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「日朝修好条規の締結」に関する資料集


 日朝関係の歴史については、資料を的確に分析する前から、「日本は常に朝鮮を侵略する意図をもって行動していた」 とする前提で記述している文献があまりにも多いように思います。こうした主流派の主張に反論するためには、根拠となる出典を明確に示す必要があると思うので、このページにまとめてみました。
 なお、当サイト管理人は、「当初の日本は朝鮮の近代化を強く望んでおり、もし朝鮮が自力で富国強兵を実現していたら日本と朝鮮は同盟国になっていただろう。」と考えています。しかしながら、「朝鮮の自力による近代化が遅々として進まないため、日本政府やアジアの近代化を志す人々は、日本の力によって朝鮮の近代化を図るしか道はないと決断するに至った。」と思います。当サイト管理人の考え方の概要は次のとおりです。
 当時は欧米の脅威が眼前に迫っており、これに対抗するためには近代化の推進と富国強兵が急務である。朝鮮も急いでこれに取り組まなければ欧米の植民地になるしか道はない。近代化取組に一日の長がある日本は、朝鮮の近代化を期待しかつ協力する意志も十分あった。そして、朝鮮の富国強兵が実現したならば日本と朝鮮が同盟して欧米列強に当たることもできたはずである。しかしながら、当時の李氏朝鮮の社会は両班一族の派閥闘争などによって極度に疲弊しており、政権を握った人たちも自分たちの権力を保持するための政治闘争に明け暮れた。朝鮮には当時の国際情勢を知る人は数えるほどしかおらず、権力者たちのほとんどは近代化の必要性を十分理解していなかったと思える。また、近代化の改革を進めることは自分たちの権力基盤を危うくするものであって、権力者たちの方針は一貫して清との藩属関係を保って旧来の(硬直した)儒教思想に基づく社会を維持することであった。日本は朝鮮とのさまざまな交渉において国際情勢を説明して富国強兵の急務を訴え、朝鮮の使節などを日本に招いて近代技術に触れさせるなどに努めたが、朝鮮の近代化はいっこうに進まず、日本のいらだちは募っていく。この時期については、日本の主張と朝鮮の態度は常に平行線で、何とか朝鮮政府を動かして近代化に向かわせようとする日本は時に武力を誇示して威圧することもあった。その後、朝鮮の自力による近代化が無理であると明白になってくると、朝鮮は欧米列強の植民地になるほか道はないと考える日本人が増えていったであろう。アジア進出に精力的な帝政ロシアなどが隣国の朝鮮を占領すれば、日本にとっては重大な脅威である。日本が武力を使って強制的に朝鮮の近代化を図ることが日本にとって最良の選択肢であると、当時の日本人が考えたであろうことは十分に理解できる。しかしながら、歴史の結果論として、この選択は最良のものではなかった。この選択を行った後であっても、日本が歴史と異なる行動をとっていれば、ひょっとすると今よりはもっと良い結果をもたらすことができたかもしれないが、それはもはや夢まぼろしの世界である。今日の我々は、歴史を正しく認識して、未来に進んでいくしかない。(現代の朝鮮の人達も左翼思想の人々も同じように正しい歴史認識が必要と言っている。私たちと彼らとがこんなにも意見が異なっているということが、歴史を理解することの難しさを示している。)



 
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  江戸時代より前の李氏朝鮮と日本との交流について
  李氏朝鮮と徳川幕府との交流について
  李氏朝鮮と明治政府との交流について
  征韓論について
  江華島事件について
  日本政府の状況について
  朝鮮政府の状況について
  江華府での日朝交渉について
  日朝修好条規について

 
○江戸時代より前の李氏朝鮮と日本との交流について
LINK 倭館 - Wikipedia の「中世倭館」の項から引用。
『 1392年に成立した李氏朝鮮は、1368年に成立した明とは異なり、朝貢船以外の商船入港を禁止するようなことはなく、入港地にも一切制限を加えなかった。このため、日本の大名、商人らが朝鮮に通交する者が急増したが、彼らの中には交易に不都合があると倭寇に変貌するような者もいたので、朝鮮政府は1407年頃国防上の見地から興利倭船の入港地を慶尚左道都万戸所在地の東莱県富山浦(現在の釜山広域市)と慶尚右道都万戸所在地の金海府乃而浦(現在の慶尚南道昌原市)に限定した。1410年、日本の使送船(公式の使者)の入港地もこれら二港に限定された。
 これらの港は当初日本船の入港指定地に過ぎなかったが、やがて多数の日本人が住み着くようになり、朝鮮政府はこれを制止できなかった。これが三浦倭館である。
 朝鮮半島に居住し帰化しない日本人を朝鮮では恒居倭と呼び、首領を頭とする自治が行われた。恒居倭の中には倭館の関限を超えて居住する、漁業や農業に従事する、密貿易を行う、倭寇化する者もいた。当初朝鮮政府は日本人には徴税権・検断権も行使出来なかった為、彼等を統制下に置こうと圧力をかける。1510年、交易上のトラブルもあり朝鮮側に不満を募らせた日本人は、対馬からの援軍も加えて大規模な反乱を起こす。この三浦の乱は結局、朝鮮側の武力によって鎮圧され、三浦倭館は閉鎖されたが、後に一部再開された。 』
LINK 倭館 - Wikipedia の「中世倭館」の項から引用。
『   富山浦倭館
 後には釜山浦倭館とも呼ばれた。現在の釜山広域市東区子城台に所在し、行政的には北方にある東莱(トンネ)県城、軍事的には西方にある万戸営庁の管理下にあった。1494年には450人程度の日本人が居住していた。1510年の三浦の乱によって一時閉鎖されたが、1512年の対馬と朝鮮の条約によって薺浦が再開された後、1521年に富山浦倭館も再開された。釜山浦倭館は1592年の豊臣秀吉による朝鮮侵攻まで存続し、三浦倭館の中では最も長く日本人が住んでいた。 』
LINK 朝鮮通信使 - Wikipedia の「概要」の項から引用。
『   概要
 朝鮮通信使のそもそもの趣旨は室町将軍からの使者と国書に対する返礼であり、1375年(永和元年)に足利義満によって派遣された日本国王使に対して信(よしみ)を通わす使者として派遣されたのが始まりである。15世紀半ばからしばらく途絶えて安土桃山時代に、李氏朝鮮から豊臣秀吉が朝鮮に出兵するか否かを確認するため、秀吉に向けても派遣されている。しかし、その後の文禄・慶長の役によって日朝間が国交断絶となったために中断された。その後、江戸時代に再開された。広義の意味では室町時代から江戸時代にかけてのもの全部を指すが、一般に朝鮮通信使と記述する場合は狭義の意味の江戸時代のそれを指すことが多い。 』

 
○李氏朝鮮と徳川幕府との交流について
LINK 鎖国 - Wikipedia から引用。
『 対馬藩の宗氏は中世から対朝鮮の外交、貿易の中継ぎを担ってきた。徳川時代に入っても、対馬藩にはその権限が引き続き認められ(釜山倭館における交易)、幕府の対朝鮮外交を中継ぎする役割を担った。 』
LINK 倭館 - Wikipedia の「近世倭館」の項から引用。
『   近世倭館
 1592年に始まる文禄・慶長の役によって日朝の国交は断絶し、戦争直後対馬藩が送った貿易再開を求める使者が帰ってこないことが多かった。しかし朝鮮人捕虜を送還するなど対馬藩の必死の努力によって、1607年最初の朝鮮通信使が来日し、国交回復が決まった。対馬藩は江戸幕府から朝鮮外交担当を命じられ、釜山に新設された倭館における朝鮮交易の独占権も付与された。1609年に締結された己酉条約によって、朝鮮は対馬藩主らに官職を与え、日本国王使としての特権を認めた。しかし日本使節のソウル上京は一度の例外を除き認められなくなった。また日本人が倭館から外出することも禁じられた。
  豆毛浦倭館
 1607年、現在の釜山広域市東区佐川洞付近に新設された倭館で、約1万坪の面積があった。古倭館ともいう。内部には宴享庁(使者の応接所)を中心に館主家、客館、東向寺、日本側の番所、酒屋、その他日本家屋が対馬藩によって建築された。1647年には対馬藩が任命した館主が常駐するようになったが、交易の発展にともない豆毛浦倭館は手狭になり、交通も不便であったので、朝鮮側に再三移転要求を行った。1673年移転が認められ、1678年に草梁倭館へ引越しが行われた。
  草梁倭館
 1678年、現在の釜山広域市中区南浦洞の龍頭山公園一帯に新築された日本人居留区で、10万坪もの面積があった。同時代の長崎の出島は約4000坪であったから、その25倍に相当する。新倭館とも呼ばれた。竜頭山を取り込んだ広大な敷地には館主屋、開市大庁(交易場)、裁判庁、浜番所、弁天神社のような神社や東向寺、日本人(対馬人)の住居があった。
 倭館に居住することを許された日本人は、対馬藩から派遣された館主以下、代官(貿易担当官)、横目、書記官、通詞などの役職者やその使用人だけでなく、小間物屋、仕立屋、酒屋などの商人もいた。医学及び朝鮮語稽古の留学生も数人滞在していた。当時の朝鮮は伝統中国医学が進んでおり、内科・外科・鍼・灸などを習得するために倭館に来る者が藩医、町医を問わず多かった。また1727年に雨森芳洲が対馬府中に朝鮮語学校を設置すると、その優秀者が倭館留学を認められた。住民は常時400人から500人滞在していたと推定されている。さらに対馬から交易船が到着すれば、倭館滞在者が急増したことは言うまでもない。倭館の安永年の普請に関わったのは、早田万右衛門などである。 』
LINK 朝鮮通信使 - Wikipedia の「江戸時代の朝鮮通信使」の項から引用。
『 主として対馬藩が江戸幕府と李氏朝鮮の仲介を行った。これは対馬藩が山がちで耕作に向いておらず、朝鮮との貿易なくては窮乏が必至となるためである。国交回復を確実なものとするために対馬藩は国書の偽造まで行い、朝鮮側使者も偽造を黙認した。後に、対馬藩家老であった柳川調興は国書偽造の事実を幕府に明かしたが、対馬藩主・宗義成は忠告のみでお咎めなし、密告した柳川は津軽へ流罪とされた。詳細は柳川一件を参照のこと。 』
LINK 柳川一件 - Wikipedia の「事件の経緯」の項から引用。
『 朝鮮側から朝鮮出兵の際の戦犯を差し出すように要求されたため、対馬藩は藩内の(朝鮮出兵とは全く無関係の)罪人の喉を水銀で潰して声を発せられなくした上で「朝鮮出兵の戦犯」として差し出した。このような対馬藩の形振り構わぬ工作活動の結果、朝鮮側は(満州の女真族(後金)の勢力拡大で北方防備の必要もあったため)交渉に宥和的となった。1605年、朝鮮側が徳川政権から先に国書を送るように要求してきたのに対し、対馬藩は国書の偽造を行い朝鮮へ提出した。書式から偽書の疑いが生じたものの朝鮮は「回答使」(対馬藩は幕府に「通信使」と偽った)を派遣した。使節は江戸城で2代将軍徳川秀忠、駿府で大御所の家康と謁見した。対馬藩は回答使の返書も改竄し、1617年、1624年と三次に渡る交渉でもそれぞれ国書の偽造、改竄を行い、1609年には貿易協定である己酉約条を締結させた。
 対馬藩の家老であった柳川調興は主家(宗義成)から独立して旗本への昇格を狙っており、藩主である宗義成と対立した。そのため、対馬藩の国書改竄の事実を、幕府に対して訴え出た。 』
LINK 朝鮮通信使 - Wikipedia の「江戸時代の朝鮮通信使」の項から引用。
『 その後、通信使は将軍の代替わりや世継ぎの誕生に際して、朝鮮側から祝賀使節として派遣されるようになった。計12回の通信使が派遣されているが、1811年(文化8年)に通信使が対馬までで差し止められたのを最後に断絶した。幕府からの返礼使は対馬藩が代行したが、主として軍事的な理由において漢城まで上る事を朝鮮側から拒否され、釜山に貿易目的で設立された倭館で返礼の儀式が行われた。唯一の例外は1629年(寛永6年)に漢城に送られた僧を中心とした対馬藩使節であるが、これは後金の度重なる侵入に苦しむ朝鮮側が日本の後ろ盾があるように見せかけたかったためであるとされている。なお、この際にも対馬藩側は李氏朝鮮に対して中国産の木綿の輸出を依頼し、成功している。また、倭館には貿易のために対馬藩士が常駐していた。 』
LINK 朝鮮通信使 - Wikipedia の「1636年(寛永13年)朝鮮通信使の待遇改定」の項から引用。
『   1636年(寛永13年)朝鮮通信使の待遇改定
 通信使は柳川一件の翌年に、それまで柳川家主導で応対されていたものが対馬宗氏の手によって招かれた。これは幕府によって宗氏の力量が試されたという側面も存在している。ここにおいて接待、饗応の変更がなされた。これは日本側の主導によるもので、変更の骨子は、第一に、朝鮮側の国書で徳川将軍の呼称を日本国王から日本国大君に変更すること(この「大君」呼称の考案者は京都五山の高僧・玉峰光?である)、将軍側の国書では「日本国源家光」とした。第二に親書に記載される年紀の表記を干支から日本の年号に変更するということ、第三に使者の名称を朝鮮側が回答使兼刷還使から通信使に変更するというものである。将軍の呼称変更と、年紀表記変更の理由は次のように説明される。
 そもそも「国王」称号や「干支」の使用は中華秩序における冊封体制の残滓であり、中華帝国を頂点として周辺諸国を従属国視する、伝統的東アジア外交秩序そのものであり、いまこそ、その体制から離脱を図り、かつ朝鮮側にもそれを認知させようとしたのだ、という論である[誰?]。その一方で「国王」称号は国内的には天皇をさすため、これに遠慮し次善の策として「大君」を用いたという、もっぱら国内的要因に鑑みての変更にすぎないではないかという論[誰?]や、清国皇帝と日本国天皇を対等とし、それぞれから冊封された朝鮮国王と征夷大将軍=日本国王を対等とみなしたとの説(井沢元彦「逆説の日本史」)、議論の決着を見ていない。いずれにせよこの制度改定は、後述の正徳度来日の際のような深刻な外交問題には発展しなかった。
 その理由としては当時、李氏朝鮮は北方から後金の圧迫に忙殺されていたため、日本側の制度変更にあえて異論を挟まなかった、あるいは挟む余裕がなかったとされる。この来日の際には、幕府に朝鮮国王直筆の親書、銅鏡が進呈され、また使節団が神君とされる大権現家康が眠る日光東照宮を参拝をしたことが、国内的に大々的に喧伝され、幕府権威の高揚に利用された。 』
LINK 朝鮮通信使 - Wikipedia の「正徳度朝鮮通信使の待遇改定」の項から引用。
『(前略)これらの努力により接待費用を60万両に抑える一方、将軍呼称を再び日本国王に変更した。
 この変更の理由としては江戸時代も安定期に向かい、将軍の国内的地位が幕初の覇者的性格から実質的に君主的性格に移行した現実を踏まえ、「国王」を称することにより徳川将軍が実質的意味において君主的性格を帯びるようになったことを鮮明にせんとしたとも、あるいは、「大君」は朝鮮国内においては王子のことを指すので、これではむしろ対等ではないので国王に戻すのだとも説明されている。
 呼称の当否は別とし、この変更は朝鮮通信使の来日直前に一方的に通告されたため、深刻な外交摩擦に発展し、将軍の名分をめぐって林信篤や対馬藩藩儒雨森芳洲も巻き込んで日朝双方を果てしない議論にまき起む結果となった。なお、正徳の次に来日した享保度の通信使の際には徳川吉宗は名分論には深入りせず、再び大君に復し、待遇も祖法遵守を理由に全面的に天和度に戻している。 』
LINK 朝鮮通信使 - Wikipedia の「文化度朝鮮通信使の接遇改定」の項から引用。
『   文化度朝鮮通信使の接遇改定
 1787年(天明7年)、11代将軍に徳川家斉が就任した。本来であれば早速通信使来日となるのだが、老中松平定信は、1788年(天明8年)に延期要請の使者を、また1791年(寛政3年)には江戸にかえて対馬での招聘を打診した。交渉は難航し、結局20年後の1811年(文化8年)にようやく実現した。この頃になると日朝双方とも財政難であり、経費節減志向でようやく一致したのである。ただ、幕府の出費節減はなったが、国内的な将軍権威の発露というもうひとつの意義は損なわれた。
そのため1841年(天保12年)、徳川家慶が将軍につくと、老中・水野忠邦は江戸招聘から大坂招聘に変更する計画を立案している。西国大名を接待に動員することで大名の勢力削減をおこない、一方で幕府の権威を示し、かつ大坂・江戸間の行列を圧縮することにより幕府の経費を節減できるという一石三鳥の効果を狙ったものである。しかしこの計画は幕府内の反対にあい計画は頓挫し、以後の3代の将軍(家定・家茂・慶喜)就任に際しても朝鮮側に招請は行ったものの具体的な計画には至らなかった。結局、幕府滅亡まで通信使来日の計画はのぼらなくなった。 』
LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(1) の「仏米と幕府使節と流言」の項から引用。
『   仏米と幕府使節と流言
 江戸時代幕末の頃、朝鮮は西洋列強が清国を侵略していることを知って攘夷を決定した。
 慶応2年(1866)3月には、国内で布教するフランス人神父11名を含むキリスト教徒数千名を処刑。それを怒ったフランスは2度にわたって艦隊を送ったが、朝鮮は2度とも撃退し(朝鮮政府から幕府への書簡の中での言。実際は艦隊は海岸部分を一時占拠して、その後撤退している。)、また同じく9月には、大同江を行く米商船シャーマン号を焼き払った。
 朝鮮政府は書簡を以ってその事を日本に知らせたが、徳川幕府はその後に、仏米両国が連合軍を整えて朝鮮を問責せんとしているのを知った。
 それにより幕府は仏米に調停役を申し出、また対馬の宗氏を以って、朝鮮政府に対して事態を憂慮していることを知らせ、またそのことで幕府使節を長崎に送って朝鮮に渡海したい旨を報じた。
 すると朝鮮は、清国の新聞の記事によれば、日本人の八戸順叔という者の話として、「日本江戸政府は船務将軍である中濱萬次郎の新制度により80隻の火輪船(蒸気船)を建造し、それによって朝鮮を征討しようとしている」とあるが、これは事実かと問うた。
 幕府は、「その説(八戸順叔の言説)は虚妄無形のものであり、これらの流言は囂々として煩わしいばかりである。そもそも大君殿下(幕府将軍)は、旧弊を取り除いて文武を一新し、皇国の威を張るために砲艦器械を海外に求めて富国強兵の資とするは皆知ることであって流言に由来することではない。また、フランス国との戦闘の事を聞いた。隣国お互い密接してどうしてそのことを看過できようか。貴国の今後の憂慮を取り除くために特命使節を送りたい」と対馬宗氏を通して答えた。
 すると朝鮮は、「今ここに江戸の使者があるのは、旧約の例にはないことである」と、それを断った。
 そうこうしているうちに幕府が政権を返上して明治の世となり、幕府使節は長崎を去って、このことはそのままとなった。
 以上(朝鮮国交通手続1対韓政策関係雑纂/再撰朝鮮尋交摘要、慶應三年 対韓政策関係雑纂/朝鮮事務書 第一巻)より。 』

 
○李氏朝鮮と明治政府との交流について
LINK 倭館 - Wikipedia の「倭館の終焉」の項から引用。
『   倭館の終焉
 釜山倭館に来航した対馬藩家老は1867年、明治新政府の成立を大院君政権に通告したが、朝鮮側は日本の新しい主権者が「皇上」と名乗っていることを理由に国書の受け取りを拒否した。1871年、日本で廃藩置県が実施されると、江戸時代以来対馬藩に委ねられていた朝鮮外交権を外務省が接収。1872年、外務丞・花房義質が釜山に来航し、草梁倭館を接収して日本公館と改称した。これに対して朝鮮側は強硬に退去を要求し、日朝間の外交問題に発展、日本では征韓論が台頭した。日本は1875年に江華島事件を起こし、砲艦外交によって朝鮮に開国を迫り、翌年日朝修好条規を締結して日本外交使節のソウル駐在を認めさせた。ここにおいて釜山の倭館は200年の歴史を閉じることになった。 』
LINK 日朝修好条規 - Wikipedia の「日朝間の懸案:書契問題」の項から引用。
『   日朝間の懸案:書契問題
 他方、西欧列強が迫っていた東アジア諸国の中で、いちはやく開国し明治維新により近代国家となった日本は、西欧諸国のみならず、自国周辺のアジア諸国とも近代的な国際関係を樹立しようとした。朝鮮にも1868年12月に明治政府が樹立するとすぐに書契、すなわち国書を対馬藩の宗氏を介し送った。江戸時代を通じて、朝鮮との関係は宗氏を通じ行われてきたためである。しかし国書の中に「皇」や「奉勅」といったことばが使用されていたために、朝鮮側は受け取りを拒否した。近代的な国際関係樹立は、はなから躓いたといえよう。
 この問題は、日朝双方の国交に対する思惑がすれ違ったことが原因である。日本側は従来の冊封体制的な交隣関係から、条約に基礎づけられた関係へと、日朝関係を変化させることを企図したのであるが、一方朝鮮側はこれまでどおり冊封関係にとどまり、その中で日本との関係を位置づけようとしていた。前近代における冊封体制下において、「皇上」や「奉勅」ということばは中国の王朝にのみ許されたことばであって、日本がそれを使用するということは、冊封体制の頂点に立ち朝鮮よりも日本の国際地位を上とすることを画策したと朝鮮は捉えたのである。
 なお近代以前の日朝関係については朝鮮通信使に詳しい。
 1868年以来、何度か日本からの国書がもたらされたが、日朝双方の思惑の違いから両国の関係は円滑なものとは言えなかった。書契問題を背景として生じた日本国内における「征韓論」の高まりに、大院君が非常な警戒心を抱いたことも一因である。また釜山においては日朝両国の官僚同士が険悪となっていた。長崎の出島のごとき釜山の倭館に限定した国交を望む朝鮮側と、対馬宗氏から外交権を取り上げて外交を一元化し、開国を迫る日本との間に齟齬が生じたのである。釜山の倭館は朝鮮側が日本、特に対馬藩の使節や商人を饗応するために設けた施設であったが、明治政府は対馬藩から外交権を取り上げ、朝鮮との交渉に乗り出そうとした。その際、倭館をも朝鮮側の承諾無しに接収し日本公館としたことから事態が悪化したのである。結果、必要物資の供給及び密貿易の停止が朝鮮側から宣言される事態となった。
 日本側も単に国書を送りつけるだけだったわけではない。版籍奉還という日本国内の難問を無事に乗り越えた1870年、朝鮮との国交交渉を有利にするため、冊封体制の頂点にたつ清朝と対等の条約、日清修好条規を締結した。これにより冊封体制の維持を理由に国交交渉を忌避する朝鮮を、交渉のテーブルに着くように促したのである。
 1873年に対外強硬派の大院君が失脚し、王妃閔妃一派が権力を握っても、日朝関係は容易に好転しなかった。転機が訪れたのは、翌年日清間の抗争に発展した台湾出兵である。この時、日本が朝鮮に出兵する可能性を清朝より知らされた朝鮮側では、李裕元や朴珪寿を中心に日本からの国書を受理すべしという声が高まった。李・朴は対馬藩のもたらす国書に「皇」や「勅」とあるのは単に自尊を意味するに過ぎず、朝鮮に対して唱えているのではない、受理しないというのは「交隣講好の道」に反していると主張した。これにより朝鮮側の対日姿勢がやや軟化した。 』

書契問題についてのリンク
LINK DSpace at Waseda University(早稲田大学リポジトリ)「明治初期日朝交渉における書契の問題」石田徹著
LINK OUKA(Osaka University Knowledge Archive)(大阪大学リポジトリ)「維新期の書契問題と朝鮮の対応」牧野雅司著

LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(1) の「朝鮮政権内の対立・・・大院君と閔氏一派」の項の後半部分 から引用。
『 そういう中(当サイト管理人による注:大院君から閔氏一族への政権交代が行われる中)で高宗は、日本との交渉経緯を初めて知ることとなったが、大院君の腹心である東莱府使と、その部下である訓導や通事らが、詐偽を以って日本と接していたことに激怒したという。
 『明治7年4月17日 陪通事金福珠談 「国王、即ち其書契の謄本を看て始て積年阻隔之上を知り、諸臣を譴めて云く。我国、数百年来、礼を日本に失せず。今猶、然く思いしに、豈図らんや、其信義に反する、已に数年に及べりと。是、何等の事ぞや。諸臣、詳に陳するに依り、国王、盛怒。忽ち旧府使訓導等を法に抵し・・・」(「公文別録・朝鮮始末(三)」p93)』
 これにより東莱府使鄭顕徳と訓導安俊卿は斬首刑に処され、さらし首となっている。日本との外交を誤った、ということがその理由であった。(「公文別録・朝鮮始末(三)」p93、p97)』
 また通事崔在守は逃亡して捕らわれた時に服毒自殺をしている。罰は財産や家族にまで及んだ。『挙家、老初と無く、数を尽して東莱府に縛送。家財、悉く没収せられ、殊に其妻、懐胎なりしに、猶、笞鞭を加えられ、肉破れ血迸るに至ると(「朝鮮始末(一)」p125)』
 朝鮮は量刑の程度が非常に重い。(例えば、女が倭館の日本人と性的交渉を持った場合は斬首されてさらし首と決められていた。(朝鮮国交通手続2 対韓政策関係雑纂/再撰朝鮮尋交摘要))それは酷いほどであり、しかも親族にまで及ぶ。
 そしてそのことこそが人をして責任逃れや事なかれ主義に向かわせる要因でもあった。 』

LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(1) の「日朝交渉と内政干渉」の項から引用。
『   日朝交渉と内政干渉
 高宗中心の閔氏政権となって日朝交渉が再開された。日本側代表の森山茂草梁公館理事官の提案に応えて、明治7年(1874)9月19日には、修正した書契を受理することと、宮中での応対の形式をどのようにするかの日朝の話し合いを持つ約束がされた。
 しかし、新しく任命された官僚(訓導 玄昔運)は、初めから責任が自分に及ばないように言を左右する者であった。なにしろ大院君派の政治勢力は依然として宮中にはびこっており、いつ政府の方針がひっくり返るか分からないからである。
 日本側は、訓導が政府からの達示すらまともに伝えようとしないことに怒り、激しく対立することもしばしばであった。
 しかも明治7年(1874)11月、民宰相閔升鎬が自宅で先祖祭りをしている時に美しい小箱が届けられ、それを開けたとたんに爆発して母子と共に爆死する事件が起きた。大院君派によるとも閔氏内部からの者による仕業とも言われている。
 これによって、朝鮮側の方針は再び変わり、明治8年(1875)5月15日には、とりあえず「書契」は受理することとし、そのための宴を催すことを指示した。ただしその際にあたっては「旧格」を厳守させるよう命じた。旧格とは、日本側が、服装なども含めた礼儀作法を昔の幕府時代の通りに執り行うことである。
 訓導からそれを聞いた森山理事官は、明治政府の服制による大礼服で宴に出席するつもりであった日本側に「旧格」を遵守させようとするなどは、一国の内政問題に属することまで立ち入る侮辱であるとして激語して拒み、先の応対の形式を日朝で話し合うという約束を遵守せよと迫った。
 日本にとってこのことは独立国たる体面として容易ならざる問題であった。幕府時代から朝鮮との交渉は対馬の宗氏がしていたが、かつて国書の偽造までもおこなったように、宗氏は朝鮮との交易抜きに経済的に成り立たないところから、しばしば朝鮮に取り入り、そのために臣下の礼まで取っていたらしいのである。
 後にそのことを外務省出仕の調査員から厳しく批判されている。
『宗氏ノ朝鮮ニ於ルヤ 名 交際ヲ為スト雖モ(いえども) 実ハ累百年 彼ニ食ヲ仰キ 臣下ノ礼ヲ取 私交ノ謬例 枚挙スルニ遑(いとま)アラス』(外務省出仕斎藤栄建議)と。
 これは、対馬が朝鮮と結んでいた条約として、國譯朝鮮條約類書の中に「正統癸亥約條  一 島主ノ處 毎歳 米大豆 共ニ 貳百石ヲ賜フ事」とあるが、このことであろうか。もっとも後の正徳壬申條約では百石減らしているが(笑)。(朝鮮国交通手続2 対韓政策関係雑纂/再撰朝鮮尋交摘要)
 ともかく幕藩時代の一小藩の生き方としては無理からぬことであったろうが、日本国政府が、そのような「旧格」の礼を踏襲する事は不可能なのである。 』

 
○征韓論について
LINK 征韓論 - Wikipedia の「概要」の項から引用
『   概要
 江戸時代後期に、国学や水戸学の一部や吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』・『日本書紀』に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられた。幕末期には、松陰や勝海舟、橋本左内の思想にその萌芽をみることができる。
 明治維新後に対馬藩を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行うが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側に拒否された。朝鮮では国王の父の大院君が政を摂し、鎖国攘夷の策をとり、意気おおいにあがっていた。明治3年(1870年)2月、明治政府は佐田白茅、森山茂を派遣したが、佐田は朝鮮の状況に憤慨し、帰国後に征韓を建白した[6]。9月には、外務権少丞吉岡弘毅を釜山に遣り、明治5年(1872年)1月には、対馬旧藩主を外務大丞に任じ、9月には、外務大丞花房義質を派した。朝鮮は頑としてこれに応じることなく、明治6年になってからは排日の風がますます強まり、4月、5月には、釜山において官憲の先導によるボイコットなども行なわれた。ここに、日本国内において征韓論が沸騰した。
 明治6年(1873年)6月森山帰国後の閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられた。参議である板垣退助は閣議において居留民保護を理由に派兵を主張し、西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。後藤象二郎、江藤新平らもこれに賛成した。いったんは、同年8月に明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定するが、9月に帰国した岩倉使節団の大久保利通、岩倉具視・木戸孝允らは時期尚早としてこれに反対、10月に遣韓中止が決定された。収拾に窮した太政大臣三条は病に倒れた。その結果、西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野(征韓論政変または明治六年政変)し、明治7年(1874年)の佐賀の乱から1877年の西南戦争に至る不平士族の乱や自由民権運動の起点となった。 』

佐田白茅の建白書について
LINK 征韓論 - Wikipedia の脚注6 から引用。
『 「佐田白茅外二人帰朝後見込建白」(『公文録・明治八年・第三百五巻・朝鮮講信録(一―附交際書類)』、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A01100124300、国立公文書館)9頁に次のように記されている:「朝鮮知守不知攻、知己不知彼、其人深沈狡獰固陋傲頑 覺之不覺、激之不激、故断然不以兵力@焉、則不爲我用 也、況朝鮮蔑視皇國、謂文字有不遜、以興耻辱於 皇國、君辱臣死、實不戴天之冦也、必不可不伐之、不伐之 則 皇威不立也、非臣子也」。 すなわち、 「朝鮮は守るを知りて攻めるを知らず、己を知りて彼を知らず、其の人は深沈・狡獰・固陋・傲頑、 之を覺して覺らず、之を激して激せず、故に断然兵力を以って焉(いずく)んぞ@(のぞ)まざれば、則ち我が用を爲(な)さざる也、 況や朝鮮は皇國を蔑視して、文字に不遜(ふそん)有りと謂(い)う、以って耻辱を皇國に與(あた)う、 君を辱らるれば臣は死す、實(じつ)に不戴天の冦(あだ)なり、必ず之を伐たざるべからず、之を伐たざれば 則ち皇威は立たざる也、臣子に非ざる也」。 』

 
○江華島事件について
LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(3) の「砲撃事件報告及び談話集 5. 10月8日、雲揚艦長海軍少佐井上良馨提出の実況上申書(戦闘詳報)」の項 から引用。
『  5. 10月8日、雲揚艦長海軍少佐井上良馨提出の実況上申書(戦闘詳報)
(「雲揚艦長海軍少佐井上良馨帰朝砲撃ニ遇フ実況ヲ上申ス」p4より、旧漢字は新漢字に、変体仮名は平仮名に、句読点、段落、()、現代語訳は筆者。)
(原文は省略)
      (本文現代語訳)
 先般、対馬の海湾を測量した後、朝鮮の東南西海岸から支那の牛荘あたりまで航路研究の命を奉じて出艦した。
 その後、東南海岸の航海を既に終り西海岸から牛荘に到ろうとする途上、艦中の蓄水を胸算すると牛荘着港の日まで艦内に給与し難いが故に、艦を港湾に寄せて良水を蓄積するのを求めようとしたが、当艦は言うまでもなく、我が国の艦船がかつて未航海の海路であり、良港の有無も海底の深浅も明らかではない。
 それで既刊の海図(フランス製)を開いて調べると、一ヶ所だけ江花島(江華島)のあたり京畿道サリー河口のみの概略の深浅を記載しているのが分かった。
 それで針路をその方位に転じ九月十九日に■月尾島[島名]沿いに投錨した。

 翌日に同処を抜錨し江花島(江華島)に向って航行し鷹嶋を北西に望んでしばし投錨した。もとよりこの近海は航海上未開の所なので、士官に命じて水を探させ、また給水を要請させることに不安を感じた。それで私自らがボートに乗り江華島の南を行き、川上に漕いで第3砲台(頂山島)の近くに至る。航路狭く、小さい岩礁が最も多く、川岸をよく見れば小さな丘に陣営のようなものがあり、また一段と低い地にひとつの砲台があった。

 ここらあたりで上陸して良水を求めようと、右の営門および砲台を航行しようとすると、突然我等のボートを目的として、朝鮮側から銃砲を激しく撃ってきた。私は速やかにボートの動きを制して銃弾の方向から避けようとした。しかし、ボートが川の流れを押し返して漕ぎ進むのに乗って向きを回転させようとすると逆の流れに阻まれ、また上陸してその所業を尋問しようとするが、弾丸は雨の如く注ぎ、航路も定まらない。

 進退はほとんど窮まり危険はいよいよ迫った。ここにおいて志をただ防禦のみに向け、水夫に命じて小銃を朝鮮側の砲台に発砲させ、備えていた号火(のろし)を発し、こちらの危急を我が軍艦に報せ徐々に退却した。

 すでにして本艦は号火の指令に応じて、国旗を掲げてこちらに来[これは我が国の旗を掲げることを朝鮮の釜山の日本館よりかねて通知をしていたことを聞いていたことから、掲げさせたものである。]、直ぐに我が方も砲撃する。朝鮮側もまた砲撃する。各々互いに砲撃を交わし弾丸は乱れ飛んだ。しかし、朝鮮側の放つ弾丸はおおよそ口径11サンチ〜12サンチのものであり、その飛距離は6〜7町で、たまたま1弾が本艦を飛び越えたものがあるのみであった。この時わが110斤・40斤の両砲より発射する弾丸は、朝鮮側の台場に命中しこれを破却するを認めた。

 この機に乗じて上陸し、朝鮮側の行動をいよいよ尋問しようとするといえども、海路が最も浅くて着岸することが不可能であり、また上陸しようとするも兵員は僅かにして、その談判もこちらに利のないを思い返し、我が方に戦いを止めるよう命令を下した。

 それからは、第1砲台に向かって航行し、また、各砲の様子を見ながら、士官に海兵と水夫22名の引率を命じた。
 ボート2隻を乗り出して、まさに着岸せんとする時に、朝鮮側より発砲雨の如し。我が軍艦また発砲して援護し、それで上陸をしようとしたが水深が浅くてボートが岸に近づくのが難しい。これより兵たちは奮って水に飛び込む。大喝一声して城門に肉薄する。朝鮮側は固く守ってこれに屈せず激戦の時を費やす。

 その中にあって、両士官は厳命を下し城壁を真っ先に登る者があり、乗じて各士官は兵を分けて率い、北門、西門、東門に同時に迫って火を放ちあるいは銃撃し、また進撃のラッパを高々と鳴らして三面から攻撃する。朝鮮側は大いに敗北する。

 これによって敵側の死者は35名。こちらは水夫2名が負傷する。そのほか敵の逃走する者およそ4百〜5百名があった。捕らえた者はあわせて16名であった。
 婦人と負傷者はすべて保護して無難の場所にて去らせた。

 城中は寂として敵の影は見えなかった。この時東門の岩上山峰[丘名]頂上に、国旗を立てて翻らせ、萬世橋[敵の逃路]の畔に斥候を配置して、兵士を慰労し休息させた。

 これにおいて本艦から兵員を上陸させ、城内や砲台から、銃砲、剣と槍、旗章、軍服、兵書、楽器、軍器を捕獲する。それらは捕虜たちに命じてボートに運ばせた。
 その後、彼等(捕虜たち)に食料を与え、その生命を許し、すべて放免して帰らせた。
 城中に放火しすべて灰燼とした。その後、総員は本艦に戻った。

 ここに到って飲料水は益々欠乏し、諸所を捜索したところ、やや樹木が繁茂した一孤島を発見した。[他は樹木がない。]必ず渓谷の水があると見て上陸して捜し求める。果して清水を得て初めて積水の便宜を求めることが出来た。

 この度は牛荘あたりまで航行しようとして突然に前述の暴挙に遭遇して小戦闘に及んだので、一先ず同月二十八日午前八時に長崎港に帰艦して直に事状を電文通知し、帰京して詳述するを希望したものである。
右実況を謹んで上陳する。(以下略)。
 日本から朝鮮政府に前もって通知されていた「国旗」のことが書かれている。すなわち、
「聞く我国旗を彼国に釜山和館より兼て通知せし由故に掲しむるなり」
と。
 日本国旗のことは明治5年、明治7年と両度にわたって釜山草梁公館に於て日本側から通知され、朝鮮側も了承して受け取っている。すなわち「明治7年9月13日、釜山草梁公館理事官森山茂から廣津弘信宛書簡」に、
「一 [我より](玄昔運訓導へ)[御国旗章及び海軍旗章等を模写し蒸気船の雛型を付し示して曰く]此は我国の国旗及び船艦の旗号也。若し遭風貴国各道に漂着せば宜しく保護あるべし。尤此事は曾て旧訓導えも達し置たれど尚為念再び達する所なり。[彼曰]承諾せり。而るに今此事を状啓するも三件の大体不相立内は各道え布告するに難しからん。[我曰]夫は貴国の取捨にあらん。我は先此事を告くるを要するなり。・・(「明治七年ノ五/巻之二十九 自九月至十二月/1 明治7年9月5日から明治7年9月24日」p20)」とある通りである。
 また、後の日朝両大臣による会談で朝鮮側大臣も「貴国旗見本我朝に達したるは確乎たり」と述べている。(詳細後述)
 雲揚号に掲げられ、前もって朝鮮政府にも渡されていた日本国旗の事は、江華島事件についての歴史認識において「領海侵犯、武力威嚇、計画的挑発」などと著述する人々が決してこれまで触れようとしなかった極めて重要な事跡である。 』

LINK 江華島事件 - Wikipedia の「事件は偶発か、計画的挑発か」の項から引用。
『  事件は偶発か、計画的挑発か
 当時において日朝両政府はこの事件を偶発的なものとして認識し、その認識の下で一連の条約交渉と謝罪要求が進められた。
 江華島事件が、朝鮮側の攻撃を誘発するべく企図された計画的挑発行為によって引き起こされたとする論は韓国など[誰?]では主流な学説となっている。日本国内においても、日本側の砲撃を誘発する意図、組織的情報隠蔽などを疑う学者は少なくない。9月29日付の上申書にも、日本軍の行動は戦闘を起こす意図の記述が見受けられる[24]。
脚注24^ 防衛庁防衛研究所図書館蔵『綴り「明八 孟春 雲揚 朝鮮廻航記事」』(東京都目黒区)"本日戦争ヲ起ス所由ハ、一同承知ノ通リ"の記述。 』
当サイト管理人による注:上の「江華島事件 - Wikipedia」 に記載されている「防衛庁防衛研究所図書館蔵『綴り「明八 孟春 雲揚 朝鮮廻航記事」』は、これの次に引用してあるものだと思います。LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(3) の「9. 9月29日、井上良馨からの報告」の項 )から引用しました。
 この文章を見ると、「本日戦争ヲ起ス所由ハ、一同承知ノ通リ」と言っているのは、9月20日に朝鮮側から砲撃されたので、翌9月21日に日本の軍艦「雲揚」が報復する前に艦長から艦員に述べた訓辞です。しかもその内容は、読めばすぐわかるとおり、「今日これから戦闘に及ぶ理由は、艦員皆が知っているとおり昨日我々がボートを出した時に第三砲台より尋問もなく乱りに発砲され、大に困り果てたためである。」という趣旨です。これをあたかも「日本が戦争を起こす理由は、日本人みんなが知っているとおり」というニュアンスでこの部分だけを切り取り、前後は切り捨ててまったく触れないわけです。学術研究者にあるまじき行為ですし、歴史をねつ造していると言えると思います。
 次のサイトも、参考にどうぞ。LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(3) の「江華島事件への歴史認識さまざま」の項

LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(3) の「砲撃事件報告及び談話集 9. 9月29日、井上良馨からの報告」の項から引用。
『  9. 9月29日、井上良馨からの報告
 次に日順は前後するが、9月29日付の井上艦長からの報告を記す。アジ歴資料ではないが、防衛庁防衛研究所戦史部図書館蔵の『綴り「明八 孟春 雲揚 朝鮮廻航記事」』に収められたものという。
 冒頭に「此段不取敢致御届候也」とあるので、取り敢えずのものであって後の10月8日の報告とは違い、正式のものとは言えない扱いのものなのであろうか。
 以下、「史学雑誌」第111編 第12号 2002(平成14年)12月20日発行 「「運揚」艦長井上良馨の明治八年九月二九日付け江華島事件報告書・・・鈴木 淳」より、井上艦長の報告書部分のみを引用する。
 当艦義、海路研究として朝鮮西海岸廻航中、本月20日同国京畿道サリー河砲台より暴発し、夫より戦争に及びし始末、別紙之通に御座候。則日誌、サリー河図面、及永宗城図面等相添、此段不取敢致御届候也。

明治八年九月廿九日   雲揚艦長 海軍少佐 井上良馨

 九月十二日、天気晴。午後四時長崎出張、夫より五島玉の浦に到り天気を見定め、朝鮮国全羅道所安島[海図クリチントンダロープ]を経て、海上泰静にして、同十九日午後四時三十二分、同国京畿道サリー河口「リエンチヨン」島の東端に外周檣壁を築きたる一城あり[記中第一砲台と記すは、則永宗城是なり]。之を北西に望み贅月尾島に沿い投錨す。

 同月二十日、天気晴。午前第八時三十分同所抜錨、第十時永宗城の上に鷹島[海図カットル島]を北西に望み錨を投ず。而後、測量及諸事検捜且当国官吏え面会万事尋問をなさんと、海兵四名、水夫拾人に小銃をもたらし、井上少佐、星山中機関士、立見少尉、角田少尉、八州少主計、高田正久、神宮寺少尉補、午後一時四十分、端艇を乗出し江華島に向け進む。
 同島より海上一里程の前に一小島あり。此島南東の端に白壁の砲台あり[是を第二砲台と記す]。四時七分、此前面に到りしなれ共、兵備更になく、人家僅かに七八軒あるを見認たり。

 同時二十二分江華島の南端第三砲台の前に至れば、航路狭小にして岩礁等散布し、又東海岸の少し小高き平坦の地に、白壁の砲台あり。陣営の如きもの其中にあり[水軍防営ならんか]。夫より一段低く南の海岸に一の強台場あり。此所は勇敢の兵を以て之を防禦するときは、実に有到要害の地位と見認たり。

 此所へ上陸せんと思え共、日も未だ高く、依ていま少し奥に進み、帰路上陸に決し、同三十分、右営門及砲台の前を已に経過せんとするとき、端艇を目的とし、彼れ営門及砲台より、突然大小砲を乱射すること、陸続雨を注ぐが如し。
 暫く挙動を見合と雖も、進退終に此に究り。故に不得止我より亦其日用意の小銃を以て之に応じ、暫くは打合に及びしなれども、何分彼は多人数にして、且砲台より大小砲を乱射す。我は只小銃十四五挺のみなり。仍て之れと競撃すれ共益なし。故に一先帰艦の上、本艦を以て之に応ずるに不如と、同時五十七分発砲を止む。
 第九時、一同無事にして本艦に帰る。

 同月廿一日、天気晴。午前第四時、惣員起揃、蒸気罐に点火す。第八時檣上に御国旗を掲げ、而後分隊整列。
 抑、本日戦争を起す所由は、一同承知の通り、昨日我端舟出測の時、第三砲台より一応の尋問もなく乱りに発砲し、大に困却す。此儘捨置くときは、御国辱に相成、且軍艦の職務欠可きなり。因て、本日彼の砲台に向け、其罪を攻んとす。一同職務を奉じ、国威を落さゞるよう勉励し、且海陸共戦争中惣て粛清にして万事号令に従い、不都合なきよう致すべく旨、数ヶ条の軍法を申渡し、終て戦争用意を為し、第八時三十分抜錨、徐に進み、砲員其位置に整列す。
 第九時十八分、各砲に着発弾を装填し、第十時二十分第二砲台の前を過ぐ。
 尚進んで同四十二分、第三砲台の前に到る。直に台場に接近せんことを一同切歯すれども、何分遠浅且流潮烈しく、及暗礁散布し遂に近寄ること不能。
 因て不得止凡拾六町の所に投錨[此所すら流潮烈しく、船を留むるのみにて、船の自由甚困難なり]。直に巨離試しの為め、四拾斤を発すれば、八分時を遅れて、彼よりも亦発砲す。

 夫より戦争互に交撃をなす。然れども、彼れが発する所の弾は、大約十一二拇のものにして、飛走すること六七町、偶一弾の遠く超越するあれども、艦を距る僅か一二町にして海中に落けれども、功を奏せざるのみならず、其装填放火の間た時を失すること数十分時、我百拾斤、四拾斤より発する弾丸、海岸砲台に命中し、胸墻を砲却すること二ヶ所現に見認めり。
 朝来互に遠く競合すとも、急埒不致。よって陸戦を掛んことを企望すと雖ども、何分遠浅にして深泥なり。故に端艇は尚更歩行すら不出来。爰を以て少人数にて上陸すとも、敢て利なきを計り、是又相止めり。
 此時最早昼食食事時なり。依て十二時四十分、戦を止めたり。午前十時四十二分より同時まで、戦争時間一時五十八分、其間我弾丸二十七発を費す。
 艦及人員傷疵なく十二時五十六分同所抜錨。午後一時十五分、第二砲台の下に投錨し、食事を整う。午後二時四十分、第二砲台に上陸。其所を焼払い、同六時五分同所抜錨、七時三十三分、再び鷹島の南に投錨す。

 同月廿二日、天気晴、微風北より吹く。午前五時総員起揃、同五十五分抜錨、第一の台場に向う。是則ち永宗城なり。

 六時十六分、戦争用意をなし、各砲に榴弾を装填し、七時十八分、第一砲台の前面凡八町の所に進み、直ちに四拾斤砲を発し、続て各砲を発射す。其内弐拾斤一弾城中に侵入す。然るに彼れ、粛清して一砲を応ぜず。唯城中兵士の群集するを見る。
 七時三十九分、城郭前面に投錨し、直に陸戦の用意をなし、小笠原中尉、星山中機関士、角田少尉、八州少主計、高田正久、神宮寺少尉補、銃隊弐拾弐名を引率し、同時四十三分、端舟二艘を乗出し、已に着岸せんとするとき、彼の台場より頻りに発砲す。然れども少しも不屈、我亦発砲して進む。此所浅うして端舟陸に接近せず。故に依て直に海に飛入り、大喝一声城門に肉薄す。

 敵亦堅く守りて不屈。此時八分時程、尤劇戦なり。東門は角田少尉、神宮寺少尉補、厳しく令し、一声を発し、城壁を乗越す。
 此時我水夫両名手負たり。是より先き、八州少主計は北門より、小笠原中尉、星山中機関士は西門よ、進んで所々に放火し、頻りに発砲しつゝ、鯨声を発し、且つ進撃の喇叭を吹かせ、急激三面より攻撃するを以て、終に守を捨て逃走するもの数百人[此とき城中の人員目撃するに凡そ五百余人なり]。

 然るに、高田政久銃卒二三名壁外を旋りて彼が逃走する南門に向う。遂に四方より追撃するを以て、彼れ道を失い、壁を越え海浜に走り衣を脱して海中に入り、逃れんとするもあり。又、岩間に潜匿するもあり。此所にて敵死するもの弐拾五名、傷を蒙るもの其数を不知。逃走すること恰も、豚児の群り曠野を飢走する如く、或は躓き或は転倒し、其有様実に抱服の至りなり。之を鏖殺すること至て易しと雖、甚愍然、依て逃ぐるものは尽く見のがし、午前八時二十分退軍の喇叭を吹き、諸兵士を率いて東門の前に集合、人員を点検す。我兵、傷を蒙むるもの水夫弐名のみ[内一名、帰艦の上午後二時十分死去]。

 敵、死するもの三拾五名余、生捕頭分五名、其外合せて拾壱名、其他敵の手負、婦人等は尽く保護して無難の場所に逃す。
 此際東門の前岩上山峰頂上に御国旗を翻し、而して午飯を整う。此とき井上少佐、上陸して兵士を慰労し、暫く休息し、同九時七分、萬世橋等に斥候を配置し、追々本艦よりも人数を上陸させ、兵を分て城内及砲台に至り、武器を分捕る。大砲凡三十六門を始め、其外小銃、剱、鑓、旗、軍服、兵書、楽器其他武器類、惣て分捕り、城は尽く焼払い、彼の生捕拾壱名は夫卒として分取の諸品を端舟まで持ち運ばせ、午後九時五十九分、皆済に付、夫々に食物を給与し助命を申渡し放免す。

 同十時三十分、惣員引上げ本艦に帰る。
此夜諸「ランプ」を餝点し、酒宴を開き、本日勝利の祝、及戦死の者霊魂を慰むる為め、彼の分捕の楽器を列奏し、各愉快を尽し、其夜第二時に至て休憩す。

 同月廿三日、晴れ。午前第十時、昨日積残りの大砲を積込み、十一時同所発艦、午後四時十五分サリー河入り口小島前に投錨す。
 同月廿四日、曇、午前呑水を積み、第十時三十分、同所抜錨。天気見定めの為、午後五時七分「ショーラム」湾へ投錨す。
 同月廿五日、晴、午前第三時五十分、同所抜錨、天気宜しく海上平穏にして、同廿八日、午前第十時四十九分、長崎に帰艦す。
 ここでは、「同月二十日、天気晴。午前第八時三十分同所抜錨、第十時永宗城の上に鷹島[海図カットル島]を北西に望み錨を投ず。而後、測量及諸事検捜且当国官吏え面会万事尋問をなさんと」端艇を出したとある。「測量」及び「諸事検捜」且つ「当国官吏え面会万事尋問」とは、表現が広範囲すぎて却って具体的な事を特定でき難いものがある。しかしこの報告書は、上記の森山茂の朝鮮理事日表にほぼ沿った内容となっており、なお24日に小島で給水をしたとの記述もある。
 また、国旗については翌日の21日午前8時に「檣上に御国旗を掲げ、而後分隊整列。」とあるが、もとより艦船が国旗を掲げているのは常のことである。しかしその位置は、上記写真や「雲揚・第二丁卯の派遣」にあるように、ガフ(斜桁)と称する部分でありマスト(檣)ではない。それを「檣上に」と明記しているところから、これは寺島外務卿が言うように、マストに2枚余分に掲げたことを指すと思われる。(寺島もマスト(檣)が2本しかない雲揚号に「三檣に三流の旗を掲げ」と勘違いしているが。)つまりこれは、21日になって初めて国旗を掲げたという意味ではないということである。
 さて、井上少佐はこの報告書の中で、自分の事を「井上少佐」と記述しているところが2個所ある。本来なら「本官」とせねばならないところであろう。どうも部下の手による草稿文的な印象を受ける。それで、そのことの不備も含めて給水の事を強調するようにと、改めて報告書を作成し直すように命じられ、10月8日の上申書を以って正式のものとした可能性がなくもないだろう。
 ただ10月8日の上申書では戦闘期間が1日なのか何日なのかがよく分からないものとなっており、後世この点から上申そのものの信憑性に疑問を持つ人もいるようであるが、それは少し結論を急ぎ過ぎであろう。なぜ戦闘各個の日付がないのかの理由を見出してからでも遅くはないはずである。 』

 
○日本政府の状況について

LINK 明治六年政変 - Wikipedia 「経緯」の項から引用。
『  経緯
 そもそもの発端は西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題である。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対してその旨を伝える使節を幾度か派遣した。また当時の朝鮮において興宣大院君が政権を掌握して儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始めたため、これを理由に日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるようになった。更に当時における日本大使館を利用して、征韓を政府に決行させようとしていたとも言われる(これは西郷が板垣に宛てた書簡からうかがえる。これを根拠に西郷は交渉よりも武力行使を前提にしていたとされ、教科書などではこれが定説となっている。
 この西郷の使節派遣に賛同したのが板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋、大隈重信、大木喬任らであり、反対したのが大久保利通、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文、黒田清隆らである。岩倉使節団派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反し、国内が急激な改革で混乱していたことは大久保らの態度を硬化させた。大久保ら岩倉使節団の外遊組帰国以前の8月17日、一度は閣議で西郷を朝鮮へ全権大使として派遣することが決まったが、翌日この案を上奏された明治天皇は「外遊組帰国まで国家に関わる重要案件は決定しない」という取り決めを基に岩倉具視が帰国するまで待ち、岩倉と熟議した上で再度上奏するようにと、西郷派遣案を却下している(岩倉の帰国は9月13日)。
 大久保は、説得に大院君が耳を貸すとは思えず西郷が朝鮮に行った場合必ず殺される(殺されずとも大院君が使節を拒否した場合は開戦の大義名分になってしまう)、そうなった場合結果的に朝鮮と開戦してしまうのではないかという危機感、当時の日本には朝鮮や清、ひいてはロシアとの関係が険悪になる(その帰結として戦争を遂行する)だけの国力が備わっていないという戦略的判断、外遊組との約束を無視し、危険な外交的博打に手を染めようとしている残留組に対する感情的反発、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという日本の国際的立場(清との琉球帰属問題(台湾出兵参照)、ロシアとの樺太、千島列島の領有権問題、イギリスとの小笠原諸島領有権問題、不平等条約改正)などから猛烈に反対、費用の問題なども絡めて征韓の不利を説き延期を訴えた。
 10月14日 - 15日に開かれた閣議には、太政大臣・三条実美、右大臣・岩倉具視、以下参議の西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣、大久保利通、大隈重信、大木喬任が出席。この際、大隈・大木が反対派に回り、採決は同数になる。しかし、この意見が通らないなら辞任する(西郷が辞任した場合、薩摩出身の官僚、軍人の多数が中央政府から抜けてしまう恐れがある)とした西郷の言に恐怖した議長の三条が即時派遣を決定。これに対し大久保、木戸、大隈、大木は辞表を提出、岩倉も辞意を伝える。
 後は明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、この事態にどちらかと言えば反対派であった三条が17日に過度のストレスから倒れ、意識不明に陥る。太政官職制に基づき岩倉が太政大臣代理に就任すると、明治天皇の意思を拘束しようとした。そして23日、岩倉は閣議決定の意見書とは別に「私的意見」として西郷派遣延期の意見書を提出。結局この意見書が通り、西郷派遣は無期延期の幻となった。閣議決定が工作により覆されたのである。大久保は事前に宮内卿徳大寺実則に対し、西郷らが明治天皇に直訴しに来ても会わせないようにと根回しを行っていた。
 そして西郷は当日、板垣、後藤、江藤、副島は翌24日に辞表を提出。25日に受理され、賛成派の参議5人は下野した。また、桐野利秋ら西郷に近く征韓論を支持する官僚・軍人が辞職した。更に下野した参議が近衛都督の引継ぎを行わないまま帰郷した法令違反で西郷を咎めず、逆に西郷に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣・後藤に近い官僚・軍人も辞職した。
 この後、江藤新平によって失脚に追い込まれていた山縣有朋と井上馨は西郷、江藤らの辞任後しばらくしてから公職に復帰を果たす。この政変が士族反乱や自由民権運動の発端ともなった。』

LINK 明治六年政変 - Wikipedia 「朝鮮との再交渉と「九月協定」」の項から引用。
『  朝鮮との再交渉と「九月協定」
 もっとも、この政変によって征韓論争が終わった訳ではない。なぜなら、朝鮮との国交問題そのものは未解決であること、伊地知正治のように征韓派でも政府に残留した者も存在すること、そして天皇の勅裁には朝鮮遣使を「中止」するとは書かれず、単に「延期」するとなっており、その理由も当時もっとも紛糾していたロシアとの問題のみを理由として掲げていたからである。つまり、ロシアとの国境問題が解決した場合には、改めて朝鮮への遣使が行われるという解釈も成立する可能性があった。そして、それは千島樺太交換条約の締結によって、政府内に残留した征韓派は今度こそ朝鮮遣使を実現するようにという意見を上げ始めたのである。ところが、台湾出兵の発生と大院君の失脚によって征韓を視野に入れた朝鮮遣使論は下火となり、代わりに純粋な外交による国交回復のための特使として外務省の担当官であった森山茂(後に外務少丞)が倭館に派遣され、朝鮮政府代表との交渉が行われることとなった。1874年9月に開始された交渉は一旦は実務レベルの関係を回復して然るべき後に正式な国交を回復する交渉を行うという基本方針の合意が成立(「九月協定」)して、一旦両国政府からの方針の了承を得た後で細部の交渉をまとめるというものであった。ところが、日本側が一旦帰国した森山からの報告を受けた後に、大阪会議や佐賀の乱への対応で朝鮮問題が後回しにされて「九月協定」への了承を先延ばしにしているうちに、朝鮮では大院君側が巻き返しが図られて再び攘夷論が巻き起こったのである。このため、翌1875年2月から始められた細部を詰めるための2次交渉は全く噛み合わない物になってしまった。しかも交渉は双方の首都から離れた倭館のある釜山で開かれ、相手側政府の状況は勿論、担当者が自国政府の状況も十分把握できない状況下で交渉が行われたために相互ともに相手側が「九月協定」の合意内容を破ったと非難を始めて、6月には決裂した。一方、日本政府と国内世論は士族反乱や立憲制確立を巡る議論に注目が移り、かつての征韓派も朝鮮問題への関心を失いつつあった。このため、8月27日に森山特使に引上げを命じて当面様子見を行うことが決定したのである。その直後に江華島事件が発生、日朝交渉は新たな段階を迎えることになる。』

LINK 大阪会議 - Wikipedia 「会議に至る背景」の項から引用。
『  会議に至る背景
 征韓論をめぐる明治6年10月政変で政府首脳が分裂した結果、征韓派の参議・西郷隆盛や江藤新平、板垣退助らが下野し、政府を去った。残った要人は、急速かつ無秩序に行われたこれまでの制度改革を整理すべく大久保を中心に内務省を設置。大久保を中心に岩倉具視・大隈重信・伊藤博文らが政府の再編を行うが、直後に台湾出兵をめぐる意見対立から、長州閥のトップ木戸孝允までが職を去る事態に陥り、政府内で薩長閥のトップは大久保だけになってしまう。
 政府に対する不満は、全国で顕在化し、佐賀の乱はじめ各地における士族の反乱、鹿児島県においては私学校党による県政の壟断を招き、また板垣らは愛国公党を結成して自由民権運動を始動するなど、不穏な政情が世を覆っていた。そのような状況下、赤坂喰違坂で岩倉が不平士族の武市熊吉らに襲撃される事件(喰違の変)が発生した。さらに左大臣に就任した島津久光が、政府へ保守的な改革反対の建白書を提出したことに始まる紛議によって、政局が混迷した。政治改革のための財政的基盤となる地租改正も遅々として進まず、次第に大久保も焦り始めていた。
 当時官界を去り、大阪で実業界に入っていた井上馨は、この情勢を憂い、混迷する政局を打開するには大久保・木戸・板垣による連携が必要であるとの認識を抱き、盟友の伊藤博文とともに仲介役を試みる。木戸との連携の必要性を感じていた大久保もこれに応じ、伊藤に木戸との会談の斡旋を依頼、自ら大阪へ向かう。明治7年(1874年)12月井上は、山口県へ帰っていた木戸を大阪に呼び寄せ、また自由民権運動の士小室信夫・古沢滋らに依頼して、東京にいた板垣も招いた。こうして大阪に集った大久保・木戸・板垣三者による協議が、井上・伊藤を周旋役として行われることとなった。』

LINK 大阪会議 - Wikipedia 「大阪会議と新体制の成立」の項から引用。
『  大阪会議と新体制の成立  大久保の変化を聞いて手応えを感じた板垣も、立憲政体樹立・三権分立・二院制議会確立などの政府改革の要求が認められたことで協力的な態度に転ずる。また大久保が望んだ木戸の復帰などの人事案などが合意を見たことで三者の思惑がようやく一致した。2月11日、木戸が大久保と板垣を招待する(井上・伊藤が同席)という形式で、北浜の料亭「加賀伊(かがい)」での三者会議が行われた。この会議を「大阪会議」と呼ぶ。ただしこの席では政治の話はいっさい出ず、三者による酒席・歓談のみが行われたという(『保古飛呂比』等)。1ヶ月におよぶ議論の妥結を喜んだ木戸は、舞台となった料亭・加賀伊の店名を「花外楼」と改名することを提案、みずから看板を揮毫した。
 三者合意による政体改革案は、ただちに太政大臣三条実美に提出され、3月に木戸・板垣は参議へ復帰することとなった。合意に基づき、さっそく4月14日には明治天皇より「漸次立憲政体樹立の詔書」が発せられ、元老院・大審院・地方官会議を設置し、段階的に立憲政体を立てることが宣言された。いっぽう板垣は参議就任により、愛国社創立運動の失敗を招いたため、自由民権派から背信行為を厳しく糾弾され、釈明に追われることとなった。』

LINK 大阪会議 - Wikipedia 「大阪会議体制の崩壊」の項から引用。
『  大阪会議体制の崩壊
 難産の末に確立された新体制であったが、ほどなく地方官会議の権限をめぐって木戸と板垣が対立するようになり、さらに参議と各省の卿の分離問題で、両者は決定的な対立を迎える。折から発生した江華島事件の処理をめぐる意見対立も重なり、板垣はついに参議を辞任した。大阪会議体制はわずか半年にして崩壊する。板垣とセットで入閣した木戸の発言力も必然的に下がり、さらにこの頃より持病の悪化から表立った政治活動を行いにくくなったこともあり、木戸の政府内での地位も低下した。
 また一時期、板垣と連携する動きを見せた左大臣・島津久光が、自身の主張が認められないため辞表を提出し、岩倉・大久保らが主導権を握る体制に戻った。ここに大阪会議で決定された新体制は完全に崩壊した。結果として大阪会議以前の大久保主導の体制が強化された形で復活した。短期間だったが、この大阪会議で将来的な立憲政体・議会政治の方向性が示された。』

 
○朝鮮政府の状況について



 
○江華府での日朝交渉について
LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(3) の「砲撃事件報告及び談話集 8. 日朝両大臣の会談における申大臣の朝鮮側報告」の項から引用。
『  8. 日朝両大臣の会談における申大臣の朝鮮側報告
 それでは、朝鮮側はこの事件をどのように見たのか。そのことを伺い知る史料を後に江華島で行われた日朝両大臣の会談記録から拾い上げたい。
 以下は、砲撃事件に関することだけの朝鮮国大臣申の発言の抜粋である。
(「黒田弁理大臣使鮮始末 正本/2」p16より抜粋して旧漢字は新漢字に、句読点、()は筆者。)
申 「江華島は京城接近の地故に守衛を厳にす。貴国徽章見本は既に我政府へ御差出し相成しなれども、未だ地方へは達し置かず。尤、其船は黄色の旗を立たれば全く別個の船と認め、防守の為砲声を発せしなり。」

申 「地方よりは黄旗なりし由を届け出たり。誤り認めたるか。尤、貴国旗章見本は未だ江華へ達知せず。且、其際異様の船舶近海へ来往するの説あり。故に貴国舩なるを知らず砲声を発したるなり。今般廣津(廣津弘信副官)よりの報にて初て貴国舩なりしを知れり。」

申 「貴国旗見本我朝に達したるは確乎たりと雖ども、全国へ公布せざるは両国交際の事未だ十分ならざる処あれば外務卿の書契を収むるの事に至て後公布すべしと思いしなり。今地方に於ては別に公布を聞かず。忽ち黄色の旗を見、発砲せしならん。然らざれば平常商船等の海上風波の難に罹るの事あれば、直に之を救恤するを為す。況や貴国軍艦に謂れなく無礼を加う可けんや。」

申 「当時其船若し我国に留り、果して貴国船なるを知らば処分の道もあるべきに、其船は永宗城に至り火を放ち兵器を奪い直ちに帰り去りしにより、全く外夷の所為なると思いしなり。自後此等の事出来せざる様注意いたすべし。」

(p27より)

申 「貴国船なるを知らずして発炮す。故に守兵罪なし。」

申 「既に貴国船なりしを知れば、我朝廷宜しからざる事を為せしと思うなり。」
 日本国旗を受け取っていたのは確かであることと、日本の軍艦と分かっていたらどうして無礼をしたろうか、という朝鮮国大臣の発言は、この事件の歴史認識の史材として重要であろう。 』

LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(4) の「打ち明け話・開化派の苦悩そして希望」の項から引用。
『  打ち明け話・開化派の苦悩そして希望
 やがて、江華府での大臣同士の会談に同席する者が、朝廷から派遣されたとして釜山草梁公館への担当官である訓導 玄昔運を伴ってやって来た。司訳院堂上 呉慶錫である。
 この人は、清国との外交に携わるなどして少しは世界のことが見え、以前から、国交は開くべきであり、このまま孤立していることは出来ないと、朝廷に言上している人であった。
 いわゆる開化派の一人である。
 彼は日本の大臣をどのように迎えて応対したらよいのかを日本側に直接尋ねるように朝廷から命じられて来たのであったが、このような人物を先遣したところに、朝鮮政府の意向はもう決定していたも同然であった。
 日進艦内で外務大丞宮本小一、同じく森山茂らが応対した。
 ひととおり、両国大臣のことやその対応など、また会談する場所の特定などのことが話し合われ、茶菓が出される頃には打ち解けた雰囲気となった。
(韓国官憲トノ応接及修好條規締結ニ関スル談判筆記/2 明治9年1月30日から明治9年2月19日)より

 以下、その応対を所々は省略し且つ現代語に直して紹介する。また話者として、宮本小一を「宮」、同じく森山茂を「森」、司訳院堂上 呉慶錫を「呉」、訓導 玄昔運を「玄」と記す。

呉「これは打ち明け話であるが、自分は数回清国にも行き、その事情をも目撃し、我が国も到底外交を開かないわけにいかず孤立し続けることは出来ない事を朝廷にしばしば言上し、日本と交際するべきであると言っても、政府は少しもこれを採用することなく、大日本国を対馬一州ぐらいに思っていたのである。しかし今度の大事に至って却って自分に委託したと言える。(略)」

宮「誠にそのとおりである。ただ我輩から見れば、清国の外交も誠に拙いものである。しばしば失敗しては侮りを海外に遺している。しかし、いずれにせよ外交を開く貴国は、対馬の事情すら詳しくは知らない。まして海外万国のことも。ただ、君はすでにそのような志があるなら尽力せられよ。ともかく友好の増すことを願う。」
 ここにて酒を出す。

呉「(我が政府の)人々は、突然来たからここは無視しようとか朝命がないから外国の官憲と会見する必要もない、などと言って逃げれば大なる罪となると思う。自分が清国に行って初めて全権の使臣ということを知った。決戦・講和がその手にあると。しかし我が政府は全権がどういうものかも知らない。しかも大院君は隠居して別に執政官が居るというのに、諸官は極秘に大院君の認可を仰いでことをすすめている。だから諸事が堂々巡りや遅延することが多い。ところでいつ頃到着されるか。」

宮「ここからどれくらいかかろうか。」

呉「仁川に至ってからはだいたい一日ぐらい。」

森「今はそのことはいつと言い難い。水深を測量しながら来ているから。」
(中略)

呉「先ほどから申すことは内情を話していることで、これが政府に漏れれば自分は再び5尺の体を容れる所はない。もっとも応接の仕方を問う以外の話は朝命ではなく自分ひとりの話であり、とにかく今度のことは諸事に不都合のないよう願うのみである。」

宮「これはまた私談であるが、先生はしばしば北京へも行かれたならその事情も熟知してあろうが、いったい国の大事を談ずるには必ずその国の首都においてするのが常例である。北京には各国の使臣が来往し我が国の使臣もある。このような状況からすれば、日本としても直ちに貴国の首都で会談するのは当然のことと思える。しかるに貴国は外人を内地に入れては風俗を見られるとか国勢を察っせられるとか言って、まるで婦人の身体を他人に窺わせるように思うのに似ている。これらの事を考慮したからこそ首都に行く前に江華府と定めたのである。しかし朝命がないから会おうとしないなど言うことがあれば、やむを得ず、仁川より首都まで1日と承れば陸行でもして直に入京出来るとも思える。日本側には、北京に使節が来往するのが普通であると思えるので、それが無理とも思えない。」

呉「先ほどより申すところは我が国情を打ち明けてのことで、当初はもちろん釜山においてもこの話が、もし少しでも我が国の人に漏れれば実に罪に当たるところを知ってほしい。故に今日の話は聞き捨てにして下されよ。聞き捨てにして下されればさらに話そう。」

宮「誠に然り。今日のことは相互に懇談ということになそう。深く考えられるな。」

呉「老婆心より申すが、江華島に至り、上陸の際にもし凶徒らの暴挙などがあったら何と思われる。」

宮「そのことがもし貴政府のなせることでなく、他の者の挙ならば、日本側では犬の吠えるくらいに見て深く無礼とは認めないであろう。」

呉「これは実に我が国に対して身を置くところない話なので、万一も漏れないことを願いたい。先年、まさにアメリカ船が来ると(1871年5月のアメリカ艦隊襲来)、大院君はその頃は全権を持つ最中であった。その時に自分は大院君に、開国せざるを得ないことを説いたが、米船はわずかの砲撃を受けて退去したので、それ以来自分は「開港家」と言われて、何を言上しても取り上げられることがない。貴国との交際も、これをするべきであると論じても、蛙の面に水で今日に至っているが、やはり米船が容易に退去したのと同じ事ぐらいに思っているのである。故に、江華に行かれれば、あるいは不慮の小暴動ぐらいはないとも言えない。また江華府の官吏もこれまで西洋型の艦船は打払うべきとの命令があったので、今回も別にそのことを制止する朝命がないからというので、結局は日本の艦船が来るのを拒否するかもしれない。今日の情勢を見ると、貴国の大臣は彼の地に到着したら直ちに上陸して威厳を示されるに越したことはない。でないと、また停滞延滞して釜山の談判と同じになってしまうであろう。自分らも皆に啓蒙しているが、信じる者がいない。今回のことでひとたび蹉跌すれば、実に万民に塗炭の苦しみを惹起することになるのを恐れるが故に、ここまで内情を打ち明けるのである。」

宮「こちらからもご注意申さん。8年前のアメリカ船のことは、北京駐留の米国公使と東洋滞航の米海軍将官との意見に出て事を挙げたのであって、本国政府の意向ではない。故にその後、再挙にも及ばないとのことである。フランスもまたその通りである。しかし、今回の弁理大臣の事は、厳に日本天皇の厳命を奉じられてのことなれば、これを8年前の事件と比較されては提灯と釣鐘、天と淵との差がある。これはついでの話であるが。」

呉「そのことは、自分もまたよく知っている。しかも今回、そのことを朝廷に報告しても信じる者が一人もいない。先年、自分が支那にいた時に、北京において貴国勅使が我が国と台湾とマカオの談判に交渉するのを見て、これを我が朝廷に報告したが信じない。それで台湾出兵の挙があったのに至って、それ見たか、この次には事が我が国に及ぶぞとまでに論説したが尚且つ信じようとしない。歎くべし。」

宮「それはまた常の用心深さには感服の至りである。」

呉「これは一つの意見であるが思うのに、海外各国より早晩手を我が国に出すに相違ない。そもそも我が国からこそ交際を貴国に求め、緩急に際して斡旋をも願うべきはずである。それに引き替え今日の現況なり。歎くべし」

森「それほどの御志ならば、この上ともお骨折りを願う」

呉「今回のことで万民の塗炭を惹起することを恐れる。自分は今、自国に対して叱り言を吐くは実にこういうわけであるが、貴大臣が江華に至られたら、なるだけ威厳を張られよ。自分はしばしば我が大臣に申すも大臣はさらに世界の形勢を知らず、今日に及ぶとも茫然として昨日の如し。江華に前進されたら或いは、小暴挙もないとは保証できないが、もう我が朝議で拒否することはとても出来ない。これによって精一杯に国威を張られよ。両君よく了解されよ。」

森「領意する。しかし大臣の意向はどう出るかは分からないが。」

呉「これほどまで説明すれば我が国の事情はたいてい洞察されよう。」

宮「左様。たいていは甚だ詳しく理解した。」
(中略)
 以下、話者が重なって誰かが特定できない場合は、「彼」「我」と表記する。

呉「これより雑談に渉る」

呉「御両君の年齢は?」

宮「40歳」

森「35歳」

宮「両君は?」

呉「46歳」

宮「しからば余程永く力を国事につくされしと存ず。」

玄「自分は40才、すなわち大丞殿と同行なり」

宮「壬申でござるか」

玄「丁酉」

宮「しからば陰陽両歴の差あり。自分は君に長ずる1歳なり。」

玄「さて、これまで多年にわたって森山君の事に対しても、最初から自分の力が及ばなかったとは思われない。ただ力を尽くすことが足りなかったのであると思われる。しかし今日この地に対面した。心おのずから楽し。」

森「自分も然り。」
(中略)

森「趙寧夏氏はつつがなきや。」

彼「然り。」

呉「(中略)趙寧夏が書を森山公に贈った一連の事も自分はよくこれを知っている。それで、同氏はその書を贈ったために今日では却って不都合な目に会っている。当時、民宰相の(横死)事件があり、貴書(返事)を受け取らなかったのはもとより不当ではあるが、今日に至って公平にこれを見れば、かえってあの時に受けなかった事が幸いであった。何となれば、あの時に貴殿の書を受けても我が政府内には必ず不測の苦情が起こるはずであったからである。今日に至っては事一挙に決して、その効果が却って上がるであろう。」
(中略)

宮「(朝鮮から)北京に至るには山海関より牛荘にかかって行くや。」

呉「否、晋陽を経由する。貴殿は天津を通られた事があるか。」

宮「自分は彼の地方に行ったことがない。」

森「自分もまたそこに行ったことはない。」

宮「同行している者には行った者が多くいるが、自分ら両人はまだ機会を得ない。」
(中略)

呉「牛荘には領事館を置かれるか。」

宮「天津と兼務である。」

呉「領事館は支那の中で何処何処に在るや。」

宮「天津、上海、澳門(マカオ)及び英領なれど広東省の香港。」

呉「その辺の地方にはしばしば遊覧せり。」
呉は、いろいろと地理のことを談じた。

呉「貴国人の清国に往き行商する者はそう多くはないが、清人の貴国に往くのは殊に夥しいようである。」

我「近来極めて多く商客3千人もあろう。その他は召使や包丁人となり、或いは船舶の使役となる者が甚だ多い。」

呉「吾々の如きも家族を引き連れて貴国に往かば善く入られようか。」

我「決然として迎へん。」
 2人は声を上げて笑った。

宮「日本の都に至れば世界の事情を悉く知ることか出来る。各国の人がいないことがない。」

呉「自分はよくそれを知っている。」

森「蒸気船が通航しだしてからは、貴国などは直ちに隣に並んでいるのも同じである。」

彼「誠に然り。汽船、軍船、貴国に幾多隻あろうか。」

我「日本形は数万、西洋形は300ぐらいであろう。自分らは内務に関せず、これをよく知らないが大抵このぐらいであろう。」

彼「陸路蒸気(蒸気機関車)は。」

我「神戸より大阪に至るのが1条。横浜より東京に至るのが1条、すでに成れり。今また西京と東京の中間に1条を架そうとしている。その長さは数百里。」

呉「電気が字を書くと。」

我「然り。電信機は全国に縦横して網の如し。東京より上海と一日中に座談すべし事を朝廷に啓陳するも、まだ東京に至るを要せず。」

呉「左様なり。左様にありてこそ人間が住むべき世界と云うのである。」
 訓導が艦内を見たいと言う。(中略)

森「これよりなお小さい船舶があり、それの方が却って用をなす。」

呉「大も小もなく火輪船とさえ言えば此のようなものと思う。なるほど、小なる方が便利であろう。」

宮「貴国なども汽船を造り、島を渡ったり、天津などに通航するには、小さい方が都合が良い。」

呉「我が国が汽船を備えるように至るのは、中々程長き事であろう。いつともこれを見るの日あろうか。」

森「どこの国でも同じような形勢である。ただ開明の進歩にしたがって自ずから成るべし。」

呉「さりながら、世界中にても我が国などは殊に迂遠の国なれば如何せん。」

宮「石炭ありや。」

呉「有り。しかしこれを掘り、またはこれを用うるの方法を知らない。」

宮「石炭あれば大いに好し。」

呉「然り。我が国も鉄と石炭を掘る事を知らば国必ず富まん。」

我「然り然り。」

呉「開化の人に会い、開化の談をした。情意余さず述べた。今日は是にてお暇申さん。先刻より自分が打ち明けたことは一々真なり。更に虚偽なし。真実を告げておかねば、一方が(朝鮮側が)ただ茫然として熟慮も何もしてない相手であるから、事に大錯誤が生ずるのを恐れるのである。自分らが今日の事情を詳細に報告しても、我が政府にはこれを信ずる者もないからただ一通りを報告してその上に命令を待って帰京しよう。」

宮「先ほどからの種々の懇談は有り難いことであった。しかし一通り報告すると申されても、我々の江華府行きの事への応対は必ず遺漏されることがないように。」

呉「それはもとよりである。よって政府から直ちに江華府の責任者に下命があったら礼を欠くことはないであろうと思うが、もしその下命がある前に到着されるという事があれば懸念なくもないが、とにかくそれに関係なく直ちに上陸された方が自ずから道は明るくなるであろう。」

 ここで呉は、私(この対談の筆記録者のこと)の官職姓名を問う。しかし私には、見合う官名などない。そこで太政官出仕末松謙澄と答え、また今回の弁理大臣の随行として書記官の後ろに従って行くので、今からも時々は応接の光栄にあうと思いますとの意味を言った。

呉曰く、江華迎接の日に及べば、しばし会晤の機会もあらん。
 』

LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(7) の「日朝修好条規締結余話」の項から引用。
『  日朝修好条規締結余話
 さて、2月28日に日本に帰った黒田一行たちであったが、その前日つまり27日の条約調印後、次のように宮本小一外務大丞、野村靖外務権大丞と、申大臣たちとの話し合いが持たれている。
 日本の全権大臣派遣に対する朝鮮側の答礼としての朝鮮修信使派遣についてのことが議題の中心であったが、宮本・野村はそれにとどまらず条約なった朝鮮を同盟国と呼んで経済、外交、国家観、といったことにまで突っ込んだ話をしている。
 それは、当時の日本が日朝関係というものをどう見ていたかまでが伺え、筆者としてはある意味興味深かったので、少し長いがここに掲載する。
(韓国官憲トノ応接及修好條規締結ニ関スル談判筆記)より、適宜句読点、ひらがな書き、カタカナ書き、語句などを修正した。
(2月27日条約調印後、宮本小一大丞卿、野村靖権大丞卿は、申大臣の居館を訪ね、次のような会談を持った)

野村「両国和親の条約、調印までも既にすんだ上は、本日は特に懇情をもって相接し、自分たちが出発するに臨んで、なお申し上げたいことがあるので篤とお聴き頂きたい。」

申「貴意を了解する」

野村「今般、我が国において現に両大臣を差し向けられたことについては、貴国においても速やかに答礼の使節を我が国に差し向けられたい。元来、両国にて対等の礼を行う上は、万事つとめてその和平を得るようにすべきは勿論である。かねて説くように、我が国においては偏に三百年の旧交を重んじ候より、ご承知の通り現に貴重の大臣を派出し、数隻の軍艦を以て千里の波涛を航し、従来の紛糾を排除し、更に和好を結びたるは右の出費のみを算しても真に容易ならざる事なり。況や従来貴国の我を処するの計行をもってすれば今般も尋常の談判に至り難きを見込み、かねて話し申せし如く、馬関長崎等の地には数多の軍艦及び兵隊を繰り出しこれあり。これらもみなこれ両国の旧交を重んずるの主意より出たることなり。この辺を考えられても貴国において和交の本意を表し速やかに使節を答派せられるべきは当然のようにあられ候。しかるに我が旧幕府の時に貴国より使節をわが国に差し立てらるるは容易ならぬ雑費もかかるよし承りたり。右らは今日においては実に無用のことにて、方今は各国とも使節を派出するには書記官とも僅か五、六名くらいに過ぎずして、その簡便を尊び、その繁雑を省き、ただ情意の相通ずるを主とする。ゆえに貴国より使節を派することに至らば、釜山まで出向きにさえなれば、時々我が国より往復の便ある汽船に乗り込まるれば、こと誠に容易なり。くれぐれもこのことありたし。」

申「累々の貴意、事理自ずからまさに然るべしと存ず。詳らかに我が朝廷へ具申すべし。」

宮本「ただ今、野村より申し上げし如く、貴国にていよいよ使節派遣の順序に相運べばまことに大慶なり。釜山より我が国の蒸気船に乗り込まれ下関に至り、それより郵便船に乗り換えて東京に至れば実に簡便にて、なるだけ出費もかからぬように周旋いたすべし。且つ政府へは進贈物等は一切これなくして可なり。昔日は贈答を厚くして礼となせしが、方今は友好の国にても贈品を持参するなどのことは更に無し。この度両大臣より諸品を呈出したれども是は条約順成を喜ぶの心に溢れてそれがためにかくしたるにて、決して常時使節往復の例礼にはこれなし。
さて、貴使差遣の事はこの方にて期限を刻する訳にはこれなしといえども、なるべくは六ヵ月後に通商章呈取調になるその前になさるれば、我が国の事情もつぶさに分かり、我が政府の誠意をも了解せらるべし。さりながら六ヶ月内と申しては貴国にてなおその都合に運び難きことならば、先ず本使節には及ばず。理事官か又は遊覧書生にても我が国の形勢を視察するに足るべき人物を差し立てらるる様に相成るときは、なお更手軽にてよく相分かるべし。
いったい貴国にては我が国人の洋服を着くるを見て、日本人は残らず夷狄に変性したりなど言う人多くあり。また、その外にも種々難しき議論などする人もあるよし。成るだけは掛かる人たちを出され、我が国の実況を目撃して会心する所あらしめば、殊に貴国の都合にも好かるべしと存ず。」

申「なるほど、左様の者を遣わす方、至極よろしからん。何れにも朝廷へ申し立て必ず右の運びに立ち至るように斡旋すべし。もしその場合に至らば殊に両君の意を煩わすを請う。」

宮本・野村「領承。何様にも周旋すべし。」

野村「釜山港の事は従来の交易場なれども、六ヵ月後の通商章程取り決めまでは、先ず諸事旧慣によらざるを得ざるべし。さりながら貴国にてもこれまでの通り過厳に処分あられては、自然紛糾を醸し、今般条約の主意に悖るの境に至ることなきも必すべからず。故になるだけ寛裕にせられたし。たとえばついに石垣を越え(外に)出ればたちまちこれを厳に排斥し、又は門前に至ればたちまち扉を閉じるようのことは無いようになされたし。もっともこの方においても精々注意し強圧らしき様成ることはなさせまじ。」

申「是また了承す。速やかにこれを東莱府使に通達すべし。しかし貴方においてもなるだけ注意せしことを望む。」

野村「本日、条約調印の済み上は、ひとり東莱府へ達するのみならず彼の御批准の意に准じ、速やかに全国に布令せらるべし。我が国にては速やかに条約文を刊刻して全国に布くを例とす。」

申「勿論、全国へ布告なすぺし。」

野村「前日、照会せし貴国国旗の事は速やかに製造して一本を送逓せられたし。右は同盟国互いに慶弔のことあるときには必要の具なれば送逓すること速やかなるを期す。」

申「了承す。これまた朝廷へ具陳し我が使節差遣のことある時に携帯せしむべし。」

野村「さて、今一事改めて申し入れたき事あり。他にあらず。本日既に和親通商の条約結了については六ヵ月後には彼の通商章呈を議立するべし。しかるに本日の条約はいわば両国相和親すという名と目すべし。また、通商章程は真実なり。実をふまざれば名すなわち無用物に属す。ゆえにもし彼の章程を議するの時に至り双方の議、相背紛糾する事あれば自ずから本条約の意に悖り違いするなるをもって再び不測の事体にも立ち至るべし。その期に至らば閣下今日の労意も空しく水泡に帰すべし。この事くれぐれも申し上げ候により、名実相反せざるように精々貴慮を注がれたし。
元来両国の間、対等の権を相有しその盟を永遠に伝えんと欲せばすなわち互いに富国強兵をもって国本を固くせざるべからず。しかして富国強兵の道はその国の人民繁殖して有無相通ずるに在るべし。有無相通じて人民繁殖するにあらざれば以って富国強兵に由なし。富国強兵にあらざればすなわち永遠の親盟を期し難し。いわんや方今世勢一変し、欧州各国互いにその富強を競い、万里の波涛も時日を刻して来往するの活動世界に際し、いたずらに無形の精神を説き、空しく定数の天険を頼んで万国を拒絶し、自ら孤立せんとするは実に思わざるの甚だしき志なり。
過日も聞くのに、通商章程議立の日には米穀輸出をば禁止なしたきとのよし、又国内物産寡少を以って他に出すに足らず、さりとて他より仰がざるを得ざるものもあり云々と陳談ありしよし。右は一通り御尤ものように聞こゆれども、ただ失敬ながら経済上において大なる相違の御所見と言わざるを得ず。我が国にても20年前はやはり右の如き説を主張せし人多数これあり。それがしの如きもすなわちその一人なりしが、追々と経済学問の開くるに従い今日に至りては全く前日と反対の見込みと相成りたり。」

   是に於いて米穀輸出を許せし前後の形况、飢饉の年の飢餓人の有無及び物産運輸の事業を論述す。

野村「右のわけにつき盟約永続富国強兵も到底通商章程の実事に帰するなり。且つ又大世界の現況を察するに清国日本及び貴国とも相互に孜々として富強の実を謀らざるべからざることは、過日も陳述せしが如し。思うに失敬の申し分ながら、貴国にては此の上人民に増税を課することは難かるべし時なれば、このままにては差し当たり軍艦を造る等の業に着手せらるることも難かるべし。右らは失敬のように聞こゆれども、自分ら我が国にて従来経験上より検し得たる事を懇談に及ぶなり。」

申「軍艦製造などは我が微力にて中々企て及ぶ所にあらず。且つ我が国にては開祖以来三綱五倫の学に従事し、天険により外敵を防ぐを知り、絶えて外国と交通せず、経済の学等に至りては実に茫手としてこれを知らず。本日の高談つぶさに会心す。なお篤と朝廷に申告せん。」

宮本「ただ今、野村より富国強兵論を申し述べたり。右は経世上の要務にして一日も打ち棄てられ難きことなるは申すまでも無し。右につき思考するに貴国人民は兎角勉強力に乏しきよし承れども、人間は誰にても欲のなきものはこれなし。導くに欲を以ってすれば自然に奮発いたすべし。それにつき今ここに貨幣の論を申し上ぐべし。いったい上古は物をもって物に換え、これを有無貿易するということは内地は勿論外国貿易も同様にて何れの国も同じ。しかるにそればかりのことにては、たとえば甲の人は銅を所持しこれを売らんと欲し、乙の人はまた米を売らんと欲す。しかも乙の人は銅の入用これなく、甲の人も米の入用これ無き時は、互いに売買も出来ず、又甲の人は米を買わんと欲するも、所持の銅さらに売れざればその米を買うべき代物なし。かようなる訳なるにより銭貨なる者を制して貿易の媒酌とす。既に貴国にても常平銭これあれば右の理は了解せらるるなるべし。今殊に贅説を費やさず、ただその便利を一層進ませんと望む所は金銀貨なり。それゆえに何れの国にも鉱山を開き金銀採掘の便を謀るなり。」

   是に於いて日本金銀銅紙幣の四種を出しすなわち銅銭百枚を以って銀銭一枚に換え、銀銭十枚をもって金銭一枚に換うる訳、ならびに1円金は貨幣の本位なる事。金銀に銅を混和する分量の訳などを一つひとつ細示す。

宮本「かく銅銭は少数のものを売買するために作りたるものにして、もしこの銅貨幣のみなる時は例えば一艘の船を買わんとする時は、山の如くに銅銭を積み立てざればその物を買い入れ得ず。その不便なる是のみならず、たとえば旅行せんと欲する時は携帯するに便ならず。またたとえば前に言いし如く、乙の米を売らんと欲するもの、銅は不用なる時は金銀を受け取り、米を売らんにその金銀は何程にても貯え置かるるもの故、これがすなわち自然と富民の出来る訳にて、この富民の多きすなわち富国の基と言うものなり。支那にても馬蹄銀はこれあり。ポツポツと切りて使用するなれども、今ここに貴覧に入るる通り大小幾種をも製し出し一般に融通する程の便利には及ばず。」

申「貴説、明了、感服す。しかるに一朝急にこれを我が国に施さんと欲するも中々行われざるべし。既に先年、我が国にて當百銭を作り出せしところ、農民共はこれに服せず六年ばかりの内にたちまち不用となりたり。今日といえどもこの貨幣談判でも外に漏るれば民間にては又々何事を仕出すやらんとて、忽ち沸騰すべきに付き我が国にては容易にはかようの事に手をつけかぬるなり。」

宮本「申さるる所の當百銭とは何程の量目にて製造なされしや。常平銭百枚の重さか又は七、八十枚位か或は十枚もしくは二十枚位の重さか。」

申「大概十枚位と考えらる。」

宮本「それゆえに民間の沸騰を起こせしものと思わる。その故は紙幣も同様にて、真に常平銭百枚の値これなきものを以って強いて百枚に通用せしめんとする故人心に適せさるべし。我が日本にても昔日はこれに類する事、許多ありて人民不承服の末、段段と工夫を面らし、この新貨を用うる事に至りたり。紙幣と申すものは真価の金銀ありてこれに代用するものにて、人民も旅行などには真金銀貨を携帯するより、紙幣を携帯することの軽便なるなどの便利よりして、金銀の代用に行わる。すなわちこれに貴覧にいるる我が紙幣も専ら内地に通用いたすなり。かようなる訳なれば、貴国にても真の金銀貨にて通行せざることは有るまじと考えらる。鉱山は掘り尽す際限のある様のものにはこれ無く申さば無尽蔵と同様なり。
ここに出せるこの金銀貨は貴政府へ差し出し申すべし。今日貴政府にて是非金銀を製造せられよと申すにはあらざれども、経済の事には必用のものゆえ参考に備うるまでなり。」

申「御尤もにて好意はかたじけなけれども、この金銀を預かり申すには又々朝廷に啓聞せざるを得ざるに付き、先ず預かり申し上げ難し。高説の趣、ならびに珍しき金銀貨を一覧したる次第をばつぶさに朝廷に申告し、経済の参考に備うべし。」

   右の通りにて新貨をば受け取らざる故、持ち帰りて会計係へ引き渡す。

野村「貴国の北の方、現今ロシア領の中にポセツトという処あり。これには貴国人の移住するもの甚だ多し。その人々は皆々ロシア国の貨幣を使用せるを見れば、貴国人といえども慣れさえすれば貨幣を忌み嫌うということはあるまじ。」

宮本「ロシア国界のことにつき、ただ今野村より申し上げたり。さてこの事についても一応申し上げ置たし。(絵図を出し)この所は豆満江にて貴国とロシア領との境界なり。このポセツト港へは、昨年我が政府より官員を差遣し、篤と地理ならびに貴国人民の追々ロシア領へ投入する実況を視察せしめたり。その上、冬になり更に官員を出し、この冬を越し今もって滞勤せり。このポセツトにはロシア国の精兵およそ三千ばかりも屯在し、貴国人民を追々と撫で来る境界を曖昧にし、次第に貴国を蚕食せんとする姿あり。且つまたそれがしの朋友にして当時ロシアの国都にある日本公使館に在勤せる人あり。その人より申し来たりしには、ロシア国、近来の目的を探るにポセツトは寒気強く冬天は氷海になり。不便利ゆえ朝鮮領にて、この絵図面西にあるこの永興府の港を占有し、この所にこの兵所を引き移す見込みなる由なり。果たしてしかる時は貴国はもちろん日本支那などのためにも後來の大害と成るべし。まさにまたこの絵図面には載せらざれども、この地の方に北海道というて大なる島あり。すなわち黒田大臣その開拓の任を蒙り大いにその業を着手せられる所なり。この奥に樺太という大島あり。この地へロシア国人移住いたし、我が官民に恩恵を施したることあり。今ここには詳しくは申し上げ難きことながら、右については日本政府にても殊のほか心配せしことあり。依りて貴国にても今後必定右様の患害これあるべく、只今より注意なされずしては相すまじと考え候。」

申「それは實もって大事なり。しかし他人の国を剥奪すると申すことは不義の甚だしきものなり。なにとぞ左様の事は致さぬように貴国より差し止め下されたし。」

宮本「それは決して出来申さず。第一我が政府にして表向きにこのことを承りたる事にはあらず。それがしが親友より申し来たりし事にこれあり。その上、他国のなすことを差し留める様とは彼の内政に預かることゆえ、とても出来ざる道理なり。いったいかようの話にてすらみだりに発言すべからざることなれども、今日は条約も結了したればこそ拙者より内々に忠告申すなれ。是すなわち最初に懇談と申せし所なり。」

申「さりながら他国よりわが国の危害となる事は済いくだされよ。右らのためにこそ条約をも結びたるなれ。なにとぞ貴国よりロシア国へ説諭は出来申さぬものなりや。」

宮本「なにぶん左様には参り申さず。ただ今貴国にて境界を厳にし十分に注意これありて、ロシアと争端を開かざる様に取り締まりをなさるれば右にて相済むべし。いったいいずれの場所にても隣国との境目はよくよく注意せねばならぬことなり。すなわちこの絵図面の如し。台湾は半分は青色にて支那領なり。半分は白色にて土蛮なり。この土蛮この赤き島すなわち琉球の八重山と申すところの舟人を五十人、土蛮のために殺されたり。よりて今朝錬武堂にて御接遇申したる樺山氏(チェストー!)は、この土蛮を征伐し大いに苦辛し彼の地を攻め取りたる所に、支那にては此の地はわが領地内なりと言い出せり。よりて日本にては、しからば何故我が属藩たる琉球人を屠殺せしをそのままに打ち捨て置きたるや、と支那政府へ掛け合い、支那政府は余儀なく我に謝して五十万テールの償金を出したり。とかく境界のことは注意無しでは相済まず。
さてまたついでながら申し上ぐべし。先日江華湾外碇泊中に我が通弁の者仁川へ上陸せしところ尹映という人に面会す。同人の説を承りたり。その説は多分通弁の間違いかと存ぜらるれども、先ず承りたる所にては尹映氏は豆満江の辺におられ、かつてロシア人を百五十人ばかり殺したる由を誇りて申されたり。いよいよそのこと実説ならば、貴国はすみやかにロシアのために攻め困るべき勢いにもこれあるべきに、只今に至るまで何事も承らざるゆえ実説とは心得られず。たとえ百五十人はさて置き一人たりとも魯人を殺す様なることこれありては貴国のため大変を生じ申すべし。」

申・呉とも打ち笑い、
「尹映の申す所は全く虚説にこれあり。」

宮本「永興府の港のことはよくよく用心めされよ。いったい我が国にてこの地に開港を望みしは、北海道物産運輸の便利なるを主意にして傍ら我が国より港を開き置き候へば、自然と貴国にも取り締まり行き届き候事ゆえ同所を名指して申し上げたることなれども、祖先の陵墓ある故不都合とのこと強いては申し上げず。しかし未だ二十ヶ月の期もこれあること故、篤と御勘考これありたし。」

   此処にて亜細亜東部図並びに朝鮮国図とも申氏に贈る。彼は収受す。

訓導、都よりの指令書を取り出し、
「この如く永興府の地には祖先の陵廟これあること故、何分にも開港しては相すまず故、決してゆえなく断り申したる事には之なし。」

宮本「その儀は篤と承知いたせり。」

申「我が国王へ献上されし大砲及び小銃は貴国製なるかまた洋製なるか。」

   この前訓導来たり。浦瀬訳官に面会し右砲に横文ある故定めて洋製ならん。然れば国王へ献納するに甚だ都合悪し。如何せんや云々申し談せしことあり。

野村「国製洋製いずれの分かそれがし之を明知せざれども、我が国武庫に蔵せしを我が大臣の儀仗に附せられし品を以って国王殿下へ献上せられたり。その洋字を刻したる如きは只今ご覧ぜられたる我が国貨幣にも洋字あり。皆これ我これを用いて彼に通せしむるなり。造幣寮、造船寮、器械製造、鉱山、そのほか製作場数多くあり。貴国人もし我が国に来るあらば之を実見することを得べし。右等製作するには洋字ならざれば切り口などがより合いかぬる事もあり。」

野村「今、一事問い合わせ置くべし。指定港口居留の日本人遊歩規定は大概我が十里すなわち貴国百里四方位にこれなくては大いに困窮いたすべし。如何考えなさるや。」

申「我が百里と申しては余り広すぎるように考え候。しかし是等は細目を議するに当たりその当を定め申すべし。」

右にて終わる。酒肴饗応ありて(ここだけ墨線で消してある(笑)。)の後に別を告げて帰る。
 』

 
○日朝修好条規について







【LINK】
LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(1) 同(2) 同(3) 同(4) 同(5) 同(6) 同(7)

LINK 鎖国 - Wikipedia
LINK 冊封 - Wikipedia
LINK 朝貢 - Wikipedia
LINK 広東システム - Wikipedia 中国清朝が開港した広東での貿易体制
LINK 互市 - Wikipedia 中国での北方遊牧民族などとの交易
LINK 倭館 - Wikipedia

LINK DSpace at Waseda University(早稲田大学リポジトリ)「明治初期日朝交渉における書契の問題」石田徹著
LINK OUKA(Osaka University Knowledge Archive)(大阪大学リポジトリ)「維新期の書契問題と朝鮮の対応」牧野雅司著





更新 2012/9/7

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