さいはての宗谷岬

宗谷海峡のわずか 43q 先にはサハリン(樺太)の島影が望める国境の岬。

岬には、かってこの岬から樺太に渡った間宮林蔵の立像、日本最北端の地の碑、宗谷岬音楽碑などがある。
丘の上には、大韓航空機事故犠牲者慰霊のために建立された祈りの塔などがある。


日本最北端の地の碑

宗谷岬の突端に位置し、日本のてっぺんにたてられてる北極星を型どったモニュメント。
碑の中央のNは北を、円形の台座は平和と協調を表現している。

歩道の新設、駐車場やハマナス花壇などが
整備され、観光客の絶好の撮影ポイント。

日本最北端

宗谷岬
9時45分
日本最北端
気温  4.0℃
北緯45度31分14秒
平成16年4月23日

日本最北の郵便局

ここで投函すると最北郵便局の消印がおされます。

この付近には ”日本最北のガソリンスタンド” とか
”日本最北のすしや”などなど
日本最北を歌ったものが目立つ。


間宮林蔵の立像

サハリンが島であることを発見した偉業をたたえ、併せて時代を担う青少年に世界へ羽ばたく夢と勇気を培ってもらう願いで、林蔵の 生誕200年に当たる昭和55年7月に建立されたブロンズ像。
像は2mで実物より2割ほどおおきい。

間宮林蔵は、日本人でただ一人「間宮海峡」で世界地図にその名をとどめた探検家で、文化5年(1808)の樺太探検の出発地がこの岬。

林蔵が渡樺の決意を秘め、遙か樺太を望見している立像で、裁付袴に羽織、足袋、2本差しと、肩には伊能忠敬から譲られたという海上計測用の”縄索”をかけている。


宗谷丘陵展望休憩施設
(ゲストハウス・アルメリア)

岬の背後に広がる1万ヘクタールに及ぶ丘陵地帯は
氷河時代の名残です。

サハリンを見下ろす丘に風車が目印の「宗谷丘陵展望休憩施設」に併設されたレストランでは、
宗谷海峡のブルーと牧草のグリーンで彩られた最高の眺めを眼下に据えてオリジナルブランド「宗谷黒牛」や
北海の幸を楽しめます。

宗谷岬音楽碑

ダ・カーポ、ボニージャックス、千葉紘子、芹洋子さんなどの歌手によりレコード化され、また、NHKの「みんなの歌」でも全国に紹介された郷土の歌”宗谷岬”の音楽碑。

碑は黒御影石に”宗谷岬”の歌詞と楽譜を刻んだもので昭和55年11月に建立された。
また、平成14年には「宗谷岬」誕生30周年を記念して
「30周年記念音楽碑」
がたてられ、碑の前に立つとメロディーが流れる。

宗谷岬灯台

岬の突端から南へ 120mの高台にある紅白のツートンカラーが鮮やかな灯台。
納沙布岬(根室)、日和山(小樽)についで3番目にたてられ明治18年9月25日に初点灯。当時は石油を光源に使用していた。

灯台の高さ17m、海抜40mの位置にあり、白い光は約32qで宗谷海峡を航行する船舶の重要な目標。
また、この灯台には霧信号所、無線方位信号所が併設されていて、視界の悪い日は霧笛をならしたり、灯台の光の届かない遠距離で航行している船舶のため、1日中電波を発信して宗谷の方向を知らせます。


あけぼの像

北海道の牛乳生産量 100万トンを突破と、飼育乳牛 50万頭突破を記念して昭和46年7月に建設。
牧さくをかたどった台座の上に、野良着姿の男女が南に果てしなく広がる宗谷丘陵を見つめながら立っている
ブロンズ像で

”天北酪農の夜明け”

を象徴している。


旧海軍望楼

帝政ロシアとの国交が悪化し始めた明治35年に旧帝国海軍が、当時世界最強といわれたバルチック艦隊の通過を環視するために建設した。
日露戦争の終結とともに望楼に使命は終わったが、その後も、大正9年沿海州で起きた尼港事件では無線通信基地として、太平洋戦争だは対潜水艦環視基地として使用された。

稚内市にある明治年代で現存する唯一の建築物で、
昭和43年12月、市の有形文化財に指定された。

するために

祈りの塔

昭和58年9月1日未明、世界を震撼させた「大韓航空機撃墜事件」が目前のサハリン西海岸でおきた。
2周忌にあたる昭和60年9月1日に、遭難者の慰霊と世界の恒久平和を願い、遺族会の資金と稚内市をはじめとする全国からの浄財をもとに、サハリンを望む宗谷岬の高台に建立された。

鶴が大きく羽を広げ、大空に羽ばたく姿を表現し、
19.83mの高さは事故発生の年を、
16枚の羽は犠牲者の母国数を、
269枚の白御影石は犠牲者の数を示す。

平和の碑と宗谷海峡海軍戦没者慰霊碑

「平和の碑」は、太平洋戦争中の昭和18年10月、宗谷岬沖で日本海軍により撃沈されたアメリカ海軍潜水艦「ワフー号」の乗組員80名と、この潜水艦によって日本海で沈められた日本商船5隻の犠牲者690名を慰霊するため戦後50年にあたる平成7年9月に日米合同で建立された。平和を願う両国民の気持ちが込められている。

「海軍戦没者慰霊碑」は、望楼防衛隊を含む宗谷防備に当たって殉職した人々の鎮魂のためたてられた。
特に、昭和20年7月、米潜水艦の魚雷攻撃を受けた稚泊航路連絡船「宗谷丸」を守るため、身代わりとなって爆沈した望楼防備隊所属の「第12号海防艦」の乗組員152名の霊を慰めるため、旧防備隊隊員から寄せられた浄財 250万円で、昭和55年9月に建立された。ここにも”再び戦争繰り返すまじ”
の祈りがこめられている。