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 基本的な法則

1 潮祓
  神楽曲目「潮祓」は、「塩浄め」とも呼ばれ、神楽舞の初めに1人又は2人の舞人が、幣、扇の
 採物を持って舞う儀式舞で、古事記(太安万侶撰、712年)上巻に見える「ここを以ちて伊邪那
 岐大神詔りたまはく、吾はいなしこめしこめき穢き国に到りてありけり。かれ、吾は御身の禊ぎ
 せむと詔りたまいて、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到りまして、禊ぎ祓いたまいき」の伊
 邪那岐大神の禊祓いが神話的起源とされ、舞殿を浄め、八百萬の神々を迎えるために舞われると
 いうのが一般的である。
  神社に入る際に口を濯ぎ手を洗ったり、力士が土俵で塩を撒くのも、料理屋などで入口に盛塩
 をするのも、全てこの禊祓いに由来するとされる。
  日本では、穢れを非常に忌み嫌い、古代人は穢れを如何に浄化するか頭を悩ませ、水で祓った
 り、紙などの人形に撫でつけて祓うなど、穢れを浄める方法を様々に考案した。神楽においては、
 陰陽五行思想の法則を使って、「潮祓」という言葉で舞殿を浄化するための方法が考えられた。

(1) 禊祓い
   神道においては、何よりもまず「清浄」を尊ぶとされ、穢れがある状態で神迎えをしても、
  神はその不浄を嫌って祭りは成立しないとされる。したがって、神を祀るにあたっては、穢れ
  を浄化するための「禊祓い」を行って浄めることが必要なのである。
   禊祓いは、穢れや災い、凶事を取り除き、浄き正しい状態、つまり本来あるべき姿に戻すことで、穢れや災い、凶事を排除
  し、浄き正しい状態に復元することとされている。ここにいう「排除」とは、絶対的な排除を意味するのではなく、穢れとな
  って現れる過剰した自然に対し浄化の力を施して、元のバランスのとれた状態に戻す作用であると考えられている。
   「浄め」とは、神道にとってとりわけ大きな意味を持つ「浄化」に係わる重要な宗教的な働きを指す言葉で、「浄め」るこ
  とは単に穢れの反対の状態をさす言葉ではなく、浄化のプロセスそのものを指しているとされる。

(2) 天地開闢説と浄め
   神道にいう「浄め」ないしは「清浄」とは、天地開闢説との係わりで理解しなければならないとされる。
   天地が開闢するとは、それまでの虚無の中から有が生まれることである。万物の根元となるものが生成してしまえば、それ
  は現実の世界となってしまうけれど、この虚無の中から正に物質が生じようとする有でも無でもない瞬間そのものが「浄め」
  られた清浄な状態とされる。

   注解  天地開闢とは、「陰陽五行思想」によれば、原初、宇宙は天地未分化の混沌たる状態であったが、この「混沌」の
      中から光明に満ちた軽い澄んだ気、つまり「陽」の気がまず上昇して「天」となり、次に重く濁った気、すなわち
      「陰」の気が下降して「地」になったとされ、日本の古典である「日本書紀」(舎人親王撰、720年)巻第一の神代
      上にも「古に天地未だ剖れず、陰陽分れざりしとき、渾沌れたること鶏子の如くして、溟Aにして牙を含めり。其れ
      清陽なるものは、薄靡きて天と為り、重く濁れるものは、淹滞ゐて地と為るに及びて」と引用されている。

(3) 所作の類似性
   苅屋形神楽団の「潮祓」は、大きくは二段から構成され、その所作はすべての舞の基本の型とされている。
   右図は、一段の所作を簡単に図示したものであるが、中央を拝み、円を描くように順の方向へ
  進み、折り返して中央を拝み、逆の方向へ円を描くように祓いながら進み、元の位置から定めら
  れた方角へ進んで拝み、元の位置へ後退した後は、更に前へ進みながら祓いの所作を行って、舞
  人自身が回転しながら、逆、順の方向へと進む。これらの所作は、東・南・西・北方とそれぞれ
  方角を変えて行われ、「四方参殿」と呼ばれている。
   最後は、中央を拝み、中央を対角線に進み、折り返して中央を拝み、更に中央を対角線に進ん
  だ後は、舞人自身が回転しながら逆、順の方向へ進む所作が行われる。この対角線に横切る所作
  は、「切り参殿」と呼ばれている。なお、参殿とは宮殿に参拝するという意味である。
   二段の所作も一段の所作とほぼ同様であるが、相違しているのは、逆の方向へ祓いながら進ん
  だ後は、中央への膝を着いての拝みとなっている。この所作は、「膝着き参殿」と呼ばれている。
  これらの所作は、一段の所作と同様に東・南・西・北方とそれぞれ方角を変えて行われる。
   一段、二段の東・南・西・北方を重視する一連の所作は、「四方立て」などと呼ばれ、また中央を加えて「五方立て」など
  と呼ばれる。
   陰陽五行思想によれば、原初唯一絶対の存在を混沌とし、陰陽の二気がそこから派生し、その二気のうち陽気は上昇し天と
  なり、陰気は下降して地になり、その原理は、次の二種に大別することができるとされる。
    ○ 陰陽二気は互いに相反する本質を持つ
    ○ 陰陽二気は限りなく細分化する傾向を持つ
   前者は、陰陽が元来同根故に互いに往来し、交合交感するものであるが、この二気が相交わり、相和する所以は、同根とい
  うことのみにあるのではなく、その真の縁由はこの二気の本質が全く相反するところにある。この相反する本質のうち、特に
  著しいのは、「陽は進み、陰は退く」ということである。この相反する本質が、本当の和をもたらす、換言すれば、陽は進み、
  陰は退く故によりよく調和するのであって、均衡が保たれるのである。
   後者は、陰陽の二気は細分化する傾向を持ち、限りなく分化して森羅万象の中に顕現し、有形無形を問わず、万物万象の中
  に存在する。例えば、季節という無形の時間も、まず陰陽の二気に分けられ、冬至から夏至に至る時間は陽、夏至から冬至に
  至る時間は陰となり、この陰陽が更に細分化されて、木、火、土、金、水の五元素によって象徴されることとなれば、春、夏、
  秋、冬及び各季節の終わりに置かれる土用となるのである。

   注解  陰陽の二気は、元来、混沌という一気から派生したもので、いわば同根の間柄である。そこで陰陽の二気は、お互
      いに引き合い、親密に往来し、交感・交合する。つまり天と地、あるいは陰と陽はお互いに全く相反する本質を持つ
      が、元来が同根であるから、お互いに往来すべきものである。更に、本質を異にする故に、反ってお互いに牽きあっ
      て、交感・交合するものである。例えば、光と影、昼と夜、男性と女性といった具合である。
       陰陽の二大元気の交合の結果、木、火、土、金、水の五元素あるいは五気が生じ、この五元素の輪廻・作用が「五
      行」である。五行の「五」は、木、火、土、金、水の五元素、あるいは五気を指し、「行」は動くこと、廻ること、
      作用を意味する。例えば、一日の朝、昼、夕、夜も、一年の春、夏、秋、冬の推移も、全てこの五行である。
       この五行には、「相生」と「相剋」の二つの法則が考えられた。相生は、木は火を生じ、火は土を、土は金を、金
      は水を、水は木を生じるという順序で、木、火、土、金、水の五気が順送りに相手を生み出して行くプラスの関係で
      ある。これは、簡単に、「木生火」「火生土」「土生金」「金生水」「水生木」で表現される。
       このような相生の循環の考え方の基礎は
        ○ 木生火〜木と木の摩擦によって発生する火
        ○ 火生土〜物の燃焼によって生成する灰、すなわち土
        ○ 土生金〜地中において組成される鉱物
        ○ 金生水〜空気中の湿度が高いとき、金属の表面に付着する水滴
        ○ 水生木〜水に含まれる養分を吸収し生育する植物
      である。
       相生が順送りに相手を生じてゆくのに対し、相剋は反対に、木、火、土、金、水の五
      気が順送りに相手を剋してゆくことである。相剋は、木気は土気を剋し、土気は水気を
      剋し、水気は火気を剋し、火気は金気を剋し、金気は木気を剋するというマイナスの関
      係である。この様相は、「木剋土」「土剋水」「水剋火」「火剋金」「金剋木」と表現される。
       これは、相生と同じく
        ○ 木剋土〜植物は根を地中に張って土を酷使
        ○ 土剋水〜土石は水をせき止め、あるいは流れを変更
        ○ 水剋火〜火を消す最良の手段は水
        ○ 火剋金〜金属は高温の火で溶解
        ○ 金剋木〜木は金属で出来た斧、鋸で伐採
      という単純な考え方である。

2 尊神
  神楽曲目「尊神」は、芸北地方の一部地域で舞われている曲目で、必ず「潮祓」の次に奉納す
 ることとされる。
  この尊神は、最初は強い調子の奏楽により鬼棒を持って荒々しく舞い、途中からは軽快な調子
 の奏楽により鬼棒を御幣と扇に持ち替えて優雅に舞う神の一人舞である。
  この曲目の考察については、別途、創造の神達「原始の神・尊神」の項で記すことにするが、
 尊神とは、神を尊ぶこと、又は尊い神のことの意味であるが、苅屋形神楽団では、この曲目に登
 場する神は「言葉を発することができない神」と古くから伝わっており、その出所、由来に関し
 ては全く不明で非常に謎めいた曲目である

(1) 原始の神
   天地開闢の際に出現した最初の神として、古事記では天御中主神、日本書記本文では国常立
  尊が見える。天御中主とは、天の中央にあって天地を主宰する意味とされる。また国常立とは、
  国土の土台が出現し、大地が姿を表す意味とされる。いずれの神も原始の神、あるいは根源の
  神として、伊勢神道を中心とする中世神話においては重要な位置を占める神格で、神道理論家
  の間で重要視されてきたとされる。
   伊勢神宮の外宮の祭神は豊受大神であるが、外宮は、雄略天皇の時代に天照大御神の御饌都神(食物を司る神)として、豊
  受大神を丹波国より迎えて創祀されたといわれる。室町時代に吉田兼倶が伊勢神道の教理体系を基調として唱道し、明治維新
  に至るまで陰陽道宗家や各神道流派、仏教界にまで影響与えたといわれる吉田神道には、最高神として「大元尊神(たいげんそ
  んじん)」が据えられており、古事記、日本書紀の初めに見える天御中主神、国常立神は豊受大神の別称であり、大元尊神と同
  一神であるとされる。神楽曲目「尊神」も大元尊神と同一神であると思われる。

(2) 所作の類似性
   苅屋形神楽団の「尊神」は、大きくは三段から構成されており、一段、二段は、舞人が鬼
  棒を持って、奏楽と神楽歌に合わせて拝、順、逆の所作で舞われる。三段は、舞人が鬼棒を
  御幣と扇に持ち替えて、神楽曲目「潮祓」の一段と同様の所作で舞われる。
   右図は、尊神の一段の所作を簡単に図示したものであるが、舞人自身が中央で順、逆に回
  転した後、矢印の方向へ拝み、三角形の順の方向へ進んで各角を拝み一巡する。一巡後は、
  更に次の方角の位置へ移動し、同一の所作が繰り返される。これらの所作は、東・南・西・
  北方と、それぞれ方角を変えて行われる。
   最後は、中央を拝み、中央を対角線に進み、折り返して中央を拝み、更に中央を対角線に
  進む所作が行われる。
   二段の所作も一段の所作とほぼ同様であるが、相違しているのは、舞人自身が中央で順、
  逆に回転した後は三角形ではなく、円を描くように順の方向へ進む所作となっている。これ
  らの所作は、一段の所作と同様に東・南・西・北方と、それぞれ方角を変えて行われる。
   陰陽五行思想における「三合の理」によれば、森羅万象は、いずれも始めがあって盛んになり、そうして終わる。それが生、
  旺、墓と表現される。
   陰陽五行思想の法則の最も顕著な特徴は時間、空間の一致であり、最も重要な時間は季節で表される。この季節に対してこ
  の理を当てはめると、季節の初めの春は、木気に配当され、それは旧暦の一・二・三月、十二支でいえば寅、卯、辰の三か月
  である。正月の寅月は春の生気、つまり、初めであり、二月の卯月は春の真っ盛り、旺気である。三月の辰月は春の終わり、
  墓気となる。これは春に限らず、夏、秋、冬の各季節についても同様の考え方である。この理は、更に一つの季節超えて、を
  三つの季節に亙っても考えられているとされる。
   神楽曲目「尊神」の一段の三角形を順の方向に進む所作は、この理が取り入れられているものと思われる。
   吉野裕子氏によれば、「三合の理」について、すべての生物及び事象には栄枯盛衰があるが、その原理を締めくくる言葉は
  「生まれた。生きた。死んだ」の三語に尽きる。
   森羅万象は、いずれも始めがあって盛んになり、そうして終わる。何事も始まらねば盛んにならず、盛んになることなくし
  て終わりはなく、終わりなくして始まらない。こうして輪廻する。生、旺、墓の盛衰の原理の中には、輪廻が潜められていて、
  生、旺、墓の三つが具備しなければ、万物は生々流転、輪廻転生を行い得ないと説くとしている。

   注解 「三合の理」は万物の中に普遍的に考えられているが、季節を例にとって考えると、
     例えば水気であるが、これは季節でいえば冬で亥、子、丑の三か月であって、この場
     合、亥の十月を「生」、子の十一月を「旺」、丑の十二月を「墓」とする。
      しかし「三合の理」を当てはめて考えるとき、冬、あるいは水気は亥、子、丑に限
     らない。冬、あるいは水気の兆しは、既に申月(旧暦七月)に見え、子月(旧暦十一
     月)に盛んになり、辰月(旧暦三月)に漸く終わるのである。
      この申、子、辰の三支は水気の生、旺、墓であって、三支は合して水気一色になる。
     冬の気配は申月に忍び寄り、子月に至って最も盛んになり、辰月に終息する。
      申月(旧暦七月)、辰月(旧暦三月)に季節外れの寒気に見舞われるのはこのため
     である。冬、あるいは水気の三合は申、子、辰であって、それは秋(旧暦七月)、
     (旧冬暦十一月)、春(旧暦三月)に亙る訳である。
      土気の三合は火気の三合に重なり合うが、その順が違っていて、午が生、戌が旺、
     寅が墓で、火気は午が最も盛んであるが、土気はそれに対して戌が旺に当たる。土気
     の勢いは戌(旧暦九月)に極まるのである。

3 四神
  神楽曲目「四神」は、別名で「剣舞」「笠の舞」とも、あるいは「笠の手」とも呼ばれ、青色、
 赤色、白色、黒色をした狩衣をそれぞれ着用した4人の舞人が、幣頭(小さな幣)、輪鈴、扇の採
 物を持って、順、逆、拝、祓、踏の所作で舞われる儀式舞である。
  苅屋形神楽団の「四神」は、大きくは大きくは三段から構成されており、一段は、4人の舞人が
 幣頭と輪鈴を持って、奏楽と神楽歌に合わせて順、祓、拝の所作で舞われる。二段は、4人の舞人
 が東・南・西・北方に着座して拝の状態で、大太鼓のみの奏楽に合わせて掛け歌によって 「雨」
 の神楽歌が唄われる。三段は、4人の舞人が輪鈴、扇を持って、奏楽と神楽歌に合わせて順、逆、
 踏、拝の所作で舞われる。最後のクライマックスである、いわゆる「八つ花」といわれる場面で
 は、4人の舞人が一定の規則に従って順、逆、斜と、それぞれ交差する組み手で締め括られる。
  神楽曲目「四神」は、古くから最も重要とされる曲目の一つとして継承されてきた。これは、1
 年の推移を自然に任せて放置することなく、人間の側でも陰陽五行思想の法則を使って、天地の
 安寧や季節の順調な推移を促し、穀物の豊穣などを期待するために必要不可欠な儀式舞であった
 からと思われる。時間、空間を色彩で具現化し、森羅万象の在り方まで説く古代中国の陰陽五行
 思想は、日本文化のあらゆる分野に影響を及ぼしながら今日まで至っている。陰陽五行思想が、
 如何なる経緯をもって神楽に取り入れられたのか判然としないが、何れにしても先人は、陰陽五
 行思想の意味を十分理解して取り入れたものと思われる。

(1) 四神の語源
   神楽曲目「四神」は、「ヨジン」と呼ばれているが、陰陽五行思想から発展した「二十八宿」の「四神」(ししん)と同義語
  ではないかと推察する。
   時間、空間の一致は、陰陽五行思想における最も顕著な特徴であり、四神(ししん)は、四方・四季を司る神で、まさに時
  間、空間の一致を象徴する神の姿であると思われる。人間生活の基盤としての時間の中で、最も重要な時間は「年」であり、
  日本人が如何に年を重要視したかは、この年がそのまま「年穀」「年得」と同義語であることからも伺われる。穀物は、春か
  ら夏にかけて活動の最潮期を迎え、やがて秋の収穫となって収束する。この四季の推移が年であり、順調であることが人間生
  活にとっては必須条件なのである。
   なお、神楽曲目「四神」が、別名で「剣舞」と呼ばれる理由として、「反閇」(へんばい)が訛ったとする説が存在するが、
  陰陽道で用いられる呪術的歩行である「反閇」の型が、この曲目の所作の中に取り入れられていることによるものと思われる。
   また別名で「笠の舞」、あるいは「笠の手」と呼ばれる理由は、二段の所作で、幣頭を笠に見立てて、大太鼓の奏楽と雨の
  神楽歌に合わせて舞われることから、穀物の成長にに影響を及ぼす「祈雨」「止雨」の意味があるものと思われる。

    注解  四神(四禽)は、東、南、西、北の四方を司る天の四神とされる。黄道(太陽の運行する経路)に沿って天球を
       28に区分し、星宿の所在を明確にした二十八宿に基づくもので、各宿にはそれぞれ規準の星(距星)があるが、各
       宿の間隔は等分ではなく、太陰(月)が凡そ1日に1宿づつ宿るところとされ、二十八宿のうち、東方七宿・春を司
       る神は「青龍」又は「蒼龍」で龍の姿、南方七宿・夏を司る神は「朱雀」で鳥の姿、西方七宿・秋を司る神は「白
       虎」で虎の姿、北方七宿・冬を司る神は「玄武」で亀の姿でそれぞれ表現され、各神には青(蒼)、赤(朱)、白
       (素)、黒(玄)の四色が配当されている。
        なお、この四神に中央に位置する「黄龍」を加えて、「五神」と呼ばれている。黄龍に関して、中国の神話伝説
       の書「述異記」(祖沖之撰、429〜500年)には、「蝮が五百年間泥水に育つと蛟龍(雨龍)になり、蛟が千年経
       ると龍になり、龍が五百年経て角龍になり、更に千年経つと応龍になるといわれ、この年老いた龍は黄龍と呼ばれ
       る」とある。すなわち黄龍は、森羅万象の一切を守護するものとして神格化された龍と思われる。

(2) 所作の類似性
   右図は、四神の一段の所作を簡単に図示したものであるが、4人の舞人は矢印の方向へ祓、拝
  の所作を行った後、順の方向へ四方を一巡する。一巡後は、更に次の方角の位置へ移動し、同
  一の所作が繰り返される。
   陰陽五行思想における時間、空間の一致は、最も顕著な特徴であることは前述したとおりであ
  るが、時間、空間を象徴する季節、方位は、すなわち春、夏、秋、冬の四季と何れの季節にも含
  まれない土用及び東、南、西、北の四方と中央で、青、赤、白、黒、黄の色彩で表現される。
  この5種の色彩は、究極的には季節、方位に限らず、存在するすべてのものに及ぶとされ、時間、
  空間を統合し、宇宙そのものを表現するとされる。
   一段の所作は、四方、中央が重視されており、これらに対する祈りの所作と考えられ、天地の
  安寧や季節の順調な推移への祈願を意味しているものと思われる。祈願は、天地の安寧や四季の
  順調な推移であり、ひいては年穀の実りである。
   なお、逆の方向の所作が無いのは、継承する過程において脱落したものと思われる。
   右図は、四神の二段の所作を簡単に図示したものであるが、4人の舞人は矢印の方向へ祓の所
  作を行った後は着座したまま、拝の所作で、大太鼓の奏楽に合わせて雨の神楽歌(津の国の和田
  の岬に時雨来て、笠持ちながら濡るるよしもがな。空晴れて雲の景色は良けれども、紫雲が西に
  棚引く。もし降らばお宿頼みし三笠山。雨漏らさじの柏木の森。実に漏らさじの柏木の森)が唄
  われる。
   日本においては、神話時代から水を神聖視し、弥都波能売神、闇淤加美神という神々を、水を
  用いるそれぞれの生活の場で信仰してきた。6世紀には中国から仏教が伝来し、龍神や龍王の名
  に取り替えられたが、雨乞いやその他諸々の災厄除けの祭礼行事となって今に残るものも多い。
   二段の所作は、水神、雨神としての黄龍に対する祈雨、止雨であり、ひいては穀物豊穣の祈願
  を意味しているものと思われる。
   右図は、四神の三段の所作を簡単に図示したものであるが、4人の舞人は矢印の方向へ踏、拝
  の所作を行った後、順の方向へ四方を一巡する。一巡後は逆の方向へ四方を一巡して、更に次
  の方角の位置へ移動し、同一の所作が繰り返される。最後の「八つ花」と呼ばれる所作では、4
  人の舞人が一定の規則に従って、順、逆、斜とそれぞれ交差する所作が行われる。
   陰陽五行思想は、森羅万象を陰陽の二元の対立において把握するが、森羅万象の把握はもちろ
  んそれだけでは不完全である。森羅万象は対立すると同時に循環するものである。この循環は、
  交感・交合及び相生・相剋という法則に基づくもので、森羅万象の循環は、プラスの面のみを強
  調して活動し続ければ必ず破局を迎える。一方に必ずマイナスの面が必要とされる。
   この二面があってこそ、森羅万象は初めて穏当な循環が得られ、永遠性が保証される。すなわ
  ち、前述した天地の安寧や季節の順調な推移、雨の恵みは、人間生活にとってその時々の一時的
  なものではなく、永久的に保証される必要があるのである。

    注解  陰陽五行思想の法則の木、火、土、金、水は、お互いに相生・相剋して輪廻するが、同時に、この木、火、土、
       金、水は、五元素としてあるばかりでなく、宇宙の万象、つまり色彩、方位、季節、天神、十干、十二支、人間精
       神、惑星、内蔵、徳目等を象徴するものである。
        これらの一部を示したのが、次表の五行配当である。
五行五色五方五時五神十干十二支五事五星五臓五常
青龍甲乙寅卯木星
朱雀丙丁巳午火星
中央土用黄龍戉己辰未戌丑土星
西白虎庚辛申酉金星
玄武壬癸亥子水星
        この表を横に読むことによって、色彩、方位、季節などが木、火、土、金、水の五気に配当されていることが判
       り、また縦に読むことによって、気を同じくするものはお互いに象徴関係にあることが判る。
        なお、太陽、月及び木星、火星、土星、金星、水星の五惑星は、古代、当時の人が知り得る動く星であり、それ
       が陰陽五行思想と上手に合致した。
        色彩は、五行配当の中で極めて重要で、ここに選ばれた五色は、赤、青、黄の三原色に全反射と全吸収の白と黒
       を加えたもので、いわば色の基本である。
        五行に配当されたこの五色は、現在でも社寺の大祭や落慶式に、この五色の幟のはためく様が見られるが、それ
       は単なる装飾ではなく、五色の幟によって象徴されるものは、究極的には宇宙の万象を象徴することになる。
        五行と五色の関係は、非常に感覚的なもであり、次のとおり把握すれば非常に判り易い。
         ○ 木・青〜木の葉の色は青色
         ○ 火・赤〜火の色は当然に赤色
         ○ 土・黄〜土の色は黄色
         ○ 金・白〜金(鉄)の色は白色
         ○ 水・黒〜水は暗(黒)い低処に集積
        中国哲学において、時間・空間の一致は顕著な特質であるが、それを最もよく示しているのは、古代中国におけ
       る1年12か月の星座、気候と、その月々に行うべき行事の記録である「禮記」(周から漢にかけて儒学者がまとめ
       た礼に関する書物を戴聖(たいせい)が編纂したもの)の月令中の「天子は・・・青衣を衣、倉玉を服し・・・立春
       の日、天子親ら三公、九卿、諸侯、大夫を帥い、以って春を東郊に迎え・・・天子は・・・朱衣を衣、赤玉を服し
       ・・・立夏の日、天子親ら三公、九卿、大夫を帥い、以って夏を南郊に迎え・・・天子は・・・白衣を衣、白玉を
       服し・・・立秋の日、天子親ら三公、九卿、諸侯、大夫を帥い、以って秋を西郊に迎え・・・天子は・・・黒衣を
       衣、玄玉を服し・・・立冬の日、天子親ら三公、九卿、大夫を帥い、以って冬を北郊に迎え・・・」という記事で
       ある。
        中国哲学は、季節の順調な循環を重視する。それによって天下太平、民生安定の一切が期待されるからである。
       季節の順調な循環を促す有効的手段は、この目に見えない季節というものを、まず彼らの法則に従って色彩、方位
       に還元することであった。色彩と季節、色彩と方位の関係がいかに濃厚であるかは、次のとおり四季の名称及び方
       位の神の四神に、すべて色彩名が冠せられていることからも判る。
         ○ 春〜青陽(初春)
         ○ 夏〜朱夏(朱は赤色の意)
         ○ 秋〜素秋(素は白色の意)
         ○ 冬〜玄冬(玄は黒色の意)
         ○ 東〜青龍(又は蒼龍)
         ○ 南〜朱雀(朱は赤色の意)
         ○ 西〜白虎
         ○ 北〜玄武(玄は黒色の意)
        陰陽五行思想において、色彩は五元素そのものを象徴すると同時に、更に進んで目に見えない時間・空間を具現
       化して、人間生活万般の規範となり、これを規制し、四季の順調な循環の祈願に際しては、無二の扶翼者となって
       いるのである。
        五方は、陰陽五行思想が発祥した中国大陸を中心に、東、南、西、北という文字の解字を理解すれば納得できる。
       中央に位置する黄土に覆われた広大な大地を中心として
         ○ 東〜地平線に隠れた太陽(解字は底のない袋に物を入れ両端をくくった形)
         ○ 南〜簡単に作られた家でも十分生活できる温暖地方(解字はテントの形)
         ○ 西〜白い雪を頂いた山脈(解字は酒を絞る駕篭の形)
         ○ 北〜寒冷地方への反発(解字は二人の人が背を向け合って相反している形)
       となる。

(3) 四神と反閇
   「反閇」(へんばい)という聞き慣れない言葉は、陰陽道で用いられる呪術的歩行のことで、道教にその淵源を発している
  とされる。道教では「兎歩」(うほ)という北斗七星の形や八卦の意味を込めた歩行法があり、これによって、安全の保障な
  どを得ることができるとされている。
   この兎歩が陰陽道に取り入れられて反閇と呼ばれ、地霊や邪気を祓い鎮め、その場の気を整えて清浄にする目的で行われる
  とされる。狭義には、秘術を唱えながら、独特な足捌きで力強く足踏みをし、これによって悪星を踏み破って吉意を呼び込む
  というもので、陰陽道独特の星辰信仰の上に立脚した呪術的歩行とされる。反閇は、神楽や能楽などに取り入れられて、相撲
  で踏まれる「四股」もその延長線上にあるとされ、その歩行法はそれぞれ多様に展開している。
   右図は、神楽舞「四神」の第三段の「踏」という所作の足捌きを、簡単に図示したものであるが、北
  斗七星の配置と比較して見ると、その足捌きは、まさに反閇の原点である北斗七星の形を踏んでいるこ
  とが良く判る。
   陰陽五行思想の法則が、神楽曲目「四神」に取り入れられていることは前述したとおりであるが、陰
  陽道の反閇も、また災厄や疫病などを排除して、生活の安寧を希求するために取り入れられたものと思
  われる。

    注解  反閇という歩行法の元となった兎歩の起源は明らかではないが、その歩行が足の不自由な
       者の跛行(足を引きずる歩き方)に似ていることから、古代中国の伝説上の聖王・兎王の跛行の姿を、兎王の巫術
       を受け継いだ後代の巫覡(神に仕えて人の吉凶を予言する者)が模倣したのがその起源であると、「荀子」(中国
       戦国時代の思想書、全二十巻、荀子著、成立年代未詳)などにあるとされる。
        伝説によると、兎王は、中国最初の世襲王朝「夏」の創始者で、功ならずして死に至った父・鯀の後を次いで治
       水事業に全力を傾注し、山河を巡りながら遂に全土を治めることに成功した。寝食を忘れて治水事業に奔走した兎
       王は、やがて過労によって下半身が不自由となり、足を引きずるような独特な歩き方をするようになってしまった。
       一説には、兎王の巡った名山は5,370山、その行程は64,056里にも及んだとされる。
        兎歩は、巫覡によって模倣されて呪術的所作へと発展し、道教の祭祀に用いられる呪術法となり、その後、反閇
       として陰陽道に取り入れられた。理由は明らかではないが、一般的に、道教の兎歩が、鬼神を召し出して使役する
       ための歩行法であるのに対して、陰陽道の反閇は、地霊や邪気を祓い鎮めるための歩行法で、その考え方に相違が
       見られるが、いずれも、最終的に期待される目標に大きな相違はないとされる。
        兎歩は、一般的には足を3回運んで一歩とし、合計9回の足捌きとなる。これを道教では「三歩九跡法」と呼ばれ
       る。なぜ九跡を踏むかというと、北斗七星の数を踏む(踏斗)ためと、道教では説明している。北斗七星そのもの
       は七星だが、道教や陰陽道では、弼星(ひつせい)と輔星(ほせい)という二つの星を加えて九星とするとされ、道教
       を受容した陰陽道では、この三歩九跡は「九星反閇」と呼ばれる。
        兎歩には、前述した「三歩九跡法」のほか、「十二跡兎歩法」「三五跡兎歩法」「天地交泰兎歩法」「交乾兎歩
       法」など様々な法があり、用途に応じて使い分けられるとされる。どれも共通していることは、三・七・九などの
       天空の北斗七星や日月の運行、易の八卦などと関わり深い歩順で行われることなどである。
        反閇が成立したのは、安倍晴明が活躍した十世紀後半で、以後、様々な陰陽道祭祀に取り込まれたとされ、確実
       に反閇が行われた陰陽道祭には、玄宮北極祭、三公五帝祭、呪詛返却祭、荒神祓、六道霊気祭があるとされる。ま
       た反閇は、天皇や皇族らが自分の本来の居住場所(大内、内裏)から出て、別の殿舎や寺社などに行く場合にも、
       陰陽師よって奉仕されたとされる。
        安倍晴明自身が反閇を行ったとされる記録も残されているとされ、例えば、長徳3年には、母の病気を見舞う一条
       天皇のためにこれを行い、寛弘2年には、大原野社に参詣する中宮の彰子のために反閇を行ったとされる。

4 五郎王子
  「五郎王子」は、東、南、西、北及び中央の方角に、太郎、次郎、三郎、四郎、五
 郎の兄弟王子をそれぞれ配置し、春、夏、秋、冬及び土用の五季を領地に見立て、領
 地争いを神楽化したもので、最終的には、惶根尊の調停により、春、夏、秋、冬及び
 土用の領地を等分に所有するという曲目である。
  この五郎王子は、地域によっては「五龍王」「五神」とも呼ばれ、王子の名は、青・
 赤・白・黒・黄龍王や春青・夏赤・秋白・黒冬・埴安大王などとされ、また惶根尊は、
 塩土老翁、お爺などに置き換えられている。
  広島県中部の山間部では、「五行祭」(通称「王子神楽」)が執り行われているが、
 「五郎王子」と内容をほぼ同一とする神楽で、延々七時間にもわたって舞われる。こ
 の神楽は、語りを主、舞を従とする、いわゆる祭文を語る形式が採られている。また
 広島県西部の沿岸部では、「十二神祇神楽」が執り行われ、この神楽も「五郎王子」
 と内容をほぼ同一とする神楽で、その内容を分割し、各曲目として舞われる。
  この曲目は、陰陽五行思想の法則を基軸として、神道の精神、仏教の哲理、儒教の道徳などを挿入して創作されているが、そ
 の主体は、穀物豊穣の祈願にあると思われる。穀物豊穣は民生保障の基本であり、ひいては国家の安寧・秩序の基本である。そ
 の穀物豊穣は、偏に四季の順調な推移によって可能であり、それによって初めて期待されるのである。
  この穀物豊穣の基本的な条件である四季の推移と、その順調な循環を司るものが「土用」であり、この曲目に登場する末子五
 郎王子の領域なのである。

(1) 各王子の支配関係
   各王子(龍王、大王)に割り当てられている色彩、方位、領域、境界などを整理したのが次表で、古代中国の陰陽五行思想
  の五行配当に対応していることが判る。
王 子色 彩方 位領 域境 界所 在支 配
太 郎寅 卯甲 乙
次 郎巳 牛丙 丁
三 郎西申 酉庚 辛
四 郎亥 子壬 癸
五 郎中 央土用丑辰未戌戉 己

(2) 1年の構造
   「暦」の語源は「日読み」(かよみ)、つまり日を数えることだといわれている。
   人間が自然の中で生活を営んでいくために暦はなくてはならないもので、とりわけ農耕
  民族にとっては、いつ田畑を耕し、種を蒔き、採り入れをするのかといった作業は、毎年
  繰り返されるものであり、1年の構造を知ることは特に重要である。
   五郎王子における1年の構造は右図のとおりで、太郎、次郎、三郎、四郎の各王子に四
  季、十二支がそれぞれ割り当てられている。各月はそれぞれ30日間、1年は360日間であ
  る。それでは五郎王子の領域は何処なのかと言うと、五郎王子の領域は、春、夏、秋、冬
  の各季節の終わりの「18日間」を占めている。その五郎王子に割り当てられている領域
  が「土用」であって、十二支でいえば丑、辰、未、戌の中にある。季節の終わりの18日
  間だから、これを総計すれば72日間、つまり春、夏、秋、冬の各3か月、90日間から18
  日間ずつが五郎王子に割譲され、各王子がそれぞれ72日間を支配する形となる。
   五郎王子には、他の王子に見られるような独自の領域はない。しかし、五郎王子の領域
  は広く四季にまたがり、いわば四季を支配している形であり、四季の中で最も特異な領域
  を支配し、他の4兄弟王子に冠たる存在となっているのである。
   五郎王子における1年の構造は旧暦を基本としたものであるが、実際の旧暦とは異なる。今日、旧暦と言われる暦は通常太
  陰太陽暦を指し、月の運行(太陰暦)と太陽の運行(太陽暦)を組み合わせて作られた暦法で、春、夏、秋、冬の四季の一巡
  を知るには太陽の運行に基づくしかないが、一方、日々の移り変わりを知るには月の変化を見るのが一番よいとされる。月は、
  新月、上弦、望、下弦、晦という変化を見せて一巡し、その周期は、平均29.53日(29日12時間43分)で、12か月は354日
  と約3分の1日になる。これを1太陽年と比較すると約11日短い。と言うことは、例えば正月の1日は、毎年11日ずつ早く巡っ
  てくるので、3年後には約1か月の誤差が生じる。このため、閏月で太陽の運行との調整が図られている。

    注解  陰陽五行思想の法則の五時は、1年を3か月ごとに分けた春、夏、秋、冬の四季と各季節の終わりの18日間の土
       用を五行に配当したもので、旧暦1・2・3月が春、旧暦4・5・6月が夏、旧暦7・8・9月が秋、旧暦10・11・12
       月が冬で、立春、立夏、立秋、立冬はそれぞれの季節の最初の月で、春分、夏至、秋分、冬至はそれぞれの季節の
       真ん中の月となる。
        原初、唯一絶対の存在は「混沌」で、これを「易」では「太極」(原子)とするが、この太極から派生するのが
       根源の「陰陽」二気である。この二気から、木、火、土、金、水の五気が生じるが、この五気は、更に「兄弟」の
       陰陽に分かれる。これが「十干」で、甲(こう)、乙(おつ)、丙(へい)、丁(てい)、戉(ぼ)、己(き)、庚(こう)、辛
       (しん)、壬(じん)、癸(き)は、つまり木(き)の兄(え)、木(き)の弟(と)、火(ひ)の兄(え)、火(ひ)の弟(と)、土(つ
       ち)の兄(え)、土(つち)の弟(と)、金(か)の兄(え)、金(か)の弟(と)、水(みず)の兄(え)、水(みず)の弟(と)というこ
       とになる。
        十干に組み合わされるものが「十二支」で、十二支は、最も尊貴とされる木星の運行によっている。木星の運行
       は、12年(厳密には11.86年)で天を一周する。つまり木星は、1年に12区画の中の1区画ずつを移行し、その所
       在は十二次によって示される。
        木星は、太陽や月とは逆に西から東に向かって移動するので、木星の反映というべき仮の星を設け、これを時計
       と同じように東から西へ移動させることにした。この想像の星は、神霊化されて「太歳(たいさい)」の名称で呼ば
       れるが、この太歳の居処に付けた名が、子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、午(うま)、未
       (ひつじ)、申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(い)である。
        なお、十二支は、年だけでなく、月にも日にも時刻にも方位にも配当される。

(3) 五郎王子の重要性
   五郎王子の領域は、前述したように春、夏、秋、冬の各季節の終わりに訪れる「土用」である。
   春、夏、秋、冬の各季節の転換は、瞬時に移行するものではなく、各季節の終わりに訪れる土用の作用によって行われるの
  である。季春、辰月の中の土用によって春は消滅し、夏が生成される。季夏、未月の中の土用によって夏は覆され、秋を迎え
  る。季秋、戌月の中の土用によって秋は終わり、冬が来る。季冬、丑月の中の土用によって冬は閉ざされ、春が訪れる。
   陰陽五行思想において、「土気」は、一方において万物を土に還す死滅作用と、同時に他方においては、万物を育み育てる
  育成作用の二種類の働きある。つまり、土気は、陰の作用と陽の作用を合わせ持っているのである。陰陽五行思想は、森羅万
  象を陰陽の二元の対立において把握するが、森羅万象の把握はもちろんそれだけでは不完全である。森羅万象は対立すると同
  時に循環するものである。森羅万象の循環は、プラスの面のみを強調して活動し続ければ必ず破局を迎える。
   一方に必ずマイナスの面が必要とされる。この二面があってこそ、森羅万象は初めて穏当な循環が得られ、永遠性が保証さ
  れるのである。そこで1年の推移においても、各季節の中間におかれた土用は、過ぎ去るべき季節を殺し、来るべき季節を育
  成する。いわば土用の効用は、この強力な転換作用にある。死すべき季節を殺し、生まれるべき季節を育む。それによって1
  年は順調に推移するのである。
   五郎王子の領域である各季節の終わりに訪れる土用は、各季節の中央に一つにまとめ、円の中心にで置くこともでき、各季
  節の中央・中枢にある土用は、五季の中央・中枢であって、季節の転換の主宰者は、この土用なのである。土用が季節の順調
  な循環を司り、四季の王とされるのは、このような理由によるものである。

    注解  この曲目で、調停役として登場する「惶根尊(かしこねのみこと)」は、古代中国の陰陽五行思想を基に日本で発
       展した古代天文術と易及び五行論を核とする「陰陽道」を巧みに使い、完璧といえる程までに、見事にその調停役
       を努めている。
        ところで、惶根尊とは如何なる人物なのか。詞章ではその出自を「某は、四天高天原におきて惶根尊にて、……
       …」とのみしか明らかにしていない。四天高天原とは、四時の天(蒼天・春、昊天・夏、旻天・秋、上天・冬)を
       支配し、天つ神が住んでいたという天上界とされている。
        カシコネノミコトは、古事記では「妹阿夜訶志古泥神(いもあやかしこねのかみ)」と記され、国土がまだ若くて
       固まらず、水に浮いている脂(あぶら)のような状態で、水母(くらげ)のように漂っている時に産まれた宇摩志阿斯
       訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)、天之常立神(あまのとこたちのかみ)の後、国之常立神(くにのとこた
       ちのかみ)が産まれてから10番目に産まれたとされ、於母陀流神(おもだるのかみ)と合わせて神世七代のうちの一
       代とされている。
        一方、日本書紀では「惶根尊(かしこねのみこと)」と記され、天が先ず出来上がって、後れて大地が定まった時、
       最初に産まれた国常立尊(くにとこたちのみこと)の後、国狭槌尊(くにのさつちのみこと)が産まれてから5番目に産
       まれ、面足尊(おもだるのみこと)と二神一対とされ、またの名を吾屋惶根尊(あやかしこねのみこと)、忌橿城尊(い
       むかしきのみこと)、青橿城尊(あおかしきのみこと)とされている。
        神名の語源は、「あやに畏(かしこ)し」の意とされ、非常に徳が高く尊貴な神とされているが、一説には、古
       事記の阿夜訶志古泥と日本書紀の吾屋惶根は同じで、「ネ」は女性を示す接尾語、「ア・ヤ」は共に感動詞で、男
       神から、あなたは美しいと言われて、それに返事をする投間詞として挿入されたものであろうとする説がある。ま
       た古事記の妹阿夜訶志古泥の「妹」は、結婚の相手となる女性をいうとされる説がある。
        地域によっては、惶根尊が直接所領分けを行わず、「塩土老翁(しおつちのおじ)」などが、神の詔を伝える形で
       所領分けを行う。塩土老翁は、古事記には「塩椎神(しおつちのかみ)」、日本書紀には「塩土老翁(しおつちのお
       じ)」「塩筒老翁(しおつつのおじ)」と記され、「塩」は「潮」のことで、潮流を司る神、海路の神、航海の神など
       といわれ、いずれにしても海に関係した神である。
        塩土老翁は、日本書紀の中で、「火照命(ほでりのみこと)」(海幸彦)と「火遠命(ほおりのみこと)」(山幸彦)
       という兄弟の神の物語に登場する。この物語は、古事記にも記されており有名な神話である。火照命は海の獲物を
       捕る神で、火遠理命は山の獲物を捕る神であった。兄弟は互いに釣針と弓矢を一時交換したが、獲物が得られず、
       再び元に戻すことになった。しかし、弟の火遠理命は、兄の釣針を無くしてしまった。代用の釣針を用意したが、
       兄は受けつけず、元の釣針を返すよう弟を責めた。弟が困り果てて海辺に立っていると塩土老翁が現れ、火遠理命
       が訳を話すと、塩土老翁は海神・綿津見神(わたつみのかみ)の宮殿へ行く方法を教え導いた。結局、無事に釣針を
       探すことができた。
        この神話にも見られるように、塩土老翁は、日本書紀、古事記には、経験と知識が豊かで、教え導く神として記
       されている。本居宣長は、その古事記伝で、すべてものをよく知る人という呼称で、名の意味は「知識大都知(しり
       おおつち)」と解釈している。

(4) 五郎王子の原典「盤牛説話」
   盤牛説話(ばんこせつわ)とは、天地が開闢したときに出現した盤牛大王が、その子供である5人の龍王に、春、夏、秋、冬の
  四季と四季の終わりに訪れる土用を、それぞれ所領として譲り渡すという物語で、この物語の原典は、平安時代中期の陰陽師
  「安倍晴明」の著に仮託される「内伝(ほきないでん)」(「三国相伝陰陽内伝金烏玉兎集(さんごくそうでんいん
  ようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう)」)巻二にあるとされる。
   日本に広く分布する「五龍王」「五神」「五行」「王子」「五郎王子」などと呼ばれる里神楽の曲目は、この物語に由来す
  るとされ、中世の山伏修験者などの組織によって広く流布したと考えられている。
 ア 盤牛説話と陰陽五行思想
   この説話の基礎は、中国の神話伝説の書「述異記」(祖沖之撰、429〜500年)の「盤古(ばんこ)」にあるとされる。盤古
  とは、太古の昔、初めて世界に出現した天地開闢の神のことで、世界が混沌として靄(もや)のような状態のとき、その中に眠
  っていた盤古が目をさまして手足を伸ばしたので、重いものは下に降り、軽いものは上に昇って天地ができた。盤古は、毎日
  天地とともに成長し続け、天地がもはや広がらなくなり、大巨人となったときに遂に死んだ。盤古が死ぬと、両眼は太陽と月、
  手足と体は山、肉は土、髪の毛や髭は星、体毛は草木、歯や骨は金属や石、骨髄は珠玉などになったとする神話である。
   しかし、大王が、五方の宮の采女(うねめ)を妻として五龍王を生み、それぞれの龍王に四季と土用を譲り渡すという盤牛説
  話は、この盤古神話では説明がつかない。古代中国の陰陽五行思想は、6世紀頃には既に日本へ伝播していたと考えられてお
  り、その後の日本文化に大きな影響を及ぼしたことについては論を待たないところで、盤牛説話の根底には、青、赤、白、黒、
  黄の5種の色彩やバランス感覚を重視する陰陽五行思想の観念が存在しているものと思われる。陰陽五行思想における5種の色
  彩は、方位や季節などを表し、究極的には宇宙のすべてのものに及ぶとされ、これらはすべて均衡が保たれていることが重要
  なのである。
   盤牛説話をもう少し詳しく説明すると、天に容貌(かおかたち)がなく、地にも形像(すがたかたち)がなく、鶏卵(たまご)の
  ように丸く実体がなかったある時、天地が開闢したがその広大さは想像することもできないほどであった。その原初の世界に
  盤牛大王が出現した。その身の丈の大いなることは、十六万八千由膳那(ゆぜんな)であった。盤牛大王は、その円(まる)い
  頭を天となし、方形の足を地とした。またそそり立つ胸を猛火とし、蕩々(とうとう)たる腹を四海となした。この世界の中で
  盤牛大王の体から生じたものでないものは、何一つとしてなかった。大王の左の眼は日光、右の眼は月光となった。その瞼が
  開くと世界は丹に染め明け、瞼を閉じると黄昏となった。大王が息を吹き出すと世界は暑(なつ)となり、吸うと寒(ふゆ)とな
  った。吹き出す息は風雲となり、その吐き出す声は雷霆(らいてい)となった。大王が上の世界におられるとき、大梵天王(だ
  いぼんてんおう)とお呼びし、下の世界に鎮座するときは堅牢地神(けんろうじじん)と申し上げる。また、この神が迹不生(じ
  ゃくふしょう)であることをもって盤牛大王と名付け、本不生(ほんぶしょう)であることをもって大日如来と称するのである。
  その本体は龍であり、盤牛大王は、その龍形を広大無辺の地に潜ませている。四時の風に従って、地に伏した龍体の姿は千変
  万化する。左に現れて青龍の川となって流れ、右に現れて白虎の園を領す。前に現れて朱雀の池に満々たる水をたたえ、後ろ
  に現れて玄武の山々を築いてそびえ立つ。また盤牛大王は、東西南北と中央の五方に五つの宮を構え、八方に八つの閣(かく)
  を開いた。そうして、五宮の采女(うねめ)を等しく妻としてこれを愛しみ、五帝龍王の子をもうけた。第一の妻伊采女(いさい
  じょ)は青帝青龍王を生んだ。青龍王に春の72日を支配せしめ、青龍王は金貴女(きんきじょ)を妻として10人の王子を生み出
  した。これがいわゆる十干である。第二の妻陽専女(ようせんじょ)は赤帝赤龍王を生んだ。赤龍王に夏の72日を支配せしめ、
  赤龍王は昇炎女(しょうえんじょ)を妻として12人の王子を生み出した。これがいわゆる十二支である。第三の妻福采女(ふく
  さいじょ)は白帝白龍王を生んだ。白龍王に秋の72日を支配せしめ、白龍王は色姓女(しきせいじょ)を妻として12人の王子を
  生み出した。これがいわゆる十二直である。第四の妻葵采女(きさいじょ)は黒帝黒龍王を生んだ。黒龍王に冬の72日を支配せ
  しめ、黒龍王は上吉女(じょうきちじょ)を妻として9人の王子を生み出した。これがいわゆる九図(きゅうず)である。第五の妻
  金吉女(きんきつじょ)は黄帝黄龍王を生んだ。黄龍王に四季の土用の72日を支配せしめ、黄龍王は堅牢大神(けんろうだいじ
  ん)を妻として48人の王子を生み出したとあり、陰陽五行思想によく対応していることが判る。
 イ 内伝の別本
   ところで、「五龍王」などと呼称される里神楽の曲目は、この盤牛説話とは少し趣を異にしている。苅屋形神楽団の神楽詞
  章書から、「五郎王子」の曲目を簡単に紹介すると、この世に初めて出現した神・国常立尊(くにのとこたちのみこと)は、存
  命中、その子供である太郎、次郎、三郎、四郎の4人の王子に対し、春、夏、秋、冬の季節を領地として分け与えた。国常立
  尊の死後、5人目の王子・五郎が誕生した。成長した五郎は、4人の兄王子に対し、自分も国常立尊の子供なので領地を分け与
  えるように訴えた。しかし、4人の王子は、1年は春、夏、秋、冬の四節のみであり、五郎は弟ではなく分け与える領地はない
  と言って断った。5人の王子が領地をめぐって合戦に至ったとき、惶根尊が現れて仲裁に入り、5人の王子に血合わせを勧めた。
  その結果、太郎は青、次郎は赤、三郎は白、四郎は黒、五郎は黄の血を出した。父国常立尊は、五行を司り、頭の血の色は青、
  右手の血の色は赤、左手の血の色は白、足の血の色は黒、内臓の血の色は黄であるから、5人の王子は兄弟に間違いないとす
  る惶根尊の調停により、4人の兄王子は、各季節の90日から土用の18日ずつ、合わせて72日を五郎に分け与えたとする内容で
  ある。
   これは、内伝には別本がいくつか存在するとされ、別本の内容が創作して取り入れられたものと思われる。別本の一つ
  を簡単に紹介すると、盤牛大王は星宮と和合して、木、火、金、水及び春、夏、秋、冬を司る青龍王、赤龍王、白龍王、黒龍
  王の四大龍王をもうけたが、それはいずれも男子であった。そこで、どうしても女子が欲しいと念じて種々の占いを行い、星
  宮と交わったところ、10か月にして満足できる女子を得た。彼女は天門玉女(てんもんぎょくおんな)と名付けられたが、この
  天門玉女こそ黄帝黄龍王で、彼女と堅牢大地神王(けんろうだいちじんおう)との間に生まれたのが、48人の王子であった。こ
  れらの48人の王子には、自分達が支配する四季、定住する領土というものがなかった。そのため、自分達の支配領域を求めて、
  四大龍王に謀反を企て、両者は17日間の合戦を行った。そこで、諸神が集まり協議して、四季のうちから18日ずつを48王子
  の母である黄帝黄龍王に分け与えようということに決めた。こうして、四季の土用、合わせて72日が定まったとするものであ
  る。
   「五龍王」などと呼称される里神楽の曲目は、地域によって登場人物の呼称や内容に多少の相違が見られるが、その基本と
  なる曲目の組み立て方はほぼ同様であり、また上記苅屋形神楽団の神楽詞章書にも見られるように、盤牛説話とは少し趣を異
  にしているが、その原典こそ、内伝(ほきないでん)の盤牛説話にあるものと思われる。
   なお、中国の山西省曲沃県任庄村の正月に演じられる民族芸能の扇鼓儺戯の中に、「五龍王」などと呼称される里神楽の曲
  目と内容を同じくする曲目があり、中国からの直接的な影響があったとする説も存在するが定かではない。
 ウ 陰陽道の聖典「内伝」
   陰陽道の聖典とされる内伝の構成は、序では本書の成立の由来、一巻では牛頭天王(ごずてんのう)の縁起と諸方位神の
  吉凶、二巻・三巻では盤牛大王縁起及びその子である各龍王などの解説、方位・方角の吉凶や納音、空亡などの陰陽道占術の
  諸理論、四巻では風水、建築の吉凶など、五巻では宿曜(すくよう)占星術が語られている。内伝の注釈書である「
  (ほきしょう)」によれば、この「内伝」は、大唐の伯道(はくどう)上人が文殊菩薩(もんじゅぼさつ)から授けられたものと
  され、更に、これを遣唐使・吉備真備が日本に持ち帰り安倍晴明に伝えたとされるが、吉備真備と安倍晴明の生年は実際には、
  二百年以上の隔たりがあり、この話は伝説とされるのが一般的である。

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