(5)春の嵐

 朝から空を覆っていた雲は正午をまわるとさらに厚みを増し、帰ろうかと思う頃にはほとんど泣き出さんばかりの空模様となっていた。
「うわー、降りそうだね、浩之ちゃん」
「しまったなあ、傘持ってねえぞ、俺」
「私も」
 じゃあ、雨降る前に帰ってしまおうぜ。校門をくぐると風が俺達の足下を強く吹き抜けた。湿気を含んだ重い風だ。降り出すのも時間の問題だな。いつもはピーチクと小うるさい雀達もどこかへ避難しているのか1羽も見かけなかった。
「まったく、おかしな天気だな」
「おかしいと言えば、志保がね……」
 うっ、今の俺はその一言できゅうっと血圧が10は上がってしまう。
「……志保がね、今日授業中ぼーっとしてたかと思ったら、真っ赤になってね、それからニヤニヤして、と思ったら今度は急に落ち込んで、ぷーっと怒った顔して、またぼーっとして。最初、志保が壊れちゃったかと思っちゃった」
 壊れちゃったんだろ? 俺も雅史に似たようなこと指摘されてしまった。
「で、志保にどうしちゃったの? って聞いたの。でも志保ったら真っ赤になって笑うだけでちっとも教えてくれないの」
 ……ただ口と口が触れ合っただけなのに、どうして体のそこからこんなに喜びが溢れてくるのだろう?
「……浩之ちゃん、聞いてる?」
 あ、ああ! ビックリした。あかりが俺の顔を覗き込むとじーっと俺の目を見る。ふと、あかりの口唇に視線が行ってしまう。ちっちゃくて桜の花びらのような口唇……。こいつの口唇はどんな感触がするのだろう……。はっ、なんてことを考えてんだ俺は! ばつが悪くなって俺はあかりから目を逸らした。……あかりよ、どうしてお前はいつも通りに俺と接せられるんだ? 俺はあの花見の日から……お前を見てると変な妄想ばかりしてしまうんだ。……お前は横で一緒に歩いている俺がそんなことを考えてるなんて、思いもよらないだろうな。でも、俺の胸の中から消えないんだよ、この気持ちは……。
 ポツ。頬に何か当たる感覚で思考を中断する。
「降ってきちゃった……」
 それから10秒もしないうちに前も見えないくらいの土砂降りになってしまった。
「走れ! あかり!」
「待って、浩之ちゃん!」
 俺達は鞄を傘代わりに、家に向かって走り出した。瞬く間に全身を雨粒が打つ。雨が服に染み込んでくる。5分ほど走って俺の家に駆け込んだ。
「じゃ、浩之ちゃんまた明日ね」
「俺んちで服乾かすか?」
 玄関先の庇であかりに言った。俺達は頭の先から靴の中までびしょぬれだった。あかりの制服がぴったりと張り付いて体のラインがはっきり出ていた。けっこうお尻がでかい、安産型ってやつか? はっ、まただ……。
「ううん、このまま帰る。それじゃ、またあし……クシュン!」
「おいおい、風邪なんか引くんじゃねえぞ。帰ったら体拭いて、あったかくしてろよ」
「ありがと、じゃあ」
 笑顔を俺に残してあかりは再び土砂降りの中に飛び込んでいった。俺は道路一面を川のように流れる雨水の上を一生懸命駆けていくあかりの後ろ姿を見えなくなるまで見送っていた。

 ヘークショイ! うーさぶ。目が覚めちまった。俺はベッドから起きてカーテンをシャッと引いた。
「まだ降ってるぜ……」
 寒いはずだ。昨日降り出した雨はしつこく降り続いていた。窓の外は灰色に煙り町全体が憂鬱の中に沈み込んでいるように思えた。日曜日にはあれほど暖かかったのに、今日は嘘のように肌寒い。……公園の桜も今日で全部散ってしまっただろう。
 いつもより早く目が覚めてしまった俺は制服に着替えてキッチンに行き、食パンをモシャモシャと頬ばった。
「そういや、あかりのやつ遅いな……」
 時計を見る。いつもならとっくに来てる時間だ。もうちょっと待ってやるか。……5分たったぞ。来ない、どうしたのかな? ……もう5分たったぞ。そろそろ家を出ないとマジでヤバイ時間だ。今日は先に行っちまったのかな?……一人で行くとするか。
 定期テストが終わった後の授業というのはテストの返却とその解説と相場が決まっている。昨日、今日と返ってきたテストの出来は、まあいつもより良かった。俺は机の上に突っ伏して窓の外をぼうと見ていた。雨の滴が次々と窓に当たると涙のようにガラスを伝って、窓枠のサッシに吸い込まれるように消えていった。やる気が全然起きない。こう、なんだ、靴下を履くときはいつも左足だと決めてるのに今朝に限って右足から履いてしまったような決まりの悪さ、って言うのかな、そんな気分だ。……解ったよ、認めるよ。あかりに会えなかったからだよ。あいつと一緒に登校しなかった日はここ2、3年なかったんだよ。……でも中学の時にもこんなことあったけど、その時はこんな気持ちにはならなかった……。窓の外では雨の粒がだんだん小さくなって、雲が徐々に天へと上がっていった。空が少し明るくなってきた。
 授業も短縮授業になっているので昼前に学校も終わってしまう。俺は鞄を抱えると1−Cへと足を運んだ。C組の中を覗くとあかりの姿は見あたらず、志保の姿もなかった。どこかの3人組が慌てて俺に背を向けひそひそ話を始めたが無視する。
「あ、委員長。あか……神岸はもう帰ったか?」
 鞄に教科書を詰める手を止めると、委員長は俺の方を向いた。
「神岸さん?何言(ゆ)うとーや、神岸さん今日は休みや。あんたが知らんでどうすんのや」
 え? 休み? ホントか?
「風邪やって聞いたで。なっさけないなあ、そんな薄情やと、あの娘に愛想尽かされんで」
 余計なお世話だ。でもありがとよ。……昨日ずぶぬれになったのがいけなかったんだろうな……。帰りにちょっと様子でも見に行くか。

 下駄箱で靴を履き替えているとポンと肩を叩かれた。
「やっほー、元気してるー?」
 この声は志保だな。俺はくるっと振り向くと志保の方を見た。するとお互いに見つめ合う格好となってしまった。慌てて同時に目を逸らす。
「よ、よう。志保じゃねえか」
「きょ、今日あかり学校休んじゃったね。後でお見舞いでも行ってやりなよ。あかりも寂しがってると思うからさ」
 うるせえな。解ってるよ。で、何の用だ?
「んふっふっ……」
 志保がニマーと笑ってる。おっ、なに企んでいるんだよ。
「どう、私と勝負しない?」
「よーし、いいぜ。で、何で勝負だ?」
「ま、それは見てのお楽しみってやつね」
 ニヤニヤしやがって気味の悪いやつだな。まあいいや、じゃ案内しろよ、志保。
「まっかしてーーっ!」
 スタスタと歩き出した志保の後をついて、俺は学校からの長い坂を下りていった。
 志保に連れられて行くと、駅前にある商店街の内でもテナントビルが密集して小さな店舗がひしめき合ってる所に着いた。どうすんだよこんなとこに来て。志保はその中の一軒の前に来ると立ち止まって言った。
「さあ、ここが勝負の会場よ」
「ここって……」
 ここってブティックじゃねえか。……バーゲンでもやっててどちらがたくさん服をゲットできるか、っていう勝負だったらしねえぞ。
「今回は美的センスの勝負ってヤツね」
 は、はいーーーっ!?
「ルールは簡単よ。この店の商品を使ってとあるモデルをコーディネイトするの。それでうまくコーディネイト出来たらヒロの勝ち。出来なかったら私の勝ち。負けた方がヤックでおごるのよ。ただし予算は8千円以内」
 とあるモデルって誰だ?
「もち私! どう、受けるの? 受けないの? はっきりしなさいよねっ!」
 ……解ったよ。受けてやろう。しかし俺服のこと全然解んねえぞ。
「テーマは『初夏の乙女』よ。さあ、レッツゴー!」
 えらいことになってしまった……。

 「それでキャミもさ、これと、これと、これ。どっちがいい?」
 死んだ婆ちゃんが暑い日によくこれ一枚になってたよなあ。シミーズって言ってたっけ。
「なに言ってんのー、年寄りが着るのと一緒にしないでよっ。でさ、どっちがいい?」
 そうだな、お前は顔立ちがはっきりしてるからソリッドが多く使われてる方が良いだろう。こっちのハイビスカスの花柄が良いと思うぜ。
「こんな感じ?」
 志保が俺の言った服を胸の前に当てて見せた。
「あの高校生見てよ。デートしてるよ。なんか初々しいよね」
 同じ店内にいた女子大生風の二人連れが俺達の方を見て言った。違う! 俺達はお互いの意地と誇りをかけた勝負をしているのだ。断じてこれはデートでは……かな? 端から見れば、彼氏が彼女の服を買うのを手伝ってるように見えなくもないという感じがしないわけではないと言い切るのはなんとなく気が引けるわけで……。
「ねえヒロ。じゃあさ、パンツはどんなのがいい?」
 え!? いやあ、まいったなあ、そんなもんまで俺に選ばせるのかー?
「ちょっとー、どこ行くのよ。そっちは下着のコーナーじゃない。私が言ってるのはズボンのパンツのことよっ。」
 へ? あ、いやっはっは。冗談だよ、冗談。
「どんなのがいいかな?」
「ひざ上50cmのミニ」
「え? 50cmて……ショーツ丸見えじゃない! ちゃんと考えなさいよっ!」
 真剣だったのに。じゃあこっち。
「へー、いいじゃん、このキュロット。じゃあさ、ちょっと試着してみんね。」
 そう言うと志保は俺が選んだ服を抱えて試着室に入ると、シャッとカーテンを閉めた。俺はその前で志保が出てくるのをしばし待った。
 ん? 何か音がする。シュル、シュルル、パサ。これは服を脱ぐ衣擦れの音だ。布一枚向こうで志保が服を脱いでいる……。カーテンに志保の下着姿を投影する。ぶるぶるぶる!! だめだ! だめだ!
「見て見て、さっきの二人。男の子が照れちゃってかわいーの」
 先ほどの女子大生だ。なんか間が持たないよ。早く出てこい、志保。
「おーい。まだかよー」
 俺はカーテンをちょっとめくって声を掛けようとした。
 ガスッ! 「覗くなっちゅーの」
 蹴られた……。
 それからしばらくするとカーテンが開かれて、さっき選んだ服に着替えて志保が現れた。
「ジャーン! どう,似合う?」
 俺の前でくるっと回って見せた。か、かわいい……。
「ヒロ、どおって、聞いてんのよっ」
 あ、ああ。……おい、そのもう一本あるオレンジの肩紐はなんだ?
「ブラに決まってんじゃない。着る時はちゃんと色合わすから大丈夫」
 志保はその肩紐を引っ張ってパチンと鳴らす。ブ、ブラジャーだって!? そんなもの見せびらかしてお前……。いかん、またドキドキしてきた。
「ちょっと、ヒロ。なによ胸ばっか見て、目がやらしいわよっ。だいたいこんなのを着る時はブラの肩紐は見せるもんなの」
 ホントかー? うーん……、だめだめだ! 下にTシャツを着ろ!
「なんでよーっ。私は平気よ、見られても」
 ほら、Tシャツも選んでやるから。
「ひょっとしてヒロ、他の人に見られたくないとか言うんじゃないでしょうね?」
 うるせえな、いいからキャミソール着る時はTシャツ着用のこと! コーディネイターからの厳命。
「へへーーん、ヒロがどーーーしてもって言うなら着てあ・げ・る」
 ……くっ、どうしても着て……ください。
「くっくっく、分かったわ。じゃあそうしてあげる。あとでTシャツも選んでね」
 完全に一本取られた。ちっきしょー、ついてねえや。
「決めた。私これにするね」
 それでいいのか? どちらかと言うと、初夏ってよりちょっと真夏っぽい感じになっちまったんだが……。
「ヒロが決めてくれたんだから、これにする。……じゃあ私着替えるから、覗かないでよ」
 再び志保はカーテンを閉めると再び着替えた。試着室のカーテンが開かれると元の制服に戻っていた。そしてさっき試着した服を大事そうに小脇に抱えるとそれをレジに持っていった。俺は先に店の外に出て志保が出てくるのを待った。
「お待たせねっ。今日はヒロの勝ちってことにしてあげる。ヤック行こ! この志保ちゃんがおごって上げる。ありがたく思いなさいよね」
 俺の腕を引っ張ってヤックへと向かう。ヤケに機嫌が良い。今にもスキップしそうな雰囲気だ。
 それから俺と志保は商店街を歩く人達が見える窓際の席に向かい合わせに座り、チキンタツタバーガーを頬ばっていた。しかし何となくいつもと感じが違う。
「おい志保、何かしゃべってくれ。何となく落ち着かない」
 そうなんだ。志保が俺の顔を見てニコニコしているだけで、さっきから全然口を開かないんだ。
「なによー。まるでいつも私がバカみたいにベラベラしゃべってるみたいじゃない」
 その通りなんだが……。あ、ひょっとして俺の顔になんか付いてんのか?
「いいじゃない。今日はヒロの顔見てると、なんにも話題が浮かんでこないのよねー」
「なんだよそれ。だいたい良いのかよ俺とこんな所にいて。橋本先輩はどうなったんだよ」
 橋本先輩の話題を振ると志保のやつ一瞬顔をひくつかせた。
「うーん、もう先輩は昔の男って感じ。私はこれから真実の恋に生きるの」
 新しいだの、真実だのと忙しいやつだな。
「ホントは今朝も廊下で会ったんだけど、なーんか無視されちゃって、もう終わっちゃったって感じ? まあ私も『ごめんなさい』するつもりだったんだけどね。あははっ」
 やけにすっきりした表情で言いやがる。……だから、俺の顔見てニコニコすんのやめてくれよ。こ、こっちがドキドキするだろうが。
「そうだ! ヒロ、もう一軒寄りたい店があんのよ。付き合ってくれる?」
 そう言うと志保は俺の返事も聞かずトレイをダストボックスの所へ持っていき、そのままヤックを出て行ってしまった。ま、待ってくれよ。
 それでどこなんだよ。お前が行きたい店ってさ。
「ここよ、ここ」
 あいつが指さす方向を見る、あれはアクセサリーなんかを売ってるファンシーショップだ。いかにも女の子ウケするカラフルな扉を開けると、案の定中は学校帰りの、コーセイだけじゃなくチュウ坊も含めた、女学生であふれ返っていた。ドアチャイムと共に俺が一歩店内に踏み込むと、店中の女の子にジロリと見られた(ような気がした)。
「おい、これって女の……」
「ねえねえヒロ、これなんかかわいいと思わない?」
 俺になんかお構いなしに、ずいと目の前に赤いものを突きだした。キティーちゃんのキーホルダーだ。揺らすとピカピカ赤く光った。
「ま、まあな……」
 いかん、ここは俺には場違いだ。
「早く出ようぜ志保」
 しかし志保は俺の言葉なんかに耳を貸さず、俺の手を引っ張って店内を引きずり回し、商品を次から次へと物色していった。
 しかし色々なもの置いてあるなあ。小さな棚の中には籐(とう)で編んだかごがあり、その中にファンシーグッズが山と積まれている。キティーちゃん関係のグッズが一番多そうだが、他にもアイドルものや動物もの、アニメキャラのものや各社オリジナルキャラクターものなど多種類にわたっている。またそのグッズも消しゴムやカンペ、下敷きやらの文房具とか、髪飾りやクシ、ブレスレットやピアスなんかのおしゃれ用品とか、その他俺には皆目見当もつかないものとかが沢山並べられてある。おっ、これなんか絆創膏だぞ。かわいいカエルの絵が描いてある。おっ、これはなんだ? ハートのマークが描いてある。5cm前後の四角い箱で厚さは2cmくらいかな。『Love&Peace』って書いてある……。
「もうーヒロったらこんなのがいいの? しかたないわねー、志保ちゃんが買って上げよう!」
 ひょいとそれを摘み上げると志保は自分の買い物かごにポイと入れた。ザワザワと一瞬辺りが騒がしくなった。ん? なんか注目を浴びたような……。志保がレジに行って支払いを済ませてきた。
「さあ、帰ろうっ、ヒロ」
 それから志保を駅まで送るため2人並んで歩いていた。平日の午後だからか主婦と学生しかいなかった。商店街のアーケードの下では買い物をする人、これから家に帰る人、帰ってきた人などが混じり合って雑踏を生み出していた。俺達2人もその中にとけ込みこの光景の一部を演出していた。雑踏のせいか俺と志保はお互いの肩が触れそうな間隔で歩く羽目となり、間違って肩にちょこんと触れてしまうとお互い慌てて距離を離すということを繰り返してやっていた。しかしそんなことも駅の改札の前まで来ると終わりの時を迎える。
「そうそう、さっきのアレ1つあげるね」
 と言ってファンシーショップの紙袋を開けると、さっきの四角い箱を取り出した。そしてその箱を包んでいたフィルムをピリと剥がして箱を開けた。
「なあ、志保。それはいったいなんなんだ?」
 「へ?」と志保が驚いた顔を見せた。
「なによ、知らなかったの? これよ、これ」
 と箱の中身をそっと見せた。白とピンクのストライプ模様のセロファンみたいな包装に丸い輪ゴムのような形が浮き出ている。
「……!! コ、コンドームか!?」
「ピーンポーン」
 な、なんでそんなもんが売ってんだよ。
「これだから、ヒロはダメなのよねー。今やコンちゃんも女の子が『かわいいーっ』て言ってあんなとこで買うものなのよ」
 し、知らなかった……。
「男のたしなみよ。……しょうがないわねーっ。いつ必要になるか解ったもんじゃないけど、1つ君に差し上げましょう。……ええーい、もう1つ持ってけどろぼーっ!」
 パチンという音と一緒に俺の手のひらにコンドームが重ねられた。あわわわ、こらっこんなとこ人に見られたらどうすんだ。俺は慌ててズボンのポケットにしまい込んだ。
「何照れてんのよ。私たちキスまでした仲じゃない」
 志保がパチッとウインクした。な、な、何言ってんだよっ。俺は不覚にも顔が赤くなってしまった。
「今日はありがとね、楽しかったわよ。ちゃんとあかりのお見舞い行くのよ。じゃね、バイバーイ」
 そう言うと志保は鞄と一緒に今日買った服が入っている紙袋を抱え、自動改札に定期券を通し、ホームへ上がる階段を軽やかに登っていった。姿が見えなくなる寸前に階段の途中で志保はしゃがみ込み、俺の方を振り向くとブンブンと大きく手を振った。こっちから見ると志保が天井と階段の間に挟まれてるようでおかしかった。俺は苦笑いを浮かべながら右手を軽く挙げた。
 俺はポケットの中に手を突っ込んでさっき志保からもらったものをまさぐった。確かに2つある。自分がコンドームを持っていると思うだけで愚息が少し固くなってくる。パッケージの角っこが手のひらに当たってちくちくした。

 人から言われて行くようで癪に障るが、俺はひとまず家で制服から着替えてあかりの家に行くことにした。あかりの家は番地で言うと一つ違いで、歩いて2分ぐらいの所にある。道路のアスファルトはもう乾いていたが、側溝を見るとまだ昨日の大雨の跡が残っていた。雨水を集める桝(ます)にはびっしりと桜の花びらが詰まって薄いピンク一色に染まっていた。これをみるともう確実に桜が終わったことを実感してしまって少し哀しかった。あっ、あかりの家が見えてきた。あいつの家は道路に面した所にガレージと門扉があり、赤い装飾用のブロックと、その上の黒く塗られた鋼線をきれいに編み上げたおしゃれなフェンスで家の周りを囲っていた。フェンスにはポプリポットが掛けられている。門の前に立つと『神岸』と書かれた表札が門柱に掲げられていた。表札の下には呼び鈴があるが、ちっちゃい頃はこれに手が届かなかった、だからここから大きな声で「あっかりちゃーん、あっそびーましょっ」と呼んだものだった。そう言えば俺があかりのことを『あかりちゃん』と呼ばなくなったのはいつの頃からだっけ?
 ピンポーン。
 呼び鈴のボタンを押すとあかりの家の中をベルが鳴り響く様子が伝わってきた。しばらくするとドタドタと廊下を小走りする音が聞こえてきて、玄関が勢いよくガチャッと開け放たれた。
「あーら、ヒロちゃん。お見舞いに来てくれたの? あかりも喜ぶわー。さ、上がって上がって」
 貫禄のある体を揺さぶっておばさんが俺を家に通してくれた。もじゃもじゃパーマをかけてそれをまっ金々に染めている。この人があかりのおふくろさんだ。胸も腹も尻もすごすぎるほどのグラマラスで、このボディーを波打たせてカラカラとよく笑う豪快なお母さんだ。ちょっと化粧が濃いような気がするが、それも愛嬌だ。でもこの人の旦那さん(あかりの親父さん)は背が低くガリガリに痩せてて地味な人だ、言葉通りのノミの夫婦なんだ。あかりはどっちに似てんのだろう、年取ったらおふくろさんみたいに太ったりして。
「しっかし、ヒロちゃんも大きくなっちゃったわねー。最近全然遊びに来てくれないからおばさん寂しかったわよ」
 しかし前にも言ったと思うが、元気玉みたいなこの人が日中家にいることは珍しい。娘が寝込んでいるから今日は仕事を休んだのかもしれない。
「あの娘ったら、この頃はあまり口も聞かないくせに、風邪ひいた途端『薬飲ませて』だ『おなか空いた』だ『今日は家にいて』だと甘ったれちゃって困ったものよ。ヒロちゃんからあかりにビシーッと一言言ってやってよ。あっはっはっ」
 おばさんが俺の背中を叩く。軽く叩いてるつもりなんだろうけど結構痛い。
「あの娘、部屋で寝てるから顔見に行ってやってね」
 そう言うとおばさんはパタパタとキッチンの方へと行ってしまった。
 コンコン。入るぞ。二階に上がってすぐの所にある、くまさんと一緒に『あかり』と書かれた札の下がってるドアを開けると俺は部屋の中に入った。いつ来てもきれいに片づけられて清潔感が漂う部屋だ。暖色系で彩られたこの部屋は冬でも足を踏み入れると何となく暖かい気分になる、この部屋の主の持つふいんきのせいかもしれない。外からの光を受けるレースのカーテン、それを束ねるかわいらしいリボン、窓際に置かれた勉強机、机の上に置かれたカラフルなペン立て、机の横にある少女マンガばかりの本棚、本棚の空いた所に置かれたかわいらしい小物、壁に掛けられた動物の赤ちゃんの写真の入ったカレンダー、絨毯敷きの中央に置かれた座椅子にもなるでっかいクッション、そのクッションに腰掛けているくまのぬいぐるみ、ドアの横にはタンスとクローゼット、そしてクローゼットの横にあかりの寝ているベッドがあった。甘酸っぱい香りがすうっと胸の中いっぱいになる、あかりの匂いだ……。
「浩之ちゃん……来てくれたんだ」
 俺はあかりのベッドの横に腰掛けた。あかりを見るとまだ少し熱があるのか赤い顔をしていた。おでこには濡れタオルが乗せられている。
「昨日ずぶぬれにさせちまったからな」
「うふふ。……ごめん、心配かけちゃった」
 力なくあかりが笑う。
「大丈夫か? ちゃんと薬飲んだか?」
「うん、さっき飲んだ」
「あまり忙しいおばさんに手を焼かせるなよ。おばさん、あかりが甘えて困るって言ってたぞ。『薬飲ませてー』『おなか空いたー』『今日は家にいてー』って」
 あかりは顔を隠すようにふとんを鼻の所までたくし上げた。
「ええっ、お母さんたらそんなことまで言ったの?」
「ほら、興奮するとまた熱出るぞ」
「だいぶ熱下がったんだよ」
 俺はおでこのタオルを取り手のひらで体温を見た。
「……そうだな、そんなに高くないな。なんだこのタオル乾いちまってんじゃねえか」
「うん……」
 甘えるような目で俺を見ている。
「しょうがねえなあ。この時とばかりに甘えやがって」
「えへへ」
 俺はベッドの横に置いてあった洗面器の水にタオルを浸すと、きゅうっと絞ってあかりの額の上に乗せた。
「冷たい」
「どうだ、気持ちいいだろう?」
「うん……。でも浩之ちゃんの手の方が気持ちよかった」
 俺の手か? 俺は手のひらをあかりの頬に当てた。するとあかりは気持ちよさそうにすうと目を細めた。
「いつもはあったかい手だけど、今日はちょうどいい冷たさで気持ちいい」
 それはあかりの体温が少し高いからだぜ。
 手のひらからあかりの温かさが伝わってくる。柔らかくすべすべとした肌が気持ちいい。俺はあかりの耳に手を移した。ここも少し熱い。あかりの耳たぶはちっちゃくてふにふにしていた、細かい産毛が生えている。指で耳をしばらくもてあそんだ後、俺は髪を撫で始めた。今日はおさげでもなければ、黄色いリボンでくくったあの髪型でもない。髪に何もしていない唯おろしただけの髪型だった。こんなあかりを見るのは何年ぶりだろう? 髪の生え際から手ぐしを入れるように撫でた。あ、生え際にニキビ見っけ。そして俺は再び頬に手をやる。今度は親指の腹を使って目の下の頬骨の所を撫でた。あかりが熱のせいか潤んだ目で俺を見つめる。俺はあかりの顔を覗き込んだ。
「どうした? あかり」
「ううん」
 ゆっくりとあかりは首を振る。肌の上を滑らせるように手を下ろし、俺はあかりのうなじに手を添えた。熱くて少し汗ばんだ皮膚を通してトクトクと脈打つあかりの命を感じた。
「浩之ちゃん……」
 あかりの口唇から吐息のような声が洩れる。俺はその口唇がどんな風に俺の名を呼んだのか確かめたくて、親指をあかりの口唇に当てた。小さいけれど厚みのある口唇は指を通して柔らかい感触を俺の心に伝えて来る。優しく、壊れ物を扱うように優しく、俺はあかりの口唇を撫でた。
 あかりの口唇の感触をもっと深く知りたい。
 俺はあかりを見つめた。あかりも俺を見つめた。そしてゆっくりとあかりの瞼が閉じる。ゆっくりと顔を近づけると、……俺はそっとくちづけをした。触れた瞬間、ぷにゅっという感覚と一緒にふたりの口唇が溶け合うように互いの粘膜に張り付いた。口唇から俺の体があかりの中へ溶けていくようでクラクラする。そして溶ける俺の体を埋めるように、あかりの熱い口唇からは優しい心が次々と俺の中に流れ込ん来るような気がした。あかりの鼻から漏れた息が頬にあたる。胸の所の布団が息に合わせて上下する。あかりの瞼が微かにピクピクしている。
 雲の切れ間から射し込んできた夕陽が俺達のいる部屋をオレンジ色に染め上げていった。ここだけ時間が止まっているような気がした。
 くちづけをした時と同じようにそっとふたりの口唇が離れていった。夕陽に照らされてあかりの顔がオレンジ色に染まっていた。目にうっすらと涙が溜まっていた。
「やっと、届いた……」
「!」
 ふと漏らしたあかりの言葉がハンマーのように俺の心を重く打った。俺は直感的に今の言葉の意味を察してしまった。俺達……キス……したんだ。
「コンコン、入るわよー」
 ドアがノックされるとあかりのおふくろさんが大きな体をリズムよく揺すりながら入ってきた。お盆の上にはクッキーとオレンジジュースが乗せられていた。
「どーぞー召し上がれー。ヒロちゃん、よかったら今晩、家で晩御飯食べていかない? ご馳走するわよ」
 おばさんの言葉にふと我に返ると俺は慌てて腰を上げた。
「いえ、俺、もう、帰るところだから、お構いなく。これで失礼します。あかり、また、明日な。じゃ」
 神岸母娘を部屋に残したまま、俺は急いで表に飛び出し、家へと帰った。
『やっと、届いた……』
 あかりの言葉が深林に響く木霊のように、心のあちこちにぶつかりながら広がっていった。俺はさっきのキスにそんな意味を込めなかった。したかったから、しただけだったんだ……。俺は家まで息もせずに全力疾走した。

 俺は夢を見ていた。周りすべてが水で出来た暗い世界の中をクラゲのように独り漂っていた。水を口に含んでみるとしょっぱくてここが海だと解った。今いる場所はどのくらい深い所なんだろうか、見渡せど見渡せど海底も水面もなにも目に付くものはなかった。太陽の光さえ届かない黒一色の世界の中で幽かに濃紺を呈している所があってそこがかろうじてこの世界の天なのだと判るだけだった。しかし意外にも水温は温かく息も全然苦しくなかった。この海の中を漂うことはとても気持ちいいことだった。俺はずっとここにいたいと思った。しかし同時にあの濃紺の場所に向かってここを旅立たなくてはならないことも知っていた。俺はもう少しここにいたいんだ、あともう少し、もう少しでいいんだ、ここにいさせてくれないか……。
「浩之ちゃーん、早く起きないと遅刻しちゃうよーっ」
 あ……、もう朝か。あかりの声で目が覚めた俺はいつものように速攻で朝の用意をして家を飛び出した。
「よっ、もう大丈夫なのか?」
「おはよう。うん、もうすっかり良くなったよ。浩之ちゃんのお陰かな?」
 なに言ってんだ。俺はなんにもしてねえよ。……て、したか。
「さ、さあ行こうぜ」
「うん」
 すっとあかりが俺の横につく。なんとなく距離が近いんでビックリして間を開ける。朝日に伸びる二つの影も一本になりかけて元の平行線になる。気のせいかあかりがニコニコしている。そして時々ちらっちらっと俺の方を見て、俺と目が合うと、
「うふふ」
 と屈託のない笑みを浮かべる。胸がドキドキするのと同時になにか据わりの悪さを感じてしまった。

 授業中から引き続いて休み時間に寝ていると誰かが俺の名を呼んでいるような感じがして目を開けた。
「藤田、なあ藤田よ。頼む、起きてくれ……」
 すると目の前に知らない男が一人立っていた。
「知らないとはあんまりじゃん、矢島だよ」
「そう言やそうだったな。で、なんか用か?」
 こいつは同じクラスの矢島という奴だ。爽やかな熱血野郎でバスケ部でも結構活躍するスポーツマンだ。しかし俺はこいつともあまり話をしたことはない。
「実はよ、お前に頼みたいことがあんだよ」
「だったら、さっさと言えよ」
 ちなみに安眠を妨害された俺は機嫌が悪い。
「C組の神岸って娘知ってるよな」
 あたりめえだ。幼なじみなんだからよ。
「頼む! 俺に紹介してくれ!」
 なーにー! あかりを紹介してくれ!? あんな冴えないやつどこがいいんだよ。
「寝言は寝てから言え。俺は寝る」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ。俺は前から神岸さんのこと良いなーって思ってたんだけどよ、髪型? 変えてからものすごくかわいくなってさ、この頃なんかよくニコニコしてて、こうきゅーっと抱きしめたくなる感じ? が、すんだよ。最近他にも神岸さんを狙ってる奴が多くなっちゃってさ、俺、今勝負したいんだよ。だから頼む!」
 はっ、あかりがかわいいだって? 何寝ぼけたことを言っ……。いや、俺はお断りだ。めんどくさい。C組の長岡か雅史、佐藤に頼め。
「で、でもよ、佐藤はお前に恨まれるから嫌だって言うしよ。長岡にこんな話したら明日には学校中の噂になるじゃん。お前しかいないんだ」
 まあ、志保に相談したら話におひれはひれどころか角に牙まで生えて、とどめに火を吹きかねんからな。でも雅史が、俺が恨むから嫌だって? そんなこと言ってたか。
「藤田、どうしてそんなに嫌がんだよ」
「嫌なものは嫌だ」
 考えても見ろ、付き合うってことは、こいつとあかりが並んで一緒に登下校したり、あかりの弁当をこいつが食ったり、朝起こしてもらったり、あいつの心から安心しきった微笑みがこいつに向けられたりすんのか? ムカムカするぜ。……あれ?
「ひょっとしてお前ら付き合ってんのか?」
 いや、そんなことは……、でもしかし……。
「はっきりしてくれ! 俺だって本気なんだ! でもお前らが付き合ってんのなら俺もあきらめる! だから、はっきりしてくれ!」
「……そうだよ、つ、付き合ってんだよ……」
 な、なにを口走ってんだよ俺!
「……そ、そうだったのか……。すまなかったな……」
 それだけ言うと矢島はがっくり肩を落として自分の席に戻っていった。
 額に汗が浮かんでくる。心なしか手も震えている。頭の中がぐちゃぐちゃになって混乱している……。俺は……どうしてあんなことを口走ってしまったんだろう。俺は矢島とあかりが付き合うことを想像するだけでたまらない気持ちになってしまったんだ。でも「付き合ってる」 という言葉で想像したシーンはすべて俺があかりとしていることだった……。俺は自分でも判らない内にあかりと……付き合ってたのか? 自分でも判らない内にあかりを……好きになっていたのか? 幼なじみで今まで妹のように思ってきたあかりを……俺は……。

 学校からの帰り道、名前を呼ばれたような気がして我に返る。わりぃ、聞いてなかった。
「もう、だから浩之ちゃん今日は晩ごはん何食べるの?」
 あかりがぷうと頬を膨らましている。だから謝ってるじゃねえか。実は校門から出ようとするとき、後ろから「浩之ちゃーん、待ってーっ」 とでかい声で叫びながら走ってくるやつがいたんだ。まあ、あかりのことだけどな。普段は小さい声で控えめに言うくせにこういう時はやたらでかい声を出す。それであかりが「一緒に帰ろう」 と言うもんだから、今こうして並んで歩いてんだ。俺達は朝でこそ一緒に学校へ行くが、帰りは別々のことの方が多い。今回テスト前に一緒に帰っていたが、むしろあれは例外の方に入る。こうなったのは中学の頃からだったかな?
「今日はトンカツにしようと思う」
「それって小さいウインナーと、マカロニサラダとかスパゲティとかが付くやつでしょ?」
「おっ、よく解ったな」
「……やっぱり、コンビニのお弁当じゃない。栄養片寄っちゃう」
「しょうがねえだろ。自炊すんのがめんどくさいんだよ。なんなら、あかりが作りに来てくれるのか?」
「えっ」
 なんてな。冗談だよ。
「うん、行く。鞄家に置いたらすぐ行くね」
「おいおい、いいよ。それに今家の冷蔵庫空っぽで何も入ってない」
「じゃ今から買い物行こっ。ねっ浩之ちゃん」
 俺の前にピョコンと立ち、後ろ手に鞄を持ってキラキラした目で俺を見る。うう、そんな目で俺を見るなー。
「しょうがねえなあ。じゃひとつ頼むわ」
 尻のポケットから財布を抜いて、ほいとあかりに預ける。
「腕によりをかけて作っちゃう」
 俺達は進路変更して近くのスーパーに立ち寄ることにした。
 あかりが生鮮食品の棚を覗き込む。三段に仕切られた棚は蛍光灯の光と奥に張られた鏡のせいか清潔感が漂う。そして棚の一番上からはナイアガラの滝のように白くなった冷気が降っている。ブロッコリやレタス、ピーマン、さやエンドウなんかが涼しそうに3℃の霧の中に浮かんでいた。買い物というのは今晩の献立をちゃんとイメージしてないと余計なものまで買ったり、必要なものを買い忘れたりするもんだ。あかりはどんなのを考えてんだ?
「うふふ、内緒」
 教えてくんない。俺はあかりの後ろでカートをガラガラ押しながら追いて行くのが仕事だった。あかりはブロッコリをあれこれ眺めてから、その中の一つを買い物かごに入れた。
「どれも同じじゃないか。なにそんなにじっくり見てんだよ」
「やっぱり少しでも良いものを買いたいじゃない」
 そう言うもんかね。あっ! ピーマン入れた!
「だーめ。こういうのも食べなきゃいけないの」
 まるで母親が子供をたしなめるように言いやがる。周りの人は俺達をどんな風に見てんだろうか? 兄妹には見えないだろうし、もちろん夫婦にも見えない。同棲中の男女にしちゃ若すぎる、オマケに俺達は制服を着てんだ。すると残るは相手の家に飯を作りに行く位の付き合いをしてるカップルか? 慌てて周りをキョロキョロ見渡す。なんだかものすごく恥ずかしくなってきたぞ。
 緑黄色野菜の次は根菜類の所に行き、ゴボウをかごに入れる。
「さっきから野菜ばっかりじゃねえか。もっと肉気のものは出ないのか?」
「ちゃんと栄養のバランス考えて買ってるんだから。バランスが取れてないとすぐ風邪をひいたり、疲れやすくなったり、怒りっぽくなるんだから」
 へいへい。それからアジを数匹買うと肉のコーナーの前を通った。
「あかり、あかり。ほら、牛肉安いぜ」
 あかりは俺を見てくすっと笑うと、
「もっと安いお店知ってるから慌てないで」
 と言った。いいじゃねえか少しくらい高くっても。ここで買っちまおうぜ。
「帰りに寄るから、我慢して、ね」
 ちぇっ、女ってどうして1円2円のことでそんなに真剣になんのかね。
「じゃ私レジに行くから。ちょっと待ってて」
 俺はカートをあかりに預けるとレジがいっぱい並んでいる所をう回して、反対側に行った。買ったものをかごからスーパーの袋に移すテーブルであかりを待った。台に備え付けられているセロテープをクルクル回すのにも飽きた頃にやっとあかりが来た。素早い手つきで買ったものをかごから取り出し袋に詰める。きれいに一つの袋に収まる。今晩の食材が詰められた袋を俺が持つとふたり揃ってスーパーを出た。
「重くない? 半分持つよ?」
 バカ言っちゃいけねえ。こんなもん俺1人で充分だ。それに買い物袋の取っ手を片っぽずつ持つなんてまるでCMに出てくる新婚さんみたいじゃねえか。
 帰りにあかりの言ってた肉屋さんに寄ってごく普通の牛肉を買った。ここは神岸家なじみの店なんだそうだ。そこで俺は店の外で待ってたんだが、あかりが出て来たときなぜか真っ赤な顔をしていた。なんかオマケしてもらったらしい。うーん、よく解らない。

 コトコトとアジを煮込んだナベが音を立てると、ピーマンを刻む手を止めナベに向かいコンロの火をとろ火にする。そしてすぐに隣のナベに移り、おたまにすくった味噌をナベの中でゆっくり溶かす。再びピーマンを刻み始め、それが終わると解凍の済んだ牛肉をパックから出し、フライパンに油を落としゆっくり回して油をなじませた。そして肉をフライパンの縁から静かに滑り込ませる。肉を焼き上げるとブロッコリ、トマト、レタスなどを盛りつけた皿に添える。
 今台所であかりが右に左にパタパタ走り回っている。運動が得意でないのにこういう時はビックリするほど機敏に動く。不思議だ。俺はと言うとリビングからぼうとあかりが頑張ってるのを見ているだけだった。テレビがさっきから横で騒いでいるが、そんなものよりあかりの後ろ姿を見てる方がずっと楽しかった。制服のままエプロンをしたかっこで調理をしているが、なにやらとてもかわいい。しかも俺のために頑張ってくれているのかと思うとさらにその思いは強くなる。後ろからがばっと抱きしめたくなる。……ちょっとあかりの様子でも見に行くか。俺はのれんを分けて台所に入った。あかりは料理に夢中で俺に全然気付かない。……ちょっといたずらしてやれ。そっと背後に近寄るとポンとあかりの両肩に手を置いた。
「きゃっ」
「なんか手伝おうか?」
 目を真ん丸に開いてあかりが振り返る。
「ビックリした。ありがとね、でも浩之ちゃんは向こうで待ってて」
「いいのか? じゃあそうするか」
 肩をモミモミと揉んでから俺はリビングへ引き返した。細い肩……ホントは肩もみじゃなくて、抱きしめたかったんだが……ちょっと出来なかった。
「あと10分ぐらいで出来るからね」
 リビングでテレビを眺めていると10分経った頃、言葉通りに
「お待ちどうさま。出来たわよ」
 とあかりの声がかかった。急いで食卓に着くと色々な料理が並んでいた。どれも旨そうな湯気を立てている。
「いっただっきまーす」
「どうぞ、召し上がれ」
 あかりがエプロンを畳んで椅子の背もたれに掛けると同時に俺は箸を取った。今日のメニューは、1つ目はアジの煮物だ、味が良く染みている。このミョウガがいいのだ。2つ目はキンピラゴボウ、俺は薄口の味付けが好きでこのあかりの味付けが一番気に入っている。と言ってもあかりも一発でこの味に到達したのではない。何度も俺に意見を聞いて少しずつ味を変えていった成果なのだ。一度「まずい」と言ったら2週間も毎日味見をさせられた。あん時のあかりの執念には脱帽した。3つ目は焼き肉だ。ボリューム満点で食いがいがある。しかし肉の3倍ぐらいのサラダがででんと横に盛りつけられてあるのは反則だ。
「お肉を食べるときは2倍の野菜を食べないとダメなのよ」
 しかしそんなことは食ってるうちにどうでも良くなってきた。なにしろどれも旨い。さすがだ。
「おいしい?」
「ああ、旨いぜ。唯肉はもうちょっと軟らかく焼いた方が俺は好きだ」
「うん、じゃあ今度そうする」
「しかし、こんな温かい晩飯はホント久しぶりだぜ。皿から湯気が立ってる」
「浩之ちゃんさえ良かったら、毎日作るよ」
 俺は箸を止めてあかりを見た。ふたり目が合うと「あはは」照れ笑いを浮かべた。「どうしてだ?」と言う問いはバカっぽいのでゴボウと一緒に飲み込んだ。あかりはこんなにも俺のことを思ってくれている。俺はこの思いに応えたいと思っている。いや応えなくてはならない。胸の底に熱いマグマがぼこっと湧き出たのを感じた。
 炊き立てのご飯とみそ汁(みそ汁は豆腐にネギを浮かべた赤味噌のやつだ。俺は100%赤味噌のみそ汁以外は飲みたくないのだ。)を胃袋に流し込むのに「いただきます」を言ってからそれほど時間はかからなかった。俺は出された料理をものの10分ほどで平らげてしまった。
「うわー、あっと言う間に食べちゃった」
「ごっそさん。旨かったぜ」
「お粗末でした。ありがと、浩之ちゃん」
 あかりが俺の3分の1位の飯を食い終わるのを待ってから、食器を片付けて二人で皿を洗った。これくらい俺もしなくちゃバチがあたる。俺が手伝ったせいで片付けも早く済み、俺達はお茶を汲んでリビングのソファーの所へ行った。
 テレビを囲むようにコの字に並べられたソファーに身を沈める。俺の座った席はテレビの真っ正面で一番幅の広い特等席だ。あかりは湯飲みを俺の前のテーブルに置くと自分の分を手に右側のソファーに腰を下ろした。テレビは他愛もないバラエティー番組を映している。俺はあまり番組の内容に入り込めなかった。一つの思慮が頭の中でぐつぐつと沸き上がっていたからだ。「俺とあかりの関係はいったいなんなのだろう?」 唯の幼なじみなのだろうか? 子供の頃のからのノリをこの年までそのまま引っ張っているだけの関係なのだろうか?
「片づけ手伝ってくれてありがと」
「……ん? なに言ってんだ。飯を作ってくれてその上お前一人に皿洗いなんかさせられるかよ」
「でもそれじゃ、お見舞いのお礼になんないよ」
「礼なんていいぜ」
「でも私、嬉しかったんだもん」
 しかし、子供の頃のノリとは違うような気がする。あの頃はこんなにあかりが献身的に世話してくれることはなかった。逆に俺の方があかりの面倒を見ていたくらいだ。まあその3倍はイジメてたけどな。あかりを見るとテレビを観て無邪気に笑っている。
「ね、浩之ちゃん、私達も昔やったよね、これ」
 ブラウン管を見るとお笑いタレントがカンケリをやっていた。関西芸人らしくギャグの応酬を繰り広げたすごい舌戦をやっていた。口でカンケリをしているみたいだ。一人普通の俳優が混じっているためその人だけ異様に浮いている。これがまた笑いを誘う。
「城山公園で浩之ちゃんと、雅史ちゃんと、真由美ちゃんと、祥子ちゃんと、それに健一ちゃんと、孝治ちゃんとでやったよね」
「あかりは一度鬼になったらずっと鬼だったよな。でも懐かしいな、みんな何やってんだろ?」
 あかりはいいカモだったぜ。こいつは素直すぎてああいう人を出し抜くテクがいる遊びは苦手だった。今だってそうだ。素直すぎて俺の言うことだったら疑いもなく「うん」 と聞いてしまう。それは今も昔も変わらない。
「あかり、そこからじゃテレビ見えにくいだろ? こっち来いよ」
 と、自分の横の空いたスペースをポンポンと叩いた。あかりは一瞬戸惑いの表情を見せたが
「うん」
 と言い、すぐ俺の横に場所を移し再びテレビの方に視線を向けた。横長のソファーも二人で座ればいっぱいになってしまう。と言うより俺がふんぞり返って座っているため、あかりにとってはさっきよりスペースが狭くなってしまっている。俺達のふとももが触れ合っていた。あかりもさっきよりテレビに集中してない。こんな状況になるのはあかりも判ってたはずなのにこいつは俺が「来い」と言ったから来てしまう。
「この前真由美ちゃんにあったよ」
「あいつどこかの私立中学に行ったんだよな」
「うん、それですっごく派手になってた。髪の毛真っ赤に染めて、ピアスいっぱいして、ものすごく日焼けしてた」
「完全にコギャルだな。健一も高校別になってからはさっぱり会ってないな。この前おふくろが平日の午前に商店街で見かけたって言ってたぜ。学校ちゃんと行ってんのかな?」
「祥子ちゃんは5年生のとき北海道に引っ越しちゃってから、一回手紙来ただけで連絡ないよね」
「あいつデブだから向こうでイジメられてないか心配だな」
「あの子は明るいから向こうで友達いっぱい作ってると思う」
「孝治はそろそろ3回忌か」
「うん……」
 あれだけ仲の良かった7人組みもバラバラになって今じゃ3人だけになっちまった。雅史もサッカー部の仲間とつるむことの方が多くなった。あかりもいつか大切な人を見つけて俺の側を離れて行くのだろうか? 矢島みたいのに……。その時俺はあかりを笑って見送ることが出来るのだろうか? その時俺はあかりの幸せを願うことが出来るのだろうか? ……出来ない。俺はあの時、矢島からあかりを紹介してくれと頼まれたとき気づいてしまった。あかりの微笑みが、あかりの愛情が他の男に向けられるのが嫌なんだ。あかりの髪や頬を他の男に触れられるのが嫌なんだ。あかりの口唇や柔肌に他の男がくちづけをするのが堪らなく嫌なんだ! あかりは俺だけのあかりでいて欲しいんだ! でもこいつは最近どんどんきれいになって行く。俺なんかよりずっといい男があかりをさらって行ってしまうかもしれない。そんなのは嫌だ!
 あかりを俺だけのあかりにするんだ……。
 俺はあかりの肩を掴むとぐいっと引き寄せた。
「ひゃっ」
 あかりはびっくりした声を挙げて俺の胸に倒れ込んできた。あかりが俺の顔を見上げる。俺の真意を測れなくて不安な表情を見せる。あかりは絶対拒まない……。
 俺はあかりのあごをツイと上げるとそのまま口唇を奪った。
「んんっ」
 あかりは身をよじったが俺が口唇を奪い続けているとやがてそれも止めた。口唇を放すと、あかりは目を伏せて全身が脱力してる感じだった。俺はあかりの背中に手を廻すとそのままソファーに押し倒した。
「きゃっ……」
 あかりの膨らみに顔をうずめ、左手でそれを揉みしだいた。しかし生地の厚いセーラーのせいで手のひらには感触が伝わらなかった。俺はセーラー服を胸の所までたくし上げた。あかりの白い肌に水色のブラジャーが網膜に突き刺さった。甘い香りが増す。俺は両手で布一枚で覆われた乳房を揉んだ。心臓がバクバク言って、汗が噴き出てくる。俺はブラジャーの一番下に手を掛けるとぐっと引っ張り上げた。
「ん!」
 ぷるんと白くて丸いかたまりが目の前に現れた。あかりのおっぱいだ。白い丘陵に赤い頂があった。俺は吸い込まれるように乳首に吸い付き強く揉みしだいた。
「い、痛い……」
 むしゃぶりつくように両の乳房を口に含む。この世のものとは思われない柔らかさが口の中を満たす。
 はっと何かに気づいたように乳房をしゃぶるのを止めると、俺はスカートの奥に隠された部分を凝視した。もう一個所残っていた。あかりが俺の視線に気付き両手で自分の股間をスカートごと押え込んだ。俺はその手を払いのけスカートの中に手を突っ込み腰骨の所にあったパンツの縁に指を掛けた。思いきり下にさげようとしたが全然下りない。さらに力を入れて下ろそうとする。
「お願い……。乱暴にしないで」
 あかりが身を左右によじった時、一気に下までパンツを下ろした。あかりがふとももをぴったり閉じたままだったが、両膝を力で押し広げると、ゆっくりとその秘められた扉が開いていった。あかりが自分の手で顔を隠す。逆三角形の黒くちぢれた恥毛の下に赤黒いものがあった。生まれて初めて見た女の生殖器だ。幾重にも折り重なった肉の襞があり、その合わせ目に豆のようなものがあった。俺は我も忘れてそれにむしゃぶりついた。鼻をチーズのような匂いが突いた。舌をベロベロと辺りかまわず舐め回した。特に赤い蕾は執拗に舐めた。
 しかし穴はどこだ! 俺はあかりのまたぐらに頭を突っ込んで最後の秘境を探した。……あった。赤い襞の一番下、肛門の少し上の所にその洞窟はあった。俺は夢中で舌を突っ込もうとした。
「うっ!」
 舌に酸っぱいようなしょっぱいような味が広がる。しかし何かに舌が当たって中に入らない。くそっ! こうなったら入れるぞ! あかりの最初の男になるんだ! 俺のものをあかりの中に突っ込んで、すべて俺のものにするんだ!
 カチャカチャとベルトを緩めるとズボンと一緒にトランクスを下げた。ペニスを手にとってあかりの処女を奪うべく、自分の腰をあかりの両膝の間に割り込ませた。
 …………。
 しかし俺はそこで呆然とした。……俺のペニスが全然勃ってなかった……。こ、ここまで来て……。自分の手で擦っても、あかりの膣口に当てても変化はなく、ただうな垂れて下を向いているだけだった。ガラガラと俺の心の中で何かが崩れ落ちていった。
 窓ガラスに俺の姿が写っているのに気がついた。血走ってカッと見開いた目は人間のものじゃなかった、獣の目だ……。俺は恐る恐るあかりを見た。
「うっ……、グスッ、うっ……」
 両手で顔を覆ったまま声を殺して泣いていた……。
「俺は……俺は……、うわーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
 俺は全速力で二階に駆け上がり、自分の部屋に飛び込んで、ベッドに体を叩き付けた。俺はなんてことをしてしまったんだ! あかりになんてことをしてしまったんだ!! 俺は、俺はあかりのことを好きでもなんでもなくて、ただ性欲を満たすためのおもちゃだと思っていたんだ!! 俺が一番醜いと思ってる男に成り果ててたんだ!! 俺はクソ野郎だ! クソ野郎だ! クソ野郎だ!!
 …………。
 しばらくして一階で玄関のドアが静かに開いて静かに閉まる音がした。しかし俺はふとんの中で自分に呪いの言葉を吐き続けていた。

 俺は普段と比べると異様なほど早く家を出た。早く目が覚めたからではない。眠れなかったのだ。しかし直接学校へは行かず城山公園のベンチに腰掛けて何をするでもなくぼうとしていた。あのまま家にいてはあかりが来るかもしれない。もう来ないかもしれないが……。それを確認するのも嫌だ。あかりには会いたくない。さりとて学校に早く行っても雅史とかに顔を合わすことになってしまう。とにかく、誰にも、会いたく、ない。
 まだ昨夜のことが頭の中でフラッシュバックする。あかりの白い肌、赤い襞。勃たなかった俺、獣のような目をした俺。声を押し殺して泣いたあかり……。怒りと後悔とやるせなさと悔しさと情けなさと自嘲と喪失感とがごちゃごちゃになって吐き気をもよおす。俺はあかりを自分のものにするために犯そうとしたんだ。これじゃ子供が友達のおもちゃが欲しいから盗ろうとして、それを壊してしまうのと同じじゃないか。しかも俺はあかりの俺への気持ちを利用した。そうだよ、中学の頃から薄々解ってたんだ。でも好きになられることが気持ちよかったから、俺はあかりの気持ちに答えを出さずに放って置いたのさ。エゴイストだ。しかし最近女っぽくなってきたあかりを見て俺のヘドロのような性欲が頭をもだげて来た訳だ。いつでもセックスさせてくれる都合のいい安全牌が横にいるぞってね。でもちょっとあかりがもてるって聞いた途端、焦ったわけだ、誰かに獲られるってね。それでレイプだ。けっ、情けねえ。おまけに、ことに及んで押し倒したはいいが勃つものが勃たねえと来たもんだ。クソ野郎にはお似合いだ。あれではっきりしたぜ。俺とあかりは男と女の関係にはなれねえ、生まれた頃から兄妹同然で一緒に育った幼なじみだ。そうだよ、だから俺の理性がブレーキをかけたんだ。「おい、浩之。お前は妹同然の幼なじみを凌辱するのか?」ってね。でも……俺はあかりの心をズタズタにしちまった。俺にはあかりの望むような愛し方は出来ない……。男として、お前の望む恋人として、お前を愛することは出来ない……。だからさ、もうお前を俺の束縛から解放してやるから、新しいヒトを見つけて、新しい恋をしてくれ……。
 俺は顔を上げて空を見た。今日も曇りで厚く重い雲が一面に立ちこめていた。
「学校……さぼろかな……」
 いや、それだけはダメだ。俺はあの時迷惑を掛けたみんなに約束したんだ、ちゃんと学校行って、ちゃんと卒業するんだって。腕の時計を見ると遅刻ギリギリの時間だった。俺は少し痛くなった尻を上げて学校へと向かった。後ろに伸びる影が足枷のように重たかった。

 「ちょっといいか? 矢島?」
 面食らった顔で矢島が俺を見る。
「話があるんだ。付いて来てくれないか?」
 少し緊張の色が見えたが矢島は言うとおり俺の後を付いて廊下に出た。
「ビックリさせんなよ、藤田。で?」
「あかりを紹介してやる」
「マジ?」
 ぱっと喜びの表情が浮かんだがすぐ疑う目になった。
「昨日お前、神岸さんと付き合ってるって言ったじゃん」
「あれは……、嘘……だ」
 俺は喉から絞り出すようにこれだけ言った。矢島が「それマジー? なんだよー、嘘かよー」などと言っていたがあまり聞き取れなかった。
「講堂へ行く渡り廊下で待っててくれ。あかりを連れていく」
 と伝えて俺はC組に行った。
 C組の前に立つ。恐る恐る内を覗くとあかりが独り席に座り、机に両肘を突き、組んだ両手に額を当て、まるで何かに祈っているようにじっとしていた。しかし俺の視線に気が付くとパッと明るい顔になり俺の元へ駆け寄ってきた。一瞬俺は逃げようと思ったが、俺は決心したんだ、逃げずにあかりが来るのを待った。
「浩之ちゃん、昨……」
「あかり、話がある。付いて来てくれ」
 俺はあかりの言葉を聞かず背を向けるとずんずん歩き出した。あかりが慌てて後を付ける。二人とも無言で歩くと講堂前の渡り廊下に出た。
 歩みを止めた俺はゆっくり息を吸い込んだ。
「矢島、あかりを連れてきたぞ」
「!!」
 あかりの顔に驚愕の表情が走る。柱の影で隠れるように待っていた矢島が緊張と喜びの混ざった赤い顔でこっちにやってくる。
「どうして? どうしてなの? 浩之ちゃん」
「俺じゃダメなんだ。でもあいつは良い奴だ。気が好くて明朗快活で俺よりよっぽど良い」
「私は……!」
「お、幼なじみのし、幸せを願うのはと、当然じゃ、ねえか……」
 瞬く間にあかりの表情が曇る。矢島がうわずった声で告げる。
「神岸さん。前から好きでした。俺と付き合ってください!」
 頬の上気している矢島に向かって、あかりが悲しみを湛えた目で言った。
「私……好きな人が……います」
「その人は神岸さんのこと好きなのか?」
 心に大きな衝撃が突き刺さったのをグッと堪えてあかりが口を開く。
「……そうだと思ってたけど……解んなくなっちゃった……」
 俺は胸をバリバリ爪で掻きむしられるような気がして背中を向けた。
「だったら、俺にもまだ望みがあるってことじゃん。そいつよりも俺の方が神岸さんを好きでいる自身があるから、絶対俺のことを好きにならせてみせるから、最初は友達からでもいいから、俺と、俺と付き合って下さい!」
 もう聞いてられない。俺は二人に背を向けたままこの場を去ろうとした。
「あ……」
 あかりが俺を呼び止めようとしたが、俺は止まらなかった。渡り廊下を出る頃後ろで矢島が「バンザーーイ!!」と叫ぶ声が聞こえたが、俺は振り返らずに教室に帰った。これでいい。これでいいんだ。俺の側ではあかりは幸せになれない。だからこれでいいんだ。あかりのためだ。あかりのために……俺はあかりを捨てたのだ。

第6章『あふれる想い』に続く


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