人事俳句(抄・編)

青 木 月 斗

 

 俳句季題で、最も多いのは人事季題である。殊に新年などは全部が人事題というてよい。時候も、天文も、地理も、動植物も、人事の交渉をまって初めて題になってゐる。即ち目出度い、嘉祝の上に成立されてゐるもののみである。例へば千代の春、君が春、御代の春、玉の春、花の春、民の春、庵の春、老の春とか、七日正月(人日)、小正月、女正月、二十日正月(骨正月)の時候。初空、初東雲、初明、初日、初東風、初凪、初霞、淑気、御降の天文も。初鶏、初烏、初雀、嫁が君の動物も。福寿草、薺、若菜、楪、橘、羊歯、野老、昆布の植物も皆、人事関係の目出度い息のかかってゐるものばかりである。

もっとも新年が人間意識の上に成り立ってゐるものだから、以上のやうな人事題が全部だとさへ云へるので、他の季は、そんな事もないのである。

人事句と云へば、我々仲間では太祇が優れた作家と云ひ為してゐるのである。

或る川柳家が、一茶は川柳界から欲しくはないが、炭太祇は川柳畑へ貰ひたい人だ。と云ったさうである。これは人事作家として、うまい作品を残してゐる事を証拠立てる一端と見るべきであらう。

 春の人事題では、藪入、出代、涅槃会、二の替、初午、潮干狩、炉塞、畑打、凧、摘草などが重点を為してゐる。

 尤も人事の興廃は、時代の相を描いて行くので、歳時記を見ても直に解るが、昔あって今なきもの、昔なくて今あるもの、例へば阿蘭陀渡る、絵踏、列見、御燈、曲水の宴、人、地下の卜、雛の使、雛流し、小弓引など。今は作る事はしない題というてよい。その代り、紀元節、天長節、地久節、建国祭、陸軍記念日、観桜御宴、大試験、卒業、入学、都踊、芦辺踊、浪花踊、此花踊、東踊、ボートレイス、野球リーグ戦、運動会、遠足、銃猟停止などは明治以後のものである。人事季題といはず、すべての季題は人間がつくるものであるから、昔から比べて多くなってゐる。又多くして行ってよいのであるが、選択に十分な考慮を要すべきは論がない。春眠とか春睡はよいが、朝寝などは季題としてあやしきものである。夏の昼寝とは同一には行はれない。

俳諧歳時記(改造社版)の夏の部を見て、人事の新題の多いのに一驚を喫した。それに忌のいろいろ。何々忌は誰でも季題にしてよいとは思はれぬ。近来の忌の多くなった事は驚かれる。俳句に関係深い人。藝術に関係深い人。国家的に超人的な人。それが何らか首肯し得る処がなくては、唯優れた人だから忌を修し季題としてよいとはゆかぬ。過去帖のやうになっては徒事に過ぎぬ。

「宗教」は近来「人事」の内から独立されて一部門になってゐるが、むろん人事句に相違ない。

新題の中でも、よい題がないでもないが、やはり昔からあるものはよい題である。夏の人事題では、更衣。袷。青簾。蚊帳。蚊遣。麦秋。田植。昼寝。納涼など動かぬ夏の趣を握ってゐる。             

人事の句に最も注意すべきは、人間臭を濃厚に出さぬ事である。人間臭といふと、俗事俗情の人情味とか、俗な男女関係とかをいふのである。

太祇の句は情味豊かである。随って人事の句を善くする事になる。又複雑な事を言ひあらはすのに、よき語を以てしてゐる事も特徴である。太祇の女に関した句中の佳句を挙げやう。

 羽子つくや世心知らぬ大またげ     太祇

まだ年のゆかぬ娘の子で、背丈は相当にあるが、世心知らぬ(恋心を知らぬ)娘の子で、脛もあらはに大股に走って羽子をつくのである。

 やぶ入の顔けばけばし草の宿      太祇

これは、やぶ入の女子が、都風俗に染んでをり、白粉などの化粧もしてゐる明るい娘ぶりで、くすぶってゐる田舎の我が家に帰って来たのである。顔けばけばしは、はれがましい。薄暗い中に、明るい自分の顔や姿が、けばけばしい。と云ふのである。中七のこの用語は、実にうまい。

やぶ入の寝るやひとりの親の側     同

前の顔けぱけばしの娘が、独身になった母親の側で寝るといふのである。しんみりとした情味、嬉しいやぶ入の第一夜が思はれる。この何は蕪村が春風馬堤曲の終りに、君見ずや故人太祇の句、やぶ入の寝るやひとりの親の側と結句に置いてゐるもので、やぶ入の句として最も優れたものである。

  摘草やよそにも見ゆる母娘      太祇

 親子づれ(母と娘)で草摘みに来てゐると、よそにも同じやうな母と娘の草摘みを見かけたといふのである。拙くいふと目も当てられぬ人間臭が出たり、つくりものの興味に堕ちるのだが、よそにも見ゆると云ひ、母娘。と置いた処などは、うまい。つつましやかな母子の情緒が出てゐる。少なくとも現代ではない空気がうれしい。

  女見る春も名残やわたし守      太祇

 人事題ではないが、太祇のうまい春の句をあげよう。「春の夜や女をおどす作りごと」など、太祇の使ふ女は、あか抜けがしてゐる。

  帷子や明の別れの裾かろき      太祇

 夏の短い夜は明け早く白む。男は帷子を着て別れて行く、朝風に裾軽いのである。この句などは淡彩であるが、情味をこれほどうまく出したものは稀である。

  行く女袷着なすや憎き迄       太祇

 一茶の「うしろから見れば若いぞ更衣」は、女に、ふざけてゐる。太祇のは思ひを内にしてゐる処が違ふ。憎き迄と、つっ込んでゐるので、若いぞと外に出したのより深刻である。

  君こねば油燈うすし初嵐       太祇

 妹が宿である。背のきみが今宵も来ずにあれば油燈もうすく初嵐がそよそよ吹き渡ってはあはれである。恨みを蔵して妹がかこち顔なる優婉限りなしである。

  うかれ女や言葉のはしに後の月    太祇

 これは江戸の吉原である。吉原では名月が昔は第一日の紋日であった。それも紀文が千金を費して遊んだに始まる。紀伊国屋文左衛門は千山と号して其角に句を学んだので、月見などに興を持ったのであらう。定めし英一蝶や其角らと共に大尽遊びをしたのであらう。それで月見に遊んだら遊女は必ず後の月にも来る事を約する。来ねば片見月とて縁起がるいとしてゐるのである。この句は名月の夜と解してもよし、名月でなくてもよいが、後の月には来てくれといふのである。しゃれた句である。

寝よといふ寝覚の夫や小夜砧

 夜、きぬたを打ってゐる妻に、亭主が寝間から「もう寝よ」と呼ぶ。それは亭主は一寝入した寝覚の声である訳だ。太祇は複雑な曲折した事を上手に云ふ。

玄関にて御傘と申す時雨かな     太祇

 御傘と申す、などの平俗な言葉を使ひ生かすのは太祇である。

初雪や酒の意趣ある人の妹      太祇

 意趣とは恨みである。句は初雪が降って来た。それにつけても彼の女に先の日さんざん飲まされ酔はされた。今日は一つ何とかして雪にかこつけて意趣返しをしてやらねばならぬ。といふのである。どこかほのめいた匂ひがする句である。流石に太祇ならではと思はされる。

あてやかに古りし女や敷火燵     太祇

 敷火燵は炉に矢倉をかけず、直ちに組み格子をぺたりと置いて布団をかけておくのである。あてやかに、は高貴に、といふのであるが、ここは上品に、品よく美しくと解すべきである。敷火燵によってゐる女は品のよい年増である事よといふのである。

(改造社『俳句作法講座』より島春抄・編)

 

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