会津、大内宿、塔のへつり(第3日目)

第3日目は裏磐梯から飯森山、会津鶴ヶ城公園、大内宿、塔のへつりをへて新白河駅まで約135qの移動です。
途中渋川問屋で会津郷土料理の昼食です。

檜原湖

裏磐梯とスキーゲレンデ

東日本大震災会津若松市仮設住宅

会津若松飯盛山

山中に白虎隊の墓がある。昔は正栄寺や宇賀神社、さざえ堂などのある景勝地として知られていた。
明治 17年に自刃 19 士の墓が建ち、その後、戦死 31 士の墓が追加された。
昭和 3 年ローマから記念碑が送られ、昭和 10 年には駐日ドイツ大使館付武官によって石碑が建てられた。
また松平容保の歌碑を始め、数多くの石碑が建てられている。昭和 32 年には蘇生者飯沼貞吉の墓も設けられ、山下には白虎隊記念館も建設された。

飯盛山参拝への入り口に185段の階段が待ち構えております。上まで登りきる途中で振り返ると会津平野が一望できます。
階段を登る自信がない方は横のスロープコンベアーを利用すれば山の中腹まで楽に登ることが出来ます!

飯盛山参道入り口

参道前お土産店

飯盛山本参道

楽ちん ! ! スロープコンベア

スロープコンベア

一踏ん張り 最後の45段

下山道分岐点

左に行けば上ってきた階段、右に行けば階段の無いゆるやかな下り坂でさざえ堂や厳島神社につながっております。
後ろに行けば45段の階段を上り白虎隊十九士の墓前につながります。
このポイントから会津を一望することが出来、また鶴ヶ城を見ることができます。
戸の口堰の洞門をくぐり飯盛山に辿り着いた白虎隊士はどんな気持ちで鶴ヶ城の天守閣の黒煙を見たのでしょうか。

有名な白虎隊の詩吟に
「南鶴ヶ城を望めば 砲煙あがる…」
とあり、炎上する鶴ヶ城を望み見て、白虎隊は全員自刃した。(内1名は奇跡的に蘇生している)
しかし実はこの時、城は燃えておらず、新政府軍の放つ砲火と煙に落城≠ニ思い込んでしまった。

ローマ碑

白虎隊士の精神に深い感銘を受けたローマ市から昭和3年に贈られた記念碑
この碑の円柱は赤花崗で、ベスビアス火山の噴火で埋没した、ポンペイの廃墟から発掘した古代宮殿の柱だそうです。
基石表面にイタリア語で「文明の母たるローマは白虎隊勇志の遺烈に、不朽の敬意を捧げんが為め、
古代ローマの権威を表すファシスタ党章の飾り永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る」
裏面に「武士道の精神に捧ぐ」と刻まれてあったが第2次世界大戦後占領軍の命により削り取られた。

下山道分岐点

会津平野と鶴ヶ城

ローマ碑と剣舞

白虎隊十九士の墓前

1868年の戊辰戦争において飯盛山で自刃した十九士の墓です。八月二十三日(新暦十月八日)
自刃した隊士の遺骸は、西軍により手をつけることを禁じられていました。約三ヶ月後村人により、密かに
この近くの妙国寺に運ばれ仮埋葬され、その後この自刃地に改葬されました。現在の形に十九士の墓が建て
られたのは明治二十三年で、二度にわたり墓域が拡張されました。
右側には、会津の各地で戦い亡くなった白虎隊士三十一名の墓があり、左側には白虎隊士と同じ年齢で県内各地及び新潟・栃木・京都で戦い、戦
士した会津藩少年武士(白虎隊の仲間達)の慰霊碑があります。
今も白虎隊の墓前は香煙の絶えることはない。

宇賀神社

この堂は1661〜1672年に会津藩三代藩主松平正容が宇賀神を勧請し弁財天像を神像として社殿を建立した事が始まりです。
社殿は桁行3間、梁間2間、入母屋、銅板葺きの建物で中には戊辰戦争で飯盛山で自刃した白虎隊19士の霊像が安置しています。
上を見上げると飯沼貞雄さんの話を元に描かれた、白虎隊の自刃の時のイメージ画が飾られてあります。

さざえ堂

戸ノ口堰洞門の近くにあり、1796年、実相寺の僧郁堂により建立されたといわれる仏堂です。
六稜三層の形がさざえに似ていることからこの名で親しまれています。
堂内に入ると、上り下りするためのらせん階段があり、参拝者は一度も対向する他の人に出会うことなく、また一度も同じ道を通ることなく、
一方通行で堂内を参ることができるという世界的にも珍しい建物です。
平成8年6月には、当時の庶民文化を語る貴重な歴史的資料として国の重要文化財に指定されました。

白虎隊引上げの洞穴

猪苗代湖北西岸の戸の口から会津盆地へ水を引く用水堰で全長31q。
戊辰戦争時、戸の口原で敗れた白虎隊士中二番隊20名が1868年8/23、城の安否を確認するために通過した洞穴です。

戸ノ口堰

洞穴

大夫桜

飯盛山の白虎隊記念館の傍らに咲くエドヒガン桜で石部桜と共に会津の二大老樹の一つとされています。
1626年、蒲生忠郷公在城の頃、若松城下の掘江町にいたいつき太夫と云う名妓が、花見のおり、この辺で兇徒のために殺害されました。
弟の南秀という滝沢南岳院の法師がこれを大変悲しみ、霊を弔うために墓側に植えられた桜で、現在の樹は二代目と伝えられている。

民芸の館 松良

飯盛山参道入口まで徒歩30秒の場所にある、お土産品販売・食事・喫茶などが出来るお店です。(駐車場完備)
飯盛山の案内や白虎隊剣舞のサービスもあります。

飯盛山の山中にある。明

会津若松市のシンボル鶴ヶ城

会津若松市では、平成25年1月12日から平成26年1月14日まで,,大河ドラマ「八重の桜」の放送に合わせ
「ハンサムウーマン八重と会津博」と題して
市内の様々な施設で企画展示や関連イベントがおこなわれています。

市内は今桜が満開です。

会津鶴ヶ城公園

攻不落の名城とうたわれた鶴ヶ城は、戊辰の戦役で新政府軍の猛攻の前に籠城一ヵ月、城は落ちなかったが明治7年に取り壊されました。
たくさんの方々の寄付により昭和40年に幕末の姿であった5層の天守閣に復元された。
平成13年には南走長屋と干飯櫓が復元、平成23年には赤瓦葺替修繕工事が完了し、幕末の鶴ヶ城の姿に生まれ変わりました。
天守閣内は博物館として貴重な資料を展示公開しております。また 城の周りに広がる公園は石垣や桜が美しく、市民にも人気の高いスポットとなっています。

鶴ヶ城歴代城主の家紋と会津若松市観光キャラクター「お城(シロ)ポくん

鉄(くろがね)門

鉄門は帯郭から本丸へ通じる表門で、柱や扉は全て鉄で覆われ、この名がつきました。
加藤明成の大改修によって造られた門で、左右の石垣は化粧たがねが入れられ、切込ハギと呼ばれる工法で見事に築かれております。
会津戦争では、建物が頑丈であり、大砲の死角になったことから、鉄門内で作戦会議が開かれたそうです。
1965年に復元されました。

「荒城の月」の碑

「荒城の月」は土井晩翠が作詞し瀧廉太郎が作曲した歌曲。
土井晩翠が詞を構想したとされる宮城県仙台市の青葉城址、同じく福島県会津若松市の鶴ヶ城址、
また、当時、リンゴ狩りに訪れた際に立ち寄った岩手県二戸市の九戸城址、
そして瀧廉太郎が曲を構想したとされる大分県竹田市の岡城址、同じく富山県富山市富山城西側にそれぞれ歌碑が設置されている。

千家ゆかりのお茶室「麟閣」

天正19年、千利休は豊臣秀吉の怒りを買い死を命じられた。
秀吉の怒りが千家一族に及び利休の茶道が絶えるのを惜しんだ会津城主「蒲生氏郷」が利休の子少庵を会津にかくまい、千家の再興を願いでた。
この恩義に報い少庵が建てたと伝えられている。その後少庵は許され、京都へ帰り千家を再興することができた。

遊女石

推定7.5トン、城内最大の石材だそうです。美しい遊女を乗せ勢いをつけて石を運んだとも伝えられています。

武者走

太鼓門の上に兵を昇降させるための石垣で、左右両側に階段があり登りと降りが決められています。
武士は刀を持っているので上り下りの時に邪魔にならないように、向かって右側から登って左側から降りていたそうです。

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渋川問屋

120 年以上もの歴史をもつ元海産物問屋、現在は11 室の客室を持つ老舗高級旅館で、お座敷では会津地方の郷土料理を
いただくことができる。
店舗の町屋は明治時代に建てられたもので、外からではわからない広い敷地内には、明治から昭和初期までの古い建物が建ち並び、
中庭を取り囲むようにめぐる回廊は当時の面影を偲ばせます。

渋川問屋の4代目を継ぐはずだった渋川善助は、昭和11年の二・二六事件に加わった唯一の民間人で、昭和11年7月12日処刑された。
渋川善助が少年時代を過ごした部屋は、作家の三島由紀夫が
「憂国の間」と名付け今でも保存されている。

町屋風店舗

中庭と回廊

趣のある入り口


趣きのある戸をくぐると、レトロで重厚な内装が目に入ります。さながらタイムスリップしたような気分を味わえます。

蔵造りのロビーサロン

玄関左手にあるロマネスク調の洋風な喫茶レストラン「開化亭」
豪壮な歴史的建物で味わう会津の地で長く受け継がれている郷土料理は格別!

ロマネスク調の洋風喫茶レストラン

「開花亭」

郷土料理「お祭り御膳」

会津地方は内陸のため保存の利く「ニシン」、「棒たら」、「貝柱」などの干物を使った郷土料理が多い。
昼食は代表的な郷土料理を一気に楽しめる
『祭り御膳』です。

ニシンの山椒漬け
防腐剤代わりの山椒が風味豊かでニシンに良く合います。

ニシンの昆布巻き
少し甘めの味付けです。

棒たら煮
甘辛く炊かれお正月のおせち料理にも登場するそうです。

椀物こづゆ
貝柱の戻し汁でだしをとる旨みの凝縮された贅沢な汁物で、冠婚葬祭などの席では欠かせない行事食。具は貝柱、里芋、人参、きくらげ、椎茸、シラタキ、豆麩の7 種類。縁起にちなんで奇数の具材を使います。          独特の平たい塗りの腕に盛られていて、量が少ないが、“何杯おかわりしてもいい”というおもてなしの習慣があるそうです。                    

揚げ物
ピーマン、かぼちゃ、ニシンの天ぷら

ご飯
会津産のコシヒカリは新潟魚沼産と同等格の特 A クラス

そば粒がゆ
プツプツの食感がなんとも面白い。

牛肉の塩焼き
幻の献上牛 会津塩川牛

デザート
オレンジ1/6カット。スプーンが会津塗じゃなく新潟の燕市のものだった。

「開花亭」の内装

大内宿

大内宿は、会津城下と下野の国(日光今市)を結ぶ32里の区間の中で会津から2番目の宿駅として1640年ごろに整備された宿場町です。
昭和56年4月18日、国選定重要伝統的建造物群保存地区に指定された。

日光街道の両脇には堀の水が流れ、約50軒の萱葺き民家が建ち並び、いまにも参勤交代の大名らが通りそうな雰囲気だ。
南山通り・下野街道・日光街道・会津西街道とも呼ばれる。
約120万人の観光客が訪れるようになった今は殆どの家がお土産店または蕎麦屋等の店へと変わり、
農業から観光産業へと完全に切り替わっている。

宿場町の突き当りからさらに奥へ、急な階段を役50段ほど上った先の子安観音堂前の展望台は
大内宿を上から眺められる観光スポットです。こんな感じで見下ろせます。

道の両側に水路があり山からの透き通った冷たい清水が流れ、小さな水車が回っている。
川の水でジュースが冷え冷え !!
「料金は箱に入れて下さい!」 実にのどかです。

oo「大内宿の由来」
平清盛の全盛期、反平氏の挙兵をし、戦いに敗れた高倉皇子(後白河法皇第2皇子)が、越後国小国の頼之を頼って逃亡する途中、
当時の山本村(現在の大内宿)に逗留し

「高峰の風吹き戻す山本にこころとどめし道しるべして」

と詠い、この里が宮中の大内(だいり)によく似ているため大内と改めたとのいわれがある。
村の鎮守の高倉神社で毎年7月2日、古式豊かに行われる「大内半夏まつり」は高倉宮ゆかりの祭りです。

ようこそ大内宿へ

大内宿町並み展示館由来

火の見櫓と日光街道

軒にはマメコバチの巣筒(美濃屋)

山田屋

浅沼食堂(扇屋分家)

手前から扇屋分家、南仙院本家、よろづや

吊るし雛みたいな土産物

手前から扇屋分家、南仙院本家、萬屋、伊勢屋

ラーメン食べようか

一休み

新富士屋

塔のへつり

福島県南会津郡下郷町にある景勝地。河食地形の奇形を呈する好例として、1943年に国の天然記念物に指定されている。
「へつり」とは会津方言で、川に迫った険しい断崖のこと。
塔の形をした急な崖という意味から『塔のへつり』と名付けられたという。

全長200mにわたって、大規模な奇岩が整列している。
凝灰岩質の地層は数百〜数千万年前にできたもので、塔のへつりの形成は12〜13万年前頃から行われてきたものだと推定されている。
10の塔にはそれぞれ形状によって名前が付けられている。
左から烏帽子岩、護摩塔岩、象塔岩、尾形塔岩、九輪塔岩、櫓塔岩、屋形塔岩、獅子塔岩、鷹塔岩、鷲塔岩

これらの岩を巡るように通路が彫られているが、経年による崩落等のため、藤見橋(吊橋)を渡している舞台岩周辺以外は立ち入り禁止となっている。

大川(阿賀川)と屏風岩

烏帽子岩

土俵岩(左)

案内板

岩のイラスト

舞台岩、藤見橋、土俵岩と大川

記念撮影

早春

記念撮影

3日間の旅も終わり東北新幹線やまびこ218号で新白河駅から帰路につきます。