花組野外公演・外伝

      ― look inside "for lovers" ―







(1)



静かな夜。

銀座の街灯りはまだ消えていないのに‥‥

街の雑踏が聞こえてこない。

静かだな。

俺は今、劇場一階の舞台袖に続く廊下を歩いている。

横には悲しそうな顔をしている山崎。

俺よりいっこ下。少尉殿、だな。

夢組隊長。

‥‥何か、やけに俺にくっついて歩いてんな。

気色わりいヤツ。

ま、無理ないか。

初めての舞台。

ある意味、仲間は俺だけだもんな。

公衆の面前に曝しもんだ‥‥しかも明日。

‥‥言い方が悪いかな、”サラシモン”なんて。

でもなあ‥‥俺らみたいな男が舞台上がって、イメージ壊してしまったら‥‥

いいかげんな稽古ではボロが出てしまう。

カンナも本気だったし‥‥

そう言えばカンナ、一人で花やしき行ったけど大丈夫かな。こんな夜遅く‥‥ちょっと心配だ。



もう一度山崎を見る。

泣きそうな顔してるな。

帝撃隊長がそろって舞台に上がる、か‥‥

部隊ではなく。

でも、そのほうがいいな。

今の俺にとっては‥‥きっと‥‥

山崎にもきっとわかる。

ふふっ、明日が楽しみだ。

「‥‥ぼーっとしてません?大神さん」

後ろから返事が聞こえた。

さくらくんの声。

振り向くと‥‥うーん、歯形はとれる気配がないな。

「‥‥何か言いたいことでも?」

「な、なんでもないよ、うん‥‥」

あぶね‥‥

みんな目つきが違うよな、なんか。

アイリスは‥‥楽しそうだ。

でも、もう遅い。

寝たほうがいいだろうな。

彼女の場合、だらだら稽古しても意味ないし。

「アイリス、もう寝て‥‥」

「やだ」

「でも‥‥」

「‥‥お兄ちゃんが稽古してるのに、アイリスだけ先に休めないよ」

「‥‥わかったよ」

こういうところは頑固だもんなあ。

そのうち眠くなるか。

‥‥という間に舞台袖に着いてしまった。



「始めましょうか」

「はーい」「よろしくてよ」「わかりました」

マリアの掛け声で稽古が再開された。

勿論俺と山崎は返事する気力なんてない。

スポットライトが眩しすぎる。

真っ黄色だ。目が痛い。

本当は”西遊記”のはずだった公演が、カンナの怪我とすみれくんの‥‥

あれは怪我というのかな、その目の上のたんこぶのために、急遽演目が変更になった。



‥‥”愛ゆえに”。

実は俺、一番好きな演目だったりする。

マリアのオンドレ、さくらくんの街娘。

いいよな。

紅蘭の男役もいい。

紅蘭‥‥

紅蘭は‥‥いない。

それも山崎が肩代りだ。

そう考えると‥‥山崎のヤツ、気の毒だな。

カンナの代役もやるし。

新支配人の指示でこうなった訳だが‥‥

‥‥明後日に赴任する神凪大佐。新司令。新支配人。

‥‥どういう人なんだろ。

有名だけど、噂しか知らないし‥‥



おっと、今は舞台だ。

肝心の主役級の二人のうち、さくらくんがあの調子。

いつもはオンドレやってるマリアが街娘。

マリアの街娘、か‥‥

確かに衝撃的だろうな。

前売りがあんなんだから‥‥

その相手役のオンドレが、この俺。

俺‥‥大丈夫かな。

マリアのオンドレ、すごいもんなあ。

俺、ほんとに大丈夫かな。

‥‥なんかいきなり不安になってきた。

あーあ‥‥

安請け合いするんじゃなかったなあ。

「さ、大神さん。ここの部分から始めましょうか」

「う、うん」

いつの間にか目の前にマリアが立っている。

黒いコート。

いつもと同じ。

同じ‥‥

‥‥違う、かな。

何か‥‥いつもと違うような‥‥

違って見える。

スポットライトが髪に降って‥‥金粉みたいだ。

その髪に片目が隠れてる。

‥‥勿体ないな。

顔、全部見せればいいのに‥‥

「‥‥な、なんです?」

や、やばい‥‥

あんまり見てると、また怒られっちまう。

「い、いや、なんでもないよ」

視線を目から下ろす。

白い肌。

‥‥きれいだな。

真白だ。

俺の神武に乗るの、マリアのほうがいいんじゃないかな。

純白。雪のような肌。

そして‥‥

唇。

桜色の唇。

口紅はつけないのかな‥‥

マリアなら似合うかも。

もっと大人っぽく見えるような気がするし。

‥‥でも、そのままのほうがいいか。

きれいだな‥‥

女の子、って感じがする。

柔らかそうだ、な‥‥

いや、柔らかいんだ。

俺‥‥花やしきで‥‥

『い、いかん、何考えてんだ、俺はっ』

黒いコートに視線が戻る。

俺、結構大胆なことしたんだな‥‥今にして思えば‥‥

「‥‥どうか‥‥しましたか?」

「い、いや‥‥」

マリアって、恋人いるのかな?

こんだけ美人だからなあ。

優男じゃ、無理だな。

いるとしたら、どんな感じなんだろ。

恋人‥‥いるのかな‥‥

「大神さん、時間が‥‥」

「ご、ごめん」

いかん、いかん。

真面目にやらんと。

確かに時間がない。







(2)



「‥‥”大丈夫ですかっ、お嬢さん‥‥なんてことを‥‥”」

「”あなたは‥‥”」

宮殿兵士の駆る馬に撥ね飛ばされて、地面にうつ伏せになる花売りの街娘、クレモンティーヌ‥‥わたし。



オンドレ様‥‥大神さんがわたしを抱き起こす。

スポットライトが眩しい。

顔がよく見えない。

でも‥‥

あたたかい‥‥

すぐ目の前に‥‥いる。

わたしの肩を抱いて‥‥

「”花が‥‥ひどいことをする”」

「‥‥‥‥」

「‥‥”花が‥‥”‥‥マリア?‥‥お、俺、間違ってる?」

「‥‥え?‥‥あ、す、すいません、わ、わたしの台詞でした」

「そ、そっか‥‥」

馬鹿っ、わたしの馬鹿っ‥‥

どうして‥‥

台詞が出てこない。

頭の中が真白になって‥‥

「す、すいませんでした‥‥も、もう一度お願いします‥‥」

「‥‥マリア」

「は、はい」

「疲れてない?」

「え‥‥」

「ずっと花やしきで詰めてたんだろ?‥‥少し休みなよ。俺、もう少し自分の台詞、復習するからさ」



「あ‥‥」

大神さんが‥‥舞台の端に行っちゃった‥‥

「‥‥山崎、あれやろう‥‥宮殿で戦う場面」

「は、はいい‥‥」

いつもの横顔。

いつもの‥‥

わたし‥‥

わたしは‥‥いつものわたしじゃない。

‥‥なんか違う。

どうしたの?

ずっとやりたかった女役でしょ‥‥

街娘。

わたしが街娘になる。

相手は大神さん。

大神さんがオンドレ。

‥‥よく似合うよ‥‥

見られた‥‥大神さんに。

‥‥普段からそんな服着ればいいのに‥‥

街娘の衣装、身体にあてて‥‥

‥‥わかった‥‥二人だけの秘密だね‥‥

だれにも言えない。

二人だけの秘密。

秘密じゃ‥‥なくなっちゃった‥‥

秘密じゃない。

夢じゃない。

二度と来ない。

こんな、こんな機会は、もう二度と‥‥

それなのに‥‥

わたし‥‥わたし、どうしちゃったの?

「‥‥マリア」

「え?」

「さっきから呼んでんのに‥‥どうしたんだ、ぼけっとして」

「あ、お帰り、カンナ‥‥」

「‥‥なんだ、隊長に見惚れてたのか」

「な、な、な‥‥」

「へっへーっ、無理ねえよな‥‥ラブラブシーンはバッチリ決めてくれよ」

「ばばばば馬鹿なな‥‥」

なんで、なんでそんな‥‥

カンナの馬鹿っ‥‥

意識させないでよっ、もうっ。

「さあてと、おーいっ、隊長っ、旦那はあたいが預かるからよ‥‥マリア頼むぜ」



やだ、やめてよ‥‥

やめて、よ‥‥

「‥‥あ、お帰り、カンナ‥‥じゃあ、続きは後でやろう、山崎‥‥」

「お、大神さん、も、もう少し‥‥」

「‥‥あたいじゃ‥‥不満か、こら‥‥」

「いいいいいいいええええ‥‥」

わ、わたし、顔が‥‥きっと真っ赤になってる。

大神さんが来る。

わたしの‥‥傍に‥‥

目の前に‥‥

どうしよう。

「‥‥いいのかい、休まなくて」

「あ、あの‥‥」

「‥‥ん?」

「い、いえ‥‥もう一度お願いします」

「こちらこそ」

ほっ、大丈夫みたい。

いけない。

集中しなくちゃ。

時間がないのに‥‥時間が‥‥ない‥‥

時間が‥‥

時間が止ればいいのに‥‥

「じゃ、もう一度‥‥街娘との最初の出会いだね」

「‥‥はいっ」

時間は止らない。

でも、明日までは‥‥わたしの時間だ‥‥







(3)



午前二時。

銀座の街灯りはとっくに消えている。

少し霧で煙っている、銀座の街。

劇場の窓から漏れる光が、その場所だけをぼんやりと浮かび上がらせていた。

その一階の窓に人影が映し出されている。

薄手のカーテンで遮られて影絵のように人が佇む。

大神は給湯室にいた。

みんな汗だくになっている。

休憩をとらないと、さすがに持たない。

お茶でも飲もう、ということで稽古は一時中止となった。

お茶当番は大神。

みんなサロンにいる。



シュン‥‥シュン、シュン‥‥

「‥‥もう少しか‥‥ん?‥‥この香り‥‥」

振り向くと、入り口にマリアが立っていた。

シャワーを浴びたあとの聖水が香る‥‥聖母マリア。

大神はそう感じた。

花の香り。

あやめの花の香り。

「‥‥マリアの香り、か」

「え‥‥」

「いつだっけ‥‥同じような状況で‥‥」

「‥‥隊長が体調崩して‥‥うっ」

「あははは‥‥サロンに行ってなよ、俺が持っていくから」

「そんな‥‥手伝います」

「いいから。そんな大物じゃないし」

ヤカンからポットにお湯を注ぐ。

湯気が立ち上る給湯室。

マリアはじっと大神を見つめていた。

静かな夜。

お湯を注ぐ音だけが聞こえる。

カタン‥‥

大神がヤカンを置いた。

トレーに紅茶の缶と、サーバを乗せる。

「ん?‥‥やけに軽い‥‥」

ふいに紅茶の缶を開ける大神。

あくまでじっと見つめるマリア。

「げっ‥‥もう葉っぱがない‥‥どうしよう」

日常の風景。

台所で炊事する自分と同じ。

そこに大神の日常があるような気がマリアにはした。

口元が緩む。

棚の中を探しまくる大神。

しゃがんで‥‥下の戸棚を覗き込む。

背を延ばして‥‥上の戸棚を手で探りを入れる。

隊長ではなく、モギリでもない、一人の青年がそこにいた。

そして見つめているのは、隊員でもなく、副司令でもなく、女優でもない、一人の女性だった。



「な、ない‥‥どうする‥‥」

「‥‥珈琲にしません?」

「‥‥え?」

「珈琲」

今度は大神の口元が綻ぶ。

マリアの珈琲、か‥‥悪くない。

「‥‥いいね」

「わたし、持ってきますから」

「ここで入れるか‥‥待ってるよ」

「はいっ」

マリアは駆け出した。

一階にある給湯室から二階の自分の部屋へ。

自然に口元が緩んで、にやけてしまう。





自分の部屋に入ると、灯りをつけないままマリアは机に向かった。

いつもは暗くて寒い部屋も、なぜか暖かく感じる。

カーテンは開け放たれ、月明かりが差し込む。

白い満月。

マリアの横顔を満月が照らす。

マリアは机の上のある小さな棚から、これも小さめの袋を出した。

麻の布袋。

横浜の知人に送ってもらった深入りの珈琲豆が入っている。

いつか大神と一緒に飲もうと思って、大事に取っていたもの。

「みんなで味わうのも‥‥いいかな」

マリアは少しだけ布袋の口を緩めて、香りを確かめた。

「‥‥うん、大丈夫」

また、口元が緩む。

ドアを閉めて階段に向かう。

曲がり角。

左手の突き当たりはサロン。

みんな、いる。

声が聞こえる。

『‥‥我慢してて』

と、時の神に願をかける。

階段を降りる。

駆け足も、途中から静かに、そして、忍び足になっていった。





「‥‥”使命も部下も捨てて逃げ出す私など‥‥最早私ではない”‥‥」

ただ一人給湯室に佇む大神は、街娘とのからみの場面の台詞を口ずさんでいた。

表情はオンドレそのもの。誰も見ていない。観客はいない。



‥‥いた。

マリアが隠れるようにして大神を見つめていた。

「‥‥”オンドレ様‥‥わたくしと‥‥お逃げくださいませ”」

聞こえないように、囁くように呟くマリア。

それに答えるように大神が続ける。

「”そんな私を、あなたは愛せるのか”‥‥違うな。”そんな私を‥‥あなたは‥‥愛せるのか‥‥”、

よーし、これだっ」



表情が綻ぶ大神。

影に隠れてにっこりと微笑むマリア。

少し頬が赤らむ。

そしてただ、じっと大神を見つめた。







(4)



「クレモンティーヌ‥‥いい響きだな。”マリア”もいいけど‥‥」

隠れていたマリアは、出て行こうとして、立ち止った。

再び隠れる。

自分の名前を口にした。

大神が自分の名を呼んだ。

マリア、と。

「マリア・タチバナ‥‥マリア、か‥‥呼び名かな?‥‥ほんとはマリアンヌ、だったりして‥‥」



『ふふ‥‥大神さんたら‥‥』

「‥‥フランス人じゃないしな、違うだろな‥‥でも‥‥マリア、か‥‥いい名前だよな‥‥」



『う、うれしい‥‥』

「マリア‥‥聖母マリア、だな‥‥」

『そ、そんな‥‥大神さん‥‥』

「マリア・オオガミ‥‥うーん‥‥へんかな‥‥」

『!!!!!‥‥へ、へ、へんじゃありませんっ!』

「はっ‥‥俺、何言ってんだろ」

『わたしは‥‥わたしは‥‥‥‥お、落ち着いて、落ち着くのよ‥‥』

マリアは自分に言い聞かせた。

身体が小刻みに震える。

「大神一郎‥‥一郎、か‥‥どこにでもある名前だよな‥‥」

『素敵ですっ、い、一郎、さん‥‥』

「親父のやつ、兄さんみたいな名前にしてくれればよかったのに‥‥」

『‥‥?』

「麗一、大神麗一、か‥‥いいよな、兄さん‥‥」

『お兄さんがいたのか、大神さんて‥‥レイイチ‥‥ん?‥‥どこかで‥‥』

「マリア、遅いな‥‥どうしたんだろ」

『はっ、いけない』



マリアはようやく給湯室に姿を見せた。

大神が振り向く。

マリアの顔がやけに赤い。

「?‥‥もしかして‥‥珈琲、探しまくってたとか?」

「‥‥え?」

「顔が赤いよ、マリア」

「!‥‥こ、これはですね、その‥‥あ、こ、これです‥‥」

マリアが大神に手渡す。

麻の布袋。

袋を開けると、濃いめの茶褐色に輝く珈琲豆が詰まっていた。

「深入りだね‥‥豆‥‥あーっ!?」

「ど、どうしました?」

「ひ、挽くのが‥‥ない」

「‥‥珈琲ミル、ですよね‥‥どうしましょうか‥‥」

大神とマリアは悩んだ。

目の前の逸品に待ったをかけられてしまった。

「紅蘭が入ればなあ‥‥ん‥‥!‥‥そうだっ」

大神の目が輝いた。

「何か妙案でも?」

「”ミルミル砕け散る我が万年筆よ<そりゃ殺生やで>規格外・百弐拾参号”、があったっ!」



「み、見る見る‥‥?‥‥はい?」



暇で暇でどうしようもなかった紅蘭が、その暇の末に編み出した発明品。

命名は大神。

この名前はどういう訳か紅蘭をいたく感動させ、その後の発明物品にも類似の呼称がつけられるように

なった。蒸気自動車”うちのハマジ”もそう。



ようは鉛筆削り機。

雪が降った冬のとある休日の早朝、紅蘭に叩き起こされた大神、その寝ぼけ眼に突き付けられた得体の

知れない物体。口は広く大根でも削れるそうだ。径は鉛筆のサイズまでフレキシブルに変えられる。



試し切りをしたいと言う紅蘭に、寝ぼけた目で『机の上にあるだろ‥‥』と答えてぶるぶる震えながら

再度ベッドに潜り込んだ大神。『これか‥‥ほんまにええんかいな』と聞こえたその瞬間、ガリガリッ

と言う異音とともに、飛び起きた大神が見たものは万年筆の成れの果てだった。



百弐拾参円した万年筆。暫し茫然とした後、震えながら崩れるように膝をつく大神。しかし、そそくさ

と逃げ出す紅蘭を視界に捉え、燃え上がるように復活‥‥



『待てっ、俺の万年筆を返せっ』

『か、勘弁してえな‥‥だれか助けてええ、拐かしやでええ』

『ぬうっ、盗人猛々しいヤツめっ、成敗してくれるっ』



‥‥寝間着姿で紅蘭を追いかけまわす大神。二階から一階、また二階へ。



『大神はんが、うちを、うちを押し倒そうとしてるでええっ』

『い、言わせておけば、も、もう勘弁ならんっ』



‥‥そして、一斉に少女たちの部屋の扉が開き、大神が袋叩きの憂き目に合うことで追跡は終了した。





「紅蘭が造ったミル、ですか?」

「ミルと言うか、ちょっと違うんだけど‥‥ちょっと待ってて」

「あ‥‥」

今度は大神が走り去って行った。



階段を駆け上がる大神。

二階に上がるとすぐにサロンの扉が目に映る。

声が聞こえる。

「‥‥待たせてるな‥‥急がないと」

自分の部屋に入る。

「‥‥うーん‥‥どこしまったっけ?」

机の引きだしを隈無く探す。

ない。

「うーん‥‥どこだ?」

棚の中。タンスの中。ベッドの下。

「‥‥あれ?‥‥ないな。‥‥待てよ‥‥そっか、紅蘭が‥‥」

大神は部屋を出た。

紅蘭の部屋の前に立つ。

コンコン‥‥

「‥‥いない、か」

暫し扉を見つめる。

カチャ‥‥

「‥‥お邪魔します」

主のいない部屋。

大神はどこを見るでもなく、視線を固定するでもなく、ただぼーっと紅蘭の部屋を見ていた。廊下の明か

りだけが入り込む暗い部屋。入り口に立つ大神の影を率いて。



紅蘭の香りは‥‥しない。

残り香はない。

人のぬくもりが消えてしまっている。

「‥‥借りるよ、紅蘭」

それは机の上にあった。

大神は紅蘭の机まで歩み寄った。

じっと見つめる。

作業していたらしい、何かの部品。

机の上にはそれ以外に写真立てもあった。

大神は手に取った。

劇場前でみんなで取った写真。

左に‥‥あやめ。

右手前に‥‥紅蘭。

「‥‥ん?」

写真の裏に何か挟まっている。

引き抜ける。

大神はかなり躊躇ったが、それを抜いた。

それも写真だった。

「紅‥‥蘭‥‥」



大戦が終わった後、海軍へ召喚された大神。

帝撃への復帰が決まり、海軍司令部の建物から出ると‥‥

玄関の前に一台の蒸気二輪車が停っていた。

‥‥お出迎えやで‥‥乗って行きなはれ‥‥

横には花小路伯爵と米田司令が立っていた。

‥‥記念写真を撮ってやる‥‥この建物とは‥‥おさらばだろうからな‥‥

米田が撮影した。

大神がハマイチの前に立つ。

そのすぐ横に、少し照れくさそうな表情の紅蘭。

‥‥記念写真だから‥‥記念にしよう‥‥

大神は微笑んで紅蘭の肩を抱き寄せた。

紅蘭の顔が真っ赤になって写る。

幸せそうな顔で。

紅蘭独特の寄り目で。



大神は写真を元に戻した。

そして写真立ても元に。

ミルを手に取る。

視線を下にして、すぐに紅蘭の部屋を出た。

閉めたばかりのその部屋の扉に背もたれる。

「やっほー‥‥俺は元気だよー‥‥」

‥‥あんたの後ろには、うちがついとるから‥‥

日本橋決戦の日‥‥さくらの突然の失調。

治療室を後にした大神を紅蘭が呼び止めた。

‥‥うちが応援してるでえ‥‥

「俺の後ろにいるんだろ‥‥紅蘭‥‥」

今は扉が後ろにあった。

主のいない部屋の扉。







(5)



「‥‥遅いな、大神さん‥‥」

マリアは一人給湯室で大神の帰りを待っていた。

音がない。

深夜の劇場。

急に寂しくなった。

ポットの中身を確かめる。

口が開けられていたため、お湯が少し温くなった。

「もう一度沸かそ‥‥」

マリアはコンロの火を点けて、やかんをかけた。

茶こしの柄とフレームだけを残して、そこに布をかけた、珈琲抽出用のフィルタ。

ネルと言うのよ‥‥

マリアの知人が教えてくれたそのフィルタをサーバに乗せて、大神の帰りを待つ。



「寂しいな‥‥」

思わず口に出てしまう。

「‥‥わたくしと‥‥お逃げくださいませ‥‥」

気分はまさにクレモンティーヌだった。

「‥‥使命も部下も捨てて逃げ出す私など‥‥最早私ではない」

「え‥‥」

入り口にオンドレが立っていた。

なぜか‥‥悲しそうな表情。

本当はそうなのかもしれない。

騎士の言葉。

隊長の言葉。

オンドレ、そして花組隊長の大神がそこにいた。

それがより一層マリアの心を動かす。

「そんな私を‥‥あなたは‥‥愛せるのか?」

自分が女であることを認識させるような、目の前に立つ青年の悲しい表情。

応えたのは街娘ではなかった。

「‥‥はい」

「え?」

「あ‥‥い、いえ、あ、あの‥‥お、遅かったですね」

オンドレは消えた。

隊長としての大神も消えた。

優しい青年が給湯室の中に入ってきた。

マリアのすぐ横に立つ。

「置き場所‥‥忘れちゃって‥‥」

「そ、そうですか‥‥」

ミルを置く。

中を開けると‥‥何か破片が入っていた。

「‥‥紅蘭、使ってたみたいだな。洗おう」

「‥‥‥‥」

大神は刃の部分と受け皿を外して、流しに置いた。

破片を振るう。

ポロポロと、黒い金属片のようなものが落ちてくる。

「‥‥ん?‥‥これは‥‥」

見覚えがあった。

一部に刻印が残っている大物の破片があった。

それは‥‥

「万年筆‥‥」

「‥‥え?」

「いや‥‥」

大神の万年筆を粉砕した後‥‥紅蘭はそれを使っていなかった。使わないのに、机の上にいつも置いていた。



大神はまたもや洗おうとした手を止めた。

やはりかなり躊躇い‥‥そして洗った。

マリアはじっと大神の横顔を見つめていた。

『‥‥紅蘭のことを考えているんだ』

すぐに感づいた。

二人きりの給湯室。

でも紅蘭もいる。

マリアは大神から視線をずらした。

ネルを見る。

二人の視線は平行線をたどった。







(6)



大神は洗浄したミルを十分乾かしてから、珈琲豆を挽きに入れた。

甲高い音が給湯室に響く。

カンカン‥‥

波にこびり付いた粉を振るい落とす。

ネルにその粉末を満たす。

シュン、シュン、シュン‥‥

やかんの口から盛大に湯気が出る。

「あちっ‥‥」

「だ、大丈夫ですか、大神さん」

「‥‥うん」

少し赤くなった大神の手。

マリアが触れる。

「‥‥火傷したかも」

「平気だよ」

「でも‥‥」

「平気」

「‥‥‥‥」

じっと手を握ったまま、大神を見つめる。

「‥‥大丈夫だよ、マリア‥‥珈琲、煎れるから」

「あ‥‥」

大神の手が、白い雪のような手から擦り抜ける。

マリアの手はその残った空気だけを探っていた。

手を自分の胸に戻す。

どこにも置き場所がなかったから。

せめて、自分が見つめてあげるしかない。

だから、マリアは‥‥

目を伏せて、自分の黒いコートに納められた白い手を見つめた。

それしか思いつかないから。



湯気とともに香ばしい香りが給湯室を埋める。

「これ、もしかして、マリアの取っておきかな?」

「そんなこと‥‥ありませんよ‥‥」

そして、マリアは自分の手から珈琲の黒に見入った。

「‥‥黒い雫‥‥漆黒の麻薬だな」

「黒い‥‥麻薬‥‥」

「黒って色、そんな嫌いじゃないな‥‥なつかしい気もするし」

「‥‥‥‥」

「闇のイメージが付きまとうけど‥‥これは優しい黒だな‥‥」

「‥‥わたしは?」

「え?」

ポツン、ポツン‥‥

滴り落ちる黒い雫を見ながら‥‥

視線を珈琲の黒に固定したまま、呟くマリア。

だれに言うでもない、そんな口調で。

独り言のように。

「わたしの黒は‥‥優しいですか?」

「黒いコート、か‥‥」

大神が振り向く。

そしてマリアの黒を見つめる。

「わたしに‥‥似合いますか?」

「‥‥‥‥」

大神はすぐに珈琲の黒に視線を戻した。

マリアの視線も珈琲の黒に留めたまま。

「‥‥もっと似合う服があるよ」

「え‥‥」

「明日になれば‥‥きっと‥‥」

「大神、さん‥‥」

マリアの手は胸の位置から下りた。

視線は珈琲から大神の横顔に移った。

少し大神に近づく。

漆黒のアロマが二人を包む。

「これもマリアの香り、かな‥‥」

「‥‥‥‥」

マリアはもう少し大神に近づいた。

そのままうつ向けば大神の肩に触れるほど。

大神がやかんを置いた。

ネルから黒い雫が落ちる。

砂時計のようにも見えた。

それが尽きると‥‥時間も尽きる。

給湯室の時。

じっと珈琲の抽出を待つ大神。

大神を見つめるだけのマリア。



マリアはそっと大神の背中に触れた。

「‥‥?」

「わたくしと‥‥お逃げくださいませ‥‥」

「‥‥‥‥」

「わたくし、と‥‥」

「‥‥こんな私を‥‥あなたは‥‥愛してくれると言うのか?」

「あなたしか‥‥いません」

「‥‥‥‥」

「あなたしか‥‥」

「‥‥全てを捨てよう‥‥あなたが傍にいてくれるのなら」

街娘はオンドレの背中に寄り添った。

それは本当に街娘とオンドレの言葉だったのか‥‥



砂時計が途切れる頃、給湯室の灯りも消えた。



― Fin ―


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ふみちゃんさんの花組野外公演・外伝です。 本編「花組野外公演」では第三章の<2>にある、マリアと大神の「愛ゆえに」の舞台公演前夜にあたります。 始めての舞台共演で揺れ動く大神とマリアの心。 特に、マリアの切ない心の動きがきれいに表現されています。 ・・・かわいい、マリア(*^o^*) それにしても、紅蘭のミルミル(略)、もしかしたらシルスウス鋼ぐらい削れるかもしれないなあ(笑) 愉快で楽しい命名のルーツが、実は大神だったとは意外でしたね。 紅蘭のことだから、他にも楽しいツールを造ってるかもしれないなぁ。 ”めちゃめちゃイケてるで<いよっ大統領!>えんかいくん参號・改”とか(笑) 本編「花組野外公演」でも物凄い質と量の作品を送ってくれるふみちゃんさんへ、 皆様、是非、感想メールを出しましょう!!


ふみちゃんさんへのご意見、ご感想はこちらまで

(注:スパム対策のため、メールアドレスの@を▲にしています)

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