←最初の目次

Nishida Kitarô, lecteur de Henri Bergson
Michel Dalissier

ベルクソンの読者としての西田幾多郎
ミシェル・ダリシエ



【注】(杉山による)

 2007年3月2日・3日、学習院大学文学部においてミシェル・ダリシエ(Michel Dalissier)氏による講演会が開催されました。これは学習院大学の人文科学研究所が行っている共同研究プロジェクト、「明治期以降におけるフランス哲学の受容に関する研究」(研究代表者・杉山直樹)における企画として開催されたものです。

 二日間にわたる講演はフランス語で行われましたが、その日本語要旨があわせて配布されました。以下に掲載するのは、その要旨に少し手を入れたものです(作成はダリシエ氏と杉山によります)。講演内容については、別の機会に論文の形で公表されることでしょう。ここに公開されるのはその予告編ともいうべき要約に過ぎません。またフランス語の原稿を訳しつつ作成されたため、西田のもとの用語法が一対一的に復元されているわけではありません。
【付記1】
 ダリシエ氏はその博士論文『西田幾多郎 ─ 統一の哲学』(Nishida Kitaro(1870-1945): une philosophie de l'unification)(近刊)により、第24回(07年度)渋沢・クローデル賞を受賞されました。(2007.7追記)
【付記2】講演は『人文』(学習院大学人文科学研究所)第8号ならびに第9号に発表されています。(2009.1追記)

 



西田幾多郎によるメモ。「場所的統一」の語が見える。
   

Nishida Kitaro, lecteur de Henri Bergson

 
introduction

Première conférence. L'élan et la durée

I.1. Une ambition démesurée?

I.2. Élan et Happement

I.3. Normativité de l'élan

II.1. Irréversibilité et transcendance

II.2. L'attachement et l'arrachement au temps

Conclusion

 

Seconde conférence. Bergson et le doublage

III.1. Le problème de la corrélation

III.2. Logique du doublage et du renversement

III.3. Le doublage épistémique

III.4. Le mirage et ses effets

IV.1. L'interprétation néontologique des thèses de Bergson

IV.2. Topologie du bergsonisme

Conclusion


 

Introduction

問い。京都時代の西田においてはドイツ哲学への言及が圧倒的だが、それに先だってフランス哲学(ならびにフランス語圏の科学者、著述家たち)についても西田は早くから広い関心を有している。では特にベルクソンについてはどうだったのか。ベルクソンを読む西田がどのような問題を抱えており、それに対してベルクソンはどのような存在として理解されたのか。西田にとってのベルクソンとは、いったい何であったのか。

 

 


 

Première conférence. L’élan et la durée 
第一講演。エランと持続

 

 
I

I.1. Une ambition démesurée ? 度を越えた野心?

 

 西田とベルクソンとの関係を考える上で重要な著作は、『自覚における直観と反省(Intuition et réflexion dans l'éveil à soi)』である。その執筆直前に西田は『物質と記憶』を講義で扱っており、また『自覚』で扱われているテーマや題材のベルクソンとの共通性も明らかである。そしてまた、出発点となる問題の一致も見られる(直観と反省の関係をめぐる問題)。だがそれ以上に注目されるべきは、西田が自らに与えていた、度を越えたとも見える課題──すなわち、「フィヒテに新しい意味を与えることによって」、新カント派とベルクソン哲学という相互に非常に異なる二つの哲学を、「深き根抵」から「結合する」(unifier)、という課題である。

 フィヒテ:「事行」を動きないし「自覚的体系」の「自己発展」として理解する。同時に、自我の自己定立はそこにおいて主観と客観、作用と所産、思惟と事実それぞれ双方に関わる結合的作用の展開として了解される。

 ベルクソン:「事行」ないし「自覚的体系」の「自己発展」に関わる真の時間として、ベルクソンの「純粋持続」を解釈する。持続することは、「事行」の統一的運動を内側から把握することとなる。

 新カント派:コーヘンに示唆を受けながら、「予料」の概念を捉え直す。「予料」とは単なる予期ではなく、現象(感覚)を与えていく展開作用の内に入り込むことであり、持続の「流れ(écoulement)」に身を寄せることであり、この意味の「予料」が純粋持続を、絶えず自らの根拠からの自己展開として構成しているものなのである。

 以上からすれば、『自覚における直観と反省(Intuition et réflexion dans l'éveil à soi)』という書名は、フィヒテ(自覚)における、ベルクソン(直観)と新カント派(反省)の結合統一と読み替えることができよう。この西田の野心はどれほど正当化できるものであろうか。これを検討するために、以下の問題を考える。

1)ベルクソンにとって自らを予料することはその存在を継続することである。ところで西田が考えられた「真の時」においては、存在の喪失といったものがあるはずだ、自らを予料するとは自らの存在を失って別の形でそれを見出すことなのであるからには。「深き根抵」とは単なる無(pur néant)ではあるまいか。西田の解釈を支えるに足る概念的根底を与えてくれるのは本当に「持続」であろうか。(→I.2, I.3)

2)流れつつある「真の時」の自己予料はここで自己への立ち返り・「還元」(retour à soi)をなすとされている。ところで持続とは本質的に、不可逆なものではないのか。(→II.1-II.3)

 

I.2. Elan et Happement エランと躍入

 

 ベルクソンの「エラン」と、西田がそれに結びつけて採り上げるリップスの「躍入(Einschnappen)」概念を考え直してみれば、上記1)の異論は「持続」についての無理解として斥け得る。

 西田によれば、実在が「実在性・肉体を得る」、具体化されるのは、ある非平衡点、ポテンシャルの差異からであり、根抵への立ち戻り(西田:「元に還る/還元」)とはその非平衡点から出発し、当の実在の具体化を掴むことである。「エラン」はこの非平衡・差異によって可能になっているのだが、ここにあるのは存在(on)から、単なる無ではない相対無(néant relatif)へと向かうエネルギー論(énergétique)である。規定済みの下位の統一(存在)から、さらなる「高次的統一」(相対無)へという差異の間に張り渡されたものとして、エランはその「統一力」を有している。相対無はそこにおいて存在することを禁じられつつ、あくまでもさまざまの統一と事物の「背景」として留まるものである。

 「躍入」の概念を西田が重視するのは、それがこうした絶えざる完全化の運動を、「エラン」とはまた別の角度から描くものだからだ。「躍入」においてはいわば「エラン」の赴く先としてある空虚(vide)が想定されている。そしてそれが運動や作用、現実化を可能としていると見られるのである。

 この観点からすれば、エランは常にその「尖端」に相対無を有し、そこ=現在において絶えず「自己限定」を行いながら絶えず「高次の統一」へと進む「飛躍」の運動として了解されよう。(ただし、西田においてこの絶えず性をなすのは、持続そのものの推移ではなく、それ自身は時間を超越した「統一」の必要性だとされる。VI.2で論じる)

 西田が「エラン」「エラン・ヴィタール」だけでなく特に「エラン・ヴィタールの尖端(pointe)」を強調し、また「極限(limite)」概念を重視したその意味も以上の文脈から理解されよう。「尖端」とは、「絶対意志」の炎のともる点であり、そこにおいて規定済みの認識が再び作用的本性に置き戻され、そこからパースペクティヴが更新されていく点(「作られるもの」から「作るもの」への転回がなされる点)なのである。

 同時に西田は「極限」を「現実的無限」と結びつけて理解している。単なる「潜在的」無限とは異なり、「極限」はそれ固有の統一化的な「生命」に動かされるかのように、既存の諸形態(「多角形」)を超えつつ、それらを包含し基礎づける上位の観点(「円」)の段階へと導いていくものである。西田はこのようにベルクソンとその「持続」を理解した。極限はその自らの乗りこえに向かう尖端のことであり、それはかくして持続する。

 

I.3. Normativité de l'élan エランの規範性

 

 西田が理解する「エラン」にはまた、ある規範的性格が与えられている。これは単に相対無だけではなく、非存在としての価値、という(ラスク的)発想につながるものである。

 西田の時間論を採り上げてみる。彼は時間概念の還元の諸段階として三つのものを区別した。1)科学が考える、固定されたものとしての「絶対的時間」。2)「相対性理論」が考える、基準系の選択によって「前後」の「順序」が変化する相対的時間。3)以上の客観的時間を還元して考察される、フッサール的な内的時間意識。

 ここで問われているのは「順序(ordre)」の根拠である。1)が示す絶対的順序は、2)の相対性の一限定として理解される。しかしさらに3)すなわち西田の考える「真の時」の順序は、1・2両者を「統一する」ものとして、それ自体(西田:「自己自身」)は絶対的かつ相対的であり、時間的前後(ordre)を定めるこの順序はもはやそれ自体時間的ではない順序、「価値的順序」とされる。

 この「価値的順序」が求める「当為」によって、統一化の運動が進められていく。西田の考える3)の時間は、1)や2)におけるさまざまの時間の姿を定めつつ、それらを通じて限りなく統一を求めていく──それ自体は一体系に統合されてしまうことなしに。


II

II. 1. Irréversibilité et transcendance 不可逆性と超越

 

 I.1 で見た第二の異論、ベルクソン的な「持続」に、自己への立ち返りが可能であろうか、という問いに移る。ここにおいて、西田はベルクソン的な持続の観念を自分の「立場」から検討し直すことに至るだろう。ことは特に、持続の予見不可能・不可逆に関わる。

 第一の議論。「後悔」や回心等々の倫理的事象において、「過去」はその意味を「変じる」。過去と現在(そして未来)の間には、ある連帯性(「団結(solidarité)」)が存在する。

 第二の議論、ベルクソンの「創造的進化」への批判。ベルクソン自身が「不可逆性」の概念に含まれる矛盾を指摘しているようであり、また西田によれば不可逆性を言う判断がすでに時間を超越した観点を前提としている。

 西田はこうしたアポリアを避けるために、時間と変化を超越した反復というものを考える。これは単なる変化に対する不動の「超越」ではない。統一が「円環的に」回帰し、時間の諸次元を空間の諸部分を「結びつける」ような、「真の時」固有の反復が考えられている。

 継起の意識も、西田にとっては継起する「感覚」そのものの自己限定と自己反復であり、それはある統一、自己を超えながら常にいっそうの統一を求める(円環的な)自己限定である。時間の不可逆性と持続の流れを超越していくこの統一によって、持続もはじめて持続し得ている。

 

II.2. L'attachement et l'arrachement au temps 時間への執着と離脱

 

 こうして西田の批判は、ベルクソンが時間の考えにあまりに執着していたという点に向けられる。ベルクソンは過去がそれ自体で自動的に保存される、と言うが、ベルクソンの理論から言ってこの保存は理解しがたく、過去の反復も了解できない。

 西田は、そこにおいて存在と無との結合が果たされる絶対意志、相対無における「統一」の概念から、ベルクソンの陥る困難を解消しようとする。時間を超越しつつ、それ自体は可逆でも不可逆でもなく、ただ存在するのでも単なる無なのでもない統一、「一切」でもありそれと共に「一切ではない」ような統一によって、過去の保存や持続をめぐっての逆説は了解されねばならない。「自己(soi)」はそのような統一によって自らを「維持」していくのだが、過去の「保存」(それはまさに、不在(無)における存在の継続という両義的事象だ)もここに根拠を持つのである。

 ベルクソンも「記憶」がそれ自身現前へと立ち戻ろうとする「推力」(poussée)を持つと語っていた。西田はそれを再解釈して、そこに「自発自展」する体系の「自覚的」働き(西田:「操作」)を見る。持続は流れ去るのではなく、自覚的に自らを現実化する(s'actualiser)のでなければならない。「自らを流す時間(temps qui s'écoule」の概念において、西田はこの「自ら」をそのように強調し、ベルクソンの持続を理解し直すのである。

 ベルクソンはかえって「時間の考えに捕らわれて」いる。単なる「保存」しか考えず、単に時間的な「自己」しか考えなかったこと、これが西田の批判点である。ベルクソンはそのために、持続の「背後」に現れる統一化を見逃し、時間の超越や意志の円環性の次元を見損なったのである。西田は持続の概念を純化しつつ、ある「純化する」統一(unification purifiante)の概念に至る。それは「静的な統一」ではなく、単に時間的「動的な統一」でもなく、のちの語を用いれば「場所的統一」と呼ばれるだろう統一であった。[第二講演参照]

 ベルクソンは「持続」を唱えることで、自ら自動的に保存される過去というものを考えることを可能にし、それと共に時間の不可逆性、そして反復の不可能性という主張に至った。

 しかし西田なら批判するだろう、反復の不可能性とは自己矛盾的主張にしかならない、と。反復不可能な持続か、持続の「空間化」された幻か、というベルクソン的対立から脱するために、西田は「時間」の問題を「統一」の方向へと移していく。

 ベルクソンは空間との対比にとらわれて、時間と空間を共に基礎づける作用については考察を欠き、「持続」にはその展開として単なる「変化(changement)」しか認められなかった。しかし対して、「エラン・ヴィタール」は、時間と空間を「共に」超越する「発展(développement)」を遂げるものであった。そこにおいて、「持続」からの離脱が可能になり、単に「時間的」次元に閉塞したのではない、統一する展開のための優れた概念が見出されるだろう。

 

Conclusion

 

 単に不可逆な持続においては、「想起」すら不可能になってしまう。過去を「現在化」する実在的結合を説明するために、西田は「意志」とその統一的生命力に訴えた。西田が「純粋持続」よりもむしろ「エラン・ヴィタール」の概念を重視するのは、まさに「持続」の外での「跳躍」を思考するためであり、「記憶」の「深き根抵」を考えるためであった。

 以上の考察は、西田における自己(soi)の概念へと引き継がれる。それは「認識主観(sujet)」であり、「全自己を対象(objet)とすることはできない」ものである。自己との端的な合致は不可能である。まさにこの意味においてこそ、正しくそれは反復不可能なのである。それは「無限の統一者」であり、その「「最終的な統一(unité dernière)」を決して見出し得ない。

 こうした「自己」──穿たれ(troué)空虚を孕んだ自己──のイメージは、充実した現前としての持続のそれとは反対のものだ。「現在」のはかなく逃れ去り続ける現出様態はそれを示している。西田は、我が滅し時間が消え去る「門口」を語るが、この暗がりはどのように我々を「絶対無限統一(unité infinie et absolue)」に触れさせるのか、どのように統一そのものとの統一を思考させるのか?


 


 


Seconde conférence. Bergson et le doublage
第二講演。ベルクソンと二重化

 

 「深き根抵」からベルクソンを批判しつつ西田が示した実在観については第一講演で明らかになったが、しかし人間は実在をまさにそのままに把握し得ない。そこには「堕落」や「罪」にもなぞらえうる困難がつきまとう。

 以下ではまず、「統一」の理論が示すいくつかの危険を見る。多が統一されると言っても、この関係を既成のものと捉えることはできない。また単なる相互関係と見てもならない。西田は無限への関係化(mise en relation)を考えようとするのだが、それがまた自動的に果たされると見るのも誤りである。統一化が含む関係づけを、まず「連結・相関(corrélation)」として考察する(III.1)。ついでそれを二重化(doublage)としてしまう誤謬を見る(III.2)。

 そして次に、ベルクソンを「無」と「統一」からいかにして語り得るのかを論じよう。1926年以降西田が開始する、「場所」論的(topologique)な読解を手がかりとしよう。ベルクソンの言説に固有の哲学的な「場所(lieu)」をいかに思考すべきか。ベルクソンがある一定の存在論的(ontologique)な観点にとらわれているというのはいかなる意味においてか。そしてベルクソンの諸概念の射程をそれを越えていかに拡大すべきか。

 

 

────────────────────

 
III

III.1. Le problème de la corrélation 「連結」の問題

 

 リッケルトは、理念的普遍的な「意味」と、個別的経験的なそのつどの「判断作用」とを峻別して見せる。しかし西田はこの峻別を認めない。彼は、意味と存在との繋がりをあらためて論じようとする。

 最初に彼は、両者の繋がりを「事行」の当為(il faut)に求めようとする──繋がりはなければならない、と。しかしこの解決は十分なものではない。「当為」はその根拠として、根抵への立ち戻り(躍入)とそこからの自己発展を前提としていた(「場所論理」のタームで言えば、「存在」と「当為」の「対立」が位置づく「対立的無の場所」以前に、「絶対無の場所」がなければならない)。

 第二に、結合の根拠は「絶対自由の意志」だという(第一の解決に実際には含意されている)解決法。

 しかし「連結」とは単なる「関係」づけではない。ある体系と別の体系との等価性(相関)、そして一方による他方の根拠付けがなければならない。なぜ赤いものは他でもなく我々にとって「赤い」のか。それは、単なる関係づけの「当為」からは説明できないのではないだろうか。

 神の誠実を持ち出すデカルトでもなく、美と善の象徴的連結を言うカントでもなく、西田はベルクソンを再び採り上げる。ベルクソンは、「赤」という性質と微小な物理学的振動とを、持続の「緊張(tension)」の概念を用いて結びつけた。我々の持続は、固有の緊張において、物理的振動を「赤」という性質に圧縮する。こうしてベルクソンにおいては、「連結」は「緊張」を媒介にして果たされている。

 確かにこうした理論は、「連結」の「如何にして(comment)」については説明を与える。時間や身体がこの「連結」をいかに導いているかについての事実的記述ではある。

 しかし「何のために(pourquoi)」についてはどうか。ベルクソンが依拠する道具立てについて西田が再考を試みる以上、問題はここで終わりにはならない。「持続」の概念を西田がベルクソンからさらに徹底化するのならば、「緊張」「弛緩」「記憶」といった諸要素についてもそうであるはずだ。「連結」それ自身も、例の時間の不可逆性を、存在の凝縮・稠密性(compaction)と同時に、共に越えたものであらねばならないのではないか。西田の考えでは、「時間」(ベルクソンの「持続」ではなく、「真の時」)は運動と静止の統一(「動静の合一」)でありつつまずは「進行」(progression)であった。そしてまた、それは存在と非存在の統一として、相対的無のうちに考えられていた。ここにおいて統一は、絶えず「無」に寄り添われながら、絶えず(「何処までも」)より高次の新しい形態へと、それまでの形態を統一しながら進み、その諸段階を「存在」として刻んでいく。こうした「存在」と「無」を「共に」単なる契機として進行していく統一こそは、持続の運動やカーブ停止を基礎づけつつ、「連結」の「何のために(pourquoi)」を説明するものではないだろうか。対して、ベルクソンの「持続」における時間的性格の「優位」、存在論への帰属は、単に不可逆性と鈍重さにばかり関わり、そこではいかなる統一も回復されないのではないだろうか。

 

III.2 Logique du doublage et du renversement 二重化と転倒の論理

 

 「連結」をめぐる問題は、誤った仕方で解決を試みられることがある。「本末転倒」と西田が呼ぶ種類の「誤謬」であり、我々はそれをここで「二重化(doublage)」と呼ぶ。それは「根抵(fondement・本)」が、この根抵への「還元」において構成されていく統一において前方(末)にある(est en avant)という事実を等閑視し、それを反対にこの統一の「背後(en arrière)」に置き、その展開を司るものとしてしまう、そうした操作のことである。言い換えれば、現実には「根源」は、ただ休み無く到来するものでしかないにも関わらず、「二重化」は、「根源」を時間的ないし存在論的な先行性という次元に置いてしまう。二重化は、統一の「進行」の「方向」を明らかに「転倒」させてしまうのであり、それは価値論的な時間性の「順序」を逆転してしまうのである。

 例えば物理学が、「現象」の「直接的経験」から派生した物理学的存在を実体視(「実体化」)して、それによって当の経験を「説明する」こと、これは「本末転倒」である。何も「無より生じ」はしないというのは「常識」と結託した「物理学」の観点でしかない。経験において明かされているのはむしろ、絶えず無に投げ出されていく「根抵(根拠)」の隠退(retraite 西田:「退く」)(しかしそれが統一をもたらすのだ)によって諸現象の「連続的推移」が生じるという事態である。

 西田は、同時代の宇宙論や物理学にも同様の転倒を指摘している。諸理論が初めて到達した成果(起源には「星雲」があった、時空の「座標」軸はこのように調整されるのが適切だ、等々)が、実際の統一の「中心」と見做されてしまっているからである。これは単に事後的な、「考え」における統一に過ぎない。

 西田は、感覚「器官」の形成に関して、その「目的論的」説明を「機械論的」説明によって置き換えてしまう所作にも同種の「二重化」を見ている(ここにはベルクソンへの目配せがあるのではないか)。この場合ひとは、器官の形成という実在的運動は一種の自己限定的作用として果たされるのに、それを後付けの「原因」によって説明しようとしているのである。

 同様の批判は「極微知覚」や「無意識」概念にも加えられる。それらは、限りない意識化の中で達成される統一の相関者として規定されるしかないのにも関わらず、ひとはそれを最初から、「仮定的統一」として前提してしまうからである。

 同じ二重化の誤謬は、「神」についても見られる。最初の神・最後の神の代わりに西田が「未在の神」を口にするとき、彼は「無限に」深い「無の場所」のただ中での、統一の終わりなき爆発を続けるような神的実在をそのままに語ろうとしている。「本体論的証明」は、そのままでは実在と概念との連結に失敗しており無効だが、もし「叡智的存在」を再考し、神を絶対意志として捉え直すならば、そこから「完全」性と現実「存在」との「統一」は認められ得る(デカルトの普遍数学の構想思考と実在との連結相関も、ここから基礎づけられるはずだ)。

 この批判はカントに遡るが、しかし西田の観点からすれば、カントが単に無効とした点、「構想力」の総合が「もの自体」の統一に実体視されるというこの誤謬は、根源から考え直されることで、カントが自明視した超越論的有限性から解放され、再び正当化されるだろう。

 

III.3. Le doublage épistémique 認識上の二重化

 

 以上のような「二重化」とそれに対する批判は、ベルクソンにも見出せるものだ。

 心身問題において見られるように、ベルクソンにおいても真の統一は「持続」への立ち返りにおいてのみ得られる。持続は分断されてしまっているが、「悟性」ではそれを単に「人為的」かつ「外的に」「再構成する」ことしかできない。ここで得られる統一は、それが「結合する諸項と同様、惰性的で空虚な枠が有する人為的な統一」でしかないのだ。

 「経験論」、「独断論」、「批判哲学」はそうした統一に留まる。対してベルクソンは押し寄せる流れの「生き生きとした統一」を再発見しようとする。西田はさらに、「持続(すること Durer)」を、時間の中で自らを継続していく「統一」として重視するのだが、ただし西田にとってこの統一は、(ベルクソンにおけるような)立ち戻り先としてではなく、それ自身止むことなくある逃げ続ける根拠へと還帰していくような統一なのである。

 ベルクソンにおいては、持続についての「直接的認識」は「記号的形象」に覆われてしまっている。それを実在そのものとしてしまうことで、さまざまの人為的な「矛盾」や「問題」が生じるのだが、それらを解消するには持続の「生き生きとした統一」に立ち戻るしかない。これはまさに、西田が明らかにしたような、統一のメカニズムではないか。ただし、西田はさらに次の二点を考えていく。1)統一の持続そのものが、持続において働く統一を必要としていないか。2)純粋持続のうちに身を置き直すことは、確かに持続することではあれ、いっそう深い意味においては、自らを純粋持続と統一することではないか。

 人間「知性」について批判を行う『創造的進化』のベルクソンは、我々のいう「二重化」を主題的に扱っていくことになる。「二重化」の操作をえぐり出すことによって、エラン・ヴィタールの実在をそれとして主張できるようになるのだ。例えば機械論や目的論(あるいは一般に実証科学)は、運動そのものを、運動が描く「位置」や「順序」で「再構成」してしまっている。

 ベルクソンのいう「知性」はナルシズム的(narcissique)であり、自らが立てる幾何学的秩序を称賛し、すべて(その内容が何であるにせよ)は「与えられてしまっている」という前提を認めてしまっている。だがベルクソンは、こうした経緯そのものを、「持続」に遡ってそこから説明し直す。ベルクソンによれば、同じ一つの持続が、二重の運動をなす。一方で持続は、(不可逆な連続において)時間的充溢であり、(空虚なき堅固さ(dureté)において)存在論的充溢であり、さらに熱力学的充溢である。精神はそれを否定しつつ、エラン・ヴィタールを弛緩させ(あるいはその弛緩から生じ)、「絶対的無」という虚偽概念を生み出し、トムソン風の不動の等質性を手にすることになる。

 もちろん不動の断片から進化は再構成できないし、空虚から充溢を、無秩序から秩序を、無から存在をこしらえることはできない。だが、こうした知性の誤った観点が、持続そのものから生じる。『創造的進化』が扱う問題系に含まれているのはまさに「二重化」なのだ。

 「二重化」の認識上の賭金は、自己限定である。二重化をどう捉えるかは、自己限定をどう考えるかと不可分である。ベルクソンにおいては、「矛盾」や「問題」がその由来とともに把握されるならば、「直接的認識」はそれ自体で正当化され得る。その時には、差異化は取り除かれて統一が手にされよう。ここで統一は自らの実際の諸契機(真)と偽りの契機(偽)に自己限定するがそれは有限なものに過ぎない。真への回収、統一への完全な復帰は可能である。対して西田にとって「自己限定」は、自らについての正しいヴァージョンと誤ったヴァージョンの双方を与え得るものであった。ここから「矛盾」や「対立」、「問題」が次々と差異化されてくるのだが、統一は「何処までも」それらを経由して、より上位の統一を予料しながら成り立っていく。西田の観点においては、差異化(西田:「分化」)がより重視されているために、統一についてはそれは単に有限なものとしか考えられない。

 

III.4. Le mirage et ses effets 幻影とその効果

 

 実際にベルクソンが、「二重化」や「自己限定」にあたる事柄を述べているだろうか。講演『可能と現実』を見てみよう。そこでベルクソンは、知性が行う諸々の転倒(つまりは「二重化」の諸相)を描き出している。

 この講演で、ベルクソンは回顧的「幻影」について語っていた。それは、ある現実が生じたのちに、過去に向かって「可能性」として投影される幻であり、「可能」とはそれである。ところで「二重化」の論理においては、「可能」とは現実化を待つところの概念あるいは力であるが、しかしそれは現実が生じる以前には考えられない。この「二重化」が残す欠如を、「幻影」は(現在の過去への投影によって)埋め合わせにくるのだ。

 『物質と記憶』では「幻影」ないし反映といった光学的イメージは、実在を取り違える「二重化」の作用からのみ考えられていた。しかしでは純粋知覚そのものが反映として、「幻影(蜃気楼、反射)の効果」として記述される。

 ここで「幻影」と「二重化」を峻別することができるのではないか。「幻影」は持続が自らを集約し、可能という形で自らを保存していく実際の作用に対応する。現在によって過去が可能化する。対して「二重化」は、隠蔽的なものに留まる。「幻影」においては、実在が自らを映しだす(la réalité se mire)のに対し、「二重化」においては実在は隠蔽されてしまうのだ(la réalité se dissimule)。このように「幻影」を捉え直してみれば、ベルクソンにおいても、西田における「自己限定」と類似の思考があったと見做すことができよう。

 ただしこう理解されたベルクソンにおいても、やはり統一は回顧的な次元、前未来の次元に留められる傾向が残る。それに対し、来るべき統一、自己自身を「写し/映し/移し」ていく統一を強調する西田にとっては、「可能」は実在の統一そのものの本質的な「進行」に結びつけられて考えられていたはずだ。

 

IV


IV.1. L'interprétation néontologique des thèses de Bergson ベルクソンの主張を「無」論から解釈する

 

 ベルクソン自身、「存在論的な二重化」とでも呼ぶべきものに捕らわれていたのではないか。西田の批判を検討してみる。

 「本体論的証明」を吟味する西田については先に少し触れた。「限定された有の場所」における「自然的存在」をモデルにして考えられる限り、この証明は無効であった。しかし「絶対無の場所」における「叡智的存在」から捉え直すならそうではない。この意味で本体論的証明は、ある取り違え、「二重化」によって無効にされている。ただしここでの「二重化」は単に認識論的なそれではなく、場所論的(topologique)先行性についての逆転、場所づけの誤りなのだ。

 ところでベルクソンはまさに「無」を「知性」による構成物と見做していた。そこにおいて「無」は実のところ、「存在」に基礎を持っている。そんな「無」は西田の用語を借りれば「対立的無(néant oppositionnel)」に過ぎないのだが、この種の思惟においては「絶対無(néant absolu)」は覆われてしまい、存在論が場所の論理(topologie)を「二重化」し隠してしまうことになる。我々の言葉で言うなら、「非存在」論(méontologie)も「無」論(néontologie)も、「存在論」(ontologie)に従属させられてしまうのだ。

 ベルクソンが「知覚」を「切断」や「停止」として考えていたのに対して、西田があくまで知覚を「無限」の「操作」だとしていた背景にも同じ考察がある。西田においては、現実的知覚は常に無に曝されて入り込まれており(躍入)、それが現象学的体験の限りない連続を可能にしていくとされる。この「無」がベルクソンでは隠されてしまっている。持続を存在とするだけでは、持続の流れが説明できないはずなのだ。

 西田からすれば、「持続」に関して思考されていないのは、「持続の形式」、変化の統一である。そしてそれは「場所(lieu)」であるべきであった(しかしそれは正しく思考されたことがない。「トポイ」「コーラ」「方域」「場」「範疇」や時間的「流れ(écoulement/flux)」といったものにすり替えられてしまう)。ベルクソンは直接経験を語りはしたが、その「どこ」「所」は問われなかった──彼はかつて一度それに類似の作業を語っていたにも関わらず。

 「経験」の「純化」とは、西田においては、懐疑や自我論的還元ではなく、「何等かの所与形式」から「形式の与えられる」ところへの、「形式」からその「場所」への、存在に捕らわれた限定された形式から限定する形式(それは無に支えられている)への移行である。立ち戻るべきは、すべてを包み自らをも包む「一般者の場所」である。すべてのものは、「其のままに」即ちそこにおいてあるがままに、「自覚的限定」として見出される。

 

IV.2. Topologie du bergsonisme 場所論に於けるベルクソン論

 

 ベルクソンは、「無」を見なかったがゆえに、「場所の論理」そのものについて「二重化」を犯してしまった。ところで、「無」とはさまざまの哲学の「出発」点というよりもそれらを展開させる場であり、「無」を見るということが場所の問いを立てるということであるとしたら、では、ベルクソンの「場」とはどこなのか。

 「対立的無」の場所だということになろう。それは「存在」から「考えられた無」、充溢の中で穿たれただけの空虚である。「持続」、「意識」の「流れ(écoulement, flux)」をめぐっての反復の問題がここに再び現れてくる。ベルクソンにおいては、「あるもの(ce qui est)」はすべて変化する。同一なままで変化しない(西田の言葉で言えば「移らざるもの」)のは無(néant, rien 変化しないものは「無」い。)であるが、それは無とは単に「虚偽問題」から生じた観念に過ぎないからだとされる。

 しかし西田においては、この同一性は、「何等かの意味に於て有」ものを証している。それはもちろん「有」ではない、むしろ「無」のある「操作」ないし働きであり、「永久に」流れが過ぎ去り持続が持続するのは、「永遠に」この不変性(西田:「移らざるもの」)を根抵にしてのことなのである。この不変性は流れや持続の中に存在できない。それは別の場所、「絶対無の場所」に見出されるのであって、フッサールやベルクソンはそれを思考し得なかったのだ。

 無は絶えず、永続していく存在によって隠される。「変化するもの」は存在(有)の場において存在し、「変化」そのものが存在するのは、「対立的無の場所」においてである。そして変化しないものは、「絶対無の場所」に見出される。「故に」持続は持続し、時間は流れるのである(反転された、無のプラトニズム。)

 「二重化」の所産として、諸学説それぞれの明快な「位置」づけが可能になる。ベルクソンやフッサールといった時間(「永久」)の哲学は「対立的無」に場所を持つ。そこで意識の根抵を無ではなく存在に求めれば、「限定された有」の立場となる。プラトンや機械論者の、「永遠」の哲学。時間意識の根抵に実体的な永遠の自己構成を見出しても同じことになってしまおう。

 「二重化」の覆いをとることはすなわち、「無は有よりも一層高次的と考えることができる」と主張することである。有の隠された根抵をなすのは無(の限りない「退き」)なのだが、しかしこうして設けられた有の根抵によって、有は無の「空ずること(fait de l'évidement)」よりも優先させられてしまうのだ。

 

Conclusion

 

 持続は不可逆で隙間なく豊かであり、存在の粘性を有している。しかしだとすれば、持続は「いかにして」自らのうちに再び入り込み、自らを「満たす」というのだろうか。それを可能にする開け(西田:「門口」)はどこにあるというのか。持続すること、存在論的な仕方で持続において自己を「満たす」ことは、ある充実[の働き]を前提としているのであって、それは「無-論的な」仕方においてしか生じ得ない。そして無は、口を開けた窪みのように現れ、持続をそのありのままの概念化へと開くものなのだ。

 西田は、持続に二つの意味を区別するように促す。それはベルクソンにおいてもすでにひそかに示されていたものであり、以上の我々の講演に伏流のように寄り添っていたものでもある。第一の意味において、持続は経過するというそのことを意味している。それは不可逆であり、いわば「柔らかい(molle)」。流れ動くものであるから。しかし第二の意味ではそれは「堅い(dure)」。凝縮されており(compacte)、経過や変化に抵抗し、存在の現前性と存続性を守っている。持続するとは立ち戻ることなのだ。「柔らかい持続」が持続するのもそれが持続(durer)しないから、それが「堅く(dure)」ないからである。そして「堅い持続」が持続するのはそれが長持ちする(endurer 耐久的に保たれる)から、それが「堅い」からである。第一の持続はある意味では無であり、第二の持続は存在である。西田はこの二つを形而上学の壮大な反復によって統一しようと試みた。西田はそれを我々に思考すべく残している──「on(有)」でもなく「mê on(非有)」でもなく、「on + mê on」。我々の表現を用いるならば、「存在論(ontologie)」でもなく「非有論(méontologie)」でもなく、「無-論(néontologie)」。

 ベルクソンが美学上の「優美(grâce)」を扱った美しい叙述はよく知られたものだ。その魅力の由来は、円環的な運動、舞踏家の「態度」を「予期」するその「気軽さ」であり、持続の予見不可能性との稀なる合致である。持続において自由に展開(évolution 西田:「進化」)を遂げることはこの場合、あるポーズのスタティックな存在から対立的無へと移行し、そしてまた新しいポーズに立ち戻るということだ。舞踏の創造的な展開(進化)はまさに存在論的な充溢(「満たす」こと)の姿を採る。対して無-論的な観点によれば、優美にはある「ぎこちない運動(mouvements saccadés)」が再び与えられる(その醜さは笑いによって矯正されよう)。「舞い」や「踊り」「能」といった日本の舞踊のさまざまの表現においては、予見不可能で、地下に潜む無に入りこまれた運動のある種の割れ目のようなものがあり、まさしくそうした舞踊をひそかに導いているが、まさにそれがある意味でそれらの優美さを醸し出しているのだろう。

 ひょっとすると、優美の感情はこの場合、存在の予見と無への沈潜(naufrage 難破)との間に、現前と不在との間に、舞台の明るみと袖の闇との間に成り立っているのかもしれない。美しいものが我々に現れるのは、充溢(plénitude)と退き(dérobade)とのあわいでの瞬きにおいてではないだろうか?


(以上)


↑ページの最初へ

←最初の目次