2006.7.2

正氣句会挨拶より

 

1.     月斗忌挨拶より(録音筆記)昭和五十七年三月

 

 

 今日は、月斗先生の三十四回忌でございます。まだ回忌の若い時に「三原月斗忌ティーンエイジャーの頼もしき」という句を作りましたが、やはり三十何年もたちますと。もう文武君も四十何ぼか。その時分はまだティーンエイジャーでして。島春君もそうなんじゃったんじゃろうな。まあそんなになりますが、大阪でもちょうど今日月斗忌をうぐいす社でやっていますが、三原も今日開いています。年々歳々盛んになって行くことは、弟子の一人として喜ばしい次第でございます。月斗先生はちょっと、子規時代から少しわがままな男でして、俳壇にも中々上手に渡らんというほうで、評価が、戦後は特にあまり立っていませんが、最近は又ぼちぼち東京のほうでも見直しまして評価が高くなりつつあります。

月斗先生は俳句そのものも中々健康で結構でございましたが、そのお人柄が私たちは非常に懐かしくって親しんでいました。俳句は、先生は蹄筌(テイセン)、蹄はひづめですね足偏に帝国の帝、筌は竹かんむりに全く。上はわなで、下はもんどらやな、もんどり?鮎なんか捕るでしょ、私たち小さい時に、このぐらいで、鰻が入ったり。わなはいろいろの動物を狐とかなんか捕るためのもの。捕ってしまったらそれはもう用事無いのです。もんどらも結局は魚を捕るのが目的であって、あれは道具にしか過ぎんのです。俳句も、本来は人間を作るその道具であって、目的は人間を作ることであるというのが、先生のご意見でございました。ですから皆さんも、お暇の時には先生の句を親しんでいただきたいと思います。

今日、屏風、これ最近急いで仕上げたんですが、「二月堂瓜燈籠におぼろ哉」。奈良の、この間済みましたでしょうお水取り、あそこにこんな風な瓜灯篭がありますが、ぽつんと朧の夜。順番に夏は「京は東山の上にかけたり虹二つ」。これは京都ですね、あっちは奈良。それからこれ「住吉の社ともしぬ今日の月」。これは大阪の住吉さんですね、秋の句。「伏見水郷柳は枯れてつなぎ舟」。宇治の近くですね、伏見は酒どころ。これは私の好みで関西の地区を春夏秋冬でね。これ三原に先生が初めて見えた昭和十二年の七月二日、あの支那事変の起こる少し前でしたが、三原で大会をしまして、その時の晩私が一杯飲みながら強引に書いてもらったのです。早くから屏風に表装しとったら、人が来て、僕もまた人に見せたくなるし、見たら直ぐ先生に真似して又頼みはせんかと思うて、少しずるい勘定で表装せずに居ったんです。そしたら長くなってしまってもう四十五年になります。所が又考えようによったら、人間万事塞翁が馬でね、もし屏風にしとったら、私が昭和二十年の大水の時に流された時に傷んだかも知れません。面白いもんですね、世の中は。

先生の句は、こういう風に、もう至って俳句は健康無類、一読してすぐ分かります。しかし静かに味わうたら、又それなりの味がございます。こんな句作った先生でございます。

さてこの三原の月斗忌は、月斗の先生の正岡子規を老人大学はご存知でしょう、松山に行きましたから。子規の門下でございますから、子規が非常に草花が好きでしたから、写生帳ありましたねたくさん子規の。ああいう風に好きでしたからね。私がそれで、子規はこういう風なままごとみたいな行事が好きだったんで、ですから、ホトトギスの古いやつを見れば分かるが、いろいろ洋画家なんかが洋行する時、送別会には非常に趣向を凝らしてやったので、私もそういう風にとしたら、月斗先生、それゃよろしいなとこう言われたので、ああ先生の時もそうしたらとよかろうと思うて。いつも皆さんに花持ってきて貰うて。ここ、今日初めての人はご存じなかろうけど、今日はなんだか月斗忌がもの足らんなと思うたら花が少ない。と言いますのは、開会前にご挨拶でご紹介しましたように、幹事が揃いも揃ってスト。今日はまあお彼岸の中日で連休でもあり、婚礼や法事などで行かれて、まあこの方は仕方がない。これで席題を作ってください。うちの庭のやつはみんなもう先生にお供えしとると思って、切って来たら可哀想だから。沈丁とかパンジーとか桜草、それから春蘭、水木、それから片栗か、カタカゴよ、今年殖えてね。よっしゃ私も作ろう。

今年はね、ひとつ篤志家から寄贈をうけましたから、月斗忌賞をだしますから、これもね、先生もどちらかというと、句会で賞品など出すとね、賞品目的の句会になったら面白くないから言うて。まあ行事ですからね、これは互選高点ではなく、選者の得点者に差し上げたいと。どうぞ張り切ってやって下さい。

俳句は、言うでしょう私が、俳句はね、テクニックは要るけれどもね、その時の心で、初心者といえどもええ句は出来るんですよ。作句して二年や三年かかって春星に五句抜けとる人もあれば、もう五十年ぐらい作っとっても一句抜けることもある。ですからね、本当の心でね、ああ月斗先生に褒めてもらおうというような気持ちで俳句作ったら、もう初心者も何もありぁしませんよ。ですからそんなつもりでひとつ作っていただきます。選者の皆さんはうんといいところを、月斗先生から笑われんようなやつを選んでください。 

では今日はちょっと遠来の客、ご紹介します。諫早から青鼓先生、あの三光帖で名文書いてくださっています。それから、諫早の方はさあ立って、楠木さん、君江さん、万寸子さん、て志さん。(以下略)

 

2.     月斗忌挨拶(録音筆記)昭和五十九年三月二十五日

 

 どうも私は困った病気に取りつかれて。お天道様は、私が何か大会をするのに、老人大学の旅行もそうでしたね、台風がくると大騒動してたのに私が行ったらもう積乱雲が知らん顔、春星大会もそうでした。どっちかな、私は前世がよかったのか悪かったのか、両方あったように思います。で、今日は結構な日和で。こうして立っていたら何もないんですよ、心配ない。しかし座ってるのが辛いだけ。昨年は月斗忌しなかったし、まあ疲れん程度に御挨拶します。

 月斗先生は昭和二十四年三月十七日夜に、大和の国の大宇陀、万葉にありますね、あの人麻呂の歌、ひんがしの野にかげろうの、そこに疎開されたまま、其処で亡くなられました。ですから今年は五十九年で引く二十四、は三十五だから三十六回忌になる訳です。三原ではずっと続けて参りましたが、昨年私がどうしても立つあたわず、とうとう昨年の月斗忌は抜かしてしまいました。月斗先生は、ご存じの通り明治十二年生まれで、子規の弟子でございました。そして非常に子規を崇拝されてました。おそらく子規忌を盛大に毎年やったのは、子規の後ホトトギスでも子規忌はあまり聞かんようです。ところが大阪の萩の寺で毎年。私も子規忌にはたいてい三原から出ていました。今日来ている季観君も連れて行くし、島春が数えの四つぐらい「青木月斗は頭が大きいのぉ、西瓜みたいじゃと言ったとき連れて行ったこともございます。その月斗先生の雑誌は「同人」。しかし私はちょっと物足らないものがあるのです。月斗先生は非常に厳しかったです、俳句は。殊に言葉に非常に厳しい。先生、俗字大嫌いだった。そしてブロークン嫌い。ビルディングをビルというのも大嫌いだったです。そしてこの頃平気で「春ともし」「春みなと」とかなんか、嫌いです。「燈春」、「みなと春」。私が「桜鯛」を出していた頃、ちょっと隅っこが空いて、ちょうど私が滅多風邪引かんのが珍しく風邪引いて三日寝たものだから、「春の風邪」と書いて十句程口から出任せを載せていたところが、先生その「桜鯛」の隅っこの句を、こいつ正喜のやつ「春の風邪」なんか春の句じゃと季題にしている、もっての他だと「同人」に続けてもうぼろくそに書いているのです。そのようにやかましかったのです。そして門下生はまた先生の言われている通りにする。少し抵抗したらどうかと思うのに、先生に抵抗するのは私くらいのもので、私は先生の意見は尊重するから抵抗するのだ、鵜呑みにはしなかったのです。ところが案の定先生が亡くなられたらもう目茶苦茶やみんな。もうぞろ「春ともし」を作れば「春みなと」を作るし目茶苦茶です。私はそれが大嫌いなんですよ、それが。先生がいるときはもう一所懸命先生におべっか使って、亡くなられたら。こんなの大嫌いです。そして私は先生の教えを守っているのは誰にも負けない自信があります。月斗門下で。しかし先生のを鵜呑みにだけはしていません。先生の欠点は欠点としてやっていました。

 先生は偉大なる作家で、もうその時分改造社から「俳句研究」という総合雑誌を出して、これは権威あったものですが、ここでも、虚子さんは少し高く止まっていて、あと松瀬青々、青木月斗、大谷句仏、松板東洋城いうようなランク。私が月斗先生で少し二つの点物足らずにいるのですが、一つは先生は七十でなくなられるし、私は数えの八十四迄生きているのだから、先生よりなんぼか偉くならねば先生に対してすまない訳でそう思っているのです。先生は、当時は大正末期になるとホトトギスにあらざれば天下にあらず、碧梧桐の新傾向が下火になってから、写生、写生。そしたら「東にホトトギスあり。西に同人あり」いうときですから「写生をちょっと軽視することがオーバーした」訳です。当時はそう言うように結社性が非常に強かった。ですから私は皆さんによく自然との触れ合いをしなさいと非常に写生を基本的に勧めています。それは私自身が写生が乏しかったので、これはいかんじゃったと、自分で損をしたと思うから、私が指導していることはね、皆さん。これだけのこと言いますよ。もう私はおそらく俳壇では最高先輩だなと思います。もう四五人は私より先輩がいますが。そして私が一番俳句が一応、私自身が思いますには下手なんです。という事は、だから皆さんにはね、私みたいな永く作って上達の遅いのを少しでも救ってあげたい、私みたいに下手をさせるまいと思うから、私は強いんですよ。自分はこうして上手くなったんだと言うんだったらどの先生でも出来るわ。私はこんな歩き方をしたから進歩が遅かったから、皆さんにはそうさせたくないと思って、私は皆さんを指導しているのです。

 もう一つは先はど言いました大阪に松瀬青々、これは月斗先生より十才年上でありましたけど、大阪俳壇はその時分はもう東京より盛んで元気がよかった。松瀬青々の「倦鳥」、青木月斗の「同人」ということで、青々は蕪村の再来とまで言われるような俳才を東京の人から、子規なんかからも認められまして、ホトトギスに呼ばれて束京に上ったのですけれども、碧梧桐、虚子とちょっとウマが合わずに大阪にまた引っ越してきた。ところが当時はもう青々は年も上だし、上といっても子規は三十六才で死んだし、月斗先生は二十一才、青々は三十一才、もうその時分は大人ですよ、十分。それに青々はもう蕪村では物足らずに芭蕉だった。ところが月斗先生は非常に蕪村崇拝が強いものだから、蕪村一辺倒、「諳んじて忘るる句あり春星忌」と言うような。芭蕉の句はもう月並に見えるんです。ですから「同人」でも大正十年頃かな、「猿簑には月並が多い」。この辺富山先生に、捜し出したら批判していただきたい思うのですが、私の師匠のことですけど。そして凡兆を非常に、猿簑のいい句はほとんど凡兆だと、客観的な句を褒めていました。そしてどちらかと言うと芭蕉をこう離れるような指導でございました。私も似て漢詩趣味で蕪村の句が好きでした。月斗先生に負けぬくらい蕪村の句を知っていたつもりです。やはり年でしょうか、子規が分類俳句全集を出して蕪村を発見したように、私は芭蕉もええなと思うようになった。まだしかし富山先生が書いて下さっている「軽み」の句は、どうも僕にはまだ。垢抜けせんのですね。これは芭蕉が勝つか、正気が勝つか、これから戦って行こうと思うのです。月斗先生はそういう点はありましたけれども、これはもう人間の時世によるもので、これを修正して先生のこの点はというのには抵抗して、先生を上げて行くのが私は弟子の道だと思います。蕪村は巴人という人の弟子でしたが、夜半亭、大した作家ではなかったんです。其角系統ですが。しかし蕪村に、自分が死んだら自分の真似ばっかりしては駄目だと、ただその一言が蕪村をして生涯の師匠と、巴人を立てて夜半亭とし、自分は二世となって、立派になっても尊重しています。日本では、自然科学は積み重ねだけど、だいたい文化的な仕事のほうは積み重ねいかんから、これはゴッドの評価だから、もうだいたい二世三世は、刀鍛冶から陶工から、みんな落ちてますね、皆落ちてますよ、俳句でも。そのなかで一世より二世がいいのは、巴人と蕪村との関係だと私は思います。

 そしてもう一つ、現俳壇につきまして。私は井の中の蛙でございます。大海を知りません。それを少しも恥と思わん。しかし知った方がいいだろうけどそんな暇がない。と申しますのは、大海は現在の大海だから困るんだ。現在の大海だから困るんだ。これね、相撲とか野球とかのスポーツや碁とかルールがあるのは勝ち負けが決まる。あれはゴッドから見たら違うんですよ。物言い相撲でも必ずしも足が出てなくても手が付いてたり、碁でも劫というのもゴッドから見れば劫の手なんかあるはずがない。それはゴッドが決めるんだ。私たちはゴッドに近づく事を努力するだけ。そして形而上のものは上積み出来ない。さっき言うた一世より二世が悪い、三世はもっと悪い、これはほんとにゴッドを狙って行ったら無い訳だと私は思います。そして現俳壇という「現在の大海」は、特に困ることはマスコミ。戦争中国民皆兵という言葉があったが、今婦人衆など国民皆俳というほど流行ってるんです。こんな時にはね、雑誌は売れねばいかんのや。売れることがどうして困るか。文化上困るから言うことは、大抵の人に聞いたら、奥さん等どう、お香こに色付けてある、大抵の人に聞いたらいやだというのです。しかし商売人にとったら、色付けるのは手間いるんですよ。売れるから入れるんだ、売れるから。俳句かてそうですよ。売れる。社会性とか何とか流行らせる。本当に伝統のある不易の句売ったちゃ、雑誌はこれ売れへんのや。もう編集部が俳壇を掻き混ぜるんや。偉くなろうと思うたら、編集部員と一杯飲みに行きなさい。そしてから評論家に褒めて書いてもらったらよろしい、名の通ったのに。私は人間として、ゴッドの評価はもう出来ん事ですがね。歴史的評価は、これは比較的ああするこうするして次第にゴッドの評価に近づくんじゃなかろうかと思います。徳川家康なんかも僕等子ども時代に嫌いだったですよ。高師直なんかも。ところがもう足利尊氏は逆臣だったが、小説家なんかがそれを逆にするものだから、この頃は家康なんかおしんみたいに人気者になっているが、こういう風にあっち評価こっち評価されてこう落ち着くものです。私が皆さんによく子規を勉強しなさいと言うのは、子規はただ偉いというよりは、それもあるが、あの人は分類俳句全集の編纂をやって、ずっと古いのから読みまして、始め貞門の滑稽が面白かったけれども、どうもつまらんようになって釆て、今度はこれがええ、これがええとなってきて、蕪村を発見した。だからいちいち俳句史をやっても本職ではないから、みんな。私は子規から入ったら一応間違い無いと思って、皆さんに子規を勧めている訳です。

 私は月斗先生にぼろくそ言われていましたが、短冊のコレクションを戦争ちょっと前から始めたんです。それはやはり俳句で其の人の顔見たはうが、解ったはうが鑑賞するのに味がある。鑑賞しやすい。所が以前の人とは会うことは出来ないから、もう結局顔の次は書ですね。書を見るとやっぱり何か解るんです。何かが解る。僕は短冊を見て、書家の先生の評価と違いますよ、あんまり俗っぽいな、どうだかこうだかいうのは、書を見て短冊が余りよくない先生は、あんまり大した作家じゃないとそう思います。これで今後ともやはり歴史的評価を考えながら俳句を作って行きたいと思います。

 富山先生には、芭蕉を書いて頂いていますが、物知りになる、通になるようなのでなく、今厚い本は読みませんが、先生からは、ちょうど毎月七枚はど「春星」に書いて頂き、私はたいへん楽しみにして読んでおります。皆さんも、先生のはちょっとはっきり申し上げて皆さんには難しいかと思いますが、読んで下さい。絵でも何でも少しええのを見とくほうが目が肥えてくるような風にね。もう間違いがないということだけは言って置きます。今日は富山先生、お忙しいところお出で下さり感謝感激でございます。

やあ、私は元気だったね。どうも、どうも。(着席)

 

 

3.  月斗忌挨拶より(録音筆記)昭和六十年三月二十二日

 

 この三月十七日が月斗先生の三七回忌になります。月斗先生は、私より二五歳年上でした。ですから三七回忌を出来ましたのは、私は月斗先生より十二歳ほど長生きした訳であります。まあ、不肖の弟子ではなかった訳ですね、寿命は。しかしこの頃はどうも、月斗先生は昭和二四年に亡くなりました、あの時代から言いましたら、日本人の平均寿命はもう二十年以上延びましたので、実質的には、まだまだこれから十年くらいは長生きしないといけないと思いますし、自信もないけれども、まだそれまでよう生きないような気持ちもありません。ご覧の通りのみすぼらしい格好してますが、まあ命だけはせわなさそうです。

 去年の月斗忌には市川青鼓君がぜひ来たいと、三原にぜひきて「逢えるときに逢わねばならぬ春の月」と言う句をこの月斗忌で数年前作った、そんなつもりのことでしたが、もう一寸してから、症状的には僕のはうが弱っているけど、青鼓もう危ないと朝腹のうちで思ってた、ちょうどその数日前から最後の苦しみが出て、とうとう去年六月三十日に幽明境を異にしてしまいました。おそらく青鼓君も春月となり、春星となってこの会場に来ているものと思います。

 春星ではこの月斗忌と秋の子規忌を一つの春星社の大会として、主宰はやはり政見発表をすべきと思いますが、まあずっと動いたので息が辛いので。あくまでも皆さん、春星は、俳句は今日何百万とある俳句人口の、たくさん俳句人口がなってくれることは嬉しいことですが、俳句は日本人に親しまれて、俳句はまた文学的に堕落しやすい文学でございます。

 俳壇始まってまあ四、五百年になりますが、本当に俳句を行じた人は、一人は芭蕉。その時代の鬼貫も「誠のほかに俳諧なし」と喝破していますが、まあこれは作品は僅かで、それから天明の蕪村、これは南画家でした池大雅と共に、画名に隠れて俳句も立派な作品がある。子規は芭蕉と並べて蕪村を言っている。その蕪村は時々富籤を買っていたという。そしてそれを門下が知って宗匠はとんでもないとなじった、蕪村は、いや自分は絵かきだから絵を描いているが、絵は、やはり家族が飯を食わねばならないので、やっぱりバン画を描かねばならぬ。だが富籤に当たって本当の絵が描きたい。今でもそうですよ。映画界で、映画会社は事業ですから金儲けせねばならぬ。そうすると監督も命ぜられてやっぱり気に食わんでもパン映画を撮らねばならぬ。そのために抵抗して骨のある監督は大きな借金をしている。

 蕪村の以後、子規。三原の老人大学の人は、松山へ吟行して、子規の崇拝者に昔なられたが、子規のお墓は、あの正宗寺の基地に一寸入った、横顔彫ったあれは理髪塔で、お墓は東京の上野から少しの大龍寺の一番奥にあります。子規居士のお墓の側に、これはまた私たちの同人でしたが.茂野冬篝、これは戦時中石炭公団理事、少し毒舌がひどくて東京に居ったら身辺が危ないと福岡へ戦中やられていた。この人は結核でロンドンへ勤めて、若いときですが、だいぶん悪くなったので日本へ帰るとき、いよいよ危なくなって、インド洋の甲板に寝てたら、月が奇麗だった。ここで死ぬと月を見ながら甲板でウイスキー一本空けたら、何かすうっとしたらしいですね。そのまま気分がよいので死ぬのを止めて、インド洋に飛びこまずに帰って、そのまま結核は治ってしまった。口の悪い人で、子規の崇拝者でしたが、たとえば芝居なんか観に行き、あの島田は邪魔になるな少しよけてくれ、平気で言うような男だった。私が一時死灰、今のいわゆる死の灰でない、灰が尉になっている、死灰と言う号を付けていたが、当時桜鯛という春星の前身に茂野さんに原稿頼んだら、原稿書きたいが、君のところは死灰と書くのがこわいという。自分が前に死に直面しているから、その字を変えてくれと、紫とか何とか葉書いっぱいにいくつも書いてきた。いい記念だったが無くしてしまって残念です。その人が、墓碑銘を子規居士が書いていましたのを、香取秀真、これは鋳金家の大家、子規居士の歌の弟子で、それに頼んで子規の肉筆のままを作って建てた。それは戦時中銅板だったので引剥がされて、今は何かでできている。どこが偉かったか言えば、子規居士は墓碑銘の中に「日本新聞社員。月給四十圓」と書いている。それに意義があった。子規は決して俳句で口を糊しない。職業はあくまでも新聞社員、それに冬篝氏は非常に打たれたのです。これもほんとの芭蕉精神を貫いている。これも富山先生が芭蕉を書き続けて下さっているのを読めば自ずと解ってくると思う。春星が富山先生は何やら芭蕉精神に近い気がするからと、わざわざ毎月原稿を頂いています。春星はそんなつもりでいます。今頃の俳壇は何とか賞、投句料が三句一組で二千円、何組でもよろしい、賞品はカップや二十万円とか何とか。決してそんな俳壇に流されてはいけない。そんなもの欲しいときには、大事な俳句、俳句作らんで宝籤のはうがよいと、私は思います。一寸しんどくなったので……。

       □

(遠来紹介)下関の資本魚山君。昭和の始め改造社から出た俳句講座の中に、魚山という名は書いてないけどね、もうこの頃はなかなか皆知ってても僕等の頃魚のことは知らんのや、魚の魚山言うて、生きた句を作る。早く言うたら俳句は、うまい句とか何とかでなくてね、生きた句を作る。そして今日は、大阪は今までは月斗忌はずっと京都の金福寺。蕪村の墓、芭蕉庵、また月居、大魯、呉春の墓もあります。行かれたらお参り下さい。そこへずっとお参りに行くんだ。今年は大宇陀で行けんので三原へきた。こんなのもーつの俳人の生き方じゃね。

 岡山の栗原季観君。今頃は十人ほど寄せて句会やって春星に出してる。今度はたいてい長いことさせるじゃろうと思ってます。季節の季、観は僕の知人の俳句を作る院展の中島菜刀が大観の弟子だった、思いついてね、機関区に居たので。良すぎるんで僕の号にしようと思ったがね。句歴は島春より一寸早いぐらいかな。島春はね、数え年の三つ四つ位からやりよったが、俳句とはこんなもんですよ。体で覚えたらね。以前桜鯛をやってた頃月斗先生の原稿貰いに実費支払いで大阪に行って貰いよった。そうしたら汽車賃只やろ。市電だけじゃろ。当時往復十三銭、片道が七銭。たびたび行って貰ったね、月斗先生にも可愛がられた。やっぱり儲けたね(笑声)。

        口

(選評後に)先はど挨拶のときちょっと途中で止めてしまったが、俳句ね、お互いにもう、名句を、作ろうじゃありませんか。じゃ名句を作る秘伝を、私教えてあげる。(声を上げて)出来るかぁ。……ね、牛若丸は敵を討つために、鞍馬山に登った。一所懸命に稽古した。そしたら天狗が出た。ね、俳句も、天狗が出るように、一所懸命になったときに、名句が生まれる。以上。

 

 

 

その

                                                                               

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