松本正氣俳歴(後篇)

『春星』より改補

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その22

 

昭和六十二年(八十四歳)

「昼夜の別なく欲するままに睡眠をとっているせいか、昨日のことか、一昨日のことか、の記憶さえはっきりせぬことが多い。必要なことはなるべくメモを取ることにしている。文字も度忘れすることが多いが、誤字はなんとなく形がよくないので直ぐ分る。数字を見ると、小生も長生きしたなァと思うが時間の長さは人間の感じでは長短が計り難い。一日二十四時間だが、日永は春で短夜は夏、夜長は秋で短日は冬」。

「福田君、僕のこの句、記憶がありますか。「蝉時雨林間学校参観人」。大正十年だから六十六年になる、夏休みで君が諫早に遊びに来たので,早速,会員を十余名集めて城山公園の頂上の広場の大橋の樹影で歓迎句会を開いた。その時、蝉の題で作った句である。林間学校を誰も知らなかった。僕は前年の秋、修学旅行で鹿児島の城山で夏の林間学校の跡を見たのを思い出して句にしたのである。漢字ばかりの句になったのが自慢だった。

この句は、後に人にすすめられて「ホトトギス」雑詠に投句する時、一年間の作句の内から規定の二十句?(或は十句?)の中に選んだのであるが、大正十一年三月号に、蝉時雨林間学校参観人 肥前 赤甕子 と入選している。

さて、高浜虚子の「肥前の国まで」の大旅行はこの大正十一年三月であった。長崎の俳句大会へは行けなかったが、新聞で雲仙行の虚子の旅行日程を見て、帰途本諫早駅(島原鉄道)通過の虚子の姿を二タ汽車探したが果さなかった。後で一ト汽車前だったと知った。この事が小生の句生涯をすっかり変えて仕舞う結果になったのである。縁とは実におそろしいものですね。

福田君、今月号の貴稿を読んで、僕も付記したいことが多々あるが、特に小生の終生の師とした月斗との出会いは是非君に報告せねばならぬが、又の機を待って下さい」。

「実は小生、一年ばかり前から一寸した運動ですぐ呼吸が乱れるようになった。病院で精密検査をしてもらったら、肺気腫になってをり、酸素の摂取量が半減してしているとのことである。心臓があまり悪くなっていぬので左程心配することはないとのことである。部屋に酸素吸入器を置いて呼吸が乱れるときは早速用いることにしている。喫煙も半減した。書斎に日が当る日はベッドから下りて火燵で『春星』の仕事をしている。早く暖かくなって欲しい」。

「三原月斗忌は主宰できる自信十分。特選には短冊を差し上げることも出来る自信十分。自戒「油断大敵」。

三月、三原月斗忌句会には、酸素発生器を携えて参修。焼香、挨拶、選句自講、直会。

 

春星は「商品」に堕落することは無いと、自慢するだけでは意味が無い。より高い「作品」とすべく努力しているのである。熟読玩味に値する内容を期し、そして後世に遺り得る俳誌たることを期している。小生はそれを生甲斐としてゐるのである」。

「創刊以来四十一年間、顧みて喜怒哀楽色々あったが、過ぎ去ったことは懐かしさで一杯である。人生には過去があるから楽しいのだと思う。現在は未来が現在となった時に過去となる。より楽しい過去となるような現在を送るべきだと思う」。

「病生がまだ健康体であった頃、毎年二三回は西望先生のお供をして旅行に出かけた。8ミリやスライドもたくさん遺している。今では外出は酸素ボンベを携帯して車椅子を押してもらわねばならぬ状態である。そして病躯は所謂「日暮れの道」という次第である。だけど、もう諦観している」。

「自分では病人になってから頭髪が非常に薄れたなァと思っている。背丈が少し低くなったなァとも思っているが、痩せてはいぬようだ。痩せようにも痩せるだけの肉が無いからだろうか。食事の管理を理想的?にしてゐるからだろうか。昭和三年の夏、小生が諫早に居た頃、長崎へ一寸用事があっての車中で、偶然にも九州行脚中の月斗先生と遇って先生の長崎での定宿へ同行、一緒に入浴して「十八貫十三貫の裸かな 正喜」。

常連の来客も遠来の珍客も病生の顔色が少しも病人らしくないという。電話の相手も病人の声であることを疑う、という状態であるが、正氣流の「生存管理」に努めている」。

「今年の三原子規忌には参修出来ると信じています。皆さんも振るって御参集下さい」。

「春星は二十六ページ、5倍ほど入念に読んでもらったら百三十ページに相当する」。

「三原子規忌を無事祀ることが出来て非常に嬉しかった。来年の子規忌は一年先の事であるからわからぬが、月斗忌は半年先のことであるから、ガンばることが出来そうである」。

  


「皆さん、病正氣を「見舞」って下さい。皆さんが「俳句に熱心になって」下さることが、病生には最も「見舞」になります」。

 

句に遊ぶ老躯病躯や冬篭

冬篭叱られに来る句弟子達

神仏に甘えて居るや冬篭

(老躯肺気腫に喘ぐ)窓で折々深呼吸すや冬篭

屠蘇風呂の湯気吸ひ込むや肺の臓

初句会酸素を摂りて臨む也

(小苑賛)歓楽の句姉を我社の亀鑑とす

富士髭を黄金に染めつご来光

春風や我が老朽の肺の臓

三原月斗忌懸命に修し心足る

遠くより病む吾へ山笑ひけり

病床で重ねし遅日夢と過ぐ

庭若葉同化作用を励め励め

(富山先生遥々お見舞に)春火燵にやよひ半日忘れけり

(同門高橋金窓老の訃に)花冷えに震へつ悼句練りにけり

惜春の試歩百に息絶え絶えや

(病正氣へ)胸中の山河の春を惜むべし

月朧千手観音ならぬ松

(天橋立)扶けられて股覗きすや青嵐

手庇に観る名松や夏の旅

朝一番に泳ぐ温泉プールかな

8ミリに老の泳ぎを収めけり

秋風や不治の病を句に生きる

「秋風」の季題が不即不離の句ぞ

秋風や秀句は類句許さざる

何と鳴く蟲かいと長きひげを振り

車椅子のわれ先頭に天高し

 

昭和六十三年(八十五歳)

「新年を迎えることが出来て、数え年八十五歳になった。西望先生ご存命ならば百五歳なのに、と思うと一寸寂しい気がする。先生の年齢が覚え易いので、自分の年齢は先生より二十歳を引く事にしていたが、今後それが出来ぬので、年齢を間違うことが度々あるだろう」。

「我が師青木月斗先生の四十回忌を予定通りに修し得て心足る次第である。

昭和二十四年の追悼句会以来四十回忌即ち三十九ヵ年は長く又短しの感である。岡山県の直島時代の長谷川太郎君、広島時代の棚橋二京夫妻が夫々数回参修されたが、既に他界されてから久しい。又、諫早の市川青鼓君、岩国の板野古楠君も屡参修されたが、共に他界されてから数年。新制高校で島春の級友だった角光雄、木下隆一君、中学生だった男児、小学生だった文武も実年になっている」。

「外出できぬ病生へ、今年も句友より桜を沢山戴いたので、四畳の書屋で数日花見をした」。

 

古暦一枚一枚大切に

句の友を励ます日々や老の春

老いていよよ長生きしたしホ句の春

死なぬことに努力をするや老の春

老の春句の鬼となり寿(いのちなが)

句心の燃えぬ日もあり冬篭

知らぬことの弥々多し老の春

(飛川航作母永眠)たらちねの母に逢ふべし春の夢

西望忌形見の筆に手の震へ

西望忌紅梅老を忘れ咲く

西望忌遺作の花器に紅梅を

月斗忌や西望筆の肖像画

三千の門下の一人斗翁の忌

備後三原の俳句道場斗翁の忌

月斗忌や句座のお名乗り耳にあり

龍眠を愛用するや斗翁の忌

夢中吟ああ忘れ春月残る

 

「春星はこの七月に四十三年目を迎える。当時の進駐軍から出版、販売の許可を得て創刊したのである。爾来五百五ヶ月になるが、合併号を十回ばかり出しているので、五百号に少し足らぬかと思う。雑詠の選者は月斗先生が承諾してくださった。誌名は月斗先生は「桜鯛」の復活にしたらよかろうと仰言って「中国の探題汝れや桜鯛 月斗」の短冊を戴いたが、『春星』に決した。月斗先生は俗字を用いることをお嫌いになり、春星は師の教えを守ったので非常に可愛がってくださった。春星は師の御逝去後も多年、プリントで我慢して正字使用を守ったが、正字使用を守ってくれた筆耕子を失ってから、やむなくタイプ印刷に踏み切ったのである」。

 

トキ草とサギ草のどっちもらふ籤

花見月見より潮浴びを好む老ぞ

夏痩せや老の重病夢のごと

 

「身体のほうは植物に近くなった。椅子にかけてならペンも取れるが、椅子から立って動くと一寸したことでも呼吸が乱れる。二回へ上がることは殊につらいが、毎月二回の春星舎例会は危険を感じるようになるまでは続ける」。

「短歌二首。

わが出来ることはこれあるのみとして病む妻のためタバコ断ちする

われよりも重き病の体してわれにつくしてくれしを憾む」。

老妻は受診、入院、精密検査、手術となった。病床の老生にはまだ夢のようだ」。

九月三原子規忌に、福岡の男児、枚方から光雄、岩国より正道、芝生らも。焼香、挨拶。句評は光雄に指名。

 光雄、正氣、島春、男兒

 

「僕のところから病院のつゆ子の所までは僅か百五十米ぐらいと思うが、わが病躯を嘆き秋思を深くしています」。

「老妻はよく頑張ってくれた。手術後八旬を過ぎたが、最近やっと流動食になったそうな。これからは病人の秋思と秋思の闘いに打ち勝たねばならぬ。頑張ってくれと祈っている。老生のタバコ断ちは病妻に感謝してもらい、老生自身の病気にも痰詰まりが殆どなくなって非常に助かっている」。

 

妻があり俳句があるや老の秋

妻看取る健康が欲し老の秋

タバコ断ちして妻を祈る月に祈る

(島春をはじめ五人の子へ)鍛へたる老母の秋思学ぶべし

「手術中」既に六刻秋思さわぐ

別病に別居し老のこの秋思

 

平成元年(八十六歳)

「私は明治三十七年に長崎で生まれ、九歳で大正を諫早で迎え、二十三歳で昭和を迎え、今年八十六歳で平成を三原で迎えました」。

「春星舎の老二人、居を別にして互いに励ましあっています。小生のほうは来訪の皆さんから、少しも病人らしくない、と言われているが、一寸した起居にも呼吸が苦しくなるのです。この病気好いほうへは進まぬが、酸素を用意していたら先ず安全、疲労せぬように心がけること、風邪に罹らぬようにしたら皆さんと明を共にすることが出来るそうです。病妻は手術後の苦しみと尚闘っています。一日も早く退院できるようにと祈っています。皆様、有難うございます」。

「一週間日延べの三原月斗忌は、天気に恵まれて病生も会場へ出掛けることが出来た。富山奏先生は朝一番で藤井寺のお宅を発たれて、十一時前に春星舎にご到着、病気お見舞を戴いて会場へ同道。諫早から数名参加の予定だったのはこちらから電話でお断りした。岡山から季観君(戦前、糸崎機関区に勤務中は正氣庵の土曜会会員即月斗門下)、岩国から故板野古楠の長男正道君と芝生さん出席。献花、献茶、清淳師(奇容)の読経、正氣に代って島春が代表焼香、挨拶。富山先生より、今年は奥の細道三百年ということでお話を戴く。直会。句会。幹事たちが正氣の疲労を始終心配りしてくれたので、甘えて失礼しました」。

 富山先生参会

 

「小学校国語五年下の教科書(学校図書発行)に、西望先生が載っていると聞いていたので、知人に頼んで入手した。「平和への祈り 北村西望と平和祈念像」(畑島喜久生)との表題で、写真入十六頁(この本の口絵も長崎の平和祈念像のカラー写真)」。

「五月十五日、福田清人兄の奥様がお亡くなりになった。先日、福田兄の「俳諧徒然草」の原稿に添えた短信に
葉桜の候、いかがお過しや、奥様いかがにや、小生も妻入院一ケ月、憂深し、妻病めば牡丹一株痩せて咲く 清人     正氣兄
 小生、子供達が東京に遊学時代、屡々上京したがその都度、福田宅を訪れるのも楽しみの一つだった。


 (悼)五十余年の半身なりし白牡丹  正氣 」

「五月十九日、長崎の赤司里鵜兄の訃報に接した。里鵜兄は中学で小生より二年下、丈義、青鼓両兄より一年上級だった。里鵜兄は当時「佐藤」姓で「春夢」と号していたが、「春夢」は甘いので、「里鵜」と改号、「里鵜」は即ち「サトウ」で、「赤司」と改姓してからも「里鵜」の号は改めなかった。ホトトギス雑詠に「肥前 春夢」で数回入選しているかも知れぬ。諫早、上山公園の俳交六十年の友情句碑の四人も生き残っているのは丈義兄と二人になってしまった。(病生は除幕式へも行けず、今後も旅行は全然見込みがない)三月の中頃だったが、久し振りに里鵜兄の声を聞いた。若竹句会で会員の合同句集を出すので序文なるべく急いで書いて呉れとの電話である。病生は春星の編集が手一ぱいで、(これはいのちつゞく限りつゞける覚悟で)手紙、葉書は殆んど欠礼している。若竹句会の句集「青ぶどう」は五月上旬に出来上って病生も頂戴した。 里鵜兄の表紙絵は中々お見事。里鵜兄はこの「青ぶどう」を抱いて満足して眼をつむったことだろう。若し病生が序文執筆を諾いていたら、里鵜兄、若竹句会の皆さんに大へんなことになっただろう。

 (悼)君が若竹の成長必ずや  正氣 」

 

「春星は昭和二十一年七月の創刊で、初号以来全部保存している。昭和四十五年に家を建て替へる際、旧冊を整理して毎号五冊宛を保存することにした。その後、十九年になる。今月は第五一七号に当る訳だが、合併号を十回ばかり出している。五百号には小生が生きていたら(今年数へで八十六才になるが、こんなに長生しようとは思っていなかった)、何か記念事業をしたいと思ってもいた。そして五百号は旧冊を整理したらいつになるとわかる事である。ここ数年、そしてこれから先も正氣が主宰する間は記念行事は何も出来ぬ。今、やっと出来ることは、毎月二回、春星舎の二階での句会。神明会館で三月の月斗忌、九月の子規忌を修している。今、老生の病気を聞かれたら、何々答へたらいいか一寸面倒だが、主なるは肺気腫で、毎月動脈血の検査をしているが、もう幾ケ月も進行していぬとのことである」。送料のことで二六頁をオーバー致しかねている。又、天下に誇りたい表紙を二折することも残念でたまらぬ」。

 

妻つゆ子、七月二十九日永眠。「実に静かな静かな臨終でした。私は妻の手を取っていましたが、その手はまだ温かったが脈拍は止まっていました。先生は瞳孔を覗いて人工呼吸を止め、臨終を告げられました。私は手早く胸の上に頭指を組ませて数珠を掛けてやり、南無阿弥陀仏を唱えてお他力をお願いしました。昨年の八月十六日入院。大手術だと聞いて私はタバコ断ちの短歌を妻に送りました。妻は非常に喜んでくれました。手術後の処置もたいへんだったらしく、退院をやっと許されたのは一月下旬。以後隔日に通院していました。皆がよくしてくれるので妻は非常に喜んで感謝して養生に励み、再起を期していた様でした」。

「夢のように日が経って行く。非常に忘れっぽくなったからであろうか。今日が何日であるかは毎日忘れる。一日に何回も忘れる。何月であったかも忘れることがある。あまりに疲れたからであろうか」。

「つゆ子は永眠する前日まで、再起を期してよく頑張った。正氣より少し遅れて永眠せねばならぬと常々から言っていた。正氣は家事科がすっかり駄目。内助の功を感謝しつつつゆ子に甘えていた」。

九月、三原子規忌、季観、萩女ら。

 

十一月、凡水逝く。

 

長生きが面白くなり老の春

庵の春外泊の病妻帰省の孫

車椅子に付き添ひ呉るる蝶もがな

(悼赤司里鵜)君が若竹の成長必ずや

(悼福田清人夫人)五十余年の半身なりし白牡丹

(祝富山奏先生東方文化賞)天いよよ高きに富山(フセン)澄みにけり

秋の夜のその内二刻学ぶ老

春風に舞ひ秋風に踊る過去

神の留守助走し渡る太鼓橋

 

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