季感について

青 木 月 斗

 

季の感じは一般的であるべきであるが、俳人は特別に季感を尊重し、これに没頭し、研究して来てゐるので、一般的より進んだ季感の受け入れを持ってゐる。と同時に一般的より見て、甚約束的な感受にある。

「花」と云へば俳句では「桜」に定まってゐるが、一般的には、さうは行かぬ。「瓜」と云へば「まくは瓜」に限り、豆と云へば蚕豆に限ってゐる。「豆の葉」「豆の花」と云へば必ず、そら豆の事に限ってゐる。「種蒔」「種下し」と云へば稲の種蒔、種下に限ってをり、「月」と云へば、必ず「秋」に限定されてをる如きは、俳句独特の約束の季感であると云はねばならぬ。

 俳句の方では、季のものの確定され、観念の存在が顕著なものを、季題と云ってゐる。季題は古く連歌時代からあり、俳諧連歌時代には次第に多くなって来、元禄時代に又殖え、天明時代に又多くなって来、化成年間に殖え、明治に入って増え、現代になっていよいよ殖えて来たのである。

季題を尊重する結果、春夏秋冬の区別を俳句では一層吟味する。「蛙」は春。「筍」は夏。「藤」「つつじ」は夏で、「牡丹」は夏。「朝顔」「花火」は秋といふやうに俳句ではなってゐる。

中空の澄んでゐる事が第一条件である為に、「花火」は「秋」と古人が決めたのは偉い。

尚、陽暦と陰暦に就ては、季感、季題の混乱を免れない。東京では、「上巳」の「雛祭」。「端午」の「菖蒲節句」。「盂蘭盆」のいろいろ。「七夕」の「星祭」などを新暦で行ってゐるが、大阪では新暦でもやるが、一と月後れ、旧暦が多い。「雛」には「桃」「草餅」。「端午」には「菖蒲」。「盆」の「草市」「踊」。「七夕」には「天の川」などが環境をつくるものであらねば、情趣が出ない。自然界と深い関係交渉にある人事季題を、新暦に切りかへたのでは、趣がなく、無理が生ずる。

季題は唯単に、時候、花卉、器物、人事のその文字だけのものでない。「端居」と云へば縁先などに居るだけの事と解すると季の交渉がない事になる。季感がない事になるが、昨日までは襖や明り障子がしめてあり、火鉢などによってゐたが、いつの程にか、春は暮れて庭は若葉になった、障子は開け放たれ、外面がよくなって来たので「端居」をするのである。初夏の風味である。「端居」を室内の暑に堪へず端居すなど一般の書にあるは誤ってゐる。それは「端涼み」「縁涼み」の題のものである。

 

 

「夜の秋」は古人の例句を見れば「秋夜」である事に論はないのだが、ただ土用半ばに早や秋の風。と云ふ語からして夏の夜の涼しきを云ふと一犬虚を吠えて萬犬これを伝へたのである。

季題の季感は、伝統的に培はれて来た聯想の直覚が一つの観念になってゐるので、単に「火鉢・火桶」と云っただけで、その器物のみを見るのでなくて、その環境から、古人の詩歌から、いろいろの聯想を直感して「火鉢」を思ふのである。

季題が季感を、如何に具象してゐるかを見てみると、「花」などは「花」だけで百数十題にのぼってゐる。「月」なども数十題にのぼっている。又同じ涼しさ・寒さの内でも秋季に属するものを数へてみて、如何に細かに感じてゐるかが解る。

「初涼」「新涼」「冷」「秋冷」「朝玲」「夕冷」「下冷」「雨冷」「やや寒」「うそ寒」「肌寒」「そぞろ寒」「薄寒」「朝寒」「夕寒」「夜寒」「身に入む」「露寒」「秋寒」「すさまじ」

と二十題位に分類されてゐる。

「夜寒」「朝寒」などの語は実によい語である。俳句は短い詩形である為に、語の省略、圧搾を十分にせねばならぬが、省略も度を過ぎてはならぬ。十分洗練、推敲をして、第三者に感情の移入を豊かにせねばならぬ。それ故に季の言葉でも、よき姿、よき称へ、よき言霊のものを選ばねばならぬ。

いろいろの花の称へに就て云へば、「茶の花」「菜の花」「桐の花」「桃の花」これらの称へを花茶だの、花菜だの、花桐、花桃だのと平気な顔で句に詠んでゐる人達もあるが、それはよくない。文字数の都合で、茶花哉と云っては、「茶の花」の姿が顕はれて来ない。文字で解ってはゐるが、良い感じの享け入れがなくてはならぬ詩語である。「花橘」「花かつみ」「花菖蒲」「花菫」「花藻」などは花の字が上につく習はしであるが、花桐、花柘榴、花菱など云へば別種のものになってしまふのである。

ものの称へ、ものの呼び名も理屈ではいかぬ。「(フユ)(カハ)夏川(ナツカハ)」はよいが春川(ハルカハ)秋川(アキカハ)とは云はぬ。「(シュン)(スイ)」「秋水(シュウスイ)」はよいが、()(スイ)(トウ)(スイ)とは云はぬ。又春とか秋とかの字を冠らして季題にしてゐる書物なども散見するがよろしくない。春火燵だの秋昼寝だのと云ふ類である。甚しいのになると、春机だの春襖だの春障子だのといふのがある杜撰千萬である。

 

俳句で季をいふ場合は、即、季題を論ずる事になる。然しながら、一句の中に季題がなくても、季感の直覚が十分であればよいのである。

句を作る場合、たまたま季題のないものが出来るが、所謂、無季の句で季感の十分なものは殆出来ぬと云ってよい。それほど季題は拡充してゐるのである。

季題は、日の丸の国旗のやうなものである。旗が詩であっても、日の丸の旗は、日本独特のもので、日本の民族、日本の風土が特に持つものである。アフリカの空に立つ「雲の峯」と日本に立つ「雲の峯」は同じ積層雲であるが、年百年中たつ雲の峯には季感がない。気象台の報告する東風(ヒガシカゼ)と俳句の「東風(コチ)」とは別のものである。

日本の中央を中心として、四時の自然変化、これにともなふ人事の数々の季題を、幾百年も取扱って来た季感は、勿論、真実の実在に他ならぬが、又長い時代、数々の藝術を通過して来てゐる内に、特別な感じの観念を付与されてゐる、季感、季題である。

自然の山川草木、乾坤、生物のありのままの四時の変化、ありのままの姿と、季題観念の相違の一例には、「元日」などを思うて見る時、最もよく解さるゝのである。

「元日」の季題観念には、或は東方の人には「雪」の中で「屠蘇」をくみ、「雑煮」を祝ふのであり、西方の人には、「菊」が残ってをり、「紅葉」が残ってをる、「麗か」な日影の中で「年賀」を述べ、子供が「凧」をあげるのであるが、「元日」の淑気、「元日」の目出度き気分といふものは、日本民族の一斉に受け入れる感情である。「元日」は十二月三十一日の翌日で、一月二日の前日であるだけの一日である現実だけではないのである。

季題は、時代によって変化を見る事は免れない。人事の興亡。物質文化によっての変化。人によっての変化。は免れないが、根底的には毫も変化を見ぬのである。旧暦と新暦の変化の如き、大改革に現に遭遇してゐるが、大体に於て一と月後れ、一と月のばしと見ればよい。部分的の変化は、それに順応して行けばよい。時が最よく整理をしてゆく。

約言すれば、季感は日本人のすべてが感受して行く、時の喜びと、哀しさの真趣である。季題は俳句に遊ぶものが、より以上に、特別な、伝統と約束のもとに感受して行き、その季題の中に住まってゐるものである。

 

(改造社版「俳句講座」昭七より、島春抄録)

 

月斗ページへ戻る