備後砂    島居 清

 

 昨昭和五十年の夏、大阪を中心とした俳文学研究の連中十数名が、呉の下垣内和人君や広島の壇上正孝君の世話で、一泊の訪書旅行を計画し、福山・三原・竹原と廻った際に、三原の松本さんの御宅にもお邪魔して、沢山の短冊やら資料を拝見し、歓待して頂いたことは、私にとってはなつかしい思い出となっている。その旅行には実は私事にわたることながら、次のようなことが秘められていたのである。

 その日は朝から暑い日で、竹原を出て早く三原に着き、午前中は三原市立図書館の資料を、隣りの小学校の図書室に大量運んで頂き、皆貪るようにそれらを閲覧させて貰ったわけであるが、私には非常に嬉しい、いささか大袈裟ではあるが涙の出るような一俳書との再会があったことを忘れることができない。その俳書の名は、元禄八年刊、三原の草也撰『備後砂』。

 話は四十年前の昔に遡る。昭和十二年、また私は京都大学国文学科に在学中で、丁度卒業論文を提出したあとであったから、その年一月か二月の頃であったであろう。

 恩師頴原退蔵先生と、広島出身の兄弟子山崎喜好先輩(いずれも既に故人となられた)から、ある日、尾道に『備後砂』という俳書があるらしい、君は尾道が郷里という、一つ探してみて呉れんか、何でも西鶴と関係があるらしいぞ、とのこと。早速親父に連絡。親父は心当りを探して呉れたらしく、折りかえし尾道千光寺山麓の宮地という家にあるとのことを知らせて来た。卒業前で時間の余裕はあり、急いで帰省。直ちに親父同道、宮地氏宅を訪問して見せて頂いたのが、この『備後砂』であった。

 話を聞けば、宮地さんは私の家と廻り廻って遠縁にあたる由。奇遇とも云うべく、遂に恩借して持ち帰り、数日の間に影写了。無事返璧する。そうしてできた私の写本一冊は、のち山崎喜好氏から更に頴原先生に見て頂いたのは云うまでもないことで、先生は又写本一部を物されて、現にそれは京都大学頴原文庫に存する。私の写本の奥には、その時次のように識した。

 昭和十二年三月五日尾道市土堂町宝土寺横至文堂主人宮地三保氏蔵本ヲ恩借し同月七日影写了シタリ原本半紙五十七葉表紙緑色題簽中央ニ存シタリ

   三月七日午後三時  島居清識

 西鶴に関する記事がでてくるのが非常に珍しく、西鶴談林系の種がここ備後三原にこぼれて、しかも京都井筒屋庄兵衛から板行されたことは、正しく驚きであったわけである。いまその内容については、ここで触れる余裕はないが、昭和四十九年発行の下垣内和人君の労著『芸備俳諧史の研究』に詳しいので、参照して頂けば幸いである。

 ところで先の話はなおつづく。大学を卒業して以後は、私は就職やら引きつづき応召やらであの長い戦争時代に突入する。前後約十年間、私はゆっくり俳書など手にとって見る時間はなかった。その間に、風便に宮地さんの御逝去を聞き、そのあと御蔵書を処分されたとか、どこにどうなったかわからないとか、杏として消息のない期間と重なって、時代は戦後に移る。

 もし原本に万一のことがあれば、私の写本が唯一の資料となってしまう。気にかかっていながら半ば諦めざるを得ない。そこで当時中国新聞社に知合が居るのを頼み 中国新聞に投稿「備後砂の行方」と題して記事にしたのが昭和二十八年十月七日付の中国新聞の夕刊紙上であった。多少の反響はあったのであるが、遂に原本は出現せず、ここに至って私は全く断念せざるを得なかった。かくして時間が経過した。

 それが既に時日は忘れたが、突然下垣内君からの電話で、『備後砂』が三原図書館に入ったらしいと聞いた時には、自分の耳を疑ったぐらい全く喫驚してしまった。

その瞬間それは正しく宮地さん蔵であった原本に間違いないと、私なりに確信して、内心安堵の気持を撫でおろしたことであった。さて三原図書館に入ったのが確実ならば、早晩見に行くことができるであろう、先はやれやれといった気持であった。その再会が実は昨年の夏であったわけである。抱きしめたい気持であった。大勢お邪魔している最中なので、感情を表に出すわけにはいかずじっと怺えて、静かになつかしい『備後砂』の表紙を撫で廻していただけであった。蔵書印は「備後国尾/道御所町/至堂記」とちゃんと奥にある。間違いなし。それにしても一書物の廻り合わせというのも、なかなか因縁のあるものであることを痛感せざるを得ない。私ひとりだけの感慨に耽ったことであった。

 その日の午後、松本さんのお宅に直行、いろいろ拝見したわけであったが、その時、御家族で種々もてなしをうけ、ビールやら肴やらの大御馳走で、私としては午前中の「再会」のあととて、一きわおいしく遠慮なく頂戴したこと、いままた改めて御礼を申上げたいと思う。

(『春星』第三十一巻第十号より)


戻る