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 第6章 沖縄県 太平洋上の南大東島(2001年 1月)
     16.沖縄3 琉球の城

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☆これまでの旅☆
南大東島の前に首里を観光。まずは琉球の象徴、首里城へ。とその前に、到着
したのは玉陵(たまうどん)。琉球王家の陵だ。そこでちょっと御嶽について
お勉強。「御嶽」ってなに? 沖縄の神社だよ……って言っていいのかな?
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●琉球の城

 首里城へ向かう前に、沖縄の城について整理し、考えてみよう。つまり、沖
縄の城はそれだけ本土の城とはちがうのだ。
 沖縄では「城」と書いて「グスク」と呼ぶことがある。グスクとは沖縄各地
にある石積みの遺跡のことで、城塞跡や祭祀跡などいろいろいわれている。つ
まり、本土の城のように権力の象徴や戦争のための砦では必ずしもないのだ。
 もちろん、現在広く一般的に「グスク」として紹介されているのは多くが本
土の「城」と同じようなものだ。
 ただし、それらのグスクも復元された首里城以外は建物もなく、ただ石積み
だけが残っているものばかりだ。
 本土の場合は、明治政府により多くの城はつぶされたのだが、沖縄の城はそ
うではないようだ。
 沖縄中に城がつくられたのは群雄割拠の三山時代。そして南山出身の尚巴志
による琉球統一により、琉球王国の手によって各地のグスクは整理されていき、
旧勢力のものは廃墟になったという。

●城址

 城としての役目を終えたグスクは、役人が館に住むだけになったり、グスク
内の御嶽や拝所が広く信仰の対象になったりしたという。
 つまり、沖縄のグスク遺跡の多くは、明治政府が廃城にしたのでも、米軍に
よって廃墟にされたわけではないのだ。もしかすると、日本政府がつぶし、米
軍の攻撃によって破壊されたのは首里城だけなのかもしれない。
 たとえば、首里城以外ですぐに思い出すグスクといえば中城(なかぐすく)
城だ。このグスクは沖縄島の中央の最もくびれたところにあり、城の頂上から
太平洋と東シナ海が見渡せることからもわかるように、ここをさけて北部から
南部へ、南部から北部へ行くことは困難だ。
 今は丘の上に石垣が残ってるだけという状態。城を復原しないのがとても残
念だ。しかし、この中城城址公園は個人所有だという。つまり、持ち主が決断
しないかぎり建物の再建はありえない。
 それはもったいないと思っていたのだが、現在では自治体が管理していると
いう。
 しかし琉球王国の象徴である首里城も、まだ完成していないので、復元され
るとしても、まだ先のことだろう。

●中山琉球王

 沖縄本島における「戦国時代」である三山鼎立時代、浦添を本拠とする中山
王察度は北山、南山の両国に対抗するために中国の明国に対して使者を送り、
朝貢して柵封体制に組み込まれることを申し出た。
 実は他の二山も同様の交渉を行なっていたのだが、明の洪武帝は中山王を琉
球地域の責任者として冊封体制に加える契約を結ぶことになった。
 それに伴い、「中山琉球王」の金印のほか、衣装等を賜り、琉球王の証とし
た。これが14世紀のことだ。
 後に、中山王を倒し、自ら中山王となった尚巴志が北山を滅ぼした時、北山
王攀安知(はんあち)が御神体の隕石をたたっ斬っり、返す刀で家族共々自決
した際に用いた神殺しの聖剣「黄金丸」も手に入れた。これは黄金仕立ての柄
を持つ日本刀で、北山王の持ち物、つまり北山を統べる者の証だ。
 このように国内国外ともに権威の象徴を手にした尚氏は、明が清に取って代
わられた後はただちに清と契約を締結しなおしたのはいうまでもない。

●外交王国

 その中山が統一してからの琉球王国は、強国ひしめく東アジアで各国と渡り
合っていたようだ。
 薩摩侵入以後も琉球国は存続していたし、中国の後ろ盾と日本侵入の既成事
実があるので、それは当時の「強国」の中国と日本に対してのある程度「保険」
の役割があったのではないのだろうか、という気もしてくる。
 琉球王国は、日本の薩摩藩に侵略され、日本の中に組み込まれ蹂躙されてい
った。
 そのように沖縄の人自身が言うこともあるが、実際は、第二尚氏王朝はした
たかな外交戦略を持っていたと言う見方もできるのではないだろうか。いや、
琉球の歴史を見ていると、琉球王国はそんなに弱々しい国のようには思えない。
 むしろ、ぼくは日本以上に小さな島国である琉球は、武力だけでは中国にも
日本にもかなわないので、これをうまく乗り切ったのではないか、そのように
思える。

●琉球と清

 もちろん、琉球国は薩摩に搾取されていた。清のように、上納した文物と同
等以上の下賜品を渡してくれるならともかく、一方的に取られるだけの薩摩で
は、ありがたくもなんともないというのが、琉球王国の正直な感想だろう。
 明治維新で江戸幕府が倒れたと聞き、倒したのが薩摩などの勢力だという事
で、清に政治介入してくれるよう頼みに行った「脱清人」という人々もいたら
しいが、彼らは福州琉球館で何年も飼い殺し状態にされたらしい。
 そのときの清には朝貢国を守るだけの軍事力はなく、見て見ぬふりを決め込
んだのだろう。
 そもそも、清が建国したときにはすでに琉球は薩摩の支配下にあった。しか
し、明と同じように琉球を冊封下に置いた清は一度も軍隊を送ることはなかっ
た。清朝がその気になれば琉球に軍を送ることも可能だったろう。清朝が中華
帝国最大の版図を築いたのも薩摩の琉球侵攻以後のことだ。

●冊封下の琉球

 話を琉球と中国の関係に戻すと、ひとつ疑問がある。琉球は中国の冊封下に
あるということは、ある意味、中国と琉球の間に安全保障条約が結ばれている
ようなものだ。
 実際、秀吉の朝鮮出兵時に、明は朝鮮へ援軍を出している。薩摩の侵攻時に
はまだ金も誕生しておらず、明は琉球を後押しすることも可能だっただろう。
 秀吉の死後、天下を取った徳川家康は、悪化した明との国交回復に苦労した
とも言われている。
 となると、ほぼ江戸開幕直後の1609年に薩摩の琉球侵攻を認めたというのも
変な話だ。秀吉の第二次朝鮮出兵の10年後だ。
 明だけではない。その後中国を支配した清朝もそうだ。中国史上最大の版図
を誇った清はがその気になれば琉球に軍を送ることも可能だっただろう。
 なにしろ、清の福州には数多くの琉球人が住み、琉球と中国の貿易を行って
いたのだから情報は清に伝わっていても不思議はない。

●中国の外交と琉球

 もしかすると、中国は琉球からの申し出を何度も握りつぶしていたのかもし
れない。それ以前に皇帝まで話が行っていなかったのかもしれない。
 日本が柵封体制にはいらなかったことや、琉球王朝に対する対応から考える
と、明や清にとっては、東の海の島というのはかなり適当な国だったのかもし
れない。
 しかし、そうだとすると、冊封使がきたときだけ日本とはまったく関係ない
ように装っていたのは、茶番だったのかもしれない。
 琉球が意図的に中国に救援を要請しなかったのか、それとも中国が琉球の要
請を握りつぶしたのか。興味のあるところだ。

●つづく●
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