月斗落款
月斗落款の推移
工事中
我庭は梅の落花や初桜 月兎
亀田小蛄の裏書に、「斗翁新婚前の書(三十一年頃)」とある。おそらく最も初期の短冊落款の一つである。
摘草の春となりけり紫野 月兎
明治三十五年三月に日本俳句の中山稲青、中野三允らにより創刊の『霰』(後に『アラレ』と改称)第二号(六月発行)の裏表紙に書かれたものである。ここに筆を執って句を記した理由は分からぬが、後に合本に綴じた跡が見え、月斗庵蔵のものかと思われる。
短冊より部分
付記
明治四十年四月まで用いられた月兎の号は、小野圭史が先生没時に記した月斗年譜に、「十七歳ノ時李白ノ詩ヨリ語ヲ選ビテ月兎」と号したとあり、その拠り所は、『俳句研究』昭和十一年二月号所載の青木月斗「俳諧漫語」で、「序でに自分が、以前、月兎と云つてをつたのは李白の、把酒問月の詩句の中に、但見宵従海上来。寧知暁向雲阮v。白兔搗薬秋復春。姮娥孤栖與誰鄰。といふのがある。自分の家が薬屋であり、自分が卯の年であるやうな処から、月兎と名づけたのであつた」と記されている。
先生ご自身の言であり、前段の状況証拠の薬学校入学とも合致し、もう言うべくもないが、客観的に、あの詩句の「白兔」から月兎、は多少の飛躍があるような気がする。
それ以前の先生ご自身の言として、亀田小蛄によれば、改号直後の明治四十年五月、越後の『初雁』五号の課題吟選者吟に添え、「月兎の兎の字より斗の方面白き為斗の字を用ゐる」とある。続いての同誌を通じたやり取りの中で、「月斗は月兎よりも月並臭がとれたのは大ゐによいではないか」「我が兎を斗に改めたのは字形の上に重きを置いたもので(略)月兎では余り馬鹿げて語をなさぬから幸ひ字角の少ない斗の字を借りて来た迄だ」等々と面白おかしく記された問答体の月斗文がある。当然、李白の詩についての一語の言及もない。
さらに同誌には、「月兎が十五年でよくなつた如く月斗が今後十五年か廿年で又よくなる時が必ず来るのであろう」ともあり、この十五年をそのまま受け取れば、明治二十五年だから、少年に此の詩句に触れる機会があったかどうか、前段もややおかしくなる。
月兎という成語でまず浮かぶのは、謡曲「竹生島」であろう。「緑樹影沈んで 魚木に登る気色あり 月海上に浮かんでは 兎も波を奔るか 面白の島の景色や」、月の兎の姿が水面に映って、波間を走るかのように見えるという景色は、器の模様にもなっている。
亀田小蛄が本誌で、幕末の淡路の人鈴木重胤の「月兎釜之銘」軸のことを記している。つまみに半輪月と釜に波涛を渡る兎があるらしい。
こんなことは、後追い分を積み重ねながら成り立つものだから、李白詩も意を補い、適うものであろう。だが、昨今あまりにも李白が表で目を剥けば、末尾の「唯願當歌對酒時。月光長照金樽裏」の酒豪説へ傾けられたり、薬の道修町豪商と称されたり、かくては俳人月斗の真実が遠ざかって仕舞わないかと、敢えて記す。
月兎の号の由来は、最も身近な湯室月村の記すように、後段の生年の卯年に因むものでいいと思う。