月斗句碑(二)
父(月斗)の句碑を訪ねて
青木 旦
平成三年七月初め、正氣が最後に入院をする直前に、西下中の青木旦さんが足を延ばしてお見舞いに見えた。その折、十月の終わりに九州行の予定があるので寄りますという事であったが、これが正氣との別れとなった。
師走に入り、その九州行の写真が届いた。旦さんの陸士五十六期の会合が嬉野温泉で行われ、その後、周辺の月斗句碑巡りを行ったものであった。その文章より抄録し、旦さんの月斗句碑記録として留めたい。(島春)
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初ゆめの枕ならべし旅寐哉 月斗
「父、月斗が佐世保に参りました時は、犬塚皆春先生宅を根拠地として何日も滞在し、連日当地の方々と俳句会を催したと聞いております。この句も暮から正月にかけてお世話になりました時に、皆春先生と一緒に並んで床に就き四方山の話をして寝た時の状況を詠んだものと思われます。その時の様子が目に浮かんで参ります。良き時代、良きお友達に恵まれた時代でした。(略)
病院入口に皆春句碑、
句碑に立てば師とある思ひ水を打つ 皆春」
佐世保市福石町一七―三七
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竹の春ここからおがむ清ー寺 月斗
「春径先生は犬塚皆春先生の弟で御兄弟そろってお医者様であり、有名な俳人でもあられたのです。佐世保地方の俳句会では月斗、皆春、春径の三人はいつでも一緒であった。(略)昭和四十九年に春径句碑、
閑雲にふれて来たりし雲雀かな 春径」
佐世保市福石町福石観音入口、昭和三十二年六月建立
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遠近の鐘に夕山桜かな 月斗
「山水楼は佐世保市内の高台にあり、古い伝統のある旅館である。その旅館の入口の右側に建っている。戦前は歴代佐世保海軍鎮守府長官のお宿となり、戦後は自衛隊(海軍)が利用している旅館である。木造の昔の建物のままであるのも今では貴重な物だと思います。
玄関を入った所に「雲深處」と書いた額が掛かっていた。ここで俳句会をよく催し、時には泊まったりして利用したと聞いております。女将さんにご挨拶を致しましたが、まだお若いのでその時代の事は判りませんとの返事でした。」
佐世保市福田町七―四
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太閤が睨みし海の霞かな 月斗
「名護屋城の句碑は、世間の方も割合知っておられる句で、豊臣秀吉が挑戦征伐の時に九州唐津の名古屋に城を建築し、全軍を指揮したお城跡であり、天守閣台の広い台上の端に句碑が建っており、その台上からは玄界灘が広く見渡せる見晴らしの良い場所です。当時、太閤が戦況如何にと天守閣より遥か北方を見つめたことが想像されます。」
佐賀県東松浦郡鎮西町名護屋
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我に迫る三千年の楠若葉 月斗
「与賀神社の境内に樹齢一四〇〇年と言われる楠の巨樹の前に在ります。
佐賀では太田耕人先生(医師)のお宅が根拠地となり、連日、俳句会が催され大変お世話になっております。この句碑の真正面に、
吉書揚文教の宮まづおこる 耕人
の句碑があり、師と対面し、いつまでも俳句を語り、歴史を語っているように思えます。」
佐賀市与賀町
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乍雨乍晴や今年竹 月斗
「牛津小学校前に在ると聞いていたので行ったが句碑はそこになかった。学校の先生に句碑の事を聞いても判らない。昔の事なので年を取った用務員の方に聞いたところ、今の県立牛津高等学校の所に在った、そこへ行って聞いてみなさいと言われ、牛津高等学校へ回った。学校の前に来ると、牛津小学校跡という標柱が見え、安心致しました。校門を入ると右側に句碑があった。昭和十六年春 天山会建之とありました。牛津高等学校を建てられた時に道路脇にあった句碑を現在地に移し、石に刻んである文字の部分を白く、よく見えるように修正したと先生から聞きました。」 佐賀県小城郡牛津町 (終)