(6)あふれる想い

 HRが終わるとクラスの奴らははやる心を押さえ切れずに足早に教室から飛び出していく。それはそうだ、明日は終業式、後一日出れば半月ほどの休みに入るんだからな。中村先生が俺を見て、後で職員室に来るよう言った。矢島が俺に近づいて言葉をかけた。
「藤田、今日な神岸さんと一緒に帰る約束したんだ。恩に着るぜ。じゃあな」
 俺は喉の奥を震わせるだけの返事をした。続いて雅史が俺の所に来る。
「浩之、どうしたの? 今日の浩之なんか変だよ」
 変じゃない。
「なにかあったの? 僕に話せることだったら言ってよ」
 なんにもないって!
「……いつでも相談に乗るから、僕は浩之の味方だからね」
 俺は雅史を放って教室を出ようとした。そこに血相を変えた志保が飛び込んできた。
「ちょっと! ちょっと! どうなってんのよ! あかりがあんたのクラスの男子と一緒に帰っていったわよっ!」
 うるせえな! 解ってるよっ!
「ヒロ……。どうしたのよ、あかりとなんかあったの? あんた絶対変。まるで中学の頃のヒロみたい……」
 そんなに俺が怖いかよっ。だったら構わないでくれ! 俺は雅史と志保を押しのけて廊下に出た。二人がこわばった表情で顔を見合わせたが、俺にはどうでも良いことだ。

 太陽が一番南に昇ってから少し経った。俺はクラブに参加する奴以外もう誰もいない校舎を独り歩いていた。うつむいて自分の足が右、左と交互に出ているのをただ眺めていた。
「藤田君、ちょっとええか?」
 足を止め、眼球だけを動かして声のした方向を見ると、腕組みをして壁にもたれ掛かった委員長がいた。冷ややかな目をしている。それは彼女の切れ長の目のせいだけではなかった。
「屋上で話せえへんか?」
 屋上に出ると厚い雲の切れ間からぼやけた太陽が姿を見せていた。俺はベンチに不愉快を全身で表すかのようにドカッと座った。委員長はフェンスに手を掛け、外の景色を見ていた。
「今日曇ってて良かったわ。今の時期晴れとったら黄砂で遠くがきーろー霞んでまうからなあ」
 で、なんか用か?
「……まあええわ。あんた進級できんのか? 今日担任から連絡あったんちゃうの? 一応うち、あんたの先生したんやからな、知る権利あるんとちゃう?」
 ……期末が良かったらしくてな、明日からの補習を受けたらちゃんと2年になれるってよ。
「よかったやん。仮進級とかになったら悲惨やからな」
 しばらく沈黙が続く。用が済んだなら帰……。
「なあ、あんたここからの景色好きか?」
 何言い出すんだ、この女は?
「うちは好きや、ここからの景色なあ、神戸によう似とるんや。うちの中学も山のてっぺんにあったから窓から外を見ると、こんなふうに街が見渡せたんや。まあ向こうのは遠くに海が見えとったけどな」
 彼女が自分のことを話すのは初めて聞く。
「それがあの時や、あの時一瞬でめちゃくちゃになってしもうたんや」
 あの時?
「地震や。阪神淡路大震災や。それまで夜景なんかきれーやったんや、こう宝石箱をひっくり返したみたいにキラキラしてな。でもあの日から夜は真っ暗になってしもた。ちょっと光が見えると思うたら、それは火事で家が燃えとる所やった。だいぶ元に戻っとーけど、今でも夜景の中に癌みたいにベタッと黒い所が残っとる」
 俺はテレビでしか知らない……。
「その時な、うちのお父ん(おとん)崩れた家の下敷きになって死んでしもてん」
 …………。
「なんかが爆発したんかと思うた程のすごい揺れが来たのは覚えとーけど、その後気が付いたら崩れた家の外に立っとった。どないして外に出たか全然思い出せん。裸足で全身砂埃で真っ白や。そしたら瓦礫の中からお母ん(おかん)が埃を頭からかぶって泣き叫んどんや。『お父うはんが! お父うはんが!』すっとんで行ったらなあ、左手だけがぴょこと出とってな、お母んがその手を気が狂うたみたいに引っ張っとんや。『智子ー! お父うはんが! お父うはんが!』うちもその手を引っ張ろうと触ったんや。微かに痺れるみたいに震えとった。それがビックリする程冷とうてな、日に焼けた熱うておっきい手やったのに、ろうそくみたいに真っ白やった……。それもだんだん固とうなってきてな……。うちも『お父うちゃん!!』て何回も呼んだんやけど……、近所の人に助けてもろた時は変なカッコで固まってしもて、元に戻らんかったわ。でも顔が穏やかやったから苦しまんで済んだんがせめてもの救いやって……、ぐすっ。」
 下を向いていた委員長がぐっと天を見上げた。俺は委員長の背中を見てるだけだった。
「で、命からがら小学校の体育館に避難したんや。そこで友達に会えた時は抱き合ってオイオイ泣いたわ。あんたも知っとーやろ? 優子と哲也や」
 ノートに寄せ書きを書いてた二人だろ?
「そや、二人とは生まれたときから一緒やったうちの幼なじみや。その後仮設(仮設住宅)に移って、お母んもショックからまだ立ち直っとらへんのにうちを食わすためにパートに出てくれてん。周りはそんな人ばっかりやった。そやからうちも優子と哲也の3人で一緒の高校行って、一緒の大学行って、ずっと神戸で頑張ろなって誓い合ったんや。
 けれどお母んが親のツテで、うちの母方のお爺はんやな、こっちに仕事見つけたんや。それでうちだけ神戸から逃げるようにここに引っ越して来たんや」
 おふくろさんの決めたことだ、仕方ないよな。
「うちもそう思とったけど、こっちの人間は冷たかった。自分らが田舎もんの寄せ集めみたいなもんやからコンプレックスあるんか知らんけど、東京もん以外を異常にバカにしよー。東京の中でも何々区がダサイとか言うてバカに仕合っとる。アホや。
 うちはこんな性格やからあっと言う間にクラス中敵に回してしもたわ。関西弁を『漫才言葉』ちゅうたり、うちが神戸出身やて知ったら『地震がうつる。』とかな。表から裏からけっこうやられたわ。
 でも『神戸にうちの帰る所がある。大学は神戸に行って、就職もそこでして、神戸で暮らす。優子と哲也がうちを待っててくれてる。そやから高校までは石にかじりついてでも堪えてみせる』って思とった」
 そうか、中学からつっぱってたんだな。
「人を不良みたいに言わんとって。……でもな一ヶ月程前優子と電話で話とった時な、ぽろっと『親のいない時に哲也の部屋で、』って言いよってな、問いつめたら半泣きで『ごめん智子、うち哲也と付き合(お)うてんねん』て白状したわ。お互い好きやったんやけど、その気持ちが『好き』やなんて気付かんかったんやって。
 うちがおらんようになって、お互いがどっか行ってもう逢えんようになることを考えたとき自分の気持ちに気ぃ付いたんやって。そやから二人が付き合い出したんは、うちが引っ越してすぐちゅうことや。
 ……ショックやったわ、二人が付き合っとることより、今までそれを隠しとったことより、うちが二人のおじゃま虫やったゆうことがショックやった。いつまでも3人一緒やと思とーたのはうちだけやったんや。『もう神戸にも帰る所のうなってしもたわ』って思たら、自分の中で頑張って守ってきた城塞が唯の瓦礫になってしもたわ。言うたら、うちは二人に失恋したんやな。
 あの日からうちは独りになると思い出したように泣いとったわ。自分の部屋で泣いて、お風呂で泣いて、学校のトイレで泣いて、図書室の本棚の影で泣いて……。
 だからあん時イジメられたんはこたえたわ。もうなにもかも嫌になってしもた。それでなあ、あのノートを破こうとした時な、破いた後……ここから飛び降りたろと思とってん」
 くるりと委員長がこっちを向いた。少し赤い目をしてにっこり微笑んでいた。
「うち神戸に戻るつもりやったから、勉強ばっかりして友達とか作る気なかったんや。東京もんは嫌いやったしな。でもそれじゃあかんかったんや、自分の殻の中に閉じ籠もっとったら中で腐ってしまうんやって解ったんや。
 思ーたら、うち今まですっごい嫌なやつやったんやろな。
 考えてみー、こっちで友達出来たら神戸と東京の両方に友達がいることになるやんか。それでみんなが大学とか就職とかで全国に散らばったら、それこそ日本中に友達がいることになるんやで、なんかすごいことやと思わんか?
 ……そんなふうに思えるようになれたんはあんたのお陰や。
 最初あんたのこと唯のお節介屋と思うた。でも、それがホンマの優しさからやて解ったら、東京もんにもこんなやつがいるんやなって思った。言葉もけったいな東京弁やしな」
 くすくす笑うなよ。おふくろが亀有の下町で育ったちゃきちゃきの江戸っ子なんだよ。おふくろが言うには、俺のはいろんなのが混じっちまった変な下町言葉なんだってよ。
「くす、そうか。言うたらあんたもここじゃ異邦人って訳か」
 かもな。
「ついでに教えとったるわ。実はな、あんたな哲也によう似とるんやわ。いや見た目やのうて、性格がな……。人付き合いが苦手で他人と距離を取ろうとするくせに、いつも人を恋しがっとる。けどそんなこと表に出すのが照れくさいから、普段は人を突っぱねとる。で、そんな自分が嫌いなんや……。
 あんたも自分のありのままの姿をさらけ出してみ、ちゃんと解って受け止めてくれるひとがきっといるはずや。
 自分に素直になりー。殻の中で腐ってまうで」
「俺は……」
 委員長は大きく背伸びをして言った。
「うーーーん、言いたいこと全部言うたらすっきりしたわ。かんにんな、長い話に付き合わせてもうて。でもあんたら3人見てると、うちと優子と哲也のことが重なってどうしても気になってしまうんや。
 あーあ、どっかにうちだけを好きになってくれる人はおらんのかなー」
 委員長は小走りで俺の横を通り過ぎ、校舎の中へと入っていった。フェンス越しの景色は俺には遠くが澱(よど)んで見えた。俺はまだこの景色をいい景色とは思えなかった。

 重い足取りで家路をたどっていたら知らないうちに家を通り過ぎていた。……なにやってんだ俺。完全にボケてやがる。引き返そうとしたとき、聞き覚えのある声に反応して思わず歩みを止めた。振り返るとそれはあかりと矢島だった。俺は慌てて角を曲がり電柱の陰に隠れた。息を殺して二人が通り過ぎるのを待った。
「……な、俺の言った通り、あそこのクレープ屋旨かっただろ?」
「神岸さん遠慮してんの? クレープおごるくらいラクショーだぜー」
「だって俺、神岸さんのことラブラブだからさー」
 あかりが無表情と愛想笑いを交互に浮かべていたのは俺の思い違いだろうか。……苦しい、息が出来ない……。俺はどうしてこんなに苦しいんだ? あかりにとって良いことじゃねえか。矢島はあんなにもあかりに好きだってアピールしてるじゃねえか、自己主張の弱いあかりとバランスが取れてる。あかりとっていいことだ。
 ……だから俺のことはもういい。二人の姿が見えなくなっても俺は家に帰る気になれず、城山公園へと向かった。

 もう夕方だっていうのに、俺はまだ城山公園のベンチに座っている。何時間くらいたったのだろうか? もう考えるのにも疲れて、真っ白な脳味噌でただ時々通り行く人の様子を見ていた。
「ジャンケンポイ! チ・ヨ・コ・レ・イ・ト!」
 子供達が『グリコ』をやっている。じゃんけんで勝った者だけが前に進める遊びだ。グーで勝てば『グリコ』で三歩、チョキで勝てば『チョコレート』で六歩、パーで勝てば『パイナップル』で六歩だけ進める。
「じゃんけん、ぽい! 私の勝ちー。グ・リ・コ」
「じゃんけん、ぽい! あいこでしょ! 僕の勝ちー。パ・イ・ナ・ツ・プ・ル」
「じゃんけん、ぽい! また私の勝ちー。グ・リ・コ」
「おーい、なんで俺だけ勝てねえんだよー」
「浩之がじゃんけん弱いからだよ」
 なぜかじゃんけんだけは二人に勝てなかった。だからこんな遊びをすると俺はいつもビリッケツだった。雅史はどんどん先に行ってじゃんけんが出来ないくらいぶっちぎりで、あかりも常に俺の2,3歩前だった。子供心ながら悔しかった。
 実は後であかりに教えてもらったことだが、俺のじゃんけんするときの腕の振りがグー、チョキ、パーで全然違うんですぐ解ったそうなんだ。俺が何を出すかバレバレだったということだ。とすると、あかりもその気になったら雅史みたいに俺と圧倒的な差を付けれるはずだよな。そうじゃなかったのは手心を加えていたのか? ……あかりらしいよな。
 そろそろ夕暮れが迫り街灯がまだらにつきだした頃、ティム、ティム、ティム、とリズム良くボールを蹴る音が響いた。誰かがサッカーボールでリフティングをしている。足だけじゃなく膝、頭、胸を使ってボールをつないでいく。なかなか上手い。あ、失敗した。ボールがコロコロと転がってきて俺の足に当たって止まった。
「どうもすいません。……浩之じゃない」
 リフティングをしていたのは雅史だった。スポーツウェアを着ている。
「雅史、お前練習した後もやってんのか?」
「浩之こそこんな時間まで……。制服のままじゃない」
 雅史が言葉を飲み込んだ。一瞬会話が途切れる。
「そうだ! 浩之。リフティングやって見せてよ。ね、僕見たいよ。浩之のリフティング」
 ボスッと俺の胸にボールを押し込む。いつもひょうひょうとした顔をしている雅史が穏やかさの中に厳しい表情を見せた。こんな顔の雅史はほとんど見たことがない。それだけ真剣ってことだ。
「しょうがねえな。久しぶりにやるか」
 それを聞いて雅史が子供の頃とまったく変わってない笑みを浮かべた。
 俺は学ランを脱いでベンチの背に掛けるとブラウスの裾をまくった。俺はボールをリリースすると右足の甲でボールを蹴り出した。一回、二回、三回、四回、五回、六回、七あっ、ボールが大きく逸れてリフティングは七回で終わった。
「もう一回やってよ」
 雅史からボールを受け取るともう一度やってみた。……今度は十九回で失敗した。
「もういいぜ雅史。ボール返すわ」
「やっぱりすごいよ」
「なに言ってんだ。お前さっき五十回以上やってたじゃねえか」
「でも運動全然やってない人がいきなり二十回近くやるなんて、少なくてもクラスじゃ他に誰もいないよ」
「志が低いぜ。だいたい雅史は俺を買い被り過ぎだ」
「だって浩之は子供の頃から僕の憧れだったんだ。強くて優しくて、ちょっとシャイだけど面倒見が良くて。それに運動は得意だし、勉強も良くできて」
「だから、小学校の時の俺を理想化すんなよ。今の俺は……ただのバカ野郎だよ」
「今だって浩之は僕の理想だよ。僕は浩之になりたい」
 どうして、そこまで……。
「不思議とね、僕が好きになる娘はみんな浩之を好きなんだよね。好きになるタイプの娘が浩之のことがタイプなのか、浩之を一途に思っている娘が僕のタイプなのか、一時期真剣に悩んだことがあったよ。知ってた?」
 いや……。
「たぶん嫉妬だと思うけど、中学、高校となるにつれて浩之みたいになりたいという気持ちは強くなったよ。だから浩之は僕の為にも理想でいてくれなきゃいけないんだ」
 おいおい、やめてくれよ。
「強いて欠点をあげれば、自分がその人にとって良かれと思った事が本人のして欲しい事かどうか考えずにやっちゃう所かな?
 だから一度、そうする前にその人がそれを本当に望んでいるか考えてみてよ。自分の頭の中で思った『その人にとって為になる事』じゃなくてさ。その人が『本当に浩之にして欲しい事』はなんだろうかって、心をいっぱいに広げて感じてみてよ。で、それが解ったら自分の考えと少し違っててもやってあげなよ。そうしたら、それが浩之が本当に望んでる『その人が喜ぶ事』になるからさ」
 喜んで欲しい人が本当にして欲しい事……。
「頼むよ。浩之を好きな娘達はみんな僕が好きだった娘だってことを忘れないでね。どんな形でもいいから絶対悲しませちゃダメだよ」
「雅史……どうしてお前はそこまで俺にかまってくれるんだ?」
 雅史は曇りひとつない笑顔になると、
「だって僕たち親友じゃないか」
 と言って俺の肩をポンと叩き、ボールを抱えて帰っていった。
 喜んで欲しい人が本当にして欲しい事……。
 心の中にぽちゃんと落ちた雅史の言葉が波紋を作って広がっていった。

 校長の垂れ流す訓話とやらを聞かされた後、教室に戻り通知表の他たくさんのプリントを貰った。しかしなんだ、校長の話ってどうしてあんなにつまらんのだ。あんなに大威張りで説教するならもっと人を引き付ける話術を身につけろってんだ。
 通知表はまあ事前に見せてくれたから知っていたが、赤点+1だ。補習を受ける条件で貰ったお情けだ。しかし春休みは良い。俺には補習があると言え、2年生でも同じ教科書を使う科目を除けば、宿題がないからな。気楽な3週間だ。それにあかりにも会わずに済む。
 中村先生が締めの言葉を言っている。2年からは文系と理系とに分かれる。だからこのクラスの奴らもバラバラになる。「良い春休みを送るように」と中村先生が言うとこのクラスも解散だ。教室が急に騒がしくなり、そそくさと帰る奴、他の連中と名残を惜しむ奴、春休みにどこに遊びに行くかの算段をするやつ、みんな軽い興奮を押さえようとはしていなかった。
「なあ、藤田よ。今日、神岸さんと出掛ける約束したんだけどよ。どんな所行ったら彼女喜ぶ? 教えてくれよ」
 ぴーんと、ネジが一本飛んだ。
「うるせーなっ! いちいち俺に聞きに来るんじゃねーよっ!!」
 教室中が静まり返る。みんなが驚いて俺を見ている、矢島も青い顔をしている。……じゃあな、あばよ。
 ずんずんと廊下を歩いている時ふと窓の外に校門から生徒がぞろぞろ出て行くのが見えた、けどそれを監視するようにうちの生徒じゃない奴らが二人原チャリ(原付バイク)にまたがってコソコソなにかしゃべっていた。よく見ると少し離れて二人、別の所でもう三人道端に座り込んでいる。あの時を思い出させる光景だ。しかし俺には身に覚えはない。なんなんだあの連中は? 少し気になるが俺は補習を受けなくちゃならない。急ぐか……。
 うちの学校では定期テストが悪かった生徒を集めて補習を行う。だいたい十人から二十人位だ。教科は数英国理社の五つで、理科と社会は選択科目によって教室を分けられる。全部出席する必要はない。出る教科は事前に担任から指示される。まあ俺は全部だけどな。今日は英語だ。ちなみに俺の知ってる奴に頭の悪い野郎がいて、英語の補習を受けたことがあるんだが、補習を受けている男子の半分が自分と同じラグビー部の仲間で笑ったことがあるそうだ。後に「『バカビー部』に箔をつけてやったぜ」と威張っていやがった。付け加えると補習の内容もチンプンカンプンだったそうだ。こんな奴を三年で卒業させるんだから高校教育もたいしたことないな。
 補習を行う教室に入るとすでに何人かが席を埋めていた。うーん、どの席に座ろうかな。あ、あの席がすげー気になる。まるで俺を呼んでいるみたいだ。ちょうど後ろの席だしあそこにするか。俺は机の上に鞄を置いてその席に着いた。教科書やらを広げていると空っぽのはずの机の中に一通の封筒があるのに気がついた。
『藤田浩之様へ』
 と、表書きされてあった……。なぬ? き、気味が悪いな……。まるで俺がこの席に座るのが判ってたみたいじゃないか。イタズラかな……。横の席を見ると何も入ってない。この席を狙い撃ちか? ますます気味悪い。差出人が書いてない。封筒をかざしてみる。便箋が一枚入っている……。手紙爆弾じゃなさそうだ。
「はろはろ。ヒロも補習?」
 何だ志保か。おいこら、なに隣の席に座ってんだよ。
「いいじゃない。どこに座ろうと私の勝手。それよりさ、この手紙なに?」
 いやちょっとな。あっ、なにすんだよ! 返せよっ。
「ひょっとしてラブレター? ヒロも隅に置けないわねー。どれ、志保ちゃんが代わりに読んであげる」
 や、やめろよ。しかし志保は封を開けて中の便箋を取り出すとそれに目を通した。
「…………」
 どうしたんだよ。
「……つまんない、返す」
 手紙を俺に突っ返してきた。なんだっていうんだよ。隅に黒猫のイラストがある便箋を見ると文字ではなくて記号が並べられていた。……なんか意味があるのか?
「なになに。前略、藤田様……。どわーっ!」
「ちょ、ちょっと、ヒロ。読めんのそれ?」
 志保が驚いているが、俺だって驚いてる。
「いや、読めないんだが、なんとなく意味が……。

 前略 藤田様
 本日、私どもの部室でお待ちしております。
               かしこ 来栖川芹香
 追伸 私ずっと待ってます。


……て、書いてある、ような気がする」
「こ、この手紙も気味悪いけど、あんたの方がもっと気味悪いわよ」
「いや、頭の中に先輩が浮かんできて、こういつものように話し掛けるんだよ」
「部室って言ったらオカルト研究会よね。行くの?」
「うーん、行こうかと思ってる」
「えーっ、やめなよ。それより私と一緒に帰らない? 行ったら黒魔術の生け贄にされちゃうかもよ。胸をこうナイフでズバーッと切ってさ、心臓取り出してサタンに捧げられちゃうのよ。ああ、不幸なヒロ。もしもの時は追悼記事書いてあげる」
「いらねえやい。ここに『ずっと待ってる』って書いてある。ほっとくと先輩のことだから新学期始まるまで部室にいるぜ。なんなら一緒に来るか? もしかすっと黒魔術のライブを見れるぜ、生け贄付きの」
「ぶるぶるぶる。遠慮しまーす」
 ここで英語の先生が入ってきた。志保も話をやめて俺の隣に座った。結局俺の隣に座るのかよ。

 なんだかんだで補習は終わり。つまんない授業だったぜ。何をしたかって言うとプリントの練習問題を解くのとそれの答えあわせだ。あんまり退屈だったんで、俺と志保は答えをカンニングしあったり、消しゴムのカスを飛ばしあったりして、ほとんど授業を聞いてなかった。
「ホントに行くの?」
「ああ、行くぜ。じゃあな」
 俺は文化系クラブの部室が集められている北館の二階へと向かった。廊下を歩きながら外を見ると朝よりも雲が低く立ち込めていた。二階の一番奥にオカルト研究会の部室があった。扉の前に立ってひとつ深呼吸をする。なんだか緊張するなあ。手のひらに汗かいてやがる。俺はズボンで汗を拭うとドアをノックした。
 コンコン。
 室内で人の気配が動く、確かに誰かいるみたいだ。
「入ります」
 ドアを開けるといきなり目の前に暗幕があってビックリする。内を暗室にしてるんだな。俺はドアを閉めてからその暗幕の内側に入った。……案の定中は真っ暗だった。何も見えないが足元に絨毯が敷かれてあるのは感触で分かった。そして室内には部員が数名いるらしく、部屋の四隅に一人ずつ立っている気配がした。次第に目が慣れてくると部屋の中が本棚と小さな机二つと数脚の椅子以外になにもないのがなんとなく分かった。
 物音一つしない暗闇の一角に明かりが灯る。ろうそくに火がつけられたのだ。今度は暗いのに慣れてしまったせいか、眩しくて目を背ける。そのろうそくが乗せられた燭台がアンティークな机の上に置かれると、揺れる炎が机の横に腰掛けていた一人の女性の顔を浮かびあがらせた。来栖川先輩だった。静かな目で先輩は俺を見ていた。こんな状況で先輩を見るとこの人の神秘性がさらに強調される。静かだ……。ふと後ろに椅子が置かれた。誰かが座るよう勧めてくれたみたいだ。そして先輩の横にある机と同じものに一杯のお茶を添えられて俺の横に出してくれた。
「あ、すいません」
 お茶を口に含むと不思議な甘さを感じた、花祭りの時に飲む甘茶に似ていた。残りを一気に飲み干すとテーブルに湯飲みを戻した。
 湯飲みをテーブルに置く音を最後に再び沈黙が辺りを包む。……たくさんの本棚が壁にもたれかかっている。せっかくの窓もこの本棚で潰されている。そして僅かに見える壁にはタペストリーが掛けられている。しかしこのタペストリー暗くてどんなのが描かれているのか解らない、絨毯もそうだ。部屋の隅も光が届かず、ロウソクを灯す前と変わらずに深い闇が俺を飲み込もうと周りを取り込んでいた。俺に椅子を勧めてくれただろう人も部屋の隅に戻ったきり身じろぎひとつしないでじっと立っている。堪りきれずに口火を開く。
「今日は……今日は部活の日だったのか?」
 コクン。
「え? 今日は降霊の儀式をする? す、すげえな」
 先輩が香炉に火を入れる。するとたちまち部屋中が不思議な香りに満ちた。なんか体の芯がポワンと柔らかくなる香りだ。
「でも、オカルト研って先輩以外にも部員がいたんだな、知らなかったよ。……え? 彼らは幽霊部員だって? ははは、うまいこと言うな」
 ろうそくがジジジと音を立てた。
「で、今日はその降霊会を見学させてくれるのか? え? ……参加する!?」
 ちょっとそれは勘弁して欲しいな。俺帰るよ……あれ? 体が動かない……。
「……え? さっきのお茶にリラックスできる秘薬を入れた? あの……ちょっとリラックスし過ぎてるんですけど……」
 先輩はどこから出してきたのか黒い三角帽子とマントを身につけると、ゆっくり俺に近づいて来た。懐から出した二枚貝のコンパクトを開く。そして小指で内にあった紅をすくうと先輩の口唇にすっと引かれた。いつか先輩に届けたあの古ぼけた本を開くと、先輩は呪文のようなものを唱え始めた。お、俺生け贄にされちまうのか? 先輩は椅子に座ったまんまの俺の前に来ると、腰を落として俺と同じ目の高さになった。逃げ出したかったが俺の体は自分のものではないように言うことを聞かなかった。先輩はまだ呪文を唱えながら両手で俺の頬をそっと包んだ。一瞬冷たいと思ったが、皮膚に伝わる優しい手触りで俺の緊張はどこかに解けていってしまった。末期の牛とかが急におとなしくなるのと一緒なのか? 呪文を唱え終わると、先輩が俺の頬に手を添えたまま目を閉じ顔を接近させてきた。息が止まる。そっと来栖川先輩は俺の額に優しくキスをした。額に柔らかくて熱い感触がして、触れられた口唇の形がそのまま頭の中に染み込んでいく気がした。それからいつの間にか近寄っていた四人の部員に両手両足を持たれると部室の絨毯の真ん中に大の字に寝かされた。寝かされて初めて絨毯に何の模様が描かれているのが解った。これは魔法陣だ。それもあの本に書いてあった『返魂、死者召還』の魔法陣だ。先輩が俺の枕元に両膝を突いて座る。先輩はかごを手にしていて、その中には桜の花びらがいっぱいに詰まっていた。
「先輩、俺死んじまうのか? ……似たようなこと? それに手遅れになったら本当に死ぬ? ……どういうことだい?」
 先輩は桜の花びらを俺の額、両手首、両足首にまるで絨毯に縛り付けるかのように撒いた。実際くさびでも打ち込まれたようにぴくりとも動かなくなった。先輩に横から30cm位の細長い物が手渡される。手渡した部員が誰なのかやっぱり判らなかった。その細長い物を左右に引っ張ると二つに分かれて中から銀色に光る物が現れた。短刀だ。ペイズリーのような目玉が刀身やツカそしてサヤに装飾された短刀だ。いよいよ俺も最後か……。俺は覚悟を決めた、今思うとたいした人生じゃなかったな……。
「ん? なんだい? 今一番逢いたい人のことを思い浮かべろ? その人が俺を迎えに来てくれるんだな……。だとすると小六の時に死んだ爺さんかな、でも爺さん怖い人だしな……。小学校に上がる前に死んだ……婆さんの方がいいかもな……。うちで飼ってた……犬のボスってのも……ありかな……? ……でも……孝治のほうが気……楽でいい……か……な……。……。……」
 あなたが本当に逢いたい人です、と先輩が言ったが、俺の意識はこの部屋の暗闇に溶け出して行っていて、その声はどこか虚ろな空間から響いてくるようだった。背中の魔法陣が熱い。上下の感覚が消失する。頭の中で鐘がガンガン鳴る。網膜に赤、黄、青、紫、そして白い閃光がインクをぶちまけるようにフラッシュする。先輩が呪文を唱える声と短刀が何度も空を切る音が俺の周りを行ったり来たりする。部屋の隅にいたはずの部員が俺の周りを狂ったように踊りまわる。部屋全体が俺を中心にすごいスピードで回る! 回る! 回る! ああ俺が、俺が溶ける! 俺が溶けていく!! すべてのものが形を失い、俺の意識と混ざっていく!! 混ざっていくんだ!!
 …………。
 泥水をかき混ぜてしばらく置くと底に泥が沈み水は次第に澄んでいく。俺の自我もその泥のように意識の底に溜まって段々と形を取り戻しつつあった。そうするうちに水が澄むように辺りの様子も感じられるようになってきた。辺りは乳液色の霧に包まれて手の届く範囲がようやく見える位で、周りに何があるのか視覚ではまったく解らなかった。でもそういう所に自分が立っているというのは解った。手足を動かすととても重く、まるで水の中にいるみたいだった。
 突然俺の足になにか小さいものがぶつかった。それは俺の足にはじき飛ばされて転んだ後、ムクッと起きあがると言った。
「痛てえじゃねえか。こんな所で突っ立ってんじゃねえよ」
 よく見るとガキだ。しかもかわいくねえクソガキだ。
「ボウズ、ここはどこだ?」
 クソガキはバカにするように一瞥(いちべつ)するとこう言った。
「見て解んねえ奴は聞いても解んねえんだよっ。俺は北斗の拳の再放送見たいんだよっ。せっかくあいつを放ってまで帰ってんのに邪魔すんじゃねえよっ」
 走り去ろうとしているクソガキの手を掴まえた。
「おい、友達を放って帰る奴がいるか」
 ガキは俺をキッと睨んだ。
「うるせえな、あいつは愚図だから、一度鬼になると二、三十分は誰も捕まらないんだよ。そんなの待ってたらテレビ終わっちまう。他のみんなも帰っちまったよ。今日の北斗の拳はジュウザが出てくんだぜ?」
「鬼ごっこすんのでも、下手な奴には多少の手心を加えてやるもんだぜ?」
「俺らがやってたのはカンケリだよっ。あいつったら缶を蹴られるのが怖いから缶の周りをうろうろするだけなんだぜ」
「そういう時は物陰から『ここにいるぞーっ』ってみたいなヒントをやるんだよ。それくらいサービスしねえとつまんねえぞ」
「……だいたいあいつが『いっしょにやらせて』って言うから入れてやってんだぜ」
「でもそいつ友達だろ? 年下なのか?」
「そんなんじゃねえよ……女だ」
 そう言うとさっきまでのガキの威勢がなくなってきた。
「女の子イジメてどうすんだ。それでも男か? その子お前の事嫌いになるかもしらねえぞ」
「う……、あいつは生まれたときからずっと一緒だったんだ。こんな事ぐらいなんとも思ってないよっ」
 幼なじみの女の子……。
「これからもずっと一緒だとは……限らないぞ。何か小さなきっかけでその子と別れ別れになることもある。これがそのきっかけになるかもしれないぞ。……お前それでも良いのか?」
 ガキの目に見る見る悲しみが溢れてきた。
「そんなの嫌だ!」
「今までずっと側にいたその子が急にいなくなるんだぜ? お前それでも良いのか?」
「そんなの嫌だ!」
「じゃあ、お前は何をしたら良い?」
「……迎えに行く……」
「よし、よく言った。さすが男だ」
 ポンと背中を叩いてやる。
「……ろ……ちゃん、ひ……き……」
 遠くから女の子の声がする。ほらお前を呼んでるぜ。
「違う! あれはお前を呼んでいるんだ!」
 ガキがいつの間にか高校生になり見上げるほど大きくなっていた。あれは俺だ! 俺が上から俺を見下ろしている。俺の方がガキになっていた。目の前の俺が俺を指さし、激しい言葉を投げつける。
「じゃあ、お前はどうなんだ! このままあいつがお前の元から離れていっても良いと言うのか! そんなことに堪えられるのか!? お前はどうなんだ! あいつがいなくなった後ひとりにお前は堪えられるのか!! お前はどうなんだ!!! 」
 その言葉で、今まで心の中で押し隠していた気持ちが堪りきれずに堰を切って溢れ出した。
「い……、い……、……嫌だーーっ!! 俺はあいつが側にいないとダメなんだっ!! 俺はあいつの顔が見れないだけで不安になってしまうんだっ!! どうしょうもねえんだっ、どうしてもこの気持ちが消えてくれねえんだ!!」
 胸の中から熱いものが泉のように止めどもなく溢れて体中に流れ込んでいく。涙がこみ上げてくる。嗚咽が洩れそうになる。
「言ってみろ!! お前は側に誰がいて欲しいんだ!!」
 俺は、俺は、あかりに会いたい! 会いたいんだ!!
「……ろ……ちゃん、ひ……き……」
「あかり!!」
 パーンと何かが弾け飛んだ。気が付くと俺はオカルト研の絨毯の上に寝ていた。涙が頬を幾筋にも流れていた。蛍光灯が灯された部屋で来栖川先輩が優しい微笑みを浮かべているような顔で俺をじっと覗き込んでいた。
「……え? 儀式は終わりました? 会いたい人には会えたかって? ん……会えたような会えなかったような……」
 くすっと先輩が笑ったような気がした。
「あ、他の四人の部員さんはどうしたんだい。……え? 帰った? 自分のいるべき所に? なんだ結局どんな人達か解らずじまいだったな。……え? 彼らは今日手助けしてもらうためにわざわざ呼び寄せただけ? ふ−ん、やっぱりちゃんとした部員じゃなかったのか。え? 幽霊部員ですから? ホントその言葉ハマッてるよな」
 ここで後頭部がやけに柔らかくて温かいのに気が付いた。あっ先輩にひ、膝枕してもらってる……。俺は慌てて身体を起こした。先輩はハンカチを出すと、俺の涙を拭ってくれた。あ、いいよ自分でする……。学ランの袖で涙を拭おうとした時、ふわっとした感覚が俺を包んだ。先輩が俺を抱きしめたのだ。頬に先輩のふくらみが当たった。小さいけれど幸せを感じる柔らかさだった。そして先輩の甘い香りが胸いっぱいに広がった。
「先輩……、いいよ、は、恥ずかしいぜ」
 それでも先輩は止めてくれず、抱きしめたまま俺の頭を慈しむように撫でた。
 しばらくそのままだったが、やがて先輩は名残惜しそうに俺を包んでいた両手を解いた。
「じゃあ、俺帰るよ。今日はありがとう」
「…………」
 部室を出てドアを閉める時、先輩の声で『頑張って下さい。私の運命のひと……』と微かに聞こえたような気がした。

 俺はバカだ。どうしようもねえバカだ、今頃になって自分の本心に気付くなんて。もう取り返しもつかないのに……。自分で幼なじみという関係を踏みにじっておいて、なにムシのいいこと考えてんだ。俺はバカだ。どうしようもねえバカだ。
「……志保じゃねえか」
 志保が北館の二階から一階へ降りる階段の所で座り込んでいた。声を掛けると志保はくるりと振り向き、俺だと解るとお尻に付いた埃をはたきながら立ち上がった。志保らしくない妙に冴えない表情だった。
「あっらー、ヒロじゃない。奇遇ね」
「俺を待ってたのか?」
「なに言ってんのよ。『奇遇ね』って言ったじゃない。私ちょうど暇してたのよね。なんなら一緒に帰ってあげてもいいわよ」
 くすっ。なんかおかしい。
「じゃ、お願いするとしょっか」
 俺達は肩を並べて下駄箱の所へと歩いた。
「それよりさ、ヒロ。オカルト研でどんなことしたの? まさか媚薬の実験とか言ってエッチなことしてたんじゃないでしょうねっ」
「どっからそんな発想が出てくんだよ。まあ、相談みたいなもんだよ。誓ってお前が想像してるようなことはなかったぜ」
 ホントはちょっとあったけど。
「なーんだ、つまんない。スクープだと思ったんだけどなー。『来栖川財閥のお嬢様、いけない火遊び。恋のゾロアスターか?』ってね」
 チョップ。変なこと言うな。
「いったーい。なにすんのよっ」
 しかし志保の顔はさっきまでの曇った表情は消し飛んで、ホッとしたような笑顔が戻った。
「よう、見せつけてくれんじゃん。あんた藤田だろ?」
 ちょうど校門を出た所で男に呼び止められた。……昼前からずっといた他校の奴らだ。一人がピッチ(PHS)でどこかにさかんに連絡を取っている。
「まったく、遅せーんだよ。さっさと出てこいってんの」
 バイクの排気音と共にこいつらの仲間が集まってきた。全部で九人。
「俺はお前らを知らない。人違いだ。じゃあな」
 実際まったく見覚えがない。相手にしない方がいい。
「あんたは知らなくても、こっちには用があるんだよっ。ちょっとツラ貸せよ」
 リーダー格の男がそう言って俺の肩を掴む。
「ちょっとー。ヒロになにすんのよっ」
 あっ、よせ。志保が俺の肩を掴む腕を振りほどこうとした時、逆にその男に腕を捻り上げられた。
「いたたたたっ」
「乱暴はよせ! 止めてくれ……」
 リーダー格の男がニヤッと笑うと顎をしゃくって俺達にバイクに乗るように指示した。七台程のスクーターのエンジンすべてに火が入ると、俺と志保を連れて街の外れへと走り出した。

 着いた所は町外れにあるバブルが弾けて倒産した無人の工場だった。鍵が壊れていて誰でも入れる状態だった。工場の裏に廻ればもう表の通りからはここの様子は解らない。下はコンクリート張りで、工場の境界となる背の高いブロック塀があり、幅5m長さがだいたい30mのなにもない空間だった。ブロック塀の向こうは山だった。ここは奴らのたまり場なんだろう。窓ガラスは破られ、壁にはペンキで無数の落書きがされてあり、ジュースの空き缶やたばこの吸い殻が散乱してた。そして部品を抜かれたバイクや自転車の残骸が隅に積み上げられていた。
 いざとなったら志保だけでも逃がす。九人が遠巻きに俺を囲む。志保はまだ捕まっている。
「そいつを離してやってくれねえか?」
「ダメだぜ。あんたあの藤田だろ? 六人病院送りにしたっていう。こいつは保険だ」
「……で用ってなんだ?」
「まあ、それはこの人から聞いてくれ」
 ふらっと建物の影から一人の男が現れた。あれは……確か橋本先輩だ、俺が図書室でKOしちまった。そうか、これで解った。あの時のお礼参りか……。やはり俺に関係があったのか……。しかしこいつ様子が変だ。なんか目の焦点が合ってないし、足もふらふらしてる。オマケに手に金属バットが握られているから尚更だ。志保も事情が飲み込めたみたいだ、青い顔をしている。
「よくもあの時は俺をコケにしてくれたな。礼をしてやるぜ。お前も、お前もなっ!」
 奴は俺と志保を指さした。志保も標的に入っているのか! 橋本は捕まっている志保に近付くと彼女の胸を鷲掴みにした。
「相変わらずいい乳してんじゃん。あいつにも揉まれたか? あん?」
「いったいわねーっ。汚い手で触んないでよっ!」
 バシッ! 奴の手が志保の頬を打つ。
「やめろ! 志保に手を出すな!」
 奴が異様な目で俺を睨むと近付いてきた。
 ドスッ!
 ぐう……。脇腹にバットがめり込んだ。たまらず膝を突いてしまった。
 ガスッ!
 今度は奴の膝が俺の顎を突き上げた。一瞬意識が遠くなる。俺は地面に倒れ込んでしまった。
「やっちまえ」
 橋本がそう言うと、他の奴ら九人が俺を蹴り始めた。こいつら顔は狙わず腹や足など見えにくい所ばかり蹴りやがった。
「悪いな、藤田。あんたにゃなんの恨みもないが、あの人がヤリマンの女紹介してくれるってんでね」
 ……まただ、また俺の軽はずみな行動が最悪の結果を招いてしまった。……でもあれの二の舞だけはゴメンだ。俺はもう手を出さない。例え殺されたってごめんだ。あの時誓ったんだ、沢山の人を悲しませたあの時に……。殴りたかったら殴れ。蹴りたかったら蹴れ。むしろ俺みたいなやつは死んだ方がいい。……だけど今回は志保に直接迷惑をかけちまった……志保!?
「いやーーーーっ!」
 目を開けてみると、橋本の奴が志保を押し倒して上から覆い被さっていた。俺はどうなってもいい!! でも志保だけは!! 志保だけは!! 身体の内から凄まじいエネルギーが噴き出してきた。
「うおおおおおおおっ!! やめろーーーっ!! 志保に手を出すなーーーっ!!」
 俺の絶叫を聞いて、俺を蹴り続けていた動きが止まる。俺は起きあがるとゆっくり橋本に近付いた。奴がふらふらと体を起こす。志保が奴の腕をすり抜けて一目散に駆け込んできて俺の胸に飛び込んだ。
「ヒ、ヒローーッ」
 志保の細い肩がカタカタと震えている……。こわかったか? 背中をぽんぽんと叩いてやる。
「もう大丈夫だ。俺にお前を守らせてくれ。命に代えても守ってみせる。」
 志保の指が俺の制服に固く絡む。
「邪魔すんじゃねえよタコ。そいつを犯してからゆっくりいたぶってやるからよ」
「志保には手を出すな。その代わり俺を好きにすればいい。俺は一切抵抗しない、煮るなり焼くなり好きにしろ」
 ポツッ……と頬に冷たいものが当たった。コンクリートに黒い斑点が次々と刻まれる。それは瞬く間に雨となって俺達を打ち始めた。橋本が雇った九人は雨に濡れたせいかやる気をなくし工場の軒下に入って物見を決め込んだ。俺は志保をそっと引き離し、奴に向かって歩みを進めた。冷たい雨が制服に染み込んで素肌を刺す。
「けっ、カッコつけやがって。後悔すんなよ」
 バキッ。
 ぐっ。奴のバットが腰に当たる。
 ベシッ。
 続いて背中に当たる。俺は歯を食いしばって堪える。
「ヒャハッハ! いつまでやせ我慢できるかな? おい! 笹口! お前らも一緒にやれよっ」
 リーダー格の男は口の端を歪めて言った。
「風邪引きたくないんでね。ここで見学させてもらうぜ」
「ケッ、そこの女と同じクラスのスケの紹介だったが、たいしたこともない野郎だったな」
 雨足はさらに強くなり雨水が地面を流れるようになった。低く窪んだ所には水たまりが出来た。髪も服も靴も水をたっぷりと含み皮膚にべったりと張り付き枷(かせ)のように手足にまとわりついた。
 なおも奴のバットは振り下ろされる。表面に付いた水滴をスイングではじき飛ばされながらバットはうなり声を上げる。俺の身体が鈍い音で応える。そして地面に転がされ水たまりに頭から突っ込む。奴の靴が俺の顔面を舐める。
「お願いやめてよーー! ヒロが、ヒロが死んじゃう!」
 志保が全身をずぶぬれにして絶叫する。
「俺の邪魔をするな。こいつは俺の獲物だ」
 志保が駆け寄って来ようとしたとこを橋本はバットを向けて威嚇する。志保は立ちすくんでしまった。
「藤田。もうすぐ殺してやるからな……。もうちょっと我慢しろ」
「ああ、早く殺せよ! 俺はもう嫌なんだ! 俺にとって大切な人達のことを思えば思うほど悲しませてしまう自分が嫌なんだよっ! こんなバカでくだらねえ自分が嫌で嫌でしょうがねえだよっ! こんな俺なんかこの世から消えちまった方が良いんだ。だから今すぐ殺してくれよ! 俺を殺してくれよ!!」
 橋本がバットを投げ捨てた。奴の顔に血の気はない。
「解ったぜ。今すぐ殺してやるよ……」
 懐から刃渡り20cm程のサバイバルナイフを出すとサヤを捨てた。刃(やいば)が雨の中銀色に光る。奴はナイフを構えると身体ごと突っ込んできた。俺はあの刃が俺の胸に当たり皮膚を裂き肋骨の間を分け入って心臓に深く滑り込むビジョンが頭に浮かんだ。まあいいか……。志保が俺を庇おうと走り寄る。すまねえ、でももう間に合わねえよ……。
 バシッ!
 何かが砕ける音がしてサバイバルナイフが地面を転がった。笹口と呼ばれた男がバットで橋本のナイフを叩き落としたのだった。
「ぐおおおっ! 痛いよーーーっ! 痛いよーーーっ!」
 橋本が右手を押さえて全身泥だらけになって転げ回っていた。どうやらバットで手の骨を砕かれたみたいだ。
「ったく。目の前で殺人事件なんか起こすなよな。俺が共犯になるじゃんか」
 志保が俺にしがみついた。
「ヒロのバカ!! バカ!! バカ!! ……!!」
 泣きじゃくるだけで後は言葉にならなかった。
「藤田よ。後始末は俺達がするから、あんた消えてくんない?」
 リーダー格の男が手にしていたバットをポーンと放り投げ、冷ややかな目で俺達を見た。
「……解った、行こう志保」
「ひっく、うん……ひっく、一人で歩ける? ひっく、肩貸す……」
 俺は志保に肩を借りるとよたよたとこの場を後にした。雨は上がる気配など見せず、冷たい雫が俺と志保の二人に容赦なく降り注いだ。

 大雨が幸いしてか、人には見られずに俺の家にたどり着けた。俺の部屋に入ると、志保が薬の置き場所をたずねたので教えると、すぐに一階のリビングへと降りていった。なにしてるんだろう俺? まだ生きてるよ……。俺は電気も点けずに床に座り込んで放心していた。時間的には夕方なのだろうか? 部屋の中は薄暗かった。しばらくすると志保が薬箱とバスタオルを抱えてやってきた。
「志保……お前まだ泣いてんのか?」
 志保は帰り道ずっとグズグズ泣いていた。家に着くと幾分落ち着いたようだが瞳にはまだいっぱいの涙が溜まっていた。俺が話しかけるとじわーと目に涙を浮かべるだけで何も答えてくれない。志保は薬箱を脇に置くと無言で俺の服を脱がし出した。
「いいよ、自分でするよ」
 しかし志保は俺の言うことに耳を貸さず、俺の上半身を裸にむいた。改めてみると体中擦り傷と青あざだらけだ。擦り傷の方はたいしたことはなかったが、あのバットで殴られた跡が青く内出血していた。志保が頭にバスタオルをかける、身体を拭けってことか。髪を拭いていると、志保が俺のベルトを外す。
「お、おいよせよ」
 涙の溜まった赤い目で睨まれる。泣くのを我慢してくしゃくしゃになった顔で俺のズボンをムキになって引っ張る。解った! 解ったから無茶をしないでくれ。俺は腰をちょっと浮かした。すると志保は濡れて身体に張り付いたズボンを引っこ抜くように脱がした、パンツごと。
「あ」
 股間を慌ててバスタオルで隠す。志保はお構いなしに続いて靴下を脱がすと、傷口に絆創膏を貼りだした。足もあざと擦り傷がひどかった。面積の広い傷には消毒液の後ガーゼを貼ってくれた。口唇とか目元とか消毒液の使えない所は血止めの軟膏を塗って、殴られた所には湿布を貼ってくれた。
「うわっ、冷て……いたたた」
 湿布が肌に付いたとき冷たいのが気持ちよかったが同時にとても痛かった。
 応急処置がひとまず終わる。
「とりあえず内蔵とか骨とかは大丈夫みたいだ。悪かった、迷惑かけた……」
 志保がうつむきながらブルブル身体を震わせ始めた。絨毯にぼたぼたと涙の雫が染みを作る。
「バカーーーっ! ヒロのバカっ!! 私、私、本気で心配したんだからっ! ホントに死んじゃうかと思ったんだから!!」
 志保が俺の胸で再び堰を切ったように涙を流す。拳で俺の胸を何度も叩く。
「私のせいで、二回もこんな事になって……。ヒロにもしもの事があったら私どうしたらいいのよっ」
 この前の時か……。

 中学の頃俺はむき出しのナイフのような奴だった。いつも殺気立ってて、周りを威嚇しまくっていたような気がする。すぐ激昂して、ちょっとしたことですぐケンカをおこした。そんな俺をあかりと雅史そして志保だけは他の人と同じように接してくれた。それも中三の夏頃にはだいぶ収まっていた。こいつらと同じ高校に入るため無茶な勉強をしていたためだ。自分のエネルギーを全部注ぎ込めるものが見つかれば、それがなんであれ人は丸くなるものだ。俺はこいつら三人と離れて違う学校へ行くという事が考えられなかった。三人が俺とこの世とつなぎ止めてくれている命綱のように感じていたのかも知れない。
 それが高校に入学してすぐの時だ。放課後に駅前で志保とあかりが二人組のいわゆるチーマーにからまれていた所に出くわしたんだ。
「しっつこいわねーっ。嫌だって言ってんでしょっ!」
「そんなこわい顔すんなよ。絶対楽しいからみんなでカラオケしようよ。ね。ね」
「きゃっ」
「ちょっとーっ。この娘に触らないでくれるーっ!」
「おいおい、どうしたんだ? 二人とも」
「あっ、浩之ちゃん」
「ヒ……、遅いわよー。あんたが早く来ないから、こっちはナンパされていい迷惑よ」
「んん? ……あ、悪い悪い。ちょっと担任に呼び出しくらってな。で、この人達誰?」
 野郎どもが俺の顔を下から舐めるように見る。
「あーん。俺達かー? 俺達はこのお二人さんとお友達になりたい人なんだ。悪いけどあんた彼女達譲ってくんない?」
 一人がポケットから何かを出そうとしている。バタフライナイフだ! とっさに俺はそいつの手首を掴みながら捻り、同時に鼻っ柱に裏拳を叩き込んでいた。
 すぐさま三人で走って逃げて事なきを得た、と思っていたんだが。それから二日後のことだ。
 突然学校にバイクの爆音が響くと共にガラスが割れる音と女子の悲鳴が起こった。鉄パイプやナイフを持った十五、六人の高校生ぐらいの男が学校に乱入してきたのだ。学校中が生徒と教師が入り乱れものすごいパニックになった。物見遊山で最前線へと走っていく男子、恐怖に泣き出す女子、教師の怒号、侵入者に殴られた奴。そのうちクラスの一人が最前線から帰ってくると、
「今、2年の教室を襲撃中! もう10分くらいでこっちにも来るぞ! それであいつら大声で『ヒロユキ』って奴を出せってわめいてんぞ!」
 と教卓に立って報告した。……顔から血の気が引くのが自分でも解った。あいつら俺を捜してるのか? 一昨日の奴らが仲間を連れて報復に来たのだ。この騒ぎは俺のせいか? だとしたら俺は逃げるわけには行かない。俺は教室を飛び出すと奴らが暴れてる所へと駆けつけた。
「やめろ! 俺に用か?」
 一人が鼻に包帯を巻いた男を見た。志保とあかりに絡んでいた奴だ。包帯のやつが頷くとそいつに尋ねた男はハ虫類のような顔で笑った。手の中でナイフをクルクル回している。
「どうもしないぜ。唯仲間が世話になった礼がしたくてな! おい! みんな! こいつがヒロアキだぜ!」
 奴らがぐるりと俺を囲む。学校の連中はその外側を囲む。自分達にこれ以上直接危害が加えられないと解ってかショーを見るような顔をしてやがった。しかし俺はそうは行かなかった。奴らが俺を見る目ははっきりと殺意があった、言い方を換えると奴らは俺の生命がどうなろうと自分たちの衝動を全部吐き出すまで俺をぶちのめすと言う目だ。
 太古、人間が群で狩りをしていた頃の動物的な興奮が奴等の中で爆発的に高まっていくのが感じ取れた。なにか小さなきっかけでもあれば、こいつら全員飛びかかってくる……。
 その時、見物の誰かが落としたのだろうシャーペンがカランと床に転がった。
「うらーーーーっ!!! 」
 その音を合図として鉄パイプを持った奴が背後から殴りかかってきた。俺は振り向きながら出来るだけ踏み込んで左手で鉄パイぷを受けた。握りに近いところで受けたのでダメージは少なかった。そしてそのままの勢いで右足を男の懐まで踏み込む。ほとんど奴の身体に密着する。右の手のひらを奴の鳩尾に当てる。そして右足が地面に着くと同時にドン! と両足で床を思いっきり踏み抜く。そのエネルギーを足、腰、背中と伝え、左手と首を振り子のように振って勢いを増加させ、手のひら一点から奴の身体にねじり込んだ。身体がかっと熱くなるとふわっと軽くなった、すべてのエネルギーを相手に叩き込めたのだ。するとすうと右手が伸び手のひらがグニュウとめり込んだ。すると男の身体が弾かれたゴム鞠のように飛んで、壁にものすごい音と共に昆虫の標本の様に張り付いた。男は白目を剥き、口から血の泡を吹いて床に崩れ落ちた。女子が声にならない悲鳴を上げた。俺を取り囲っていた奴らが恐怖と狂気に満ちた形相で襲ってきた。狩る側と狩られる側が逆転したのだ、こいつを殺らなきゃ自分たちが殺られる、と。この時俺の中で何かが爆発した。……その後のことは今でも思い出せない。
 気が付くと数人の男が倒れてうめき声を上げていた。俺も頭と腕から血をだらだらと流していた。残りの連中はどこだ! 俺は周りを見た。残りは逃げたみたいだった。しかし俺が余程殺気の籠もった目をしていたのか、周りで物見をしていた学校の連中は俺と目が合うと恐怖の顔で後ずさった。その様を見て俺は愕然とし憑き物が落ちたみたいに脱力した。知らない内に救急車のサイレンと警官が代わって俺を取り囲んでいた。
 それからは大変だった。警察の事情聴取を受け、後で家庭裁判所に出廷した。病院に運ばれた者十一人、その内入院した者六名。特に最初倒した奴は三日間意識不明だった、一命は取り留めたもの内臓破裂と骨折で3ヶ月入院した。しかし殴り込んできた連中が全員鉄パイプ、ナイフ、チェーン等で武装しており、俺を目標としていたこと、最初のきっかけも奴らが俺達をナイフで脅したからと言うことをあかりと志保が証言してくれたことがあって保護監察処分で済んだ。おふくろも裁判やカウンセリングためにしばらく会社を休職した。ところが学校ではそれでは気が済まず、俺を退学させようとした。それで志保が反対運動を起こし、詳しい事情を記した嘆願書を校長に突きつけた。志保のワイドショー体質はこの時以来エスカレートしたような気がする。そして最後に担任だった中村先生が全責任を持って俺を監督するから退学だけは許してやってくれと言ってくれたので、停学一ヶ月で済んだ。まあ教頭なんかは自主退学を暗に要求したけどな。だから中村先生には頭が上がらないんだ。沢山の人のお陰で俺はまだこうして高校生をやっていられる。

 ……とまあこんなことがあった。
「俺が悪かったよ、だから泣きやんでくれ」
「……もうあんなこと言わないでよ。……死んだ方が良いなんて言わないでよっ。どうしちゃったの。なにヤケになってんのよ」
「俺は……自分で自分が嫌になったんだ。俺のやったことがすべて裏目になっちまう。大切な人のことを思ってやったことが結局その人を悲しませてしまう。そのくせその時は自己満足していい気になってんだ。俺はもうそんな自分が大嫌いになった」
 志保が俺の顔を見上げる。瞳には悲しみの色が満ちていた。
「……あかりと何かあったの?」
 胸がぎゅっと痛くなった。言葉に詰まる。しかし俺は喉に詰まったその言葉を力ずくで絞り出した。
「俺はあかりを無理矢理……」
 志保は一瞬だけ驚きの表情になったが、意を決したように一つ聞き返した。
「……したの? 最後まで……」
「いや……出来なかった……」
 志保は少し安心したように息をひとつついた。そして目を伏せて言った。
「ヒロらしい……。ねえ、ひとつ教えて、私はヒロの大切な人の中に入ってる?」
「当たり前のことを聞くんじゃねえよ。お前は俺が命に代えても守りたいと思った大切なひとだよ」
 志保が俺の背中に手をまわし、きゅっと抱きついてきた。いたた。ちょっと怪我のとこが痛い。……あ、志保がびしょぬれのままだ。今まで気が付かなかった。
「志保、悪りい気付かなかった。このままじゃ風邪引かせちまうな。おふくろのでよかったら着替えてくれ」
 俺はそっと立ち上がるとおふくろの部屋に行こうとした。
「待って!」
 大きな声で志保が呼び止めた。
「ヒロので良い」
「そうか? でかいけど良いのか? だったらタンスの中にあるから、好きなのを選んでくれ。俺、外で待ってるから」
「……手伝って」
「へ?」
「……着替えるの手伝ってって言ったのよ」
 な、なに言ってんだよ。からかうなよ。俺はバスタオル一枚のすっぽんぽんなんだぜ?
「ヒロの服脱がすの手伝ったじゃない」
「そ、そんなの出来ねえよ……」
「じゃあいい」
 そう言うと志保はセーラーの上着に手を掛け俺の目の前で脱ぎ始めた。俺は慌てて背を向け部屋を出ていこうとした。
「わ、私を独りにしないで!」
 その言葉に俺はノブに手を掛けたまま固まってしまった。志保が服を脱ぎ、その服が床に落ちる音がする。ドッドッドッと心臓が激しく鼓動を刻む。志保はどういうつもりなんだ?
「ヒロ……」
 その声に導かれるようにゆっくり振り向くと志保が生まれたままの姿で立っていた。乳房を両手で隠し、ふとももをすりあわせるようにきゅっと閉じ、恥じらいと何か決意とが混じった目を俺に向けている。この狭い部屋の中、なにも身につけていない男と女が無言で見つめ合っていた。
 日も暮れて青白くなった外の光がカーテンの隙間から静かに射し込んできた。志保の美しくてみずみずしい肢体がその光の中で蜃気楼のように白く浮かんでいた。

第7章『きみのこころへ』に続く


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