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ミタンニ王国の滅亡


 一時はオリエントの列強のひとつとみなされたミタンニ王国であったが、西隣のヒッタイトでスッピルリウマ王(在位BC1375〜1335)が王位につくと、ミタンニ王国への攻撃をはじめた。最初の攻撃はくいとめたものの、次には、ミタンニ王国のドゥスラッタ王の失脚をねらう一派と呼応して進撃し、ミタンニの首都ワスガンニを陥落させた。ドゥスラッタ王は、内通した一派により暗殺された。また、ヒッタイトは、シリアの諸小国も服従させている。
 ミタンニ王国の東半分は、この機に乗じて独立したアッシリア国のアッシュルウバッリト王(在位BC1365〜1330)の領地となり、西半分はヒッタイトの領土となった。その後まもなく、暗殺されたドゥスラッタ王の王子で、亡命先のバビロニアからもどったマッティワザ王子が、ヒッタイトに保護を求めたことから、西半分の領土を返還されて、ヒッタイトの藩属国となった。

 この西半分の領土となったミタンニ国は、ハニガルバドと呼ばれ、3代の王が続いたが、BC1270年ころ、アッシリアに攻撃されて滅亡した。


【参考ページ】
BC1550ころ ミタンニ王国





参考文献
「世界の歴史2 古代オリエント」岸本通夫ほか著、河出文庫、1989年
「クロニック世界全史」講談社、1994年
「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年

更新 2009/1/23

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