コルマール/ウンターリンデン美術館
Mus仔 d'Unterlinden/1 rue d'Unterlinden F-68000 Colmar/www.musee-unterlinden.com

 プティット・ヴニーズ(Petite Venise)近くのホテルから、アルザス特有の木組みの美しい街並みを抜けるとウンターリンデン美術館に着きます。この美術館の茶褐色の外観は、パリに多い石灰岩の白い美術館とはずいぶんと印象が違うものでした(左上の写真)。
 ここには、ショーンガウアーやデューラーの優れた版画(例えば、メランコリア)や、クラナッハなどもあるのですが、特に重要なのは、グリューネバルトのイーゼンハイム祭壇画です。
 その画面を、まず見てみましょう(右上)。これは、幾枚ものパネルによって構成されており、磔刑図の背後には復活の場面、イエスの誕生の場面などが描かれているのですが、私が、強く感銘を受けたのは、磔刑とピエタの場面です。そこには、次のように描かれています。
 イエスの体は、自分の体重により背骨の関節が伸びきれたように腹部が細く引き延ばされ、手足の関節もはずれてゆがんでいます。脇腹には剣で突かれた生々しい傷から血が流れ、体中には茨の刺さった跡の無数の傷が青黒く変色しています。すべての力を使い果たし、祈りも届かずに絶望的に死んでいったイエスの姿が、この上ないリアリズムで描かれています(左下)。イエスの足下では、マクダラのマリアが必死に祈ります。その声は雲の上にも届きそうな気がするぐらいの懸命さです。彼のこの死はすでに予言されていたために覚悟していたはずの聖母マリアも、今にも失神しそうなのを懸命にこらえています。下のパネルに目を移すと、十字架からおろされたイエスを、預言者ヨハネが支え、聖母マリアは血の涙を流しているようにも見えます。そして、マクダラのマリアはここでも懸命に祈り続けます(右下)。
 私は、この絵を2時間ほど見ていたのですが、目頭が熱くなり、涙をこらえることが出来ませんでした。他にも涙を拭いている人がいます。よく言われるように、グリューネバルトの癖のある筆遣いは決してうまいわけではなく、むしろ明暗の調子などにぎこちなさを感じますし、全体の印象は中世的な要素を残しているように感じます。しかし、この絵からは、表面的でない奥深いリアリティを感じるのです。中央パネルに描かれているのは、聖母マリア、預言者ヨハネ、マクダラののマリア、キリスト、洗礼者ヨハネなのですが、そうした宗教的な意味とは別に、一人の人間が必死の思いもかなわず力つきた姿が描かれ、それを目の前で苦しみながら徐々に死に至る過程を為すすべもなく見守るしかなかった母と恋人、その周囲にあった人々の絶望的な葛藤が、切実に表現されていると思えるからです。そして、キリストの磔刑図という宗教的なテーマを超え、すべての人間に区別なく訪れる「死」がテーマとなっているように感じるのです。ですから、この絵を見ると、身近に人の死を体験した人であれば、自分の体験とイエスの死とが重なり合い、強く心を揺さぶられるのだと思います。おそらく彼は、このような場面を幾度も見ていたのではないでしょうか。それは、磔刑と言うことではなく(そう言うこともあったのかも知れませんが)、突然の病に力つき死んでいく者を懸命に看護しながらも為すすべもなく見送らざるを得なかった人々のドラマを見て、このリアルな表現に到達したのではないかと想像するのです。そのために、描き方としては中世的な要素も感じるこの絵が、時代を超えたリアリズムを持ち得たのだと考ました。
 かつて、「死」はごく身近な存在であり、そのことを思うことによって今を大切に生きることを学んだように思います。しかし、現代の私たちの周りからは、かつてはごく身近であった「死」が、病院での隔離された空間に置き換えられ、つまり、日常生活の場である住み慣れた家から隔離されることによって、多くの人々の意識から遠くなってしまったように思います。私は、多くの「死」を身近に体験したり、自分の「死」についても意識せざるを得なかったのですが、この作品は、そうした記憶を鮮明に蘇らせてくれるものでした。そして、死というテーマほど、時代を超えた普遍性を持っているものは、他にはないと、改めて思うと同時に、死をどの様に乗り越えるのか、ということが、常に人間に科せられた課題なのだと思いました。


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