広島平和記念公園

現在の平和記念公園一帯(中島地区)は、江戸時代から陸海の交通の要衝として栄え、また、明治には市庁舎、県庁舎のほか、
広島の物流の拠点となるなど、政治・行政・商業の中心でした。

被爆当時、この地区7町の住民は、合計で6,500人と推定されています。
1945(昭和20)年8月6日、人類史上初めて投下された原子爆弾は、この地区の頭上で炸裂し、地区の住民はもとより、
当時この付近で建物疎開作業に従事していた多くの国民義勇隊や動員学徒が非業の死を遂げ、街並みも一瞬のうちに消え去りました。

1949(昭和24)年8月6日の「広島平和記念都市建設法」の制定にともない、この地区一帯は平和記念施設として整備されることとなり、
1954(昭和29)年4月1日に完成し現在の平和記念公園に生まれかわりました。

公園面積約122,100平方メートル(約37,000坪)。設計は丹下健三東大教授(当時)ほか3名の共同作品で、設計競技による145点の中から入選したものです。

原爆ドーム

昭和20年8月6日、史上はじめての原子爆弾によって破壊された旧広島県産業奨励館の残骸である。
 爆弾はこの建物のほぼ直上約600メートルの空中で爆発した。
その1個の爆弾によって20万をこえる人々の生命が失なわれ半径約2キロメートルに及ぶ市街地が廃墟と化した。
 この悲痛な事実を後世に伝え人類の戒めとするため、国の内外の平和を願う多数の人々の寄金によって補強工事を施し、これを永久に保存する。
                         
                                             昭和42年8月6日 広島市

これは原爆ドームの北西に建造された保存記念碑の全文です。

原爆ドームは、もと広島県産業奨励館といわれた4階建てのモダンな建物で、1915(大正4年8月5日に開館しました。
丸い緑青をおびた銅板葺きの屋根、玄関を入ると吹き抜けの天井が高く広がり、壁面にそって螺旋状に階段がつけられたとても印象的な建物でした。

 あの歴史的な一瞬、1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、この超モダンな建物は、そこで働いていた120人の人々と運命を共にしました。
爆心点のほとんど直下にあったため、倒壊をまぬがれ、ドームの鉄枠とともに象徴的な姿をさらしました。
周囲の街並が次々と復興されていく中で、鉄骨ドームの特色ある姿は被爆当時のありさまをそのまま残し、
その形からいつしか「原爆ドーム」と呼ばれるようになりました。

 ボロボロとレンガや壁が崩れ落ち、風化がすすむなかで、保存か撤去かの議論が繰り返されました。
1963(昭和41)年、保存が決定し、目標額4,000万円をはるかに越えた6,830万円もの募金が集まり、これまで二度の永久保存工事 が行われました。

人類史上最初の原子爆弾による被爆の惨禍を伝える歴史の証人として、また、核兵器廃絶と恒久平和を求める誓いのシンボルとして
1996(平成 8)年 12 月「世界遺産条約 」に基づきユネスコの世界遺産に登録されました。

  

原爆死没者慰霊碑

建立年月日 1952(昭和 27)年 8 月 6 日

世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を、平和都市として再建することを念願して建立された。
東京大学教授(当時)・丹下健三さんが設計したものです。
原爆犠牲者の霊を雨露から守りたいという気持ちから、屋根の部分が埴輪の家型をしています。
碑には、
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という碑文がきざまれており、
中央の石室には、国内外を問わず、亡くなった原爆被爆者の名前を記帳した原爆死没者名簿が納められています。
名簿は関係者の申し出により書き加えられ、2002(平成 14)年 8 月 6 日現在で、79冊(226,870 人)になっています。

原爆の子の像

建立年月日 1958(昭和 33)年 5 月 5 日
             建立者 広島平和をきずく児童・生徒の会             
                                           制作者    菊池一雄(元東京芸術大学教授)                                        
三脚のドーム型の台座の頂上に金色の折り鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像が立ち、左右には明るい未来と希望を象徴する少年少女の像があります。
像の下におかれた石碑には、
「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」という碑文が刻まれています。
塔の内部には、子どもたちの気持ちに感動したノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹博士が寄贈した古代の銅鐸を模した鐘と金色の鶴がつるされ、
風鈴式に音が出るようになっています。現在この鐘と鶴は、広島平和記念資料館東館1階ロビーに展示されています。

原爆投下後、10年もたった1955年の秋、佐々木禎子さん(12歳、幟町中1年生)が亜急性リンパ腺白血病と闘い、死んでいきました。
禎子さんは入院中に、全快を祈って「千羽鶴」を折りつづけていましたが、とうとうその願いはかないませんでした。
その死に衝撃を受けた同級生たちが、「原爆で亡くなったすべての子どもたちのために慰霊碑をつくろう」と全国へ呼びかけ、
全国 3,100 校余りの生徒と、イギリスをはじめ世界9か国からの支援により、完成したのが、高さ 9 メートルのこのブロンズ像です。

平和の鐘

建立年月日 1964(昭和 39)9 月 20 日
  核兵器と戦争のない世界の達成をめざし、その精神文化運動のシンボルとして、原爆被災者広島悲願結晶の会が建立。
鐘作 りの重要無形文化財保持者人間国宝、故香取正彦さんの作品で、表面には「世界は一つ」を象徴する、国境のない世界地図が浮き彫りにされています。
撞座は、原水爆禁止の思いをこめて原子力マークにし、その反対側には、つく人の己の心を写し出す鏡が入れられています。


 


広島平和記念資料館

  
昭和24年 (1949年) に実施された懸賞募集で一等入選した丹下健三ら4名の案により、丹下健三が実施設計したもので、同26年2月に着工、同30年8月24日開館した。
 東西約82m、南北約18mの2階建一部3階である。建築面積 1,351.06 平方メートルの鉄筋コンクリート造で、
特異な断面形状を持つ柱10本を弓形に二列配置し、2階の南北面には繊細な縦ルーバーを建て込み、日本的性格を付与している。
前の広場には「嵐の中の母子像」や「平和の泉」と名付けられた大噴水がある。
被爆者の遺品や被爆の惨状を示す写真や資料を収集・展示するとともに、広島の被爆前後の歩みや核時代の状況などについて紹介している。

嵐の中の母子像

建立年月日 1960(昭和 35)年 8 月 5 日       
襲いかかる業苦に耐え、悲しみを乗り越 ていく母親の強い愛情を示す像に市民の平和への願いを託しています。
札幌出身の彫刻家で、「わだつみの像」をはじめ、人間愛に満ちた多くのモニュメントを残している本郷 新さんの作品。
1959(昭和 34)年、第5回原水爆禁止世界大会が開かれた折、原水爆禁止日本協議会から当時の浜井広島市長に、
原水爆禁止運動推進への感謝のしるしとして、この像の原型となった石膏像が贈 られた。
その後、この大会の成功のために尽力した、広島市婦人会連合会が「平和記念公園への設置」を呼びかけ、
ブロンズ像にするための募金活動を行い建立され、広島市に寄贈されたものです。