古アッシリア王国「古アッシリア王国」は、後の「新アッシリア王国」と区別するために「古アッシリア王国」と呼ぶ。 アッシリア人は、チグリス川中流の都市アッシュルを中心都市とし、アッシュル神を祭っていた。この地域は、メソポタミアの下流地域とは違い、北と東の山岳地帯につながる台地で、農耕ができる土地は少なく遊牧を中心とする地域であった。また、交易商業にも従事していた。 アッシリア人の言葉は古バビロニア王国をつくったアムル人(セム系遊牧民)と近いが、純粋なセム語族ではなく北方山地の住民と混血してできた民族らしい。 アッシリア人の交易商業は、自国でとれる石灰岩・雪花石膏(アラバスター)や小アジアでとれる鉱産物(特に銅)をバビロンなどに運び、逆にメソポタミアの織物や錫などを仕入れた。そのため、小アジア各地に拠点を持っていた。大量の粘土板が出土して有名になったカッパドキアもそのひとつで、カネシュという古代都市の城門外からすぐ近くにある住居跡であった。カッパドキアの文書からは、アッシリア王国初期の王シャッルム・ケン1世(BC1970年ころ)とその息子のブズル・アッシュル2世(BC1950年ころ)の名がみえる。 BC1813年ころ、シャムシ・アダド1世は西方のユウフラテス川に面する都市マリを征服し、息子のヤスマハ・アッドゥをマリ王として、20年間マリを支配した。この親子で交わした多くの書簡がマリで発見されている(マリ文書)。シャムシ・アダド1世は、さらに軍隊を西に進め、地中海までの一帯を支配下に収めた。王は海辺のラバンの国(今のレバノンか?)に自分の名前を刻んだ石柱を立てさせたといわれている。 【参考ページ】 ウル第3王朝 古バビロニア王国 【LINK】 大英博物館ミラーサイト(日本語) ≫ メソポタミア ≫ 地理 ≫ 古代の都市の地図 参考文献 「世界の歴史2 古代オリエント」岸本通夫ほか著、河出文庫、1989年 「クロニック世界全史」講談社、1994年 2003/12/9 |