俳人。子規門。因幡の人。明治10年生まれ、阪本四方太より鳥取の卯の花会にて句の指導を受け、子規選に入る。教職を擲って、各地を転々と放浪して句作。画人中島菜刀、俳人土生麦門冬と交あり。「無限の生命にはぐくまれやうとするものは、自分といふ文化の化粧をとってしまふがよい。羽織をぬいで袴一つで歩くとよほど楽だ。住ひは低いほどがよい。着物はうすいほどがよい。高楼で飲むより、地べたの上がうまい。衣冠束帯は身の手がせだ」。昭和45年没す。
正氣が学生時代在阪中に面識があったようである。昭和2年8月、諫早に帰郷した松本正氣(当時正喜)を訪ねているのに、「大正十五年八月二日の鬼貫忌以来の挨拶を交わした」とある。正氣主宰の俳誌『句鐙』『夕立』(昭2)『魚島』(昭6)に寄稿している。昭和6年5月初旬、土生麦門冬、中島菜刀と共に、備後横島在の正氣のもとへ鯛網見物に来ている。
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俳誌「句鐙」「夕立」より
火。火。
寒 楼
新年は火なり。元日の火のごこく新たに神々しきは無し。されど火の威力は鞍馬の火祭の如きものはあらず。そも鞍馬の火祭のありさま如何。
曰く火の礼讃なり。山と山の間に村あり。村の中に一縷の道あり。道に沿うて一縷の流れあり。
この道に、枯榾を押し立てて二三間宛をへだてて村中に榾櫓を装置し、時は師走の大年の火の如く十月廿日夜は九時十時の頃より、その街道の榾家一時に火となり凄じさいふべくもあらす。十二三ばかりの少年、手に手に松明を振りかざして、口々に「さいれい」「さいれい」と触れありく。少年隊の火炎列ととのふや、青年隊ついで揃ひ、十一二時近く老幼悉く松明を奉して神輿を迎ふ。
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霧にうつる篝火。篝火かつぐ壮夫、赤裸々にして僅に肩のあたりに一片の布片をあてて重さ十八貫、二十貫といふ松明を荷つぎ酒をかむりて、よろめきながらうち郡れ集ひて神輿を迎ふ。火炎の間に乱打す大鼓は赫
口
徹宵火裡にありて火炎をしらず。
山も河も村も人もこの火炎裡に没して一団の火祭とはなりぬ。さいれい、さいれうと叫びたてて此の火祭世界の狂ほしきさを統一せるかに結晶せる火祭人の合ひことばは、ただ単に片山里の一祭礼の神事と見てすごすべきものではない。その緊張味と荘厳さは、われわれ人類が始て火と明りを発見せし驚嬉讃嘆の名残をとどむる紀念の礼賛儀礼として見るべきもののやうである。殊に珍とすべきは唯に全村一家挙てこの火祭神事に参加するばかりでなく、女も年寄も一家を明け放しでうち出て、脛腰たたぬものの外此の火明讃嘆祭に参加せぬものは無いことである。忌み穢れのあるものは閉戸。外に出るを許さぬのみならず神輿昇きの壮夫は一週間前より行水潔斎の真剣さを見せてゐる。凡て現代日本に行はるる神事祭礼にして、鞍馬の火祭ほど真面目な、従て没入三味の佳境に陶酔して、現実生活より一時解脱の歓喜陰楽海に遊泳するものはあるまい。
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岡田鱶洲子火祭を歌つて曰く。
火祭やあかあか灯す鉾の宿
火祭や人中に居て立眠り
火祭や焔に酔へる都人
火祭や火氣燦として人驕る
火祭や鞍馬の宿の一夜借り
火祭や面ほてりして背冷ゆる
火祭や焔もつるる火明り
星屑の降るかとばかりお火祭
火祭や人逞しき四肢の鳴り
火祭や渦捲く火の粉浴びて行く
火祭や焔を泳ぐ裸人
京の平安神宮の時代祭は美しく、屁のごとくぬるく。太秦の牛祭はながながしくて牛の如く。 鞍馬の火祭は火だ。
(昭和二年『句鐙』一月号所載)
句
行導
沓子自ら歩むに似たり関山忌
無相忌や雪献粥の半より
藤環忌脚下にまろぶ霰かな
(昭和二年『句鐙』一月号所載)
書簡
啓上
九州に来てもう三月になります。温泉を見ずに帰るのもをしいことゆへ是非諫早も訪問いたし度く候まだ当分こちらに滞在候若し御留守になることあらば御一報御しらせ被下度候 麦門冬居より 八月十二日 寒楼
(昭和三年『夕立』九月号所載)
月斗葉書
写真
松本正氣と田中寒楼(昭3.8.24諫早にて)
葉書
美しい奥さま三人御のり遊ばす、
今大村わん(狸)
(昭和三年『夕立』九月号所載)
句
(鳩穴)しりへ邊はがく紫に氷穴
自動車の窓からすてし女郎花
(昭和三年『夕立』九月号所載)
祝句
(種衣君新婚)真夜中や玉手さしまく霜の声
(昭和四年『夕立』一月号所載)