2008.4~

子規の俳論俳話

 

『春星』連載中の中川みえ氏の稿

 

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子規の俳論俳話()

中川みえ

  

向井去来

  明治二十五年四月  「城南評論」掲載

 

 明治二十五年四月、子規は「城南評論」に「向井去来」を発表した。非常に短い文章であるが、子規の俳句に関する意見が新聞雑誌に掲載された最初の事例である。

  蕉門豪傑多し。丈草の老勁にして禅意を含みたる。

 嵐雪の冲澹にして古学に深き、其他許六の健矯、支考

の豪放、北枝の清麗、野坡の奇創、越人の真摯、荷兮

の敏贍、皆俳壇の上に起て覇を一方に称するに足る。

然れども終に宝井其角、向井去来の二人の右に出づる

者無し。

(「向井去来」)

と書き出した「向井去来」では、先ず一方の其角の句を

  其角の句は奔逸跳盪、千変万化、意の到る所筆随は

 ざるはなく、情の発する所言ひ尽さゞるはなし。()

 然れども其弊卑俗に陥り迂曲に過ぎて謎に類する者だ

 に少からず。一語すれば尽く奇なり誦する事再三に

 及んで嫌厭を生ずる者多し。

と評した上で、去来の句について、

  去来の俳句を見るに、平易尋常にして曲節もなく、

 工夫もなく、色も臭も無きが如き者あり。世人乃ち断

 言を下して曰く、愚なり、下手なりと。()此平易凡

 庸なる所、即ち去来の去来たる所にして、終に其角の

 一籌を輸する所以なり。()去来の句平凡なりと雖

 も、千誦万誦愈々其味の加はるを覚えて厭嫌の意を生

 せず。是れ即ち良将の奇功なきの理なり。

と説く。

 ご馳走ばかり食べていると飽きるものである、普通の茶飯は初めは物足りなさを感じるが、人に飽きられることはない、と言うのである。

 子規は去来の句の「妙処」を、

或は天籟の如く、或は神工の如く、或は実境を践ん

 で其情景に接するが如く、或は名手の絵画を見て無限

 の余韻を感ずるが如し。

と評し、「十七字の天地に屈伸して敢て狭しとなさず、敢て広しとなさず」と総括する。

 時には長句、短句を駆使する其角に倣うことなく、好んで奇言新語を用いる檀林を模することもなく、たゞ平淡、平凡な詠みぶりながら、いぶし銀のような趣を放つ去来の句を、子規は好もしく感じているのである。

 子規は、去来の句として

   何事そ花見る人の長刀

   上り帆の淡路はなれぬ汐干哉

   卯の花の絶間たたかん闇の門

   秋風や白木の弓に弦はらん

   魂棚の奥なつかしや親の顔

   岩鼻やここにもひとり月の客

   乗なからまくさはませて月見かな

   凩の地にも落さぬ時雨かな

   有明や片帆にうけて一時雨

   応々といへと叩くや雪の門

を掲げ、

  去来の芭蕉に対する関係を見れば、其情父子よりも

 密なる所あり。蓋し去来は温厚篤実の君子にして()

 名を求めず、才に誇らず、随て門弟を集めて衣鉢を伝

 ふるの企もなければ、其名は徒らに其角、嵐雪の下に

 落ちたる事口惜しきの限りなり。

と論じたのであった。

 明治十六年十月、十七才で念願の上京を果たした子規は、須田学舎、共立学校を経て、十七年九月に大学予備門の入学試験に及第した。旧藩主久松家の常盤会給費生として、春から給費を受けるようにもなっていた。

 二十三年七月に、第一高等中学校(大学予備門の改称)を卒業し、九月に文化大哲学科に入学したが、翌二十四年二月に国文学科に転じた。

 この間、二十年七月に帰省した折に、勝田明庵(宰洲)の紹介を得て、柳原極堂と共に三津浜に旧派俳諧の宗匠大原其戎を訪ね、「常鬼」の俳号で句を残している。

 二十四年末には、郷里の親戚などの猛反対を押しきって、常盤会寄宿舎から退去し、文学者として身を立てる覚悟で、面会謝絶までして、小説「月の都」の執筆にとりかかった。二十五年二月に脱稿し、幸田露伴のもとを訪ねて批評を求めたが、好結果は得られなかった。

 俳句分類に着手したのも、二十三、四年頃だと思われる。俳句分類は、古来の俳句を、接し得る古俳書から主題別に分類記録したもので、途方もない大事業であった。

 「毎日大学の図書館へ往てそれを写して来ては内で清書する」(「俳諧三佳書序」)という作業をくり返し、明治三十年には「分類に甲号乙号丙号丁号の区別あり、合せ

て之を積めば高さ我全身に等し」(「俳句分類」)という厖大な量になったが、それでも「今や漸く天明に入らんとす」(「同」)という先の長い企てであった。しかしこの作業が、子規に俳句の趣味を伝えたのである。

 二十五年六月の学年試験に落第し、周囲の反対を押しきって退学した子規は、十一月に母と妹を東京に迎え、「日本」新聞入社を決したのであるが、その入社前の六

月から十月に「日本」に連載したのが、「獺祭書屋俳話」である。今回取り上げた「向井去来」は、時期的にも内容的にもその「獺祭書屋俳話」の先がけとなった文章で

ある。

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子規の俳論俳話()

 

○獺祭書屋俳話

   明治二十五年六月~十月 「日本」掲載

 

明治二十五年五月二十七日の「日本」に、“螺子"の筆名で「かけはしの記」(六回)が掲載された。「爰に螺子といふ変り者あり」という書き出しで始る木曽旅行の紀行文で、これが「日本」に子規が寄せた文章の最初のものである。

 六月二十六日からは、「獺祭書屋俳話」が、十月二十日まで三十八回に渡って、「日本」へ連載された。

 二十六日の第一回は、時鳥の句について述べた「時鳥」、翌日の第二回が、その続きの「扨はあの月がないたか時鳥」、第三回は、「嵐雪の古調」、第四回が「時鳥の和歌と俳句」という題目で、以下俳句をめぐるさまざまな事柄を随時書き続けるという意図で論をスタートさせた。

 ここでは便宜上、明治二十六年に単行本として出版した時の順「前後錯綜せる者を転置して、稍々俳諧史、俳諧論、俳人俳句、俳書批評の順」(単行本刊行時に記された「獺祭書屋俳話小序」)—に従って論を進めることとする。

 最初の項目「俳諧といふ名称」では、"俳諧"の語が初めて用いられたのは、古今集の俳諧歌である事、それ以来滑稽の意味を以って用いられて来たが、芭蕉後は必ずしも滑稽の意を含まない幽玄高尚なものをも指すようになった、と説明する。

 次の「連歌と俳諧」では、俳諧が連歌の発句に由来するも、敢てそればかりを独立させても文学にはならないと言い、松永貞徳によって発句に重みが加わったが、地口やしゃれ、謎などの滑稽に過ぎないものであった、と説く。次いで西山宗因の檀林一派が一時は天下を風靡したが、これも「稍々発達したる滑稽頓智に外ならざる」ものであり、「趣向を頓智滑稽の外に求め、言語を古雅と卑俗との中間に取り、万葉集以後新に一面目を開き、日本の韻文を一変」した芭蕉の登場によって俳諧は一変し、以来この派の勢力が、明治の世になっても依然として隆盛である、と解説する。

 「延宝天和貞享の俳風」「足利時代より元禄に至る発句」「俳書」「字余りの俳句」と論述し、七月二十五日の「俳句の前述」では、一種の俳句終末論を開陳している。

  数学を修めたる今時の学者は云ふ。日本の和歌俳句

 の如きは一百の字音僅に二三十に過ぎされば、之を錯

列法に由て算するも其数に限りあるを知るべきなり。

 語を換へて之をいはゞ和歌(重に短歌をいふ)俳句は

 早晩其限りに達して、最早此上に一首の新しきものだ

 に作り得べからざるに至るべし。()和歌も俳句も

 正に其死期に近づきつつある者なり。()さらば和

 歌俳句の運命は何れの時にか窮まると。対へて云ふ。

 其窮り尽すの時は固より之を知るべからすといへども、

 概言すれば俳句は巳に尽きたりと思ふなり。よし未だ

 尽きずとするも明治年間に尽きんこと期して待つべき

 なり。

というのが子規の論である。

 和歌(短歌)は三十一文字、俳句は僅か十七文字で構成される文学であるから、単純に文字の組合せに基いて考えても、無限ではない。今にこの上一首の新しいものさえも作ることが出来なくなることは、数学的考え方に立つと明らかである。というのが論旨である。

 これまでにも、俳壇の一部に終末感が抱かれたことはあったが、それらは主として、僅か十七字では複雑な思想を盛り込むことは不可能であるという考え方に基くものであった。ここで子規が展開したのは、単純に数学的条理に立脚した組合せという問題提起であった。そこが、これまでの終末感とは一味違うものであった。

  俳句に思想を盛りうるかどうかということ、或いは

 軽便、余情というあり方を含めて、俳句の存在意義を

 内容から考えることをせず、逆に数理という単一な、

しかも外面的な一点からだけ捉えていったこと、それ

自体は、実質的には、俳句の幅を制約しないことであ

り、一定の枠を内面に設けないということで、終末感

に立ちながらも、可能性の余地が充分存在する立論で

あったということが出来る。

(松井利彦「近代俳論史」)

という松井氏のご指摘にあるように、終末感を抱きながらも当座の余地を認めるという子規のあり方が、やがては革新の道を開くことになるのである。

 「新題目」では、明治になって急激に変化した事象を句に詠むことによって、和歌、俳句は尽きることなく続くのではないか、という意見を否定して、

  和歌には新題目新言語は之を入るるを許さず。俳句

 にては敢て之を拒まずといへども、亦之を好むものに

 あらず。

と言い、

  文明世界に現出する無数の人事又は所謂文明の利器

 なる者に至りては、多くは俗の又俗陋の又陋なるもの

 にして、文学者は終に之を以て如何とも為し能はざる

 なり。

と述べて、文明開化によって新しく出現したものや事柄を、積極的に俳句に詠むことは、自らの文学規準や風雅なる趣味、高尚なる観念には合致しないと、熱意を示さなかった。

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子規の俳論俳話()

 

○ 獺祭書屋俳話 U

 

 「獺祭書屋俳話」は、次に「和歌と俳句」を論じている。ここでは、和歌は囲碁、筝に似て、俳句は将棋、三絃に似る。前者は上流社会に、後者は下等社会に行われると言い、両者を盤の大きさ、手数の多少、糸の数の多少など比較検討した上で、それを和歌、俳句にあてはめ、

  俳句の字は歌より短く而して其変化歌よりも多し。

 変化多ければ奇警斬新の事をなすべし。唯々卑猥俗陋

 に陥るの弊あり。

と説く。彼は先ず、将棋、三絃に似た、下等社会で行われることの多い俳句について考え、文学としての俳句を模索しようとしたのである。

 続いて、蕉門の高弟の宝井其角、服部嵐雪、向井去来、内藤丈草、東花坊支考、志多野坡について論じている。

 先ず「宝井其角」では、芭蕉の六弟子の標語にある「花やかなる事其角に及ばず」に従って、其角の花やかなる句を例示した上で、其角の一生の本領は決してこの婉麗細な所にあるのではなくて、却って「倣兀疎石」「恠奇斬新」「諧謔百出」の処にあると言う。

 「嵐雪の古調」及び「服部嵐雪」では、先ず嵐雪の句の語調が和歌に似ていることを指摘する。芭蕉の評「からびたる事嵐雪にある」は適評であり、「温雅にして古樸、しかも時に従ふて変化するの妙は其角の豪壮にして変化するものと相反照して蕉門の奇観と謂ふべし。」と言う。

 更に、嵐雪の句は「実景実情を有の儘に言ひ放しながら猶其の間に一種の雅味を有する」ものであるが、「理想には乏しきものの如く」、「宇宙の事物を観察するに常に其の表面よりする」傾向がある。その表面的観察も、主に「些細なる事物に向って精密」である、と分析している。

「向井去来」では、「美なる事去来に及ばず」という「蕉翁六感」の評が、去来を言い尽していると言い、去来の句が「優柔敦厚」で、其角の「奇を求め新を探りて人目を眩する」、丈草の「微を発き理を究めて禅味を悟る」、句と比較すると、「平穏真樸の間に微妙の詩歌的観念を発揮」し、「格調極めて自然」で、「景を叙するの処、情を叙するの処、()外面一片の理想を著けず、裏面一点の塵気を雑へざる」ものである点を、高く評価している。

 「内藤丈草」の句は、禅味に富み、「諸行無常」が常に念頭に在ったこと、好題物として動物を選び擬人的の作意を試みたことを挙げ、蕉風の正統を体得しながらも、去来と同じように、名聞を好まず、弟子を取らなかった為に、共に後世に正しく伝わらなかったことを惜む。

 「東花坊支考」では、芭蕉最晩年の弟子であった支考が、芭蕉存命中は「吟詠妙境に到りて他の高弟をも凌駕」したものの、芭蕉没後は「軽佻浮泛に流れて」正風の外に出たと言う。支考は後に美濃派を起し、この系統が明治になっても多少の勢力を有して、全国に蔓衍しているとも説明している。支考の句については、「稍々神韻に乏しと雖も、滑稽諧謔の中に一定の理想ありて全く卑俗に陥るを免れたり」と評を下している。

 「志多野坡」では、「意匠の清新奇抜なるものを取りて作する」野坡の句が、理想という面では非常に低いものであったが、度量快豁な性格から、その句も「紆余迫らざる処」があって、上乗ではないが、蕉風の特色を持っている、と肯定している。

 この蕉門の人物評に関して、松井利彦氏は、

  内容に関し、古人の作風を通して実に多面的に捉え

 ()そのまま、俳句革新を実践するに当って、俳句

 の幅を多面的に考えていたということの證左になる

(「近代俳論史」)

と述べ、そこに「子規論の極めて現実的な性格を認めることが出来る」(「同」)と論じておられる。

 「武士と俳句」では、武士の身で俳諧に親しんだ者を挙げているが、ここで

  誠実なきの風流は浮華に流れ易く、節操なき詩歌は

 卑俗に陥るを免れず。文学美術は高尚優美を主とする

 ものなり。而して浮華卑俗を以て作られたる文学美術

 ほど面白からぬものはあらじ。()後世和歌俳句の衰

へたるも職としてここによらずんばあらず。

と述べているのが注目される。子規は俳句を文学美術の一部=芸術と考えていることが明らかである。

 「女流と俳句」「元禄の四俳女」「加賀の千代」の三項目では、女流俳句を論じている。

 そのうち「元禄の四俳女」は、元禄前後の女流俳人の中から、捨女、智月、園女、秋色を挙げて論じた文章で、それぞれを花にたとえているのが興味深い。

 先ず捨女を燕子花にたとえ、「うつくしき中にも多少の勢ありて、りんと力を入れたる処あり」と言い、次いで智月を蓮花にたとえ、「清浄潔白にして泥に染まぬ」と言う。秋色は撫子にたとえられ、「風に立ちのびてやさしうさきいでたる」と評され、最後に園女が紫陽花にたとえられて、「姿強くして心おとなしき、()花の色は風情の変化を示して終に閑雅の趣を失はず」と表現されている。四俳女の中で、句作では園女を第一に推すと言い、その理由を「園女は見識気概ありて男子も及ばざる所あり。()されど其俳諧に遊ぶに際しては決して婦女子の真面目を離れず」と述べているがおもしろい。

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子規の俳論俳話()

 

○ 獺祭書屋俳話 V

 

 「獺祭書屋俳話」は、子規が「日本」新聞入社直前にその紙上に連載した文章で、後に多少の補正を加えて、二十六年五月に「日本叢書」の一篇として出版された。初版は、菊版六十九頁のささやかな書物であった。

 其角堂機一の著わした「発句作法指南」を批評した文章は、この時に書き加えられた。

  一読するに秩序錯乱して修理整然ならず。唯々思ひ

 出づるがまにまに記し付けたるが如き書きぶりは、猶

 明治以前の著書の体裁にして今日の学理発達したる世

 に在りては余り珍重すべきの書にあらず

という手きびしい批判を連ねた文章である。

 其角堂機一は、この時代の著名な旧派の宗匠であった。

 嘉永・安政から明治にかけて、江戸座の俳士として有力であった七世其角堂(後に老鼠堂)永機に明治の初め頃から師事し、明治二十年にその名跡を譲られて、八世其角堂を名乗った人物である。

 この時代の宗匠というのは、

  代々その弟子のうちの有力なものが跡を継いで、

 ()子弟の間の約束といふやうなものはなかなか厳

 格のもので()その門葉に対しては絶対的権力を持

 ってゐて、恩威並び行はれる(?)といふふうであった。

(高浜虚子「明治大正俳諧史概観」)

と虚子が記しているように、その権威は絶大なものであった。しかも、其角の系統を引く其角堂は、嵐雪の系統を引く雪中庵と共に、この時代の東京では、大きな勢力を持つものであった。

 明治二十年に其角堂を継承した機一の著作に対して、子規は、いちいちその書の否を挙げ、不備を指摘して、「珍重すべきの書にあらず。」と断を下したのである。

 この文中に記した

  「芭蕉いかに大俳家たりしとも其俳句皆金科玉条なら

  んや

という文言は、子規が芭蕉を評した最初の発言であることにも着目すべきであろう。

 子規は「獺祭書屋俳話」を新聞に連載したすぐ後の十二月に、「日本」新聞社へ入社した。そこで筆を執った文章の中から、「歳晩閑話」(二十五年十二月)「歳旦閑話」(二十六年一月)「雛祭り」(二十六年三月)「古人調」(二十六年三月、四月)「菊の園生」(二十六年十一月)などと、「芭蕉雑談」(二十六年十一月-二十七年一月)を含む十余篇二百十三頁を増補して、二十八年八月に「獺祭書屋俳話」の第二版を刊行した。「芭蕉雑談」の過激な芭蕉批判で評判になった。

 増補された「歳旦閑話」には、大嶋蓼太、井上士朗、成田蒼虬の三名を取り上げて講じた部分がある。

 「大嶋蓼太」では、

  明和、天明の頃に至りて俳諧再び興らんとするの兆

 あり。興って力あるもの也有、暁臺、蓼太、蕪村、

 更の諸家にして、各々独得の妙ありといへども、中に就

 きて縦横奔放なる者を求むれば雪中庵蓼太を第一とな

 す。

と言い、博学精通才謝に於て群を抜き、著書も多い蓼太を、同時代の俳人の中では、最も高く評価した。

 しかし、二十七年五月に「小日本」に掲載した「俳諧一口話」の「天明の五傑」では、

  俳諧の価値より評せんに、佳句の最も多きは蕪村に

 して最も少きは蓼太なるべし。

と述べている。「歳旦閑話」(二十六年一月)と「俳諧一口話」(二十七年五月)の僅か一年数ヶ月の間に、子規の中で蓼太と蕪村の評価が大きく変化している。この間に記した「芭蕉雑談」(二十七年一月)にも、

  蓼太は敏才と猾智とを以て一時天下の耳目を聳動せ

 りと雖も、固より其眼孔は針尖の如く小なりき。蕪村、

 暁臺、欄更の三豪傑は古来の薫風外に出入して各一派

 を成せり。()

  好詩料空想に得来りて或は斬新或は流麗或は雄建の

 俳句を作し世人を罵倒したる者二百年独り蕪村あるの

 み。     .

という記載があって、この時期子規の俳句観が大きく変化していることが読みとれる。

 「井上士朗」では、士朗を「文化新十家中の泰斗なり。」と述べ、その "句癖"を「畳子畳語畳句を用ふるに在る」と説明する。

 「成田蒼虬」では、「文化、天保の間にありて英名を俳諧社会に轟かしたる成田蒼虬の俳句は平遠繊細を以て勝る者なり。」と言い、「可愛らしき処に趣向をつけていぢらしき句を作る」ことが、蒼虬の最も長じたところであるが、そのことによって、天保以後の俳句が専ら心を瑣事に留めるものになって今日に至っていると、その弊を指摘する。

 又、蒼虬の句が、解し易さと模倣のし易さとによって後世の尊敬を受けたことが、「終に俳諧は平民的文学と 変じて今日の甚しきに至」ったと指摘し、世の宗匠連中がこの風潮に乗って陋俗平凡の悪句を作る基になったとも言う。天保の俳風の偏するところが、明治に至って「其極に至る」事態になったことには、多少蒼虬に咎があるのではなかろうか、と言うものの、「天明の粗豪奇峭を学ばず、文化の恬淡和易に落ちず、以て天保の俳諧を一変したるは実に成田蒼虬の力なり。」と総括している。

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子規の俳論俳話()

 

 芭蕉雑談

  明治二十六年十一月~二十七年一月

  「日本」掲載

 

 明治二十六年十一月六日の「日本」に、地風升の筆名で子規の「芭蕉翁の一驚」という文章が掲載された。

 元禄七年に没した芭蕉の二百年忌に当るこの年、旧派の宗匠の間では、芭蕉の廟や碑を建立することが続々と計画されていた。廟や碑を建てることばかりに力を注ぎ、正風を正しく理解しようとしない宗匠達の態度を子規は、

  二百年忌は二百年忌なり、昨年の百九十九年忌も来

 年の二百一年忌も何の変る事あるべき。変る重なき二

 百年忌をヤレ廟を建つるのソレ碑を立つるのと騒ぎま

 はりて、

と諷刺し、「はては其の身に落ち来るそこばくの口銭」を得ようとすると、そのやり方を厳しく批判したのである。

 この文章を発表した一週間後の十三日から、「芭蕉雑談」が二十五回に渡って「日本」へ連載された。

 最初に注目されるのは、十一月十五日(第二回)の「平民的文学」に記された次のような文章である。

  芭蕉の俳諧に於ける勢力を見るに、宛然宗教家の宗

 教に於ける勢力と其趣を同じうせり。()唯々芭蕉

 といふ名の自ら尊くもなつかしくも思はれて、()

 甚しきは神とあがめて廟を建て本尊と称して堂を立つ

 ること、是れ決して一文学者として芭蕉を観るに非ず

 して一宗の開祖として芭蕉を敬ふ者なり。

ここで子規は、芭蕉崇拝者の旧派宗匠達の盲目的芭蕉観を痛烈に批判し、

  其作る所の俳諧は完全無欠にして神聖犯すべからさ

 る者となりしと同時に、芭蕉の俳諧は殆ど之を解する

 者なきに至れり。()其様恰も宗教の信者が経文の

 意義を解せず、理不理を窮めず、単に有難し勿体なし

 と思へるが如し。

と、芭蕉の作品が正当に評価されていない現状を明らかにしている。

 同様なことを、十九日(第四回)「悪句」の中でも、

  芭蕉の一大偉人なることは右に述べたるが如き事実

 より推し測りても推し測り得べきものなれども、そは

 俳諧宗の開祖としての芭蕉にして文学者としての芭蕉

 に非ず。文学者としての芭蕉を知らんと欲せば其著作

 せる俳諧を取て之を吟味せざるべからず。()寺を

 建て廟を興し石碑を樹て宴会を催し連俳を廻らし連座

 を興行すること、固より信者としては其宗旨に対して

 尽すべき相当の義務なるべし。されど文学者としての

 義務は毫も之を尽さざるなり。

と子規は、芭蕉の作品といえども完全無欠ではないことを指摘し、文学者としての芭蕉を知るには、その作品を吟味することであり、宗教の対象とするべきではないと強く戒めたのである。

 この宗教として芭蕉を祭り上げることへの批判の背景には、俳諧教導職制度というものがある。

 明治五年、新政府は祭政一致と社会(国民)教化の意図の下に、教導職制度を導入した。

 翌年、この教導職に任命する対象者を一般知識人にも拡げることになった際に、俳諧に携わる者もその有資格者とされ、明治六年四月に登用試験が行われた。

 三森幹雄と鈴木月彦がこの試験に合格し、月の本為山、小築庵春湖、佳峰園等栽の三名は、これまでの実績によって試験を経ずに、教導職に任命された。

 政府は、教導の原則として、

   第一条 敬神愛国ノ旨ヲ体スヘキ事

   第二条 天理人道ヲ明ニスヘキ事

   第三条 皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムヘキ事

の三条の教則を公布したため、俳諧は道徳的、倫理的な性格を色濃くし、三条の教則に準拠する勧善懲悪の俳諧運動として展開されるようになった。

 そこで.明治七年四月、月の本為山が俳諧教林盟社を八月には三森幹雄が俳諧盟倫講社を立ち上げて、俳諧による国民教化を積極的に押し進めるようになった.

 国家による教導職の任命によって、俳句は単なる風流の遊びではなくなり、神道色を強めてゆく中で、芭蕉は俳諧の開祖として神にまつり上げられ、神事の対象として崇拝されることになった。明倫講社では、俳諧の祖先である芭蕉(祖霊神)を祭る大祭では、教導職は祭服を着用するという規定さえ制定され、芭蕉を祭神とする宗教活動の状況を呈するようになって行った。

 教導職制度の改変で、明治十五年一月から神宮の教導職兼補が廃止され、教会は全国で八つと定められた為に、教林盟社は大成教会に編入されるが、明倫講社では、幹雄が一万人以上の社員を集めて独自に俳諧神道派を開設するという道を選択した。しかしこのことが決する前に教導職制度そのものが廃止されることになり、明倫講社は、改めて、神道芭蕉派と称する宗教団体を作り、古池教会を設立して、自派の存続をはかることを決したのである。

 明治の俳諧は、教導職制度の導入によって文芸性から逸脱し、教導職廃止によって国家権力の背景を失い、次第に退潮してゆくのであった。

 子規の「芭蕉雑談」の芭蕉批判は、こういう流れの中で発せられたのである。

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子規の俳論俳話()

 

◇ 芭蕉雑談 U

 

「芭蕉雑談」はいよいよ本論に入る。「悪句」で先ず

  余は冒頭に一断案を下さんとす。曰く、芭蕉の俳句

 は過半悪句駄句を以て埋められ、上乗と称すべき音は

 其何十分の一たる少数に過ぎず。否、僅かに可なる者

 を求むるも寥々朝員星の如しと。

と衝撃的な発言をする。これは、芭蕉を神として祭り上げていた教導派に対する強烈なカウンターパンチであった。

 しかし、返す筆で、佳句が、

  一人にして二百の多きに及ぶ者古来稀なる所にして、

 芭蕉亦一大文学者たるを失はず。

と認め、芭蕉の文学が古い時代のものを模倣したのではなくて、自ら発明したものであること-貞門、檀林の改良ではなく、蕉風俳諧を創開した-、自流を開いたのは、死の十年前であり、「詩想愈々神に入りたる」のは、三、四年のことであるので、二百句以上の好句は望むべくもないことを指摘している。

子規が批判しているのは、普通の文学者の著作が後世に伝わるのは、あくまでもその作品の是非によるものであるのに、芭蕉の場合は、

 其著作を信ぜらるるよりは寧ろ其性行を欣慕せられ

 しを以て、其著作といへば悪句駄句の差別なく尽く収

 拾して()甚しきはあらぬ者迄芭蕉の作として諸種

 の家集に採録したる者多し。

というありさまで、そういう風潮こそが、芭蕉の正当な評価をさまたげているということである。

次ぐ「各句批評」では、"世に喧称“されている句を論じる。

 先ず、あまりにも有名な

  古池や蛙飛びこむ水の音

について、この句が「実に其ありの儘を詠ぜり、否ありのままが句になりたるならん」と言い、

  要するに此句は俳諧の歴史上最必要なる者に相違な

 けれども、文学上にはそれ程の必要を見ざるなり。

 ()蓋し芭蕉の蕉風に悟入したるは此句なれども、文

 学なる者は常に此の如き平淡なる者のみを許さずして

 多少の工夫と施彩とを要すなり。

と記す。次に

  道のへの木槿は馬にくはれけり

について、この句の教訓性を指摘し、

 我考にては教訓の詩歌は文学者以外の俗人間に伝幡

 して過分の称賛を受くる事間々これ有る習ひなれば、

 此句も其種類なるべしと思はる。且つ譬喩の俳句を以

 て教訓に応用したるは恐らく此句が嚆矢なるべければ

 一層伝承せられし者ならん。

と述べ、「要するに此句は文学上最下等に位する者なり。」と断を下した。

   物いへば唇寒し秋の風

も、「道のへの」の句と同様に教訓的な句であるから、「道徳上の名句には相違なけれども、文学上にては左様に名句とも思はれず」と言う。

 同様に

   あかあかと日はつれなくも秋の風

   辛崎の松は花より朧にて

は、古歌を剽窃、翻案したものであるから、「一文の価値をも有せざる」と手厳しく批判し、

   白菊の目に立てて見る塵もなし

   梅の木に猶やどり木や梅の花

は、「理窟に落ちて趣味少し。」と評し、

   枯枝に烏のとまりけり秋の暮

の句については、

  此句を以て幽玄の神髄と為す事心得ぬ事なり。暮秋

 凄涼の光景写し得て真ならずといふに非ず。一句の言

 ひ廻しあながちに悪しとにもあらねど、「枯木寒鴉」

 の四字は漢学者の熟語にて耳に口に馴れたるを其まま

 訳して枯枝に烏とまるとは芭蕉ならでも能く言ひ得べ

 く、今更に珍らしからぬ心地すなり。

と言う。その上で

  芭蕉家集は殆ど駄句の掃溜にやと思はるる()

 とやいはん、無風流とやいはん、芭蕉にして此等の句

 を作りしかと思ふだに受け取り難き程なり。

と厳しい言葉でこの項を総括したのであった。

 この攻撃的とまで言える芭蕉非難は、芭蕉に向けられたと言うよりも、教導派俳諧に向けられた発信であることは明らかである。

 "文学"としての俳句を希求する子規にとって、文学の中に教訓性あるいは理屈を盛り込むということは、認められないことであった。そのことと共に、筆者は、

  彼が芭蕉の悪句駄句と見なすもののうちに見ている

 教訓的なものや理屈的なものは、単なる批評上の概念

 や其準ではない。子規自身が、文字通り悪句駄句の山

 を積みあげながら乗りこえてきたものだ。彼は、そう

 いうものを仮借なく芭蕉のうちにも見ているわけで、

 彼の批評はおのずから自己批評ともなっている。そし

 て、このような経験に裏打ちされていればこそ、芭蕉

 を生きた人間として、習慣的な神格化のなかからとら

 え直すことが出来たのである。

(粟津則雄「正岡子規」)

と記された粟津氏のご意見に、深く同感する。

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子規の俳論俳話()

 

◇ 芭蕉雑談  V 

 

「芭蕉雑談」は、「各句批評」で芭蕉の〃悪句"を論じた後に、「佳句」の項を設けている。

  美術文学中最高尚なる種類に属して、しかも日本文

学中最も之を欠く者は雄渾豪壮といふ一要素なりとす。

()松尾芭蕉は独り此間に在て豪壮の気を蔵め雄渾

 の筆を揮ひ、天地の大観を賦し山水の勝概を叙し、以

 て一世を驚かしたり。()

芭蕉以前の十七字詩(連歌、貞門、檀林)は陳套に属

 し卑俗に堕ち語調に失して文学と称すべき価値なく、

 ()芭蕉の勃興して貞享、元禄の間に一旗幟を樹て

 たるは、独り俳諧の面目を一新したるに止まらずして

 実に萬葉以後日本韻文学の面目を一新したるなり。況

 んや雄健放大の処に至りては芭蕉以前絶えて之れ無き

 のみならず、芭蕉以後にも亦絶えて之れ無きをや。

と、芭蕉の句の優れている点を「雄健豪壮」「雄健放大」にあると認め、「雄壮なる句」について筆を進める。

 先ず

  夏草やつはものどもの夢のあと

について、

  無造作に詠み出だせる一句十七字の中に千古の興亡

 を説き人世の栄枯を示し俯仰感慨に堪へざる者あり。

と言い、

   五月雨を集めて早し最上川

では、

  巧を弄して却て繊柔に落ちず、只々雨余の大河滔々

 として岩をも砕き山をも男かんずる勢を成すを見るの

 み。()凡俗の俳家者流、豈指をここに染むるを容

 さんや。

と、

  あら海や佐渡に横たふ天の川

については、

  此句を取て一語すれば波涛潮流天水際涯なく、唯々

 一孤嶋の其間を点綴せる光景眼前に彷彿たるを見る。

()思ふてここに到れば誰か芭蕉の大手腕に驚かざる

 ものぞ。

と高く評価する。その他、

  五月雨の雲吹き落せ大井川

  郭公大竹原を漏る月夜

  かけ橋や命をからむ葛かつら

    一笑を弔ふ

  塚も動け我泣声は秋の風

  秋風や藪も畑も不破の関

  猪も共に吹かるる野分かな

  吹き飛ばす石は浅間の野分かな

を雄壮な佳句として掲げ

 滑稽と諧謔とを以て生命としたる俳諧の世界に生れ

 て、周囲の群動に制御瞞着せられず、能く文学上の活

 眼を開き一家の新機軸を出だし、此等老健雄邁の俳句

 をものして嶄然頭角を現はせし芭蕉は実に文学上の破

 天荒と謂つべし。

とこの種の芭蕉俳句を「芭蕉以前巳に芭蕉無く芭蕉以後復芭蕉無きなり。」と非常に高く評価した。

次に、芭蕉の佳句は「雄壮」だけではないとして、

「各種の佳句」の項目を設け、数句乃至十数句を掲げる。

たとえば「自然なる者」の例として、古池の句の外に、

  名月や池をめぐりて夜もすがら

「幽玄なる者」の例として

  清瀧や波にちりこむ青松葉

  菊の香や奈良には古き佛たち

「繊巧なる者」は、

  落ちさまに水こぼしけり花椿

「華麗なる者」は、

  紅梅や見ぬ恋つくる玉すだれ

「奇抜なる者」は、

  鮎の子の白魚送る別れかな

「滑稽なる者」は、     一

  猫の妻へついの崩れより通ひけり

「温雅なる者」は、

  静かさや岩にしみ入る蝉の声

  旅人と我名よばれん初時雨

「羇旅の実況を写して一語三嘆せしむる者」は、

  蚤虱馬の尿する枕もと

  旅に病で夢は枯野をかけ廻る

「稍狂せる者」は、

  不性さやかき起されし春の雨

「格調の変化せる者」は、

  芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな

「格調の新奇なる者」は、

  花の雲鐘は上野が浅草か

  蛤のふた見に分れ行く秋ぞ

「一瑣事一微物を取り其実景実情をありの儘に言ひ放し

て猶幾多の趣味を含む者」としては、

  五月雨や色紙へぎたる壁の跡

などの句を掲げ、「豪壮頸抜なる者は芭蕉の独得にして他人の鼾睡を容れず。」と言い、綺麗なる者、軽快なる者、幽玄なる者、古雅なる者、新奇なる者、変調なる者、に於ても、門輩や後世の俳人の中に芭蕉を凌駕する者が無いわけではないが、百種の変化を一人で合せ持つ者はただ芭蕉のみであるとして、俳人芭蕉を高く評価した。

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子規の俳論俳話()

 

◇ 芭蕉雑談 W

 

 「芭蕉雑談」は、世人の注目を集めると共に、多少の疑問を招くことにもなった。子規は「或問」の頃を設けてこれらに答えた。

 先ず、「芭蕉雑談」を著して芭蕉の句の「名篇を抹殺」し、「名誉を毀損」したことは、「俳諧の罪人にして蕉翁に不忠」ではないか、という問いに。

  芭蕉を神とし其句を神詠とし、俳諧と芭蕉とは二物

 一体なる者と説ける彼芭蕉宗信者より言へば、此論或

 は神威を冒涜したる者あらん。然れども芭蕉を文学者

 とし俳句を文学とし、之を評するに文学的眼孔を以て

 せば則ち此の如きのみ。

と、芭蕉を神に祭り上げる教導派のあり方を批判し、文学としての俳句、文学者としての芭蕉像を探究する論であることを明確にした。

 次に、俳諧連歌についての問いに答える。

  俳諧の正味は俳諧連歌に在り、発句は則ち其の一小

 部分のみ。故に芭蕉を論ずるは発句に於てせずして連

 俳に於てせざるべからず。

という問いに、子規は、

  発句は文学なり、連俳は文学に非ず

と断じ、その理由を

  連俳固より文学の分子を有せざるに非ずといへども、

 文学以外の分子をも併有するなり。

と述べ、文学を論ずるには、「発句を以て足れり」ときつぱりと言いきった。

 「文学以外の分子とは何ぞ」という更なる問いには、

  連俳に貴ぶ所は変化なり。変化は則ち文学以外の分

 子なり。蓋し此変化なる者は終始一貫せる秩序と統一

 との間に変化する者に非ずして、全く前後相串聯せざ

 る急遽倏忽の変化なればなり。

と説明し、具体的には、

  歌仙行は三十六首の俳諧歌を並べたると異ならずし

 て、唯々両者の間に同一の上半句若しくは下半句を有

 するのみ。

と言い、

  上半又は下半を共有するは連俳の特質にして感情よ

 りも知識に属する者多し。

と述べる。

 俳句の母胎である俳諧連歌は、複数の作者が寄り合って、五・七・五の句と七・七の句を交互に付け連ねるもので、前句と付句で一つの世界を作りながら変化してゆく。付け合せた前後の句のみ関連があって、三句以上を通して一定の意味を詠むことはない。テーマや状況の一貫性ということよりも、付けることでつぎつぎ変化することが連歌では重んじられた。

 子規がこの論で言う連俳の文学以外の分子とは、付け合いに於ける変化と、その際に生じる知識の働きということである。

 連俳で重要視する変化には、「終始一貫せる秩序と統一」が無く、付け合いに於いては、作者の感情よりも知識が優先すると考えた子規は、作者の主体性、テーマの一貫性に欠ける連俳は近代文学ではないという結論に達したのである。

 一方発句(第一句)は、「其処の当座の体、又天気の風情など見つくろひ、安々とすべし」(「宗祇初心抄」)というのがきまりであった。発句は時と所に応じた客人の挨拶であったから、「発句はまづ切るべきなり」(二条良基「連理秘抄」)と規定され、切れ字などを用いて一句を完結させることが求められた。一句が単独で完結するということは、脇句以下の付句を予想しないでも良いことであるから、共有でない-個として単独の感情の表現を可能にした。子規はここに着目して、文学としての俳句の再生に着手したのである。

 子規の連俳非文学説に立脚する発句の完全独立は、子規自身の文学観に基いたものであったが、発句が脇句以下から独立して単独で詠まれる傾向は、既に蕪村の時代から見られることであった。更に明治に入ってからは、太陽暦採用による季語の混乱などから、俳壇全体としても発句独立の気運は高まっていた。そこへ子規がこのことを決定的な形で提示したのであるから、発句独立は必然的なこと」して定着してゆくのである。

 それと共に、それまで漠然とした意味で使われていた「俳諧」の語--「俳諧」は、時に発句を指し、時に俳諧(俳諧の連歌)を指して用いられてきた--が明確にされ、文学として独立した発句は、俳句と呼ばれるようになった。「俳句」ということばは、子規の創り出したことばではないが、子規によって文学としての俳句を示す名称として決定付けられた。

 なお、連句を認める意見もあって、子規の高弟高浜虚子は、子規の死の二年後に新しい連句を提唱したことがあるが、一般にはあまり行われることはなかった。

 「芭蕉雑談」は、過激な芭蕉批判をくりひろげたことから、世人を驚かせ、反響を大きかった。子規自身も後に「随分乱暴なる著述にて自ら困り居り候」と言ったというが、本意は「主として芭蕉に対する評論の宗匠輩に異なる所を指摘せし者」(「補遺」)であった。

 「芭蕉二百年忌を記念する仕事として、『芭蕉雑談』以上のものはどこにもなかった」(柴田宵曲「正岡子規」)ということである。

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