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1876年 日朝修好条規の締結


 このページは大幅な改訂作業を行っており、現在更新作業中です。

当サイト管理人の意見:日朝修好条規の締結については、「日本が武力によって朝鮮を開国させた。」とする論が多く、このページも当初そうした趣旨に沿って作りましたが、勉強していくと、どうもこの論はおかしいことがわかってきました。
 現在主流となっているこの論は、日韓併合までの歴史を知った上で、日本が韓国を一貫して武力によって支配してきたとみなす主張がまずあって、その主張に沿うようにいわば色メガネをかけて歴史を解釈しているように見えます。実際に武力を使って強行する場合が何度もありましたが、話し合いを行った場面もかなりありました。この日朝修好条規話し合いによって決められたと、当サイト管理人は判断します。それは、強硬に攘夷を主張していた大院君を退けて政権を握った閔妃派が、いくぶん方向転換をしたことによるものとみられます。
 朝鮮は、日朝修好条規によって日本との国交を回復したものの、この時は欧米諸国と同様の条約を結ぶつもりは全くなかったと思います。朝鮮と日本(徳川幕府)は以前から交流があったのであり、明治政府がそれを回復しただけの話です。もし欧米列強との条約締結の意思がないのであれば、日朝修好条規の締結をもって朝鮮の開国と呼ぶのはおかしいです。6年後の1882年にアメリカと米朝修好通商条約が締結され、これに続いてイギリス・ドイツ・ロシア・フランスと条約を結びました。この時を「朝鮮の開国」と呼ぶべきです。朝鮮が開国を決断した際に、清国からの助言があったことを示唆する記述が散見されるので、そのへんのところを現在勉強中です。
 また、江華島事件は小型の砲艦1隻だけによる事件で、江華島事件より前にあったフランス(7隻)やアメリカ(5隻)との戦闘に比べれば比較的に小規模な戦闘だったと言えます。事件後の日本政府もまずは交渉を行う方針であり、実際に交渉によって日朝修好条規が締結されました。朝鮮側が日本で沸き起こった征韓論に危機感を持っていたであろうことも推測できます。しかし、少なくとも「日本が武力によって朝鮮を開国させた」という表現はおかしいと、当サイト管理人は考えます。 )
 勉強中に集めた資料集を作ってみましたので、こちらもご覧ください。
「日朝修好条規の締結」に関する資料集


 李氏朝鮮では1864年に即位した幼い高宗王の後見人として、実父の大院君が政治の実権を握ったが、大院君は「衛生斥邪」をスローガンに、キリスト教を弾圧するとともに、来航する欧米の船を攻撃して、強硬に攘夷を決行していた。
 そうしたなか、明治維新を成し遂げた日本は、1868年に書契(すなわち国書)を対馬藩を介して李氏朝鮮(交渉窓口の倭館がある釜山)へ送った。対馬藩を介したのは、徳川幕府が朝鮮との交渉を対馬藩にまかせていたためで、対馬藩は釜山に設けられた倭館において朝鮮と交易を行っていた。大院君政権の朝鮮(釜山を管轄している東莱府が窓口)は、国書のなかに「皇上」や「奉勅」といった文字が使われていることなど旧例と異なることを理由にこの国書の受け取りを拒否した(書契問題)。日本では、これに反発して征韓論が起こっている。
当サイト管理人の意見:大院君政権は強硬に攘夷を行っており、西欧文明を取り入れていく日本の明治政府とは全く方針が異なっていました。また、李氏朝鮮と従前から交流のあった徳川幕府を武力によって倒したのが明治政府ですから、そうした意味でも李氏朝鮮には反発する気持ちがあったかもしれません。書契問題は、交流を拒否するための方便であろうと考えます。)

 日朝の交渉が一向に進まないなか、1873年に大院君が退けられて、高宗の妃である閔妃に連なる閔氏一族が政権を掌った。大院君の行った政治を全面的に否定し、従前の両班による勢道政治に戻す政治を行った。日本の国書受け取り拒否の方針も改められ、まずは国書を受け取ってから文字の修正を求める方針となった。清国からの示唆があったとする文献もある(呉善花著「韓国併合への道」)。大院君政権のときに日本との交渉に当たった東莱府使鄭顕徳と訓導安俊卿は斬首のうえさらし首、通事崔在守は逃亡したが捕らえられて服毒自殺、さらに財産は没収され家族は捕らわれて妊娠していた妻まで鞭打たれたという(出典:LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(1) 「朝鮮政権内の対立・大院君と閔氏一派」の項の後半部分)
 1874年9月に釜山での交渉が再開されることになったが、遅々として進まない。この間の1874年11月に、閔氏一族の中心人物であった閔升鎬が爆弾の仕掛けられた郵送小包によって暗殺されている。1875年5月にとりあえず国書は受理することになったが、朝鮮が使節を迎えるにあたって行われる宴饗(歓迎の儀式)において、朝鮮は従前からの伝統的な形式で行おうとしたのに対し、日本が洋服(明治政府が正式の儀礼服として採用していた洋式大礼服)の着用を求めたが、朝鮮側は同意しなかった。また、日本の使節が宴饗大庁門(正式の外交使節を迎え入れる門)を通行することを求めたが、朝鮮側はこの門は中国の使節のみが通過できるとしてこれを拒否した(出典:呉善花著「韓国併合への道」)。こうして、交渉はまたも暗礁に乗り上げた。

 釜山で交渉に当たっていた日本公使館(倭館から公使館へ改められていた)の森山茂理事官は、「侮蔑 愚弄 亦甚シキヲ 論スレトモ 到底 曖昧 明答ヲ得ス」との感想を漏らしている(出典:LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(2) 「対話と圧力」の項)。交渉が進まないことから、釜山の日本公使館は日本政府に対して軍艦1・2隻の派遣を建議した(1875年4月)。その後、「雲揚」「第二丁卯」の2隻の軍艦が極秘裏に(征韓論者の反撃を惧れたため。)派遣され、1875年5・6月に前後して釜山へ入港したが、交渉に進展はなかった。
 このあと、軍艦「雲揚」は測量を行いながら朝鮮半島沿岸などを航行していたが、1875年9月に漢城(現在のソウル)を流れる川(漢江)の河口付近において朝鮮側から砲撃を受け交戦するに及ぶ事件(江華島事件)が起きた。この場所は、大院君政権のときにフランス(1866年・丙寅洋擾)やアメリカ(1871年・辛未洋擾)とも戦闘が行われた場所である。
 この事件をきっかけに、日本は江華島事件の賠償を求めるなど強く朝鮮側に迫り、朝鮮側との交渉を行うために黒田清隆を全権とする使節団が軍艦2隻・運送船4隻を伴って江華島へ派遣された。
 江華島において、■から■まで交渉が行われた。日本は欧米式の条約を結ぼうとしたのに対し、朝鮮は欧米式の近代的なやり方を拒んで従来の伝統的な形式を踏もうとしており、議論は常に平行線であったが、日本が■して押し切った。朝鮮は、欧米流の形式をよく知らなかったし、近代化の必要性も理解していなかったものとみられる。1876年(明治9年)2月に、日朝修好条規が締結された。これにより国交が結ばれて、貿易が行われることとなり、従来からの釜山を含めて3つの港の開港が約束された。この1876年というのは、明治政府が初めて朝鮮に国書を送った1868年から数えて、実に8年目である。
 日朝修好条規の締結から6年後の1882年に、朝鮮はアメリカと米朝修好通商条約を締結し、その後イギリス・ドイツ・ロシア・フランスとも通商条約を結んでいく。この時を「朝鮮の開国」と見なすべきであると、当サイト管理人は考えます。(注:この際に、清国から助言等があったのかなかったのか今後調べていきたいと考えています。)

 国内体制を整えた日本は武力を誇示して開国をせまり、1876年に日朝修好条規(江華条約とも呼ぶ)が締結された。こうして開国した朝鮮は、6年後には欧米とも国交を開いていくことになる。(注:このサイトで当初掲げていた文章です。)
当サイト管理人の意見:この日朝修好条規の締結をもって朝鮮の開国とみる論が多いですが、当サイト管理人はそうは思いません。それはたとえて言えば、徳川幕府がオランダと条約を結んでも開国とは呼ばないのと一緒です。日本と朝鮮は以前から貿易を行っていたわけですし、なにより、朝鮮はこの時まだ、欧米列強と通商条約を結ぶ気はなかったと思います。欧米諸国との開国を決意したのは、1882年にアメリカと結んだ米朝修好通商条約以降であると考えます。
 また、当サイト管理人は、「日本が武力によって開国させた」とする論にも反対します。李氏朝鮮は、江華島事件の前に、「ジェネラル・シャーマン号事件」 「丙寅洋擾(フランス極東艦隊)」「辛未洋擾(アメリカのアジア艦隊)」などのように激しい戦闘を行って退けています。それに比べれば、小型の砲艦1隻だけで起こった江華島事件は、小さな事件だとさえ言えます。日本政府も釜山の日本公使館の建議に答えて艦船を派遣したものの、その後に日本政府が戦闘を起こして開国を迫ろうとする意図を示す資料は見当たりません。もし日本政府が武力をもって朝鮮に迫るつもりなら、大艦隊を派遣したはずです。
 朝鮮政府が開国に踏み切ったのは、強硬な攘夷を行っていた大院君政権から閔氏政権に代わって、政府の方針に変化があったためとみるべきだと思います。しだいに、欧米列強を力で退けることの難しさが解ってきたのではないでしょうか。清国からなんらかの助言等があったかもしれません。なにぶんにもこのあたりの状況を示す資料が見つからないので、今後調べていきたいと考えています。
 また、日朝修好条規を「完全な不平等条約」と見なすことにも違和感を覚えます。確かに領事裁判権の問題などもありますが、これは朝鮮に近代的な法体系が整っていないためであって、「日本人は日本の法により、朝鮮人は朝鮮の法による」ということがそんなに不平等でしょうか。日朝修好条規の全体をみれば、基本としては平等であると言えると思います。朝鮮と日本の 国情 国状 の違いが差異を生んだわけで、その差異は朝鮮が近代化すれば解消される種類の問題だと考えます。)



【大院君の攘夷政策(主なもの)】
 次のページを参照のこと。
1864年 朝鮮で大院君が政権を掌握 の「大院君の政治」の項
 なお、主なものは以下のとおり。
・1864年に大院君が政権を握ると、キリスト教を徹底的に弾圧した。当時の朝鮮国内には12人のフランス人宣教師が布教しており、信者は2万3000人を数えたが、大院君が政権を握った1866年から1873年の間に、9人のフランス人神父が処刑され、8000人以上の信徒が殺害された。(丙寅教獄)
・1866年、平壌に現れたアメリカの武装商船ジェネラル・シャーマン号を攻撃し、浅瀬に乗り上げたところで船員を皆殺しにした。(ジェネラル・シャーマン号事件)
・1866年、フランス人宣教師の殺害を受けてフランスの軍艦(7隻)がやってきて、江華島に上陸して略奪も行ったが、フランス側は30人ほどの死傷者を出し引き上げた。(丙寅洋擾)
・1871年、ジェネラル・シャーマン号事件への謝罪と開国を求めてアメリカのアジア艦隊(5隻)がやってきたが、 江華島守備兵が砲撃を加え交戦となり、アメリカ側は江華島を占領したが、アメリカ側は13人の死傷者を出して引き揚げた。勝利を収めた大院君は、鎖国攘夷の意志を示した「斥和碑」を全国各地に建てた。(辛未洋擾)

【書契問題】
・1868年、明治政府の樹立を通告するための使節として対馬藩家老らが釜山浦に入港したが、朝鮮側は、文面上の文字使いや従来の形式と異なることを理由に、文書の受け取りを拒否した。
1871年、日本は、廃藩置県にともない 対馬藩に委ねられていた朝鮮との外交権を、政府の外務省に移管した。
・1870年(明治3年10月)、日本は使節を派遣し、外務卿からの書簡を示して国交を求めた。対馬藩を介しない最初の国書である。この書簡には「皇」「勅」「朝廷」などの文字は避けて使っていなかったが、朝鮮はこれも拒否し、旧例に倣(なら)って対馬藩を介すべきと主張した。(出典:中村粲(あきら)著「大東亜戦争への道」(展転社、1990年) p26-27)

 明治政府が送った書契(国書)の「皇上」や「奉勅」といった文字が問題になったのは、朝鮮にとってこの文字は冊封関係にある中国の王朝のみが使えるもので、日本が使うことは許されないという考え方である。
LINK 日朝修好条規 - Wikipedia「日朝間の懸案:書契問題」の項
当サイト管理人の意見:書契(国書)の文字使いが問題とされたのではあるれども、大院君政権の朝鮮は強行に攘夷を行っており、西洋化していく明治政府を受け入れるつもりがそもそもなかったのではないかと、当サイト管理人は推測します。)
 また、大院君が引退して閔氏政権に代わった際、日本との交渉経緯を初めて知った朝鮮国王の高宗が激怒し、釜山で日本との交渉に当たった東莱府使の鄭顕徳と訓導の安俊卿は斬首・さらし首、 逃亡して捕らわれた通事の崔在守は服毒自殺、さらに財産は没収され妊娠していた妻まで鞭打たれたという。(出典:LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(1) の「朝鮮政権内の対立・大院君と閔氏一派」の項の後半部分 )
当サイト管理人による注角田房子著「閔妃暗殺」(p94-95) に、下のような記述があります。(引用文中の太字は、当サイト管理人によるものです。)これによると、内容が少し異なっている。その主旨は、閔妃は自分の産んだ子である(チョク)(後の純宗)を世継ぎである世子にしようとしていたが、宗主国の清国は年長である側室の生んだ男子を世子にしようとしているとの情報を得て、日本から清国へ働きかけてもらおうと考えた。これを受けて、領議政の李裕元は密かに釜山にいた花房義質に接触した。これを知った訓導安東■[目へんに氈n(アンドンジュン)は中央に告発したが、やがて東萊府使鄭顕徳と訓導安東■[目へんに氈nは不正蓄財の罪名により一人は死刑・他は流配となった。という内容です。訓導の名前も異なっている。
『(前略)だがまもなく、李裕元を困惑させる情報がはいった。それは−−宗主国である清国は、生母が王妃か側室かを重視せず、長幼の序列にしたがって、李尚宮が生んだ完和君を世子として認許する意向らしい、というものであった。
 閔妃は唇を噛んだ。何ということか!くやしさと怒りがこみ上げたが、いつまでも感情に溺れている彼女ではない。頭にひらめく対策を素早く検討し、その一つ一つを否定してさらに策を追い求めて、ついに閔妃は《この際、日本を利用しよう》と心に決めた。《日本は明治政府になって以来、すでに六年にわたって朝鮮との国交再開を求め続けている。釜山にいる日本の役人に、清国への働きかけを頼んだら、むげに断わりはしないであろう》
 李裕元も、閔妃のこの案に賛成した。彼は当時釜山にいた花房義質(のちの初代駐韓大使)を極秘裡に訪れ、朝鮮王家の世子問題につき、駐清日本公使副島種臣から北京政府への口添を依頼して、承諾を得たという。このとき李裕元は「国交再開」を条件に花房に頼んだ、との説もある。
 李裕元の行動は、朝鮮の開国を望む日本にとって有利な結果を生んだ。彼の秘密工作を探知した釜山訓導安東■[目へんに氈n(アンドンジュン)は、その真相を中央に告発した。安東■[目へんに氈nは大院君の腹心であり、東萊府使鄭顕徳と共に鎖国斥倭政策の支持者であった。この二人はやがて不正蓄財の罪名により、一人は死刑、他は流配となった。大院君系の彼らはいずれ罷免されたであろうが、日本との交渉の窓口である釜山は、こうしていち早く閔妃派の役人によって占められた。
 李裕元は翌1875年、世子冊封使として北京へ行き、それまでの裏工作を土台に運動を続けた。その結果、閔妃の産んだは清国からも世子と認められ、次代の王の座を約束された。 』 )

【征韓論】
・1870年、書契問題で紛糾していた朝鮮と国交樹立の予備交渉を行うため、日本は佐田白茅と森山茂を釜山に派遣したが、この予備交渉の過程で朝鮮側の態度に憤激した佐田白茅(久留米藩出身)は帰国して征韓を建白した。
・1872年、外務丞の花房義質が軍艦春日と歩兵2個大隊を乗せた汽船で釜山に来航し、釜山にあった倭館(和館)を接収して日本公館に改称した。これに対して朝鮮側は強硬に退去を要求し、倭館での交易中止を宣言して、一切の交渉を拒否した。こうした情勢を受けて、日本では征韓論が台頭した。(注:征韓論は、朝鮮を占領しようということではなく、武力を使って停滞している交渉を打開しようという意見です。)
LINK 倭館 - Wikipedia
LINK 征韓論 - Wikipedia
LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(1)
・1873年(明治6年)、西郷隆盛(薩摩藩出身)は日本国内の士族の不満を海外への武力行使に向けて内乱を避ける必要があると考え、西郷自らを朝鮮に使節として派遣して自分が殺された場合にはそれを理由に武力行使ができると主張し、板垣退助(土佐藩出身)の同意も取り付けた。
 同年8月には一時これが政府決定されるが、天皇の聖断によって岩倉使節団が帰国するまで待つことになった。岩倉具視らの海外視察団が帰国すると、出発は延期され、やっと10月に開かれた閣議では岩倉具視(公家出身)・大久保利通(薩摩藩出身)・木戸孝允(長州藩出身。桂小五郎が改名。)らがまず国内体制の整備と樺太問題の解決を優先すべきとして強く反対した。
 紆余曲折の結果、無期延期が決定した。西郷と板垣のほか後藤象二郎(土佐藩出身)・江藤新兵(佐賀藩出身)・副島種臣(佐賀藩出身)が辞表を出して下野した。これに伴って、薩摩藩や土佐藩出身の陸軍士官や天皇の近衛兵など600人以上が辞職して邦へ戻った(明治六年政変)。
 板垣・後藤・江藤・副島らは翌1874年(明治7年)に愛国公党を結成し、大久保らによる有司専制を批判、民撰議院設立建白書を提出して自由民権運動が広まっていく。
 一方、江藤らが1874年に佐賀の乱を起こし、1877年には西郷が担がれて西南戦争が起こっている。(士族による反乱)
・日本の台湾出兵は、1874年5・6月。
・日本とロシアが樺太千島交換条約に調印したのは、1875年5月。(樺太全島をロシアに譲り、代わりに日本は千島全島を領有するという内容。)
LINK 征韓論 - Wikipedia
LINK 明治六年政変 - Wikipedia
当サイト管理人の意見:このときの日本政府の征韓論は「朝鮮は日本を侮辱しているから武力で攻撃して懲らしめるべきとの趣旨」であって、朝鮮を占領するという趣旨ではまだなかったのではないかと当サイト管理人は推測します。台湾の場合にも、1874年に出兵したがその後引き上げており、台湾が日本へ割譲されたのは日清戦争後の1895年です。
 ただし、民間にはもっと過激な論もあったようです。 )

【閔氏政権の状況】
 大院君の妻が閔氏であることからその一族である閔妃が王妃に抜擢された。また、大院君の妻の弟である閔升鎬が、閔妃の父である閔致禄の養子となり、閔妃の義理の兄となった。
 1873年に大院君が退けられて閔氏一族が政権を掌ると、閔升鎬は閔氏一族による勢道政治の中心人物となり、国政全般に参与するようになった。大院君が頑強な攘夷論者であったのに対し、閔升鎬は「日本の国書を受け入れて両国が相互提携し文明開化する必要性がある」と考えていたようである(出典:LINK 大河の釣り人閔升鎬。しかし、1874年に爆弾が仕掛けられた郵送小包が送られて、この爆発により家族と共に爆死した。 大院君の元兵使申哲均が犯人として逮捕され、拷問の末に自白し処刑されている(出典:LINK 閔升鎬 - Wikipedia
 閔升鎬が死んだ後、閔氏政権がどのような状況だったのか当サイト管理人にはよくわからない。(注:調査を続行中。)
 ただ、LINK 日朝修好条規 - Wikipedia 「日朝間の懸案:書契問題」の項に次のような記述があり、日本の台湾出兵(1874年5月頃)と日本で沸き起こっていた征韓論が、朝鮮の態度に変化を与えた可能性を示唆している。
『 1873年に対外強硬派の大院君が失脚し、王妃閔妃一派が権力を握っても、日朝関係は容易に好転しなかった。転機が訪れたのは、翌年日清間の抗争に発展した台湾出兵である。この時、日本が朝鮮に出兵する可能性を清朝より知らされた朝鮮側では、李裕元や朴珪寿を中心に日本からの国書を受理すべしという声が高まった。李・朴は対馬藩のもたらす国書に「皇」や「勅」とあるのは単に自尊を意味するに過ぎず、朝鮮に対して唱えているのではない、受理しないというのは「交隣講好の道」に反していると主張した。これにより朝鮮側の対日姿勢がやや軟化した。』
LINK 閔妃 - Wikipedia
LINK 閔升鎬 - Wikipedia
LINK 大河の釣り人閔升鎬 〜個人のサイト
 また、「世界の歴史教科書シリーズ1 新版 韓国の歴史 第二版 国定韓国高等学校歴史教科書」(明石書店、2003年)p328 に次の記述がある。
『 江華島条約と開港 10年間執権していた大院君が権力の座から退いて閔氏一族が台頭すると、朝鮮政府の国内外政策は少しずつ変化しはじめた。
 このとき、国内では開港反対論が優勢だったが、開港の必要性を主張する動きも芽生えていた。朴珪壽、呉慶錫、劉鴻基などの通商開化論者は、当時朝鮮社会が門戸開放のための内的準備ができていたと見なかったが、列強の軍事的侵略を避けるためには開港が不可避であることを主張した。このような通商開化論者の勢力は大院君政権の崩壊とともに成長し門戸開放のための条件をととのえた。
(以下略)』
当サイト管理人の意見:韓国の歴史教科書をそのまま信用することはできないが、朴珪壽、呉慶錫、劉鴻基の名前が出ていることに注目したい。これらの人物について、今後勉強していきます。
LINK 朴珪寿 - Wikipedia
LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(4) の「打ち明け話・開化派の苦悩そして希望」の項〜呉慶錫が出てくる。
LINK コトバンク劉鴻基 とは  )


【軍艦派遣の建議】
 釜山で交渉に当たっている日本公使館は、交渉が進まないことから、日本政府に軍艦を派遣して事態の打開を試みてはどうかとの建議を行っている。
 その内容は、要約すると、「1874年に閔升鎬の殺害事件が起きるなど、朝鮮国内で攘夷鎖国派と和交派の対立が激しくなっていることから、軍艦の1・2隻を派遣して海路を測量するとともに、日本公使館の森山理事官へ交渉の進展を督促するものであると言って、朝鮮国内の和交派を応援して、交渉を進める助けにしてはどうか。」というものです(出典:LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(2) 「対話と圧力」の項)
 1875年(明治8年)4月23日に寺島外務卿へ、同24日には三条実美太政大臣にも建議したが、このとき日本政府は交渉の継続を指示している。
 その後、海軍大輔川村純義の建議もあって、「雲揚」「第二丁卯」の2隻の軍艦が朝鮮沿岸へと極秘裏(征韓論者の反撃を惧れて)に派遣されることになった(出典:LINK 江華島事件 - Wikipedia「事件発生までの背景」の項)。■春日(旧春日丸)も入港?■
 軍艦の雲揚は、長州藩がイギリスから購入した小型の砲艦で、排水量は245トンの木造汽船である。その後、明治政府に献納され、佐賀の乱の鎮圧にも出動している(出典:LINK 雲揚 (砲艦) - Wikipedia。江華島事件の際に艦長だった井上良馨は、薩摩藩出身で征韓論者だったらしい(出典:LINK 井上良馨 - Wikipedia
:井上良馨が、春日(旧春日丸。後に春日と名付けられた別の船があるので注意。)から雲揚の艦長へ転進している理由を調査したいと思っています。春日は雲揚よりもずっと大きな船ですが、春日は木造で外輪の貨物船、雲揚は木造の小型砲艦でした。特別な意味が、あったのかなかったのか。調査中。
・春日は、イギリス船籍のキャンスー号(Kiangsu、中国の江蘇省の「江蘇」の事)という貨物船であったものを、1867年に薩摩藩が購入。木製外輪船。排水量1,015トン、全長74.0m、最大速度17.0ノット、乗員134名、大砲6門。
・雲揚は、イギリス製の小型砲艦。1868年に竣工・進水。1870年2月に長州藩が購入。木造汽船。排水量は245トン。
 明治政府の初めのころは、各艦船はそれぞれの藩が保有していたため、薩摩藩の船であった春日にも薩摩の井上良馨が乗っていた。
 雲揚の最初の艦長は相浦紀道(佐賀藩出身)。1874年(明治7年)10月に井上良馨(薩摩藩出身)が艦長となった。
LINK 春日丸 - Wikipedia
LINK 雲揚 (砲艦) - Wikipedia
LINK 相浦紀道 - Wikipedia
LINK 井上良馨 - Wikipedia  )


【江華島事件】
 明治政府が成立すると、1868年に日本は国書(書契)を朝鮮に送ったが、朝鮮は文書上の文字使いなどを理由に受け取りを拒否し、交渉は難航した。このため、日本では征韓論が台頭した。(注:征韓論は、朝鮮を占領しようというよりは、武力を使って交渉の打開を図ろうとするものだと思います。)1875年(明治8年5月・6月)には、交渉の行われていた釜山へ西洋式の軍艦を派遣して威圧したもの、交渉に大きな進展はなかった。軍艦「雲揚」は、このとき派遣された軍艦のうちの1隻である。
 「雲揚」はその後、朝鮮半島の東海岸などの測量を行って一端長崎に戻ったのち、朝鮮半島の西海岸などを測量しながら清の牛荘(遼東半島西北部の港)までの航路調査を行って帰路に琉球諸島の測量を行うことになった。この航海の途中、1875年(明治8年9月)に江華島(漢城(現在のソウル)を流れる漢江の河口近くにある島)へ立ち寄り、給水を求めようとしていたところ朝鮮側の砲撃を受けて交戦するに至った(江華島事件)。
 江華島事件の詳細については、次のサイトが参考になります。
LINK 江華島事件 - Wikipedia
LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(3)

 江華島事件の後、軍艦「雲揚」は長崎に戻り、明治8年9月28日に長崎から海軍大輔川村純義へ電報を発して事件の発生を知らせた。
 「雲揚」の艦長である井上良馨(当時は海軍少佐)の報告書は2つ見つかっている。1つは明治8年10月8日付の上申書で、これが正式の報告記録らしい。
 もう1つは明治8年9月29日付けの報告書で、この報告書の方が詳細に記載されている。これは最近見つかったもので、防衛庁防衛研究所戦史部図書館蔵(注:現在は防衛省となり組織改正されています。)の『綴り「明八 孟春 雲揚 朝鮮廻航記事」』に収められているそうです。
 どちらの報告書の内容も、次のサイトで見られます。
LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(3) の「砲撃事件報告及び談話集」の項
 また、明治8年9月29日付けの報告書による内容が、次のサイトで時系列でまとめられており、とてもわかりやすい。
LINK 江華島事件 - Wikipedia の「二つの上申書と戦闘の詳細」の項。
 この報告書で言う「第一砲台」は永宗島の東端にあった永宗鎮、「第二砲台」は項山島、「第三砲台」は江華島の南東部にあった草芝鎮とみられる。
 最初に朝鮮側からの砲撃を受けたのは、第三砲台の前を端艇(ボート)で通過した時で、それまでの第一砲台と第二砲台の前は何もなく通過している。小銃で応戦したものの効果なく、この日は雲揚へ無事に帰艦した。翌日に雲揚は第二砲台前を通過し、第三砲台を攻撃して互いに砲撃し合うが上陸には不適の地形であったためここでの陸戦は断念した。その後、第二砲台に上陸して敵陣地を焼払った。さらにその翌日、第一砲台を砲撃し、上陸して激戦の結果、朝鮮側の城内守備兵は逃げ去り、同砲台を占拠した。日本側の負傷者2名(うち1名は後に死亡)、朝鮮側の死者35名・捕虜16名。大砲36門ほか武器などを戦利品として捕獲し、城内を焼き払う。
 戦闘があったのは、明治8年9月20日〜22日の3日間である。その後、小島で飲料用の清水を手に入れている。この小島は、勿淄島とみられる(出典:LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(7)の【江華島事件経緯の要点】の項)

 注意しておきたいのは、初めに砲撃を受けたのは第三砲台(江華島の南東部の草芝鎮)であるが、日本側が上陸して攻めたのは第二砲台(項山島)と第一砲台(永宗島の永宗鎮)である。
 また、後の日朝間の交渉で雲揚が国旗を掲げていたことが問題になっているが、端艇(ボート)がどうであったのかについてはよくわからない。これに関する資料は、当サイト管理人はまだ見つけていません。さらにいうと、朝鮮側の資料も当サイト管理人はまだ見つけていません。朝鮮側がどのような状況でどういう意図で砲撃したかなど、よくわかりません。
 ただし、江華島は首都漢城に通じる漢江の河口付近に位置し、軍事的に重要な場所であったことは間違いないと思います。強行に攘夷を行った前の大院君政権の時には、1866年に7隻のフランス艦隊と(丙寅洋擾)、1871年に5隻のアメリカ艦隊と(辛未洋擾)激戦を行っている。この事件については、日本駐在の外国の外交官から日本政府に知らされた記録があるので、雲揚の井上艦長も知っていただろうと推測できます。大院君が退いて閔氏政権になっていたが、攘夷をやめたという資料は当サイト管理人の勉強した範囲では見当たらない。

LINK 江華島事件 - Wikipedia
LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(3)
LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(7)
LINK bing 地図ウィキペディア「江華島事件」内の全座標


【江華島事件への対応】
朝鮮側
  国家元首:高宗王
  王妃:閔妃
  あとは良くわからない。(閔氏政権)
  1873年に大院君が退けられた時は、次のとおり。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」)
   ・領議政:李裕元(咸鏡道観察使(知事)から転身)
   ・左議政:興寅君李最応(王族・大院君の兄)→のちに金炳国
   ・右議政:朴珪寿(開化思想を抱いていた)
   ・趙大王大妃の一門を厚遇。趙斗淳を元勲に、趙成夏を抜擢、趙寧夏を都総使に。
   ・安東金氏の一門も再浮上。金炳国はのちに右議政に。
   ・『南人派を含む大院君系列の人々は根こそぎ没落したばかりか、主な人々は何かの罪名を着せられて追放、流配、死刑に処された。大院君色を一掃し、彼の再起運動を可能とする土壌を一挙に切り崩す処置であった。』(角田房子著「閔妃暗殺」(p93)から引用。)

 交渉にあたった朝鮮側の代表は、次のとおり。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p103)
  接見大官 申■[木へんに憲](シンホン)
  接見副官 尹滋承
  従事官 洪大重
 角田房子著「閔妃暗殺」p103-104 に次のような記述がある。
『 朝鮮政府内の意見統一は困難をきわめていた。金炳学ら保守派は斥和論を唱え、国際知識を持つ朴珪寿らはもはや開国は避けられぬとみ内部条件を整えての主導的開国を主張し、李最応閔奎鎬など閔氏一族は確たる意見をもたぬまま反大院君の立場から開国論に与(くみ)していた。一方、大院君崔益鉉など儒生の多くは江華会談に強く反対し、主戦論を唱えていた。彼らはなお両国の軍事力の差を考えていない。
 日本との約束の十日間という期間は、またたくまに切れようとしていた。ついに朝鮮政府は、「日本の求めに応じて、国交を開くように」という清国のすすめに従って、開国に踏み切る決意をした。
 当時の清国は南方安南地方でフランスとの間に紛争が起こり、北方からはロシアの圧力が強まって小ぜりあいが続くなど、対外問題は多事多難で、この上朝鮮の問題に介入して日本と事を構えることは避けたいという態度がはっきりしていた。したがって朝鮮は日本に向かって、「外交問題は、まず宗主国である清国の意向を確かめてから」と答えて身をかわすわけにはいかなかった。』

日本側
 江華島事件が起きた1875年(明治8年)9月20日における日本側の政治体制は、ウィキペディアであちこち調べた結果、次のとうりだと思います。もし間違いがありましたら、メールをいただけると助かります。 →メールを送る 
  国家元首:明治天皇
  太政大臣:三条実美
  左大臣:島津久光
  右大臣:岩倉具視
  参議:大久保利通・伊藤博文・木戸孝允・板垣退助
  大蔵省:大蔵卿は大隈重信 (注:このときの大蔵省は、大蔵省と民部省の統合後です。)
  宮内省:宮内卿は徳大寺実則
  外務省:外務卿は寺島宗則
  陸軍省:陸軍卿は山縣有朋
  海軍省:海軍卿は空席、海軍大輔は川村純義
 (注:1872年4月4日(明治5年2月27日)に、兵部省が廃止され、陸軍省と海軍省が設置されました。)
  他の省は省略します。

『一方、日本政府と国内世論は士族反乱や立憲制確立を巡る議論に注目が移り、かつての征韓派も朝鮮問題への関心を失いつつあった。このため、8月27日に森山特使に引上げを命じて当面様子見を行うことが決定したのである。その直後に江華島事件が発生、日朝交渉は新たな段階を迎えることになる。』(出典:LINK 明治六年政変 - Wikipedia 「朝鮮との再交渉と「九月協定」」の項)
『寺島外務卿は駐日アメリカ公使ビンガムに、日本が全権団を送る目的は「ペリー提督の故智に倣う朝鮮の平和的開国」と語っている。』(引用:角田房子著「閔妃暗殺」p104)
 呉善花著「韓国併合への道」(文春新書、2000年)p51-52 から引用します。
(前略)(注:この部分では江華島事件について記述されている。)
 さらに日本は、一〇月三日に大型軍艦春日(一二六九トン)を、一〇月末には軍艦孟春(三五七トン)を釜山に入港させ、双方から礼砲を放つなどの示威行動を行なっている。
 日本はこうした威圧を加えながら、「全権特派大使を江華島に派遣する」と李朝政府に通告する一方で、清国に対しては日朝間の交渉の斡旋・仲介を依頼していた。代理大使に代えて全権特派大使を派遣するということは、拒否すれば開戦も辞さないという意志を示すものだったろう。
 一八七六年(明治九)一月二四日、外務少輔森有礼が特命全権公使として清国北洋大臣の李鴻章と会談した。李鴻章は仲介を引き受けるとは言わなかったが、清国政府から朝鮮国王に対して日本の書契を受け入れるように勧告する、という形をとったのである。
 李朝政府はようやく譲歩することを決定し、書契を受理するから大使の来航を中止してほしいと要請したが、大使一行はすでに日本を出発してしまっていた。
 二月一〇日、参議・陸軍中将の黒田清隆が全権特派大使となり、兵員・乗組員総勢八〇〇名を乗せた艦隊を率いて江華島に上陸した。そして一斉に礼砲を発して示威行動をとる。
 こうした情勢を受けて、朝鮮半島の慶州方面に「武力行使によって日本を退けるべきだ(主戦斥倭)」とする大院君・攘夷派儒生たちの煽動による暴動が発生していた。また攘夷派の者たちは、農民や一般市民を多数駆り出して、日本全権の宿舎を取り囲ませていた。これに日本軍が四〇〇名の兵士と四門の大砲で対峙する形となり、江華島は一触即発の大きな緊張に包まれていた。
(引用:呉善花著「韓国併合への道」(文春新書、2000年)p51-52 )


【江華府での交渉と日朝修好条規の締結】
 日本政府は江華島事件を機会に懸案となっていた日本と朝鮮の修好条約を締結すべく、黒田清隆を全権とする総員27人の使節団を軍艦2隻と運送船4隻(注:池田敬正・佐々木隆爾著「教養人の日本史(4) 江戸末期から明治時代まで」では、軍艦3隻と運送船3隻としている。)を伴って江華府に向かわせた。■(陸兵2大隊)乗組員800?■。
  特命全権弁理大臣 黒田清隆(陸軍中将兼参議)
  特命副全権弁理大臣 井上馨(元老院議官)
 なお、このときの一行に、1895年に起きた閔妃殺害事件(乙未事変)で中心的な役割をはたす岡本柳之助が含まれている。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p102)
 一行は、翌1876年に釜山港に入港して示威の演習を行ったのち、江華島へ到着し■約300人の兵を率いて上陸し交渉を開始した。
 江華府へ向かう途中で、黒田は増員を要請しているが、政府(三條実美太政大臣)はこれに応じていない。ただし、山縣陸軍卿・河村海軍大輔らは、不測の事態に備えて下関と長崎に軍艦と陸兵を新たに準備することとしたらしい■(出典:LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(4) 「黒田艦隊、江華府に向かう」の項)
 1876年2月4日に江華湾へ到着、2月10日に江華島へ上陸して江華府へ向かった。上陸したのは、計107名(注:池田敬正・佐々木隆爾著「教養人の日本史(4) 江戸末期から明治時代まで」では、「約300の兵を率いて上陸」と書いている。)で黒田清隆(全権■正大臣)・井上馨(副大臣)・随行員・儀仗兵・軍楽隊・ガトリング砲(回転速射砲)4門である。なお、上陸の際に16人の乗ったボートが転覆して2名が行方不明となり、4月になってからそのうち1名の遺体が発見されている。
 朝鮮側の代表は、次のとおり。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p103)
  接見大官 申■[木へんに憲](シンホン)
  接見副官 尹滋承
  従事官 洪大重
 1876年2月11日から3日間の日程で会談が開かれた。(出典:同p103)
 江華島事件の責任追及と日朝修好条規の締結が議された。(出典:同p103)
 日本側から条約案を提示。
 日本側は「もし応じなければ、本国はただちに出兵する用意がある」などと威嚇して一方的に作成した条文を提出した。(出典:同p103)
(当サイト管理人による注:朝鮮側の態度は、すべからく従前の例によろうとするもので、近代的な条約についも全く知識がなく、条文を提出できるわけがない。)
 結局十日間の期限付きで政府に請訓することになった。(出典:同p103)
 条約案は2月20日には大筋で合意したが、朝鮮側は我が国の法では国王の署名押印はできないと言い張った。
 2月22日、黒田は、随行員の一人を使わして朝鮮側に帰国する旨を告げさせると、朝鮮側の交渉代表だった申・尹両大臣がやってきて5日間の猶予を願ったが、黒田は4日間だけ本艦で待つとして艦船に引き上げた。
 その場に残った井上馨(副大臣)が朝鮮側に説明した日本側の不満点は次のとおり。
  @謝罪の草案を見るに、弁解に終始し謝罪の実がない。
  A雲揚艦の件について一言も触れていない。
  B国王署名押印を、みだりに「国王寶」と書き換えた。
  C批准交換を六ヶ月後と約束したなどと言った。(該当公文書未明。)
 朝鮮側は日本の意向を入れて、条約書並びに議政府謝辞の文を提示。
 1876年2月27日に日朝修好条規を調印するとともに、「朝鮮政府謝辞」を朝鮮から日本へ提出した。ただし、文書に記載されている日付は2月26日になっている。
 結局、日朝修好条規の署名欄には「大朝鮮国主上」と書かれ、押印の代わりに「大朝鮮国主上之寶」と書かれることになってしまった。日本側は、「睦仁 大日本国璽」と署名押印されている。
 また、2月26日に、朝鮮側の求めに答えて、次の趣旨を外務大丞・宮本小一の名で記した文書を、日本側から朝鮮側へ渡している。
  @偽の国旗を掲げてきた船は、捕らえて罰しても良い。
  A朝鮮はアヘンの輸入を禁止できる。
  B朝鮮はキリスト教を禁止できる。
  C開港場で、他の外国人が日本籍をもって居留商売することを、日本政府は認めない。
(出典:LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(6) 「日朝両国による条約の検討の詳細」の項)
 2月27日に調印を行ったあと、祝宴が設けられ、黒田・井上両大臣は船に戻った。
 翌2月28日に、全員が事務を終えて船に帰艦、日本に向かって出港した。

 「朝鮮政府謝辞」の内容については、次のサイトを参照のこと。
LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(6) 「朝鮮政府の謝罪文(正式)」の項。
 「日朝修好条規」の内容については、次のサイトを参照のこと。
LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(6) 「いわゆる「不平等な」条約について」の項および「日朝両国による条約の検討の詳細」の項。

 日朝修好条規の主な内容は次のとおり。完全に不平等な条約であった。(注)
:多くの文献に「完全に不平等な条約であった」と記述されています。しかし、当サイト管理人は、この表現はちょっと言い過ぎではないのかと思うようになってきました。
 当サイト管理人が素人的に一番気づくことは、日本が朝鮮で貿易することについて書かれているが、朝鮮が日本で貿易することについては書かれていないということです。朝鮮にはそのつもりが全くなかったのでしょうが、ある意味では、そうした根本的な部分が最も不平等かもしれません。しかし、条文全体としてみた場合には、基調として平等に努めていると思います。
 したがって、領事裁判権についても朝鮮国内でのことしか書かれていないので、文献によっては「一方的な領事裁判権」と書いています。しかし、もしも日本国内における朝鮮側の規定がこのとき書かれたとすれば、日本と同様の領事裁判権が与えられたであろうと推測できます。 )
@朝鮮国は自主独立の国であり、日本と同等の権利を有す。従前の例を改め、双方とも安寧を永遠に期す。
:当サイト管理人は、「清国への服属を否定するものである」とする文献をよく目にしますが、そういう主旨ではないと思うようになりました。朝鮮は、清国への服属をやめるつもりはまったくなかったと思います。日本は、朝鮮を条約を結ぶことのできる独立国とみなしたということだと思います。自主独立の国でなければ植民地であって、条約を結ぶことができないでしょう。清に服属している朝鮮は植民地と見なすこともできるため、最初にこの一文を加えたものと思います。清国への服属が否定されたのは、1895年に締結された日清戦争の講和条約(下関条約)の時だと考えます。)
A日本は15か月後に使臣を京城に送り、交際の事務を商議することができる。朝鮮は何時にても使臣を東京に送り、交際の事務を商議することができる。
B公用文は、日本は日本文を用いるが今後10年間は漢訳文を添える。朝鮮は朝鮮文を用いる。
C釜山の草梁にある公使館(以前の倭館)は、旧例を改め今回の条約に基づいて貿易する。かつ朝鮮は釜山のほかに2港を開いて通商する。その場所においては、土地を借りて家を建てたり、家を借りることができる。
D新たに開港する2か所の地名を指定し、20か月以内に開港する。
:1877年に釜山、1879年に元山、1880年に仁川が開港した。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p106) )
E(嵐や難破の際の取り決め)
F朝鮮沿岸を測量することができる
G開港した3港に日本の管理官を置き、交渉が必要な場合は当地を所管する朝鮮の地方長官と打ち合わせる。
H各自が自由に貿易し、官吏はこれに関与しない。貿易の制限・禁止はしない。犯罪は取り締まる。
I居留地における裁判は、日本人は日本の法により、朝鮮人は朝鮮の法による。
:この条文が、いわゆる領事裁判権です。ある文献には「日本が一方的に領事裁判権をもつ」と記されています。
 素人が一見すると平等のように見えますね。日本の法と朝鮮の法は違うので、それぞれの法で対応しましょうと。日本は法体系の近代化にも努めていましたが、朝鮮はまだ従来からの法体系でした。なお、倭館のときにも、これと同様に行われていたそうです。
 18年後の1894年(明治27年)に、日本の東京に朝鮮公使館を設けていたが、罪を犯した日本滞在の朝鮮人が朝鮮公使館に逃げ込んだことがあるそうです。この時、朝鮮側は朝鮮政府が捜査できると思い込んでいたが、日朝修好条規には定めがないため結局日本側に引き渡されたという(出典:LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(6) 「どこがどう不平等なのか」の項)。
 また、1894年(明治27年)11月に、当時在朝鮮日本公使であった井上馨が、朝鮮政府に対して刑法・民法・商法の制定を勧めており、これがなければ治外法権を解消できない旨を忠告している。 )
J別に通商章程を定め、この条約の細則を補うため、6か月以内に京城または江華府において協議する。
K以上を遵守し、両国の和親を固くする。

・そこにおける居留地を設定する。
・日本から朝鮮への輸出品には関税をかけない。
:当初は日本も朝鮮も関税をかけないこととした。その理由はいまだ交易が盛んでないことと、役人による不正を懸念したためである。)
:『釜山開港後間もなく、朝鮮政府は無税の不利を是正しようとこころみたが、日本側は聞き入れず、やむなく朝鮮がとった姑息な手段のために紛争が起こった。これに対して日本政府は軍艦を派遣し、陸戦隊を上陸させて、朝鮮政府に抗議した。軍艦派遣はこのときだけではない。』(引用:角田房子著「閔妃暗殺」p106) )
・居留地内での日本貨幣の通用を認める。
:朝鮮の通貨は朝鮮国内でもほとんど流通しておらず、物々交換が一般的であった。)

 日朝修好条規調印から約半年後に、「修好条規附録」と「日本国人民貿易規」がまとめられた。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p105)

 
【朝鮮と欧米列強・清国との修好通商条約など】
 LINK :: Seoul Culture(ソウルの文化財) という韓国のサイトを発見しました。たぶんソウル市が運営するサイトだと思います。このサイトにある、朝鮮と欧米列強・清との通商条約についての日本語説明文を引用しました。日本ではあまり見られない内容もあり、興味深いです。ただし、一部誤字などがあるのと、大院君政権時代の強硬な攘夷については触れられていません。「外国が通商を求めたが失敗した」などというように書かれています。また、ときどき「清国の斡旋」という言葉が出てきます。「清が朝鮮を開国させたのでは?」との疑問も出てきますが、どの程度清国が係わっていたのか今後調べていきたいと思います。

・1882年5月22日、アメリカ。米朝修好通商条約の締結。
LINK 米朝修好通商条約 - Wikipedia から引用
『 この条約の後、朝鮮は清国の強引な干渉により欧州諸国と条約を結ぶこととなり、朝鮮が西欧諸国と締結した一連の不平等条約の先駆となった。ただ、この条約は、不平等条約ではあったものの、欧米諸国とアジア諸国間で締結された一連の条約と比べると、不平等性は比較的弱かった。
 この条約締結以降、朝鮮は第一条の「周旋条項」(「第三国が締約国の一方を抑圧的に扱う時、締約国の他方は、事態の通知をうけて、円満な解決のため周旋を行なう」という文言)に依拠して、日中露などの周辺国によって自国が脅かされる度に、アメリカに自国の独立維持のための援助を求めた。しかし、アメリカは、複雑な朝鮮問題への安易な介入を嫌ったこと、朝鮮の経済的価値も低く政治的介入には見合わないことなどの判断から、朝鮮からの援助要請を拒否し続け、1905年にはアメリカのフィリピン支配の継続と日本の韓国(大韓帝国、1897年に朝鮮国より国号を改めた)における宗主権の確立を日米間で相互に承認し合った桂・タフト協定を日本と交わし、同年11月に日韓間で調印された第二次日韓協約によって韓国の外交権が日本に移転するのをうけて、韓国と外交関係をもっていた国々が次々と駐韓公使館を撤収させる中、最初に撤収の意向を表明し、ここにこの条約を事実上破棄するにいたった。』 )
・1882年10月、清国。清国朝鮮商民水陸貿易章程。(出典:呉善花著「韓国併合への道」p67)
 LINK 日清戦争 - Wikipedia の「朝鮮の開国と壬午事変・甲申政変」の項

・1883年11月26日、イギリス。
LINK :: Seoul Culture(ソウルの文化財)朝英通商條約 この韓国のサイトから引用
『 朝英通商條約(Treaty of friendship and Commerce Between Great Britain and Corea)は高宗(コジョン)20年(1883) 11月26朝・日とイギリスの間に締結された条約を翌年の1884年2月8日にパークス(Harry S. Parkes)と金炳始(キム・ビョンシ)が批准を取り交わしたもので、英文筆写本になっている。
 イギリスはプロビデンス号(The Providence)が正祖(チョンジョ) 21年(1797)に原山近海を航海したことを皮切りに朝鮮に近付いたが、純祖(スンジョ)32年(1832)にはロード・アムホスト号(The Lord Amherst)が忠清道で通商を要求し失敗、駐日イギリス公使パークス(Harry S. Parkes)の通商修交要求もやはり失敗した。本格的な通商条約が打診されたのは、朝米通商条約が妥結された直後の1882年5月17日で、イギリスは、ウィルス提督(Admiral Willes)を朝鮮に派遣し仁川で朝英会談を行わせ、1882年6月6日付けで朝英修好通商条約に調印した。しかし、英政府は批准を留保し1883年10月に駐清イギリス公使であったパークス(Harry S. Parkes)を派遣して内容を修正した後、1883年11月26日調印し、翌年2月8日に批准が交わされた。条約の内容はすべてイギリス側だけに有利な不平等条約であった。』 )
・1884?年11月18日?(1883?年11月26日?)、ドイツ。
LINK :: Seoul Culture(ソウルの文化財)大朝鮮国大徳国通商條約 この韓国のサイトから引用
『 大朝鮮国大徳国通商條約は、高宗(コジョン)21年(1884)11月18日、朝鮮とドイツの間に修交された全文13条の通商条約文である。朝鮮とドイツ両国の接触は、高宗3年(1866)2月にドイツ商人オッペルト(Ernst-Jacob Oppert)がロナ(The Rona)号に乗って忠清道(チュンチョンド)に来、入国を交渉して断られたのが最初である。両国間の正式交渉が始まったのは高宗7年(1870)5月で、東京駐在ドイツ代理公使フォン・ブラント(Von Brandt)が軍艦ヘルタ号に乗って釜山(プサン)へ来て修好通常の交渉をしたが失敗した。
 1882年、朝鮮・アメリカ間の修交が成立し、引き続き朝鮮・イギリス間の修交が進むと、駐清ドイツ公使であったフォン・ブラントが清国の斡旋で1882年6月30日に仁川へ来て、14ヶ条に渡る朝・独修好通商条約を調印した。しかし、この条約は批准を得ることができず、1883年11月26日ドイツ全権大臣エドワード・ザッペ(Edward Zappe)と朝鮮全権大臣 閔泳穆(ミン・ヨンモク)の間で全文13条の調印を完了した。この条約は、11月8日にソウルで批准が交され、11月28日にゼムブッシュ(Zembsch)が初代在韓ドイツ総領事に任命され、ソウルにドイツ総領事館が開設された。
 この条約は、朝・米通商條約に比べて有利な点はあったが、やはり朝・英条約と同じく朝鮮に不利な点が多い不平等条約であった。』 )
・1884年6月25日、ロシア。
LINK :: Seoul Culture(ソウルの文化財)朝俄通商條約 この韓国のサイトから引用
『 朝俄通商條約(Treaty of Friendship and Commerce between Russia and Korea)は高宗(コジョン)21年(1884) 6月25日朝鮮とロシアの間に締結された条約で、ロシア文と漢文からなる筆写本である。
 ロシアは1870年代までは欧米諸国とは違い朝鮮に不平等条約を要求しなかった。しかし、1880年2月に朝鮮に修好通商を要求し失敗すると、清国イ・ホングジャグの推薦を受け朝鮮に派遣されていたミェレンドルフ(Mollendorf)を買収してイ・ホンザングを説得しせた。そして、イ・ホンザンの斡旋でウェベル(Carl Waeber)を送り、その年7月7日に13条からなる朝・俄通商条約の調印を完了した。こうして正式に国交が樹立されると、1885年10月6日にウェベルは露西亜国代理公使兼総領事の資格で漢城に来、10月14日に批准を取り交わした。
 この条約の内容は基本的に両国間の平和な往来と通商のためのものだったが、朝鮮に不利な不平等条約であったし、朝鮮が先立ってアメリカやイギリスと結んだ条約の内容とそっくりでる。』 )
・1886年6月4日、フランス。
LINK :: Seoul Culture(ソウルの文化財)大朝鮮国大法民主国通商條約 この韓国のサイトから引用
『 大朝鮮国大法民主国通商條約は、高宗(コジョン)23 年(1886)6月4日朝鮮とフランスの間に締結された条約である。朝鮮・フランス間の接触は他の国家と違い宣教事業を通じて行われた。宣教師たちは哲宗(チョルジョン)12年(1861)に入国して宣教活動を行い、高宗12年(1875)頃にはブラン(Blanc)の外、2人の神父が入国した。
 高宗19年(1882)朝・米修好通商条約が締結、続いて朝・英、朝・独修好条約が締結されて、フランスも修交を要請した。しかし単純な通商条約のレベルではなく、宣教の自由を基本にしており正式交渉は進展しなかった。そして、高宗21年(1884)甲申の変をきっかけとして、フランスは高宗23年(1886)4月にコゴルダン(F. G. Cogordan)を全権委員として派遣した。これに朝鮮は金晩植(キム・マンシク)を全権大臣として6月4日に通商條約に調印し、その翌年1887年4月に条約批准の交換が成立し両国間の正式修交が樹立された。
 この条約は、朝・英修好通商条約を模倣したが、得記すべきは朝鮮政府から布教圏が認められたという点である。この条項は結局最恵国条約に基づき、アメリカなど他の列強たちにもフランスと同じく布教はもちろん宣教事業のための教育機関を運営することができるようにし、宣教事業を通じた教育文化に新局面を迎えることとなった。』 )
・1888年8月20日、ロシア。露朝陸路通商条約(朝露陸路通商章程ともいう。)の締結。
LINK 露朝陸路通商条約 - Wikipedia
・1899年9月11日、清国。
LINK :: Seoul Culture(ソウルの文化財)大韓国大清国通商條約 この韓国のサイトから引用
『 大韓国大清国通商條約は、光武(クヮンム)3年(1899)9月11日に朝鮮と清国の間に調印された全文15条の通商協定である。
 朝鮮と清国は、1894年まで伝統的な事大朝貢関係が続いていた。1860年代以後、清国はロシアと日本の朝鮮侵略を牽制するために西洋帝国と条約締結を勧める政策を取った。そして、1882年に壬午軍乱が起きると清国は朝鮮に軍事介入をし、興宣大院君(フンソンデウォングン)を清国に拘置して朝鮮に顧問官と軍事教官を派遣するなどの干渉政策を行った。また、1885〜1894年の間にはウィアンスカイを派遣し、朝鮮の内外政治に露骨に干渉することにより宗主権の強化をはかった。
 しかし、清は1894年日清戦争に敗れ、朝鮮に対する外交的優越圏をすべて喪失した。その後、清は朝鮮に対して通商的な外交貿易関係を維持し、1899年9月11日、朝鮮の全権大臣 朴済純(パク・ジェスン)と清の欽差大臣 徐寿朋(ソ・スブン)が会同し、全文15条からなる通商条約に調印し、同年10月6日に漢城で批准が交わされた。』 )





【江華島事件や日朝修好条規に関する不自然な主張】
 江華島事件や日朝修好条規について勉強していくと、「一般に言われている主張にはどうもおかしなものがある」と感じるようになりました。主なものは下の4点です。当サイト管理人なりの考えをまとめておきたいと思います。
@雲揚の給水目的というのは口実にすぎないとする主張。
A日本側が策略として朝鮮側の攻撃を挑発したとする主張。
B武力で条約の締結を迫ったとする主張。
C日朝修好条規をもって朝鮮の開国とみなす主張。

@について。
 一部に、雲揚の給水が目的であったというのは口実にすぎないとする主張があり、なかには給水自体を行っていないとみるものまである。
 山辺健太郎著「日韓併合小史」1966年(岩波新書)の25〜26ページ。
「(前略)また飲料水不足というのも少々あやしい。雲揚艦は9月20日江華島沖をはなれて、同月28日には長崎まで途中飲料水を補給せず帰っているからである。」
 角田房子著「閔妃暗殺」1988年の100ページ。
「日本の多くの資料が「飲料水を求めるため」と書いているが、その後の雲揚号は水の補給を受けることなく長崎に帰港している。」
 しかし、井上艦長の報告書に、江華島事件のあと木の茂る小島を見つけて給水したことがはっきり記載されている。まず、公式の報告書とされている10月8日付の報告書に次の記録がある。
「ここに到って飲料水は益々欠乏し、諸所を捜索したところ、やや樹木が繁茂した一孤島を発見した。[他は樹木がない。]必ず渓谷の水があると見て上陸して捜し求める。果して清水を得て初めて積水の便宜を求めることが出来た。」(出典:<LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(3) の「砲撃事件報告及び談話集」の項。)
 さらに、10月8日付けの公式報告書よりも前の9月29日付の取り敢えずのものとみられる報告書にも次の記述がある。
「 同月廿四日、曇、午前呑水を積み、第十時三十分、同所抜錨。天気見定めの為、午後五時七分「ショーラム」湾へ投錨す。」(出典:<LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(3) の「砲撃事件報告及び談話集」の項。)
 結論として、戦闘があった明治8年9月20日〜22日の後に、勿淄島とみられる小島で飲料用の清水を手に入れているとして、間違いないと考えます。(出典:LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(7)の【江華島事件経緯の要点】の項)
 また、当時は艦船まで水を運ぶのに端艇(ボート)を使っていたようなので、端艇(ボート)を降ろして水を求めに行ったと考えて不自然はない。更に、この端艇(ボート)に艦長自ら乗っている。朝鮮側に攻撃させるつもりであったなら、的となる端艇(ボート)に艦長自ら乗っていることに違和感を感じる。上陸して朝鮮側と交渉するつもりだったとみる方が自然だと思う。

Aについて。
 日本側が策略として朝鮮側の攻撃を挑発したとする主張があります。
 山辺健太郎著「日韓併合小史」1966年(岩波新書)の■ページ。


 角田房子著「閔妃暗殺」1988年の101ページ。
「雲揚号事件は、1931年(昭和6年)の満州事変の発端となった柳条湖事件を連想させる。両事件とも、戦闘のきっかけを作ったのは日本であった。柳条湖事件は関東軍参謀の石原完爾中佐(当時)らの謀略で、初めは軍中央も政府も不拡大方針であったが、事件の推移が日本に有利と見て、追認する結果となった。だが雲揚号事件は初めから政府が関与し、事件の報告を受けるや、これを利用して対朝鮮政策を推進しようと積極的に対策を講じた点に、違いがある。」
 しかし、@でも述べたように、朝鮮側の攻撃を挑発するつもりであったなら、的となる端艇(ボート)に艦長自ら乗っていくのはおかしい。攻撃によって艦長が死亡したら、後の作戦はどうするのか。なかには西郷隆盛の征韓論を持ち出して、自分が死んだらそれを理由に戦闘を行う計画だったと言い返されそうだが、そちらの方が不自然だしそれを示す証拠もない。井上良馨は薩摩出身で征韓論者であったが、■
 また、挑発するつもりであったら、小型の砲艦「雲揚」1隻で来るのも不自然だと思う。1866年のフランスは7隻、1871年のアメリカは5隻の艦隊で来て激戦の末退いているのである。もし、武力で開国を迫るつもりなら大型戦艦数隻の艦隊で乗り込むのではないかと思う。「雲揚」はそれまでもいろいろな場所で測量活動をしているので、測量しながら航行していたと考えておかしくない。江華島付近は確かに軍事的に敏感な場所であったと思うが、西洋の艦船と日本の艦船が同じように扱われるとは考えない理由もある。江戸幕府は朝鮮と国交があったし、明治政府は1868年から7年間も国交交渉を続けている。さらに、「雲揚」が先に朝鮮半島東海岸を測量した時には攻撃を受けていない。民家の火災を見つけて上陸して消火している。慶尚道迎日湾では、朝鮮の慶州県令と交渉もしている。
LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(2) の「朝鮮側の日本軍艦への認識とは」の項
LINK 雲揚 (砲艦) - Wikipedia
LINK 井上良馨 - Wikipedia
LINK 川村純義 - Wikipedia




:山辺健太郎著「日韓併合小史」1966年(岩波新書)の25〜26ページに、次のような記述がある。
『 井上艦長からの報告をうけた日本の政府はただちに陸海軍首脳とも協議して出兵の用意をととのえ、翌1876年1月艦隊を朝鮮に派遣し、賠償と修好条約締結をもとめることにした。しかし、この賠償要求はちょっとおかしい。というのは、雲揚艦と江華砲台の交戦では、江華砲台の射程がみじかく、その砲弾は雲揚までとどかず、やられたのは江華島と永宗島であって、日本側はほとんど損害はうけていない。それに江華島のような、首都ソウルの前面にある重要な要塞地域に、国交のない国の船が予告なしにはいったのでは、はいった方が悪い。また飲料水不足というのも少々あやしい。雲揚艦は9月20日江華島沖をはなれて、同月28日には長崎まで途中飲料水を補給せず帰っているからである。 』
 当サイト管理人は、上の一文にはいくつかの不適切な部分があると思います。
@事件のあと給水していないとみているのは誤りである。井上艦長の報告書に、事件のあと木の茂る小島を見つけ上陸して清水を得たと記載されている。10月8日付の正式な報告書にも、後に発見された9月29日付のより詳細な報告書にも記載がある。
A日本側はほとんど損害はうけていないというのは同意できない。江華島の草芝鎮(井上艦長の報告書でいう第三砲台)との砲撃では損害はうけていないが、日本の報復攻撃では上陸して戦っており、日本側は負傷2名(うち1名はその後死亡)、朝鮮側は死者35名・捕虜16名を数えている。なお、第三砲台との砲撃でも、一発だけ艦を越えて落ちたと井上艦長の報告書に記載がある。
B「国交のない国の船が予告なしにはいったのでは、はいった方が悪い」という表現もおかしい。日本の船と欧米の船を同じに考えるのは間違っている。朝鮮と江戸幕府の間には国交があったし、明治政府も国交交渉を行っていた。合意できていないが、交渉を始めてからすでに7年目である。また、この交渉のなかで日本側から国旗(日章旗)と軍艦の模型を朝鮮側に渡しているが、朝鮮側は後の交渉で「国交交渉が妥結していないので朝鮮国内には通知していなかった」と弁明している。さらに、釈明のために、「日本の船だとわかっていたら攻撃するはずがない」とまで言っている。
C事件のあと日本政府がただちに出兵の用意を調えたというのもおかしい。派遣したのは交渉のための使節団である。日本政府の方針が武力行使よりも平和的な交渉を優先したことは、日本政府から朝鮮へ派遣する黒田・井上両全権への訓示内容からも明らかだ。使節が釜山に着いたのちに、黒田全権が二個大隊を送ってほしと政府に求めたが、日本政府は拒んでいる。■   )




 徳富蘇峰編著「公爵山縣有朋傳 中巻」明治百年史叢書 第89巻(原書房)、1969年(昭和44年)。412〜420ページ。(注:この本の原本は1933年(昭和8年)に出版されており、これはその復刻版です。)
(注:旧漢字を新漢字に改めるなど若干の補正を行いました。)

『(第一編 陸軍建設時代・第十一章 公と江華湾事変)
  一 雲揚艦砲撃問題
 政府が内閣分離問題に関し、紛々として是非を争いつつあった時に当たり、恰かも江華湾頭に於ける、雲揚艦砲撃の警報に接した。此の警報は、薩派を中心としていた、海軍当局者に取りては、予定計画の実現されたるものであって、怪むに足らぬのであったが、陸軍の当局者たる公等の間には、何等の交渉が無かったようである。
 朝鮮問題の解決は、明治六年朝鮮遣使論の破裂、西郷等の辞職に由りて、中止さるるに至ったが、海軍省内に於ける、西郷派に属する薩派軍人には、之に慊らず、征韓論を主張し、時機を待て、朝鮮問題を解決せんことを計画するものがあった。海軍大輔川村純義の如きは、其の一人にして、明治八年朝鮮近海に於ける雲揚艦長井上海軍少佐(後の元帥海軍大将子爵井上良馨)の海軍演習は、川村と黙契の下に計画された示威運動であった。
 是より先に、八年九月、雲揚艦長井上少佐は、韓国西海岸より、清国牛荘に至るまでの海路を研究する名義の下に、暗に韓国に対する示威運動に従うべき旨、海軍省よりの内訓に接した。是に於て井上は、韓国の西海岸航行中、飲料水欠乏を告げたので、江華湾付近に於て、淡水を求むるの目的を以て、漢江の下流を遡り、航路を測量し、九月二十日江華湾の南東端なる、草芝砲台を通過せんとしたが、忽ち其の砲台より我が端艇を砲撃した。井上艦長は、翌日直ちにその戦闘準備を整え、進んで草芝砲台を砲撃し、二十二日、永宗城に向て砲火を開始し、陸戦隊を率いて、韓兵を攻撃し、敵を斃すこと三十五名捕虜若干、戦利品若干を獲て帰艦し、尋で長崎に至り、事情を具して、之を海軍大輔川村純義に報告した。是れが該事変の梗概である。
 当時、北京滞在中であった、日本公使館付武官陸軍大佐福原和勝は、外務省の電報に由りて、雲揚艦砲撃の警報に接し、十月十三日、書を公に寄せて、今日の機会に乗じ、朝鮮問題を解決せざる可からざることを論じ併せて日韓清の関係事情を報告して来た。其書は左の如しだ。
(中略(報告書の内容))
  二 朝鮮問題に対する閣議の決定
 江華湾事変の警報、政府に達するや、十月二十七日、閣議は三条首相邸に開始された。公は木戸、大久保、伊藤等と共に之に臨んだが、一同朝鮮の行動に対しては、断じて之を不問に付すべからざるを論じ、議は之に一決した。併し、政府の方針は、直ちに兵を率いて、之が罪を問わんとするにあらず、先づ全権を朝鮮に派遣して、平和的交渉を開始せしめんとするにあった。
(中略(閣議・朝議の開催状況))
当時公の朝鮮問題に対する具体的意見は、公表されていないが、大久保と意見交換の結果、和戦両様の準備に着手されていたことは、其後、兵を率いて馬関に出張し、朝鮮よりの警報を待ていたことに由りて明白である。
  三 朝鮮問題と政府の平和的方針
 政府は黒田、井上両全権の朝鮮派遣と同時に、全権公使森有礼(北京駐剳)をして、朝鮮問題に対する清国政府の意志を質ささしめ、専ら平和的解決の目的を貫徹せんことを期した。
 政府の方針が、一意平和的解決にあったことは、当時政府より黒田、井上両全権に与えた訓令、及び内諭に由りて、其の消息如何を知ることが出来る。訓令の要旨は左の如しだ。

    訓  令
一 我政府は、專ら朝鮮国と旧交を続け、和親を敦ふせんことを望むを以て、主旨とせるが為に、朝鮮の我書を斥け、我理事官を接せざるに関らず、仍、平和を以て良好なる結果を得んことを期したるに何ぞ料らん、俄に雲揚艦砲撃の事あるに逢へり。右の暴害は、当時相防戦を為したりと云へども、我国旗の受けたる汚辱は応に相当なる賠償を求むべし。
一 然れども、朝鮮政府は、未だ顕はに相絶つの言を吐かず。而して人民の釜山に在るものを待遇すること、旧時に異なることなし。又其砲撃は、果して彼の政府の命、若くは意に出でたる歟、或は地方官弁の専断に出でたる歟も、未だ知るべからざるを以て、我政府、敢て親交全く絶たりと見做さず。
一 故に、我主意の注ぐ所は、交を続くに在るを以て、今全権使節たるものは、和約を結ぶことを主とし、彼能く我和交を修め、貿を広むるの求に順ふときは、即ち此を以て雲揚艦の賠償と看做し、承諾すること、使臣の委任に在り。

 尋で一月十五日、黒田全権一行の釜山に著し、韓国の形勢を察し、二個大隊を派遣されんことを乞ふや、政府は之を峻拒した。当時三条より黒田に送りたる書中に、『我専ら平和を主とするの趣意は、已に支那及び各国公使へ公然通知の上に候間、縦令儀仗兵と雖も、今に至て、俄に多数の兵員を出発せば、一応接せずして、已に初議を変ずるの形を著し、内外に対して不可なり。因て彼国の事情に拘らず、専ら初議を貫徹するに従事すべし』と云っているに拠るも、平和的解決を希望するの意思が明瞭だ。随って政府の方針如何は之に由りて其の一端を知ることが出来る。
 更に大久保の日記を読めば、政府が韓国問題に対して、平和的解決を希望するの意思が、一層明瞭である。大久保の日記中、即ち明治九年一月十五日の条下に、左の如く云っている。
一月十八日。 今朝条公へ参上。黒田弁理大臣より電報有之於釜山浦著にて、実地の模様平穏之見留無之。仍而二大隊の兵を差送呉れ度との事申参るに付、伊藤、山縣示談。断然前意を貫き候方可然故、先づ兵隊差出候儀は見合、旨趣齟齬不致為め一人差立候方可然一決す。十一時参朝。一時参省。三字退出。北代子、松平子入来五時より伊藤子、山縣子、鳥尾子、大山子入来。山縣子へ離杯。
 黒田、井上両全権が、専ら政府の平和主義を体して、朝鮮政府との交渉折衝に当ったことは、論を待たぬ。 』






【LINK】
LINK 早稲田大学リポジトリ「明治初期日朝交渉における書契の問題」石田徹著
LINK 大阪大学リポジトリ「維新期の書契問題と朝鮮の対応」牧野雅司著



【参考ページ】
1864年 朝鮮で大院君が政権を掌握
1873年 朝鮮で閔氏が政権を掌握
1876年 日朝修好条規の締結 〜このページ
1882年 朝鮮で壬午軍乱
1884年 朝鮮で甲申政変
1894年 朝鮮で甲午農民戦争(東学党の乱)
1894年 日清戦争(〜1895)
1895年 三国干渉
1895年 朝鮮で閔妃殺害事件(乙未事変)
1904年 日露戦争(〜1905)
1905年 ポーツマス条約(日露講和)
1909年 伊藤博文がハルビンで暗殺される
1910年 日本が韓国を併合
1919年 朝鮮で三・一運動

「李氏朝鮮末期の社会」に関する資料集
「日朝修好条規の締結」に関する資料集





参考文献
LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(1) 同(2) 同(3) 同(4) 同(5) 同(6) 同(7)
LINK きままに歴史明治開化期の日本と朝鮮(2)軍艦派遣献議に関する一連の経緯
「韓国併合への道」呉善花著、文春新書、2000年 (注:2012年に、「韓国併合への道 完全版」が出ています。)
「閔妃暗殺」角田房子著、新潮社、1988年
「大東亜戦争への道」中村粲(あきら)著、展転社、1990年
LINK 日朝修好条規 - Wikipedia
LINK 江華島事件 - Wikipedia
LINK 倭館 - Wikipedia
LINK 征韓論 - Wikipedia
LINK 佐田白茅 - Wikipedia
LINK 閔妃 - Wikipedia
LINK 閔升鎬 - Wikipedia
LINK 大河の釣り人閔升鎬 〜個人のサイト
LINK 朴珪寿 - Wikipedia
「世界の歴史教科書シリーズ1 新版 韓国の歴史 第二版 国定韓国高等学校歴史教科書」大槻健・君島和彦・申奎燮 訳、明石書店、2003年(韓国の第6次教育課程による教科書「国史」(1996年?)の日本語訳)(注:日本語訳の初版は2000年で、第二版では誤訳の訂正が行われている。)
LINK 米朝修好通商条約 - Wikipedia
LINK :: Seoul Culture(ソウルの文化財)朝英通商條約
LINK :: Seoul Culture(ソウルの文化財)大朝鮮国大徳国通商條約
LINK :: Seoul Culture(ソウルの文化財)朝俄通商條約
LINK :: Seoul Culture(ソウルの文化財)大朝鮮国大法民主国通商條約
LINK :: Seoul Culture(ソウルの文化財)大韓国大清国通商條約
LINK 露朝陸路通商条約 - Wikipedia
LINK Category:李氏朝鮮の条約 - Wikipedia
LINK Category:Treaties of the Joseon Dynasty - Wikipedia 〜英語のWikipediaで「カテゴリ:朝鮮の条約」
LINK Category:Treaties of the Qing Dynasty - Wikipedia 〜英語のWikipediaで「カテゴリ:清朝の条約」
「朝鮮史 新書東洋史10」梶村秀樹著、講談社現代新書、1977年
「日本の歴史20 明治維新」井上清著、中公文庫、1974年
「教養人の日本史(4) 江戸末期から明治時代まで」池田敬正、佐々木隆爾著、社会思想社 教養文庫、1967年
「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年
「クロニック世界全史」講談社、1994年
「朝鮮の攘夷と開化」姜在彦著、平凡社選書51、1977年
「海外の新聞にみる日韓併合」杵淵信雄著、彩流社、1995年
「日韓併合小史」山辺健太郎著、岩波新書、1966年


更新 2015/5/11

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