稚 内 公 園

宗谷海峡の向こうに遠くサハリンの島影を望む日本最北の地「稚内」。
戦前樺太(現在のサハリン)への交通の要衡として発展し、大正15年には天北線や宗谷本線が開通し
稚内港から樺太への鉄道連絡船も運航していた。
現在、市内のあちらこちらで目にする記念碑は、当時の繁栄と、国境の街であるが故の悲劇の歴史を語るようにたたずんでいる。

    人口      42173人(Mar.2004)
    
アクセス    JR       (函館本線、宗谷本線経由で札幌から特急列車で5時間半)   
            AIR      (羽田から直行便で約2時間、新千歳空港から約1時間)

            
都市間長距離バス (札幌から道央自動車道留萌経由で約6時間、旭川からのバスもある)

稚内公園は、海抜170m、市街地背後の小高い丘に広がる眺望のよい公園で、晴れた日には遠くサハリンまで望み目の前には利尻島、礼文島が見える

ホテル客室から開基百年記念塔を望む。開基百年を記念して、昭和53年7月、海抜170mの丘陵上に、地上80mの高さの鉄筋コンクリート中空型の記念塔を建設。
展望台からの360度の大パノラマは圧巻。

右下に風力発電の風車が見える。オホーツク海と日本海から吹き付ける風が激しいので至る所に設置されている。

利尻・礼文航路のフェリータ−ミナルに連接して建つ
稚内全日空ホテル。
 

ホテル客室からみた沈む夕日。 

時間

稚内公園から宗谷海峡を望む。わずか50q先は異国の地サハリン。

南は南極点まで15044q、東はホノルル・・・ 

観光シーズンは5月から。4月下旬でも日陰には残雪が見られ観光施設はまだ開いてない。

氷雪の門

帰らぬ樺太への望郷の念と、かの地で没した幾多の同胞の霊を慰めるため、昭和38年8月全国からの浄財によって建立。
碑には「人々はこの地から樺太に渡り、樺太からここに帰った。戦後は、その門もかたく鎖され・・」と。
氷と雪の中で、厳しく生き抜いた人々を象徴する女人像、望郷の門、霊石を三位一体とする彫刻家本郷新先生の高さ8mの力作。

なぜかこの付近の公衆トイレにはモザイクガラスが張られている。4月末でもオフシーズンなのでほとんどのトイレは封印されていて使えない。


昭和天皇行幸啓記念碑

昭和43年9月、開道百年記念式典にご臨席の昭和天皇・皇后陛下の行幸を記念して建立。

樺太に散った九人の乙女の悲話を詠まれた御製・御歌が刻まれている。昭和44年8月除幕。

九人の乙女の碑

昭和20年8月20日、ソ連軍が樺太真岡に上陸し日本軍との間に戦いが始まった。戦火と化した真岡の町で、死を以て交換台を守り職に殉じた九人の乙女の記念碑。

窓越しに見る砲弾の炸裂、刻々迫る身の危険、今はこれまでと死の交換台に向かい

『皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら・・・・・』

の言葉を残し、静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。

南極観測樺太犬訓練記念碑

昭和32年、国際地球観測年を機に日本が初めて南極観測に参加した。局地での物資輸送を目的に”犬ぞり隊”が編成された。主役は稚内周辺から集められた樺太犬で、8ヶ月間ここの公園で厳しい訓練を受けた。
南極観測船「宗谷」で白い大陸にわたり任務を全うした。

南極の悪天候を克服できず、15頭の樺太犬を現地に置き去りにして死ぬという悲劇があったが、昭和34年1月、第3次越冬隊がタロ、ジロの奇跡的な生存を確認。
稚内市が樺太犬の功績をたたえて制作し、
昭和37年7月除幕。

樺太犬供養塔

白い南極大陸で命を落とした15頭の”犬そり隊”の霊を慰めるための慰霊碑で、訓練所跡地に昭和36年10月建立。観測隊がケルンを作り、それを道標として雪原を前進したことから、三角のケルンに秩父硬石が張り巡らされています。

教学之碑

終戦で昭和20年歴史を閉じた樺太師範学校の記念碑。

樺太島を望むこの地に、母校の永遠と不滅を願い
平成1年7月建立。

『郭公や樺太島は遠い夢』