松本正氣俳歴(後篇)

『春星』より改補

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その20

 

昭和五十七年(七十九歳)

「私は毎月、冨山先生から芭蕉講義の原稿をいただくと早速むさぼるように読んで楽しみ、春星に載せてからも熟読玩味している。私は月斗を師としていたので、蕪村の句を百読して理解し、二百読して味解し、三百読して脱却せよと教えられ、芭蕉には疎かったが、冨山先生の講義を読んで一々納得することばかりで実に楽しい。皆さんは熟読玩味していますか」。

「三光帖の常連市川青鼓筆には頭が下がる。氏は春星作品を熟読玩味して選んだ秀句と真剣に取り組んでいられることが偲ばれ、選者も教えられることが多い」。

「私は何ごとにも能力に自信は無いが、一所懸命に打ち込むことに生甲斐を感ずるものである」。

「俳句は「不易流行」でなければならぬ。この「流行」を「はやり」と誤解してはならぬ。この「流行」は文宇通りに「流れ行く」の意味である。川の水が流れている状態である。俳句人口が増加する程、「はやり」の意味の「流行」が盛んになるであろう。われわれは汚染してはならぬ」。

三原月斗忌に、青鼓、楠木ほか諫早より、萩女、小苑など盛会。「青鼓兄は四人の女流を伴って参会された。

 

大会の前日来三、女流組は文武の案内で尾道行き、青鼓兄は春星舎でごゆっくり。大会翌日は島春の案内で大三島の大山祇神社と瀬戸田の耕三寺へ、小生は青鼓兄を誘って小泉句会の方々のお世話で車で瀬戸内海国立公園白滝山へ登った。

 白滝山磨崖仏

 

白滝山は三十年前にも登ったが、眺望は公園のうちで随一だろう。青鼓兄は至って元気で喜んだ。帰諫されてより数日後のお便りで、並々ならぬご病状を知り非常に心配したが、病人は至って落ちついている。小生には、それが又何か気がかりである。それからも再三病状のお便りをいただいたが、実に落ちついた態である。それが気になりもし、一寸安心したりもする」。「こちらでは気にしていたが、青鼓兄はお嬢さんの結婚式のため、一週間上京、そして無事任を果たして帰諫、心配した旅疲れも無い模様でホッとした。諫早に戻ると、相変わらず句会へ出かけている模様。乃ち「油断大敵」と忠告した次第である」。

5月8日大阪市立博物館「三都の俳諧」展へ上阪。「入場者も多く、冨山先生の講演会場も満員だった。館長室にて今井館長、上田主任学芸員、富山博士と会談、ご高説を承って得るところ多々、感謝いたします。尚、会場で光雄君に会った」。

「老生、蕁麻疹に悩むことすでに三旬。我慢弱い私にはなかなかの苦行である」。「青鼓老は体調を養いつつ手術の日を待っていると中々落ちついている。実に見上げた病人である」。「皆さんが佳い句を作ってくださるのが、二病人にとってもっとも嬉しい見舞いである」。

「青鼓氏は、病気のことは医師に任せて、体作りに努めている由(先日、君江さんから名潟句会の創立記念句会の写真を送ってきたが、青鼓老少し痩せたかなと思われたが影はしっかりしているので安心)、正氣の進言を入れて義歯を入れた由。この病人から私は「我慢して苦しみに耐えよ」と励まされた次第」。

「私も句会にはなるべく出掛ける事にしている。塗り薬を用意して、軽装ご免で、座椅子を用意してもらっている。お喋りは病気を忘れるのでいいが後が悪いので、経験を重ねて度合いがわかってきた」。

丸七年を過ぎての膀胱腫瘍再発のため、九月尾道総合病院に入院、急遽子規忌句会を中止。手術後、温熱治療。「手術後の再発予防治療に体力が弱ってしまって退院が伸びに延びて遂に百日を越し」「夜は排尿感に屡襲われて殆ど眠れぬ。付き添え(老妻とそれを助けて嫁、娘たち)もその都度起こされるのである。昼夜「うつつ」と「ゆめ」が繰り返す、苦痛を覚えているときが「うつつ」であり、苦痛を忘れているときが「ゆめ」である。毎日こんなに苦痛が続いても過ぎ去った日々は皆過去となり、過去となれば夢のようになってしまう。入院していて勉強になったことも多い」。

「青鼓さんは二十四日に手術して経過順調の由、自筆にてこまごまと消息あり、愁眉を開いたことである」。

「天、春星を空しうし給はずである」。

 

(西望賛)富士髭に白寿の春の翁哉

七十年使ひし歯也歯固す

初電話声近く朝と宵の時差

膝小僧赤汗光り凧従かす

苺摘みに室へ案内小正月

足の爪が足引っ掻きし赤汗か

句が出来ぬあせりに飲むや寒の水

冬篭俳句の電話ばかり哉

階段で脚を鍛ふや冬篭

冬篭煙草がうまく酒うまく

神仏に甘へて安し冬篭

この春は句のスランプの春愁や

一日も句より離れず老の春

石崖に春潮透明度を伸ばす

春潮や雁木を歩板上げてゆく

クマガイとアツモリの苗札立つる

わが土筆霜煮えばかり袴とり

ムラサキが消えずにありし一もとよ

(兄妹会。五人揃って健在、年齢合せて三百七十歳)卓上の松本丸や桜鯛

(祝市川真名様新婚)レッドローズホワイトローズハッピーに

徹宵の選句に新茶淹れにけり

蕁麻疹の今消えてゐる端居哉

金鶏菊天井川の両土手に

倍ほどに落花の数や夏椿

梅雨茸が四肢に生ゆ夢なら覚めよ

口々に潮浴び奨む孝子達

 

夏痩を知らず長生き出来ざりき

彩館の影消す風や秋の水

蓮の葉に磨き上りし露の玉

我が面相の仏宿るや露の玉

島の名は大さぎ小さぎ秋麗

安芸伊予の一小島あり瓢なす

秋思には触れざる寝物語かな

今日の夕餉君が狩り来し茸焼いて

ロスからの見舞や彼の地のあま柑を

われ点滴鬼烽火は菊人形へ

菊の気にベッドを城や句を閲す

ポンチョ着て菊の主や外泊中

(入院)端山日々に粧ふや屋上の試歩

うつつとゆめ少しずれゐて暮早し

 

昭和五十八年(八十歳)

「老生は今度の病気以来、しみじみと生きていることが如何に厳しいか、そして何よりも有難いということを知った。老生にはよい仕事がある。それを助けるよい家族がある。よい句友が沢山いる。感謝感謝」。「老生は入院百余日の間、いろいろのことを考えました。仕事をするために人生はある、ということが解りました。仕事をするためにいのちを大事にせねばならぬと思います」。「思っていたよりも自覚症状が軽くならず、生きている厳しさに毎日毎日堪えていますが、生きていることに嫌気をさしたことは一日もありません」。「今年は月斗先生の三十五回忌、毎年、三原月斗忌を続けてまいりましたが、今年の三月は老生の体調では無理かと思われるので一応、延期することに決しました」。

「老生の膀胱機能の回復は中々進まず、顔色や声は少しも病人らしくないらしいが、二六時中悩まされているのである。肉体的苦痛は何かに心をとられて忘れられるものではない。苦痛と闘いながら何かをせねばならぬのである。だから仕事が出来るのは二六時中ほんの僅かでしかない」。「老生が苦痛と闘いながら仕事をすることは健康を害することではないと信じている」。「老生、気力と体力は維持しているようだ。近頃体にガタが来かかったなァという気がするが、未だ高齢者という実感は湧いてこぬ」。「この状態では立派な仕事は出来ぬが、一所懸命に仕事を続けながら、時の来るのを待つ覚悟である。気力と体力を失ってはならぬ」。

「発病以来のことを顧みると、肉体的苦痛は過去になってしまって淡い夢の如しだが、苦痛と闘いながらして来た仕事はいきいきと残っている…と自分には思えて生甲斐を感じている」。

「ご来訪歓迎。但し、午後の事、前以て電話でご一報下さい。揮毫と撮影は今のところお断り」。

「皆さんから拍手が起こるような「雑記」を早く書きたいのだが、八十歳の老躯の悲しさ…快復力が予想とは話にならぬ程遅々として、今では此の一ケ年の修業で得た「我慢」の境地で、現在の老生に出来るだけの「仕事」 をしている。自分自身へは苦痛と闘いながらも自分の好きな「仕事」に専念出来るのだから倖せだと思へ、と言いきかせている。

「俳句は「上手」になったらいい句が出来ると思っている人が多いが、「下手」な人にもいい句は出来ることがあるし、「上手」な人がいい句を作るとは限らない。いい句を作るには「一所懸命」になることである。「下手」な人はなかなか「一所懸命」になれぬ。「下手の考へ休むに似たり」である。休むに似ていても努力せばならぬ。努力を重ねている内にほんものの「一所懸命」を会得することがある。私はいい句が出来た時が「一所懸命」になった時だと思っている。「一所懸命」はわれわれには結果が出てからしか判らない。「一所懸命」という神業を望むには不断の努力が必要である」。

九月、子規忌句会。「昨秋は子規忌を目前にして、七年ぶりに膀胱腫瘍が再発、入院したので急遽中止。又今春の月斗忌も、手術後の回復が順調ならずして遂に中止。今秋も子規忌までには大した好転は望めませんが、子規居士を思えば何のその、子規忌を修して気力を養い、速き快気を期したく存じます」。

 

「芭蕉は命がけで旅をして俳諧観を練った。小生はいつ治るとも知れぬ病の苦痛と闘って俳句観を一生懸命に養っている」。「歳を取ったことと、病苦の連続によって、昨の病苦は忘れることが出来、今の病苦は堪える事が出来る事を知った。これなら生きて行けると思っている」。「苦痛に耐えながらの仕事は歯がゆいばかりである。仕事に夢中になって一ト時でも苦痛を忘れることがあったらいいのだが、苦痛を忘れているときは鼾をかいているそうである」。

「よき句友が訪ねてきて、一ト時の俳談を交わすことは実に楽しい。後進に何か与えることが出来たらそれなりに楽しい」。
 十二月。処置のため一週間入院。

 

(西望賛)元日の顔百歳の光もつ

新日記「八十路の旅」と題しけり

SEIKI凧SEIKO凧揚る夢を見た

長汀に揚図乱舞す平和よし

神棚仰ぎ仏間へ対ひ冬篭

(神明市)三原の銘酒夫々の粕市へ出し

病衣へインバ植木市まで出かけねば

(悼神田南畝居士)早春のめっぱふ寒い日なりけり

夢で青き踏んで得し句を更に練る

踏青や眼凝らせば富士見ゆる

止めばわかるほどの雨音春の闇

西望の「喜ぶ少女」子供の日

菖蒲存分葺け存分貰ひたり

廃人にならじと菖蒲鉢巻す

魚島の鯛の使ひの声なりし

君が土産の諫早おこしに新茶哉

短夜や夢見て恙忘れゐし

五月晴深呼吸して身に詰むる

花暦病室は春過ぎて夏

小泉や小泉草の土手一里

俳諧の町へ帰郷の夢捨てず

泳ぎ度き老躯泳がれざる病躯

潮浴びの夢や人魚の群るる浜

即興や海月と海星色紙にす

(ご主人を失ひし邑上キヨノ女史へ)絽の喪服姿を賞むる仏かな

(悼角光雄君ご母堂)虫の音の鈴と鉦とに御眠り

昨の苦は忘れ今は耐へ秋を病む

生きてゐることに飽かざり老の秋

硬きものがうまき歯を持ち老の秋

老の秋おそろしきもの何々ぞ

六十、七十、八十の老の秋

かがなべて六十有四ホ句の秋

分類俳句全集の大業獺祭忌

思ひ草歌にナンバンギセル句に

朝の秋思夜の秋思に看取らるる

旭に霧らふ潟に沿ひつつ諫早へ

秋風に消えぬ足跡遺さばや

夜学子や火箸を投げて耳握る

鉄瓶をたでて鶲を待ちにけり

銀瓶噴き障子に朝の日いっぱい

一里玉貰ひ枯野の道連れに

入院の夏過ぎ秋過ぎ木の葉髪

老妻の手料理拝み冬篭

灰神楽に一ト騒ぎして年忘

結び目の歯ごたへよろしわけぎ饅

 

昭和五十九年(八十一歳)

「老人如何に生くべきか…私は「俳句を作れ」と答える」。

「元日は島春一家(夫婦二男)文武一家(夫婦二男一女)と共に屠蘇を酌んだ。こんな結構な屠蘇の座も私から病魔が退散するまで真の賀びは無いだろう。申訳無い」。

「私は春星を作る仕事で、毎日病苦に悩まされる身で「老人如何に生くべきか」に信念を以って生き続けています」。

「春星作品を一句の方から熟読して、共鳴句にはチェックをして玩味し、俳句の味を自得して下さい。評価の眼が高くなることも自得するでしょう」。

「雪が降ることの少ない三原でも、雪掻きしたとか雪達磨を作ったとか、誰彼から聞いて羨ましく思いながら火燵を城にしています。時折庭を眺めると、西望先生の少女像がコック帽をかぶったように雪が積んだりしています」。

「凡水さん、しばらく我慢して養生してください。治ったら又飲めるから。あなたには俳句がある。わたしにも俳句があるから病苦を「行」として句心を磨きつづけているのです」。

三月、三原月斗忌。富山奏先生来会、季観、楠木。

 

四月、一ヶ月入院、手術は見合わせてカテーテル挿入。万雲ら熊本句会一行が来庵。

 万雲ら熊本句会一行と

「この「行」、わが句道を如何に拓いて呉れるか。小生が「行」に耐えていけるのは、わが友垣の温い情である」。「正氣も青鼓も病に倒れて二ケ年余、これまで何とか無理をせずに頑張ってきた。もちろん皆さんに何かとご迷惑をかけてはいるが。皆さん、これまで通り、否、これまで以上に精進してください。皆さんのご精進が私達には何よりのお見舞です」。

六月尽、市川青鼓逝く。「青鼓仏、『春星』を守って下さい」。「青鼓君と最後になった5月末の電話で、「春星作品はやっと送ったが三光帖は暫く待って呉れないか」「無理をしてはならぬ」「春星作品は十句にしてはどうか、二十句では病中の選者には無理であり、投句者も自選の力がつくと思うが」「二十句のほうが結果がよいと思う。選句に妥協が少なくて済む、春星作品は選句に妥協が少ないのが取柄ではないか、あなたが春星に参加してくれたのも、その点が第一ではないか、病躯が許す限り、ガンバル、僕の症状が症状だけに満足な選句が出来ぬことは残念だ、実は最近、島春に助っ人を頼むこともある」「それはいいことだ」「も一度逢いたいなァ」「逢いたい」。

「青鼓氏は三光帖を書くに当って、春星作品を熟読して選択し、時には取り上げた句の作者を研究したりして、取り上げたその一句を評価するにとどまらず、その作者へ心のこもったアドバイスを与えたりしている。そしてその句評は読者に対しても心の篭ったアドバイスともなっているのである。これがほんとうの名評である」。

 老大薔薇会の指導

 

九月、三原子規忌。十月一日入院、九日膀胱手術。

「感謝の心と不屈の精神で頑張った。私の年齢としては術後の経過が非常によいと先生から私の気力をほめてもらい、退院も予定より早く二七日には春星舎へ戻った。病院へ見舞の日を考えていたという人々に面食らわせたのは愉快だった。私は春星主宰としての面目が立ったと一寸満足した。私は事無く不具者となった。父母には済まぬと思ったが八十歳を過ぎたんだからお許し下さい。これからは違和感と不便とを不具者として諦観し、仕事をする」。

「現在俳句愛好者の人口が三百万とか五百万とか言われている。われわれ俳句愛好者にとって喜ばしいことであるが、警戒を要することでもある。俳句は人々に親しまれ易く、且つ容易く作者にも成ることが出来るので、量的に隆盛に成り易く、質的に低俗に成り易い。われわれが志向するのは、深い深い文学としての俳句の世界に遊ぶのである。その為には俳聖芭蕉の真髄を会得すべきである」。

「老生は今年三回も入院、退院を繰り返して遂に人工膀胱を装着した。手術後の経過は至って良かったが、人工膀胱の装着による皮膚炎に悩まされている。発病以来二年半を過ぎ、一日として肉体的に快適なことはない。それに運動不足で、腰が弱って起ち上がるのが中々大変である。自己診断で体力十五%、気力六十%位か。これからの希望は体力が現在の4倍に、気力が二倍になることである。それはいつの日だろうか。希望を捨ててはならぬ。ガンバろう」。

 

かき餅のかるた遊びや嫁ケ君

羽子板を舁く嫁ケ君集ひけり

堅香子や日を恋ひめしべ発情す

堅香子の花の六弁もう反れぬ

生命街道気力で歩く花を見て

牡丹色是レなる哉と諾へり

こんなところに佇む十二単かな

闘病を一日替はり四月馬鹿

空揚げやおこぜの顔にかぶりつく

朱鷺草の十株の五株貰ひけり

初刷や雑詠欄に故人の句

(市川青鼓逝く)目の前が五月闇とぞなりにける

昨の花ここだく落し沙羅日々に

(市川森一氏へ)梅雨の夜の仏と「山河燃ゆ」を視る

千羽鶴涼し闘病三年目

昼寝して覚め永眠は先のこと

夏休孫手術衣を着て見学

晩寄りやわれを眺めるタコ撰ぶ

蛸料るや足の切り身が簀板匐ふ

終戦をピカドン地獄に居て知りし

我が庭に友集めしか秋の蝶

秋の蝿編集室の三時の茶

桔槹を染むる朝日や萩の宿

(手術前夜)島春に万事托して心澄む

明日へ剃毛済んで秋の暮

山幸バンザイ松茸の走り師の許へ

 

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