松本正氣俳歴(後篇)

『春星』より改補

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その16

 

昭和四十八年(七十歳)

 「小生は明治三十七年辰の年生まれで、今年「古希」を迎えました。取敢えず先考先妣へ報告して喜んでもらいました。一人息子で、加えて蒲柳の質だったので、両親にとても大事にしてもらった事を覚えています。この事が小生の人間形成に甚だ影響していると思っています。生命を大事にせねばならぬという事は十歳の頃から思い続けています。小生は天寿を全うせずに生命を失う事を「取り返しのつかぬ失敗」とし、取り返しのつく失敗は「経験」の内に入れています。「経験」は「人間の知恵」を深めるための勉強になるものだと思ってゐます。」

 「昭和二十三年秋、月斗先生の古希祝賀会に上阪した。月斗先生のご挨拶に、幼年時代、少年時代、青年時代、壮年時代にはそれぞれの喜怒哀楽があったが、老人になってからは、喜、怒、楽は淡白になって、哀のみがひしひしと感じるようになった、と。小生はその折、小生の未知の「老境」を想像して身に入みて聴き入った事でありましたが、現在古希を迎えた小生は、喜、怒、楽にも淡白になっていません。老成度が足らぬからだとも思いますが、老成は急ぐ事ではないと気にかけずにいますが、どうかしら」。

一月みえの急病に上京。三月三原月斗忌。四月四国の旅。

六月古希祝賀句会。

 歯科屋上にて。正氣、青火、鬼烽火、万雲、魚山、季観、光雄ら

 

「六月十七日は小生の最良の日であった。俳句を通じて親しんできた星霜五十年代の青火、四十年代の季観、三十年代の鬼烽火、万雲等、二十年代の魚山、左右山、光雄等、十年代の人々、一桁代の人々。諌早から、熊本から、下関方面から、大阪から、岡山から、列車の時間的に不便な三原へよくも集ってくれた」。「諌早からの青火君と下関方面からの鬼烽火、左右山両君は十六日夕刻相前後して来庵。夕食を囲んでいるところへ、熊本からの万雲君が顔を見せた。鬼烽火と万雲は三十年来のライバルなのに初対面だという。格言で評価すれば、万雲が金で鬼烽火が銀に当たるが、小生は二人が等しく可愛い。今宵の酒は格別うまい。青火五段に碁盤を褒められたので一局指導をお願いする。(五十年昔は小生が三、四子置かせていたのに)。その後鬼烽火と左右山が二段切れや季題の無い句のような碁を打つ」。

 青火と正氣

「小生の古希を祝って、春星舎の庭に正気句碑を贈ることがひそひそと計画されていたらしい。小生はただ有難く頂戴する事にして、「水打って昨是今非や庭手入 正気」の句碑が出来上がった。その除幕式もプログラムに組み込まれた」。

   正氣、小苑

 

かすみ句集「路」に序文。九月子規忌。十月ハワイ旅行。第一回諌早市文化祭俳句大会に出席。「諌早は故郷でありながら顔見知りは青火、柳人の両君のみ。数えてみると四十四年半経っているので」。

 

  屠蘇風呂や古希の実感しみじみと

  霊芝そのものを写生す筆始

  庵の主は俳句の鬼や嫁が君

  蒲公英が咲いて賀客を暖こす

  年の豆ツイツイタイカイトを七つ

  おとどい喧嘩させたる鬼を外へ追へ

  冬凪の磯馴松ぬひつつ逢ひぬ

  「矍鑠」と五十一劃吉書とす

  足袋はだしに歩板を渡る女かな

  島襖その隙間風ありにけり

  句碑撫でて手套を苔に汚しけり

  我が庭の百草の芽や鴬忌

月斗忌や大霞して東山

(古稀福田清人兄へ呈す)春や昔秋や昔の目玉かな

美酒酌んで秀句得んかな晋子の忌

夫と謂ふ男独占春の宵

(卒寿北村西望翁へ)手力西望命(タヂカラノニシモノミコト)鏡開

(米寿斎藤滴翠翁へ)晴雨問はず花に遊びて寿(イノチナガ)

山が山に足投げかくるもあり眠り

井の頭とぞその水の温みけり

横断路冬あたたかに老いの杖

火燵酒伊太利土産のディナーベル

(桂浜)薫風を満喫しをり龍馬像

庭に出て牡丹いたはる寝覚かな

就中飛瀑に風の光りけり

パンジーの或る寂しさを愛すなれ

パンジーに喜怒哀楽のある如し

鍵っ子に少女雑誌とパンジーと

未明の庭に蛞蝓退治の主かな

捕へれば蓼喰ふ虫は番ひ哉

右手の爪は妻に切らすや夕端居

ねむり草移植すに力脱きやがる

眠る枝に花一羽止まるや鉢の合歓

灰皿へ手の届かぬやハンモック

島が曳く洲の帯一里潮干狩

大正のクロールで尚矍鑠と

潮浴びや自他に老醜無しとせず

磯狩りの特大栄螺義父の皿へ

秋風や石に刻みし句のいのち

鮎の宿見え隠れして近づきし

(ハワイ旅行)常夏の国へ旅すや古稀の秋

ビール酌んで彼我の英語の覚束な

(カウアイ羊歯洞窟)拳大の滴り羊歯の簾より

(ワイキキ)ニッポンの七十叟のクロール見よ

五月晴なりし夜店の賑へり

寝惜んでゐれば河鹿に通じけり

(祝勲二等小石草暁翁)菊の香のいよいよ高く候ぞ

(祝勲二等川瀬一貫翁)俳句精神で培ひし菊薫る也

奥津城に親近感や露涼し

長き夜の喫煙室や寝台車

(諌早)眼鏡橋の高きに登り相対す

(千々石)神無月軍神知らぬ運転手

(原城址)短日の城址短命の将たりし

 

昭和四十九年(七十一歳)

 「後進を激励する事は、結局自分を激励する事になる。小生がその見本である。だから五十余年休俳を許されなかった」。

「月斗先生の御他界を泣いてから二十五年が過ぎた。先生は小生より二十五歳年上だったから、小生も先生の年になったわけである」。三原月斗忌。十七回忌以来の金福寺月斗忌へ。「小生が初めて蕪村墓に詣でたのは蕪村百五十回忌の年で、金福寺の裏に居を構えていた中島菜刀画伯を訪ね、その折案内して貰ったのである。その頃は夜になると狐が良く鳴くとの事で、小生は狐の鳴き声を聞きたくて夜もすがらシンから眠らぬように心がけていたが当夜は遂に狐が鳴かなかったようだった」。

 金福寺にて 魯庵、正氣、千燈

 五十余年の交友の阿部王樹翁逝く。「思い出深き水門楼!昭和五年に初めてお訪ねして以来屡お邪魔した。朝の散歩にいつも王樹さんが連れてこられた水門楼裏の堤防の大銀杏の下で、今日は伊馬春部(王樹居士令甥)が少年時代を懐かしくお話された」。帰りの切符が取れず、同行の鬼烽火宅に魚山と泊る。

六月、「同人」六百号記念関西俳句大会に上阪。彦根の末娘千萬子の新居を訪う。帰途石山の中島黒洲翁を訪う。淵石馬、八月斎藤滴翠逝く。七月、二月堂、光雄と来遊、尾道行。

 千光寺にて 光雄、正氣、島春、二月堂

九月「春星舎子規忌。小生が三原に居を卜して以来、一回も休まずに修忌して今年で四十二回目」。

 「この人は俳句を作ってみようかとの気があるなァと思ったら、小生はその人に強引に作句をすすめてきた。そして成功した例は多々ある。近頃は、俳句を作ってみようかとの気があるなァと思われる人に滅多にぶつからない。小生にはそれが近頃淋しい事の一つである。殊にこの一年ばかり前から小生の余命に対する自信喪失が消えかかってから一層、俳句入門者が欲しくなった。来年咲く草花でも庭に植えたくなったように」。

 「俳人にも、もう、としでだめです、という人がある。よく聞く言葉である。人間としての精神力を忘れて、生物としての体力を以てして自らを後退せしめるのは愚の骨頂だと思う」。

十一月長崎行、帰途、青火居で諌早、大村の皆と放談。

 

  丑三つは句作の刻や老の春

  俳人で歯医者で老の春楽し

  小園のたんぽぽ咲いて風邪治る

  谷百戸電線春の空を織る

  木の葉髪木の葉髪句の推敲に

  老梅を植ゑて暖雨を祈りけり

  紅梅に懸りし月へくさめりつ

  月斗忌や暁に起きいざ京へ

  (月斗居士二十六回忌献句)囀って師に叱られん金福寺

  訪ねくれし楠本憲吉とビール酌む

  俳句礼賛俳人罵倒ビールの酔

  命令に眠って可愛ゆネムリ草

  白粉花の色の赤服黄服かな

  子規の倍生きし取柄や己が秋

  孫今宵書斎に祀る月球儀

  ジャガどころ吉名の句女史晴耕す

  秋風や薄墨の空墨の山

  酒飲めば聖となるや老の秋

  生涯をツクツクホーシ繰返し

  (国立公園筆影山)秋晴の島々が自己紹介す

  秋の山の赤土塗ったくりしズボン

  (雲仙)兄妹で三百三十歳秋の旅

  眼鏡橋バックに秋思ダブる貌

  落葉厚き一本道でありにけり

  (諌早公園、伊東静雄詩碑を訪ふ)君と吾幽明通ふ秋の声

  君が詩碑に菊を供へて足る心

  身に入むや俳句一途の二万日

  蟹行文字の国へ吟行老の秋

  

  (パリ)小春日の戻りし如く昏れし哉

  枯葉舞へシャンソンを口ずさみ舞へ

  「愛」といふレストランありうどんあり

  (悼阿部王樹居士)九州を震はす寒さ春の果

  下界の夜恋猫が鳴く嬰児が泣く

  春猫のイレブンPM城下町

  わらんべの知恵の裏かくがうな哉

  やどかりとして振舞うて捨てられし

  (千萬子の新居を訪ねて、彦根見物)二本買うて梅雨傘相合々々に

  ででむしのしろがねのもじ埋木舎

  (中島黒洲翁を訪ねて)西瓜うまし鱶洲小蛄など招ばむ

  (石山寺)薫苑の実梅手窪に貰ひげり

  玉虫を十あまり捕り溜めにけり

  梅雨傘を杖にお日さまありがたう

  実明りに花つけゐるや薮柑子

  母の日や母の宝の吾なりし

  桜貝潜りし砂をがばと掬ふ

  桜貝舌出すすずろには非ず

  (悼斎藤滴率居士)老星の大きく光りゐたりしに

  つるばらや園児迎への母屯ろ

  厠守キンキン声に寒き掌を

  (ジュネーブ)老の知識に無き顔々や冬館

  (ロンドン)煤洗ふ足場囲らし館師走

  公園や冬霧消えし芝生青

  二階バス通れどなかなか朝が来ず

  アラスカの土否氷踏んで立つ

  機窓射る北極圏の冬日かな

  雪峰怒涛の如し大陸夜明けたり

  入国や冬あたたかな言葉貰ふ

 

昭和五十年(七十二歳)

 旧蝋のヨーロッパ旅行の後、静養。「新年号に旅吟を期待していられた方が多いので、一夜を徹して作句。作句に立ち向かうとこんなに元気が出るものかと我ながら嬉しかった。この「事」は小生にとって大きな収穫だと思った」。

 三月、三原月斗忌を済ませて金福寺の月斗忌に参修。「小生は業界の世話役を引退したし、新幹線で上洛も楽になったので、一人旅が出来る間は師の忌には金福寺参りを続けたいと思っています」。

『春星』は三十周年を迎えた。「若い諸君から見れば-古希を過ぎた正気はオヂイサンかも知れぬが、小生は青少年諸君とも楽しく対話が出来ると思い、それを期待しているのでもある。これは小生の先天的なものでもあるらしく、そして後天的にも歯科医という職業柄にも依るものだとも思ったりする」。「小生は老人の一人として仲間の老人の幸せを考えねばならぬと思っている。小生に出来る事は老人生活に夏炉冬扇を与える事である。俳句の手ほどきをしてあげる事である」。

 「『春星』の編集は俳句を作るように苦心している。僅かの頁数だから一行といえど粗末にしてはならぬと思っている。紙が容易に手に入らなかった時世に創刊したので紙を大切にする心がけが身に付いてしまい、結果的に俳誌に相応しい編集を続けていると思っている」。

八月、血尿があり、膀胱腫瘍にて入院手術の運びとなり、九月、膀胱一部切除を行う。経過順調。十一月快気句筵を開く。古楠ら来。

 

  ガム島の砂を土産や孫の春

  屠蘇風呂は即ち王樹俳淑気

  雪兎五羽も六羽も作りけり

  斯く育て羽子板の桐独楽の樫

  一枚が二十四時間初暦

  人日や陽炎遊ぶワラボッチ

  冬篭ナポレオンの香手扇に

  去年の旅をおもふ地球儀冬篭

  句の吾に子の刻楽し冬篭

  アパードに近き城祉や青写真

  紅梅に立ち明月を西せしむ

  苗札を百枚あまり書きにけり

  (白寿を迎えられた黒洲翁へ)九十九折過ぎ給ひげり花の山

  王樹忌や端午の遺墨掛け並べ

  端居酒庭の百草侍らせて

  (勲四等福田清人先生へ)わらんべの胸に薫風送りしぞ

  ひとにものをやる楽しみや老の春

  (七生会(大阪歯科第七回卒業)五十周年)昨三笠今嵐山ビール酌む

  いちばん痩せていちばん花の冷をいふ

  泉水に沈める鯉や花の冷

  花見弁当八畳岩で開きけり

  沖膾蛸の生命力を摂る

  孫に尚水練鍛ふ古希過ぎて

  桜貝留守居の妻へ土産とす

  撃ちてし止まん撃ちてし止まん油虫

  一夜一書を拾ひ読みすや火蛾も亦

  句の吾と火蛾とに毎日夜がある

  (膀胱腫瘍手術後三昼夜意識無し)足らぬなり日めくりの三枚の秋

  名月や5・2十人の孝子持つ

  我が庭の草花が次々見舞ふ

  完全のもの実にまんまるい月

  屋上に偶に来て虹もてなされ

  (入院生活)夕凪の屋上カーブファン多し

  銀河を季語地球の大八洲に住む

  力ンナ燃ゆ所詮植物的に燃ゆ

  (白寿中島黒洲翁ご逝去)百輪の菊で作りし仏かな

  良妻と対ひ熱燗独酌に

  美女を視て楽しむテレビ老の春

  この庭の三基の句碑に秋高し

  老人で島を守りて秋耕す

 

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