巻頭言 平成245

事と言と

松 本 島 春 

 

又もや我が家のセキセイインコの話で恐縮だが、チュンちゃんと呼ぶと手元へ飛んでくる。自分の名前が解っての事だと思っていた。ところが、最近はインコの方から「チュンチャン」と呼び掛けてくる。篭から出してくれとか相手して遊んでくれという折に使う。何ともか細い声音だから気持ちがわかる。

 知人といつも散歩する犬で、立派な名前もあるのにワンちゃんと呼ぶと、向きを変えて走ってくる。すると飼い主からキャベツ一片が貰える。これが条件づけられて、言葉を掛けないでも、私を見るとキャベツが貰えるから走ってくる。そしてワンとだけ吠える。もう一片欲しくてまたワンと吠える。

 インコの場合は、チュンチャンを自分固有の名前ではなくて、相手への呼び掛け語と解しているらしい。つまり、鳥として相手の新しい発音を学んで発声するだけでなく、私が呼び掛ける際の私の脳の働きをそのまま鳥が自分の脳の中で再現して、呼び掛け語と解するミラーニューロンが働いているのだ。

 インコは、この言葉をのべつ駆使するようになった。篭の鳥だから外へ出たがるのだが、これまでは単にしつこく啼きわめいて思いを貫こうとするので、こちらも意地を張って戸を開けないでいた。それでも終いに負けていたが、それが一生のお願いみたいな言いぶりに変ったから、いちころで参る。

 まるで黄門さまの印籠だが、その代わりなのかもしれないが、桃太郎の話もチーチーパッパも、いつも通り傾聴はするのに、暗誦する方の進歩は近頃あまりない。暇なときは滔々と喋っているが、オジイサンとイキマシタぐらいしか判然としないままだ。この点では以前に飼っていたインコと大差ない。

 人への呼び掛け語を持ったらしい今のチュンちゃんにとって、口で言って聞かせるだけの桃太郎話そのものは、こと()とこと()とが一致しないただの音声の並びなのだろう。自然界にあって、事と言の中身とは本来はイクオールだから、これでは面白くないし、胸に抱く思いも伝わらない。俳句もだ。

小鳥は私の手に乗っては唇に嘴を接して、短い言葉を考え考え私に次々と発する。それが皆異なっていて、中にはどうしたんとかとうしゅんさんとかに聞こえたりするが、私はそれに応じ小鳥の発音を反芻して唱える。映画『未知との遭遇』の五音階レミドドソの交信をもしやと思っているからだ。

 



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