(3)たそがれ心

 白々と夜が明けるとカーテンの隙間から朝の光が静かに滲みだしてくる。ベッドを包む空気が陽の昇るのに合わせてゆるゆると暖かくなる。2,3週間前はぐるぐると体に巻きついていたふとんもこの頃は優しくこの身に被さるだけだった。
「浩之……、浩之……、起き……」
 俺を呼ぶ声がする。夕べは寝付けなかったんだよ、もうちょっと寝かしてくれよ。
「浩之……、起きな……」
 だから待ってくれよ。
「……うーん、もうちょっと寝かしてくれ……」
 突然体が軽くなって、寒さが肌を刺した。ふとんをはぎ取られたみたいだ。俺はまだ残る暖かさを逃さないよう体を丸めた。すると今度は頬に鈍い痛みがする。つねられてる。
「なんだよあかり、痛いじゃな……い……か」
 俺の頬をつねる不届き者の姿を見ようと瞼を上げる。……ベッドの側に立っていたのはあかりじゃなかった。
「浩之! あんたあかりちゃんに起こしてもらってんのかい? かーっ、なっさけない子だね!」
 ……おふくろだった。いつの間に帰って来たんだよ。驚いてる俺をまだ目が覚めてないと見たのか、俺の両頬をおふくろがむにゅーっとつねる。……痛い。
「ほらっ、さっさと起きる! 朝食は出来てるから下に降りて、さっさと食って、さっさと行く!」
 背中をポンと叩き俺をベッドから放り出すと、おふくろはカーテンをシャッと開け窓を全開にしてふとんを干した。
「きったない部屋ねー。ふとんも湿気たせんべいみたいだわ。よくこんなので寝れるもんだ」
 学ランと鞄を押しつけられると俺は強制退去を命ぜられた。トタトタと階段を下りキッチンに行くと、トースターからパンが小気味よい音を立てて飛び出した。コーヒーメーカーからは湯気が上り、豆の良い香りが立ちこめていた。テーブルを見ると皿の上にハムとサラダが盛りつけられていた。そして弁当箱がちょこんと鎮座していた。うーん、こうも朝の様子が変わるものなのか……。俺は焼きたてのパンを頬ばりながら思った。
 歯を磨き、顔も洗って、髪をとかし終えたころ、2階から大声がした。
「ほーら浩之。あかりちゃんが来たわよーっ。ぼやぼやしないで、待たせるんじゃないよっ」
 うるせーな。言われなくてももう出るよ。ドアを開けると門の所にあかりが立っていた、笑ってる。
「おはよ浩之ちゃん。おばさん帰ってきてたんだ」
「よう、夜中帰ってきたみたいだぜ。俺も朝起こされて初めて気が付いた」
 すぐ頭の上から声がする。
「あかりちゃん、いつもありがとね」
 おふくろが2階の俺の部屋から干してあるふとんの上にひょっこり顔を出して俺達を見てる。ふとん叩きで俺のふとんをビーシビシしばいていた。
「全然そんなことないですよ」
「そう言ってもらったらおばさん助かるよ。これからもウチのドラ息子と仲良くしてやってね」
 だーれがドラ息子だって?
「こらっバカ息子。ちゃんとあかりちゃんに感謝するんだよ。ここまで面倒見てもらって感謝しなかったらバチが当たるよ」
 だーれがバカ息子だって?
「それから母さん家のことやったら昼過ぎにまた会社に行くから、家のことお願いね」
 自分の用件だけポンポン言いやがって。もうちょっとゆっくりして行きやがれ。
「解ったよ。じゃな」
 行こうとした俺の腕をあかりがはしっと掴んだ。
「じゃおばさん行って来ます」
 ポソッとあかりが俺に「浩之ちゃん……」と耳打ちをして腕を軽く揺すった。しょうがねえなぁ。
「行って来ます」
 おふくろに言ってやった。するとおふくろはニッコリ笑みを浮かべて手を振りながら、
「行ってらっしゃーーい」
 と言った。でけえ声だ、まったく。ほら行くぞあかり。
 あかりと並んで学校への道を歩く。気候が良いせいか足取りが軽い。大きく息を吸ってみた、胸の中が暖かさで一杯になる。いい天気だ。
「浩之ちゃん、おばさん帰ってきて良かったね」
「何言ってんだ。朝っぱらからバタバタしやがって、こっちはいい迷惑だ」
 おふくろがいるとすっかり向こうのペースに巻き込まれちまう。
「浩之ちゃんを時間通りに起こすなんて、やっぱりすごいな」
「あのまま寝てたら窓から放り投げられちまう。帰ってこねぇならずっと帰ってこなきゃいいのに、たまに帰ってくるとああだからこっちは生活のリズムが狂っちまうぜ」
「でも浩之ちゃん、とっても嬉しそうな顔してるよ」
 なぬっ、んな訳ねぇだろう。ガキじゃあるないし。
「まあ、また会社に行くってんだから、こっちはせいせいするわさ」
「おばさん本当に仕事忙しそうね」
「やっとなれた発行人だから張り切ってんだろ」
 ちなみに『発行人』てのは本とか雑誌とかの奥付に『発行者』として名前が載っているあれだ。よく耳にする『編集長』が本を創る側の責任者なら『発行者』は本を売る側の責任者ってところかな。
「こんなにゆっくり学校行くの久しぶりね」
 そう言やそうだな。ここんとこずっと走り詰めだったな。
「やっぱりおばさんってすごい。尊敬しちゃうな」
 尊敬に値するほどのもんじゃないぞ別に。
 角を曲がると学校までまっすぐ延びる坂に差し掛かる。あかりが俺達のすぐ前を歩く人に気づき小走りで近寄って声を掛けた。
「おはよう、志保」
「はろはろ、あかり」
 前を歩いていたのは志保だった。こいつも朝から元気な奴だ。あかりに朝の挨拶を返すと、ふと何かに気付いたように後ろ(俺の方だ)を振り向いた。
「やっばいじゃん。急がないと!」
 志保は俺の姿を見留めると、ダッシュで学校へ行こうとした。おいこら! ちょっと待てよ!
「ヒロより後ろは遅刻確定ゾーンじゃない! 急がないと……」
 だから待たんか! 俺は遅刻かどうかのデッドラインかい。永久パターン防止キャラかっつうの。
「電車が遅れたのねきっと。あーあ今日は余裕だと思ったのに。あかり行こっ!」
「……志保、今日は浩之ちゃん、きちんと起きれたから大丈夫だよ」
 ……あかりもさらりと真実を言う……。志保の方も腕時計で時間を確認すると安心したのかニパッと笑みを浮かべると、俺達の横についていつものバカ話を始めた。
「ねえねえ、特ダネがあるのよっ」
「はぁ?」「えっ何々?」
「とっておきだから、特別に1番最初に教えてあげる」
 俺は不愉快そうな声を出したのだが志保の耳には届かなかったらしい。
「恐怖新聞って知ってる?」
「今日はフの新聞ってやつか?」
「何言ってんのよ。それは『恐怖のみそ汁』。私が言ってんのは恐怖新聞」
「あれだろ? この先起きる悪い事、例えば誰々がどこでこんなふうに死ぬってことが、書かれた新聞が空から落ちてきて、それを読むと3日寿命が縮むというやつだろ?」
「え……」
 あかりがちょっとびびってる。こいつは作り話バレバレの怪談でも怖がる、きもだめしにはもってこいのやつなんだ。
「そう、その新聞。私見ちゃったのよ。明日の日付が入った新聞」
「ええっ! うそっ」
 あかり……。まあおもしろそうだからひとつ話に乗ってやるか。志保もしゃべりたくてウズウズしてるって顔してるしな。
「ほう、で、どこで見たんだ?」
「それが昨日の事よ。9時ごろ電車に乗ってたんだけど、吊革につかまって『疲れてんのに座れないなんて最悪ーっ』なんて思ってたとこに、ふと網棚を見たら新聞が何気なく置いてあったのよ」
 試験が近いってのに9時までなにやってたんだ。
「で、暇だったしちょっとそれ読んでたんだ。そんで日付をふと見たら、なんと! 明日の日付だったのよっ!」
 おいおい網棚に捨ててある新聞なんか拾うなよ。そこらのオヤジと変わんねぇじゃないか。
「あわててもとの所に戻しちゃったけれど、私見ちゃったのね『恐怖新聞』。寿命が3日縮んじゃったわ。美人薄命て言うけど本当だったのね」
「志保、体の方は大丈夫なの?」
 そこそこ、マジに心配するんじゃない。
「おい志保、その新聞やけに野球の話題が多くなかったか?」
「そう言えばそうだったかな」
「そりゃ、スポーツ新聞だ」
「でもそれがどうしたの? 私だけが不思議な体験したからってうらやましがってもダメよ」
「……あのな、スポーツ新聞は、夜の8時か9時頃にはもう明日の日付で駅売りするんだよ」
「へ……うそ……」
「嘘ついてどうする。バカか?」
 もの知らないくせに知ったかぶりするから、そんな勘違いするんだよ。
「よかったね。志保」
「うぐ……ちっともよくない」
 志保はガクーと肩を落としてため息をついた。あかりもこういう時は豪快に笑い飛ばしてやれ。
「あっはっは。学校でしゃべらなくてよかったな。全校中に赤っ恥をさらす所だったぜ? そしたら寿命3日どころか1ヶ月ぐらい一気に減ったろうな。あっはっは」
 志保のやつ半泣きでギヌロと睨んでやがる。ゆかいゆかい。おお、知らぬうちにもう下駄箱の所だ。今朝は時間の経つのが速いぜ。
「それにしても志保、お前余裕だな。試験大丈夫なのか?」
 俺が話を振ってやると、半べそかいていたのがコロッと変わってフフーンと自慢げに言い出した。
「ふっふっふ。情報を征する者が世界を征する。今や試験勉強も情報戦の時代なのよ。ワトソン君」
 人差し指を立て、チッチッチと横に振る。
「昨日遅かったのも、その情報戦に生き残るための諜報活動と言ったところね」
「要は知り合いの上級生の所廻って過去問をかき集めたんだろ」
「諜報活動の内容がリークしている!?」
 んなことお前の考えそうなことだぜ。
「くっ……。ふんっだ。じゃヒロは無い頭絞ってシコシコと試験勉強やってなさいよっ」
「はっ、志保こそ過去問あてにしすぎて赤点取ることのないようになっ。赤点取ったら補習だぜ」
「ヒロみたいな留年にリーチが懸かってるようなやつに言われたくないわよ! じゃーねっ!!」
 ちょうど1−Cの前だったので、俺はあかりと志保と別れることにした。
「じゃまたね、浩之ちゃん」
「おう」

 昼休みを告げるチャイムが鳴り渡ると、雅史が手弁当下げて俺の所へやって来た。昨日の埋め合わせで一緒に昼飯を食おうと言うのだ。俺と雅史は購買によって俺のパンを買ってから、昨日と違う所がいい、と中庭へ行った。
「いい天気だから今日は中庭で食うのが1番いいだろ」
「そうだね。あっあの芝生の所がいいよ」
 男2人低木(ツツジかな?)に囲まれた芝生の上に腰掛けてランチタイムとした。
「おっ雅史、今日の弁当すげー豪華じゃねぇか」
「うん。姉さんが帰ってきたからね」
「へ? 千絵美さん、結婚してたんじゃなかったけ?」
「うん。だからもうじき予定日だから、産休取って帰ってきたんだ」
「あー腹がでかいんだ」
 雅史の姉貴は千絵美さんといって雅史より10歳ほど上の人だ。去年の暮れに結婚して家を出たんだ。でも弟である雅史を異常なくらいかわいがっていて、母親以上に何から何まで世話を焼いていたんだ。あの人が結婚するまでは雅史の弁当はすべて千絵美さんが作ったものだったんだぜ。結婚してからもしばらくは新居から毎日のようにやれ「怪我してないか」「食事はちゃんとしてるか」と電話がかかってきて困ったそうだ。それにこの千絵美さん、すっっごい美人でさ、近所でも大評判だったんだぜ。なんでも大学生の時芸能プロダクションからスカウトが来たらしい。でも本人は教職に就く夢があったんで断ったそうなんだ。もったいない話だ。これは内緒にして欲しいことだが俺の初恋の人だったりする。もう1回言うが千絵美さんはすっごい美人なんだ。というわけで機会があればどうかよろしくお願いしますリーフさん。
 これは余談(先のもそうだけど)だが、千絵美さんは今夢を叶えて県内の私立男子高校で古文を教えてるそうだ。それで彼女の美貌と面倒見の良い気質から全校のアイドルというか女神様と化してるらしい。だから結婚を発表したときはマジで全校生徒が(数名の男性教員も含めて)喪に服したそうだ。
 昼飯を食い終わると、雅史と一緒に芝生の上にごろりと横になる。雲1つねぇや。空は青1色だ。……いや、ちょっと違うな。山際は白い絵の具を流したような青白い色をしているが、上に行くに従って青く澄んでいって、天頂では深い深い青が俺達を吸い込もうと口を開けていた。こう絵の具をぺたーと塗ったんじゃなくて、小さい、ホントに小さい透明な粒々がぎゅーっと押し固まったら青く光り出したって感じだ。空自体に色はない。だからじーっと目を凝らしていると空の青の隙間から真っ黒い宇宙が見えて来るんだ。
 こうして視界の全部に空を入れていると、体の上下の感覚が無くなってくる。今俺の体は大地という天井に張り付いて、空という湖の底にある宇宙を覗き込んでいる。そして俺がすぅと息を吐くとその真っ黒い宇宙にぽとりと落ちて行くんだ、どこまでも、どこまでも……。
 頭上で小鳥がピーチク鳴いているような気がしてふと我に返った。芝生の上でゴロと転がって腹這いになるとその音が聞こえる方に耳を傾けた。
「……そうそう、3年の真田って人、体育の武沢とつきあってるって話よ」
「それマジー? 志保」
「趣味ゲロワルー。あいつ筋肉ばかゴリラじゃん」
 ありゃ、女子が5人ほどが井戸端会議してんのか。志保がいる。やっぱりここでもあいつが話の中心みたいだな。
「絶対だって! 志保ちゃん自信あり!」
「ホントだったら、ヤッパーやっちゃってんのかな?」
「当然じゃーん。ヤリヤリじゃない?」
 立ち聞きは良くないが女の子の会話に興味が湧かないか? 俺は湧きまくってるぞ。
「あの真田って人ちょっと儚(はかな)そうな所あるから、ああいうたくましい感じの人が好きなんじゃない?」
「そーゆーのに限っていきなりバックでヤリヤリだったりしてー」
「あの武沢だったら『先生我慢できない。後ろからいくぞ真田』とか言ってんだよ」
 女のワイ談は初めて聞いたが、すごい話をしている……。
「このまえー、ムカツクおやじがさー、いきなし後ろから入れんだよ。イタイつってーのに『本当は感じてんだろ』とかぬかしやがって。タマキン蹴っとばしてやったよ」
「バックは奥に当たって痛い時あんだよなー」
「キャハハ。ヤッパ正常位が1番イイよね。志保」
「えっ、そうよね。1番愛されてるって感じがするもんね」
 なーに言ってんだよ。ふと気が付くと雅史も俺の横に来て志保達の話に聞き耳を立てていた。
「なーにぶってんのよ志保。Hにあこがれてるバージンみたいなこと言ってさ」
「な、何言ってんのよ」
「そーよねー。志保がバージンなわけないじゃん」
「エンコーのオヤジが多いテレクラ、教えてくれたのも志保だもんねー」
 エンコー!? 援助交際なんかしてんのか?こいつら……。
「そ……そうよバカなこと言わないでよね」
 ……志保のやつ自分のことになるとずいぶん歯切れが悪いなぁ。それに志保が男とつきあってるって話、中学の時から聞いたことがない。
「志保にはちゃんとこれ(親指を立てる)がいるじゃん」
 えっ……つきあってるやつがいるのか……。知らなかった。
「A組の藤田でしょー?いつも楽しそーに話してるしー。時々デートしてるでしょ。おとついもゲーセンで2人いるとこ見たわよー」
 へー俺と同じクラスの藤田ってやつか……て、俺?
「ち、ち、違うわよ。アイツはオナチュウの腐れ縁ってやつで、相手してんのも私のボランティアで、それにあれはデートじゃなくてヒロと私の真剣勝負で……」
 ボランティアなのは俺の方だ。
「パッと見はクールで結構いける方だとは思うんだけど、藤田ってアレじゃん」
「だよねーっ。藤田って怖いじゃん。なんか急にキレてナイフで刺してまわる感じしない?」
「ヒロはそんなことないよ。話してみると案外いいやつなんだから」
 おおお、志保よ、ありがとう。今回だけは礼を言うぜ。
「でっもーっ。私達が入学してすぐアレがあったじゃん。あんときはマジびびったよ」
「そうよねー。あれ怖かったよねー。しばらくA組に近寄るのもダメだったよ」
 …………。
「あれは……色々と事情があったのよ」
「……志保。やけに藤田の肩持つじゃん。ひょっとしてラブ?」
「ど、どーしてーーっ。ぜ、全然違う、違うわよ。やだなー。それにヒロには決まった娘がもう、いるんだから」
 おいおい、そんなやついないぞ。またそうやってガセを流す。困ったやつだ。
「A組だったら佐藤っての方がいーと思わない?」
 雅史が話題に登ったぞ。
「わたしもさんせー。いつもはファニーフェイスなのにピッチに立つとかっこいいじゃん」
「なんか食べちゃいたいって思わせるとこあんのよねー」
「今度さそっちゃおうかなー」
 黄色い歓声が上がる。評判上々じゃねぇか雅史。横にいる雅史の顔を見てみると……平然とした顔で女子の話を聞いている。俺だったら顔面から火を噴き出してこの辺り走り回ってるところだぞ。
「うーん。でも雅史はちょっとなんて言うか……、全然考えてないのか、とんでもないこと考えてんのか、分かんないとこあんのよね。あいつも中学の頃から知ってるけど未だに分かんないわ」
 おー、さすが志保。俺も同意見だぜ。当の本人は……顔色1つ変わってない。ビックだぜ。
「じゃー志保は誰がいいわけ?」
「え? 私? そうよねぇ……2年の橋本って人なんかいいんじゃない?」
「あー橋本さんって背が高くてかっこいーよねー。志保とだったらはまってんじゃん」
「そう? そっか校内ベストカップル誕生ってとこね。いい感じね……。じゃあアタックしようかなぁ、決めた! 逆ナンしちゃお!」
 そ、そんな安易な動機で決めていいのか?
「そうと決めたら善は急げ。行って来るわ。じゃ!」
「頑張ってね」「後で教えろよ」
 志保は突っ走って校舎の中に消えていった。まったく落ち着きのないやつだ。俺達も帰るか……いやいやここで帰ったら俺と雅史2人で盗み聞きしてたのがバレるじゃねぇか。もうちょっといるか……。
 志保がいなくなっても女子のおしゃべりは止まらなかった。
「志保ってホントおもしろいやつねー」
「ちょっと焚き付けてやったらすぐマジになっちゃってね」
「志保って絶対マダよね」
「やっぱそう思う?あたしもそうだと思った」
「あれじゃん耳年増ってやつ?」
「キャハハ、耳の穴だけケーケン豊富?」
「やだー、おやじー」
 嬌声が話の輪を包む。しかしこいつら、本人がいなくなったら、もうそいつの陰口か? 信じらんねぇ。
「でさー橋本さんの話なんだけど。噂じゃ○○大学の人とつるんでヤリコン仕切りまくってんだって」
「ヤリコンつったらヤルのが目的の合コンでしょ?」
「カラオケ行って、酒飲んで、王様ゲームしてそのままHに流れ込んじゃうっていうアレ」
「うわー、じゃ志保、速攻でやられちゃうじゃん」
「志保ちゃんニュース! 昨夜未明、わたくしこと長岡志保はヤリコンでロストバージンしました。相手が経験豊富な橋本先輩だったのであまり痛くありませんでしたー」
「キャー、やっだー」
 いくらなんでもちょっとヒドすぎるんじゃないか? 知らない間に右手が握り拳を作っていた。
「話変わるけど、あんた達昨日体育さぼってどこ行ってたの?」
「ちょっとねー」「ねーっ」「ねーっ」
「あっ、教えろよな」
「じゃ特別に教えてあげる。ムカツク女にバツを与えていたのだ」
「ひょっとしてアイツ? ねっ、ねっ、何したの? 教えて、教えて」
「ここだけの秘密よ。フフ」
 輪の中にいた3人の女子の口の端がかすかに歪む。あれ? この3人どこかで見たような……。
「アイツさ1冊だけ違うノート持ってんじゃん」
「そういえば全然使わないくせに休み時間とかそれをボーッと見てるよな」
「アイツ前の時間にあたしらがしゃべってると『次、体育やから早(は)よ行かんかいまんねん』とか言いやがってさー。ムカツクから体育を生理つうてサボってー、アイツのそのノートに色々忠告を書いてやったのよ」
「あんた月何回生理あんだよ。で、何て書いてやったの?」
「マジックででっかく、『死ねよバーカ』」
「サイコーッ!!」
 弾け飛ぶような笑い声が上がった。あいつら本人は気付かないだろうが、その屈託のない笑みの底にはな、反吐が出る位の腐臭がする、どす黒くて醜い魂が澱(おり)のように沈殿してんだぜ。汚ねぇ、汚ねぇぜ! もう我慢できない! あいつら全員叩きのめしてやる!! 身を起こそうとした俺の腕を雅史がぐっと押さえた。放せよ雅史! 俺はもう我慢が出来ねぇんだ。志保を侮辱して、委員長を身勝手な理由でイジメるたあどういうことだ!? 雅史が厳しい面持ちで俺をぐっと見つめた。……今は耐えろと言うのか!? ……解ったよ。
 彼女達の談笑も終わり校舎の中へと立ち去ると急に周りが静かになった。俺と雅史の2人は再び芝生に寝っ転がり空をポケーと眺めていた。
「さっきはすまなかった。俺また変な事しでかすとこだった」
「いいよ」
 刷毛(はけ)で掃いたような雲が1つゆっくりと左から右へ流れていく。
「あのままキレちまってたら上手く行く所か、かえって志保ともう1人の子の立場まで最悪にする所だったよな」
「志保もたぶん解っててあの子らと付き合ってるんだろうし、ノートの子の場合もその現場を押さえなきゃ、あの子達だったらすっとぼけるだろうからね。そうしたら嫌がらせももっと陰湿になると思うよ」
「ありがとな、恩に着る」
 俺はダメだ。すぐにキレちまう。俺も雅史みたいに冷静に先を見れるようになりたい……。
「でも浩之が怒るのは絶対自分の周りの人のことで、自分の事じゃ絶対に怒らないんだ。僕もあの話を聞いていて腹が立ったけど別にどうかしようとか思わなかった。……浩之がうらやましいよ。それに……」
「それに?」
「……いや、なんでもないよ。やっぱり浩之がうらやましいってこと」
「ほめても何も出ないぜ?」
「あーあ、どうして僕は浩之じゃないんだろ……」
雅史のつぶやくような最後の言葉は誰に聞かす訳でもなく青空に向かって拡散していった。それから俺と雅史は5時間目のチャイムが鳴るまで、言葉を交わすこともなく唯空を見つめてた。

 授業はすべて終了した。教室の前であかりと待ち合わせをして家に帰ることにした。今日も俺んちで勉強会だ。俺と同じようにいくつもの教室を飛び出した生徒がぞろぞろと廊下いっぱいに広がって、下駄箱を目指し同じ方向を向いて歩いていた。その廊下の途中で人波に逆らって立ちつくす影があった。その影は人の流れとは全く違う時間軸を持つかのように際だった違和感をもってその場所に佇んでいた。その人は無表情のまま遠い未来を見据えるような目で人波を眺めていた。しかしその人の視線に俺が入ると、彼女の瞳はまっすぐ俺に向けられるようになった。俺はその人の前で立ち止まるとこう言葉をかけた。
「来栖川先輩、どうしたの?」
「どうしたの? 浩之ちゃん」
 俺が急に立ち止まったものだからあかりがちょっとびっくりした。
「…………」
「占ってあげます? またどうして」
「…………」
「昨日のお礼だって?」
 コクン。ちょこんと頷くとスカートのポケットからトランプみたいのを取り出した。
「いいって、……え? 是非させてくれ? そこまで言うんじゃ……。それじゃ頼みます」
 俺の言葉を聞き遂げると先輩はぺちゃんとその場に座り込んでカードを並び始めようとした。
「ちょ、ちょっと先輩。ここじゃなんだから、教室でやんない?」
 横を下校する生徒がガンガン通ってるんだぜ。
 フルフル。かすかに首を横に振る。
「…………」
「え? 今日はここに地脈の力が集まるからここじゃないとダメ? ……解りましたどうぞ」
 俺も腹を決めて廊下のど真ん中にあぐらをかいた。あかりも俺が座り込んだもんだから困った顔をした挙げ句俺の横に腰を下ろした。
 先輩がカードをシャッフルする。ゆっくりとした動作だが正確で無駄のない動きだ。先輩の白い指が古ぼけて黒ずんだカードの間をなめらかに泳ぐ。そのカ−ドも古めかしい物で王様や商人や死神やらの絵と共に俺には読めない謎の文字がかかれた物だった。先輩に聞くとこれはタロットカードの原型の1つで今のタロットカードとは少し違うんだそうだ。カードを繰り終えたのか、先輩は俺の目の前にカードの山をすっと出す。
「…………」
「え? 最後のカットをしてくれって? よしわかった」
 俺はカードの山を2つに分け、さっき上にあったのを下、下にあったのを上に入れ替えた。これでシャッフルは終わりだ。先輩はカードの上に人差し指を乗せると目を閉じて俺にも聞こえない声でなにやら唱えだした。その瞬間、腕に電流が流れるような感覚がし、ぞぞっと鳥肌がたった。ひんやりとした空気が辺りを包む、これは占いと言うより儀式だ! 周囲に緊張感が走った。ゆっくりと先輩の指が1枚カードを取り上げた。隣のあかりは吸い込まれるように先輩のすることに見入っている。周りを見ると下校する生徒の流れは俺達の所で真っ二つに分かれていた。
 先輩はその1枚のカードを俺達の見つめている廊下の床にピシャリと置くと続いてその下に2枚、そのまた下に3枚と置いていき、横が7枚になると今度は1枚づつ枚数を減らしていき、1番下に1枚最後に置いた。そして余った1枚を自分の手元に置くと、ふぅと小さく息を吐いた。さあクライマックスだ。俺はゴクリと生唾を飲んでしまった。先輩は慎重に上からカードをオープンしていった。カードの絵柄全部の意味は分からなかったが、1番上は聖書を持った人、1番下は首を吊されている人、中央は秤を持った人、右には芽吹いたばかりの双葉、左は月だった。また先輩の手元にあるカードは鍬(くわ)を持った人だった。……どういう意味だろう? 俺は固唾を呑んで先輩の顔を見た。先輩は無表情のまま口唇を微かに動かした。な、なんて出たんだ?
「…………」
「なになに……もうすぐ俺に大切な2つのモノのうちどちらかを選ばなくてはならない時が来る? それはとても苦しいことで俺のこれからの生き方に関わることだって? ほんとかよ。で先輩、その2つのモノってなんだい? ……え? 教えてあげませんって……そんな意地悪しないでくれよ。……え? ヒント? 俺の側にいつもあるけど俺自身がその大切さに気付いてないもの?」
 うーん、解んないぜ、そんな抽象的なこと言われてもさ。
「あかり、解るか?」
「ええっ! わ、解んないよぅ」
 ちぇっ、役に立たないやつだなあ。
「でも、これから少し注意してみるよ、ありがとう。ところで先輩は自分のこと占うことあんの? ……え! あるの! どんなこと? まさか恋占いとか?」
 先輩の頬が赤くなったような気がした。
「えっマジ? で、どうだったの?」
「…………」
「え? 今世では運命の人と結ばれない……て、そんなので……そんなのでいいのかよ。……来世で必ず結ばれるからそれまで我慢するって……」
 芹香先輩が無表情の中に微かな笑みを浮かべたような気がした。それを見ると少し寂しくなった。
 どこからか、さあっと風が吹くと先輩の艶やかな髪をたなびかせた。そのたなびく髪が俺の頬を優しく撫でた。思わず俺はその髪を手に取ってしまった。深い黒を湛(たた)えた細い髪で、俺の指先でするすると滑った。窓からの光を受けてキラキラと輝いている。その光沢はまるで絹糸のようだった。先輩の髪をもてあそぶ俺をあかりが複雑な表情で見ていた。
「どったのあかり? ヒロまで、んなとこに座り込んで」
 意表を突く声に我に返った俺は先輩の髪から手を放すと声の主に向かって振り返った。
「なんだ志保じゃねえか。お前こそどうしたんだ? こんな時間まで」
 もう周りには誰もいなくて俺達3人+志保しかいなかった。
「わっ来栖川先輩だ。すっごーい、こんな間近で見たの初めてっ。あっ、私1−Cの長岡志保っていいます、初めまして。志保ちゃんって呼んでくださいね」
 ずうずうしい、おまけにちょっと失礼なこと言ってるぞ。
「…………」
「え? 私はなんとも思ってないから怒らないでやってくれ? 先輩がそう言うんならいいけど……」
「ちょっとヒロ、なに先輩に向かって独り言いってんのよ。気持ち悪いわよ」
「なにバカなこと言ってんだよ。先輩はちょっと声が小さいから聞き取りにくいだけだよ。ちゃんと聞けば聞こえるって」
 俺と志保とあかりは3人そろって先輩の顔をじっと覗き込んだ。すると先輩は赤くなってモジモジしてるような気がした。
「…………」
「え? 恥ずかしいって? あっごめんごめん」
 志保があかりを肘で突っつく。
「あかり、今の分かった?」
「……ううん、私分かんなかった」
「ヒロ! やっぱり声どころか口唇も動いてなかったわよ!」
「じゃなんで俺に先輩の言葉が分かんだよ! ……え? 俺が特別の人だから?」
「ひょっとしてエスパー?」
 んなわけあるかい! こらこらメモるな!
「…………」
「なに? そこのお2人も占いましょうか? って、おいどうする、みてもらうか?」
「わ、私、怖いからいい」
 怖いってなに言ってんだよ。
「なーんか呪われそうな気がするけど、こんな超常現象経験するチャンスなんか滅多にないし……どうしようかな」
 志保まで……。先輩は魔女でも恐山のイタコでもないんだぞ。ちょっと一言いってやる。しかしこのとき背後に白衣を着た人の気配を感じた。
 ぺん、ぺん、ぺん、がすっ。
「いったーっ」
 なにがあったのかというと出席簿で全員頭を叩かれたんだ。最後だけ音が違うのは、俺だけ名簿の角で叩かれたからだ。差別だ……。
「こんな所に座り込んでなにやってんだ。試験前だぞ。さっさと帰れ」
 白衣を着た椰子の木、中村先生だった。
「藤田。お前女の子3人はべらしてなにやってんだ。余裕ないんじゃなかったのか?」
 その冗談まったく笑えねえ。
「もーっ、ヒロなんかに構うんじゃなかった」
 自分から首突っ込んどいてなに言ってやがる。中村先生はさっさと帰れよともう1度言うと職員室の方に行ってしまった。
「それにしても校長ですらびびる来栖川先輩に一発喰らわすなんて、やるわねあの先生」
 変なところで感心すんな。先輩はいつものようにぽけーとしている、うーん。あかりはしゅーんとしていた、俺の付き合いで怒られちまったもんな、許せ。志保は叩かれた所をオーバーにさすっている、全然力の入ってない叩き方でそんなに痛いわけねえだろまったく。
「じゃ、帰ろうか」
「あっ、志保ちゃんはこれから大事な待ち合わせなのだー。じゃあねー、ばいばーい」
 志保は俺達と別れるとすたこら行ってしまった。何しに来たんだ? じゃあ3人で帰りましょうか。
 俺と先輩とあかりはそれぞれの靴を履き替えると校舎の昇降口を出た。その時3人の間で会話が弾んだ……て事はなく。
「……そうしたら志保、『真田先輩と武沢先生はつき合ってるっ!』て大騒ぎしちゃって大変だったのよ」
「そんなことからここまで話を大きくするのか? 信じらんねぇ、なあ先輩」
「…………」
「……え? 2人の運命の螺旋は交差していません? ……はあ」
「……(あかり困惑)」
 とまあ、こんな感じだったんだ。あかりは先輩の言ってることが全然解んねえみたいだ。
 そうこうしている内に校門の所まで来た。おっでっけえベンツのストレッチタイプが停まってるぜ。スリーポインテッドスターがたいそうに光ってるぜ。
「先輩、方向が同じなら途中までいっしょに……」
 突然ベンツから出てきた男に俺の言葉は遮られた。
「芹香お嬢様! 遅うございましたので心配しておりました。もしやお嬢様の身に何かあったのではと、このセバスチャン気が気ではありませんでした」
 セ、セバスチャン? どう見ても純日本人のジジイだが……。先輩んちの執事か?
「して、このコワッパは何でございますか?」
 惚けに取られている俺をチラリと脇目で見てジジイが言った。失礼な奴だ。しかしこのジジイ、パリッとした燕尾服を着こなしているが、背筋はシャンとしていて筋肉隆々のすげえガタイしているぞ。唯の執事じゃねえ。
「…………」
「なんですと! 大切な友人ですと!? なりません芹香様! このような男子は頭の中には異性の事しかありませんゆえ、もしものことがあってお嬢様が汚されては一大事です。芹香様には近づくことさえもってのほかです!」
「んだと! 黙って聞いてりゃ好き放題言いやがって。先輩がどんな友達を持とうが自由だろうが!」
「喝ーーーーーーーーーっ!」
 くうっっ。……くそっ、ジジイの迫力に気おされたぜ。
「私は旦那様から芹香お嬢様の養育の全権を任されておるのだ! ワッパの指図を受ける謂われはないわ! さあ解ったら帰れ! 帰れ!」
 ジジイが俺を突き飛ばそうと右手で突いてきた。それを見ると俺は一瞬で半身になり、やつの突いてきた掌底を右手で後ろへ受け流す。標的を失ったジジイの体勢が崩れる。俺は同時に半歩前へ出てジジイの右腕の外側に体を密着させて奴の懐へ潜り込んだ。殺(と)る! ジジイと目が合う。激しい火花が飛び、2人の時間が一瞬止まる。ジジイは「チィ」と舌打ちをすると後方へ飛び退き間合いを取り直す、そしてすっと体の重心を落としながら両手を顔の前で構えた。構えに無駄がない。やっぱりただもんじゃなかったみたいだな。
「浩之ちゃん! 待って!」
 あかりが俺を止めようとする。どいてろあかり。奴がじりっと前に出る。さあ来いジジイ。と、その時先輩がおれとジジイの間に立った。
「なぜです!? 芹香様!」
 驚いたジジイの顔から戦意が消えた。……ここまでか。
「ふん、命拾いしたな、ワッパ」
 燕尾服の襟を正しながらジジイは言った。けっ、ジジイこそ棺桶に入るのが少し先送りになったようだな。
「ふっ、これだけ熱くなったのは何十年ぶりかの。芹香お嬢様がそう希望なさるなら仕方ない。……それでは芹香様お車にどうぞ」
 先輩が車の後部座席に身を沈めると静かにドアが閉まった。あのジジイも助手席に乗り込むと野太いエンジン音を響かせて巨大なベンツは動き出した。リアウインドに先輩の姿が見えた。首を精一杯曲げてこっちの方を見ている。俺とあかりが手を振ると、相変わらず無表情だったが喜んでいる気がした。
「お出迎えの車か、しかもリムジン。すげえな」
「もう、けんかしちゃだめ」
 あかりが俺の目をじっと見つめていった。ははは、つい、な、面目ない。
「ねえ、浩之ちゃん。ああゆうひと好き?」
「あ? 好きとかそんなんじゃなくてさ、あのジジイもそうなんだろうけど、来栖川先輩ってつい守りたくなっちまうんだよな」
「……そうよね。それに髪が長くて、とってもきれいな人だもんね」
「確かに美人だ。知り合いになれただけでも嬉しくなるよな」
「……私も髪伸ばそかな」
 前髪をぴらっと引っ張りながら言った。
「もう、熱なんかないよ」
 そうか? おでこヤケに熱いぞ。顔も赤い。
「じゃ、今日も俺んちで勉強会すっか」
 校門で佇んでいても仕方ない。
「あっ! 大変! 私忘れ物しちゃった」
 なんだよ、うっかりしたヤツだなぁ。まだなんかあるのかい?
「すぐ取ってくるから、ここで待ってて」
 もう今の時刻オレンジ色の光が校舎を横から照らしている。あかりを独り人の少ない所にやれるかよ。
「しょうがねぇな、俺もついていくよ」
「ありがとね、浩之ちゃん」
 あかりが嬉しそうな顔をした。
 さすがにこの時間になるとほとんど人の気配がなくなるな。横から差し込む夕日は窓の桟の影を教室側の壁に十字架のように張り付ける。1−Cに着いてあかりがドアを開けようとした時、俺は中に人の気配を感じてあかりを制した。そっとガラス窓から覗き込むと1人の女子が椅子に座っていた。
「ど、どうしたの?」
「しっ」
 ぽつんと独りいるその女の子はうら寂しいオレンジ色に包まれながら机に両肘をついて、うなだれた頭(こうべ)を支えていた。
「あ……、保科さんだ……」
 そう、委員長だ。けどなんだか様子が変なんだ。眠っているのか全然身動きしない。机の上に1冊ノートが置いてある。あのノートだ。あれに視線を落としているのか? しばらくすると委員長はふうと重いため息を吐いた。そして目の前のノートを手に取った。表情が変だ。心の葛藤に疲れて考えるのを止めてしまった生気のない目。委員長はノートを真ん中で開き、両手で表と裏、両方の表紙の端を持つ。ノートを引き裂こうとしてる!?
「ちょおっと待ったーーーっ!!」
「きゃっ!」
 思い切りドアを開けると俺は大声を出していた。委員長は何が起こったのか解らずキョトンとしていた。ちなみに「きゃっ!」は横にいたあかりだ。俺はずかずかと教室に上がり込むと委員長の持っていたノートを引ったくった。
「これは委員長にとって大切な物じゃなかったのか!?」
 委員長は俺の問いに正気に戻ると切れ長の目にじわと涙を浮かべ、張り裂けるような声で言った。
「あんたに言われんでも解っとうわ! これには神戸に置いてきた大事な思い出がいっぱい詰まっとんや!」
 ぽたたと哀しい雫が机を打った。
「それを、それを……酷(むご)うに踏みにじられたんや! うちがどんな気持ちかあんたには解らへんわ!!」
 ノートを開いて見てみた。ノートには彼女が書いたのだろう神戸での思い出が綴られていた。しかし今そのほとんどのページにはマジックで塗りつぶすように落書きをされていた。俺は表紙をめくった所に寄せ書きが書いてあるのを見つけた。
『 智ちゃんへ
   高校は別々になっちゃったけど、大学は神戸に帰ってきてね。
   向こうに行っても電話いっぱいしようね。
                              優子
   たこ焼きまずかったらこっちにこい。
   明石焼きおごってやる。
                              哲也 』

 ……ここだけは無事だったみたいだな。さすがにこれに手を掛けるほどあいつらも外道じゃなかったようだ。 改めてノートを真ん中で開いて見る。白い糸でページを留めてあるタイプだな。
「なんとかなるな」
 俺は鞄からカッターナイフを取り出すと、ノートの背中の貼ってあるテープの両サイドを縁に沿ってスーッと切れ目を入れた。
「ちょっと、これ以上もうやめてぇや!」
 委員長は驚いて、涙で声を詰まらせながら止めようとした。
「いいから! まあ、見てな」
 彼女の手が止まった。俺は背表紙のテープを慎重にはがした。するとノートのページを留めてある糸が露出した。この糸を切るとノートのページはほどけてバラバラになった。そのページから無事なものを選ぶ。
「あかり、新品のノート持ってるだろ? 後で買ってやるから一冊くれ」
 あかりは鞄から一冊ノートを取りだし、
「はい」
 と手渡してくれた。このノートも同じ手順でバラバラにして、取り除いたページ分を補充する。
「これいるよね」
 あかりがソーイングセットを出してくれた。さすが、こういう時は言わなくても次のことを分かってくれている。
「サンキュ」
 元の糸より細いミシン糸だが仕方ない、また縫い方も元はミシン縫いなんだがまつり縫いで代用する。ページを確実に縫い止める。
「はい、糊」
 メスを手渡す看護婦とそれを受け取る執刀医のように、スティック糊を右手でもらう。阿吽の呼吸。背表紙のテープを糊で丁寧に貼り付ける。ふう、オペは成功した。
「ほらよ、ちょっとはマシになっただろ? もうヤケになるじゃねえぞ」
 委員長にノートを渡すと俺はあかりの方を見た。俺の意を察するとあかりは何も言わずに自分の席から忘れ物を取ってきた。
「じゃ俺達、帰るわ」
 もちろん委員長に聞きたいことはあるよ。けど今は彼女を早く独りにしてやろう。ああいうタイプは傷を癒やすのに人が近くにいてはいけない。
「あ、あのな……」
 教室を出ようとした時、委員長が俺達を呼び止めた。
「おおきに……。礼だけゆうとく……」
 恥ずかしいのか、伏せ目がちで言った。夕日が赤すぎて彼女の顔色までは判らなかった。あかりが優しい顔で軽く会釈して、俺はちょいと右手を挙げてこの場をあとにした。

 さて、校門を出るのも今日は2回目となってしまった。再びこの坂を下ろうとしたとき、前を歩くカップルが目に止まった。腕を組んで楽しそうにおしゃべりをしている。なんだか面白くない。男の方がやけにかっこよくて癪に障る。整った顔をしているのに野性味溢れる感じがする。総じて頭は悪いが、スポーツがそこそこ出来て、おまけにバンドでギターやってます調のモテモテ野郎君タイプだ。こんなヤツがいるから世の中に女にあぶれた男がうろうろする羽目になるんだぜ。え? やっかみ? 一方女の方もちょっと背が高くすらっとしているスタイルのいい娘だ。髪型もショートでけっこうな美形で……ありゃ?
「あれ志保じゃない?」
 そうだ志保だよあれ。ひょっとして今腕を組んでいるヤツが昼間言ってた橋本先輩ってヤツか? アタックするって言ってたけど、いきなりOKとったのか?
「志保、どうして……」
 あかりがなんだか怒ってるような、無念そうな顔をしている。先に彼氏を作られたのがそんなにショックなのか? しかしあの橋本先輩はいい噂を聞かなかったな……。後でそれとなくあいつに話してみるか。はっきり言うと志保の場合逆にへそを曲げちまうからな。
「浩之ーっ。あかりちゃーん」
 後ろから緊張感のない声で呼び止められた。なんだ雅史か。
「どうしたの2人でぼーっとして」
 いやな、さっき志保が……あ、いない。……まあいいか。
「練習はどうしたんだ? やけに早いじゃねぇか」
「さすがに試験前だからね。今日はセットプレーの練習をして終わったよ」
 よし、それじゃ3人で帰るか。
「うん!」
「3人で帰るのホント久しぶりだね」
「高校の合格発表の時以来よ」
「お、そんなになるのか。それより前となると……」
「うーん、僕がサッカー部に入ってからはほとんどないよね」
「小学校の時は毎日3人一緒だったのにね」
「そんなこと言うなよ。寂しくなる。雅史はサッカー始めて大正解だぜ」
「なあ浩之。僕と一緒にサッカーやろうよ」
「またその話かよ」
「私も浩之ちゃん何かやった方がいいと思う」
「あかりまで……、まったくの素人が高2から突然始めてモノになるかよ。体が出来た頃にはもう3年生だ」
「別にサッカーでなくてもいいからさ、何かスポーツやりなよ」
「おじいちゃんがいた小学校まで毎朝、ほら、体操みたいのやってたじゃない」
「うるさいな。なんで俺がそんなことしなくちゃなんねえんだよ」
 チョップ! チョップ!
「あっ」「いてっ」
「いじめてやるぞーっ。次はヘッドロックがいいかーっ」
 あかりが「きゃーー」と言いながら、雅史は「わーい」と言いながら俺から逃げた。俺は2人を「まてーっ」と言って追いかける。みんなニコニコしている。子供の頃は毎日こんなふうにして帰っていたんだ。
「あかりちゃん、こっちこっち」
「待って雅史ちゃーん」
 二人はは大通りから少し奥に行った古い住宅街に入り込む。
「待てー」
 車一台通れるくらいの道が平行に何本も引かれてあり、その道の両側にびっしりと一戸建ての家が並んでいた。俺の前を行く2人は家と家の隙間に滑り込んで姿を消した。俺も後に続いてその隙間に身を滑らした。
 二人に追い着いてみると、あいつらは立ちつくして周りをキョロキョロ見渡していた。
「おいおい、どうしたんだ? 2人とも、こんなとこに入っちまって」
「ねえ、ここ小っちゃい頃よく探検しなかった?」
 ん? ここは家と家との境で、大人ひとり通れる位の細い道をコンクリートで舗装して、真ん中に側溝をめぐらせてあるだけの簡単なものだ。今時みたいに塀で仕切られてはいない。ここは路地裏だ。1建の家の裏には、向こうの通りに面している家の裏がつき合わされている。そこは少しだけ道幅が広くなっている。
「そういや3人で探検したかな……」
 路地裏は陽が当たりにくいせいか独特のしっけたにおいがする。この狭い空間には生活の匂いがプンプンしている。たくさんの植木鉢や自転車なんかが置かれてあり、洗濯物も干されている。家の裏にはクーラーの室外機やトタン板で作った物置を置いてある所もある。このカオスに満ちた空間は子供の頃の俺にはジャングルの密林にも似て激しく冒険心を掻き立てる物だった。いまの子でもひょっとしたらそうかもしれない、あちこちに大小様々なボール、原色に彩られたバケツ、スコップ、熊手、ジョウロ、それに三輪車までが無造作に置かれていた。しかしあの頃と視線の高さが違うせいかずいぶん印象が違う。
「ねえ、あの時の探検は最後どこに着いたんだっけ?」
 うーん、覚えがねえなあ……。覚えてるか、あかり?
「私も覚えてないよ」
「よし、じゃあさ、記憶をたどりながら、冒険のリバイバルといこうか」
「賛成」
「私も」
 俺達3人はお互いの記憶を出し合いながらこの路地裏を再び探検することにした。
「まずはあのトタンの物置の所で曲がるんだよな」
 そして一筋向こうの通りに出る。
「あのアジサイの所から入るんだよね」
 子供頃はけっこう大きい木のように感じたが今見るとそんなに大きくない。また路地裏に潜る。
「あっ、あの青い庇(ひさし)のある家を右に行くんだったね」
 そうだ。でも青いペンキもずいぶんはげてみずぼらしくなったな。で、そのまた向こうの通りに出る。
「ありゃ? でっかい犬がいる家の一軒左の筋だったよな?」
 でもその犬がいないんだ。手がかりがここで途切れちまったら、おしまいだぞ。探検ごっこもここまでか?
「あ、浩之! あった! ここ、ここ!」
雅史が指さした方向に確かにあの犬小屋はあった。ただ、あのおっかなかった主はもういなくて、ガラクタがぎゅうぎゅう詰めに突っ込まれていた。そうかあいつも死んじゃったか……、カールのチーズ味が好きな変なヤツだったがな。
「で、ここを曲がると工場の壁沿いに進むんだよな」
 工場と言っても小さい町工場(まちこうば)だ。ゴムの匂いとバッタンバッタンと機械が動く音が響く。
 目の前に1mぐらいの幅がある排水溝があった。俺と雅史はひょいと飛び越えたが、あかりが少し躊躇している。
「なにやってんだよ。早く飛び越えろよ」
「ああ、待ってよー」
 あかりはちょっと後ろに下がってから助走をつけて「えい!」と飛び越えた。
「うふふ、やったー」
 ご機嫌だな、あかり。
「確か子供の時はあかりちゃんが飛ぶの怖がってさ、浩之がどこからか板を拾って来てやっと渡れたんだよ」
 あー、そう言えばそんなことあったよな。あった、あった。
 難関を乗り越えた探検隊3名は更なる秘境を求めて前進した。しかし幾多の困難を乗り越えた探検隊も工場を過ぎてしばらくした所にあったT字路に差し掛かるとピタと足が止まってしまった。
「……どっちだっけ?」
「僕も分かんない……」
 困った。俺も雅史もこの先は全然思い出せなかった。そうだ! あかり、お前さっきから何も言ってなかったけど分かるか?
「え? う、うーんとね……」
 そう言うとあかりはその場にしゃがみ込んでT字路をじっと見つめた。なにやってんだ?
「あの頃と同じ目の高さになったら思い出すかなって……」
 お、それはいいかも。俺と雅史もあかりと同じようにしゃがみ込んでみた。じーーーーっ。
「……どうだ?」
「僕ダメ。浩之は?」
「俺もダメ」
「あかりは?」
「左かなぁって気がする……」
「よし! 左だ。左に行こう」
「ええっ、私自信ないよ!」
「右か左か言えたのはあかりだけなんだから、あかりを信じて行くぜ、俺は」
「行こうあかりちゃん」
「う、うん……」
 俺達は左に進路を取った。けれど進むごとにどんどん道が細くなっていく、ふつうに歩くと両肩を壁に擦り付ける位だ。
「せ、狭い……。子供の頃はそんな感じはしなかったけどな……」
 しかし狭いぐらいで文句を言ってられない状況が待ち受けていた。今度は背面にブロック塀、前面にでっかいどぶ川が行く手を阻む。幅30cm位の平らなところを横歩きで進まなくちゃならない。こんな所近所の猫ぐらいしか通らねぇよっ。
「浩之ちゃーん。ごめんね。私間違ってたみたい」
 いーや、行くったら行くのだ。雅史、何か思い出したか?
「うーん、こういう所通ったような、通らなかったような」
 俺もそうなんだ。だからあかりの言ったことを信じよう。それに来た道を引き返すのもけっこうつらい物がある。
 あ、ブロック塀に途切れてた所がある、あそこを曲がろうぜ。その途切れた所を曲がり、どぶ川に流れ込む排水溝沿いに遡ると、目前に高さ2m位のフェンスが立ちはだかった。そうだよ!!
「ここだよ! 浩之! あかりちゃん! ここだよ!」
「そうだぜ! あってるよ、あかり! でかした!!」
 俺はあかりの頭をくしゃくしゃと撫でた。へへへ、と恥ずかしそうにあかりは笑った。木が植えてあって向こう側はちょっと解んないがこのフェンス乗り越えるぞ。俺と雅史は鞄を向こうに放り投げると、ぽーんとフェンスを飛び越えた。……ほら、あかりも来いよ。……ほら!
「う、……ちょっと怖い」
 はあ? 何言ってんだよ。大丈夫だって。
「確か……前もあかりちゃんこのフェンスを越えられなかったんだ」
 ……それも思い出した。あかりのやつ最後は泣き出しちまって、ここで探検を断念しちまったんだよ。フェンスの向こう側であかりがその時と同じすごく困った顔をしている。
「やっぱりだめか? あかり。ここで止めるか? でもそれじゃ子供頃から全然変わってないことになるぜ。それでもいいのか?」
「……私やる。鞄持ってて」
 そうこなくっちゃ。鞄がひとまず先にこっちにやってきた。あかりはすげえマジな顔になるとフェンスの網に足を掛けてガシャガシャよじ登った。よしよしその調子だ。
「よっ」
 あかりはフェンスのてっぺんをヨイショとまたいだ。
「おわっと!」
 フェンスをまたいだ時、フェンスの編み目ごしにあかりの白いふとももの内側が、いやふとももどころじゃねえ、足のつけねギリギリのところが目に飛び込んでしまった。あわわわわ。俺は慌ててそっぽを向いた。雅史を見るとこいつも同じくそっぽを向いていた。よっ兄弟。
「えいっ!」
 と着地。あかりは無事フェンスから降りることが出来た。
「やったよ! 浩之ちゃん! 雅史ちゃん! すごいでしょう!」
 すごい、すごい、あはははは。……まだドギマギしてる。あかりの白いあしがチカチカと目の前をちらつかせる……。なんとなくあかりのそこに視線を向けてしまう……。いかん! いかんぞー! あかりをそんな目で見てしまうなんて、ダメだ! ダメだ! ダメだ!
 ……しかし俺達はいったいどこにたどり着いたんだ? きれいに植樹されている木立をかき分けて視界の開ける場所まで進んだ。
「うわー、公園に出るんだー」
 そこは俺達の住んでいる住宅地に隣接してある城山公園だった。公園と言ってもとても大きく、子供が遊ぶすべり台、砂場、ジャングルジム、シーソーと言った定番の遊具が置いてあるだけじゃなく、ちょっとした草野球が出来るグランド、2面あるテニスコート、芝生の植えられた広場に、遊歩道まであるいちだいレクレーションスペースだ。
「この公園に来るのも久しぶりだね」
 今はもう滅多に来ないが子供の頃は真っ暗になるまでここで遊んでいたんだ。いつかはあまりにも遅いってんで、近所の人総出で捜しに来られたこともあった。宝物を埋めたら出てこなくなった砂場。かくれんぼしてたら蜂に追いかけられた遊歩道。雅史にサッカーを教えたグランド。今も全然変わってない。でもそれを懐かしいと思う俺達は変わってしまったのかもしれない……。
 すでに太陽も眠りに入り、朱から紫へと色を変える空を見上げると、葉の生えてない裸の桜に薄桃色の点が浮かんでいるのに気が付いた。
「あかり、雅史。桜が咲いてるぜ」
 俺の声に導かれて、2人も周りの木々を見上げた。
「うわあ、ホントだね」
 パンパンに膨れた桜の蕾が我慢の出来なかった奴らからその薄桃色の内側を春の空気にさらしだしていた。この分だと4,5日後位に満開になるな。
「なあ、期末テスト終わったら、ここで花見をしねぇか?」
 俺がこぼすようにそう言うと2人の顔に弾けるような笑みが浮かんだ。
「いいねぇ、やろうよ、花見! 芝生にゴザ引いてさ。盛大にやろうよ!」
「志保も誘って、お弁当持って、みんなで楽しくやろうよ。お弁当なに作ろうかな? うーん、今から楽しみ!」
 こんなに喜んでもらえるなんて思わなかった。2人の顔見てるとこっちの顔まで自然とほころんでくるぜ。
 水銀灯が遊歩道を照らしだす頃には、俺達3人の影はコロボックルが踊ってるように引っ付いたり離れたりしながら家路をたどっていった。

第4章『桜の咲く公園にて』に続く


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