田中寒樓集

 

8.石原初子宛月斗書簡(大正15年)より

 

 

寒樓さんが見えた。寒樓さんは戸を叩くのが嫌で一夜

堤上門前で座禪をされてゐたのだ。おれが一時か二時

頃歸宅すれば、おうと驚く處であったが、宵に小林夫

婦(注、山堂、葉子)を送って、寐てしまった爲、門

前の禪師には夜半の邂逅が出來なかったのだ。殘念な

事なれかし。(中略)

寒樓、涼斗に初子女史を加へたる一會催すべく候。

          五月三十一日    月斗

 

 

 

初ちゃんの笑ひ聲、鶯の如し ちかごろは眉をしかめ

て、なやめるさまにものいふ事を見出でたり、人を愁

殺する情趣といふものなり

寒樓はうたた寐、予は同人選に沒頭す

寒樓は夢中に泣いたり、笑ったりする、いやな男なり

けり、予は一時に寐閧しきて寐る、寒ろを起してや

らうとも思ったが、わざとそのままにしておいてやっ

たり、何やら寐言いひゐしが、予も眠りたりければあ

とは知らず、朝七時予覺む、寒ろは矢張りうたた寐の

姿あはれにはれるぞをかしかりける

湯に行く、寒樓もつき來る、安全かみそり一つ使ふに

も辭儀丁寧に、拜借致しますと挨拶す、なかなかに吹

き出さんばかりにをかし、今寒ろは庭の草どもひきゐ

るなり、

あす六日同人句會、無理でなければ來ては如何、内の

覺え、めでたからねば來ずともよし、

その後の俳句見せ玉へかし、

同人選句を机上においてゐれど選したくなし

何やら身も魂も腐つ思ひなり

           五日       月斗

   初子どの

 

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(石原初子附記)

上の二通の手紙は、大正十五年の五月三十一日と、六月五日のもので、前文の方には、寒樓翁のも同封されてゐました。私が未だ、はたちの頃で、今と違って、きれいな?聲で囀り飛び廻ってゐた時代であります。

その前年、先生の家庭に不幸が起り、先生は「獨身は、吾輩にとつては黄金時代だよ」と云はれつつも、惱み深い日々を送ってゐられたのであります。

寒樓翁は、その頃、鳥取から單身上洛、現在、先生の墓所になってゐる金n宸フ門前に居を得、同クの中島菜刀と住んでゐられましたが、時折大坂へ出ては、櫻の宮の斗庵を訪ひ、五日でも、十日でも、氣の向くままに、食客となってゐられました。寒樓翁は奇行の多い人でしたが、醉へば上機嫌で安來節など口ずさみ、或時は又、萬葉を論ずるなど、その洒落な風格と、人なつこさを先生も愛でられて、來訪あれば快く迎へ、句會にも同道されました。しかし、あとの方の文で見ると、さすがの先生も、週日にわたる翁のお相手には、いささか疲れられたさまが、まざまざまと見えてゐて面白いと思ひます。

石原刀子のページ

 

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