巻頭言 令和5年1月
我が花の友よ
松 本 島 春
ステッキをつき、三原高校第一回卒業生卆寿記念同窓会に出た。米寿に次いでの十三回目で、最終学年が男女共学となっても、学舎は整わず授業は従来通りだったので、男だけでの会である。
戦時疎開とか、戦後の学制改革や学区も変わるやらで、三原中学入学以来六年間の出入り全部を対象に、F君の並々ならぬ情熱での探求で、総数一七四名が挙がり、故人一一四名、不明二七名、差し引きが三三名で八名が出席した。一人は東京から。
戦中から戦後の動乱を共に過ごしたという関係であるが、在学時の会話の記憶もない者もいる。ただ手形のように恩師のあだ名を共有する。で、名簿にも無い短期疎開のO君の名がふっと浮かんだ。
大阪の子で登校時に一緒した。彼はエスペラントを勉強していた。五十音順のウ段(例えばク)の音にア行の音(例えばイ)を重ねると(キ)となると言ったら感心してくれた。ローマ字を習う前だが。
記憶とはそういうものだ。俳句班の仲間なら、木下隆一君は、ニッポン放送で「しりとり歌合戦」など担当して超多忙、早めに退職した。句は作っていて『春星』にも復活した。正氣一周忌の春星大会に伊豆から来てくれたが、それが別れだった。
大会では、富山先生や遠来の方々にも十分な懇談の時間が取れず、隆一君は、市内の小路など歩いて回ったらしい。夜遅く奥様よりまだ帰宅しないとの電話で驚いたが、また電話があり、ふらり終着まで乗り越していた。既にそんな体調だったか。
鎌倉での法要に角光雄君と参じた際、隆一君が自分で自分に関わる断片寸語の記録、新聞切り抜きの小片に至るまでの一切を保存していたのを、奥様が示された。句作に当たって唯の一句をも捨ててはいない。何事にも全力傾注だったのだろう。
角光雄君は、新制高校を選ばず句からも遠ざかったが、基督教会の活動をし、大阪のその関係に進学し、就職し、在学中の私に会いに来て胸の内を語った。大阪の教会で、三原月斗忌で知った棚橋玲泉女さん、つまり句との再会は、私が帰郷した後だ。
三原の月斗ご夫妻歓迎句会に発し、句復活以降、彼のライフワークとなる青木月斗顕彰は、俳壇での彼生来の持ち味に因る働きが大きいといえる。
句の繋がりを、正氣師は〈花の友〉と呼ぶ。「花の陰あかの他人はなかりけり 一茶」である。