三原市の概要
三原は瀬戸内海沿岸山陽側のほぼ中央に位置し、前に芸予諸島、後ろには竜王・鷹羽の支脈、そして西にはり出した畑の山塊によって三原湾を作り出している。気候温暖、風光明媚な都市である。
その歴史は古くは縄文、弥生、古墳時代にまでさかのぼることができ、縄文文化、弥生文化、古墳文化の遺跡が各所に残っている。奈良、平安朝に至って古山陽道の駅や瀬戸内海航路の港が設けられ、交通上の要点として産業の発展も見られ開発が進んだ。
930年代に作られた「倭名抄」に、この地は備後国御調郡の佳質(カシト)柞原(ミハラ)、安芸国沼田郡の真良(シンラ)沼田(ヌタ)今有(イマアリ)安値(アチカ)の諸郷として記されており、他の文献には、陸駅として真良、海駅として長井浦(糸崎)の名が見える。
源平合戦後、安芸には小早川氏、備後には杉原・渋川の諸氏がはいり、それぞれ経営をすすめ、永亨5年(1433年)には、今の本市、荻路に商家が集まる市ができあがっていた。また三原も塩の積み出しや朝鮮との貿易などに活躍する港として繁栄しており、その町人の神明信仰を中心として神明市が始められている。こうした歴史的諸条件を背景に小早川隆景が永禄10年(1567年)に三原城を築造した。
これよりのち、政治は福島氏、浅野氏と引き継がれ、三原は城下町として東西の両町、更に城下の村々の機構も整えられ、それと共に新田の開発がしきりに行われ、今日の都市としての基盤が形成された。これらは、農産物とその加工品、塩、清酒、鍛冶などの産業振興を促し、生産力を大きく高めた。一方、学問に志す人も次第に出て来、藩校明善堂の設立などもあり、今日に続く本市の教学の伝統が創り出されることとなった。
明治4年の廃藩置県で城下町三原は広島県に組み入れられ、その後、城跡が海軍用地となり、鎮守府設置のことも取沙汰された。明治22年(1889年)には市制町村制の施行により三原町となり、この後山陽鉄道の施設、糸崎の特別輸出港指定などで新しく発展する条件が整えられ、それに従って商業も急速に活気を見せた。更に教学の伝統にたって教員養成所、女子師範学校の設置を図るなど、まことに面目躍如たるものがあった。
しかし時代は次第に工業立国の方向に移行しつつあり、この地にもスタンダード石油、日本ラミー繊維(現在のトスコ)、片倉製糸の進出を見るに至り、更に日本セメントに続き昭和8年帝人三原工場が設置された。昭和11年11月に三原市ほか2町4町が合併し市制を施行し(県内で5番日、全国で133番目)、工業都市三原市として出発することとなった。その後三菱重工などの進出もあり、一段とめざましい発展が期待されてきた。
昭和50年3 月の新幹線三原駅停車を契機に、市街地再開発事業を初めとする多くのプロジェクト事業を推進し、本土と四国・島しょ部を結ぶ交通拠点の商工業都市として、大きくその姿を変えてきた。そして新広島空港の建設.山陽自動車道などの交通体系の整備により、陸.海・空の総合的な交通拠点都市として更なる発展が期待される。
平成十七年三月二十二日、新設方式による市町村合併により、三原市は、その北西部に位置する本郷町、久井町、大和町を合併して、新しい三原市として発足した。上記は旧三原市の概要であるので、いずれ改変追補する。