新 選 組 の 池 田 屋 騒 動

現在の池田屋跡

  テロ行為で「御所に放火し、守護職松平容保(かたもり)を殺害し、天皇を長州に移す」計画をしていた過激な尊攘派志士たちは、池田屋事件で阻止された。

  元治元年(1864)6月5日夜に、旅宿池田屋を新選組が襲撃し、武力蜂起を企てていた尊攘派浪士12人を殺害し、20余名を捕縛した事件で、一躍新選組が有名になった。この事件で土佐人9人が殺害されている。この件 には、龍馬も中岡も多少関係していたといわれる。中岡は事件の中心人物古高俊太郎と交流していた。龍馬は6月2日に中岡は5月中旬に京都を離れていた。

  

新選組の最初の壬生屯所(みぶ)の八木邸と当時を偲ぶ裏庭

  新選組は、この屯所に計13名、近藤局長派8名、芹沢鴨局長派5名で、それぞれ別棟に分かれて生活した。(近藤派は写真の手前の右手前川荘司宅、当時の建物は現存しない。芹沢派は写真門の奥の右手八木源之丞宅、建物は当時のまま残されている。庭の写真もその庭)  両派は日頃反目していた。芹沢派の毎夜の京都市内での乱行ぶりは目に余るものがあった。当時新選組には金はほとんどなかった。近藤は、守護職の方より芹沢鴨を斬れとの命を受けていた。文久3年(1863)9月18日夜、角屋(すみや)で隊士の宴がもたれた。泥酔の芹沢らが八木邸に戻り、呉服屋の借金取りに来て、芹沢と懇ろになったお梅が泊まった。同室には、平山五郎も遊女といた。同夜、寝入っているところを土方・沖田らが襲い、2女性とも殺害された。その時、沖田は芹沢に顔を斬られたという。その他の隊士は闇の中へ逃げていった。その時の刀の傷が6畳間の鴨居に残っている。  表向きは賊に襲われたとして、葬儀も新選組が行った。八木邸(郷士の家)に新選組は1年7カ月いて出て行くときに、土方がたったの5両置いて行ったという。

  その後の近藤局長らは、鳥羽・伏見の戦いで敗れ、江戸に戻り、勝海舟より甲府に出撃を命じられ敗退し、流山にて近藤は自首を決意し、龍馬の殺害を詰問され、龍馬の殺害は新選組ではないと否定したが、板橋で斬首された。首は塩漬けにされ京都でさらし首となった。副局長土方は、函館五稜郭で最後の突撃をし、壮絶な死を遂げている。     

  

八木邸の隣の壬生寺内の近藤勇の像と隣の芹沢鴨と平山五郎の墓

  

       角屋(すみや)の正面           久坂玄瑞が角屋を密談に利用した碑
                   JR丹波口駅より徒歩8分

  この地は、「島原」といわれて料亭角屋は、江戸期の饗宴の場として、昭和27年に国の重要文化財に指定された。当時のままに残っていて、当時の釜戸や台所、主庭の松、新選組の刀の傷跡も柱に残っている。所蔵美術品では、蕪村筆「紅白梅図屏風」が重要文化財に指定されている。

  龍馬は、新選組の探索のため、菊屋峰吉を団子売り、ある時は角屋の仲居安藤てるには洗濯女に化けさせ、屯所にもぐりこませて情報収集した。

京都御所 蛤御門(当時の弾の跡がある)

  元治元年(1864)7月19日 前年、京都御所から追われた長州藩尊攘派らは、池田屋事件で激昂し武力をもって入京した。長州藩主と五卿の赦免の嘆願書を提出したが、公武合体派は反発したため、長州勢は宣戦布告したが、会津藩・薩摩藩が蛤御門で長州勢を撃破した。蛤御門の変(禁門の変)である。薩摩藩では、西郷隆盛が活躍し有名になった。長州勢の久坂玄瑞は敗退の責任をとって、同士寺島忠三郎と刺し違えて自決した。享年25歳。この変により龍馬・中岡は長州藩と薩摩藩の和解に乗り出した。また、この変に神戸海軍操練所に関係した長州藩人がいたことにより、勝海舟が軍艦奉行職を罷免される。龍馬は、この時の神戸海軍操練所を創設した勝海舟の勝塾の塾頭であった。

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