島春句自解

平成13

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 平成 13.12

 

 

平成131

島春句自解 

初東雲古希の眼力ふりしぼり

元旦の明るみ初める頃である。東に面するお宮の初詣でを終えて、暫く焚き火にあたっていると、初日の出は曇りとの予報だったのに、多少の雲間の空が見えて来た。

山頂へ蛇行す初日拝せむと

巳年の句。南に海が見渡せる山があり、観光道路も出来て、闇にヘッドライトが見え隠れしている。

 

その果てに絶叫マシン刈田原

三重長島温泉へ行く用があった。広漠とした刈田の中を車窓に遊園地が見えてきた。此処のは、揺れが微妙な木造ということだそうだが、稼動してはいなかった。

 

大海原のごとき座敷や年忘

いろいろと忘年会があって、今宵はこの料亭である。座敷の中心に向き合っての席作り。壁に望月美佐の雄渾な書が掛かっている。やがて宴酣。

 

河豚食うて玄関よりの石畳

河豚に深酒して、靴に足を入れて、踏みしめる敷石。

 

積んで潰れた鞄がおでん屋の隅に

これ以上坐れば窮屈だが、詰め合わせて。鞄は隅に置かれた椅子の上。

 

短日がころころ過ぎる未決箱

一日が転ぶように過ぎてゆく。ぱらぱらめくっては溜め息をつく。

 

日の出見て旅の短日始まれり

旅先の地での日の出は鮮烈だ。短日を連ねた旅が続く。

 

(美穂さんに)米の艶糠漬の味秋麗ら

母君の句「嫁がせる荷に新米も糠床も  郷」とあるに。

 

(恵さんに)菊の酒欣然長うす父也

父君の句「結納やききょうの五弁ゆるぎなし  男児」とあるに。

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平成13年2月

島春句自解

 

二千六百六十一年の初詣

新世紀、2001年の初詣と書き立てている。前々年橿原神宮に参詣した際、明年は紀元二千六百六十年と書かれていたのを思い出す。神様に参るのに、物差しははこれだろうと初詣した。

 

初日差銀杏の上枝より降る

延喜式にある加羅加波神社。その境内に大きな銀杏がある。大胆に枝を払ってあるが、その秀つ枝のほうから次第に日差しがくだって来る。

 

式内の初篝守る老いの良き

愛想のよいお世話役が、大きな焚き火の番をしてゐる。靴が焦げるよと話が弾みながら、甘酒やおでんを頂いた。神主夫人から銀杏の実も頂戴した。

 

暁闇をフラッシュ穿つ初写真

せっかくの家族で盛装してのお参りだから、焚き火のところでスナップを撮った。初日の出まではまだ一時間は掛かるだろうとのこと。

 

初曙光句心ひょうと射られたる

句を作ることと、初日を拝むこととは、競合する。句ごころは、扇の的のように、波間に散った。

 

初日影ブロンズにして少女笑む

二階玄関への階段の踊り場に、西望先生の「喜ぶ少女」像がある。東南の方向に対している。

 

福寿草日が乗り金の重み得し

御題「草」である。以前の春星舎の庭の、石工が呉れた小さな石灯籠の周りに、福寿草が群生していた。ここはよく日が当たった。

 

福寿草撮るに吾が影入りけり

その石灯籠の写真がある。福寿草が一番花盛りの頃ので、俯瞰して撮った。

 

煤払タップより器具解き放ち

院長室は、何かと散らばり易いものだが、パソコンが入って、何やかや繋ぎまくって、コードが錯綜している。周辺機器を一時開放してやるのは簡単だが、あとの接続が一仕事だった。

 

晦日蕎麦天を仰げと雪が散る

年の瀬ともなると、あれやこれやと片付けねばならず、うつむいてばかりで、背中も曲がりっぱなし、気持ちも。

 

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平成13年3月

島春句自解

 

寒鯉の燠が見ゆるや見入るとき

城の天守台の跡が公園になっている。懐手してしんみり話しながら、折り折りに城濠に目を遣っている。仄かな赤さが見えて、見入ると、動かぬ緋鯉が透けているのである。

 

水にある宙に寒鯉ぶらりんと

パースペクティブの寒鯉。水中に宙を感じる。宙ぶらりんという言葉。

 

寒卵割ったる朝日雲破り

曇っていた日差しが、そのとき、たまたま又窓にかっと差し込んできた。

 

コップ挿しのミント発根寒卵

食卓の上に水の入ったコップがあって、ミントの小枝を挿している。緑がいい。暫くすると、細い白根を生やしてくる。

 

ベランダの菜園の枠プチ氷柱

ベランダに、プランターや発泡スチロールの函に土を入れて草花など植えている。それに混じって野菜といえるものも、三つ葉、葱、パセリ、豌豆、オクラなど。土がよくないので生育もよくない。氷柱も。

 

氷柱一門祠の裏が養へり

お宮の裏は年中日陰で、ひんやりとしている。解けかけたり凍ったりして、大小さまざまの氷柱が並んでいる。びっくりするような大きさもある。

 

これよりは車幅ぎりぎり氷柱村

皆藤の両脇に古い家並みの屋根がせり出していて、おまけに傾きかかっている。ここを抜ければ新しい国道に繋がるのである。有力県議は居ないのかな。

 

ポケットの綻びが食ふ龍の玉

その色が貴くて、懐かしくて、つい採ってポケットに入れるである。あとで思い出して探ってみても、どこにまぎれこんだのか見つからない。

 

レアの肉啖うて追儺の闇に出る

魚のメニューが多くなった。肉を焼いてももそんなに血の色したのは好みではないが、節分の句だから。

 

梅一輪そよ風の小指がそこに

微風に蕾が解けた。乳首のような蕾の紅梅だったから甘くなる。

 

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平成13年4月号

島春句自解

 

黄水仙枝に小鳥が落ち着かず


Fの喫茶コーナーの広いガラス張りの窓際から、外界を見ている。地面はまだ凍てていて、葉が落ちてしまった枝の間を、小鳥が行ったり来たりしている。

水仙花今日の運気が蘇り

毎日標示される私の今日の運勢だが、一瞥して、どこか心の端のほうに捨て忘れていることがあるのだろう。

薄氷や心が荒れている靴が

踏んでみたくなる子供心が残っている。一歩あと帰りして靴先で触れることがある。自分でもおかしくなる。だから含羞の句。

恋猫の方へ切る爪飛びにけり
ヘッドホンたり春の猫うち眺め

私は猫は好きでない。風呂上りに爪を切ることはあるが、ウォークマンなどはわずらわしくて駄目だ。

雛の間へとなりの間なる鼾かな
雛の間を抜け丑満の厠かな

京の古い宿を取ると、雛の飾られた月だった。柱も障子も落ち着きの色で、風呂の檜は新しかった。

掘削の地が産みたるや水温む

新しいバイパスの工事が始まっている。一つの山は貫通されてしまった。いま川を越える橋脚が形をなしてきている。湧き水のためモーターがフル回転している。

冴え返るティッシュが函出て及び腰

仕事机の上にティッシュの紙函が口を開けている。引き出されの一枚の山なりの上半身がふらふらエアコンの風に吹かれている。

鉄板焼きに満腹すれば霾れり

 

湯気で窓のガラスが曇っていた。ドアを出て駐車場へ。街の四囲の山々がきれいに無くなって居た。

 

 

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平成13年5月号

島春句自解

 

地震(なゐふ)るや春昼を縦横に断ち

夜の蛙今も余震に身を澄まし

夜半の春地震映像反芻す

3月24日午後3時28分、震度5強の芸予地震発生。私は広島市内にいた。家に連絡がついたのは夜更け、雑然たる中、帰宅できたのは翌日昼であった。

春眠の蝋質の瞼がうごく

人形の白磁の瞼が開いたとしたのだが、厚い花弁が持つ滑沢感のほうがより近い。

飴噛んでしまってよりの春眠に

口の中の飴が解けてしまうまで舐めては居れない性分である。それに眠くてたまらないのでがりがり噛んでしまった。

雲雀仰ぎそのまま首の体操す
土手下る身を揚雲雀へと立てて
教へられしに家皆似たり揚雲雀

野外へ出かけることはめったにない。平地を行き、爪先下りになり、このあたりの家はそれぞれ違った造作なのに、この青空の下では、迷ってしまう。

昼蛙選挙のことで来て居りぬ

昼日中、頭を下げて訪れる。このあたりは昼間でも蛙が聞こえる。

啓蟄や首筋ぞくと切り通し

峠は日陰になった切り通し。枯れた蔓草が垂れ下がっている。赤黒い地層の下に岩肌が露出し、裂け目を滴りが濡らしている。

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平成13年6月号

島春句自解

浪白く来てサーファーが色点ず

浪立ちぬサーファーの虫翔けりだす

海鳴りをほろりと夏の小鳥たち

朝餐のナイフひらひら南風

 

ワイキキにて。ホテルの窓から浜を見下ろすと、たくさんのサーファー達はカラフルな甲虫類である。良い波が立つと、一斉に動き出す。

テラスに朝々白い小鳥がやってくる。海原の巨大な空間からの抽出である。

浜を少し歩いた先のホテルで朝食。

 

薔薇一枝川原にころぶ何の意ぞ

 

そこまで潮がさし込んで来る川原だが、今は真水が流れている。中州の白い石ころの上に紅薔薇が一本ある。置かれたようにも見える。

 

青山の小鬢のあたり竹の秋

 

丸い親しめる山の傍を通りかかって見上げると、そこらだけが薄茶色になっている。

 

やや強く吹かれ山吹風色に

 

山道の両側に山吹が群生していた。風がやや強い日で、山吹は山吹の色というよりも風の色という感じ。

 

空腹をベンチに置けば浮き島す

 

春先、瀬戸内海の小島が浮いて見える。温度の違う空気層のための光の屈折に因る。腹が減ったナーと思ってたら。

 

眼光に遠山ざくら研ぎ出され

 

朝飯前に山のほうを見ていたら、山肌にうっすらと白さが立ち上がる。そこで目を研ぐのである。

 

指差せば陽炎ふを止め史跡の碑

 

それと指差しての史跡の説明を受ける。それまでは遠く一様に陽炎うて居たのである。

 

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平成13年7月号

島春句自解

橋渡り島又島の青嵐

魚食ひに夏霞の底まで来たり

 

しまなみ海道を、尾道大橋から因島大橋、生口橋、多々羅大橋、大三島橋、伯方・大島橋と島伝いに渡って、ここまで来た。それぞれの島の様子は少しずつ違っていて、それぞれの感じの、そこの青嵐があった。

 

石の彫刻園でしゃっくり夏の蝶

 

瀬戸田耕三寺にこのたび成ったエーゲ海風の大理石を積み上げた一角。激しい日差しに水を打った石の坂道は、何だかつまずいたり滑りそうでそろそろ下りた。

 

言葉飛ぶ入り日のデッキ夏帽子

 

サンセットクルージング。夕翳りになってせっかくだからとデッキに出てみる。

 

母の日の蔓もの窓に纏ひつき

母の日の雲やはらかに過ぎてゆく

 

庭に生えた蔓ものが、この頃から伸びだしてきて、しっかりと絡み付いている。空の雲もそのように過ぎる。

 

今年竹独身寮はがら空きに

 

機械関係は不景気だそうで、出向とか人が減っている。ある時期は、給料日の深夜など、高歌放吟して肩組み、道路をよろけていたが。

 

薔薇散りし卓に肘つけ額置き

 

一輪挿しにしてもあまり長持ちしない。散るというより落ちたという感じ。

テーブルに、肘を置いて額をつけたかのかも知れぬ。

 

蝙蝠を潜りてよりの追跡者

蝙蝠の刻が振り撒く胸騒ぎ

 

こうもりが出てくる頃合いを俯瞰してみた巷の生活は、まことに多層に入り込み絡み合っているようだ。道を歩くことも何だか自分が追跡者にでもなった気分である。

 

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平成13年8月号

島春句自解

花楓寺刹はコンクリート製

 

バスを降りてガイドの後をぞろぞろ。安置されてある仏像はともかく、コンクリートの階段を上るのをやめて石に腰を下ろす。きれいな落葉を拾って手帳に挟む。

 

五月闇寺領のところどころかな

 

バスで移動するほどの広大さ。余人を寄せ付けない、ずしりとした五月闇が存在する。

 

青葉して僧のつむりを角張らす

 

若者達に対して、能弁の僧であった。青光りしている頭の大きさ。

 

夜が来て家庭が組まれ蛍籠

 

朝、それぞれが出て行って、夜、かなりばらけた時間差で一人ずつ戻ってくる。

 

一つぶの蛍に一家息遣ひ

 

蛍一匹を、一家族の目、耳、鼻、口が、無言で、覗き込んでいる。

 

蛍追ってテナーソプラノ交々す

 

声が移動するのは、蛍狩りの一団である。遠ざかってゆくが、高い声は残る。

 

奥宮へ幹並びをる梅雨の闇

 

茂りの奥へ山道を登ってゆくと奥宮へ達するとか。太幹の並びが頼りである。

 

満を持しをれば街消え夏の星

 

満を持してじっと居れば、夏星の大きいこと。

 

夏の星路地平行にストーリー

 

家が並び、人が住んでおれば、あの路地この路地、それぞれにそれぞれの物語があるものである。

 

信号がなくなり青田山又山

 

車は、ごじゃごじゃした街中を抜け、郊外へ出て青田のつづく景となる。もっと行くとアップダウンの山中である。

 

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平成13年9月号

島春句自解

寄港する島の向日葵見え来たり

瀬戸内海の、昔は巡航船、今はフェリーか高速艇だが、船着き場に、時刻表の頃になると日傘姿の人たちが出てきている。向日葵の列は、その切符売り場兼待合室兼売店の建物に付属している。

 

蝉勢ふ社宅のどれも錠下ろし

朝の蝉が盛んである。家の中は、朝から学校へ、パート勤めというのだろうか街へと出かけて、人気がないような感じの近頃である。

 

朝の橋渡って蝉を薄めけり

片側が山の道路が走っている。橋を一つ渡ると、対岸の道路は少し開けている。

 

俯瞰して池にあめんぼ置いてゐる

いい庭があって、二階から見下ろしていた。池の水面がさざめいているのは、あめんぼうの動きである。しばらく見て居て見えてきた。

 

視線なる糸引っ張って水馬

あめんぼうを見ている。あめんぼうの動きの行く先々に視線が曳かれる。

 

もはや昼の顔になり切り氷水

氷水に匙を入れ、いざ口に運ぼうとするときの気分は、シャキッとしている。氷水を注文する頃からである。

 

氷水それから紅ひき戻らねば

氷水が創り出す、といえば大げさだが、場面に浸っていた。

 

お留守番いちにちはしゃぐ百日紅

さるすべりの花の群れも、その塊の影も、光ある中では、はしゃぎつづけている季節である。

 

朝日逃げの鉢朝顔が抱かれ来る

花がつき始めたのでベランダから、部屋へ持ってきていた。何と朝早くから夕飯の後片付けの頃までばっちり開いているのである。空調のせいだろう。咲くのが途中お休みだと、又ベランダ行きである。この往復が、秋が深まるとたびたびのこととなる。

 

炎天をふりさけみればと呟きぬ

「ふりさけ見れば」と言う言葉がある。普段お神楽のような所作は出来ないが、そういう気分になることはなくもない。

 

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平成13年10月号

島春句自解

吟行や雨に濡れたる秋の季語

 

あいにくの雨ではあった。でも俳人の幸せというか、たまの雨の日は、たまたまに雨の句が作れるのである。

 

潮の香が腹空かすなり草相撲

 

ずっと海が見える部屋に居たのだから、下五は「秋袷」とかなんだろうが。

 

爽籟や船長が踏む潮の路

 

フェリーが往来する。この日は日が翳っていて、海面は梨地になって居た。

 

坪庭に緑を帯びし蟲の鈴

 

坪庭の立方空間が木々の緑色を帯びている。虫の音もそのようである。

 

銭苔が浮上す線香花火の間

 

庭で手花火している。飛び石の間の銭苔の緑が、火花が散る明るみのときだけ浮かび上がり、合間は又闇に沈む。

 

手花火の金銀散らすメランコリー

 

フラウゾルゲ。金色銀色は哀しみのある色である。

 

白粉花ふたり暮しの一人欠け

 

屋根を直したばかりのところで、長患いのおばさんが逝った。

 

多く得て少し捨てけり花野来て

 

手当たり次第に折り取っていたが、そのうち取捨選択が生まれる。

 

おもちゃやへあと回るなり墓掃除

 

孫がおじいちゃんの墓参りにやってきた。生前に会ったことがないのではあるが。済ませた後で、おばあちゃんとおもちゃ屋へ寄るのが楽しみなのである。

 

掃苔や水吸はれ行く深沈と

 

深沈というほかはない。

 

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平成13年11月号

島春句自解

竹薮を浮き足立たせ彼岸花

 

バスの窓から、九月中旬のこと。川沿いの道路は、薄、葛の花と続く。彼岸花は今年初めてだった。竹薮の裾に断続して鮮明だった。

 

溶けそうに月片が浮くおみなへし

 

朝空に目を細めて月の形を認めた。女郎花は較べて色かたちがしっかりしている。

 

花すすき波の秀よりの風もらふ

 

海岸に沿っの薄原。やや強い海風に白く翻っている。沖から寄せる波の先が白く尖っている。

 

ゴシゴシと雨はたわしや蜜柑島

 

激しい雨風だった。島の蜜柑畑にもう黄色が点々としている頃。洗われて明るく澄んでいる。

 

皿盛りの葡萄の色に沖浪は

 

海を見渡す部屋。卓上に葡萄が盛られている。それをくねる沖の浪の色と同質であると見たのである。

 

腰振って居る蟷螂へ老人力

 

プラス思考の流行語を使ってみた。積極的無抵抗。

 

とんぼ入れ替り話はとめどなや

 

路上、呼び止められて、あれこれと話。道端で、蜻蛉には止まり易い場所があるようだと思った。

 

縁側で切る爪飛んだ二日月

 

繊月。ぱちんと切った爪。

 

秋高く代数の雲幾何の雲

 

高い空は風があるのだろう。むっくり形を変える雲。その上方に線または面の雲。

 

秋の雲浮かず沈まず鴉声

 

浮いた声、沈んだ声、と言ってしまったらおしまいだがね。人声と鴉ごゑは似ているね。

 

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平成13年12月号

島春句自解

マンションの仮想図の街秋の風

 

新築高層マンションのチラシが入って来る。チラシの俯瞰した市街図の中に、あれこれを被覆した姿で未来の建築は聳え立っている。

 

柿の村昼間は天の抜けてをり

 

朝晩は、空が存在する村であるが、真昼時ともなる頃は、誰も空のことなどを意識してはいない。

 

膝坊さん揃へて柿の唾を吐く

 

子どもがいっぱい居たころ。ずらりと並んで坐って、齧った柿の皮や種をぺっぺっとしていた。

 

鶏鳴のあり旅中にて柿剥けば

 

以前に、チェジュのホテルで朝目覚めたときに、鶏鳴を聞いたような気がしたのを思い出す。窓を開けると異国の秋風があった。

 

登高ややをら林檎を丸かじり

 

重陽の日、高きに登る。しばらく山に遊ぶことがないが、頭の中で登ってみた。この日茱茰を酒に浮かべて飲むべしなのだが、代用させた。

 

観賞の菊いちいちに砂利が鳴る

 

端然たる菊の前に人が立つ。ややあって、次の人が立つ。その度のこと。

 

うそ寒や花無き花器のゆったりと

 

ずっしりと見える花器。花のないせいだからか。「うそ寒」は心情的。

 

ハロウィンの夜が明け月球が転げ

 

明け方、紅い大きな満月が地平近くにあった。今年の暦は相当していた。

 

さるすべり枯れ何やかや門の内

 

曲った滑沢な幹が見える。門から覗ける範囲である。何やかやドラマがあるものである。

 

柊が散るを朝湯に首ちぢめ

 

温泉旅館の庭に雪のように散り敷いていたのを思い出す。大きな幹が柊だと聞かされた。何やら繁盛記とかいうテレビドラマが評判だったころだ。

 

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