ではない。 舞姫は舞いながら思った。 この人には白い花が似合う。どんな色をも色褪せて見せる純白の花が‥‥ 刹那、舞姫の脳裏に花やしきで邂逅した、あの白百合が脳裏に過った。 白い浜百合‥‥潮風に靡く、強く美しい花。 ただ、舞姫の魔眼を以てしても、蓮華の花の裏は見えなかった。 白い花はもう一つあったことを‥‥ 暁の蓮華の影でひっそりと咲く、容しい純白の蘭の花があったことを。 そして再び鳳凰は白狼のもとへ戻った。 「舞姫‥‥いや‥‥汝‥‥神崎七瀬よ‥‥」 「!」 「主が目覚めし時、夢の扉を開けるがいい‥‥彼と共に‥‥“風の踊り子”と共に」 「あ‥‥」 「我を封印せし第二の鎖を解き放て‥‥さすれば我は甦らん、再び汝らを護るために」 「あ、あなたは‥‥」 「そして我に路を示せ。我に未来を示せ。我が裡に眠る天狼を開放せんがために‥‥ 時をも繋ぐ光を得んがために‥‥」 「あ、あなた様は、いったい‥‥」 「我は‥‥」 「‥‥‥‥」 「‥‥俺は、大神一郎‥‥帝国歌劇団の‥‥モギリ、さ‥‥」 スポットライトはない。 必要なかった。 霊力の視界を超え、肉眼を超え、目を閉じても網膜に捉えるほどに‥‥ 柔らかく輝くすみれ色の円環。 天から降り注ぎ、まるでオーロラのような軌跡を描く。 舞姫は刹那、大神の手から離れた。 羽根のように舞う舞姫。 そして再び大神の腕に中に戻る。 飛び立った鳥が再び主の元へ還るように。 「すみれの舞を見ているようだわ‥‥」 「神崎風塵流だな」 「え‥‥?」 「鳳凰の舞、その裏演舞だ‥‥俺の記憶が確かなら、な‥‥」 思わず溜息まじりに呟いたマリア、その言葉に神凪が応える。 「復活を願う舞‥‥再生を願う意味が込められている。全てを焼き尽くす鳳凰、その後 に芽生える命の芽、命の息吹を讚えるのさ」 「命の芽‥‥」 「それが神崎風塵流・不死鳥の舞」 「‥‥復活‥‥再生、か‥‥」 「大神と同じようにな」 「‥‥‥‥」 「伝承から消えてしまった技なのに‥‥なぜ舞姫が‥‥」 ‥‥あの頃のこと‥‥胸の中に‥‥ ‥‥思い出が‥‥くるくると‥‥回る‥‥ 歌声が聞こえてきた。 舞う舞姫の口元がかすかに揺れる。 それは舞姫が奏でる歌だった。 何故その歌を謳うのだろう‥‥舞姫にすらわからなかった。 唇が、声帯が、自然にそのように動作した。 その歌を謳え、と‥‥ 共に舞う、白い青年が導いたかのように。 ‥‥舞台の幕が開き‥‥涙を歌に変え‥‥ ‥‥煌めく笑顔で明日さえ見せる‥‥輝くライト浴びて‥‥ 舞姫が謳う。 哀しい詠、そして、優しい詠。人の想い全てを表現する歌集、舞姫哀歌。 その中でも、最も切なく暖かい歌。希望の歌。明日へ導く歌。 花咲く乙女。 それは帝国歌劇団花組の舞台、そのフィナーレを飾る歌でもあった。 ‥‥花咲く乙女たち‥‥昨日は捨てたけど‥‥ ‥‥凛々しい姿を七色に映し‥‥夢を見るわ、いつも、愛の夢‥‥ 刹那、その歌詞通り大神の身体から七色の光が放たれた。 六つの花、それを白色の狼が束ねるが如く。 見えないオーロラ。虹の掛け橋。 その虹色の帯が、舞姫が奏でる紫光の数珠を繋ぎあわせる。 目に見えるまでに輝き始めた舞姫の光、それは大神の見えない光が導いたものだった。 大神を未だ拘束する、残る三つの鎖。 それがこの瞬間だけ緩められたように‥‥ ‥‥熱い想い‥‥この身を焦がし‥‥ ‥‥たとえ明日‥‥命尽きても‥‥ 大神も口遊む。 舞姫を導くように。 お互いに導きあうように。 ‥‥歌い‥‥踊り‥‥舞台に駆けて‥‥ ‥‥きみにとどけ‥‥ ‥‥今宵高鳴る‥‥ ‥‥その名‥‥ 「‥‥すごい‥‥なんて奇麗な歌声なの‥‥‥‥花組以上かもしれない‥‥」 「花咲く乙女、だったかな?」 「ええ‥‥」 「人の世の限りない哀しみと喜びを謳う舞姫哀歌‥‥その喜びの章でもあるな。人とし て生きる喜びを謳う。人は人として生涯を全うしたいから‥‥」 「‥‥‥‥」 「中国から帰って来た時‥‥大戦末期に晴海へ出陣する時‥‥」 「え‥‥」 「そして今日‥‥三度も俺に聞かせるとは‥‥俺に対する皮肉か、舞姫‥‥」 「レイ、チ‥‥」 仲間たちがマリアを呼んだ。 躊躇うマリア、神凪が微笑んでその背中を押す。 「‥‥そこが君の居場所だ‥‥マリア」 神凪は食堂を後にした。 もっと相応しい場所があったから。 だれにも気づかれないように‥‥ みなが大神と舞姫の舞と歌に心を奪われている間に。 ‥‥待ッテルカラ‥‥ワタシハイツマデモ‥‥待ッテイルカラ‥‥ ‥‥サヨナラ‥‥麗一様‥‥ 二人の声が神凪の心を再び締めつける。 群青の華。冬の華。 二階へ続く階段を一人上る。 その先に見える半開きの扉。 『‥‥ひとりぼっちにはしない‥‥“大佐”との約束だ』 ‥‥花咲く乙女たち‥‥未来を抱きしめて‥‥ その暗い部屋にも歌声が聞こえた。 ただ深い眠りにつくだけの桜色の少女。 その口元に少しだけ笑みが浮かんだ。 歌声を聞いたからか‥‥ 闇の到来を感じた故にか‥‥ 『さくら、ちゃん‥‥』 ‥‥あはは‥‥こっちだよ‥‥あははは‥‥ まだ幼かった頃のさくらが桜の木の下で神凪を呼んでいた。 傍に寄る。 すると‥‥その少女は、その闇の吐息の方向に自然と顔を向けた。 微笑みが消える‥‥唇が少しだけ開いた。 何を言いたかったのか。 何かを求めていたのだろうか‥‥ 「‥‥れ‥‥い‥‥‥‥い‥‥‥‥ち‥‥‥‥」 「‥‥‥‥」 桜の化身は再び闇に抱かれた。 そして、闇にすがりつくように‥‥その少女は更に深い眠りに入った。 深く、深く‥‥ 優しい闇に抱かれて‥‥未来を抱いて。 今は閉じてしまったさくらの部屋の扉。神凪が入って行った後‥‥ 一人の少女が背中を預ける。 太陽の象徴とも言える褐色の肌。それも少しくすんで見えた。 「‥‥ワタシ、待ってイマス‥‥ワタシ、いつまでも待ってマス‥‥」 ‥‥麗し美空に‥‥今昔の世界‥‥ ‥‥夢を見るわ‥‥いつも愛の夢‥‥ 静まり返った劇場に、舞姫の透明で澄んだ声が染み渡る。 シリスウス鋼をも浸透し、それは劇場の至る場所に行き渡った。 地下格納庫で眠る鋼鉄の鎧たちにも。 今や溢れんばかりの桜色の霊光を放つ漆黒の霊子甲冑‥‥零式神武。 その鋼鉄の筐体が震える。 過去を思い出したように。自分のあるべき姿を思い出したように。 それは闇。 闇をも喰らう真の暗黒。 背反する二つの光と闇が零式から放たれる。 それこそが零式の真の姿なのか‥‥ ‥‥我は無‥‥我は零‥‥混沌から生まれし者なり‥‥ ‥‥全てを喰らう者なり‥‥全てを無に帰す者なり‥‥ 横付けされたプレハブがそれに対抗する。 プレハブが震える。内側で眠る鎧たちは零式の力に決して屈することはなかった。 未完成の白い神武。 ‥‥我は無に非ず‥‥陽刻に生まれし者なり‥‥ ‥‥人と共にある者なり‥‥地に咲く花を育む者なり‥‥ もう一つ。 舞姫の声に最も共鳴した紫色の筐体。 白い神武に促され、零式に比肩する巨大な霊力が立ち上がる。 ‥‥お‥‥ねえ‥‥ちゃん‥‥ その名は七瀬と言った。 ‥‥我は無に非ず‥‥月光に生まれし者なり‥‥ ‥‥七つの海を渡る者なり‥‥虹色の光を創りし者なり‥‥ 陰陽五行‥‥即ち日月・火水木金土の七つに、天と地、そして人を加えた十という数を 以て風水は起こる。 大神の片身は日を指し、七瀬は月を示すことで、陰陽の対を成した。 そして五行‥‥ 火は南から。夏の風と波と共に‥‥朱雀と共に。 水は北から。厳冬の雪娘と共に‥‥玄武と共に。 木は東から。新緑の春風と共に‥‥青龍と共に。 金は西から。秋の山吹色を齎すために‥‥白虎と共に。 火、水、木、金‥‥その四つの属性が誰に帰化するかは想像できる。 あとは土‥‥土はどの方角にもあてはまらない。即ち中央。 光と影、いずれにも属することで風水を生み出す母にして伴侶。 いずれかに帰結することで、再生と破滅を生み出す創造主にして破壊王。 輝く身体が示すものは、土の象徴たる荒ぶる蛇に対抗するためのものだったのか? それとも、光であり日である、その人に‥‥少しでも近づきたかったのだろうか? ‥‥舞姫‥‥ 『‥‥!‥‥お館様?』 ‥‥お前の舞が見える‥‥お前の詠が聞こえる‥‥ 『お館、様ぁ‥‥』 ‥‥お前の想いが見える‥‥お前の心が‥‥伝わってくるよ‥‥ 『ぐしゅっ‥‥』 ‥‥俺はいい隊長ではなかったな‥‥それでも‥‥俺を信じてくれるか?‥‥ 『ぐしゅっ‥‥ひ〜ん‥‥』 ‥‥夢を与えてくれ‥‥俺に‥‥司令に‥‥大神さんに‥‥全ての仲間たちに‥‥ 『‥‥はい‥‥はいっ』 ‥‥お前の舞が見える‥‥お前の心が見える‥‥お前の‥‥優しい心が見える‥‥ 『お館様ぁ‥‥お館様あああっ!』 ‥‥熱い想い‥‥この身を焦がし‥‥ ‥‥たとえ明日‥‥命尽きても‥‥ 舞姫の涙は最早哀しい色を呈してはいなかった。 繋いだ手を離す。そしてその雫を拭う大神。 少し照れくさそうに。 舞姫が応える。 舞姫の唇を借りて。 『大尉‥‥』 「‥‥!‥‥すみれ、くん、か?」 『わたくしは‥‥わたくしは、大尉の‥‥大尉の邪魔に、なりませんでしたか?』 「すみれ、くん‥‥」 『わたくしは‥‥わたくしは‥‥』 「‥‥ずっと一緒だ。これからもずっと‥‥」 『大尉‥‥』 「そして‥‥あの時言えなかった言葉‥‥君が眠りから覚めた時に言うよ」 『大神、さん‥‥』 「君を抱いた時に‥‥君が俺を受け入れてくれた時に‥‥言うべきだった言葉を」 『‥‥大神さんっ!』 舞姫が泣いた。 大神は今度はそれを拭わなかった。 ただ、じっとその雫を見つめていた。 その瞳だけを見つめていた。 舞姫の瞳の向こうに見える、今一人の“舞姫”を。 ‥‥歌い‥‥踊り‥‥舞台に翔けて‥‥ ‥‥君にとどけ‥‥今宵高鳴る‥‥その名‥‥ 舞姫が舞う。優しい子守歌と共に‥‥ 大神が導く。優しい歌声と共に。 その歌声は仲間たちを繋いだ。 いつしかその歌声は、そこにいた全ての仲間たちから生み出されていたのだ。 ‥‥帝国歌劇団‥‥ 治療室で眠る二人にも、その声は確かに聞こえた。 山崎の青白く無表情だった顔に、ほんのりと赤みが注し始める。 すみれの頬にも‥‥唇はほんのわずかに、微笑みを湛えて。 ‥‥歌い‥‥踊り‥‥ ‥‥舞台がはねて‥‥ 劇場から灯が消えた。 歌声とともに‥‥子守歌とともに‥‥ ‥‥君にとどけ‥‥ ‥‥今宵‥‥高鳴る‥‥ ‥‥その名‥‥ そして再び時は動き出す。 壊れた時計が‥‥遂に復活の時を刻み始めた。 “天塵”という名の銀時計が時を刻む。 命の鼓動とともに白金のように輝く天塵。 まさに天の塵が凝縮したかのように。 黒ずんでいた外観はもう見る影もない。 風が音楽を奏でる。 命の消えた大地を鎮める魂の歌。 舞姫と大神の歌声が、風に乗って地平線の彼方まで伝わっていったのか‥‥ 「‥‥歌が聞こえる」 天塵は紅い服の上で輝いていた。 大陸の強い風に靡くチャイナドレスは、輝く天塵とは対照的に土埃にまみれ、嘗ての鮮 やかな色合いは薄れて赤茶けていた。 風の大地にすっくと立つ、その少女‥‥チャイナドレスに身を包んだ紅い少女。 蕾の頃はもう過ぎ去ったらしい。 幼かった少女の胸は柔らかく膨らみ、完全に女性としての位置付けを主張していた。 生まれ変わった天塵が、その胸の谷間でいっそう輝きを増す。 「歌か‥‥俺には聞こえないな‥‥あるいは君を呼ぶ声かもしれないな」 「あの人が呼んでる‥‥」 華奢だった腰つきも、いつしか妖艶な影を纏わりつかせるまでに‥‥ チャイナドレスが締めつける。妖しくも美しく、淫らで清らかな稜線を以って。 汚れたチャイナドレスが逆に艶やかさを際立たせる。 汚れた髪‥‥三つ編みのおさげ髪が少しほつれて風に靡く。 汚れた顔‥‥頬に付着した黄色い土。 だがそれはまるで幼かった蕾を花開かせるための魔法のようだった。 土埃に煙った眼鏡。その向こうに見える海のような色の瞳。 土化粧を解いた時、その花は真の姿を現すのか‥‥ 天塵を胸に抱いて、その少女は風の大地にすっくと立っていた。 七つの大罪を駆逐すべく四季を翔けた龍‥‥四季龍最強の戦士と共に。 秋緒という名の堕天使と共に。 全てを無に帰す魔界の龍。 天に還ることを許されなかった地の龍。 荒ぶる蛇の落とし子の如く。 秋の紅葉の如く、真紅に染まる逆立った髪。 燃え上がる真紅の瞳。龍眼にして魔眼。 その奥に揺らめく白銀の刃‥‥狼虎滅却、滅殺、抹殺、殺、殺、殺殺殺‥‥ 夜叉の如く‥‥阿修羅の如く。 大陸の強い風が二人の髪を揺らす。 大陸の力強い運気が二人の体内に染み渡っていくように。 「香港に着いたら男物の服を調達しよう‥‥そのドレスは罪を呼びそうだ‥‥」 「‥‥‥‥」 「‥‥どうかしたのかい?」 「‥‥風が強い‥‥嵐が来そう‥‥」 「風‥‥“風の踊り子”か‥‥春蘭と夏海、間に合えばいいが‥‥」 汚れた衣装と汚れた化粧の下で眠る蘭の花。 わずか数週間の間で、その花は最も美しい時を迎えようとしていた。 時を刻む者の到来は、時を継ぐ者の時間をも変えてしまったのか? 時を司る者への想いが、その時間の流れを変えてしまったのだろうか? それとも‥‥<十章終わり> (注:記載の歌詞は帝国歌劇団歌謡全集「花咲く乙女」より引用)
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ふみちゃんさんの「花組野外公演」第十章です。 前編とは異なり、静かな中に熱い想いが交錯していきます。 かすみさんの、由里ちゃんの、月影の、冬湖の・・・・それぞれの想いが、願いが、悲しみが、物語を紡いでいく・・・ そして復活した”あのひとたち”も・・・ 秘密のベールに隠されていた四季龍も、本編でようやく揃ったし、最後には彼女も再び出てきました。 これからの展開、どんどん期待に胸ふくらみます。 さあ、皆さん。ふみちゃんさんへ感想のメールを出しましょう!
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