松本正氣俳歴(後篇)
その23
平成二年(八十七歳)
「私は「病」と「老」との相乗作用で体力の衰えが進行してゐることを自覚し、或るさびしさを感じています。新春を迎えて齢を一つ重ね、心を深くしましょう。皆さん大いに勉強してください。私は皆さんと共に勉強することが楽しみであり、生甲斐でもあります」。
「皆様のご親切を戴いて私は病気生活、俳句生活を続けながら日本男子の平均寿命を十歳もオーバーしています。夢のようです」。
「私が仕事の出来る時間は、昨今一日に精々二時間か三時間位。加齢と共に、病状の進行と共に、時間は量的に減って行きましょうが、質的には精進次第で、より豊かなものを得るかも知れぬと楽しみにしています」。
老の春二十一世紀を夢に
きゃうだいの春や一鰥四孀揃ひ
書初や我流を誇らず恥ぢらはず
平成二インバネースの老一人
(春星舎初句会)ゴム管つないで二階へ酸素初句会
扶けられて登る二階や初句会
座について息切れながし初句会
「三月二十一日は、天気がよくて、暖かくて、四十二回目の三原月斗忌。島春に車椅子を押してもらい、枚方から遥々参修した光雄君も一緒に会場へ。会場には既に文武が酸素吸入の準備を整えていた。疲労することを恐れて、島春に主宰代行を頼み、皆さんにご心配をかけずに済んだ」。「三原月斗忌は実に楽しい、と月斗佛に喜んでいただきたい」。
この三月遅日短日ごちゃごちゃす
春風や七十年の我が句歴
春風や句の戦場の車椅子
春雨傘四人で借りし三本に
押し合うて春雨傘に顔を入れ
さざ波の一つ一つに風光る
大富士の正大の気や西望忌
(満八十六歳)大朝寝して誕生日迎へけり
カーテンに東風の影絵や日三竿
四月馬鹿の貌して時計止まりゐる
我庭の緑緑やみどりの日
子供の日菖蒲買ひもし貰ひもし
菖蒲湯や三男夫婦に扶けられ
(悼井耳)ホ句があり昼寝も出来る世を去りし
端居して三人づつの句を指導
夕端居たんきり飴をうかと噛む
端居人背負はれて庭一めぐり
二階から句座の迎へや昼寝起
父母よ妻よ墓参に勇む車椅子
(九月二十三日、三原子規忌。季観参会)月満圓平成の子規現れよ
電話にて月の今宵の句を問はれ
老妻笑ひて月への旅行残せしと
蝉聞かず蟲聞かず句が湧かぬ筈
(奉祝)武蔵野の錦の平成絵巻かな
菊日和嫁に誘はれ墓参り
就中寺山の墓地菊日和
菊日和墓参の車椅子三五
夜の長さいよいよ延びて寝つかれず
平成三年(八十八歳)
肺気腫での在宅酸素療法、膀胱手術後の腹部ストーマ装着交換管理を続けながら、『春星』の選句や編集にあたる。選句は島春が、編集は文武、紫好が助勢。隔週土曜の句会で、又訪問者に対して俳句指導を続ける。郷里に近い普賢岳噴火活動は盛んであった。
賀状九百九十九枚書きし夢
五七五のどれかを忘れ春の夢
春の夢の夢かうつつか米寿吟
背の句氷(ひ)の如し妹の句火の如し
除夜の鐘聴きつつ米寿迎へけり
(元朝一人歩きで小園に出で「喜ぶ少女」へ)笑み初や西洋の聖女この少女
お供へのはっさく選るや西望忌
読本を朗読するや西望忌
句を作り閲して老の春とせり
老の春夜はゆめ七うつつ三
屠蘇の杯黄金の重み偽らず
書初や金短冊に句を撰ぶ
書初や金短冊の乾き待つ
隣組の餓鬼大将や土竜打
屠蘇の酔年上であるからゑらい
老の春下手な句叱る仕事持つ
老の春厳しきことが次々に
日三竿カーテンに白妙の東風
月斗忌や苔美しき金福寺
三原月斗四十三回忌は、桜花の候を待って、四月七日、恒例の神明会館で。正氣米寿祝いをも開く。小苑、萩女ら、福岡から男児も参加。
花の酔覚めたそかれかかはたれか
内海の伊予路安芸路や東風日和
花十句師の短冊を病室に
同じ米寿とぞ大桜に恥ぢる
我が書いて我が読めぬ句や花の酔
タマきつく口封じたるラムネ哉
五月鯉雲呑み尽くし空青し
(悼なつ子女史)時鳥胸のつまりて声出でず
白牡丹ゑがく白色造りけり
ホ句の外は老に学ばず四月馬鹿
ホ句の外は老に学ぶや四月馬鹿
七月一日、月斗嗣の青木旦氏来。四日、肺気腫による衰弱より足に浮腫を認め、近くの三原日赤病院内科に入院。昼夜家族に看取られ、病室枕頭に句稿や筆硯を置いて、遠来各地の句友より見舞を受ける。
(飛ぶ色の特に秋らし庭雀 奔り奔り奔るや秋の水 ホ句の秋フィクションとその神わざと 辞世)。以後は口述。
ホ句の秋そのフィクションも神わざも
(米寿自賛)揚花火八十八に開きけり
短冊百枚書いて涼しく倒れたし
夜半の秋五臓六腑の疲れをり
(妻つゆ子忌日)妻と呼ぶ水よ女と呼ぶ露よ
八月三日。尿量少。土曜会出句。
数をもて星には勝てぬ涼味かな
待つといふ楽しさを持つ夜食かな
老躯にて夏負け負担する他なし
八月七日。微熱、息苦し。
雲仙の人暑し多良の人暑し
金杯に富士の冷水飲みにけり
みやびなる八十八の花火哉
八月八日。発熱。
秋が来てみんなに褒めて貰ひけり
八月九日。胸苦し、咳。
涼しさや思ひ思へる一つあり
八月十日。発熱、不安。
俳句で渡る橋はこの橋ほととぎす
大勢と俳句と渡るほととぎす
八月十一日。息苦し、不安。数珠と般若心経を持ってこさせる。午後二時二十分、島春に春星舎所蔵のあれこれの処理を述べたのち、口述「病気急転。皆さんに、もう書きたいことはお許し下さい」。それからぽつりぽつりと息を整えながら「辞世の句は島春一任」。「句集は要らん。句碑がいい」。「春星は島春主宰」。「紫好さん、文武を助けて春星を続けてください」。「小泉の句集は、島春に相談しながら責任を果たして下さい」。「蕪村子規に問う、ホ句の秋そのフィクションも神業も」。「俳句を始めたのは大正九年三月十三日。一日の休みなし」。「心経に力を借りて、下五を」少し考えて「無季でええ」。ややあって、午後三時五分。「涼しくす」と。これが最後の句となった。
心経に力を借りて涼しくす
「心経にお力借り申す。力をどうぞお貸し下さい」。
八月十二日。息苦しく鎮静剤、夜咳く、催眠薬。みえ一旦帰宅。
八月十三日。盆以後を在宅療養に切り替えるため、中心静脈栄養の準備の検査。鎮静、催眠剤。
八月十四日。午前七時半頃容態急変。八時二十分、家族に囲まれ、息を引き取る。享年八十八歳。俳句に終始した生涯であった。
八月十五日。三原市東町善教寺にて通夜。
八月十六日。善教寺にて葬儀。九州、関西、中国の各地より、春星会員多数の参列があり、各界よりの弔句が寄せられた。浄樹院釈春星居士、墓は善教寺にある。
(了)
追録
『春星』平成三年十月号を「松本正氣先生追悼号」として発行。松本島春「春星の継承発行」。追悼文を福田清人、野中丈義、富山奏、有馬籌子、菅原章風ほか。「思い出、出会いを語る」集。追悼句集。翌月より「春星五百号史」を連載、正氣筆録を付す。
平成四年九月二十七日、一周忌に当り、関東から九州まで各地よりの代表誌友による、正氣先生を偲ぶ春星大会を三原グランドパレスで開催。
富山教授、島春
平成五年、三回忌にあたり、別冊の「三回忌記念号」を発行。『正氣俳歴』(昭和二十年まで)を掲載。アルバム、短冊写真、印譜。「正氣先生の一言」集。連載、「正氣宛月斗書簡集」、「正氣句帖」(昭五三から五六)、「正氣句日記」(昭一四から一六)。
翌六年、別冊「特集号」に、『正氣俳歴』(中、昭和四四年まで)を掲載。ほかにアルバム、短冊写真、句会挨拶など。
平成七年暮、月斗忌、子規忌句会席上の正氣先生挨拶(昭五九より六一)を収録したビデオ一巻を刊行。
平成八年、連載「春星舎小園の記(島春編)」。
平成九年、七月「通巻六百号」記念特集。翌月号より「正氣俳歴(後)」を連載。平成十一年七月号で了。
平成十四年、七月、島春古希に際し、滝宮正氣句碑の傍らに島春句碑建立。
平成十五年、十三回忌に当たり、正氣俳歴を『晴雨間日』と題してWEBに保存。
平成十六年、八月号を「正氣生誕百年記念号」として、正氣短冊集(短冊色紙五十余葉)を収める。
平成十八年、『春星』創刊六十周年に当たる七月号に付して、別冊『松本正氣俳歴(後編)』を刊行。
平成十九年、十七回忌に当たり、八月号に付して、別冊『正氣のこと』(松本島春)を刊行。
平成二十一年、八月号に、別冊『正氣の句・解』(松本島春)を刊行。カラー短冊色紙十葉を付す。
平成二十三年、八月号に、継承二十年につき、別冊『春星のこと』(松本島春)を刊行。
晴雨間日後篇へ戻る