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 神話の本質

1 朝廷への服従「八岐大蛇退治神話」
  八岐大蛇退治神話は、古事記上巻及び日本書紀巻第一神代上第八段に見える。この神
 話については、以前から不可解とされている問題が指摘されている。それは、古事記、
 日本書紀の編纂に程近い頃に成立した文献の一つで、多くの地元の神話が収録されてい
 る「出雲国風土記」や大和朝廷に服属して出雲の国を支配した出雲国造が、天皇に奏上
 したとされる「出雲国造神賀詞」に、この神話に該当すると思われる記事が見られない
 ことである。
  その理由としては、古事記及び日本書紀に記されている神話は省いたとする説、ある
 いは、八岐大蛇退治神話の原型となったような話は存在したが、出雲では古事記、日本
 書紀の神話を快く思わず、わざと除外したとする説、また、出雲風土記の「越の八口」
 を征服する記事が、この神話に該当するとする説など諸説あるが、どれも未だに定説を
 なすに至っていないようである。
  この神話自体については、既に、肥沃な農耕地が河川の洪水によって荒らされるのを
 表現したとする説、また産鉄のために鉄を土塊から分離するのに河川の水流を利用したのを表現したとする説など、諸氏によっ
 て考察がなされている。

(1) 物語の概要
   日本書紀によると、高天原を追放された素戔嗚尊(すさのをのみこと)は、出雲の国の簸(ひ)の川の川上に降った。その川上
  で、娘の奇稲田姫(くしいなだひめ)を囲んで泣いている国つ神の脚摩乳(あしなづち)・手摩乳(てなづち)の老夫婦に出会った。
  泣く理由を尋ねると、脚摩乳は「私には多くの娘がいたが、年毎に娘を八岐大蛇に呑まれ、今、この娘も呑まれようとしてい
  るのに、免れるすべがなく泣いてる」と答えた。そこで、素戔嗚尊は、娘の奇稲田姫を娶る約束を老夫婦と交わし、その娘を
  神聖な櫛に変化させて髪に隠し、老夫婦に幾度も醸した強い酒を用意させ、仮の膳棚を数多く作り、その膳棚に酒を入れた容
  器を一つずつ置いて、大蛇(をろち)が現れるのを待ち受けた。
   しばらくすると、脚摩乳が言ったとおり大蛇が現れた。その大蛇は、頭と尾はそれぞれ多数に分かれ、目は酸漿(ほおずき)
  のようで、背には松や柏などの常緑樹が生え、沢山の丘と谷の間に跨り、それぞれの頭を一つずつの容器に入れて酒を飲み、
  酔って寝てしまった。この時、素戔嗚尊は、所持していた十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて、ずたずたに大蛇を斬ったが、尾
  の部分に達したとき、剣の刃が少し欠けた。そこでその尾を裂いて見たところ、中に一振りの剣があった。大蛇のいる上には
  いつも雲が棚引いていたので、素戔嗚尊は「これは不思議な剣である。何と特別に私が貰い受ける」と言って、天叢雲剣(あま
  のむらくもつるぎ)と名付けて天つ神に献上した。
   それから後、素戔嗚尊は、奇稲田姫と結婚して住む場所を探し求め、遂に出雲の須賀(すが)の地に着き、「私の心は清々し
  い」と言って、そこに宮殿を建てた。この時、素戔嗚尊は「八雲立つ 出雲八重垣 妻込めに 八重垣作る その八重垣を」
  の歌を詠んだ。やがて二人の子供である大己貴神(おほあなむちのかみ)が生まれた。そこで、素戔嗚尊は「私の子供の宮殿の
  首長は脚摩乳・手摩乳である」と言って、二人の神に稲田宮主神(いなだのみやぬしのかみ)の名前を授けたとある。
   素戔嗚尊による大蛇退治の舞台となった場所は、一書では、簸の川の川上の鳥上(とりがみ)の峯(たけ)とあり、また別の一
  書では、安芸の国の可愛(え)の川の川上とする異伝もある。更に別の一書では、八岐大蛇の姿態は、頭ごとに岩や松が生え、
  両脇に山が存在しているとある。
   古事記も概ね日本書紀と同様の内容であるが、古事記では、足名椎(あしなつち)は国つ神の大山津見神(おおやまつみのか
  み)の子供とあり、また大蛇は高志の八俣遠呂智で、その胴体には蘿(ひかげ)の葛(かずら)や檜、杉の木が生え、腹は一面にい
  つも血に爛(ただ)れているとある。更に大蛇を斬ったならば肥(ひ)の河の水は真っ赤な血となって流れたとある。

(2) 神話の真意
   日本の神々は、古くから数多く認められ、それらを総称して「八百万(やおよろず)
  の神」(古事記上巻)「八十(やそ)万(よろず)の神たち」(日本書紀巻第一)などと
  呼称されている。いずれも神々が数多いことを讃えていう言葉とされ、この神々を二
  大別して、天つ神・国つ神といわれている。平安時代に完成した延喜式巻八の大祓祝
  詞(おおはらえののりと)には
    「天(あま)つ神(かみ)は天(あま)の磐門(いわと)を押(お)し披(ひら)きて、天(あ
   ま)の八重雲(やえくも)を伊頭(いつ)の千別(ちわ)きに千別(ちわ)きて聞(き)こし食
   (め)さむ。国(くに)つ神(かみ)は高山(たかやま)の末短山(ひきやま)の末(すえ)に
   上(のぼ)り坐(ま)して、高山(たかやま)の伊襃理(いほり)、短山(ひきやま)の伊襃
   理(いほり)を掻(か)き別(わ)けて聞(き)こし食(め)さむ」
  とあり、天つ神は天上の幾重にも重なった雲の中に存在し、国つ神は地上の高い山低
  い山の草むら、あるいは岩の洞窟の中に存在するとしている。古事記、日本書紀の日
  本創世神話にも見られるように、古代人の世界観は、天と地がそのすべてであると想像して、天と地にそれぞれ神の存在を認
  識していたと考えられる。
   天つ神・国つ神は、中国の唐の時代に使われていた熟語を借用して「天神地祇(あまつかみくにつかみ)」とも記されるが、
  日本の天神地祇は、中国におけるそれとは分類を異にして、「天神(あまつかみ)」といっても天上を司る神々ではなく、「地
  祇(くにつかみ)」といっても地上を司る神々でもなく、その分類は日本独特のものとされる。古事記、日本書紀神話の中で、
  伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)という男女の天つ神が生み出した地上の世界で、この両神の働きによって誕生する
  神々は、すべて天つ神に属するとされる。
   一方、国つ神は、素戔嗚尊の系譜からはじまり、この神自身は、古事記、日本書紀では伊邪那岐大神の禊祓いによって、あ
  るいは伊弉諾尊・伊弉冉尊の協議によって生まれた神として天つ神に属するが、その親神に反抗したうえに、姉の天照大神に
  反逆した罪で高天原から地上に追放された結果として、国つ神の系譜をたどることになり、この神の系譜に連なる先住民族の
  神々が国つ神とされる。しかし、古事記に見える大山津見神(おおやまつみのかみ)という山の神や大綿津見神(おおわたつみの
  かみ)という海の神のように、系譜的には天つ神に属するが、その性格から地上に先住する国つ神に分類される神も見られる。
   素戔嗚尊が天降った地上の国が出雲の国であったことから、国つ神の系譜は、更に「出雲系」の神々ということになり、そ
  れに対応して天つ神の系譜は「天孫系」の神々という性格が加わることになる。つまり、古事記、日本書紀の国譲り神話や天
  孫降臨神話、神武東征神話が物語るように、天孫系の民族が地上に降臨して、先住する出雲系の民族を次々に服属せしめて行
  く中で、自分達が崇拝してきた神々を天つ神、また出雲系の民族が崇拝してきた神々を国つ神として系列化していったと思わ
  れる。
   この八岐大蛇退治神話は、天つ神の系譜を嗣ぐ天孫系の民族が、先住する国つ神の系譜を嗣ぐ出雲系の民族を次々に服属さ
  せ、大和を中心に支配圏を拡大させた大和王権の支配の正当性を示唆するために、極めて巧妙に仕組んだ最初の物語と考えら
  れ、これは、後に高天原を治める天照大神が、中つ国を治めている出雲系の大己貴神(おほあなむちのかみ)に平和裡に国譲り
  をさせて、その孫神に当たる天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)を地上に派遣するという、いわゆる国
  譲り神話へと発展する前編ともいえるのである。
   古代において、稲作や製鉄を制することは、その国を制することであり、この八岐大蛇退治神話の真意は、稲作や製鉄の技
  術を有し、山の神(峰の霊・大蛇)を崇拝する先住民族(国つ神系)の日の神を崇拝する朝廷(天つ神系)への服従を決定さ
  せるものである。

(3) 大蛇の正体
   「ヤマタノヲロチ」は、日本書紀では「八岐大蛇」と記され、古事記では「八俣遠呂智」と
  記される。既に創造の神達「神仏習合の神・八幡」の項で記したとおり、「ヲロチ」は、「峰
  の霊(をろち)」の意味とされることなどから、八岐大蛇は、蛇を地霊の象徴とする原始の信仰
  が、稲作や製鉄、祖霊などと結びついた「山の神」ではないかと推察される。
   日本書紀巻第十四雄略天皇の段に、小子部(ちいさこべのすがる)は、雄略天皇の三諸岳
  (みむろのおか)の神の姿が見たいと言う命令に従って、三諸岳に登り大蛇を捕らえて来て見せ
  た。大蛇は雷鳴のように轟き、目を輝かせた。天皇は畏れて大蛇を見ずに御殿の中に入り、神
  を岳(おか)に放させたという記事が見え、更に同巻第十七景行天皇の段に、伊吹山の神を取り
  押さえに山に入った日本武尊は、大蛇に化した山の神をそれとは知らずやり過ごして、この神
  の降らす氷雨と霧に捲かれ、伊勢の鈴鹿に崩じたとする記事が見えることなどから、大蛇は山
  の神であることが想像される。
   古事記の万物創世神話の中で、山の神の誕生に関する記事は、伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那
  美命(いざなみのみこと)が、13番目の子として山の神の大山津見神(おおやまつみのかみ)を生
  む。次に野の神の鹿屋野比売神(かやぬひめのかみ)を生み、この両神の間に山野の土、霧、谷
  間などの八柱の山の神が生まれたとする部分と、伊邪那美命が、火の神の火之迦具土神(ひのか
  ぐつちのかみ)を生むことによって火傷を負って亡くなる。伊邪那岐命が、泣きながらその子火の神を十拳剣(とつかのつるぎ)
  で斬ったところ、死体から端山・外山の神などの八柱の山の神が誕生したとする部分の二か所である。大山津見神は、日本書
  紀では大山祇神と記され、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が、火神軻遇突智(ひのかみかぐつち)を斬ったときに生まれたとされ、
  その誕生に関しては古事記の記事とは異なっているが、いずれもにしても広く山を支配する神とされている。また火之迦具土
  神は、火之夜芸速男神(ひのやぎはやおのかみ)、火之R毘古神(ひのかがひこのかみ)の別名を持ち、日本書紀では火神軻遇突
  智(ひのかぐつち)と記され、火産霊(ほむすび)の名でも登場し、いずれも「火」と言う文字が冠せられていることから、火を
  司る神とされる。
   日本書紀の一書では、伊弉冉尊(いざなみのみこと)は、軻遇突智を生んで火傷に苦しみながらも土神埴山姫(つちのかみはに
  やまひめ)と水神罔象女(みずのかみみつはのめ)を生み、軻遇突智はその埴山姫と結ばれ、稚産霊(わくみすび)を生んだ。この
  稚産霊という神からは、頭上に蚕と桑、臍(へそ)には五穀が生じたという記事が見える。制御しなければ全ての物質を焼き尽
  くす火、しかし、それを制御すれば作物や道具を作り出す火、そのような破壊と生成という正反対の力を持つのが火の神なの
  である。
   古代人が、火を制圧し制御する方法を得たことによって、その生活は、それ以前と比較して一変したと考えられる。寒さを
  防ぐために暖をとることから始まり、暗闇の解消や食物の調理、土器・土偶の製作、焼き畑農耕、鉄器の製作など数えあげれ
  ば際限がなく、古代人は、まさに「火」は神からの授かり物であり、神からの贈り物であると考えたと思われる。
   大地に存在するもののうち、その最大のシンボルは雄大な山であるが、その中でも大地を突き破り空高く火柱を吹き上げる
  「火山」は特別な存在で、火の発生源である火山を神そのものと考えたとしても不思議ではなく、火山の大爆発によって発生
  する大音響や噴火、噴煙、溶岩流、火砕流、土石流などの様子は、古代人にとって偉大なる存在で、神のなせる業と映ったに
  違いないと思われる。
   全くの私見であるが、古事記、日本書紀の八岐大蛇退治神話に見える山の神である大蛇の姿態はこのような状態を描写して
  いるのではないかと推察する。大蛇の目は酸漿(ほおずき)のようであるとは、真っ赤に煮えたぎる火口や空高く吹き上げる噴
  火を想像させ、頭と尾はそれぞれ多数に分かれ、背には松や柏などの常緑樹が生え、沢山の丘と谷の間に跨っているとは、数
  個の火山から延々と連なる山脈を連想させる。また腹は一面にいつも血に爛れ、大蛇を斬ったならば肥の河は真っ赤な血とな
  って流れたとは、火口から蛇行を繰り返しながら麓に流れ降る溶岩流を想像させる。更に、大蛇の上にはいつも雲が棚引いて
  いるとは、火口から吹き上げられた噴煙によって覆い尽くされる空をも想像させる形容である。
   「地霊」は、万物を育み恵みを与える一方、地震や風水害などの災厄をもたらす大地に宿る霊的な存在のこととされている
  が、火を利用することによって豊かな生活を享受してくれる反面、一度噴火すればそのすさましい威力によって災害をもたら
  すなど、恩恵と災厄の両面を併せ持つ火山は、古代人にとっては地霊そのものであり、蛇に象徴される神の化身の姿である大
  蛇(峰の霊)であったと思われる。
   ところで、民俗学的に見る山の神は、山に宿る神の総称で、多くの地域では女神と考えられ、その共通した性格は、気性が
  荒く、容姿が醜く、性的象徴を好み、多産とされる。それは山の神が生産神であることから、このような性的要素が付加され
  たものと思われる。山の神は、農民にとっては稲作に最も必要な水をもたらしてくれる農業の神であり、また山民にとっては
  食料である獲物や果実、製鉄に必要な鉱物を享受してくれる食物の神や産鉄の神なのである。なお、山の神は、一部地方では
  禁忌が厳しく、出産や月経の穢れ、女性を嫌うという伝承が見られるが、どのような理由によるものか判然としない。

(4) 神話の考証
   「スサノヲノミコト」は、日本書紀本文では「素戔嗚尊」、あるいは一書では「神
  素戔嗚尊」「速素戔嗚尊」と記され、また古事記では「建速須佐之男命」「速須佐之
  男命」と記される。八岐大蛇退治神話の主役である素戔嗚尊は、日本書紀では伊弉諾
  尊・伊弉冉尊が共に協議して、既に大八洲(おおやしま)の国及び山川草木を生んだの
  で、天の下の主者(きみたるもの)を生もうと言って、日の神、月の神、蛭児を生んだ
  後に生まれたとあり、また、古事記では黄泉(よみ)の国から逃げ帰った伊邪那岐大神
  (いざなぎのおおかみ)が筑紫の日向(ひむか)の橘の小戸の阿波岐原(あわぎはら)で禊
  祓(みそぎはら)いをした際、天照大御神、月読命を生んだ後に鼻を洗ったときに生ま
  れたとある。前述したように、素戔嗚尊は天つ神に属するが、高天原から地上に追放
  された結果として、先住する民族としての国つ神の系譜をたどることになり、出雲に
  おいては、開拓祖神としての性格が加わることになる。
   出雲国風土記の仁多・大原・出雲の郡の条に「鳥上山」「斐伊の川」の記事が見え、
  素戔嗚尊が天降った簸の川の川上の鳥上の峯は、現在の島根県仁多郡横田町の斐伊川の上流に位置する鳥取県と島根県の境に
  ある船通山付近に比定されている。出雲国風土記の仁多の郡の横田の郷の条の小書きの割注に、三処・布勢・三沢・横田の郷
  を指して
    「以上の諸々の郷は鉄を産出するところである。堅くて様々な器具を造るのに最も適している」
  との記事が見られ、更に、仁多の郡の三処・三津・横田の郷の条、大原の郡の屋代・阿用の条、出雲の郡の漆沼・美談の郷の
  条などに水田の存在や正倉の所在を示す記事が見られ、古くから仁多の郡一帯が産鉄の地域で蹈鞴(たたら)が行われ、斐伊川
  の流域である仁多・大原・出雲の郡一帯では稲作が盛んであったことが推察される。
   蹈鞴とは、本来は製鉄や鍛冶で火炎を強化するために用いる空気を送る大型の鞴(ふいご)のことで、後に製鉄施設の全体を
  意味する言葉となったとされる。この地方一帯の蹈鞴では、製鉄や鍛冶の技術をもたらしてくれた職業祖神である鍛冶神とし
  て金屋子(かなやご)という神をもって守護神としているが、その素性は明らかでない。しかし、金屋子縁起抄によれば、古事
  記に見える鉱山の神である金山毘古神・金山毘売神の間に生まれたのが金屋子神であるとされる。古事記では、金山毘古神・
  金山毘売神は、火之迦具土神を生んで陰部を火傷して苦しんでいた伊邪那美命が嘔吐したときに、その嘔吐物から生じたとさ
  れ、この神の誕生の背景には、火を司る火之迦具土神(火神軻遇突智)が起因しており、金山毘古神・金山毘売神の間に生ま
  れたとされる金屋子という神に、製鉄や鍛冶にとって必要不可欠な「火」の存在があることは間違いないと思われる。
   日本書紀に見える簸の川の「簸」という字は、箕などで穀物をあおって糠を放り捨てること、また古事記に見える肥の河の
  「肥」という字は、土地などが肥えることの意味で、いずれも農耕との関係を示唆する呼称である。出雲国風土記の大原の郡
  の斐伊(ひ)の郷の条に
    「樋速日子命(ひはやひこのみこと)がここに鎮座しておられる。だから樋(ひ)という」
  という記事が見え、斐伊の郷の「斐伊」の字は元は「樋」で、神亀3年に改めたとされ、斐伊の川も同時に「樋の川」から改
  められたと思われる。
   樋速日子命は、現在の島根県大原郡木次町里方に鎮座する斐伊神社の祭神で、斐伊川の神格化と見られており、前述したと
  おり斐伊川の流域では稲作が盛んに行われていたと考えられ、「樋」とは、水を導き送るための長い管や溝などの設備の意味
  であり、「樋の川」は、稲作などにとって必要な水を導き送るための「用水路」に見立てた呼称ではないかと思われる。一説
  では、古事記に火之迦具土神を斬った血から樋速日命が生まれたとする記事が見え、この「樋」は、乙類の「hi」で、「火」
  や「乾」と同様な意味であり、「樋速」とは、火の勢いの猛烈なこと、あるいは熱によって物を乾かすことが速い意味とされ、
  火之迦具土神という火を司る神から生まれた樋速日命は、その性質を受け継ぐ神であることは言うまでもないことある。
   前述したように、この地方一帯では、古来から製鉄や稲作の文化が存在していたことが推察され、素戔嗚尊が天降った簸の
  川とは「火の川」がその元であり、火を司る神が製鉄や稲作と密接に結びついた呼称で、つまり、製鉄が盛んに行われている
  地域に源流を発し、稲作に必要な水を存分にもたらしてくれる川という意味ではないかと考えられる。
   脚摩乳(あしなづち)・手摩乳(てなづち)の子供である奇稲田姫は、霊妙不思議な稲田の姫神の意味とされ、稲田の守護神で
  あると同時に、巫女的性格も指摘されている。奇稲田姫の父母である脚摩乳・手摩乳は、古事記では国つ神大山祇神(大山津
  見神)の子供とされる。大山祇神は、日本書紀では伊弉諾尊が火神軻遇突智を斬ったときに生まれた神とされ、前述したとお
  り火山が地霊そのもので、蛇に象徴される神の化身の姿である大蛇であったとすれば、火を司る神として最初に生まれた火神
  軻遇突智(火之迦具土神)は大蛇であり、火神軻遇突智から生まれた大山祇神という山の神は大蛇としての性質を有している
  こととなる。当然、その子供である脚摩乳・手摩乳も、その孫娘である奇稲田姫も同様であることは多言を要しないところで
  ある。
   吉野裕子氏は、その著「山の神」の中で、大山津見神の「山津見」は「山の蛇(やまつみ)」であって、山の神は蛇を暗示し
  ている。蛇の子は蛇に相違ないが、そのとおりこの老夫婦はそれを物語っている。つまり、夫の名は「足無の霊(あしなつち)
  」、妻の名は「手無の霊(てなつち)」と読めるとし、手と足が無いのは蛇の一大特徴であるから、四肢の無い神霊というのは
  蛇をおいては考えられない。また、鼠を好んで補食する蛇は鼠の天敵であるから、蛇神の娘の奇稲田姫は稲田の守護神であっ
  て、ここから稲田を守る優れた霊蛇として奇稲田姫の名が生まれると考察している。
   奇稲田姫は、前述したとおり霊妙不思議な稲田の姫神の意味とされ、日本書紀の
    「今(いま)此(こ)の少童(おとめ)、且臨被呑(のまれな)むす」
  の記事は、「今、この娘、まさに受け入れられ、包み込まれようとしている」との意味に解され、また後に素戔嗚尊が、奇稲
  田姫の父母である脚摩乳・手摩乳に、稲田を守る宮の首長の意味である「稲田宮主神」の名前を授けたとする記事からも、奇
  稲田姫は、山の神(大蛇)に奉仕せんとする稲田に関わる巫女を想像させ、奇稲田姫は、大蛇である火神軻遇突智の玄孫にあ
  たり、祖先神である大蛇を敬い、これに奉仕することは、しごく自然なことでなのである。素戔嗚尊は、大蛇を巨大で恐ろし
  いものに仕立て、大蛇から姫を助ける善神として表現されているが、稲作の支配を示唆しているのではないかと推察する。
   日本書紀に、木花開耶姫(このはなさくやひめ)が天孫瓊瓊杵尊(てんそんににぎのみこと)と結婚して、御子火火出見尊(みこ
  ほほでみのみこと)を生んだとき、父大山祇神は大層喜んで、さっそく狭名田(さなだ)の稲を以て天甜酒(あめのたむざけ)を造
  り、天つ神・国つ神に供して祝った旨の記事が見られ、大山祇神は酒造りの始祖で酒解神(さかどきのかみ)と呼ばれる。脚摩
  乳・手摩乳が、素戔嗚尊の指示に従って酒を用意したのは、大蛇を酔わせて抵抗を不能にするためではなく、酒造りの始祖で
  ある大山祇神の子供である脚摩乳・手摩乳が、稲から造った酒を祖先神である山の神(大蛇)に供することは、また、自然な
  ことなのである。
   火山国である日本では、花崗岩や石英粗面岩のあるところなら、どこでも砂鉄は採れるが、前述したように、出雲風土記の
  仁多の郡の横田の郷の条には、産鉄に関する記事が注記されており、古来から、この地方一帯では良質な砂鉄が産出し、製鉄
  が行われていたことが想像される。素戔嗚尊が、大蛇の尾から剣を発見し、その剣を天つ神に献上したとする記事は、天つ神
  の意図によって、素戔嗚尊による産鉄資源の確保を示唆しているのではないかと推察する。古事記、日本書紀には、鉄に関す
  る記事が実に多い。これは、両書が編纂された6・7世紀において、国家体制の確立に鉄の存在が重要な位置を占めていたから
  にほかならないのである。縄文時代晩期から弥生時代前期にかけて、大陸から稲作や製鉄の技術がもたらされたことは、考古
  学上からも確かめられている。先住民族が崇拝する火の発生源の火山である地霊は、蛇に象徴され、稲作や製鉄と結びつき、
  更には、祖霊の神格が加わるなど、その霊力は多様化するに至り、山の神(峰の霊・大蛇)として変容していったと推察され
  る。

2 太陽復活祈願の神事「天石屋戸神話」
  天石屋戸神話は、須佐之男命の暴挙に立腹した天照大御神が石屋戸に隠れられたので、思金神
 が一計を案じ、天児屋命、天布刀玉命、天宇受売命、天手力男命などに命じて、目出度く天照大
 御神を石屋戸からお出しするという神話で、日本の古典である「古事記」「日本書紀」に記され
 ている。
  この神話については、天照大御神を中国の史書である「三国志」(陳寿)撰、297年)魏書東夷
 伝倭人条にある邪馬台国の女王「卑弥呼」に反映させて、邪馬台国の女王「卑弥呼」の死を神話
 化したとする説、また天照大御神が活躍した時代と思われる紀元230年から240年ごろの実際に
 起こった皆既日食現象を神話化したとする説など諸説が存在するが、この神話は、風水害などの
 自然災害に対して太陽の復活を祈願する神事を神話化したものではないか思われる。
  その立役者の一人である須佐之男命は、太陽が隠れる原因を作った神として登場し、その罪に
 よって高天原から根の国へ追放されたが、その後、八岐大蛇神話では大活躍し、一躍、英雄とし
 て復活を果たしている。

(1) 物語の概要
   古事記によると、須佐之男命は、天照大御神との誓約の勝ちに乗じて大御神の耕作する営田
  の畦を壊し、営田に水を引く溝を埋め、また大御神が新嘗祭の新穀を召し上がる神殿に糞をひり散らかした。更に大御神が神
  に献上する神衣を機織女に織らせている機屋に馬の皮を剥いで投げ込み、これに驚いた機織女が梭で陰部を突いて死んでしま
  った。
   これを見て恐れられた天照御大神は、天石屋の戸を開いて中にお籠もりになられた。そのた
  めに高天原はすっかり暗くなり、葦原中国もすべて暗闇となった。こうして永遠に暗闇が続き、
  あらゆる邪神の騒ぐ声は、夏の蠅のように世界に満ちて禍いが一斉に発生した。
   このような状態となったので、あらゆる神々が天安河に集まって、高御産巣日神の子の思金
  神に善後策を考えさせた。
   まず常世国の長鳴き鳥を集めて鳴かせ、次に天安河の川上の堅い岩を取り、天金山の鉄を採
  って、鍛冶師の天津摩羅を探して、伊斯許理度売命に命じて鏡を作らせ、玉祖命に命じて沢山
  の勾玉を貫き通した長い玉の緒を作らせた。次に天児屋命と布刀玉命を呼んで、天香具山の雄
  鹿の肩骨を抜き取り、天香具山の朱桜を取り、鹿の骨を灼いて占い、真意を待ち伺わせた。そ
  して、天香具山の枝葉の繁った賢木を根ごと掘り起こして来て、上の枝に勾玉を通した長い玉
  の緒をかけ、中の枝に八咫鏡をかけ、下の枝に楮の白い布帛と麻の青い布帛を垂れかけて、こ
  れらの種々の品は、布刀玉命が神聖な幣として捧げ持ち、天児屋命が祝詞を唱えて祝福し、天
  手力男神が石戸の側に隠れて立ち、天宇受売命が、天香具山の日陰蔓を襷にかけ、真柝蔓を髪
  に纏い、天香具山の笹の葉を束ねて手に持ち、天石屋戸の前に桶を伏せてこれを踏み鳴らし、
  神懸かりして胸乳をかき出だし、裳の紐を陰部まで押し下げた。すると高天原が鳴り轟くばか
  りに、八百万の神々がどっと一斉に笑った。
   そこで天照大御神は不思議に思われて、天石屋戸を細めに開けて、中から仰せられるには、「私がここに籠もっているので、
  天上界は自然に暗闇となり、また葦原中国もすべて暗黒であろうと思うのに、どういう訳で天宇受売は舞楽をし、また八百万
  の神々はみな笑っているのだろう」と仰せられた。そこで天宇受売が申すには、「あなた様にも勝る貴い神がおいでになりま
  すので、喜び笑って歌舞しております」と申し上げた。こう申し上げる間に、天児屋命と天布刀玉命が、その八咫鏡を差し出
  して、天照御大神にお見せ申し上げるとき、天照御大神がいよいよ不思議にお思いになって、そろそろと石屋戸から鏡の中を
  覗かれるときに、戸の側に隠れ立っていた天手力男神が、大御神の御手をとって外に引き出し申した。直ちに布刀玉命が、注
  連縄を大御神の後ろに引き渡して、「この縄から内に戻ってお入りになることは出来ません」と申し上げた。こうして天照御
  大神がお出ましになると、高天原も葦原中国も自然に太陽が照り、明るくなったとある。
   日本書紀も概ね古事記と同様の内容であるが、日本書紀本文では、素戔嗚尊が天照大神が神に献上する神衣を織っている斎
  服殿へ、生き馬の皮を剥いで投げ込み、それに驚いた大神が、機の梭で身体を傷つけたとあり、また一書では、天金山ではな
  く、天香山の金を採って石凝姥に日矛を作らせたとある。

(2) 神話の真意
   紀元前三世紀頃、中国から稲作文化が日本に伝来して以来、日本人は主として農耕を営み現
  在に至っている。古代、農耕は国の最も重要な産業であり、農耕民族にとって天地の安寧や季
  節の順調な推移は、極めて大切な事象で、特に農作物の成長に影響を及ぼす太陽の光は必要不
  可欠な存在である。そこで、農耕神としての太陽を反映した日の神たる「天照大御神」、いわ
  ゆる「皇祖神」が誕生したと考えられる。
   毎年、冬至の日に、その年に新しく採れた五穀の新穀を神に供えて、天照大御神及び天神地
  祇を奉り、天皇自らも新穀を食する宮中祭祀の一つである「新嘗祭」が執り行われるが、この
  ことからも、農耕と天照大御神との密接な関係が推察される。
   天照大御神が、石屋戸に隠れられる原因となった須佐之男命の悪事として、古事記では、天
  照大御神の耕作する営田の畦を壊し、田に水を引く溝を埋め、また大御神が新嘗祭の新穀を召
  し上がる神殿に糞をひり散らかし、更に大御神が神に献上する神衣を織っている機屋に馬の皮
  を剥いで投げ込み、これに驚いた機織女が梭で陰部を突いて死亡したとある。日本書紀も概ね
  古事記と同様の内容であるが、春の種播きの後、更に種を播き、秋には馬を田の中に放ち、ま
  た機屋に馬の皮を剥いで投げ込み、それに驚いた天照大神が梭で身体を傷つけたとある。
   ここにおいて、特に注目すべき悪事は前段部分の農耕に対する悪事と、後段部分の新嘗祭に
  対する悪事であるが、その前編でも、伊邪那岐命から海原を治めるように委任された須佐之男命は、国を治めず、長い髭が胸
  前に垂れるまで泣きわめき、その様子は青々と茂る山を泣き枯らし、河海まで泣き枯らしてしまった。この悪神のたてる音は
  蠅湧き上がり、万物は災いに見まわれたとある。前述したように天地の安寧や季節の順調な推移は、農耕民族にとっては極め
  て大切な事象であり、風水害などの自然災害によって引き起こされる農耕の障害を須佐之男命の悪事に置き換えて、それによ
  って太陽の光を反映した天照大御神が石屋戸に隠れるとする神話が作られたものと思われる。
   須佐之男命は、創造の神達「荒ぶる神・須佐之男命」の項でも記したように、その神性が疫神と考えられる一方で、その荒
  ぶる神性から疫気を祓う威力を発揮すると古くから信仰上でとらえられ、一名を「糺神(ただすのかみ)」ともいわれるのは、
  人々を悪疫から守り、秩序ある状態に導く善神と意識されたからとされる。

(3) 神話の考証
   天照大御神が、皇祖神としての性格のほかに太陽神としての性格を持ち合わせてい
  ることは、創造の神達「皇祖の太陽神・天照大御神」の項で記したところである。
   智恵の神である思金神は、天照大御神を石屋戸からお出しする仕掛けとして、常世
  国の長鳴き鳥を集めて鳴かせ、天香具山から取り寄せた賢木に上の枝に勾玉を通した
  長い玉の緒をかけ、中の枝に八咫鏡をかけ、下の枝に楮の白い布帛と麻の青い布帛を
  垂れかけて、これらの種々の品を神聖な幣として捧げさせた。これらの長鳴き鳥、あ
  るいは勾玉、八咫鏡、白・青の布帛は、いずれも太陽を復活させるための仕掛けあで
  る。長鳴き鳥は鶏のことで、鶏を鳴かせるのは太陽の昇天を促すことにあり、勾玉の
  「玉」は「霊(たま)」に通じ、石屋戸から出られる天照大御神の依り代である。また
  八咫鏡は太陽の象徴であり、白・青の布帛は、東方の空から昇り、西方の空に沈む太
  陽の運行を示唆している。陰陽五行思想の法則によれば、東の色は青、西の色は白と
  される。
   石屋戸神事の最高潮は、何と言っても天宇受売命の神事で、天宇受売命は、天石屋戸の前に桶を伏せてこれを踏み鳴らし、
  胸乳をかき出だし、裳の紐を陰部まで押し下げた。すると、高天原が鳴り轟くばかりに、八百万の神々が一斉に笑った。天宇
  受売命が桶を伏せて、これを踏み鳴らす行為は、一説には、貞観儀式(平安時代前期の貞観年間に編纂されたとされる儀式)
  の鎮魂祭条の巫女が伏せた槽を棒で撞く行為と類似するとされ、鎮魂祭は、太陽の最も衰える冬至の日の頃に、太陽と一体と
  見なされた天皇の生命力を回復する呪術で、魂振りを行う祭儀であったとされる。その反面、創造の神達「雨水の神・切目王
  子」の項でも記したように、雨乞いに太鼓を用いる最も大きな理由は、その大きな音が雷鳴に似ていることにより、類感呪術
  として効果を期待するためと思われる。天宇受売命が踏み鳴らす桶の音も、それと同様に雷鳴の疑似音を発生させ、農耕の障
  害である風水害などの自然災害という災厄の最大の効力を利用する神事によって、天照大御神を錯覚させたのではないかと思
  われる。
   性器崇拝は、全国に分布しているといわれる。奈良県生駒郡平群町の南の伊文字川近くの山
  裾に、高さ9メートル、横幅18メートルの巨岩があり、古来、これが御神体とされ、その中央
  の裂け目が女陰を表し、崇拝の対象とされる。この巨岩に性の営みが関連づけられて、穀物の
  豊饒を祈願する信仰とされる。天宇受売命が陰部を露出した行為は、馬の皮を剥いで機屋に投
  げ込まれ、これに驚いて梭で陰部を突いて死亡した機織女の生殖力の再生、ひいては天照大御
  神という太陽神の復活による穀物の豊穣を期待するための神事と思われる。
   山口県防府市大道の小俣地区の小俣八幡宮に伝わる「笑い講」の神事は、上座と下座に座っ
  た講員に大榊が3本ずつ渡され交互に3回笑い合い、3回の笑いのうち、1回目はその年の収穫
  を喜び、2回目は来年の豊作を願い、3回目はその年の悲しみや苦しみを忘れるためであるとさ
  れる。「笑い」は、全ての植物が芽吹く春を招く呪術的な所作ともされ、天宇受売命の歌舞に
  対する高天原に轟くばかりの神々の笑いは、収穫感謝や豊作祈願の笑いの神事と思われる。
   天照大御神は、天宇受売命が踏み鳴らす桶の音と神々の笑いという相反する神事を不思議に
  思われ、天石屋戸を細めに開けて、その理由を尋ねられたのである。

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