三原俳句略史

 

1.三原の俳諧

2.近世三原地方の俳諧

3.「備後砂」(鳥居 清)

4.戦時下の三原合同句集「梅が香」

5.「湖白庵諸九全集」にみる三原俳壇の句

6.「芭蕉堂門人録」にみる昭和前・中期の三原・尾道旧派俳人

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

近世芸備地方の俳諧

 

 俳諧(俳句)は、庶民の文学として栄えた。芸備地方でも、既に芭蕉以前から俳諧が浸透し始めていた。

貞門

 松永貞徳の流派は貞門と呼ばれている。貞徳の門人に野々口立圃という俳人が居た。立圃は慶安四年(一六五一)福山に来て、城主水野勝俊に仕えた。「草戸記」その他の多くの書を残している。

以後、福山を中心として備後地方に、立圃流の俳諧が行われた。立圃門には鞆の山田無文や福山の藤井広得・佐々木定親・佐々木定行等がいた。無文は寛文十二年に「備後表」を刊行している。

談林

 西山宗因に始まる談林系の俳人で著名な井原西鶴は、芸備地方にも関係を持っている。三原に安江草也という俳人が居た。草也は西鶴と両吟したことがある。

  雪ながら寒さをとは薪人    草也

  麓の酒屋もみぢちり込      西鶴 (以下略)

 これは、草也が元禄八年(一六九五)三原で刊行した「備後砂」(三原図書館蔵)に収録されている。「備後砂」という書名は、帝釈に産する備後砂利の美しさからとった名である。

「備後砂」より一年早く、元禄七年、三次では「鵆足」が如交の撰によって刊行されている。「備後砂」の中で草也は、暗に「鵆足」を非難する言を述べている。

延宝九年、西鶴が刊行した「大矢数」には、広島の山脇道折が参加している。

蕉風

 元禄七年、松尾芭蕉が没して後、芭蕉の門人たちが相次いで芸備にやってきた。そうして、それぞれに蕉風を伝えた。

元禄十一年、支考が「梟日記」の旅に出た。芸備にやってきたのは五月で、尾道・竹原・広島・宮島等を巡遊した。支考はまた宝永二年にもやってきた。そうして、広島で「三日歌仙」、竹原で「懐日記」を刊行している。このときには涼菟も竹原に来ている。去来も芸備に来たが、これは門下を指導する熱意は持たず、素通りに終わったようである。露川は享保二年に来遊した。このことは「西国曲」にくわしい。

享保の初め頃から、志太野坡が西国経営に乗り出した。支考や露川は後継者がなく、門下が振るわなくなったのに対して、野坡は広島に風律という有力な門人を持ったため、着実に地盤を築いていった。こうして、芸備地方には蕉門野坡流の俳諧がもたらされた。

 

「近世芸備地方の俳諧() (下垣内和人『春星』昭4310月号)より抜粋

 

蕉門野坡流

 芭蕉の没後、俳壇には混沌とした状態がやってきた。そうして安永・天明頃を中心として、蕪村等によって俳諧中興がなされた。こうした俳壇にあって、芸備地方では野坡によってもたらされた俳諧が根を下ろしていった。

野坡は、享保年間においても、少なくとも三度は芸備を訪れている。元文に入ってからも、元文二年に来たことが「六行会」によって知られる。元文三年には厳島に発句を奉納している。元文四年には野坡門の厳島連中によって「厳島八景」が刊行され、元文五年には福山で『桜苗』が刊行されている。野坡は元文五年一月三日、七十八歳で没した。このとき追善集「三日の庵」が刊行された。その後、十三回忌に「十三題」(三原図書館蔵)、十七回忌に「窓の春」、三十三回忌に「かざしの梅」がそれぞれ刊行されている。これらの追善集には、芸備の俳人たちが数多く参加している。

野坡の生前から、また野坡の亡き後も、芸備俳壇の中心となった俳人は広島の風律である。風律は木地屋保兵衛と云い、代々、塩屋町で塗物を商った。野坡より浅茅庵の庵号を貰って人々を教導した。のち広瀬村油池のほとりに庵室を設け、多賀庵と称した。編著に広島俳壇の句集「ささのは」、紀行文「紙魚日記」、俳諧作法書「癖物語」等がある。

 杉ふるし川音もふるし初さくら    風律

風律門で著名な人には、古江・六合・凡十・梅北・風紫・青雨・水容等がいた。風律は俳諧の奥旨秘巻の書類を古江に託した。しかし、風律没後(天明元年、八十四歳)、多賀庵二世を継いだのは六合であった。

三原の野坡門に倚松、友之、霞友、一楓などが居た。倚松は三好屋助左衛門という。著書も多い。「声」とか「音」とかいう言葉を好んで用いた。

  朧夜や沖の声なき芦生まれ      倚松

  苔と花音なき暮や三井の鐘      同

  茂り木や風は石より石の声      同

 福山の野坡門に素浅がおり、素浅門に野橘がいた。素浅は医師駒田如俊で、福山に風羅堂(風羅は芭蕉の号)を創設した。野橘も医師である。府中の木村氏に生まれ、福山の馬屋原氏の養子になった。追善集に「雪の梅」がある。

 府中には、野坡没後、野坡門の浮風の教えを受けた貫千(はじめ鬼貫門)がいる。浮風の妻、諸九もたびたび芸備へ来た。大竹には芦路がいた。芦路は尾谷氏で昨飽庵と称した。「十三題」によると、この頃、芸備地方には百六十四名の野坡流の俳人がいたようである。これらの人々の句集は多くが、京の本屋「蕉門野坡流俳諧書〉として刊行されている。

 野坡流以外では蝶夢門の古声が田房にいた。尾道には若翁がいた。

 

「近世芸備地方の俳諧()(下垣内和人『春星』昭4311月号)より抜粋

 

広島多賀庵

江戸を中心として絢爛たる文化の華が咲いたのが文化・文政の時期である。芸備地方でも、広島多賀庵を中心として俳諧が非常に盛んであった。

多賀庵

風律に始まった多賀庵は、二世六合が享和二年に没して後、三世玄蛙がついだ。玄蛙は小田黙居と云い、山県郡有田村の医師である。文化四年、多賀碑が朽ちたので、石で建てかえた。文化七年頃より年刊句集「やまかつら」を刊行した。以後「やまかつら」は芸備俳壇の句集として、俳諧活励.の中心的存在となった。玄蛙は旅を好み、その紀行文に「萍日記」がある。還暦の年(文政四年)庵を筵史へ譲って、合歓舍にしりぞいた。

四世筵史は、二世六合の養子で茶屋宗七という。玄蛙にはじまる「やまかつら」を続刊した。天保四年、多賀庵を網打小路に移した。筵史は弘化三年、七十四で没した。このあと多賀庵は空庵となった。

安政五年、菊年が多賀庵五世をつぎ「やまかつら」を復刊した。菊年は藤井正次郎といい、大手町四丁目で紺屋をいとなんでいた。万延元年、五十三歳で没した。こうして、三世玄娃、四世筵史、五世菊年とうけつがれた多賀庵は、芸備俳壇の中心的役割を果たした。

養花園

多賀庵の傍系に養花園がある。養花園は、風律門人の古江にはじまる。古江は寺田氏、世並屋市郎左衛門といい、薬種商である。家が裕福であるため、風流の道にいそしみ、また古硯を愛好した。古江の養花園二世は和切がついだ。

和切は、野坡門人仙呂の孫にあたり、また古江門人であるため、多賀庵とのつながりは深かった。六十歳の頃より失明したが、その発言は中央俳壇からも注目されるほどの実力をもっていた。遺稿集「葉分の風」は、当時の俳壌の論争に終止符をうつという大きな役割を果たした。

老園

篤老は広島藩に仕え、飯田利矩という。京都の蘭更に学んだ。篤老は脚疾に悩み、その平癒を祈って「厳島奉納集」を刊行している。篤老門に、甘古・路宅がいる。

その他

多賀庵を中心として俳諧活動を続けていた者に、吉田の南亭、西条の芝籬、三原の茶陰等がいる。別の系統の俳人に御手洗の栗田樗堂がいる。近世末期の著名な人には、広島の六呂堂士方・龍耳庵二承、尾道の物外和尚等が挙げられる。

 出湯の香に一山くらしほととぎす    玄蛙

 国に突く杖や千里の春の駒       筵史

 雪の木の雪にかげもつ夜明かな     菊年

 遅どけの一峰雪の遠さかな       和切

 馬ほくほく人もの言はず夜の雪     南亭

  一茶をとどめて

 鐘の声あすは降るべき松霞       樗堂

 

「近世芸備地方の俳諧()(下垣内和人『春星』昭4312月号)より抜粋

 

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