松本正氣俳歴(後篇)
『春星』より改補
松本正氣俳歴 その18
昭和五十三年(七十五歳)
「頭も身体も各自に最も適当な運動をすることが、最もよろしい。それには知恵と意志が必要である……と、自分に言い聞かせている小生です」。
春星舎初句会。「それは昭和十四年元日の夜である。小生は先生の「元日待つ 月斗」のお葉書をいただいて北山荘年頭句会(元日、二日、三日、四日)に出席のため大晦日の終列車で、毎年上阪していた。会者は先生から選ばれた京阪神地方の豪のものが毎日二十余名(四日は婦人)。先ず屠蘇一巡。当時六十歳前後の先生が、大関か関脇(屠蘇順には三役など無いが、先生が戯れに「これより三役、今日は月村が小結や」など呼ばれた)だったので今から考えると、当時の年齢は今の年齢と大分イメージが違う、現存者は喜一、千燈、井耳、二月堂諸子を記憶しているが、未だ壮年の風貌を保つ井耳子でも七十歳を過ぎ、当時ならば大横綱格である。句会はいつもの通りだが、先生選の三座には短冊をいただいた。句会が終わると、年酒となり、スピーチや喉自慢で賑やかであった。散会後、先生は火鉢の側でうたた寝、この夜北山荘に御厄介になる小生は女々夫人と先生のお目覚めを待ちて世間話、やがて先生がお目覚めになると酒を温めてお相手する。句会での俳話や雑誌にお書きになる俳話では味われぬニュアンスのあるお話に不肖の弟子正気は陶酔するのであった」。
「俳句とは「俳句の味」を持った、詩の一つのジャンルである。「俳句の味」とはどんなものか?誰でもが知っているようで、さて、簡単には言い表しがたい。「味」と言えば、食事で使うのが普通であるが、食べ物の場合、「味が良い」とはどんなことか?というと、これさえ中々難しい。食べ物が舌の味蕾に触れて「うまい」と感じるだけではない。その前に視覚で判断し、嗅覚で判断する。そして歯に噛んで歯ざわりの良さを評価し、熱さ冷たさが「味」に影響する。又、栄養学の知識に拠って自己の保健を考えても「味」が変わってくる。食器や部屋の明るさや食事を共にするグループによっても「味」が非常に上下する。ペンを執りながら思い付いただけでも中々複雑である。まだあった!「初物を食えば七十五日長生きする」といわれるほど初物は珍重がられる。さて、「俳句の味」とはどんなものか?をこれからも生涯をかけて皆様と共に考えようではありませんか!」。
「俳句の味」が月並になると「俳句臭」を発する事を知れ!」。
「旧年の蝋半から弔句を詠むのに追われた。祝句は生きている人へ贈るのだから、こわいことはないが、弔句は相手が自在の霊だから、作者のこころを見透かす事が出来るように思われてこわい」。
三月、うぐいす社の月斗忌墓前祭、句会に出席、『先生は髪も黒々、背なもしゃんと張られ、ご様子も若々しく、ましてその気迫は往年そのまま。寸暇を得て俳論を承った。即ち、大人の俳句を作れ。常に新しい境地を求むべしと。春星ではまことの句でなければ頂かぬと。中々激しくきびしい。(邑上キヨノ)』。旦さん、喜一主宰などと話す。
「諌早の市川青火子より改号届に添えて春星舎月斗忌に参修するとのお便りがあった。そのお便りに「逢へるとき逢はねばならぬ春の月 青鼓」と。「逢へるとき逢はねばならぬ」とは年寄りの淋しい言葉ではない。人生経験を積み重ねたものの知恵である」。
三原市老人大学の俳句コースの講師を受諾。「平均余命が一桁になっても、一桁という事は要するに平均であって、尚それ以上生き延びる不安?が十分あるので、老人には老人特有の欲があるようだ。しかし、老人は多年の経験に依って「名利」即「幸福」ではない事を知って「名利」には寡欲になるようだ。諦めているのでもあろう?」。「青老人?の分際で、老人の事をいろいろ知っているような書き方をしたが、小生の期する事は、人間、老人になってからいよいよ幸福な生活をしたいものだ。せねばならぬ。それはどうしたらいいのか、われわれ老人がまず考えねばならぬ」。「俳句を通じて「老人如何に生くべきか」を考えていきたい」。
「春星舎小園に「喜ぶ少女」が天降ってから五十二週を経た。小園の花暦は春夏秋冬の移り変わりを示しながら「不易流行」の趣を呈してくれる」。
「俳句の可能性はきわめて厳しい。われわれは「季題」のあたたかさと「詩型」の親しさに支えられて、「精神一到」秀句を書かねばならぬ」。
義弟の訃に諌早行。青鼓居で薫風会の人と。
「皆さん、『春星』が着いたら正気が訪ねてきたと思って下さい。老生に毎日お逢いされたい方は毎日『春星』を手にして下さい」。
子規忌句会、古楠来。
「本当の芸は名利の欲を脱却してからのことだ!老生も含んで春秋高き者、遊ぶ時間を多く持つ事が出来るので、スローでこつこつとがんばろうではないか!」。「投稿家のこころを込めての作品には先達として作者と共に合作を試みて、作者の自得を祈っているのである」。「春星作品の選には情実がある。選者を信じてぶつかってくる投稿者にはヒイキをする。ヒイキとは勿論テイネイに診ることである」。
俳句のある人生の顔初写真
御降りの雪やこんこん少女像
ひげが伸ぶ爪が伸ぶ日は短かけれど
(棚橋二京居士を悼む)元旦の大往生でありにけり
冬篭ムラサキの種武蔵より
壱百の四分の三や年の豆
(月斗居士三十回忌)三十年忘るる日なし鴬忌
苗札のカナ文字は読め少女像
(古稀市川青鼓翁を迎えて)句の鮮度姿作りの桜鯛
手毬虫沓脱石を渡り居る
風邪の神に親近感を持つなかれ
国富んで殖えたる美女や水泳着
引汐に流され泳ぎつつ老いし
桜貝女忍者の如遁げし
旱から庭守る責を双肩に
旱天に獅子舞ふ如く炎上す
鉄板の上に積りし秋の雨
老夫婦十坪の庭を花野とす
老の秋俳六医四を以てせり
吾亦紅より百日紅さままゐる
弁財天の湯文字の色に蔓珠沙華
どっこいしょの声憚らず句座夜長
秋風や放言御免老の幸
こぼしつつ尚雀盛る冬木かな
俳句作って相手にせぬや風邪の神
(西望先生九十六寿)上がれ上がれ天まで上がれ西望凧
木守柿落人村の家毎に
玉子より尚割れ易き熟柿かな
治るとき治るものとす老の風邪
この風邪で死ぬと思はず老の胸
昭和五十四年(七十六歳)
「われわれは「実のある経験」を積まねばならぬ。実のある経験を積む第一歩は、われわれが大自然の内で生きてゐることの自覚である」。「われわれの自分一人一人は実に淋しい。「実に淋しい自分」を幸せにしてくれるのは「他」(人間に限らず)ではないか。「実に淋しい自分」は「他」へ常に感謝せねば罰が当たる」。
「小園の苗札のほとりに名草の発芽を発見した方が相手に注進に及ぶ春星舎の老夫婦である。その名草が蕾を持っても然り、開花しても然りである。名草は「家族」といふ定義には当てはまらないが、何か極く身近なものに感ずる。何時までも生き延びて、四季折々の名草を愛でたい」。
「子供たちが生長するまでは親の責務として死んではならぬと頑張ってきたが、現在では「俳句の子供たち」大勢から死んではならぬ、と命令?されてゐる。実に嬉しい命令?である」。
「先生が大宇陀の寓居(戦時疎開で)「臨終の庭に鴬鳴きにけり 月斗」のご辞世を詠まれてから満三十年となる。春星は月斗先生を失って、月斗選「春星俳句」から正氣選「春星作品」とした。先生ご重態の報に接し御見舞に駆けつけたら、先生は「僕が死んだら正氣は大いに正氣の俳句を作るんだ」と、お諭し下さった」。
「月斗先生は不肖の弟子正気をそれなりに許して信じて下さった。大正十四年永尾宋斤氏が「同入」脱退の折には、同人社中とやかく噂する幹部もゐたが、先生は小生にあたたかだった。昭和十年岡本圭岳氏の「同人」脱退の折にはいち早くお便りを下さって中国探題奮起せよと鞭撻された、改造社発行の「俳句研究」第百号祝句の需めに応じられる折には小生へ葉書され、その葉書文を「同人」にもご発表になった。大戦が苛酷になって「同人」も休刊の余儀なくなった節には「正氣に頼む」とのお手紙をいただいた。終戦後、小生が『春星』創刊をご相談申し上げたところ、たちどころに承諾されて、「春星俳句」選をお引き受け下さったのである」。
「先生の胸を借りたお礼には先生を土俵の上で倒すことである。正気の胸を借りてゐる皆さんは土俵の上で正気を倒して「ごっつそうさんです」とお礼を言えるようになって下さい」。
三月、「俳人の書画美術」の取材に森川昭氏ら来訪。五月上京、男児に誘われ大相撲見物、川崎のみえの新居祝い、いをぎ宅の十一句会に出席。帰途は彦根の千萬子宅を訪ね、義仲寺、三井寺詣。
「本場所の相撲を土俵近くでジカに観ての感想は、巡業相撲やテレビを視ての想像していたのと何もかもすっかり違ってただ呆気に取られるばかりだった。まったく計算外の新しい経験をしたのである。その一例に
「夏場所ジカに見て力士達皆かなし 正氣」。
集英社の俳人の書画美術「子規」刊行。子規のほか鳴雪、青々、露月、月斗、為山、極堂らが収録されている。正気コレクションよりも数点。
「筆跡に接することは古人に親近感を持つのに第一ではあるまいか。俳句の鑑賞には活字で読むより短冊の方が遥かによい」。
「若いときから俳句を作っていたらよかったという愚痴を屡聞く。今日からの自分の人生で一番若いのは今日であることを知り、諦観して今日から更に発奮努力して下さい」。「「年を取るに従って「体」は老衰するが、「心」「技」は老成する。俳句は死ぬまで作ることが出来、上達することが出来る」。
七月喜一逝く。「喜一さんとの交わりは大正十四年頃、同人社例会で相知って以来、喜一さんは温厚派で正氣は談論風派。年は喜一さんの方が十ばかり上で、俳句の方は小生の方が一寸ばかり先輩。お世辞抜きで付き合って、五十数年仲違いをしたことは一度もなかった。此れは喜一さんの御人柄に小生が包まれていたのであろう」。
八月みえ一家、千萬子一家来たり、海水浴に三度同行した。「腹八分の実践である」と。九月大山、蒜山行。
「初心者は初心者並みに、又、ベテランもベテラン並みに、毎月一句は必ず遺し置くことは、俳人の立派な足跡であり、一寸むづかしいことでもある。われわれはこの「一寸むづかしいこと」に挑戦しているのである」。
九月子規忌。十月熊本の男児宅を訪う。垂玉温泉、阿蘇神社。万雲居に一泊して歓迎句会に臨む。
「油断大敵を忘れず、長生きをせねばと心掛けています。「三年は必ず老生についてきて下さい」と申し上げている初心の方々へ対しても責任があるから」。
元日や喜寿金婚を来年に
鵞ペンにて横文字の書初す也
初刷や俳誌の中の俳誌とす
短冊帖の古人の数と冬篭
その夜掌程の雪降る夢を見た
富士山の雪より白きマスク哉
袂糞払うてマスク掛けにけり
寒玉子一人息子で過保護受け
島の名を遺せる里よ雲雀野に
苗札や字引で文字を確認し
おぢいさんが短冊贈る雛祭
岩国の石人形も雛壇に
花の句を一所懸命作りけり
老の春長生きしたる不思議哉
踏青や野草博土を打ち連れて
平城京平安京の養花天
江戸は東京となり国技館五月場所
砂かぶりにて夏場所を観る果報
夏場所を観るや句魂が先走り
夏場所ジカに相撲の部分部分観る
夏場所ジカに観て力士達皆かなし
句ごころに紫匂ふ董かな
更衣折目正しき生活美
(明治神宮にて)明治生まれの我が足音に若葉燃ゆ
(三井寺にて)我が撞きし鐘の音運べ若葉風
緑陰や四十七階いろは段
ニコチンがしみし五体に朝寝せり
島群に作り損ねの雲の峰
遠泳や海月が群れて嫌がらせ
孫達に立ち泳ぎして見せにけり
倅らの見張り気づかず泳ぎゐし
(須波漁港)干蛸の須波踊に立止り
土の色蛞蝓となりしを捕ふ
ねもごろにくがねおろして夏書哉
夜の秋酒は作句のためにある
瞑れば秋風赤く吹きにけり
梨狩や籠詰め妻に及ばざり
長き夜を充分に恣にせり
(水谷八重子逝く)大正のサロメの八重子身に入みぬ
和宮の昭和の八重子身に入みぬ
稲筵ずり落ちさうななぞへ哉
(垂玉温泉にて)風や火山灰が頬打つ露天風呂
晴雨間日後篇へ戻る