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第6章 沖縄県 太平洋上の南大東島(2001年 1月)
14.首里01 玉陵と御嶽と亀甲墓
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☆これまでの旅☆
南大東島へ行く前に、那覇の図書館で調べ物の毎日。ぼくにとって未知の島、
南大東島について詳しくなった、ような気がする。でもでも、それだけじゃあ
ちょっともったいない。図書館以外の沖縄にも行かなければ。
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●首里散策
昨夜あわただしかったものの、8時ころ起きる。室内16℃。洗濯物の乾きが
悪い。
それは洗濯した時間が遅かったからだろうか。それとも、湿気ているのだろ
うか。そうこうしながら9時頃ユースを出る。
朝食は、国際通りのモスバーガーだ。本当はA&Wにしたいのだが、まだ見
つけられないのでしかたがない。
さて、今日はいつもより早くユースを出たのは、首里城周辺観光の日とした
から。しかも、歩いて観光するつもりだ。
なぜ歩くのか。沖縄にもバスがあるのだが、路線が複雑でよくわからない。
沖縄は何度も来ているが、今まではバイクだった。だから、バスは苦手だ。
それに首里城は国際通りからも歩いていける距離で、それほどややこしそう
には見えなかったので、歩いていくことにした。
●歩け歩け
時間を計っていこう。
10時15分。国際通りのモスバーガー出発。緩やかな坂道を登っていく。
10時38分。観音堂入口到着。道路標識によると、首里城まで1.7キロ。ここま
でゆるやかな坂だったが、ここから急な坂になる。
首里城と言うと、平地にある丘の上にできた城だと思っていたが、首里城の
ある丘自体がなだらかな丘陵地帯にあることがわかった。
もしこのあたりまで首里城の縄張りだったとすると、これは日本の城とはち
がい、都市を城壁で囲った城塞都市になってしまう。
10時47分。玉陵到着。ここから5分も歩けば守礼門がある。ここまででおよ
そ30分だ。
●玉陵
首里城の近くにある玉陵(たまうどん)は、首里城の西側、かつての綾門大
道(あやじょううふみち)に面した第二尚氏王家歴代の陵墓だ。もちろん沖縄
最大。
一般的に墓が大きい沖縄の中でも、王家の陵墓だけに圧倒されるほどの大き
さがある。
琉球石灰岩の高い石垣が二重にめぐらされて、外側の石垣に設けられた石門
をくぐると、広い外庭に出る。まるで、巨大な御嶽のようだ。
庭にはサンゴの砂利が敷き詰められ、向かって左側に玉陵碑が西向きに立っ
ている。
碑は陵墓が1501年(尚真王)の建立で、中国産の閃緑岩がつかわれ、墓に葬
られるべき者の範囲が仮名書き、つまり日本語で書かれている。
外庭の正面には石垣があり、中央の門をくぐると石積みの墓が現れる。
墓室前の基壇の勾欄には仏教的な彫刻が施され、屋根の部分には左右には雄
雌の石獅子がいる。玉紐をくわえて玉とたわむれるという、中国風の獅子だ。
シーサーではない。
横に長い玉陵だが、左右対称の形はしていない。家が数軒つながっていて、
中央にサイロがあるといった感じだろうか。
○玉陵の墓室
●葬制
気がつくと説明が流れている。それによれば、見た目はひと続きだが、東室、
中室、西室の三基の墓に分かれているようだ。
中室は洗骨までの遺骸を安置するところ、東の部屋には洗骨後の国王、王妃
の遺骨が納められ、西の部屋にはそれ以外の王族の遺骨が納められた。
死後から洗骨まで安置される中室は、沖縄の伝統的な葬制を知らなければど
ういうものかわからないだろう。
琉球文化圏では、死者は洞窟のようなところに安置され、自然に朽ちるに任
せる風葬を行っていた。
そして、数年後、洞窟から骨を出し、海水や泡盛で骨を洗い、墓に納骨する。
もちろん、沖縄島のように人が大勢住んでいるところでは風葬するための洞窟
も少ないだろう。
そのため、墓の中に安置することもあるようだ。そのまま土葬するか、火葬
した骨だけを納める本土式の墓からは想像できないが、沖縄の墓は中に人間が
隠れることができるほど大きい。
●玉陵と亀甲墓
沖縄の墓は亀甲墓や破風墓等の種類がある。亀甲墓の形は母の胎内を象徴し
ているといわれ、生まれた場所に再び戻るという意味が込められている。
破風墓は家の形をしていて、戦後の火葬の普及とともに増えたというから、
玉陵は亀甲墓の一種だろうか。
以前、香港に行ったとき、田舎で亀甲墓のようなものを見た。香港は福建系
の住民が多いと聞いている。沖縄の墓との共通ルーツを持っているのだろう。
目の前の王墓は石灰石の灰色が重厚な感じを与える。第二尚氏歴代の墓とい
うことで、それなりの時間がたっているはずだが、石灰石独特の穴が開きなが
ら崩れていく風化は見られない。
太平洋戦争中、首里城には日本軍の基地が置かれたため、アメリカ軍から激
しい攻撃を受けたという。この玉陵もそのとき壊されたのだろうか。
●拝所
沖縄では様々な神に対して祈るために香炉を使う。ここも王家の陵墓である
ので、信仰の対象になっていたのだろう、王墓にのみ内側がへこんでいる大小
の石が並んでいる。これは、香炉だろうか。
沖縄では、香炉は神に対して拝む場所には欠かせないものだ。たとえば、御
嶽(うたき)と呼ばれる、神に対して祈る場がある。また、そこにいない遠く
にいる神を拝むための拝所もある。そこには必ず香炉が置かれている。
この玉陵にも、陵墓を離れたところから拝む場所があった。玉陵の拝所だ。
ちゃんと玉陵が木の間から見える位置にある。しかも、そこから見えるように
植木も整理されている。
しかし、今は墓堂の正面まで行くことができるので、この拝所は意味はある
のだろうか。いや、王国があったころは、多くの人は墓堂の正面まで行くこと
ができなく、だから、遥拝所から拝んでいたのではないだろうか。
●つづく●
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