黒船に密航を企てた弁天島より望む海

吉田松陰は、金子重輔と偽名の「投夷書」(とういしょ)その要旨は【我々2人は、今から世界の国々を周遊せんと欲す。しかしながら、我が国は鎖国いまだ除かれず、この事が伝播すれば斬首に至ることは疑いない。我らは粗暴なれども実に誠確なり、その情を察し憐れみ、拒むことをなすなかれ】を用意していた。

安政元年(1954)3月5日江戸を出発、保土ヶ谷から黒船を追いかけながら浦賀・鎌倉・小田原・熱海・伊東をへて3月18日伊豆下田に着き岡方屋(現在の下田屋旅館)に泊まった。

このころ松陰は皮膚病(疥癬)を患っていたこともあって約5キロメートル奥の蓮台寺温泉の医師村山行馬郎方の二階八畳間に隠れ内湯にはいり、岡方屋へも行きながら様子を探っていた。

 下田屋旅館(当時の岡方屋)  下田港(下田聚楽ホテルより)   村山行馬郎邸・現存

平成11年2月7日撮影

 弁 天 島

    伊豆急下田駅より徒歩約25分

     松陰・重輔の碑    2人が隠れていた弁天社    同じく隠れていた洞穴

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3月27日柿崎村で散歩している三人のメリケン士官に近づき、周囲を気にしながら「投夷書」と別の書を渡した。そして口外しないで欲しいというふうに口に指をあてて去った。

その夜、弁天社に潜み潮が満るのを待って午前2時頃になって小舟に乗り、ふんどしにて櫓を縛りミシシッピー号に漕ぎ寄せ声をかけたが、彼らは次の「ポーハタン号」を指し叫んだ。やむなくポーハタン号に近づき、夷人は驚きわが舟をつき離すが、梯子段に飛び乗り乗艦した。ところが下田の与力「黒川嘉平衛」の許可がないと駄目だとメリケンの大将ハリスは言っているから早く帰れと言われた。我々は幕府の法を犯したから帰ると殺されると訴えたが意を汲んで貰えなかった。

この時ハリスも二人の手紙を読んでいたが、調印を漕ぎつけた手前、日本の国法を犯してまで幕府の機嫌を損なうことは出来なかった。

小舟には、大小や日記まで載っていたが、乗船する時流されてしまったので、メリケンのボートで岸まで送り返された。松陰は証拠品が漂着する前に、夜明けを待ってすすんで自首した。そして、伝馬町の獄舎に檻送された。この頃、次の一首を詠んだ。

 

    

三島神社内の松陰像(有志の浄財による 昭和17年建設)  松陰・重輔の像 弁天島公園