「ちょっとあんた、どいてくんない? 廊下の真ん中ふらふら歩かないでよねっ!」
肩をぶつけられ僕はヨロヨロと廊下の隅に座り込んでしまった。
「なにこいつ? 気持ちわるーい。もう朝からチョーバット」
怒りの感情を垂れ流すその女生徒は僕とぶつかった制服の肩をパッパッと手で払いながら、連れの3人と一緒に僕をにらみつけ自分たちの教室へ向かうべく僕の横を通り過ぎていった。
今朝から僕の脳はまるで倒れかけのコマのように頭蓋骨の中で据わり悪く回転していた。そのせいで体の重心がまったく定まらず、不本意ながら学校の廊下をフラフラと歩いていたのだった。きっと太陽の黒点が19個を超えているに違いない。キツイ一日になりそうだ。
「あの……大丈夫ですか?」
廊下に座り込んだまま顔を上げると一人の女子が鞄を胸の前で抱えながら、少し距離を開けて僕の様子を窺(うかが)っていた。
「あ、ああ……」
生半可な返事をしながら、僕は彼女と顔を合わせないように目を逸らした。この子とは顔を合わせたくないんだ。思い出してしまう。
「よろしかったら、これ……使って下さい」
彼女はスカートのポケットからきれいに折りたたまれたハンカチを差し出した。どうしてだろう? 僕は今、脂汗でも流しているのだろうか?
「み、瑞穂……」
一緒にいた友達がハンカチを使わせるのを止めさせようと手を差し伸べた。まるで汚物のような扱いだ。明らかに僕を嫌悪する感情がこっちの脳に流れ込んでくる。
しかしその友達の目を優しいが強い視線で見つめると、僕の方を向き、再びそのきれいなハンカチを差し出した。
僕はそれを受け取ろうかと思ったが、廊下の隅に積もった埃が手のひらに張り付いている事に気が付くと急に憂鬱になり、
「いや、いい……」
と彼女の申し入れを断った。そして僕のこの言葉を聞くや、彼女の友達はこの場から離れるチャンスとばかりに、彼女の制服の裾を引っ張った。
「ねったら。は、早く行こうよっ」
残念そうな表情を浮かべて彼女は自分の差し出したハンカチをそのままポケットの中へと戻した。そしてすでに友達が逃げるように廊下の先へ行っているのに気付くと、
「あ、待って」
と声を上げ、僕に『お大事に……』と目配せして、女の子の匂いをほのかに残して彼女は立ち去った。
イイ子ダ。彼女はもう僕のことを覚えてはいないだろうが、僕は鮮明に記憶している。ショートカットに細い肩。控えめでおとなしい物腰。大きな眼鏡とその奥に輝く心の強さを表す黒い瞳。ソシテ、ツツマシイ乳房ト、スベスベシタ素肌。違う。入レルダケデ、キツカッタ狭イ膣。妄想だ……。初メテ男ヲ迎エ入レタ子宮ニ、タップリト精液ヲ注ギ込ンダ時ノ射精感。やめろ! ヤッチマエヨ、“毒電波”使ッテサ、マタ、ヤッチマエヨ……。消えろ! 消えてくれ! 僕はお前達の言いなりにはならないんだ。だから、だから早く向こうに行ってくれ……。“声”はまだしゃべり続けながらもボリュームを絞ったように小さくなり後頭部の左隅に沈んでいった。
今日はやっぱり変だ。いつも以上に受信してしまうよ、「電波」を……。
僕は壁に掴まりゆっくりと立ち上がった。こめかみに汗がじわりと浮かび上がる。自分では普通に歩いてるつもりだが、どうもフラフラしているらしい。廊下を歩く他の生徒が明らかに僕を避けて通る。
『あいつ絶対クスリやってるぜ』
『こっちに来るんじゃねえよ、イカレポンチ』
『気持ち悪い』
『クカツクんだよ、死ねよ』
奴等から立ち上った無数の黒い電波の粒が僕の周りに漂っている。これは悪意の電波だ。この粒は皮膚につくとカラスアゲハの幼虫が卵の殻を破るよりも速く血管に入り、静脈の中を逆にめぐって脳へ行き、そこで脳細胞を真っ黒に変色させる。脳細胞が黒くなると精神が歪んで毒電波に心も体も乗っ取られ易くなるんだ。毒電波に乗っ取られた人間がどうなるかは毎日のようにニュースでやっているから良く知っているだろう?
そうだ、君にだけ特別に教えてあげる。ほくろ、君にもあるだろ? 実はあれ大量の電波の粒が一カ所に付いたため、皮膚の中で根詰まりを起こしてしまったものなんだ。嘘だと思うなら、試しにほくろをカッターナイフでほじくり出してごらん。きっと変な臭いのする黒い塊がころんと出て来るよ。
「あんた3−Cの長瀬祐介だろ?」
教室に入ろうとしたら、ふと誰かに呼び止められた。ズキズキする頭をめぐらせて声の主を探ってみると、一人の男が立っていた。
そいつは腹の肉だけがやけに緩んだデブで制服のボタンがはちきれそうだった。そして肘の部分がテカテカに光っていて、ズボンも膝が出てしまっている。
また顔は脂肪が溜まって頬の辺りがたるんでいて、脂で七色に光る眼鏡を掛け、ニキビが岩に張り付くフジツボのように噴き出した顔をしていた。そのくせ眉毛は細く整え、髪が妙にサラサラしていた。耳にはピアスが光っている。しかし朝だというのに額に汗を浮かべ、側にいるだけで汗くさい臭いが漂ってきた。どこかで見たような顔だが、生憎他人の顔を憶えるのは苦手なんだ。
ヤツが脂で曇ったレンズの向こう側から粘液質の視線を向ける。
「なにか?」
僕は用を聞いた。用があるなら早く済ましてくれ。僕は今、CIAからハッキングを受けて脳が痛いんだ。ヤツは僕の言葉を聞くと、ニヤッと笑い(一応喜んでいるのだろう)口をパカッと開けた。唾液が口の端で糸を引く。まるでガマガエルだ。
「あんた3−Cの長瀬祐介だろぅ?」
臭い息と共にさっき聞いた言葉を繰り返し吐き出した。何か言いたそうに口をモゴモゴさせる。聞こえない。しかしヤツのネチャネチャした感情が電波となって僕の体に入り込もうとしている。僕は言い様のない嫌悪感に包まれた。
「用がないなら行くよ」
「あ、待ってくれよぅ」
教室のドアをくぐろうとしたら慌てて呼び止めたので、仕方なくヤツの言葉を待つことにした。
「もうじきホームルームが始まるだろ? 用があるなら早くしてくれないかな」
ヤツは照れ隠しのつもりだろが目を伏せニヤニヤと薄笑いを浮かべている。嫌悪感が僕の中で膨れ上がる。
「あんた……使えんだろ?」
「……なにが?」
嫌な予感に包まれながら僕が答えると、ヤツが口をパカッと開き、黄色い歯を見せながら3つの言葉を吐いた。ネバネバした電波の粒が僕の周りに漂いだした。
「デ・ン・パ。……電波だよ、あんた使えんだろ?」
忍び込むように電波の粒が僕の脳に進入する。後頭部が電極を押しつけられたように痺れだす。
「知らない……、僕は知らない」
急激に重くなる頭を抱えた僕に向かって、ヤツがズイッと間を詰める。近寄らないでくれ。
「あんた、電波を受信できるだけじゃなくて、自由に操れるんだろ?」
チリチリチリと僕の脳に進入する電波が増大する。首の後ろが熱く重くなってくる。吐き気がこみ上げてきた。
「それは妄想だ……」
それを聞くや、ヤツは薄笑いを浮かべたまま、僕の耳元に舌が届くくらい口を近づけると熱くドロッとした息と共にささやいた。
「俺だけは知ってんだよぅ、去年卒業したことになってるアノ生徒会長を壊したのはあんたなんだろう? あんたがアノ生徒会長の精神を引きちぎったんだろう、あんたの電波でさあ」
忌まわしい過去、忘れてしまいたい記憶……。コイツはそれをほじくり返そうとしている。
「し、知らないって言ってんだろ……」
僕はヤツを無視して教室に入ろうとした。
「行かないでくれ! た、頼みたい事があるんだよっ」
ヤツは俺の制服の袖を掴んだ。放せ、制服が汚れる。眼球だけをヤツに向ける。
「頼む! 俺も、俺も、電波で壊してくれよ!」
あまりに突拍子もないことに自分の耳を疑う。幻聴だな。しかしヤツが腐りかけた柿のような顔をしているのを見るとそうでもない気がしてきた。
「生徒会長の時みたいにさぁ、俺をお前の電波で壊してくれよぅ! グチャグチャに壊してくれよぅ! 頼むよ!」
ヤツはダラダラと汗を垂れ流しながら、廊下中に響く声で叫んだ。これ以上コイツに構っていると僕まで同類に見られてしまう。僕にまとわりつく腕を力まかせに振りほどくと教室の中に逃げ込んだのだった。
崩れ落ちるように椅子に座ると、背広を着た大人がずかずかと教室に入ってきた。担任だ。その担任が教卓の上で出席簿を広げると上から順番に名前を読み上げていく。銀行のCD機がしゃべるような抑揚のない声。クラスの男子が次々とうっとうしそうな声をあげる。僕の番が来ると同じようにおざなりな返事をする。しばらくすると返事の声が1オクターブ上がって女子の番になったのが判った。しかし身の抜けたような声が続くのは全く変わらなかった。
ところがここまで名簿の順番通りに読み上げていた担任だったが、今日もある生徒の名を飛ばして行った。名簿には確かに名前が判で押されてあるはずなのに、教壇に立っているあの男は恣意的にその名前を飛ばして行ったのだ。クラスの連中はそのことに何の疑問も持たず、生気のない目を机に落とす。新しいクラスになって2ヶ月ともなると新学期から1度も顔を見せないクラスメイトのことなんか最初からいないものだとして脳細胞から削除してしまったに違いない。
後ろを振り向くと、誰も座っていない机がひとつ、教室の一番後ろの陽も当たらない場所にポツンとあった。今では誰ひとり見向きもしない。ただ僕だけが時々机を拭いて、ゴミ箱代わりになっている中を掃除している。そう、これはあの人の席だ。あの人が帰って来る時に机がなかったら困るだろ?
彼女がひとりこの席に座りながら本を読む時、窓からそよぐ薫風に細い髪をなびかせるんだ。そして僕が近付くと本から目を離し、こっちを見て微笑むんだ。童女のような無垢な笑みで、少し遠い目をして、僕を見て微笑むんだ。ソレハ無イ。それでかつてのように僕の名を優しく呼んでくれるんだ。ソレコソ絶対ニ無イ。でたらめを言うな、電波の分際で。オ前コソ叶イモシナイ希望ニシガミツクノハ、ミットモナイゼ。しがみつくって何だ? 僕は何も望んではいないし、ましてはそれにしがみつくような真似もしていない。ククク、可笑シイネェ。滑稽ダヨ、今ノ君ハ。滑稽だと? 電波にそんなこと言われる筋合いはない。oh! 楽シソウデスネー、私モ仲間ニ入レテ下サーイ。いくら電波が増えたって僕はお前達の言うことなんかに耳は貸さない。オ前ハ彼女ガ向コウ側カラ帰ッテ来ル事ヲ望ンデイル。 母ヲ待ツ子供ノヨウニ、ジットココデ待ッテイル。 hoo、妄想デスネー。虚(ムナ)シクナリマセーンカ? うるさい! 僕は何も望んでいない! 誰も待ってなんかいないんだ! オ前モ向コウ側ニ行ッチマエヨ、“狂気ノ世界”ノ扉ヲ開ケテサ。俺達ガ手伝ッテヤルカラヨ。僕はその手には乗らない。消えろ。消えてしまえ。ソウ身構エルナヨ。向コウ側ニ行ケバ、オ前ノ望ミハ叶ウンダゼ。だから僕は何も望んでいないって言ってんだろ! hehe、向コウ側ニ行ッタ後ノuノ体ハme達ガ有意義ニ使ッテアゲマース。取リ敢エズハ、廊下デ最初ニ擦レ違ッタ奴ヲ殺シテアゲマース。黙れ! 黙れ! 黙れ!
僕は自分の脳髄が汚物に変わったような違和感と嫌悪感に苛(さいな)まれ、このまま脳みそに爪を立ててかきむしりたい衝動が襲った。ここにいたら電波にやられる。電波の届かない場所に避難するんだ。
ガタッと椅子を鳴らし席を立つと僕はそのまま教室から退室した。担任が何か叫んだようだが、生憎頭の中でわめき続ける電波の方が遙かに大きくて良く聞こえなかった。
校門を通りすぎ、大きな楠の木の脇を抜けると体育館の脇に着いた。第2体育館だ。今の時間は授業をやってないらしく中からは何も聞こえず静かだった。
一般的に人が少なくて周りを壁で囲まれた場所は電波が届きにくい。体育館の中は最適かもしれない。僕は扉に鍵が掛かっていないのを確認すると、体育館の中に入った。
中に入るとヒヤリとした空気が僕を包む、まったく人気がないのだ。天井近くにある窓から入る光だけが寂しく館内を照らしていて教会のようだった。タダ壇上ニ上ガルノハ聖職者ジャナクテ教職者ダケドナ。つまらないこと言うな。ここにも電波が進入して来るようだ。僕はもっと狭くて密閉した空間を探した。
板張りの床を見ると、バレーやバスケに使うコートを色取りどりのビニールテープが型取っていた。それぞれのラインが美しく交差していて幾何学模様を形成していた。さながらナスカの地上絵か魔法陣のような印象を受ける。ここが学校と言う名の魔界ならば、この魔法陣には生け贄の血の代わりに部活に励む運動部員の汗が捧げられているんだ。
周りを見渡した僕は体育館の壁に一枚のドアがあるのを発見した。上靴をキュッキュッと鳴らしながら近付くとその扉を引いた。……体育用具倉庫だった。カビと埃の混ざった独特の臭いが鼻腔を優しく突いて軽い目眩がする。跳び箱、マット、平均台と言った授業で使う器具の他に、鳥かごを連想させるかごに詰め込まれたバレーボール、そしてネットと支柱に、試合で使う得点表示板がオブジェのように並べられている。
中に入り扉を閉めると室内はほとんど闇に包まれた。小さな天窓から射し込むか細い光がこの部屋の明かりのすべてだった。先ほどのオブジェが静かに陰影を作り、祈りを捧げている人のように感じた。
体育館の中が教会なら、ここは懺悔室だ。ジャアオ前ハ、ココデ姦淫ヲ犯シタ生殖者ッテ所ダナ。僕は部屋の隅に積み上げてあるマットに倒れ込んだ。ここなら電波も静かになるだろう。思イ出スカ? アノ娘ノ白イ肌トこりこりトシタ乳首。アノ娘トココデ体液ト電波ヲ交換シタンダヨナ? 気持チ良カッタダロウ? 肉棒ヲ蜜壺カラ引キ抜イタ時、入リ口カラとろりト滴リ落チタ、オ前ノ白イえきすヲ覚エテイルカ? 覚エテイルヨナ。ダッテオ前、今勃起シテルジャナイカ。ホラ、我慢シナイデ、自慰デモシロヨ。見テテヤルカラヨ。……僕は強く頭を振って、電波を追い払おうとした。けれど電波はまだ脳のあちこちで戯れ言をわめき散らし、頭から出て行こうとはしなかった。
電波とは耳で聞こえるものではない。直接脳の中に響くと言った方が正しい。それが四六時中、寝ている時でさえ、壊れたラジオのようにわめき続ける。ラジオなら壁に叩きつければ済むが、電波は耳を塞いでも関係なしに聞こえてくるから堪らない。
で、その電波にも何種類かあって、それらはごちゃ混ぜになって僕の頭へやってくる。一つ目は「声」系で、老若男女いろいろな声として聞こえる電波だ。さっきから僕にうるさく話しかける奴以外にも3日前からずっとブツブツ恨み言を呟いている奴がいるし、1日6回バクダットのラジオが流すコーランが大音量で脳に響く。その他に某国や某宗教団体の陰謀をこっそりと(態度はでかいが)教えてくれる電波がある。しかしそういうものの大半はホラなので耳を貸さないのに限る。
2つ目は「イメージ」系で、誰かが発信したイメージが突然脳に飛び込んでくる。今までで1番遠い所はプレアデス星団に住む7次元人の▼§ア£ー(発音できない)さんで、変わった所ではマリアナ海溝で瞑想にふけるオーム貝の哲学者Mr.ローレンスから貰った。これらの電波は強烈で、受け取ってしまったらパシーッと脳をレーザーで焼き切られるような衝撃を受ける。しかも地球に住む人間の僕には理解できないイメージが多く、受け取るのが辛い割に得るものが少ない端迷惑な電波だ。
3つ目は「感覚」系だ。具体的には味覚・嗅覚・触覚などだ。受信してしまうとこれらの感覚が前触れなく体中に広がって行くんだ。例えば“甘い”電波だと突然全身から甘い匂いがして来て、実際蜂なんかが寄ってくる。と言ってもたいした実害がないので味覚と嗅覚はなんとかなるが、触覚だけはどうしても我慢できない。見えない手で内蔵を直接触られる感触がするんだ。これは辛い。気持ち悪くてゲロゲロと吐いてしまう。だいたい体調の悪い時この電波にやられる。
最後は「感情」系だ。僕の最も警戒しているのはこのタイプの電波で、この電波に進入されてしまうと頭の中がその感情一色に染まってしまう。“嬉しい”“哀しい”“恐い”ならまだ可愛い方で、“死んでしまいたい”とか“誰でもいいから殺したい”とかがやって来た時は最悪だ。これらの電波が来たら僕は命を懸けて奴らと闘わなくてはならない。ほんの少しでも進入されてしまったら、もう僕は僕でなくなる。たぶん何らかの事件で新聞の3面記事を飾ることとなるだろう。
そこで、どうやったらそれらの電波から身を守れるかと言うと、やってきた電波と反対の電波をこっちも出してやるんだ。例えば“怒り”には“喜び”、“哀しみ”には“楽しみ”という風に対応させる。先の“死にたい”電波には“生きるんだ”電波を、“殺したい”電波には“そんなに悪い奴じゃない”電波を頭で作ってぶつけるんだ。このやり方が唯一無二の方法で、この方法があるから僕は今までなんとかやっていけている。
デハ、私ノ場合ハ? 無視をする。止メトケ、止メトケ、私ハオ前ノ全テヲ知ッテイル。何をだ? オ前ハ私ヲ疎ミナガラ、私ノ言葉ヲ聞ク事デ心ノ均衡ヲ保ッテイル。思い上がるな電波。僕が電波に依存していると言うのか? 冗談じゃないっ。冗談デハ無イ。オ前ハ自分ノ心ニ嘘ヲツイテイル。うっ……、頭が、頭が痛い……。脳の皺に沿って電波の粒がチリチリと走る。その度に僕の頭が軋むような悲鳴を上げる。オ前ハ気付イテシマウト心ガ壊レテシマウ感情ヲ隠シテイル。くわあああっ、僕の前頭葉でがなるのはいい加減にしろっ。頼む、コーランを止めてくれ。うるさい! 耳元でボソボソしゃべるのはやめろっ。やめてくれ……。シカシ、自分ノ心カラ完全ニ消ス事モ出来ズ、未練タラシクぐじぐじト面影ニ浸ッテイル。
汗が全身から吹き出てきて、こめかみをどくどくと脈が打つ。その脈に合わせて頭蓋骨の裏側を激痛が刺す。ソシテ、ソコヲ私達電波ニエグラレテまぞすてぃっくナ安堵感ニ包マレテイルンダ。吐き気が僕を襲う。エグッ、エグッ、と嘔吐の衝動が起こる。胃の中身どころか内蔵を吐き出しそうになる。僕に消してしまいたい感情など無い。未練たらしく浸る思い出も無いっ。デハ何故オ前ハコンナ所ニ居ル? アノ日ノ場所ヲ順ニ巡ッテ何ヲシテイル? 誰カノ姿ヲ捜シテイルンジャナイノカ!?
「うるさい!! 黙れーーーっ!!」
僕は横にあった跳び箱に向かって思い切り頭を叩きつけた。ドガッ! とものすごい音を立てて跳び箱が震えた。それにも関わらず僕は何度も何度も何度も頭を叩きつける。ドガッ! ドガッ! ドガッ! その度に重い木を叩き合わせるような鈍い音が体育用具室中に響きわたった。
「くわああっ。消えろっ、電波! 消えてしまえ!! 僕の頭から消えてくれ!!」
クラッと視界が歪む。脳震盪を起こして僕は跳び箱に寄りかかって膝を突いた。
「ねえ、なんかいるよ、この中に」
扉の向こうから数人の女子の声が聞こえてきた。次の授業でここを使うみたいだな。あんなに大きな音を立てたのはまずかったようだ。
「やだっ、ねえ見てきてよ」
「ええっ、私が? どうして!?」
人数は三、四人ほどか? 誰が中の様子を見に行くかで押し問答をしている。見つかると具合が悪いんだが、全身が骨を全部抜かれたように動かなかった。
「適任は君しかいない。ということで行って来て」
「だからどうして私に振るの? ねえ、カエちゃんも何か言ってやってよ」
「…………」
「この子は無口なんだから」
「ホントは恐がりなんでしょ?」
「くうう……。解ったわよっ。解った。ここで待っててよ。見てくるからさ」
こんな状況になっても不思議と僕の心は静かだった。体育用具室の扉がズリズリズリと僅かに開かれると、体育館中に燈された明るい照明の光と共に、一人の女子が隙間から顔を覗かせた。キョロキョロと左右を見渡すと体を横にして部屋の中に入ってきた。素直に扉を全開にすればいいのに……。僕は自分の置かれた立場も忘れて、ちょっとニヒルな笑みを浮かべた。
「もしもーし、誰かいる? いたら返事してよ」
暗さに目が慣れていないのだろう、足で地面を探りながら少しずつ歩みを進める。元々大きい目を皿のように開いている。腰まで届く長い髪を後ろで束ねてポニーテールにしていた。両手を暗がりで泳がせていながらピンと背筋を伸ばしていて、姿勢が良いのは相変わらずだ。そして次の授業に備えるため体操着を着ていた。喜ベぶるまーダゾ! …………。シカモ、部活用ノ赤イ方ジャ無クテ、体育用ノ紺色ダ! 彼女が僕から1mほどの所まで近寄ると、そこでふと立ち止まった。
「ねえちょっと、ホントに誰もいないの? ……いないんだね。決定! 誰もここにはいなかった! 良かった、戻ろっと」
ほーっと安堵のため息をついた時、彼女を観察していた僕と視線が合ってしまった。
「ひいいっ」
彼女の髪が見る見る逆立ち、声にならない悲鳴を上げた。
「ねえっ、どうしたの!?」
扉の向こうから友達が心配そうな声をかける。彼女は顔を引きつらせながらも僕の様子がただならないのを察知すると、声を上ずらせながらこう言った。
「ひと、だい、ね、ね、ねずみ! ねずみがいたのよ。大丈夫、なんともない」
そう言うと彼女は俺の横にしゃがみ小さな声で囁いた。
(ねえ君、大丈夫? 保健室行こうか?)
どうしてかは解らないが、ありがたいことに内緒にしてくれるみたいだ。
(いいよ、僕のことはほっといてくれ)
(すっごく苦しそうじゃん。……あーっ、イケナイことしてたんじゃないでしょうね。クンクン。でも変な臭いはしないよね)
僕がここでシンナーでも吸っていると思ったのだろうか? それは大きな誤解だ。僕はあんなのに頼らなくても十分ラリってる。コイツハ君トイケナイ事ガシタインダ。彼女が心配して僕の顔を覗き込む。
(ホン―――トにいいの?)
長い髪が僕にかかる。暗闇のせいで彼女は僕との距離がこんなにも近いのに気付いていない。手を伸ばせば彼女の肩に手が届く。ダッタラ伸バセヨ。オ前ダケハ憶エテイルダロウ? オ前ノ欲望ノ触角ヲアノ形ノ良イ口唇ニ包マレテ、小サクテ熱イ舌デ敏感ナ所ヲ舐メテモラッタ事ヲ。脳の視覚中枢を電波が刺激してあの時の感覚がよみがえってきてしまった。無意気に股間が緊張する。だめだ、だめだ。……段々電波の支配が強くなる。ソレカラ、アノ子ノ大キナ乳房ニ挟マレテ、シタタカト彼女ノ顔ヘ白濁液ヲブチマケタ事ヲ。柔ラカカッタダロウ? 暖カカッタダロウ? ソシテ、気持チ良カッタダロウ? 彼女が望んでしたことじゃない。ソウダ! アノ時ハ生徒会長ノ電波ニ操ラレテ居タンダ。ケレド今ナラ、オ前モ使エルジャナイカ“毒電波”。有ルナラ使オウゼ、使ッテ彼女ヲ言イナリニ、シテシマエヨ。使オウゼ電波ヲサ。電波、電波、電波、電波電波電波電波電波電波電波電波電波電波……。
(絶対おかしいよ。脂汗流してるじゃん)
差し伸べてきた手を僕は思わず払い除けてしまった。少し悔恨の念が浮かんだが、すべてを忘れてしまっている彼女には関わりたくなかった。一方彼女は僕に手を払い除けられたことがショックだったようで、自分の手を見つめしばらく呆然としていた。
「沙織さん、授業が始まります」
不意に僕と彼女以外の声が室内に響いて、僕らは驚いたようにその方向を振り向いた。
「カ、カエちゃんか。ビックリしちゃったよ」
扉の向こう側にいたはずの女子が一人、知らないうちに僕らの傍らに立ってじっとこちらを見つめていた。
「先生が来ます」
「あ、でも……」
もう一人の娘の視線がこちらに向けられる。華奢な感じがする線の細い娘だ。背は少し低く、さっきからいる娘と比べると肩の位置がだいぶ違う。また髪型がおかっぱなので日本人形の童を想像してしまう。……不思議と電波共が何も言ってこない。まるで彼女に怯えているように静かだ。
しかしそれも納得できるような気がする。彼女の視線はこの暗がりの中でもその強さがはっきりと解る。摩周湖の如く深くて清くて冷たい瞳の中にはまるで獲物を狩る狩猟者のような気迫が秘められていた。彼女の視線に縛り付けられた。
「……自分の業は自分で解脱するしかありません」
そう言い捨てると、もう一人の娘の手を引っ張って体育用具倉庫を後にした。無情に倉庫の扉が閉められると、傷口から染み出すリンパ液のようにジワリと電波が脳の中に湧き出して、再び僕の頭蓋骨はギリギリと軋み始めた。『自分の業は自分で解脱するしかありません』 あの娘の言葉が胸の中をぐちゃぐちゃに掻き回して吐き気がこみ上げた。
僕はどこへ歩いていこうとしているのだろうか? 授業が終わり再び静かになった体育館を出て誰もいない校舎の中を熱病に浮かされているようにフラフラさまよっていた。渡り廊下を抜け、長い長い廊下を幾度もつまずきながら進んだ。
電波が僕の脳をギリギリ締め上げ、脳髄が汗となって額に浮かんだ。僕の皮膚に粘液質の膜ができたように周りの空気から隔離されている感じがした。ゆっくりと僕の世界がこの世から剥離していって、実際に目にしている光景が、実際に肌で感じる空気が、絵空事のように僕には思えてきた。ははは、そうだよねイカロス。
僕が両足を付けている床はホントに床なんだろうか? 僕が手を突いている壁はホントに壁なんだろうか? 僕が吸い込んでいる空気はホントに空気なんだろうか? 僕はホントに僕なんだろうか? ……僕はどこへ歩いていこうとしているのだろうか?
西校舎に入ると僕の足はずんずんと階段を登り始める。だめだ! そっちには行ってはいけない。2階まで登った。しかし両足は止まろうとしない。だからだめなんだ、止まってくれ。3階まで登った。しかし両足は止まろうとしない。止まれっ。止まれくれ! 僕はあそこへ行ってはいけないんだ。4階まで登った。しかし両足は止まろうとしない。頼む! そこは、そこは僕の聖地なんだ!
「捜したんだよぅ、あんた」
眼前に視界を遮るものがふいに立った。脂でテカテカに光る顔を追きだして一人の男が僕の行く手を阻んだ。
「休み時間に教室に行ったけど、いなかったからずっと捜してたんだよぅ」
ゲプと臭い息を吐き奴は恨み言を言った。何を勘違いしているのか知らないが、僕は奴のことなんかまるっきり眼中にない。
「なあ、頼むよぅ。電波で俺を壊してくれよぅ」
腐った目を僕に向けて懇願する。直感的な嫌悪感が背中から首筋にかけて息を吹きかける。皮膚がピリピリと粟立つ。
「僕は君とは何の関係もない」
それを聞くと少し泣きそうな(まったく薄気味悪い)顔を浮かべて言った。
「おたくは感じたことはないのかい? 授業中まるで先公がテープレコーダーみたいに同じ事ばかり喋っているようにさぁ、クラスの連中がロボットのように唯ノートに字を書き込んでるだけの機械みたいにさぁ。それに、変に息が苦しくなって窓から首を突き出したりしたくならないかい? 机に座ってるとジリジリと焦りばっかりが足下からやってきて教室から飛び出したくならないのかい? 機関銃か何かで学校中の連中を撃ち殺したくならないかい? 爆弾か何かで職員室をぶっ飛ばしたくならないかい?」
奴が真っ赤な顔をして唾を飛ばす。白い泡が混じったそれが僕の制服に付いたが、手で払うと病気に掛かりそうだったのでそのままにした。
「俺はきっとここにいる人間じゃないんだ。体をどこかに置き忘れてしまって心だけがここにいるんだ。体がないから俺のことを蹴っ飛ばしたり殴ったりしてもあいつら痛くないんだ。だからあんな事が平気でできるんだ」
奴の漆黒の感情が電波となって僕の周りを取り囲み、にじり寄るようにその囲いを狭めて来る。コールタールのように黒くて重くてドロドロした情念が僕の脳に忍び込んでくる。脳細胞が真っ黒に変色していくのを感じた。胃がキリキリとねじり上げられ、酸っぱい胃液が喉の奥を刺激する。電波の粒がチリチリと僕の脳幹を緑の光を放ちながら駆け回る。hehe、気ニ入ラナケレバ壊シテアゲレバ良イデショー。
「それでさぁ、生徒会長がおかしくなって入院した時、おたくがあの人を発狂させたらしいて聞いて、俺痺れちゃったんだよぅ。だから俺、色々調べたんだ。するとあんた“電波系”だって、みんな言ってた。それで分かっちゃったんだよ、俺。あんたが電波を操って生徒会長を壊したんだって」
「な、何を言ってるんだ。僕にそんなことができる訳がない……。それは……それは……君の願望が生んだ妄想だ……。妄想だ!」
hahaha−、嘘ツイチャー、イケマセンネー。heハ本当ノ事ヲ言ッテイマース。
「で、俺思ったんだよぅ。おたくなら俺をホントの世界へ連れてってくれるんじゃないかって。頼むよぅ。俺を“狂気”の世界に連れってくれよ! 俺にとってはこの世の方がよっぽど狂ってるんだ。そうだよ、みんな、みんな、狂ってるんだ! “正常”なこの世界の方が狂ってて、みんなが言う“狂気”の世界がホントは正しい世界なんだ。狂気の向こう側の方が真に清らかで純粋な、精神だけの世界なんだ。……もう俺はこんな世界にいたくないんだよぅ。だから俺を、俺を、向こう側の世界に連れてってくれよぅ! 連れてってくれよぅ!!」
oh! heノ言ウ事ハ正シイデース! 黙れ、電波。僕の後頭部がズキンズキンと鉈で斬りつけられるような鈍痛が貫く。眼球の結膜にある毛細血管へ真っ黒い血液がメリメリと音を立てて流れ込み、爪で掻きむしられるような痛みが走る。同時に僕の体は平衡感覚を奪われ、背骨が芯を抜かれたように所存なく揺れる。僕の世界を取り囲む全ての事象が塑性を失ってグニャリと形を崩す。hey、uモheガ気ニ入ラ無イノナラ、電波デ壊シテアゲマショー。ソノ方ガuノ気モ晴レルハズデース。電波ヲ使ッテ、コイツヲグチャグチャニ壊シマショー、電波デ、電波デ、電波デサー。電波デ、電波デ、電波デサー。電波デ、電波、電波、電波電波電波電波電波電波電波電波……。
「僕はあんなこと二度としたくはないんだああああああああっ!!」
辺りを切り裂くほどの絶叫を上げると僕は目の前の男を突き飛ばし、階段を登らず壁づたいに廊下をヨロヨロと歩いていった。
何もない部屋。何もない真っ白な部屋。薄く引かれたカーテンを通して陽が静かに忍び込む。白く塗られた壁に反射してその光は部屋全体を淡く輝かせていた。やがて2つのベッドが部屋の隅からぼんやりと浮かび上がって、この部屋を満たすものが光以外にあることを気付かせた。しかしそのベッドも白いシーツと布団が掛けられ部屋の白の中にその輪郭を溶け込ませていた。ここには一輪の花もなければ、花瓶を置くテーブルさえもなかった。何もない部屋。何もない真っ白な部屋。
2つ置かれたベッドのそれぞれには透明な液体を入れたビニール袋が高く掲げられ、管によりその液体がベッドの中に導かれていた。逆にベッドの下に置かれているビンの中へ別の管を通して透明な液体がベッドの中から流し込まれていた。
右のベッドには男、左の方には女が横たわっていた。左のベッドの傍らによると、そこで女は目を閉じ、微かに口を開いて眠っていた。その血の気を感じさせない白い肌はゆっくりとした呼吸音が聞こえなければ石膏像だと思うだろう。
目覚めないのを微かに自覚しながら女の肩を二度三度と揺り動かす。瞼に覚醒の兆候が現れないことに、予想がつきながら、軽い失望感に襲われる。今度は祈るような気持ちで口付けを捧げる。それでも何の反応もないのは変わらなかった。
今まで何度繰り返してきたのだろう。しかし心からの純真な願いとは裏腹にこの瞼が開かれることはなかった。―――なぜ目覚めない。これはあの人の身体じゃないのか? ここにあの人が帰って来るのではないのか?
布団を剥ぎ取ると、術着のような寝間着に包まれたあの人の身体だったものが現れた。左手と寝間着の裾から透明な液体を運ぶ管が繋がれていた。身体だけでもこの世界に繋ぎ止めようとする碇のようだ。見るとまったく反応がないこの身体でも胸の所だけは呼吸音に合わせてゆっくりと上下していた。これによってこの個体の生命活動はまだ存続していることが確認できる。……それなのにあの人の心はこの身体を捨てて向こう側の世界へと旅立ってしまった。
胸に耳を当てると、トクン……トクン……、と時計の振り子のような鼓動が聞こえた。身体は生きているのに……。そっと乳房に手を添える、そしてゆっくりと揉みしだく。暖かさと柔らかさが手のひらに伝わってくる。この感触は今もあの時も変わらないのに……どうしてここにいないんだ?
寝間着の襟に手を掛けると乱暴に胸をはだけさせた。プルンと慎ましげな乳房が眼前に姿を見せる。白くて薄い皮膚の下に青い血管が透けて見え、桜色の頂が白のキャンパスにアクセントを与えていた。堰を切ったようにその膨らみにむしゃぶりつく。くちびるで吸い付き舌先で頂を転がし、そしてもう片方を鷲づかみにして形が変わるくらいに激しく強く揉んだ。何もない部屋。何もない真っ白な部屋に赤子が乳首にしゃぶりつくような音が響き渡る。それでも、そこにはなにも変わりはなかった……。
顔を起こすと、安らかに眠っているような白い顔が目に映り、白い首が映った。恐る恐る両の手を伸ばすと、指をその細い首に巻き付け、静かに力を込めていった。指がゆっくりとその美しい首にめり込んでいくと、ギリギリと締め上げていく感触が手のひらに広がる。首の中を通る頸骨や気道、食道が押しつぶされる様を感じることができた。顔を見ると白い顔が更に白くなり、青いくらいだった。しかし、その表情は安らかに眠っているようで、変わることはなかった。
違う! これはあの人の心が帰って来る場所じゃない!? 抜け殻だ! 抜け殻じゃないか! こんな所にあの人は帰って来ない! これは肉だ! 唯の肉の塊なんだ!! ―――そうだよ、あの人の心はここには帰って来ないんだ。もっと、違う、別の、所に、帰って、来るんだ。……行かなきゃ、捜しに行かなきゃ、あの人がきっと寂しがってる。寂しいよ、寂しいよって泣いている。
僕は自分の机に座り、左親指の爪を噛んでいる。この孤独な空間の前方で教師が右の人差し指を伸ばしていた。するとその指し示す方向にいた生徒が腰を上げ、パクパクと口を開閉した。死に掛けの出目金のようだ。教師が白墨を黒板に擦り付ける。すると奇怪な音を立て白墨の軌跡が不気味に黒板へと残された。続いて生徒が40もの水飲み鳥のように首をパタパタ上下に動かして、机上のノートを鉛筆で削り込んでいた。
これらの現象は、僕には全く関わりが無いかのように、僕の周りを避ける様に通り過ぎた。教師の話す声やクラスの連中がノートに書き写す音は僕の聴覚神経を刺激することができなかった。それどころか僕の周りの空気だけ教室のものとは異質な気体で包まれているようで、足の裏では床の感触が消滅していて椅子に座ったまま宇宙に放り出された感じがした。
窓から差し込む太陽がジリリと制服を焦がすたびに、僕の大脳皮質から松果体にチリリとグリーンの匂い玉のような電波の粒が駆け巡った。
『みんなお前のせいだ。僕の背が低いのも、僕が大学に落ちたのも、僕がワキガなのも、僕が童貞なのも、みんな、みんなお前のせいだ』
僕の脳には壊れた水道管みたいに様々な電波が吹き出て来た。僕は慌ててそれを押さえようとするが、これを押し返すように電波は後から後からやって来て、僕の感情や理性を流し去ろうとした。
『私は……ブツブツ……絶対に……ブツブツ……悪く……ブツブツ……きっと……』
オ前モ、モウ諦メテシマエ。
赤、青、緑、その他たくさんの彩光が花火のように僕の視界でフラッシュする。網膜に刻み込まれた残像が視界の中をしばらくボウフラのようにツイツイと泳ぐと、グニャグニャと形を変え次第に目の端にこびり付いてしまった。原色のアメーバが眼球の裏側に張りついてしまったに違いない。
『ここだけの話だけどな、首相経験者の大臣の態度が横柄なのも、東京都知事が一期だけで辞めるのも、すべて○○の陰謀なんだぜ』
ホラ、俺達電波ニ精神ヲ開放シテシマエヨ。オ前ノ望ンダ物ハ、モウココデハ手ニ入ラ無イ。向コウノ世界ニ行コウゼ。ソウスレバ、オ前ハモット楽ニナレル。
僕が向こうの世界に行ってしまったら、こっちの世界であの人のことを憶えてて、あの人の帰りを迎える人間がいなくなる。僕はあの人の帰る場所を照らし出す灯台にならなきゃいけないんだ。
オ前ノ灯台ハ鍾乳洞ノ地下湖ヲ照ラシテイルダケダ。誰モオ前ノ事ナド必要トシテイナイ。オ前ハコノ世界デハ全クノ無価値ナノダ。
『って言うかぁ、あいつバカじゃん。話してっと超ムカツいてくんのよね』
あの人を幸せにできるのは僕しかいない。あの人には僕が必要なんだ。
デハ、何故アノ時、彼女ハオ前ヲ選バナカッタノダ? 何故彼女ハ向コウ側ノ世界ニ行ッテシマッテ、オ前ハコッチノ世界デ、グジグジヤッテイルノダ?
『4番線に電車が入ります。白線の内側でお待ち下さい』
『明日、伊勢丹ジョンがオバQとジョイント。クラッシュして長崎黒い雨が時々晴れ後ホロコースト』
あの人はきっと帰ってくる。僕の所に帰ってくる!
叶イモシナイ望ミナド捨テロ。オ前モ、モウ解ッテイルハズダ。彼女ハ帰ッテハ来ナイ。ソウ、アノ時アノ女ハ、オ前ヨリ兄貴ノ方ヲ選ンダノダ!
オ前ハ捨テラレタ! 捨テラレタノダ!
「止めてくれ! それ以上は止めてくれ! もうたくさんだ!!」
『おい! 長瀬! どうしたんだ!?』
オ前モ、狂ッチマエヨ。楽ニナロウゼ。
「うるさい! 電波め! 僕は絶対にお前なんかの言いなりにはならないぞ!」
我慢ナンカスルナ。向コウ側ニ行コウゼ。狂気ノ扉ヲ開ケテサ。
『いいから長瀬。席につけ!』
悪意を持った電波が前方から僕の方に向かって接近してくる。
「く、来るな! お前がそのつもりなら僕にも考えがあるぞっ」
僕は空中を漂う電波の粒に意識を集中する。すると電波の粒達が磁石に吸い寄せられる砂鉄のようにするすると僕の脳に集まりだす。僕の手に落ちた電波は僕の脳の中で自由自在だ。僕はあるイメージに合わせて、その電波の粒に光彩を与え、形状を与える。そのイメージは僕に襲ってくる電波と反対の性質のを与える。
よし、喜怒哀楽の楽だ。『楽』にしよう。笑え! 笑うんだ!
僕は電波の粒を僕に向かってくる毒電波に対して解き放した。小脳から前頭葉にかけてチリチリチリチリと痺れが走る。なぜか性的快楽におけるクライマックスに似た甘美な痺れだった。
そして、僕に向かってきていた毒電波は、僕が電波をぶつけてやるとぴたりとその動きを停止した。
「ゲ……、ゲヘ……。ゲヘ、ゲヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘ」
その電波は瞳孔の開いた無表情のまま、顎だけを異常なほど落として開きっぱなしにし、腕をだらんと下げ、笑い声を上げていた。まったく焦点の合っていない視線をやや上方へ向け、ばかりと開ききった口からはダラダラと涎を垂れ流して襟元をベトベトに濡らしていた。
僕の周りにざわめきが起こったような気がした。
「きゃ―――っ!!」
「長瀬! お前一体何をしたんだ!?」
同じようなカッコをした電波が僕を取り囲み、その中の一つの電波がいきなり僕の肩を掴んだ。
「まだ、やろうって言うのか電波め! お前達も消えてしまえ!」
チリチリチリチリチリチリと脳を痺れさせると、僕はぐるり周りに電波を放出させた。
……電波を粗方放射し尽くすと僕の周りに静寂が帰ってきた。
「ゲ……、ゲヘ……。ゲヘ、ゲヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘ」
「ゲヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘ」
周囲40程の電波共が全員黒板の上に掲げられている校訓の額縁の方を向いて、瞳孔の開いた無表情のまま、顎だけを異常なほど落として開きっぱなしにし、腕をだらんと下げ、笑い声を上げていた。まったく焦点の合っていない視線をやや上方へ向け、ばかりと開ききった口からはダラダラと涎を垂れ流していた。発情したガマガエルの群れのようだ。
「ゲヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘ」
おや? 僕は周囲を見渡すとふと我に返った。
「ゲヘ、ゲヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘ」
しまった。ここは教室だったんだ。電波だと思っていたのは先生とクラスメイトだった。……現実と電波の区別が付かなくなっている。ダメだ、ここにいてはいけない。静かな場所、誰もいない静かな場所に行って、電波と闘わなくてはいけない。乗っ取られてしまう。僕の身体が本当に乗っ取られてしまう。行かなくっちゃ。ダメだ、ここにいては……。こことは違う別の所へ……。
よろよろと椅子から立ち上がり、そのまま僕は教室を出ていった。それでもクラスの連中は楽しそうに涎を流しながら笑っていた。
「ゲヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘ」
教室を飛び出した僕はこの時間には人がいない文化部の部室が並ぶ棟に入り、ある部屋の前に辿り着いた。ポケットから鍵を取りだし、それを鍵穴に突っ込んでねじ切るように右にひねるとカチャリと鍵の外れる音がした。倒れ込むように部屋の中に入ると、やや乱暴に扉を閉める。バターンと言う音が静まると、ガランと殺風景なこの部屋の窓際に崩れ落ちるように座り込んだ。
ここは旧生徒会室だ。あの事件以来、他の生徒が気味悪がるので新学期からは全く使われなくなった。僕は叔父である長瀬先生にここの管理を任されている。僕は電波があまりにも強くて意識が飛びそうになると、ここに来て電波が僕の脳から過ぎるまでやり過ごす。
もはや臨界点に到達している僕は床のタイルの上に無造作に置かれている手錠を拾い上げ、それで僕の手首と床から出ている暖房の配管とを繋いだ。もし電波に体を乗っ取られて暴れ出したとしても大丈夫なように用心するためだ。手錠の鍵をすぐに手の届かない場所にポンッと置くと、大きく深呼吸をしてこれから僕の脳に押し寄せる電波と戦う心積もりをした。
チリチリチリ脳が激しく振動をして波打つ。僕の精神が危険信号を叫ぶ。津波が来る前に一瞬波が引くように、電波どもの喚き散らすのがすうっと止む。この後怒涛のように電波が来るのだ。後頭部がチリチリする。来る。電波がクル。―――クルゥ!
「ぐわわわわわわ―――っ!!」
瞬く間に僕の自我は圧倒的で暴力的な電波の泥流に押し流され、意識が粉々に吹き飛ばされホワイトアウトする。
パリパリッと火花が僕の脳の中に飛び散る。見えない手がさわさわと僕の背中をなでる。喉元から絞り出すようにうめき声が漏れる。見えない手はしばらく僕の背中を上へ下へなでまわしていたが、背骨と骨盤の繋ぎ目の所でその動きを止めると、ずぶずぶと僕の身体の中に入り込んで来た。ビリビリと電撃のような痺れと共に全身から脂汗が滲み出て学ランの内側をベタリと湿らせる。
『ねえ、僕が何をしたって言うんだよぅ。どうして僕をイジメるんだよぅ』
視野に映る物体が次第にその色調を失っていき、けばけばしい原色のみでその色彩を構成した。
「ぐううっ」
見えない手が直接僕の背骨をいじくりまわす。僕の背骨を握り締めて陰茎をしごくようにしゅっしゅっとこすりあげる。
『なにこのプリクラ。よくこんな恥ずいの撮れるよね』
床に這いつくばる僕の皮膚の内側を、3265匹の蟻がその黒くて頭部と腹部を除くと針金のように細くて硬質な体を手足と触覚をワキワキとさせながら、僕の手足などの末梢から首元に目掛けて這い上がってくる。僕の脳が芋虫のようにうねうねと伸縮する。見えない手が僕の背骨をしごくたびに不快感がそのリズムに合わせて脳に送りこまれて来る。
「ぐわ―――っ!!」
凄まじい絶叫と共に僕はコンクリートの壁に自分の頭を叩き込む。
「ゴスッ! ゴスッ! ゴスッ! ゴスッ! ゴスッ! ゴスッ!」
何度も、何度も、容赦なく頭を叩き込む。鈍い痛みが頭の中に波紋のように広がっていく。自分の頭蓋骨が割れるかもしれない、などと考える余裕はなかった。唯、電波が脳から去ることを望むことのみが僕の思考のすべてだった。
キーンという凄まじい耳鳴りが内耳に響き渡り、外界の音がその耳鳴りに掻き消されて僕の聴覚神経に伝播されなくなる。
『浩之ちゃんの幼なじみ辞める。辞めて唯の『神岸あかり』になる!』
目に映る物はすでに“物”として認識ができず、その形骸は僕の視覚神経下に於いてそのフォルムを融解させていた。その内見えない手はずるずると腹部に進入し、ぬかずけをかき回すように僕の腸をこねくり回す。
『狂っちまえよ、気持ちイイぜ。俺と一緒にあっちの世界に行ってしまおうぜ』
3265匹の蟻は皮膚の下を這いながら胸や肩から首の狭い所を抜けようとして一気に集中する。蟻によって頚動脈と気管を圧迫され、顔がうっ血するように真っ赤に腫れ上がる。どくっどくっと自分の心臓がのたうつ音が体中に反響して頭の中で響き渡る。まるでメロンのように体中の血管が浮かび上がり、青い葉脈みたく皮膚の下を走り回る。
「ぐええ」
鈍い吐き気が僕の腹部で渦を巻く。腹の中で82匹のウナギが練り餌に食らいついているかのようだ。それを見えない手がうにゃうにゃとかき混ぜてウナギ達を刺激し、興奮状態へと押しやっていた。
『みんな聞いてくれよ、俺にもついに彼女ができたんだぜ。それも高校生ですごく健気でかわいいんだ。おまけに俺にベタボレなんだぜ。でも一つ気になるのは、彼女……』
全身から重力が奪い取られて、自分が今どういう姿勢でいるのか、いや自分がどこにいるのかすら分からなくなる。日本海溝の泥の底か? 火星の衛星軌道上か? あの緑色の斑点はフォボスだ。喉元まで来る吐き気を僕は必死になって飲み込もうとする。
『みんな死ね。死ね死ね。僕を残してみんな死ね。大嫌いだ、大嫌いだ。お前らなんてこの世にいない方が良いんだ。僕だけが、僕の言っている事だけが正しいんだ。だからみんな死ね。死ね死ね。みんな死んでしまえ』
皮膚が腐った死体のような腐臭を放つ。表面だけがぬるぬるとしていて、指で触るとずるりと剥けて、中から腐りきって溶けてしまった肉が吐き気をもよおす刺激臭と白くてグニグニと伸縮運動をする何百匹もの蛆とをドロドロと吐き出す。
「うわわっ! うわわっ! うわわわわわっ!!」
僕は自分の手首にはめられている手錠を目茶苦茶に引っ張りまくる。手錠が手に食い込み皮膚が裂け血が滲み出してくる。やがてどす黒く濁った赤い液体が僕の腕を伝り、ブラウスの袖口を同じ色に染め上げていく。ずきっずきっと手首に走る痛みが心臓の鼓動と同期を取って、その痛みを更に鈍く深くする。
『8時ちょうどをお知らせいたします』
やがて見えない手はずるずると僕の身体の中を這い上がり、腎臓をかわし、肝臓を押しのけ、胃へと到達する。
『狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え狂え』
見えない手は僕の胃袋を鷲づかみにして、血圧計の空気を送るポンプのようにぐちゅっぐちゅっと握ったり離したりする。
『ハハハ、ハハハハハハ。ウハハハ、クク、ハッハッハッハ』
3265匹の蟻がついに僕の脳に到達して、脳細胞を食い荒らす。体中の交感神経が引き千切られるような衝撃が僕を焼き尽くす。僕の意識すべてを吹き飛ばそうとするこの衝撃は、同時に忘我の境地へと押し流そうとする法悦の瞬間でもあった。
『私も〈在ること〉を望んだ。それだけしか望まなかった。関連がないように思われたすべての試みの底に私が見出すのは、同一の欲望である。自分の外に実在を追いだすこと、瞬間から脂肪を抜くこと、瞬間をねじりあげ、水気を取り除くこと、最後にサキソフォーンの調べの澄んで精確な音を奏するため、自分を純化し、硬化すること』(*)
「おええええっ」
僕はついに堪えきれなくなって床に胃の中の物をぶちまけた。
『昨日さ、あいつに光り物買ってやったらさ、すげー喜んじゃってよー。中出しで3発もやらしてくれたんだぜ』
茶色掛かった黄色の粘液がドロドロと僕の口から流れ出る。喉の奥が焼けるような苦みを感じる。
『あん、あっ、あっあっあっ。んわああっ。はっ、あっ、ああ、んっ、あっあっあん』
眼球の表面を錯綜する血管がビキビキと膨れ上がり、歪んだ僕の視界を真っ赤に染め上げる。そして腫れ上がった脳が目玉を押し出して、左の眼球がボコリと頭骸骨から外れて床へと落っこちた。細かい血管が縦横に張り巡らされたピンポン玉のような眼球に絹糸をよったようなネバネバとした視神経が眼球が抜けた穴の中へと繋がっていた。へその緒のようだ。
『俺達はセックスするためだけに生まれて来たんじゃないんだぜ』
胃から分泌した粘液が僕の口から糸を引いて床と僕とを結び付ける。酸っぱい臭いが鼻について、僕は再び粘液を逆流させる。
『笑って。ねえ笑ってよ。あなたが笑ってくれないと私幸せになれないの』
脳が痒い! 僕の脳は完全に腐っていて頭蓋骨の中で便壷に漂う汚物と化している。
『私はノストラダムスだ。かねてから私が言っているように1999年7の月に人類は滅びてしまうのである。そう、お前達もみんな死んでしまうのだ。これは人類が火を発見した時以来すでに決まっていたことなのだ。……だが、特別にお前だけは助けてあげよう。私の姿をかたどった黄金の像を作り、毎日祈りを捧げるのだ。そしてお前の汚れた財産のすべてを捨てて身を清めるのだ。その際、財産の処理は私に任せてくれ給え。責任もって処理させていただく。これだけのことをすればお前だけは助けてやる、お前だけは助けてやる』
よだれと涙がだらだらと僕の顔面から垂れ流される。
『あんた見てるとムカツいてくんだよ。さっさと死んじゃいな』
見えない手はその間も容赦なく僕の身体の中をまさぐり続ける。
『助けてくれ! 助けてくれ! 助けてくれ! 助けてくれ! 助けてくれ! 助けてくれ! 助けてくれ! 助けてくれ! 助けてくれ!』
自分の脳に対する得も言われぬ嫌悪感が込み上げてきて、直接脳の中に手を突っ込んでかきむしろうと、頭に爪を立てる。しかし指は頭蓋骨に食い込むことはできず、爪の間に頭皮と髪とドロリとした血を残しただけだった。その赤い血を見てると電波共は波が砂地に吸い込まれるように脳の奥へと引っ込んでいった。
……嵐は去った。電波に身体を乗っ取られることだけは避けられたようだ。汗だくになりながら肩で息をする僕の傍らに、いつの間にか一人の男が立っていた。あの男だ。
奴は僕が投げ捨てた手錠の鍵を腹をつかえさせながらしゃがんで拾い、僕の戒めを解いた。汗とワキガと口の臭いが混ざり合って生理的嫌悪感が湧き上がる。奴は僕の姿を頭の天辺から爪先まで、両生類を思い出させる粘液質の視線を嘗め回すようにねちゃりと巡らせた。すると何が面白いのか口元をにやりと歪めると、目を弓形に湾曲させた。
「おたくさぁ。今、電波受信してたんじゃないのぅ? ずるいよ、自分だけ楽しんじゃってさ。おたくの毒電波で俺も壊してくれよぅ。もうこっちの世界なんかに居たくないんだ。ねえ、お願いだよぅ」
奴の言葉が僕の鼓膜を揺らし聴覚神経に伝播された時、僕の中で何かがグニャリと歪んだ。それは臨界に達した奴への嫌悪感がドロリと憎悪に姿を変え僕の理性を溶解させてしまった瞬間の感覚だった。
ふざけるな。楽しそうだと? 脳をねじ切られるような苦しみといつ身体を乗っ取られるか分からない恐怖に慄く毎日が楽しそうだと? それに向こうの世界に生きたい? 僕がどんな思いでこの世界に踏みとどまっているのか解らないのか、このクサレ野郎は? ……解ったよ、望み通りに壊してやるよ。僕の毒電波でメチャクチャに壊してやる。完全に、完全ニ、壊シテヤル!
僕はうな垂れていた顔を上げると、奴の濁った目を真っ直ぐ睨み付けた。奴は僕の殺気にも似た憎悪の感情を感じ取ると、にやけた表情はたちまち消え失せ、ニキビだらけで油の浮いた醜い顔面を恐怖に引きつらせた。
「ひいいっ!」
奴は背を向けここから逃げ出そうとしたが、慌てたのか足を絡ませてその場に尻餅を突いてしまった。そうだ、逃げるんじゃない。お前は僕の獲物になったんだ。
実際に自分の精神に危機が迫ると奴は逃げようとした。所詮向こう側の世界に行きたがっていた言動は唯のポーズなんだ。奴は絶対に安全な場所から僕に「壊してくれ」と言うことで現実逃避をして、つまらない自尊心を慰めていたに過ぎないんだ。……でも安心しろ。たった今から本当に連れてってヤルヨ、向こう側の世界にな。
僕は空気中を漂う電波の粒を全て掻き集め、松果体の中で激しく圧縮する。視床下部の左側が緑色に発光しだし、シノプス結合をさかのぼって光の粒が駆け回る。小脳から延髄にかけて激しく伸縮を繰り返し、頭全体がブルブルブルと痙攣するように震えだす。
「あ……、た、た……」
奴が目玉を飛び出さんばかりに目を見開いている。じたばたするな、今お前の精神は壊れたがっているんだ。恐怖に引きつった真っ青な顔をしながら僕に何か許しを乞おてる気がした。命乞いか? 精神乞いか? それとも、自分の愚かさを詫びているのか? くだらない、もう手後れなんだよ。僕は最大強度で圧縮した電波を、奴の脳めがけて優しく解放してやった。視界がバチッとフラッシュすると、電波の粒が放水したダムのような圧倒的な質量をもって奴の脳の中へドドドドドと流れ込んで行った。
「お、れ、れがわ、るるるかった、た、た、だから、ゆ、ゆるゆるゆるゆるゆるゆるゆる……」
ヤツは電気マッサージ機を出力最高で当てたみたいに、顔面をぶるぶる震わせていた。その痙攣が体中に広がる頃には白目を剥き、ぽかんと開いた口元からはよだれを垂れ流していた。人間の顔がこんなに劇的な変容を遂げるとは知らなかった。滑稽だよ、君。
電波をすべて放出すると射精にも似た恍惚感が湧き起こり、煉獄の炎に焼かれるような快感だけが僕の精神を包み込んだ。幼い頃した昆虫を指先で捻りつぶす感触を思い出させる甘美な一瞬だった。
僕は満足げに足元に転がる物体を見下ろした。その物体は完全に白目を剥き、仰向けになって全身をピクつかせながら、焼死体のように肘を直角に曲げ腕の先だけを天井に向かって突き出していた。だらしなく開いた口からは驚くほどに長い舌がベロンと吐き出されていて、さらに顔面中目や鼻や口から汁という汁をダラダラと垂れ流していた。おやおや、なにやら異臭がすると思ったらズボンが小便でビシャビシャになってしまっている。しかも股から内腿にかけて変にズボンが盛り上がっているのを見るとどうも脱糞してしまっているらしい。臭いはずだ。まったく、しょうがないヤツだ。
ここにはもうヤツの魂はない。狂気の扉を開けて向こう側の世界へと行ってしまったからだ。まあその扉にヤツを叩き込んだのは僕だけど、それを望んだのはこの男だ。
足元にあるこの物体はもはや唯の肉塊に過ぎない。しかし不思議なもので、あれだけ嫌悪感を感じさせたヤツも、今では何の感慨も催さない。人間はその入れ物に魂が入っているからその存在に価値があるのだろうか? 僕はこの物体の顔であった部分を靴の裏でゴロリとこっちを向かせた。
「?」
妙な違和感が僕の裡に湧き起こった。僕はもう一度じっくりとこの肉塊を覗き込んだ。
「誰だこいつ?」
自分の脳に蓄積されている記憶を掻き集め、この顔に類似するものを検索したが、該当する項目は表れなかった。
心の中の違和感が焦燥感に変容する。僕はこの顔を知っている、でもこの顔が一体誰のものだったのかがまるっきり思い出せない。おかしい。僕はもう一度自分が知っている人間の顔を順に脳裏にずらっと並べてこの顔と照合した。
「誰なんだこいつは!?」
心の中の焦燥感が恐怖感に変容する。動悸が速くなり、背中が冷たくなり、汗がこめかみを伝った。焦るな、落ち着け。僕は気を鎮めようと窓の方をふと覗き見た。
「…………」
……くっ、はははっ。こいつは愉快だ。どうしてこんな大切なことに気が付かなかったんだろう。僕は自分の愚かさにおかしくなった。
「こいつは僕だ!!」
そう、こいつは僕だ。僕自身だ! 埃だらけの床に転がるこの醜い物体はこの僕、長瀬祐介と呼ばれた魂が入っていた入れ物だ。やっと解った。壊れたがっていたのはこの僕で、壊したがっていたのもこの僕だったんだ。ははは、おめでとう。望みは叶ったよ。僕は今、忌々しい肉体と言う枷(かせ)から解き放すことが出来たよ。
もうこっちの世界なんかに未練はない。僕も今から向こう側の世界に行くとするよ。その資格をたった今自分を壊すことで手に入れたんだから。
僕は旧生徒会室を飛び出すと、足早に踊り場へ行き、そのまま息もつかず階段を登っていった。僕の両足が屋上に向かって回転する。そこは僕の聖地だ。大切な思いを置いている最後の楽園だ。
もう校内に誰もいない時間なのか廊下の電気も切られていて、周りはすでに闇に覆われていた。その真っ黒い闇がまとわり付いて僕を絡め取ろうとする。それでも定めの地を目指し、たった独りの絶望的な行進を続ける。
ガシャーン!
重い鉄で出来た灰色の扉を突き飛ばすように開けると、屋上のフェンス越しにやや黄色味掛かった白い丸がぽっかりと浮かんでいた。これは月だ! 大きな大きな月だ! あの日、あの時と同じ大きな満月だ!
僕は母親を捜す子どものように周りを見渡した。……しかし月の他には何もなく、あの時居た月を背に立っていた人もいなかった。ただあの時と同じように月が視野いっぱいに広がっているだけだった。
……これだけ待ってるのにあの人は帰ってきてくれない。これだけ苦しんでいるのにあの人は僕の所に帰ってきてくれない!
「うわあああああああっ!! もう嫌だっ。どうして僕一人がこんな目に合わなくちゃならないんだ!? こんな狂った思いを抱いて、君のいない世界をどうして僕は生きていかなきゃならないんだ? 今の僕にはこんな世界、何の意味もない。何の意味もないっ! ……あの時どうして僕も一緒に連れて行ってくれなかったんだ! どうして僕を置いて行ったんだ! 二人で抱き合ったあの時の言葉は嘘だったのか!? 教えてくれよ、どうしてなんだ!? 教えてくれよ! どうしてなんだ! 教えてくれよ!! 教えてくれよ!! 教えてくれよっ!! ――――――瑠璃子さん!!」
僕は捨てられたんだ。はは、この世界ごと瑠璃子さんに捨てられたんだ。よろよろと僕はフェンスに近寄っていった。
目の前の大きな満月が僕の視界を埋め尽くす。月の繊細な光りはまるで星の砂のように細かい光の粒子となって僕に降り注いだ。まったく熱を感じさせない冷ややかな光りは皮膚の襞から染み込んで、僕の心を穏やかに冷やして通り過ぎていく。心の中には唯やるせない気持ちだけが降り積もっていく。
あの光はこの世のものではない。闇夜に丸く開いた月という穴から漏れている向こう側の世界の光りなんだ。僕は判った、あの月は瑠璃子さんの居る世界に通じる秘密の扉なんだ。そうあれが向こう側の世界に通じる狂気の扉なんだ。
……僕はあの扉をくぐって行かねばならない。
屋上の端まで一直線に進むと僕はフェンスの金網に手を掛け、足を掛けた。金網に指を食い込ませながらガチャガチャとよじ登る。フェンスの天辺には忍び返しと有刺鉄線があったが、僕はそのままそれらをまたごうとした。ビリビリと布が破れる音がして自分の足を見ると有刺鉄線が右の太股に引っかかっていた。僕は意に介せず足を引っこ抜くとズボンと一緒に太股がざっくりと引き裂かれた。皮膚がパックリと割れ、その割れ目からドクドクと血が湧き出してきた。しかし痛みは全く感じない。僕はもう、心だけの存在なんだ。
フェンスの天辺を馬乗りのようにまたぐと視界全部に黄色掛かった白い月が映り込んだ。瞳が月の光りに吸い込まれる。後は月の光に緩やかに身を預けるだけで、僕は解放されてあの扉の向こう側にある新しい世界へと旅立てるんだ。
「行くよ、瑠璃子さん」
僕の心はこの月の光と同じように、澄んで、穏やかで、冷たかった。
僕はこの瞬間満たされていた。それがたとえ哀しみというものであっても僕の心は満たされていた。
全身の力を抜き、待ちかねた向こう側の世界へと旅立とうとした。
その時、月からレーザー光線のような電波が来たかと思うと、僕の脳を激しい衝撃と共にえぐるように撃ち抜いた。
「ぐああっ」
瞬間、僕の身体は全くのコントロールを失い、全身が激しい痙攣に襲われた。血管と筋を浮き立たせながら手足をこわばらせ、ブルブルと震えたまま、僕はバランスを崩し屋上のコンクリートの上に叩き付けられた。ドゥッ! 腰から落ちた僕の身体が鈍くて凄まじい音を立てた。
「あががが……」
息もできない程の痺れが全身を襲い、陸に上がった魚のように口をパクパクとさせて喘ぎさせた。
脳の中で頭蓋骨に反射しながら電波が飛び交っていた。その電波は徐々にそのスピードを緩めると、ゆっくりと一つのイメージを形作っていった。
『……長瀬ちゃん、助けてあげる。……その苦しみからも、……電波からも、……ひとりっきりの寂しさからも、……助けてあげるよ』
たったこれだけの言葉を残すと電波はすうと掻き消えて月へと帰っていった。
すると不思議なことに、あれほどまでに僕を苦しめていた哀しみが電波と共に心の中から消えていた。……いやいや、どうして僕が哀しまなくてはならないんだ? 僕には哀しむような出来事や思い出なんかないのに。おかしなことだ。
「ゲ……、ゲヘ……。ゲヘ、ゲヘヘヘヘヘ」
口元から笑みが自然とこぼれる。さっきの電波が僕の心のどこかを、薄氷を踏むみたいにパリリと壊していったのは自覚しているが、それが何なのか今一つ認識できない。なにか大切なものだったような気がするが、思い出せないのならたいしたものではなかったのだろう。……それにしてもさっきから頬がヌルヌルする。血でも出ているのだろうか? 僕はそれを手のひらで拭うと目の前に広げてみた。
「……何これ?」
それは透明な液体で、舐めると少ししょっぱい味がした。……涙?
突然、僕の胸の裡に不可解な気持ちが湧き起こった。その不可解な気持ちはたちまちにして僕の心の全てを握りしめると、凄まじい勢いで揺さぶり始めた。それは心を切り裂かれるような痛みが伴うものであったが、柔らかくて、激しくて、優しかった。
「うわああっ、うわああああっ、うわあああああーーーっ」
涙が栓の壊れた水道管のように吹き出し、喉の奥からは静寂を突き破る鳴咽が漏れた。どうしてしまったのか自分でも解らなかった。僕は狂ってしまったのか?
僕は、泣いていた。唯、声を上げて、泣いていた。
頬を伝って落ちる涙の雫が、何故か不思議と、温かかった。
参考文献
・ 電波系(根本敬+村崎百郎)太田出版
引用(*)
・嘔吐(J−P・サルトル、訳:白井浩司)人文書院