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1876年 日朝修好条規の締結(朝鮮の開国)


 大院君が政治の実権を握っていた間の李氏朝鮮は、頑強に開国を拒んでいたが、王妃に連なる閔氏一族が政権を奪取すると、国内体制を整えた日本の明治政府は武力を誇示して開国をせまり、1876年に日朝修好条規(江華条約とも呼ぶ)が締結された。
 こうして開国した朝鮮は、6年後には欧米とも国交を開いていくことになる。


大院君の政治
 李氏朝鮮王朝は、1863年に第25代の哲宗王が実子のないまま死去し、宮廷内の政争の結果、年少の高宗王が王位に付いた。実父の李?応が興宣大院君(略して大院君)の称号を与えられ政権を掌握した。
 大院君は前王とは遠縁で、それまでは不遇な人生を送っていたが、政治の実権を握ると、旧知の商人や下級官吏を大胆に登用し、門閥を誇る両班官僚を遠ざけ、中央集権体制による王権の強化を目指した。(注:両班官僚とは、もともと文班と武班の2つの班に分かれていた中央支配官僚とその子孫を意味する。)
 当時は、農民闘争が起こったり、西洋船が開国要求をもって朝鮮にやって来るなど、騒然とした状況であった。大院君は、猟師や中小商人などの民衆の力もかりて西洋船の進入を撃退した。西洋列強も朝鮮に全力を投入することはなく、日本が先に朝鮮を開国させることを期待しているところがあった。

西郷隆盛の征韓論
 日本の明治政府は朝鮮政府との交渉に入るが、大院君の朝鮮政府はなかなか開国に同意しない。日本政府は武力により開国をせまる方向に傾いていたが、1873年(明治6年)、西郷隆盛(薩摩藩出身)は日本国内の士族の不満を海外への武力行使に向けて内乱を避ける必要があると考え、西郷自らを使節として派遣して自分が殺された場合にはそれを理由に武力行使ができると主張し、板垣退助(土佐藩出身)の同意も取り付けた。
 同年8月には一時これが政府決定されるが、岩倉具視らの海外視察団が帰国すると、出発は延期され、やっと10月に開かれた閣議では岩倉具視(公家出身)・大久保利通(薩摩藩出身)・木戸孝允(長州藩出身。桂小五郎が改名。)らがまず国内体制の整備と樺太問題の解決を優先すべきとして強く反対した。
 紆余曲折の結果、使節の派遣は中止されて、西郷と板垣のほか後藤象二郎・江藤新兵・副島種臣が辞表を出して下野した。これに伴って、薩摩藩や土佐藩出身の陸軍士官や天皇の近衛兵など600人以上が辞職して邦へ戻ったという。
 その後、実際に士族による反乱が起こっている。

江華島事件日朝修好条規
 朝鮮では、1873年11月、高宗王の妃に連なる閔氏一族が大院君から政権を奪取した。そして、大院君の改革を否定し、旧来の大地主化した両班官僚の支配体制に戻そうとした。条約交渉のために釜山に来ていた日本の外交官は、この政変を本国へ連絡するとともに、武力の威嚇により開国させることを献策した。
 1875年(明治8年)、日本政府は、5月にロシアと樺太千島交換条約を締結して日露国境を画定し、9月に日本の軍艦雲揚(うんよう)を朝鮮に派遣した。
 雲揚は朝鮮の首都京城の前面にある江華島に近づき、飲料水を得るためボートで江華湾に入っていったところを江華島の砲台から砲撃を受けた。雲揚が応戦して、江華島の砲台を破壊し、永宗島を占領して民家を焼き払い、砲36門を奪って引きあげた。
 日本政府はこれを機会に懸案となっていた日本と朝鮮の修好条約を締結すべく、黒田清隆を全権とする総員27人の使節団を軍艦3隻と運送船3隻を伴って朝鮮に向かわせた。一行は、翌1876年に釜山港に入港して示威の演習を行ったのち、江華島へ到着し約300人の兵を率いて上陸し交渉を開始した。
 こうして1876年に日朝修好条規が締結された。その主な内容は次のとおりで、完全に不平等な条約であった。
・朝鮮国は自主独立の国であるとする(清国への服属を否定する。)。
・釜山など3港を開港する。
・そこにおける居留地を設定する。
・日本が一方的に領事裁判権をもつ。
・日本から朝鮮への輸出品には関税をかけない。
・居留地内での日本貨幣の通用を認める。





参考文献
「朝鮮史 新書東洋史10」梶村秀樹著、講談社現代新書、1977年
「日本の歴史20 明治維新」井上清著、中公文庫、1974年
「教養人の日本史(4) 江戸末期から明治時代まで」池田敬正、佐々木隆爾著、社会思想社 教養文庫、1967年
「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年
「クロニック世界全史」講談社、1994年


2004/1/14

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