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 第6章 沖縄県 太平洋上の南大東島(2001年 1月)
     15.沖縄2 沖縄の神域「御嶽(うたき)」

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☆これまでの旅☆
那覇の図書館で調べ物の毎日もちょっと休憩。さあさあ那覇の観光だ。元気よ
く歩いて首里の観光に出発。沖縄の象徴、首里城へ向かって歩き始めた。そし
て最初に到着したの玉陵(たまうどん)。琉球王家の陵だ。
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●御嶽

 今まで何度か「御嶽」という言葉が現れた。この御嶽とはどういうものであ
ろうか。
 それは、奄美諸島と琉球諸島にある聖地の総称で、神女が祈願や祭を行う場
であり、誤解を承知で言えば、「沖縄風神社と祠」だ。
 沖縄の集落には必ずといっていいほど広場のような聖地があり、祭祀や拝み
の場となっている。これが御嶽だ。呼び名は「うたき」とするのが一般的だが、
地域によっては「おん」「うがん」などかいくつかある。
 その形態や様式もいろいろあるが、一般的には神の依りましとしての「いび」
などとよばれる岩や神木があり、その前に石灰岩で作られた素朴な香炉が置か
れていたりするが、最近ではいびを囲むようなコンクリートの祠や、神社の本
殿のような拝所と呼ばれる大きな建物が設けられた御嶽も少なくない。

●聖域

 これらの御嶽は、多くはクバやヤプニッケイなどのうっそうとした茂みに包
まれているため、ちょっと大きな御嶽になると町の中でも簡単に見つけること
ができる。聖域に多数の木が生えているというのは、本土の神社とよく似てい
る
 御嶽にまつられている神々は、集落の人々の祖先神や、ニライ・カナイの神
などさまざまで、そういうところも神社と似ている。
 このニライ・カナイとは「海の彼方にある根所」のことで、死者の魂が行く
先であり、幸福や豊穣がもたらされる楽土なのだ。
 この観念は、奄美、宮古、八重山にもあり、琉球文化圏全体に広がっている。
 御嶽での祭祀は、ノロ、ツカサなどと呼ばれる巫女と神主を兼ねたようなシ
ャーマンである神女が執り行なう。
 一方、各家庭内の先祖供養といった祭祀を行ったり、占いや風水をしたりす
る民間の巫女は、ユタと呼ばれている。これが一般的な御嶽の説明だ。

●琉球と御嶽

 ぼくは以前は沖縄の御嶽は一くくりにして考えていたが、最近は沖縄の御嶽
を考えるとき、本島と先島は分けて考える方がいいような気がしてきた。
 先島の御嶽は、御嶽信仰の原初的形態をよく残しているように感じる。しか
し、本島の御嶽は、本土の神社がそうであるように、政治システムの中に人為
的に組み込まれて変質してしまったように感じるのだ。しかも、ある意味本土
の神社よりもより強く政治にかかわったようにも思う。
 これは、中国の天帝、日本の天皇のように為政者に権威をつけるために御嶽
信仰が利用された結果ではないか、と漠然と思っている。
 そうして政治権力によって統合された御嶽の頂点が久高島と斎場御嶽(せい
ふぁうたき)だ。しかし、統合されたといっても、御嶽がランクつけられただ
けで、明治期の本土の神社のように統廃合されることはなかったという。

●斎場御嶽

 沖縄の御嶽の中でもっとも中心的な斎場御嶽は、知念半島先端部の台地上に
ある琉球最高の聖地で、琉球の始祖アマミキヨが造った琉球七御嶽の一つと伝
えられる。
 琉球王国時代には、久高島への遥拝所として国王も参拝に訪れた。最高の神
女である聞得大君(きこえのおおきみ)の即位式「御新(おあら)下り」もこ
こで行われたという。
 たしかに、沖縄の御嶽を見てまわっても、本土のように組織的な干渉は受け
ていなように感じた。もちろん、仏教との習合もまったくないように感じる。
 本土の神社信仰は、奈良時代の延喜式による格付けのあと、平安時代の神仏
習合、鎌倉か室町あたりからの吉田神道による統轄、そして明治の神仏分離か
ら神社合祀、そして国家神道化とかなり政治的な変革を経ている。
 沖縄の御嶽信仰が本土の神社信仰と比較するとアニミズムの原初的な状態の
ように見えるのは、本土ほど政治的変革を受けていないからだろう。

●つづく●
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