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 神話と説話

1 神武東遷(古事記)
  鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と玉依比売(たまよりひめ)との間に生まれた神倭伊波礼毘古命(かんやまと
 いわれびこのみこと)は、日向三代(ひむかさんだい)の拠点であった同国から、各地で土着の勢力を平定し服従させながら
 大和へ進出し、橿原宮(かしはらのみや)で初代天皇の神武天皇として即位する。即位後は、伊須気余理比売(いすけより
 ひめ)を皇后とし三柱の御子をもうけ、古事記では137歳、日本書紀では127歳で崩御したとある。
  日本書紀では、長髄彦(ながすねひこ)の征伐と兄磯城(えしき)、弟磯城(おとしき)兄弟の征伐の順序が古事記とは逆にな
 っており、古事記には見られない大和平定にまつわる次のような逸話を記述している。
  天皇がいよいよ大和に入ろうとした時、「天香山の社の土を持ち帰って、それで天平瓦(あまのひらか)を80枚と厳瓦(いつ
 へ)を造って天神地祇を祀れば、きっと平定できる」と天津神のお告げがあった。そこで天皇は、敵に怪しまれないようにみ
 すぼらしい老夫婦の姿をさせた使者を、天香山に向かわせた。首尾よく土を手に入れた天皇は、お告げ通りに天平瓦と厳
 瓦を造り、丹生(にう)の川上で天神地祇を祀った。
  天皇が無事に大和を平定できたのは、このお告げのおかげであると日本書紀に記述されている。

(1) 東遷
   神武天皇は、日本書記では、15歳で皇太子となり吾平津媛(あひらつひめ)を娶っ
  て二人の子をもうけた。そして、45歳のときに大和への東征を決意したとある。古事
  記では、高千穂宮(たかちほのみや)において、兄の五津瀬命(いつせのみこと)と相
  談し、東遷を決意したとある。
   兄の五津瀬命らとともに海路で日向を出発した天皇は、筑紫の宇佐から岡田宮
  (おかだのみや)に至り、更に、安芸の多祁理宮(たけりのみや)、吉備の高島宮(た
  かしまのみや)を経て、難波の岬から河内の青雲白肩津(あおくものしろかたのつ)
  に着き、ここから大和に侵攻しようとした。
   この時、大和を拠点とする登美(とみ)の那賀須泥毘古(ながすねひこ)の軍勢が強
  く抵抗し、五津瀬命は手に矢が当たって負傷した。五津瀬命は、「日の神の子であ
  る自分が、日の出の方角に向かって戦ったのが良くなかった。これからは遠回りし
  て、日を背負って敵を撃とう」と誓い、南から回り込んで紀伊国(きいのくに)の男之
  水門(おのみなと)に着いたが、五津瀬命は、手傷が原因で亡くなり、紀伊国の竃山(かまやま)に葬られた。

(2) 布都御霊と八咫烏
   天皇が、男之水門から更に南に回り熊野まで来た時、熊に化身した神に毒気を浴びせられ、天皇は正気を失い、また兵
  士達も動けなくなって倒れた。この時、熊野の高倉下(たかくらじ)という者が、一振りの太刀を持ってやって来て、その太刀
  を天皇に献上したところ、天皇は即座に正気を取り戻し、兵士達も起き上がることが出来た。
   天皇が、太刀を手に入れた理由を高倉下に尋ねると、高倉下は、「天照大御神に葦原中津国(あしはらのなかつくに)の
  征討を命じられた武甕雷神(たけみかづちのかみ)が、かって自分が葦原中津国を平定した時に使った剣を降せば平定す
  ることが出来ると答え、その剣は布都御霊(ふつのみたま)といい、高倉下の倉の中に置いたので、それを天皇に献上する
  ようにとの夢見た。そこで夢のお告げのとおりに、翌朝、倉の中を見ると確かに太刀があったので献上した」と答えた。
   その後、天皇は、高木神(たかぎのかみ)が遣わされた八咫烏(やたがらす)の先導で、熊野、吉野、宇陀へと侵攻すること
  が出来た。

(3) 兄宇迦斯と弟宇迦斯
   宇陀には、兄宇迦斯(えうかし)と弟宇迦斯(おとうかし)という兄弟がいた。兄宇迦
  斯は軍勢を集めて対抗しようとしたが、軍勢を集めることが出来なかったので、服
  従すると見せかけ罠を仕掛けた御殿に天皇を誘い入れようとした。ところが、その
  企みを知った弟宇迦斯が、その企みを天皇に知らせた。
   この時、道臣命(みちのおみのみこと)と大久米命(おおくめのみこと)の二人が兄
  宇迦斯を呼んで問い詰め、御殿の中に追い込んだところ、忽ち兄宇迦斯は、自分
  の作った罠に撃たれて死んでしまった。

(4) 久米歌
   宇陀から忍坂(おさか)の大室(おおむろ)に着いた天皇は、土雲八十建(つちぐも
  やそたける)の抵抗を受けたが、八十建に食事を提供するふりをして武装した料
  理人を多数送り込んで征伐した。
   征伐は、「忍坂の大室屋(おおむろや)に人多(ひとさは)に入(い)り居(を)り 人多に入る居りとも みつみつし久米(くめ)の
  子が 頭椎(くぶつつ)い石椎(いしつつ)いもち 撃(う)ちてしやまむ みつみつし久米の子らが 頭椎い石椎いもち 今撃た
  ば宜(よろ)し」の歌を合図に一斉に行った。

(5) 那賀須泥毘古
   天皇は以後、宿敵である登美の那賀須泥毘古を征伐することとなるが、古事記には具体的な記述が見られない。
   日本書紀によれば、金色の鵄(とび)が天皇の弓弭(ゆみはず)に飛来して強い光を放ち、長髄彦はその光に目が眩み敗
  れた。その後、兄磯城(えしき)、弟磯城(おとしき)の兄弟を征伐し、最後に長髄彦の妹の三炊屋媛(みいかしきやひめ)と結
  ばれて勢力を張っていた邇芸速日命(にぎはやひのみこと)が、長髄彦を殺し、天皇に帰順の意を示したことで、長かった
  東遷は終了した。

2 倭建(古事記)
  倭建命(やまとたけるのみこと)は、大和国の統一に最大の貢献を果たしながら、その粗暴や剛勇さゆえに父景行天皇に
 疎外され、失意のうちに没した。
  倭建命が野煩野で故郷の大和国を偲んで歌ったとされる国偲(くにしの)び歌「大和(やまと)は国(くに)のまほろば たたな
 づく青垣(あおかき) 山(やま)隠(ごも)れる倭(やまと)しうるはし」は有名である。
  倭建命は、組織の一員として、清純な性情をもって任務を遂行する。神剣「草薙剣」の呪力から離れたにもかかわらず、
 生来の性向の赴くままに伊吹山の神に対して言挙(ことあ)げをして、その報復を受けて病にかかり遂に野煩野で崩御した。
  古事記に見える后や御子たちの葡匐礼(ほふくれい)と白智鳥の昇天の場面は、悲劇的な最期を遂げた偉大な王子を天
 皇に準じて扱うことで鎮魂を果たそうとしている。
  倭建命に関する説話は、古事記、日本書紀をはじめとして、常陸国風土記、肥前国風土記、阿波国風土記逸文、尾張国
 風土記逸文、陸奥国風土記逸文、美作国風土記逸文に見られる。
  「ヤマトタケルノミコト」は、第十二代景行天皇の第三王子で、古事記では「倭建命」、日本書紀では「日本武尊」と記し、
 小碓命(おうすのみこと)・倭男具那命(やまとおぐなのみこと)(古事記)、小碓尊(おうすのみこと)・日本童男尊(やまとおぐな
 のみこと)(日本書紀)の幼名がある。母は吉備臣(きびのおみ)の祖で、若建吉備津彦(わかたけきびつひこ)の娘針間之伊
 那毘能大郎女(はりまのいなびのおおいらつめ)とされる。
  倭建命は、神代における須佐之男命と同様に古代王権の宗教的超越性(国土の上に豊穣繁栄をもたらす穀霊の継承者
 としての霊威)の一方の極(負性・マイナス)を開示する異端としての機能せしめられた形象の一つとされ、生来の暴力的性
 向・奸智(かんち)ゆえに王権の中央から疎外され、周辺へ放遂された異端者小碓命は、その異端性を王権に服従しない王
 権外部の悪・異端の征討に発揮させられることになる。

(1) 熊曾建征討
   景行天皇の王子小碓命は、父である天皇から朝夕の大御食(おおみけ)に陪席
  しなくなった兄大碓命に出て来るように教え覚して来いと命じられた。兄は、父に召
  されるべき美濃の国造の娘二人を使者である立場を利用して我が物として寝取っ
  ていた。小碓命は、兄が厠に入ったのを伺って手足をもいで殺してしまった。父は
  この荒々しい性情を恐れ、西方の熊曾建(くまそたける)兄弟の征伐にかこつけて宮
  から遠ざけた。
   少年小碓命は、叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)から女性の衣服上下を授
  かり、短剣を懐中に出発した。熊曾建のところに着くと、厳重な兵士の警護の下
  にちょうど新築祝宴の準備で大騒ぎであった。
   宴の日に小碓命は少女の髪を結い、叔母から授かった衣服を着て席に侍る女達
  に交じり熊曾建に近づいた。熊曾建兄弟は、この少女を見初めて二人の間に座ら
  せた。宴が盛り上がるのを見定めて、突然、小碓命は懐中の短剣で兄建の胸を刺
  し通した。弟が逃げ出すのを追って背後から捉え刺した。押し伏されたまま弟が少年勇者の名を尋ねると、小碓命は、天
  下を治める天皇から服従しない者どもの征伐を命じられて来た王子倭男具那命であると名乗った。弟は、熊曾建と恐れ
  られていた自分達に勝る勇者ゆえに、「倭建命」の名を捧げると申して殺された。
   その後、山河の神々をことごとく平定した。

(2) 出雲建討伐
   倭建命は、出雲へ到着するとすぐに出雲建(いずもたける)を征伐するために友好を結んだ。倭建命は、密かに赤檮(い
  ちひ)の木で偽の太刀を作って身に帯し、出雲建を川での水浴に誘った。倭建命は、先に川から上がって、出雲建が解い
  て置いた太刀と偽の太刀を取り換えた。後から上がって来た出雲建は偽の太刀を身に付けた。倭建命は、出雲建に対し
  て太刀合わせを申し入れ、出雲建は太刀を抜こうとしたが、偽の太刀のため抜くことができなかった。倭建命は、すかさ
  ず太刀を抜いて出雲建を斬殺した。
   このように賊を追い払い平定して都に上り復命した。

(3) 東国征討
   天皇は、都に上った倭建命に対して直ちに東国十二か国の荒れすさぶ神や服従しない人
  々の平定を命じた。勅命を受けた倭建命は、東国に向かう途中、伊勢神宮に参拝し叔母の
  倭比売命(やまとひめのみこと)に会い、軍兵も付けず、即座に東国に追い立てる父天皇の酷
  薄さを嘆いて訴えた。倭比売命は、「草薙剣」と一つの袋を与えた。
   倭建命は、相模国へ到着すると、「美夜受比売(みやずひめ)」と結婚の約束を交わして東国
  へと向かい、荒れすさぶ神や服従しない人々を平定し従えた。相模国では、国造(くにのみや
  つこ)が倭建命を欺いて野に誘って野に火を放った。倭建命は、草薙剣で草を刈り払い、袋か
  ら火打ち石を取り出して向火を付けて難を逃れ国造どもを斬殺した。
   更に進み走水海(はしりみずのうみ)を渡ろうとすると、その海峡の神が荒波を立てて船を回
  すので、先に進むことができなかった。后の「弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)」は、倭
  建命が皇命を完遂することを願い、自ら犠牲となって海に身を沈めて神を和めた。すると、そ
  の荒波は自然に穏やかになって船は先に進むことができた。
   こうして倭建命は、更に奥へ進んで荒れ狂う蝦夷(えみし)を平定し、また荒れすさぶ神々を
  平定して帰路に着いた。足柄山の坂で足柄峠の神が白い鹿になって現れたのを打ち殺し、
  坂の上に立って亡き后を偲んで「ああ我が妻よ」と嘆いた。倭建命は、相模国から甲斐国、科
  野国を経て尾張国に戻り、結婚の約束をしていた美夜受比売のもとに寄った。そのとき、比売
  は月経になっていて、二人は問答の歌を交わし結婚した。
   倭建命は、所持していた草薙剣を美夜受比売のもとに置いて、伊吹山の神を討ち取るために出かけた。

(4) 国偲び歌
   倭建命は、伊吹山の神を素手で討ち取ろうと言って山に登った。山に登る途中、
  牛ほどの大きさの神の化身である白い猪に出会ったが、神の使者と誤認し、今殺
  さなくても帰るときに殺そうと言挙げした。すると、山の神は激しい雹を降らせて倭
  建命を打ち惑わせた。倭建命は、玉倉部(たまくらべ)の清水にたどり着いて徐々
  に正気を取り戻した。
   倭建命は、大和へ向かう途次、次第に病が篤くなり、野煩野に至って故郷の大
  和国を偲んで
   「倭(やまと)は 国(くに)のまほろば たたなづく 青垣(あおかき) 山隠(やまごも)
    れる 倭(やまと)しうるはし」
   「命(いのち)の 全(また)けむ人(ひと)は たたみこも 平群(へぐり)の山(やま)の 
    くま白檮(かし)が葉(は)を うずに挿(さ)せ その子(こ)」
   「愛(は)しけやし 我家(わぎへ)の方(かた)よ 雲居立(くもいた)ち来(く)も」
   「嬢子(をとめ)の 床(とこ)の辺(べ)に 我(わ)が置(お)きし 剣(つるぎ)の太刀(たち) その太刀(たち)はや」
  の四首の歌を歌って崩御した。

(5) 白智鳥
   倭建命の崩御後、大和からかけつけた后や御子たちが御陵を造って葬った。その目前で倭建命の魂は、八尋白智鳥
  (やひろしろちとり)となって空に飛び立って、海に向かって飛び去った。

3 大江山(御伽草子)
  大江山は、源頼光をはじめとして渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、藤原保昌、卜部季武の6人の勇士が大江山の鬼神を
 退治するという物語で、女性や子供に愛読された室町時代の絵入り短編小説である御伽草子(おとぎぞうし)に「酒呑童
 子」という題名で記される。
  この物語は、中世の怪物退治話として香取本「大江山絵詞」(南北朝時代の作)など、いくつかの絵巻も作られている。

(1) 奇怪な事件の発生
   昔、我が国のことであるが、天地が開けて以来は神国といいながら、一方では仏法が盛ん
  で、人皇の始めの神武天皇から延喜の醍醐天皇に至るまで王法ともに行われ、政治も正しく
  て行われて、民をも哀れまれることは、尭(ぎよう)と瞬(しゆん)の御代といってもこれに勝るは
  ずがないであろうと思われる。
   しかしながら、このような世の中に怪しい事件が起こった。丹波国大江山には鬼神が住ん
  でいて、日が暮れると現れ、近国や他国の者までも数知れないほどさらって行く。都の中でさ
  らう人は器量のよい女人で、17・8歳の者を始めとしてこれらをも数多くさらって行く。

(2) 頼光への勅命
   帝は、源頼光を呼び寄せられた。
   頼光がご下命を受けて急いで内裏へご参上したところ、帝の「なんと頼光よ。よく聞け。丹波
  国大江山には鬼神が住んで害を与えている。私の治める国であるから、国土の果てまでもど
  こに鬼神の住むことができようか。まして都に近い辺りで人を苦しめる理由はない。退治せよ」
  と言うお言葉である。

(3) 大江山への出立
   頼光は、急いで自分の家に帰り人々を呼び集めた。「自分たちの力ではかなうまい。神仏に祈願をかけ神の力に頼ろう。
  それが最も良いだろう」と言うので、頼光と藤原保昌は石清水八幡へ、渡辺綱と坂田公時は住吉明神へ、碓井貞光と卜部
  季武は熊野権現へそれぞれ参籠を申し、様々の祈願を込める。
   頼光が「今度の場合は、人が多過ぎてはならないであろう。合わせて6人が山伏
  に姿を変え、山道に迷った振りをして丹波国の鬼の城を尋ねて行く。住処(すみか)
  だけでも判ったならば、何としてでも武略をめぐらして討ち果たす。めいめい笈(お
  い)を用意して、鎧、甲をお入れなさい。一同どう思うか」と言うと、人々は承知した。
   日本国の神仏に深くお祈り申しながら都を出て丹波国へと急いだ。この人々の様
  子は、どのような悪魔でも恐れをなすであろうと思われた。

(4) 三社の神の出現
   急いだので、程なく丹波国で知られた大江山に着いた。
   頼光は、谷を渡り峰をよじ登って進み、とある岩穴を見ると、柴の庵のその中に老
  人が3人いた。老人は、頼光らにくつろぎ疲れを休めるように勧め、鬼の岩屋への
  道案内を申し出て、「あの鬼は、いつでも酒を飲んでいるので、その名をなぞらえて
  酒呑童子と名付けています。酒を飲んで酔って寝てしまったならば前後も判らない有様です。我々3人の老人は、ここに不
  思議な酒を持っております。その名を神便鬼毒酒と言って、神の方便、鬼の毒酒と読む文字です。この酒を鬼が飲むなら
  ば自由に空も飛べる力もなくなり、切っても突いても判らないでしょう。あなた達がこの酒を飲むと返って薬となります。だか
  らこそ神便鬼毒酒と後の世までも申すでしょう」と言って頼光に酒を差し出した。
   一行は、老人の道案内で千丈嶽(せんじようがたけ)を登って暗い岩穴を十丈くらい潜ぐり抜け、幅狭い谷川に着いた。老
  人は、「この川上をお上りなさってご覧なさい。17・8歳の姫君がおられるでしょう。詳しくは会ってからお尋ねください。鬼神
  を討とうとするそのときは、なお一層我々も助力いたしましよう。住吉・八幡・熊野の神がここまで出現してきたのです」と言
  って、かき消すように見えなくなった。
   6人の人々は、この様子を見て三社の神がお帰りになった方向を伏し拝んだ。

(5) 酒呑童子との対面
   三社の神の教えに従って川上を上って行くと、教えのように17・8歳の姫君に出会った。
   頼光がどのような方かと尋ねると、姫君は、「私は都の者でございます。ある夜鬼神に捕まっ
  て、そのためにここまで参っております。恋しい父母、乳母(めのと)や守り役に会うこともならな
  いのです。可哀想に思ってください」と、たださめざめと泣きながら鬼の岩屋の様子を語った。
   6人の人々は、姫君の教えに従って川上に上って行くと、ほどなく鉄の門に着く。番の鬼ども
  がこれを見て奥を目指し参って童子に報告したところ、童子は、対面するので案内するように
  言い付けた。
   6人の人々が縁側の上に案内されると、生臭い風が吹いて雷電や稲妻がしきりに起こり、前
  後も判らないうちに童子が姿を現した。色が薄赤く、背が高く、髪は短く切り垂らして振り乱し、
  大格子(おおごうし)の織物に紅の袴を着て、鉄杖を杖につき、辺りを睨んで立った様は身の毛
  もよだつほどである。
   童子は、「自分の住む山は並のものではなく、岩石が高く切り立ってそびえており、谷が深く
  道もない。空を飛ぶ鳥、地を走る獣すら道がないので来ることはない。ましてあなた方は人間
  であるのに空を飛んで来たのか。訳を語れ。聞こう」と言った。
   これを聞いた頼光は、「これは、私どもの修行の常なのです。昔、役の行者と申してた人がお
  られた。道のない山を踏み分けて、五鬼、前鬼、悪鬼という鬼神のいたのに出会われた。呪文
  を授けて餌食を与えられた。それからというものは今まで絶えることなく、毎年のように餌食を与えて哀れみをかけておられ
  る。この我ら旅僧もその流れを汲んでおり、生国は出羽の羽黒の者である。大峰山に年籠もりをし、ようやく春にもなったの
  で、都見物のために昨夜夜更けて出発した。山陰道から道に迷い、道があるかと思ってここまで来た」と答え、一夜の宿を
  頼み持参の酒での酒宴を申し出た。

(6) 岩屋の酒宴
   童子は、一行を縁側より上へ呼び上げ、なおも本心を知るために「持参の酒があ
  るとのこと。我々もまた客僧たちにお酒を一献差し上げよう」と言って、酒と称して血
  を絞って銚子に入れ、盃を取り上げて頼光に差し出した。
   頼光は、盃を取り上げてこれをさらりと飲み干した。童子は、これを見てその盃を
  綱にも差し出した。綱もまた盃を一献受け、さらりと飲み干した。更に童子は、肴と
  称してたった今切ったものらしい腕(かいな)と股(もも)とを板に載せて差し出して、
  「それを料理して差し上げよう」と言うと、頼光は、「私が料理して頂きましょう」と言っ
  て、腰の脇差しをするりと抜き、肉を4・5寸押し切って、舌鼓を打って召し上がっ
  た。
   童子は、この様子を見ると、すぐに「客僧たちは、どのような山に住み慣れている
  のか。このような珍しい酒や肴を召し上がるのは不思議なことだ」と言うと、頼光は、
  「ご不審はごもっともです。私どもの修行の常として、情けをかけて賜るものがある
  ならば、いやと言うことはありません。ことにこのような酒、肴を食うにつけて心に浮かんだ言われがあります。討つのも討
  たれるのも夢のような世の中のこと。この肉体が、すなわち仏であるから食うに二つの味わいはありません。我々もともに
  悟りを開くのです。ああ有り難い」と言って礼拝した。
   童子は、「気に入らない酒、肴を差し上げたことは悲しいことだ。ほかの客僧へは無用である」と言って打ち解けたように
  見えてきた。
   その時に頼光は、座敷を立って例の酒を取り出し、「これはまた都からの持参の酒でございますので、恐れながら一献差
  し上げましょう。お毒味のために」と言って、頼光が一献さらりと飲み干し童子に差し出した。
   童子は、盃を受け取りこれもさらりと飲み干した。まことに神の方便は有り難いもので、不思議な酒のことであるからその
  味は甘露(かんろ)のようで想像もつかず言葉にも表せない。童子は、姫君を呼び出して酌をさせ、あまりの嬉しさに自分の
  生い立ちまで語る始末である。童子たちは、歌い舞って心をうち解け、次第に酔っぱらった。

(7) 童子征伐
   頼光の出で立ちは、螺鈿鎖(らでんぐさり)と申して緋縅(ひおどし)の鎧を着け、三
  社の神が下さった星甲(ほしかぶと)に同じ毛の獅子王のお甲(かぶと)を重ねて着け
  て、「ちすい」と申す剣を持ち、南無や八幡大菩薩と心の中に祈って進み出る。残り
  の5人の人々も思い思いの鎧を着けて、いずれも劣らぬ剣を持って心密かに進ん
  で行く。広い座敷を通り抜けて石橋を乗り越え渡り中の様子を見ると、一同みな酔
  い潰れて誰だと咎める鬼もいない。
   鬼の上を乗り越え乗り越えして見ると、広い座敷のその中に鉄で館を建て、同じく
  鉄(くろがね)の扉に鉄の太い閂(かんぬき)を差してあって、凡夫(ぼんぷ)の力ではな
  かなか中に入れそうにない。牢の隙間から見てみると、四方に灯火を高く立て、鉄
  杖や逆鉾(さかほこ)が立てて並べてあり、童子の姿を見てみると、宵の姿とはすっ
  かり変わっていて、その背丈は二丈余りで、髪は赤く逆立ち、髪の間から角が生え
  て髭も眉毛もぼうぼうに茂り、足や手は熊のようで、四方へ手足を投げ出して寝て
  いる姿を見ると、身の毛もよだつほどである。
   有り難いことに八幡・住吉・熊野三社の神がご出現されて、6人の者に「よくぞここまで参った。しかしながら安心するがよ
  い。鬼の手と足とを我々が鎖で繋いで、四方の柱に結び付けたから動く様子はないだろう。頼光は首を切れ。残りの5人の
  者は前や後ろに立ち回りずたずたに斬り捨てよ。わけはあるまい」と言って門の扉を押し開き、かき消すように見えなくなっ
  た。
   それでは、三社の神たちがここまでご出現なさったのかと感激の涙を流し、強く心に感じて頼もしく思いながら、教えに
  従って頼光は頭の方に立ち回り、「ちすい」をするりと抜き、「どうぞ三社の神様力を添えてください」と三度礼拝して切ると、
  鬼神は、目を見開いて「情けないぞ。客僧たち。偽りはないと聞いていたが、鬼神に邪道はないのに」と起き上がろうとした
  が、足も手も鎖につながれていて起きられるはずがないので、おおとわめき叫ぶ声は雷電や雷のようで、天地も鳴り響くば
  かりである。
   もとより武士たちは、太刀先は鋭く手早くずたずたに斬ると、首は天に舞い上がる。それは頼光を目がけてただ一噛みに
  と狙ってきたが、星甲に恐れをなして頼光の身に別状は無かった。鬼たちを退治した頼光と5人の人々は、急いで都へ上
  洛した。
   帝は、参内した頼光を見てご感銘のほどは言葉に言い尽くせない。ご恩賞もひととおりではなかった。
   これからは、国土は安全で永久に治まる御代(みよ)となった。彼の頼光のお手柄はたとえようもない武士だというので、上
  は天皇から下は万民に至るまで関心しない者はいなかった。

4 鵺の事(平家物語)
  源三位入道(源頼政(みなもとのよりまさ)が鵺を射った物語は、「平家物語」(作者未詳、成立年未詳)「源平盛衰記」(作
 者未詳、鎌倉時代)に詳しく記される。
  頭は猿、体は狸、尾は蛇、手足は虎の姿をした妖怪が「鵺」で、源頼政に退治されたことで有名であり、「日本紀略」「太平
 記」「看聞日記」などの書にも頻繁に現れ、正体が掴めない異界からもたらされる凶兆や災厄の象徴が鵺として擬定化され
 たものとされる。鵺の正体は、鳴き声が気味悪くて「地獄鳥」の異名を持つ虎鶇(とらつむぎ)とする説もある。

(1) 源三位入道
   そもそも源三位入道と申すのは、摂津守頼光から五代目に当たり、三河守頼綱の孫で兵
  庫頭仲政の子である。
   保元の合戦のとき、後白河天皇の御味方として先駆けをして戦ったが、さほどの恩賞も受
  けなかった。また平治の乱に際しても、源氏の一門を捨てて御味方にはせ参じたが、褒賞は
  薄かった。大内裏の守護を長年勤めたが、昇殿も許されなかった。年をとり老齢となった後、
  述懐の歌一首を詠むことによって、ようやく昇殿を許されたのである。
   「人知れず 大内山のやまもりは 木がくれてのみ 月をみるかな」
   この歌によって昇殿を許され、正四位下の位でしばらくいたが、三位を望んで
   「のぼるべき たよりなき身は 木のもとにし ゐを拾ひて 世をわたるかな」
   と詠んだ。こうして三位に叙されたのであった。まもなく出家して源三位入道と称し、今年は
  七十五になられた。
   この人の生涯においての功名と思われることは、近衛院が天皇の御位におられた仁平の
  頃天皇が毎夜何者かにうなされ、おおいに驚かれることがあった。効験あらたかな高僧貴僧
  に命じられて大法秘法の加持祈祷を行われたけれども、その効果もなかった。御苦しみにな
  るのは午前2時ごろであったが、東三条の森の方から一群の黒雲が現れて来て御殿の上を
  覆うと、必ずといっていいほど天皇はうなされ怯えなさるのであった。そこで、この対策を協
  議する公卿の会議が開かれた。
   去る寛治の頃、堀川天皇が御在位のとき、やはりこのように天皇が毎夜うなされることがあった。そのときの将軍源義
  家朝臣が紫宸殿の広縁に伺候しておられたが、御苦しみなる時刻になって、魔よけのために弓弦を三度鳴らした後に声
  高く「前の陸奥守源義家」と名乗られると、人々はみな身の毛がよだつ思いがし、天皇の御苦しみもお治りになった。
   そこでこのような先例に従って、この度も武士に命じて警固すべきであるということで、源平両家の武士どもの中から選
  考されたところ、頼政が選び出されたということであった。当時の頼政はまだ兵庫頭であった。頼政は、「昔から朝廷に武
  士を置かれるのは、反逆の者を追討し、勅命に背く者を滅ぼすためであります。目に見えない変化のものを退治せよと
  命じられることは、まだ承ったことがありません」と申し上げたが、勅命であるので召しに応じて参内した。
   頼政は、深く信頼している郎等の遠江国の住人井早太にほろの風切ではいだ矢を負わせて、ただ一人だけ召し連れて
  いた。我が身は二重の狩衣を着て山鳥の尾ではいだとがり矢を二本ほど滋藤の弓に添えて持って紫宸殿の広縁に伺候
  した。頼政が矢を2本持ったのは、雅頼卿がそのときはまだ左少弁でおられたが、「変化のものを退治することのできる人
  としては、頼政がおります」と推薦したからであり、もし一の矢で怪異のものを射損じたならば、二の矢では左少弁雅頼の
  首の骨を射ようというためである。

(2) 鵺退治
   日頃、人が申しているとおり、天皇の御苦しみになる時刻になると、東三条の森の方から
  黒雲が一群立ち現れて来て御殿の上に棚引いた。頼政がきっと見上げると、雲の中に怪し
  いものの姿がある。万一、これを射損じたならこの世に生きていようとは思わなかった。この
  ような決意のもとに矢をとって弓に番え、「南無八幡大菩薩」と心の中で祈念して、引き絞っ
  てひょうと射た。手応えあってはたと命中し、「仕留めたぞ。おう」と矢叫びを上げたのであっ
  た。井早太がつっつと走り寄り、落ちてくる怪物を取り押さえ、続けざまに九刀刺しとおした。
  そのとき、宮廷の上下の人々が手に手にかがり火を灯してこれを御覧になったが、頭は猿、
  胴体は狸、尾は蛇、手足は虎の姿をしており、鳴く声は鵺に似ていた。恐ろしいという言葉で
  は表しようもない怪物であった。
   天皇は、大層関心なさって御賞賛のあまり獅子王という御剣を下された。宇治の左大臣が
  これを頂き、取り次いで頼政にお渡しになろうと御前の階段を半ばほどお下りになったところ、
  頃は4月10日余りのことであったので、時鳥が二声三声鳴きながら空を過ぎって行った。
   そこで左大臣殿は
   「ほととぎす 名をも雲井に あぐるかな」
  と仰せられると、頼政は右の膝をつき、左の袖を広げ、月を少し斜めの方に横目に見ながら
   「弓はり月の 射るにまかせて」
  と即座に詠んでお答えし、御剣を頂いて退出した。弓矢をとって並ぶ者のない武勇の士であるばかりか、歌道にも秀でて
  いることだと、君も臣もみな感心され賞賛なさった。こうして、この変化の物は丸木をくり抜いた船に入れて流されたという
  ことであった。

5 貴船
  貴船神社は、高神(たかおかみのかみ)が祭神とされ、古代の祈雨85座の一座とされるなど、古くから祈雨と止雨の神
 社として崇敬される。平安時代以降、恋愛にまつわる丑の刻詣りなどの説話や民間伝承も広く知られており、全国に分祠
 がある。
  嵯峨天皇の代、夫に裏切られて憎悪と殺意に駆られるあまり、宇治川に身を浸し生きながらにして鬼と化して願いを成就
 させたと伝えられる橋姫の物語は有名で、「平家物語」「太平記」「橋姫物語」に記され、また謡曲に「鐵輪」として載せられ
 る。

(1) 宇治の橋姫(平家物語)
   嵯峨天皇の御宇に、ある公卿の娘が余りにも嫉妬深くて、貴船の社に詣でて7日籠もって
  いうことには、「帰命頂礼、貴船大明神、願うところは7日籠もった験に自分を生きながら鬼
  神にしてください」とのことで、妬しいと思っている女を取り殺したいと祈った。
   明神は、「実に話を聞けば不憫である。本当に鬼になりたいのであれば、姿を改めて宇治
  の川瀬に行って37日間浸れ」とお告げする。
   娘は、喜んで都に帰って人のいないところに立て籠もり、身の丈ほどの髪を五つに分けて
  5つの角を作った。顔には朱をさし、身には丹を塗り、頭に鐵輪を載せて、3つの足には松を
  灯し、松明を据えて両端に火をつけ、口にくわえながら夜更けの人が寝静まった後、大和
  大路へ走り出て南を指して行ったならば、頭より5つの火が燃え上がり、眉太く、お歯黒で、
  顔は赤く、身も赤いことから、さながら鬼形のようであった。これを見る人は肝魂を失って倒
  れ臥し、死なないということはなかった。
   このようにして宇治の川瀬に行って37日間浸ったところ、貴船の神の計らいによって生き
  ながら鬼となることができた。宇治の橋姫とはこのことである。

(2) 鐵輪(謡曲)
   下京あたりに住むある男が妻を捨てて後妻を迎えた。それが妬ましさに先妻は、貴船の宮
  に丑の刻詣りをする。
   その晩、貴船神社の社人は、都から丑の刻詣りをする女にかくかく申せとの不思議な夢を見る。女が貴船神社に着くと、
  社人は「汝が願いは鬼になりたいことであろう」と、その方法を教える。「家に帰り、
  身には赤い衣を着け、顔には丹を塗り、頭には鐵輪を戴き、3つの足に火をともし、
  心に怒を持つならば忽ち鬼神となることができよう」との神のお告げを教える。女
  は「人違いでありましょう」と言うが、社人は「しかと汝のことだ」、こう言ううちに何と
  なく恐ろしく見えてきたという。女は不思議なお告げに感じ入り、早速家に帰り「夢
  想の如く致して見よう」と言う。こう言ったかと思うと、はや色が変わっていった。
   一方、彼の男は、打ち続き悪夢を見るので、堪えかねて陰陽師安倍晴明を訪ね
  て行く。晴明は、一見して「これは女の深い恨みからきている。命も今夜限りであ
  ろう」と判じる。男は痛く驚き切に祈祷を乞う。晴明は、そこで祭壇に茅の人形を飾
  り、それに夫婦の名を打ち込み一心に祈る。
   このとき、彼の女の生霊が鬼形となって現れてくる。生霊は、祭壇の男の人形に
  向かって恨みを述べ、後妻の人形を打ちさいなみ、更に男を取って行こうとするが、
  祭壇に祀られた30番神に責め立てられて力及ばず、「時節を待とう」と言いながら目に見えぬ鬼となって消えていった。

6 紅葉狩
  紅葉狩は、平維茂の鬼女退治を物語にしたもので、謡曲「紅葉狩」(観世小次郎信光作)「北向山霊験記戸隠山鬼女紅葉
 退治之傳全」(小説、1903年)がある。そのほかの書物としては、江戸時代以降では、「大日本史」(第140巻・列伝67、日本
 の歴史書、明治時代完成)や「和漢三才図会)」(第68巻、信濃・戸隠明神、寺島良安編集、1712年頃)がある。

(1) 紅葉狩(謡曲)
   平維茂は、大勢の従者を引き連れて、信濃国の戸隠山の山中で鹿追いをしていた。その途
  中、一人の上臈女房が木陰に幕を張り、屏風を立てて、大勢の侍女とともに紅葉狩りの酒宴
  を催している場所を通りかかった。
   維茂は、山中での上臈女房らの酒宴を不思議に思いながらも、酒宴を妨げないように気遣
  って馬から降りて靴を脱ぎ、道を変えて山陰の崖の道を通り過ぎようとすると、上臈女房は一
  行を呼び止めて酒宴に誘った。維茂は、酒宴に誘われる理由がないことから強く辞退し、そ
  のまま通り過ぎようとしたが、情のこもった上臈女房の言葉に心を引かれて酒宴に加わった。
  二人はお互いにうち解けて語らい、維茂は、盃を重ねて上臈女房が「中の舞」を舞っているう
  ちに酔い伏してしまった。
   やがて夜が更けて、雨が降り、夜風の吹きすさぶ山陰でうたた寝をする維茂一行を残して、
  上臈女房らはもの凄い勢いで山中に隠れてしまった。
   維茂が夢の中で八幡大菩薩のお告げを受けて太刀を授かり、驚いて目を覚ますと、雷火
  が鳴り響き、強風が吹き荒れ、不思議なことに今までそこにいた女どもがとりどりに恐ろしい
  鬼神の姿を現し襲いかかってきた。しかし維茂は少しも狼狽することなく、南無や八幡大菩
  薩と心に念じながら剣を抜いて鬼女に立ち向かって、易々と討ち取ることができた。

(2) 鬼女紅葉退治(北向山霊験記戸隠山鬼女紅葉退治之傳全)
   千年以上の昔、奥州会津に伴笹丸と菊世という夫婦が住んでいたが、二人の間には子供
  がなかった。ある人から第六天魔王に祈れば子供を授かると教えられ、その教えに従って夫
  婦が一心に祈ったところ女の子が生まれた。夫婦は、大変喜んでその子に呉葉と名付けて
  大切に育てた。成長するに従って呉葉は、美貌も然ることながら、読み書きや和歌を作った
  り琴を弾くことまで才能を発揮し、その評判は近郷まで響きわたった。
   その後、親子三人は、会津を後にして京都へ上り、四条通りの外れに髪道具や履き物など
  を商いする小さな店を開き、呉葉は紅葉と名を改めて、琴の指南を勤めて生計を立てていた。
  ある日の蒸し暑い夏の夕方のこと、四条河原で夕涼みをしていた源経基公の御台所が紅葉
  の調べる琴の音を聞いて大変気に入り、後日、紅葉を経基公の館の腰元として召し抱えた。
   紅葉は、館でまめまめしく仕え、遂に老女の待遇を受けるまでに出世し、紅葉の琴に対す
  る才能は経基公の耳にも届いて、ある日、経基公の前で琴を弾く機会を与えられた。紅葉は、
  第六天魔王に晴れの舞台の成功を一心に祈りながら精一杯に琴を弾いた。琴の音に感歎し、
  艶麗さに心を動かされた経基公は紅葉を誘った。紅葉は、これに応えて月日を経るうちに経
  基公の子供を宿した。こうなると紅葉は、御台所を亡き者にしてその権勢を奪おうと考え、毎
  晩のように妖術を使って御台所を調伏した。しかし比叡山の大行満の律師によって紅葉の陰
  謀が暴かれ、遂に紅葉ら親子三人は、経基公によって信州戸隠に流された。
   戸隠に流された紅葉は、妖術で村人の病気を癒したり、裁縫や読み書きなどを教えたりして村人と親しみを深めながら、
  しばらく平穏に生活していた。ところが、京都での楽しかった生活が思い出され、再び京都に上り栄華を手に入れたいとい
  う欲望が募ってきた。紅葉は、噂を聞いて訪ねてきた盗賊どもを妖術をもって従えて、遠く離れた村落へ出かけては富豪
  の家などを襲撃し、略奪や暴行の悪事を働いた。それらの悪事は、やがて世間に漏れ、紅葉は鬼女であるとの噂が広ま
  り、遂にその噂は京都の帝の耳にまで達した。
   時の冷泉帝は、平維茂を信濃守に任じて盗賊討伐の勅命を発した。維茂は、早速、兵総勢2百50騎を信濃国の出浦郷
  に急派して本陣を構え、第1・2軍と攻撃に向かわせたが、いずれも火の雨が降り注ぎ、洪水が押し寄せるという紅葉の妖
  術によって退却せざるを得なかった。維茂は、北向観音に17日間の断食の願をかけ、満願の朝に夢枕に頂いた降魔の
  剣を携え、全軍を率いて盗賊討伐に向かった。
   紅葉は、維茂の攻撃に対して妖術を使おうとしたが、体は寒気だって氷のように冷えわたり、妖術を使うことができなか
  った。維茂が紅葉めがけて降魔の剣を矢尻にした矢を射ると、紅葉は鬼神の姿に変化し、空中に舞い上がって維茂めが
  けて火焔を吹き付けてきたが、このとき、戸隠奥社の神光が差し込み、それが鬼神の頭に触れると、鬼神は魔力を失っ
  て地上に落ちて、遂に維茂に討ち取られた。このとき、紅葉は33歳であった。

 以下は、次回に記載します。

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